「ライン出し……」
ラケットのネックを左手で弄りつつ思案している望を倉石は呼び寄せる。
ネットを挟んでしゃがみ込み、ここのところめっきり開く機会が減っていたノートを見せた。
「今までお前に教えていたそれぞれのパターンも、そのベースにあるのは『ライン出し』の概念だ。即ち──」
前後のショットの『ディスタンス』を可能な限り拡げる。
それは距離的にも、時間的な意味でも──と倉石は語った。
「例えば荒垣戦で使おうとしたパターンC。ミドルやや前の張り合いから大きくクリアー……前へのフェイントを入れてからバックステップを踏むのは、あくまでもオプションに過ぎない。本質は『前への意識』の後に長いショットを打つ、という点だ」
つまり、『勝てない強打』に固執した結果喰らったカウンターのスマッシュに倉石は怒ったのではなく、そのパターンの本質を理解しないままに長いショットを続けたことが原因だったと、望は悟る。
それならそれで、試合後のレビューで教えてくれれば、とも思うが、その当時の二人ではどうしても感情的になっただろうから、ある意味、『すべてが終わった』今で良かったのかもしれない。
「だが言ったように『パターンC』はそもそも、悪いシチュエーションからの立て直しに使うものだ。荒垣に限らず、益子や久御山、津幡のような上背のある選手と戦うときには、どうしても『制空権』は奪われる……」
その上で、それでも相手を前後に動かす、望が描いているバドミントンのスタイルに拘るとするならば、通せる『高さ』は限られてしまう。
「わかるか?」
チンプンカンプンといった表情を浮かべている望に、倉石は苦笑しながらとりあえずプレイをしてみようと促した。
「まあ、まずは指示通りにやってみろ。何か気付いたら自分で考えて打て」
「はい」
それから、望は立ち上がり、倉石の球出しを待つ。
「──コートミドルから最初はバック奥に出すから、好きなところに強く返せ。ただし、『次』の球よりも甘くだ。それだけは忘れるな」
「はいっ」
倉石の合図に合わせて望はスプリットステップを踏み、呼応して打ち上げられたシャトルを追って走り出す。
(一本目は──)
ホームポジションに移動した倉石を流し見て、望は思案した。
練習の意図からすれば、倉石が取れないコースに打ってしまっては意味がないだろう。
もちろん、既に壮年の域に差し掛かっている彼に本気で立ち向かえば、若い望なら十分『勝ち』は期待できるのだが、今日のテーマはそれではないし、公式戦の場で倉石と戦うことなど、今後有り得ないのだから。
落下点に到達した望は、倉石の立つ側とは反対方向へ、僅かに飛び上がってスマッシュドライブを放つ。
日々、逗子総合の部員たちに精力的に指導を送る倉石は、現役時代からやや体重こそ増えたものの、動きは機敏だ。
男女の違いもあるが、それが志波姫や益子だったとしてもまだまだ、高校生程度に後れを取ることはない。
やや甘めのコースに威力をセーブして打ち込んだとはいえ、望のスマッシュドライブも難なく受けて、彼は逆サイドに深いロブをコントロールして教え子を走らせる。
ロングサービスラインを跨いでシャトルを追いながら、望は慣性を殺さず、斜めに飛び上がった。
「──ふッ!」
短く息を吐いて丹田に力を込め、精一杯腕を振る。
格好としては、憧れた『ジャンピングスマッシュ』だが、鉛直に飛べなければ、望の身長では『角度』は出せない。
オープンストレートに弾き返したスマッシュはコースこそ厳しいが、球足の長くなったシャトルに対して、倉石は腕を伸ばしてラケットに引っ掛けるように受け、望の対角のネット前にポトリと落とした。
なまじ打球が速かったばっかりに体制の立て直しは間に合わず、望は絶妙にコントロールされたそのクロスネットを見送るしかない。
「……」
「──結局こういうことだ。もちろん女子で俺ぐらいのウイングスパンがあって、テクニックも兼ね備えているのはコニーや益子ぐらいのもんだろうが、それでなくてもスピードが速い奴はたくさんいる……」
そう言って、倉石はまた同じコースに球出しをした。
一手目の望の返球は、先ほどと変わらない。
受けて返す倉石も同様。
(……これだと同じか。じゃあクロス──)
望は腕を後ろに置いたまま体軸を回転させ、さっきよりもなお角度のつかないクロスへのスマッシュを選んだ。
どちらかと言えばドライブと呼ぶ方がふさわしいような、水平に近い軌道を描いて飛んでいく。
(む──)
それはおそらく、彼女の持つ『シャトルの伸び』を活かして倉石のスイングを詰まらせる意図があったのだろうが、随分長い事望を見ている倉石は、難なくスイートスポットで捉えて打ち返した。
もう一度、とたしなめるように同じコースへのロブ。
だが、今度はきちんと『上』に踏み切れる。
望は意を決して飛び上がり、シャトルを叩き落すように打ち付けた。
一瞬彼女が期待した通り、コートに跳ね転がったシャトル。
だが、『これは違う』とすぐに気づく。
同時に倉石は、そのシャトルを拾い上げて望に言った。
「今は俺があえて同じリターンを打ったから、しっかりと飛ぶ時間的な余裕があった──」
まるで、バレーボールのジャンプサーブのような格好で。
「そう、ですね……」
「確かに今のスマッシュは決まるだろうが、それではダメなんだ。試合ではそう簡単に体勢は作れない。逆を言えば、その体勢が作れたなら打ってもいい。もしくは──勝負の『アヤ』が出る瞬間を狙うとかな」
『上』から叩かれることはない、と志波姫を見くびった羽咲のロブが甘かったせいで、彼女は鋭いジャンピングスマッシュを喰らってしまう。
そこには羽咲の油断もあったのだろうが、その時志波姫が叩き伏せたシャトルはスピードこそあれ、明らかに深さが足りなかった。
もっと早くにその油断を出させていればあるいは、志波姫はジャンピングスマッシュと、そのフェイクであるドロップを駆使して羽咲を抑え込むことが出来たかもしれないが、そのロブを打たせたのは、他でもない羽咲自身の、自分優位に立っているという、焦りを含んだ油断があった。
勝負のアヤというのは得てしてそういうものだ、と倉石は乱れた羽を揃えながら語る。
「つまりその……アヤになるような場面でしか、私はスマッシュが打てないってことですか?」
「荒垣ほどには、通用しない。……が、逆を言えば、お前が強打を打った時、それが相手に何かしらの影響を与えるようなシーンを作ればいい。わかるか?」
「う~ん……」
有り体に言えば、意外性だ。
本質的な挽回の手立てにはならない。
「俺は今まで、お前に色んなラリーパターンを教えて来た。だがどれも、相手がそれを上回ってきた場合の対処は考慮していない」
荒垣との試合でも、彼女が強打で押し込む戦術に転換してからは、左右に振るという倉石の指示した戦術は遂行できなくなった。
望自身がおぼろげに考えていた『自分の形』、すなわち変化球を多用して前後に振っていく戦い方では、多少食い下がることも出来たし、むしろその事実こそが倉石の指導者としての変貌のきっかけでもあったのだが。
誤解しないでくれよ、と倉石は前置きして言った。
「──俺の戦術では、もうお前を勝たせることは出来ない」
「……」
それはあくまでも今以上に、と言う意味で、これから『上』で戦っていくにあたっての話だ。
望も理解はしている。
「だからこれからは、お前が『自分のバドミントン』で勝っていくようにするんだ。そのために今、これを教えている」
倉石は望を促し、練習を再開した。
変わらない調子で上げられるシャトルに対して、望はいくつかのパターンを想定しながら返球するが、どれも今一つ、倉石の表情は芳しくない。
結果としてポイントになっているショットもあるにはあったが、試合で同じように通用するかと言えば、そんなことはないというのは、望が一番理解している。
汗の絡んだ髪が、毛先を丸めていった頃に、二人はすっかり夕闇が訪れていることに気付く。
「……まぁ、今日はこの辺にしておこう」
籠一杯のシャトルを、三度ほど空にしただろうか。
望も少しばかり腕にだるさを感じていたところで、集中力を保つのにも苦労していたから、ちょうどよかった。
頭を下げ、苦笑いを浮かべながら彼女は倉石と共に、散らばったシャトルを集める。
「監督は、こういうこと練習したんですか? 現役時代」
「いや……俺は別に、『使える強打』を打てる身長があるからな」
胸を張るがどこか申し訳なさそうな彼に笑みを返して、望はネットを外し、畳み始めた。
反対側でロープを解き、倉石はポールを引き抜いて倉庫に片づけていく。
散らばった羽のかけらをモップで掃き集める望の足音が、体育館に響いている。
流石に一年生の頃のように、上手くいかないからと言って泣き出すようなことはないだろうと安心して、倉石はモップを片付けて部室に戻る望の背中を見送りつつ、二階の体育教官室に上がる。
階段を上がって再び姿を現した彼に、シャワーを浴びてきますと彼女は告げるが、倉石はその後──つまり、今までずっとやっていたような練習終わりの反省会はひとまず無しにして、家に帰るように言った。
「現況をまず理解するんだ。ゆっくり頭と体を休めてから、もう一度考えればいい」
「はぁ……」
それから数日経ったある日、いつものように後輩の練習相手をしている望の打球を見て、倉石はふと気づく。
試合形式で彼女が対戦している一年生は、その世代の中では一番手ぐらいに有望だったはずだが、やけにミスショットが多い。
(芯を外している……?)
よくよく見ていると、その一年生はどうもタイミングを計り切れず、打球が詰まっているようだ。
自然にシャトルの伸びはなく、望は自分の位置を前掛かりに保ったまま後輩を押し込んでいく。
やがて試合はあっという間に終わり、体育館の熱気もどこか涼しげに望はコートを後にした。
「──石澤、さっきやっていたのはなんだ?」
「え? ああ……」
気を抜いていたわけではないが、自分自身でも不甲斐ないスコアに倉石のカミナリが落ちるかと戦々恐々としていた一年生は、彼が自分の方ではなく引退した先輩に声を掛けたことに少しだけほっとした。
「ちょっと間を変えてみたんです──志波姫にやられた時のこと、思い出して」
「フムン……」
もちろん、志波姫がそのテクニックをいつから培っていたかはわからないが、少なくとも倉石は望にそのようなことを教えた覚えはなかったから、それはここ数日の間に望が思いついたのだろう。
実際のところ彼はそうした『小手先の技術』をあまり好まず、高校生年代にはまだ早いという認識でいたからだが、志波姫唯華ほど基礎技術がしっかりしているなら、そこまでのレベルに到達するのもおかしくはないと考えている。
「なるほど──今日残れるか?」
「はい、大丈夫です」
あくまでも倉石の『飯のタネ』は現役選手たちだ。
そこをおろそかにしてまで、引退した選手に付き合うほどこの男は無責任ではないと、望はよく理解している。
(ん……?)
アップゾーンでモニターを眺める久御山は、望のその動きに既視感を覚えた。
低く強いドライブに対して、勢いを殺すように面を早めに立てた後──。
アラセリス=バネガスのショットが完璧に望のボディに差し込まれていれば、彼女もそうやすやすとコントロールして返すことは出来なかっただろうが、望はわずかに軸をずらして飛び込んできたシャトルを見切り、望は傾けた体軸をほんの少し前に倒すとともに、手首を一瞬コックさせて加速度をラケットに与え、強く叩き返す。
一瞬のフェイントに、ポルトガルペアは予測していたロブに対しての初動を開始していた。
前衛のラウラ=バネガスがなんとかラケットをしゃくって引っ掛けるが、浮いたシャトルは荒垣の射程範囲に収まってしまう。
16-12。
「上手いな、あいつ。相手を先に動かした」
汗の引いた体を冷やさないようにと、久御山と揃いのジャージを羽織っている益子が呟いた。
「……ウチも宮崎でやられたわ、アレ」
「ほーん」
久御山はその時の感触を、身振り手振りで益子に話す。
お互いにラケットを振り切って長いシャトルで相手を走らせるラリーが少し長くなった、いわゆる『持ち持ち』の状況。
久御山はそういう時、相手のミスを待って打開を図るが、その時望が取った選択肢はより積極的なものだった。
自分から多少のリスクを冒して、同じように見えるスイングにどこか『モタり』『ハシり』を混ぜていく。
彼女よりも『速い』プレイヤーならそれほど影響はないが、基本的に久御山と望は同じようなバドミントンのリズムを持つから、一度同調してしまったラリーから抜け出すには、どうしてもそうしたリズムの変化を作らないといけなかった。
たとえば志波姫や益子のレベルになれば、そうした『テンポの変化』を自在に操る選手もいるのだろうが、久御山が現役の頃は、そうした相手と戦うことはなかったから、それに対する対策も考えていなかったし、練習もしていなかった。
ちょくちょく戦っていた津幡も、強さでは彼女たちに引けを取らないが、彼女のバドミントンの仕組みは二人よりもよほど単純だ。
フェイントで相手を乱したり、チェンジオブペースに長けているわけでもない。
それは久御山も同じだ。
「益子はああいうの、練習したんか?」
インターハイでの羽咲戦、益子は序盤は手を抜いていたものの、随所にそのセンスを光らせていた。
中盤に追い込まれた時も彼女は一気にギアを上げ、『本気』だと周囲に知らしめるように厳しいショットを連発して、一時は羽咲を逆転する。
「いや……私は別に──『そういうモン』だと思ってたから」
それは彼女の海外での経験や、上の世代の選手とやり合っていく中で自然に身に付いたものなのだろう。
性格もあるのかもしれない。
本当にそうかどうかは置いておいて、久御山は自分自身が益子ほど『ひん曲がって』はいないと思っているし、小さい頃の彼女は、相手に手心を加えることなどなく、近所の子供たちの大会でさえ、ありとあらゆる手立てを使って相手を圧倒してきた。
久御山が戦績を上げて来たのは、どちらかといえば遅い年代──中学生になったあたりからそこそこ身長も伸び始め、幼少期からバドミントンをずっと続けている子供が案外、周りに少なかったということもあった。
そのおかげで、あまり叩きたがらないビッグマウスに頼らないのであれば、『ライバル』と言えるプレイヤーもいない。
豊橋か、せいぜい津幡ぐらいだろう。
「──あぁ、一セットとったな。そろそろ行くわ」
「おう」
タオルとラケットを手に久御山はアップゾーンを出ていき、入れ替わりに旭が入ってくる。
羽咲は益子から遠く離れた場所に座り込み、黙々とストレッチをしていた。
「あんた久御山に迷惑かけてない?」
「子供か」
相変わらずの軽口を叩き合う二人にちらりと目線を向けつつ、羽咲はぐいと身体を寝かし込む。
荒垣にしろ、逗子総合の石澤にしろ、彼女からすれば何があろうと『勝ちは揺らがない』レベルの選手だったはずだ。
それでも、ハッと気づくと、ディスプレイをずっと見つめている自分がいる。
望の『二本目』に、倉石のステップが澱む。
顔をしかめながら返球するが、甘くなったそれを望は更に厳しく叩き返し、ラリーの天秤は一気に望有利に傾いた。
そんなプレイを何度も繰り返して、珍しく息が上がっていることに気付いた倉石は、一旦練習を中断した。
「……いいな、石澤」
「えっ?」
お前が見つけた迷路の出口は正解だ、と倉石は笑って頷く。
しかし彼にはまた、気がかりなこともあった。
「良く掴んだな、これを──だが、『志波姫のコピー』になってはいけない」
「はい……」
彼女が大学でも、あるいはどこかの社会人チームでもバドミントンを続けるのはほとんど確実だろうと倉石は思っているが、それでもその『完成度』が逆に彼女の将来性を損ねているのではないか、というのは亘監督とも共通する彼の指導者としての懸念だ。
望は、そこに自分を重ねようとしている。
ある程度のレベルまでは、それでいい。
そう簡単に追いつける存在でもない。
「お前と志波姫は違う。基礎技術の精度はまだまだだし、逆に志波姫にはないものをお前は持っている」
「……」
小さなコルクを切って放つカットスマッシュを、あえてリズムをずらせたスイングでどこまでシビアにコントロールできるのか。
またもっと本質的な部分で、自分から『崩した』リズムのショットでミスを犯したとき、そのミスを引きずらずに戦えるかどうか。
志波姫唯華の『強さ』の本質はその精神力によるものだ。
それは、益子泪にはないし、石澤望にも今はない。
「メンタルを強く持つには、とにかく練習を積むことだ。量だけではない、質も……これからお前に残された時間は少ないが、可能な限り教える……」
「──はいっ!」
第二セットが始まると、望が仕掛ける『タイミングをずらす』攻撃は、よりその振幅を増していく。
もともと彼女は、自分のペースで戦えている時は強いタイプだ。
それは長らく指導してきた倉石はすぐに理解したし、一戦交えた荒垣や志波姫も、ベンチに腰を下ろした久御山もなんとなく気付いている。
ところが、そうではなくなった時──すなわち、志波姫のように完全に一枚上手の選手にいいようにやられた時など、その失点を引きずってしまうことも多く、つまりはそれが『石澤望』の大きな弱点の一つだった。
(二年半教え込んで、プレイの上で目に見える欠点はほとんどなくなった。体力的な問題はやや残っているが、それは案外リカバリーは容易い……)
根本的には臆病な性格の望だが、『逗子総合のエース』という責任を背負った時、そうした性格は時に彼女の視野を狭め、本来丁寧に形を作っていくはずの、『自分のバドミントン』を、パワフルではあるものの、有り体に言えば雑にしてしまう。
もっとも、今日の相手は彼女を多少追い込みこそすれ、土台が揺らぐほどには慌てさせることはないようだ。
荒垣とダブルスの息を合わせつつ、ポルトガルペアの強打をいなして優位を手放さずに戦えている。
そして、久御山が予測したよりも早く、その試合の終末は訪れた。
20-10となってから、アラセリス=バネガスのロングサービスに機敏に反応した荒垣が、高く打ち返して時間を取る。
その間に望は素早くネット前に走り込み、彼女のリターンを受ける体勢を整えた。
アラセリスは張られた網を掻い潜るべくシャトルを打ち上げるが、今コート上にいる四人の力関係では、日本コートのすべては荒垣の支配圏に含まれている。
久御山が席を立つと同時に、シャトルはポルトガルペアの間に叩き付けられ、最後のポイントが日本ペアの手に収まった。
「──荒垣!」
握った左手を振りかぶり、開いて望は荒垣とハイタッチを交わす。
受けた荒垣も手を痛そうにしておどけて見せるが、歓喜もそこそこに二人は対戦相手のバネガス姉妹と握手を交わし、主審からスコアシートを受け取りサインする。
荒垣の方は『サイン』の練習もしていたようだが、望にはそうした経験はない。
英語の授業でノートをとる時のような、適当な筆記体でペンを滑らせながらも、しっかりと自分の名前を記す。
「うむ……よくやったぞ、二人とも」
できれば望の事をもっと褒めてやりたかったが、倉石はぐっとこらえて、努めて二人を平等に讃える。
ダブルスの速いテンポのラリーの中で、考える時間が少なかったことが逆に、彼女がつい最近覚えたテクニックに頼らせたのかもしれない。
合宿中に久御山と話をした時には、彼女も『その手』を喰らって負けてしまったということだが、今日望が試合で見せたそれは、その時よりもずっと洗練されていて、またリスクをいたずらに増やすことのないさり気なさで散りばめられていた。
自分の力を存分に発揮できたという昂ぶりからか、久御山に送る声援もどこか弾んでいて──望は充実感を纏わせながらクールダウンに向かう。
荒垣も、試合直後の表情からは膝の不安は感じられない。
「──さて、久御山」
「ほいほい?」
首を捻って骨を鳴らし、つま先をフロアに打ち付ける。
その仕草からはいつものように、気負いは感じられない。
「相手のイリス=フォンセカはポルトガルのエースだそうだが──やる気は出たか?」
「……心配いらんで。ちゃんとやる」
益子のように分かりやすく斜に構えているわけではないが、久御山も相当曲者だ、と倉石は苦笑いを心の中に隠す。
もちろん性格が悪いわけではない──これは益子もそうだが──が、いまひとつ『モチベーションの出どころ』がわかりにくいのは、短い期間しか彼女を近くで見ていないからだけではないだろう。
ステレオタイプに人を当てはめるのは自分の悪い癖だと倉石も自覚しているが、京都の人間と言うのはそういうものなのかもしれない。
成田に向かうバスの中で、『何を考えているかわからない』と志波姫がいじった様に。
「ほな、行ってきます」
「おう」
バドミントンの世界においてはいまいち存在感のないポルトガルにあって、イリス=フォンセカは国内にとどまらずヨーロッパ全域でも『強豪』と目されるプレイヤーだ。
松川や倉石の手元に詳細な資料は届かなかったが、アルファベットで綴って検索してみれば、いくつかの記事がヒットする。
ミラノ・ジュニアオープン準優勝、BWFフューチャーズサーキットの地元リスボン大会──これには、かのコニー・クリステンセンも出場し優勝した──でのベスト4など、優勝と言う文字にはこれまで縁がないが、それでもコンスタントに上位に食い込む戦績には、非凡な才能が見え隠れする。
惜しむらくは国内にライバルがいないことだ。
ポルトガルにキアケゴー氏のアカデミーはまだ開設されておらず、そうした『高度な』バドミントンの教育を受けることのできる場所も、彼女の近くにはない。
(文章とわずかな写真だけの印象だが、そう言う意味では久御山と似通っている……どちらも『頂点』に立つことはこれまでなかったし、近くに本気で『ライバル』と呼べる存在が居ないのもそうだ──)
あくまでも傍証だけからの倉石の推測だが、キアケゴー氏が言うところの、『ガス欠にあえぐロケット』なのかもしれない。
ウォーミングアップを終え、サーブ権を得た久御山はいつものようにゆっくりとバックスイングをして、ロングサービスを放った。
丁寧に芯で捉えたシャトルは、新品と言うこともあってか全くブレを見せず、糸を引くように空中に打ち上がり、やがてベクトルを変える。
イリス=フォンセカは小刻みなステップから、体軸を極力折らないように高い打点でドライブを返球。
サービスライン一杯まで押し込まれてしまっては、久御山の守備範囲を避けることなど無理な相談だ。
クロスに返ってきたそれを、久御山は懐でいなしつつ、半端な伸びを与えないように手首のしなりを殺して打ち返す。
(うむ──)
いつもながら、小憎らしいまでの落ち着きようだ。
倉石は納得の笑みを浮かべて、ゆったりとしたラリーを見守る。
彼女がもし、半年ほど前までの自分の教え子だったとしても、望ほどには、試合中に大声で指示を送ることもなかっただろう。
そのぐらい、久御山のバドミントンは『力み』や『拘り』というものから遠ざかっている。
相手をどうやりこめてやろうか、という風にはこのスポーツを捉えていないのだろう。
それだから『優勝』には手が届かなかったのだと断じることは簡単だが、おそらくそれは本質ではない。
無駄な力の入っていない丁寧なラケットワークで、決して弱くはないイリス=フォンセカの打球を完璧に捉え切っている。
自分の感覚に例えれば、彼女は極上の『聞き手』なのだと羽咲は、ディスプレイの中で自在に揺蕩うプレイヤーを見つめていた。
志波姫のように、狡猾にその会話の腰を折ってくるタイプではないにしても。
6-4と微妙に抜け出したところで、久御山のドライブを打ち返したフォンセカのラケットが、奇妙に振動する。
(ん──ガット切れた?)
クールダウンをしながらでも、望はすぐに気が付いた。
物理法則の限界を攻める男子のパワープレイヤーならば頻繁に、と言ってもいいぐらいありふれた現象。
彼女はテンションを失った面を必死にシャトルに合わせていくが、伸びを失った打球はすぐに久御山に叩き落される。
(でも、さっきから打球にしては『音』が良くない……低いというか、響きが悪いというか)
スイートスポットを外しているようには、望には見えなかった。
おそらく長い事張りっぱなしのガットだから、緩みや『打ち疲れ』が出ているのだろう。
国を代表する選手なのだから、ラケットはともかくガットぐらいは新調して大会に臨むものじゃないのかとも思うが、ポルトガルと言う国の『熱』はそのあたりなのかもしれない。
中国は、国策メーカー製の全く同じ仕様のラケットを求められるままに、地方の一番手レベルの選手にさえ潤沢に供給している。
日本では流石にこの世代では、そこまで手厚い支援はないが、それでも志波姫や益子、津幡のレベルになれば、各メーカーの担当者がこぞって彼女たちのもとを訪れ、新型のラケットを置いていく。
よもやオリンピックでメダルでも取ろうものなら、その時使っていたモデルをシグネチャーとして売り出す──そうした商業システムの中に否応なく取り込まれていく入り口が、この世代だ。
久御山も、同じモデルのラケットを三本持ち込んでいる。
そのうち二本はデンマーク入りしてから張り替えたもので、それが例えば量販店であまり手慣れていないスタッフの張ったものなら、時たま『初期不良』的に張りたてのガットが切れる、ということもなくはないが、大会本部に併設されたデンマークの熟練職人の手によるものならば、その心配もない。
ラリーが終わった後、フォンセカはコート脇の荷物置きに向かい、バッグから別のラケットを取り出す。
それから彼女は、試し打ちにと久御山が出したロブをゆっくりと数度返して、ラケットを握ったまま右手を挙げて謝意を示した。
少しの休憩を挟んでもなお、久御山の『エンジン』はゆっくりとした加速を止めない。
強く、高くなる打球音に少し聞き惚れつつ、望は彼女のプレイから何か一つでも『学び』を得ようと、ディスプレイにのめり込んだ。
(私と身長はそんなに変わらないけど、上手く強打を使ってる……)
技術の一つとして『打てる』ことは打てるのだが、少なくともポルトガルのエース相手に決めきれる自信は、今の望にはない。
チャンスボールを沈める、という形だけではなく、穏やかな流れの中に突然、相手が一歩届かないスマッシュドライブを、久御山はここぞというところで打ち抜いていた。
ラリーの組み立てに何か秘密があるのかと、望は膝を抱え、体育座りで見つめる。
しかし、その核心に迫るには、『今』の久御山久世だけを見ていては不可能だ。
表情を変えず、淡々とゲームを進めてゆく久御山を、望と共に荒垣は見守っている。
ふと、今年の春にフレゼリシア女子とともに行った合宿で見た、志波姫と大学生の試合を思い出した。
もちろん彼女はそれ以前から志波姫唯華と言う名前はよく知っていて、できれば対戦した雄勝ではなく彼女との手合わせを望んではいたのだが、残念ながらそれは叶わず、志波姫は荒垣がちらちらと視線を送る先で、田川と言う大学生を軽く退ける。
『相手の嫌がることをする』のがバドミントン、というよりも多くのスポーツのセオリーであって、荒垣自身も望にそうした戦術を使われたこともあった。
それはよく理解しているし、志波姫がそれに極めて長けているのも聞き及んでいた。
実のところ荒垣は、そういうプレイヤーの事は──誤解を恐れずに言えば──嫌いだった。
当時の彼女は今よりもずっとやんちゃで、対戦相手をバチバチに叩き潰してやろうという気持ちがどんどん前に出ていくタイプ。
もう一年以上前、当時中学生だった神藤綾乃にスコンクでの負けを喫したことによる『八つ当たり』の面も無きにしも非ずだが、生来勝気な彼女はその時見ていた志波姫のような、あるいは今日の久御山のような、常にマイペースで相手の攻めをいなしつつ、淡々と『仕事をしている』バドミントンは嫌いだったのだ。
今でも、好きではない。
もっともそれは人間的な事ではなくて、志波姫は得体の知れない妖しさがあって少し恐ろしいが、久御山には本も借りているし、荒垣が良く知らない関西のプレイヤーの話もまた興味深く、彼女は聴いている。
あっけらかんとして、表情豊かで、良く喋るのだ──コートの外では。
「羽咲ほどじゃないけど、ちょっと性格変わるよな、久御山」
「そうだね……」
14-8と点差が開きながら終わりに向かう第一ゲームをなんとかしようと、イリス=フォンセカはその体躯を加速させ、スピードを乗せたドライブを差し込み、ネット前に飛び出す。
(お?)
大会の戦績だけで、そのプレイ映像などは手に入らなかったから、彼女がネット前をどれほど得意としているのかなどは、久御山は知らない。
だが、今の前への詰めを見た限りでは、『馬力』はともかく、フォンセカのエンジンは『ツキ』がいいようだ。
素早く回転数を高めて、ペースを瞬時に持ち上げることが出来る。
(──ちっと、差し込まれるか……)
急激に鋭さを増したドライブに、久御山は差し込まれたと判断し、フォンセカの位置を確かめてから、カットを掛けて球足を抑えた返球。
白帯を越えてすぐに沈み込んでいくシャトルに、彼女はサイドステップで追いつき、久御山の足音を聞きながらも、仕方なくヘアピンを返す。
自分が前に張ったことでフォンセカは、久御山の短い羽根を遠くへ叩き返すスペースを消してしまった。
小技勝負になれば、ラケットワークの精緻さがポイントの行方を決める──。
(……と考えがちだ。確かに事実だが、久御山の場合は同じ位置でも『懐』の深さが違う)
倉石は代表合宿からずっと各選手と、特に彼女については多く、望との比較をしている。
志波姫のようになりたい、という彼女の『憧れ』への道筋を少しでも見つけてやるためでもあるが、それ以上に彼女自身のバドミントンの未来形を探すことが重要だった。
(このヘアピン勝負、フォンセカも決して小技が下手ではない……久御山の方が深く捉えている分だけ、コントロールも楽になる)
仮にコートにいるのが望なら、彼女は懐が浅い分の時間的な狭窄を、肘をくねらせてラケットの面を合わせることで補填するだろう。
飛翔距離が長くなるぶんだけ、フォンセカも立ち遅れることはないが、ヘアピンの質は明らかに久御山が上だ。
そして、久御山はラケットで掬い上げるように、シャトルをフォンセカの頭上へ打ち上げた。
ラウンドザヘッドで無理やり叩き返したが、これも先手でバックステップを踏んだ久御山の『射点』に吸い込まれてしまい、ジャンピングスマッシュをクロスに決め返される。
15-8。
(ふぅ……ネット前もそんなに上手ないな)
久御山はそんなふうに考えているが、倉石の考えはまた別だ。
いくらなんでも、コニーのように恵まれたフィジカルを持っているわけでもないのに、ヨーロッパのジュニア大会で上位に食い込む選手が、基礎的な技術の一つを『下手』なままにしているはずはない。
(上手いことは上手い。その『上手さ』を発揮する余裕が久御山よりも少ないだけのことだが、それが試合では勝敗を分ける)
スピードに優れる狼森や羽咲のような選手なら、単純に速く身体とラケットを操作することで多少の破綻もなかったことにしてしまえる。
志波姫は予測と精度でスピードをカバーしているし、久御山や望は、自分の持ち合わせた身体的特徴を発揮して補っているのだ、と。
(二人とも、……いや、志波姫でさえ根本的には『持たざる者』だ──)
だからこそ望は益子泪ではなく、志波姫唯華の方に憧れを抱いているのだろう。
「なんで、あんなに深いんだろう」
懐が、とは言わなくても周囲の人間には理解できた。
待ちぼうけを食っている羽咲の気を紛らわせようとしているのか、彼女と他愛もない話をしている志波姫はこちらをちらりと見たが、望のその問いかけに応えたのは益子の方だった。
「ステップかな……」
「え?」
「ちょっと違う。あいつ『利き脚』がないよ」
前に落とされたシャトルを拾いに行くとき、当然利き腕と同じ方の脚を前に出さなければ、身体の構造からしてラケットは前いっぱいに出せない。
自然にその一歩前の『踏み切り』は利き脚と逆になるはずだが、久御山はまれに、利き脚から踏み切ってもなお、フォンセカのヘアピンを難なく拾い上げていた。
「普通はやらない……よね?」
「だな──あえてそうしてるか、何かの条件があるんだろ」
もちろん、益子と望は同じディスプレイを見ているが、その『解像度』は自分よりずっと高いのだろうと望は思った。
荒垣によれば、羽咲は彼女との神奈川の決勝で右にラケットを持ちかえた時、ステップまでも器用に入れ替えていたと言う。
両手を使うことだけでもおいそれとできるものではないし、それを試合中にスイッチすることなど自分には出来ない。
それは荒垣も益子も同意する。
旭にしたって、宮崎では多少左打ちをやってはいたが、そのクオリティはハッキリ言って『遊び』程度のものだったし、シングルスをしばらくやっていなかったのに自分と引き分けた彼女のレベルからすれば、そもそもそんな必要はないだろうとさえ思えた。
ともかく望は、『どうしてそれが出来るのか』よりも、『どうしてそうするのか』を知りたかった。
「メリットはあるの?」
「知らん。やったことない」
益子は首を振る。
彼女の親は人間的に出来がいいとは言えないかもしれないが、ことバドミントンに関しては一端のプレイヤーだった。
小学生から頭角を現していた益子がそういう『遊び』の中でバドミントンをする時間はごく短かっただろうし、無意識にそうした引き出しを補おうとして、今のように時折挑発的な行動も見せる、言ってしまえば『唯我独尊』というような印象を周囲に与える風に装っているのかもしれない。
望はもう少し、益子や志波姫、そしてここにはいないが津幡の『三強』と、最後の夏にそこに割って入った久御山の話を聞いてみたいと思った。
「益子は、久御山とは……?」
「やったことない──アイツは最近だよ、上に出てくるようになったの」
志波姫が割り込んできて、望の疑問を解消しようとする。
久御山久世と言う名前が高校のトーナメントで上位に食い込むには、三年生に進級するまで待たなくてはならなかった。
中学生時代から抜きん出たプレイヤーであったことは間違いないが、それは例えば豊橋や、場合によっては橋詰や荒垣でさえひとくくりにされるような──つまりはそうした、『ちょっとバドミントンが出来る子供』のレベルの話で、後の『三強』と称されるメンバーと同等に評価されているわけではなかった。
キアケゴー氏がハイレベルと評した日本の高校生年代で、最後だけとは言えあの『益子泪』よりも上位でエントリーされるほどのプレイヤーなのだから、基礎技術は整っているし、それを活かすだけの頭の良さもある。
ただ、『三強』を脅かすほどの選手ではない──なかった。
決して楽には勝てないけれど、負けを覚悟するようなシーンは今までの手合わせの中で、中学までさかのぼっても記憶にはない。
そんなことをつらつらと語って、志波姫は再び羽咲のもとへ戻ってゆく。
「……まあ、唯華の言った通りだよ、だいたい」
「ふうん」
宮崎では大差で勝ったとはいえ、今の彼女はどう見てもそんな弱いプレイヤーではない。
そのあたりが少し、望には腑に落ちないようだ。
「別に、アイツを悪く言ってるわけじゃねーぞ?」
「あ、うん。それは分かるよ」
もちろん久御山とて、『三強』に並び立ち、打ち勝つというモチベーションは常に持っていたに違いない。
そのために工夫を凝らした結果が、今のプレイスタイルなのだとしたら。
そこには絶対に、『志波姫唯華のバドミントン』につながる何か、小さな欠片一つでもあるはずだ。
望は再び、ディスプレイをじっと見つめる。
第一セットを首尾よく手に入れ、久御山はベンチに戻る。
ドリンクとタオルを旭から受け取り、帯で結んだ長い後ろ髪を漉きながら、彼女はベンチに腰を下ろした。
その姿を観客席で見つめる狼森と豊橋も、満足げな表情をしている。
寝食を共にし、同じチームで戦うのはこれが初めてだが、お互いになんとなくシンパシーを感じている同士。
久御山はふと二人を見上げ、手を振り交わした。
「──久御山、体調は万全か?」
「まあ……」
狼森のように枕が変わると眠れない、ということもなさそうだ。
「第二セット、フォンセカはムキになって取り返しに来るかもしれんが……」
「いや、第三セットまで行ったらめんどくさいし、──次で潰すわ」
「……そうか」
言葉は穏やかではないが、その顔はいつものように涼し気だ。
第一セットを見れば、仮にフォンセカが躍起になって第二セットを奪おうとしたところで、そうやすやすと久御山が許すはずもないだろう。
倉石はうんと頷いて、旭にウォームアップをしてくるようにと告げる。