「お、旭~」
「……泪、ベンチ行って。誰も居ないよもう」
「へいへい」
旭にはずいぶんと素直に従い、益子は胡坐を解いて腰を上げた。
石澤と荒垣も続く。
志波姫はまだ、羽咲の話し相手から逃げられないようだ。
ウォームアップと言っても、観客席下の通路をランニングして、あとは軽くストレッチをすればおおよそ準備は完了になる。
それほど時間はかからないだろう。
ロシア対中国戦が行われている反対側のコートでは、同じサイドを使っているらしいロシアのプレイヤーが、通路の壁にもたれて靴紐を結び直していた。
ロシア語どころか英語でさえあまり得意ではない旭は、できるだけ存在感を出さないように、軽いジョグからいつものメニューを始める。
開けっ放しの扉からは、アップゾーンの向こうに、ベンチに座るロシアの監督や選手たちの背中が見える。
(……昨日の選手、大丈夫だったのかな……)
ナターリア=シャンキチ──国際大会に出てきて、試合途中で棄権せざるを得なくなった彼女の事は、同じ競技者として心配はしている。
足元に目を落としているロシア選手の背中の文字は、おそらくシャンキチとは綴っていない。
歓声が近くで、また遠くで起こっている。
予選突破をかけて戦うこちら側の試合は、随分と白熱しているようだ。
それに対して、旭たち日本代表は既に予選突破を決めていて、ポルトガルにその可能性は既にない。
二国間の実力差からしても勝敗は見えているし、また同じヨーロッパとは言え大西洋沿岸のかの国からは、そう多くのファンは訪れないのだろう。
中国とロシアなら、まあ十中八九中国が勝つのだろうが、いずれにしても決勝トーナメントの山の向こうにエントリーされることになる。
日本代表の決勝一回戦の相手は、早々と首位突破を決めたタイを追って、イギリスかベトナムに可能性があり、それも今日別会場の試合で決まると、倉石監督はミーティングで言っていた。
どちらの国が強いかは、旭にはわからない。
バドミントンの競技熱が世界で一番高いのは、日本を含む東南アジア諸国だと言うが、ベトナムに例えばコニー・クリステンセンのような抜きん出たプレイヤーがいるとは聞かないし、旭の知識の中では、スポーツにおけるイギリスに、バドミントンのイメージはなかった。
数往復したところでジョグを切り上げ、今度は軽いダッシュやクロスステップをこなし、少し汗がにじんできたあたりでようやく、旭は日本のアップゾーンに戻る。
(ん──)
イリス=フォンセカの放ったショートサービスに、久御山は機敏に反応するが、すぐにブレーキを掛けた。
シャトルはサービスラインのわずかに手前に落ちる。
16-8。
(……痛いなぁ今の、な)
試合を通じて初めて選択したショートサービスだが、それをエラーしてしまう。
フォンセカもショックが大きいようで、あと五ポイントを久御山が奪い取るのにさほどの抵抗はなかった。
次第に冷えていく試合の熱を感じ取りつつ、彼女は最後のポイントを簡単にその手に収める。
「──よし、よくやった久御山」
「ほいほい」
既に予選突破は決まっているが、それでもこの三回戦を全勝して決勝トーナメントに臨むことができれば、チームの雰囲気もまた高まる。
しかしそれよりも、倉石の胸の内ではもちろん勝つことは読めてはいたが、それでも志波姫にこの試合のオーダーを託した中で、どこかに『ケチ』が付くようなことがあれば、他のメンバーはともかく彼女自身がそれを気に病んでしまうかもしれないという不安があった。
「お、綾乃ちゃん。頼んだで」
「え? うん」
さっきのフォンセカがポルトガルのエースだということは当然羽咲も知っている。
だから次に出て来るのはそれより下──どれくらいの実力かは知らないが、羽咲が後れを取るほどのプレイヤーだとは思えない。
それは見守っている神藤有千夏も同じだ。
「綾乃──しっかり勝つんだよ。甘いところを見せないで、ね」
「わかってるよ、お母さん」
この大会では初めてのシングルスだ。
うれしさを感じているのか、その小さな身体を弾ませ、羽咲はコートへと歩く。
待ち受けるのはポルトガルのシングルス2、アレクサンドラ=オルティス。
「神藤コーチ、羽咲には……」
「ああ、私がマネージメントするよ」
そう言うと神藤コーチは倉石からファイルを受け取り、松川がまとめた資料をめくる。
「……っても、なんにもないね、情報」
とりあえず目立った戦績はない。
肉付きが良く、やや色の濃い褐色の肢体は強靭なバネを予感させ、その体格からも繰り出す強打はある程度のものが見てとれるが、ウォーミングアップでさえミスが多い。
全体的に球がアウト気味で、試合中なら羽咲は全て見送るところだろう。
「お、久御山。おつかれ」
微妙に距離の近い志波姫と旭が、アップゾーンに戻ってきた彼女に声を掛ける。
「随分ヒマそうやな……はよアップしたほうがええで、旭」
「もうしたよ」
汗をかいているのはいちゃついていたからではなかったのかと、久御山は認識を改めた。
ふだんの志波姫はできるだけベンチにいるようにしているが、今日は少し特別な感情があるのだろう。
なるたけ遠くで、みんなを見守るようにしている。
「──志波姫、今日は楽しかったか?」
「え?」
驚いた顔を見せる彼女の隣に、久御山はすとん、と腰を落ち着け、足が冷えないようにと、大きなタオルをひざ掛け代わりにした。
頷く志波姫。
「……ありがとうね」
「ええねん」
やがて羽咲の試合が始まり、志波姫と久御山、そして旭が見守る。
「まあ勝つやろ。一瞬で終わるわ、たぶん」
久御山自身が、ポルトガルのエースだと言われたイリス=フォンセカを十本そこそこで軽く退けたのだ。
仲良しの豊橋に限らず、志波姫や、あの益子泪までもが敗れた羽咲綾乃が、それ以下の選手に手こずることなど考えられない。
「そうだねぇ……綾乃ちゃんには悪いことしたかな」
「いや旭やろ」
水を向けられた旭は、怪訝な表情で首を傾げた。
「そもそもシングルス出来るん? 旭は」
「まあ、泪と会う前はシングルスメインだったし」
何年前やねん、と久御山は独りツッコミを入れる。
「あ、でも──『次』は泪がシングルスだから」
「次?」
久御山が問う。
旭は手を振り、彼女が意味するところの『次』とは、どちらが勝ち上がってくるにしてもおそらくは負けることのないであろう決勝トーナメント一回戦ではなく、その次の二回戦──すなわちデンマーク戦のことだと訂正した。
もちろん、そのデンマークと一回戦を戦うアメリカにも全く勝ち目がないわけではない──通常の年なら。
今年は『デンマーク三強』と呼ばれる三人がいて、もうほとんど優勝は決まったとまで言われているらしい。
もっとも旭がそう決めたわけではないし、それは昨晩の志波姫と倉石監督の話し合いの中で出て来た彼の思惑だというだけのことだが。
「まあ……今のチームでコニーに勝てる選手を考えたら、やっぱ泪かなって」
「ほーん」
羽咲ではないのかと久御山は考えたが、確かに彼女よりも益子の方が、『一度も対戦していない』という点で大きなアドバンテージを持っている。
プロとして活躍している選手がそう何度も、言ってしまえばアマチュアの選手に同じやられ方をするとは思えないし、そう言う意味では益子をクリステンセンにぶつけられれば、勝てる公算も出て来るのだろう。
「久御山はどうするの?」
「ん……別に、なんでもええけどな。出やんでもええし」
「いや、そりゃ無理でしょ。絶対必要だよ」
志波姫の言葉に旭も頷いた。
「そやけど、シングルスはアンタと益子と、あと一人誰や? ウチやないやろ」
「綾乃ちゃんかな。一番いいのは、スピードタイプのミーケ=シュヴァリエにぶつけて、私がラファエラ=デュポールとやる……そうすれば悪くても二つは取れると思うよ」
これはあくまで、自分が考えているだけだと志波姫は補足する。
とはいえ彼女の組むオーダーで今日は問題なく全勝できそうだし、倉石監督もそういう『機会』として彼女にその権利を与えはしたが、よほど無茶ならレコメンドを入れたはずだ。
「それやったらウチ、望ちゃんと組むわ」
「石澤と?」
「荒垣は一回戦出たらまた一日休みやろ? そしたらアンリと狼森組ませて、どっちかで一勝や。まあ旭でもええけど……」
旭は、さすがに慣れないペアでデンマークの代表選手に勝てる気はしないと苦笑した。
志波姫の方は、久御山の描いたオーダーに少し驚いたような顔を見せる。
「倉石監督と同じだね」
「ホンマか……」
久御山はともかく、京都で有望なジュニア世代はみんな大阪の強豪に流れていってしまう。
大阪出身で順当に大阪の強豪校に進学できるのは、それこそ『トップ集団』だけだから、そのやや劣る選手たちが、たとえば地方に行ったり、親元を離れるのが嫌ならば、多少長い通学時間を承知で久御山のいる京都に来たりする。
宇治天神台も決して、その年代で京都のベストメンバーがこぞって通うような名門ではなかった。
指導者はどちらかと言えば放任主義で、なんなら団体戦のオーダーも主将である久御山の意見がそのまま通るようなことも多く、また彼女自身周囲をよく観察するタイプでもあった。
だからこそ、倉石監督と同じようなイメージでオーダーを組めるのだろう。
益子の事ばかり見ていて、周囲も、自分自身も疎かになってしまっていたのかもしれないと、旭は頭をかいた。
「──バタバタやんけ、向こう……」
久御山が呆れたように、ディスプレイの中の試合を見上げる。
試合前のウォーミングアップと同様に、羽咲と対戦しているオルティスはエラーが多く、今しがたロングサービスをアウトにしたところだ。
「まあ、あんなもんじゃない? 綾乃ちゃんだと……」
二桁に近い連続ポイントの合間にようやく手にしたサービス権をあっさりと譲り渡し、第一セットは大差で終了する。
21-5。
普段あまりやっていないダブルスをこなしたせいか、それともここにきて海外での戦いの疲れが出てきているのか。
望はつい欠伸をしそうになり、あわてて口を手で覆う。
もっとも、それは荒垣も、倉石でさえ同じようだ。
こういう時一番に寝そうな益子が、意外と食い入るように試合を──というよりも羽咲を見つめているのが、望にはなんだか面白く感じられる。
「羽咲、一本!」
緩んだ空気を引き締めるべく、望は今しがた、第二セットで初めて失点したばかりの羽咲の背中に声を掛ける。
返事はなかったが、軽く頷いたのは見えた。
スコアは既にインターバルに近づいていて、全く焦る必要もないし、その兆候もなかったが、まだ彼女には、『逗子総合のキャプテン』としての責任感は染み付いているらしい。
同じ左利きだから、というだけではないぐらい真剣な表情で試合を見ている益子は、時折首を傾げるようなしぐさをして、望の興味を引く。
「……益子、どうしたの?」
「ん? いや──上手いなぁと思ってさ」
呑気な口調だが、かの益子泪がそう言うならば、羽咲は確かに『上手い』のだろう。
それも、群を抜いて素晴らしく。
「どのへんが?」
安直な質問だったか、と望は恥じる。
益子はまた首を傾げて、彼女に何かを伝えようと思案しているのか、開いた膝の間で手を組んだ。
「どのへん……難しいな。また今日夜教えるよ、移動の時に」
「うん──」
そういえば、今日は試合が終わってそのまま寝るわけにはいかないのだった。
予選が終わると、各グループの決勝進出チームは全て、デンマークオープンの会場でもあるオーデンセに集結することになっている。
チャーターバスで二時間ほどということだが、試合終了後にホテルに戻り、荷物をまとめてからの移動となると、到着した時には日付が変わっているだろう。
翌朝にはまた『検査』があるらしく、その次の日にはもう、決勝一回戦が始まる。
予選からオーデンセの会場を使っているグループAのオランダやアメリカは少し有利なのかもしれないが、バドミントンでそこまで存在感を発揮しているわけではない両国に加えて、あまり熱のないオーストラリアや台湾との予選リーグでは、集客に不安があったのかもしれない。
(羽咲は完全にタイプが違うし、そもそも左利きだからなぁ……)
ただ単純に、彼女の学年が二つ下であったことに安堵している自分がいる。
荒垣だけではなく、こんな怪物まで神奈川の同期に居たら、望の絶望はもっとずっと早い時期に訪れていたに違いない。
高校で伸び悩んだとはいえ、中学時代はそれなりに強かったはずの橋詰を、あっさりと十本そこそこで退けたほどの『一年生』なのだ。
相手のミスが多いのもあって、なおさらプレイの質は高く思えるし、時折挟んでいくクロスファイアもキレが鋭く、あの志波姫でさえ初見は空振ったのも頷ける。
「私があのぐらいの身長だったら、もっと苦労しただろうな……」
「ん?」
実際のところ、望は中学時代から有名選手だったわけではない。
荒垣の方がよほど、ジュニア世代から頭角を現していた──というよりそもそも、自分は『頭角を現す』ほどの戦績はまだ収めていないと、望自身は捉えている。
宇都宮学院と逗子総合の間には定期的な練習試合などの交流もなく、彼女が『益子泪』を知ったのは、中学時代に友達と回し読みしていたバドミントン雑誌のページが初めてだった。
益子と同じ空間を共有したのはつい最近の事で、それまでの『三強』ないしは『一強』だった彼女のことを、望は良く知らない。
「益子は、一年からインターハイに──」
「出たけど……同じ高校生でも、アイツとか豊橋みたいに背が小さいと、かなり不利だから」
それは、望にもわかる。
『三強』の中では一番小さい志波姫でも、羽咲のようには小柄ではない。
益子は左利きに加えて、その高身長が選手としての大きな特長と言えるし、津幡にしても、高校生最強と自負するパワーの根源はその体躯にある。
「でも、益子は中学の頃から背は高かったんでしょ?」
「まあ……」
望はもっと彼女の話を聞きたいと思ったが、第二セットがインターバルに入り、羽咲が戻って来たことで、その会話は途切れた。
「羽咲、お疲れ」
荒垣が立ち上がり、傍に置いてあったボトルとタオルを手に、羽咲を迎え入れる。
「ありがと、なぎさちゃん」
大きく開いた点差にもかかわらず、表情はあまり冴えない。
単純に、この試合が面白くないのだろう。
ポルトガルのオルティスも、必死に彼女の打球に食らい付いてはいるのだが、そのリターンはしばしば面食らうほど甘く、羽咲の『熱』を高めるほどのクオリティはなかった。
それでも雑になることはなく、見守る神藤コーチもほのかに満足げだ。
「最後まで緩まないよ、綾乃」
「わかってる……」
立花の方は、特に言うこともないと見えて、最後に軽く羽咲と会話をして、彼女を送り出す。
「──もう行くよ、唯華」
「うん」
試合の終わりが近いと察して、旭と志波姫はアップゾーンを出て来る。
後に続いて久御山も現れ、ベンチは久しぶりに人口密度が高まった。
「どう? 綾乃ちゃん」
「まぁ……勝つだろ、普通に」
私に勝ったぐらいだから、こんな相手に手こずることもないはずだと、益子は浮かした腰を下ろす。
(そう言えば……)
二人とも、この羽咲綾乃に敗れた選手だったなと、望は夏を思い出した。
それも、壮絶な──試合が終わった時には、二人とも泣いていて。
自分が『終わった』時は、どうだったかな──と彼女は速いペースで試合を閉じていく羽咲の背中を見つつ、独り考える。
志波姫唯華に敗れた試合の、その直後は涙は出なかった。
彼女の、どこか美しさすら感じさせるような細やかなバドミントンに触れて、これから先もこの競技を続けていくという決意を新たにし、むしろ明るいものすら感じていた。
どちらかと言えばその後、倉石のもとに集まった団体戦メンバーがみな涙しているのを見て、もらい泣きしてしまったというのが本当のところだろう。
「なあ、旭」
首筋の汗を手の甲で拭き、タオルに撫で付けている彼女に、益子は呟く。
「……なに」
「──勝てよ、今日」
照れ隠しなのか、益子はずっとコートを見つめたまま、旭の返事を待った。
「うん……」
旭にとっても、今日は『特別』な日だ。
中学時代はシングルスプレイヤーとしてそれなりの実力を発揮していたが、宇都宮学院に進学してからは益子と組むダブルスに専念した。
そのころの自分は、どんな選手だっただろう──旭は擦れた記憶を掘り起こす。
昔から、そこそこの身長はあった。
もっとも、パートナーのように『天賦の才』とまではいかなかったし、旭にはそれを活かしきるだけの才能には恵まれなかった。
そのおかげで早くから、体格に頼らない戦術眼を養ってきた──と言えば聞こえはいいが、特段優れた指導者の下で研鑽を積んだわけでもない。
言ってしまえば器用貧乏。
今日の相手には勝てるとしても、果たしてこれから先バドミントンを続けていったとして、『表彰台』になど上がれるものだろうか、と旭は最近ふと考えることがある。
負けたって全力を出せばバドミントンは楽しいし、何も頂点に立つことだけが競技を続ける意味でもないのだが、自分はともかく『益子泪』は──特に後者に関しては──そうではない。
マッチポイントの表示を見て、荒垣がベンチから声を出す。
「羽咲! 最後決めろよ!」
頷いて後ろ髪を揺らし、羽咲はロングサービスを放った。
益子との試合で見せたような、やたらに長い滞空時間。
面食らったアレクサンドラ=オルティスはしかし、バックステップからお得意の強打を羽咲に浴びせる。
一本目はこともなげに返し、彼女はもっと打ってみろと言わんばかりに二本目を甘いロブで返球。
アジリティとコントロールに劣るオルティスのこと、それでなくてもバックスイングの大きいスマッシュドライブだ。
羽咲は難なく追い付き、前へのヘアピンで相手を釣り出す。
「……完全にラインに入れてるね」
その単語に、望はハッとした。
言葉の主は志波姫だ。
今の、ラインって──そう聞こうとする前に、ささやかな歓声がスタンドに広がった。
第二セットも大差で勝ち切った羽咲は、何でもないようなしぐさでオルティスと握手を交わし、主審からスコアシートを受け取ってサインをしている。
望が問い掛けをする間もなく、志波姫と益子が旭の世話をして回った。
意気消沈のポルトガルベンチも、早く『最後の試合』を終わらせたいという空気が滲んでいる。
慌ただしくコートに入ったシングルス3・ベアトリス=メイ=ドゥアルテは、日本人が抱くヨーロッパ人のイメージとは異なり、旭よりも背が小さかった。
神藤コーチとともにアップゾーンに下がっていく羽咲を見送り、倉石は旭に声を掛ける。
「最後になってしまったが、まあ……楽にやればいい。エキシビションとは言わないが、色々試しながらやっていけ」
「はい」
低いが歯切れのよい声で返事をして、旭はコートに向かって歩き出した。
白線を跨いで、足元の色はインコートのブルーに変わる。
実際のところ旭の中には、不安もあった。
監督はああ言っていたけれど、それでも『勝ちたい』という気持ちはラケットを握っていれば常にあるし、まあ、勝てる気もする。
(でも……広いなぁ)
数年ぶりに一人で立つ『試合』のコートは、違和感を覚えるほど広大だった。
ラインをよく見ながらウォームアップをこなす。
不思議なもので、相手が二人いればどこに打てばいいかはすぐ判断できるのに、一人になると相手のコートも広すぎて、どこに打っていいかわからなくなる。
そういう不安だ。
『益子泪』と自分の将来を考えるほどの余裕はないし、なるようになるとさえ思っている。
泪がこの手から離れていくのなら、それはきっと運命だろう、とも。
4-3。
シングルスの違和感にアジャストしていく旭が、サービスの構えに入ろうとしたところで、会場の反対側で大きな歓声が上がった。
勝者のコールアップを聞いて倉石は、中国が勝ったのだと悟る。
(……どちらにせよ、トーナメントの山の反対側──オランダには勝てまい)
日本は既に一位通過を決めている。
対戦相手は別会場のイギリス対ベトナムの結果を待たなければならないが、いずれも日本よりは格下。
正念場はその後──デンマーク戦だ。
もちろん彼女たちとて、決勝一回戦を戦わねばならないが、自国開催というアドバンテージを除いても、この世代の充実ぶりは日本に比肩する。
歓声が収まるのを待って、主審のプレイがかかると、旭は改めてスタンスを取り、サービスを放った。
(まぁ……それなりに上手くやれている。今日のような相手なら、別段苦労することも無いだろうが──)
失点の過半数はサイドアウトだ。
久方ぶりのシングルスだし、これはある程度仕方がない。
『待ち疲れ』もゼロではないだろう。
細かくコースを狙っていっては、どうしてもミスが先行して無駄に手こずってしまうと思ったのか、旭は割り切って強打を主体に攻めていく戦法を取っている。
倉石の手元の資料によれば、相手のベアトリス=メイ=ドゥアルテはまだ十五歳だという。
スカウトの時に見た橋詰や荒垣、あるいは彼女たちよりも『出来がよさそう』に見えた望にも、現時点での能力は引けを取らないが、彼女の年齢からすれば三つ上の旭などは百戦錬磨の強者。
それは半分、益子のおかげでもある。
小難しい策を使わず、旭は単純なパワー差で押し込んでいく。
「昔の路みたい」
志波姫が懐かしそうに笑った。
ずば抜けて背が高いわけではないが、彼女も、また旭もその体躯を上手く使いきることに長けている。
プレイの『効率』がすこぶる良いのだ。
ダブルスとシングルスのどちらがより疲れるかは、人によって感じ方の違いはあるだろうが、平たく言えば普段自分より『上』のプレイヤーと一緒に組んでいる旭は、自分のスタミナを出来るだけ消耗しないようにと、早め早めの仕掛けでポイントを奪っていく。
相手がもう少し上手ければ、そう簡単には成立しない戦術だが、ひとまず今日のところはそれでも勝ち切れそうだ。
見た目には、快調に相手を翻弄しているように見える。
その裏にあるのはしかし、旭の『焦り』だと、倉石も、志波姫も益子も気づいていた。
十五歳で代表に選ばれたドゥアルテの、ポテンシャルは高い。
中盤にかけてエンジンが温まってきたのか、徐々に盛り返す彼女をなんとか出し抜いて、旭はインターバルに逃げ込む。
(『圧』が強くなってきたな……)
あれこれ指示を細かく出したところで、ここ数年シングルスの経験値がない旭には、むしろ逆効果かも知れない。
メンタルは全く問題ないから、ひとまずじっくり見ていよう──倉石はそう考えて、言葉を選びながら旭に語り掛ける。
「相手も『代表』だ。今日のお前が、不慣れな戦いをしているのは分かっている」
「ええ、まぁ」
旭は──神藤コーチの言葉を借りれば、『センス』がない。
棘がある言い方にも聞こえるが、その本質を考えれば、なるほどと倉石も頷けるものだった。
よほどの才能が思いがけず入り込んでこない限り、倉石は『三年の夏』にその選手がどういった形で試合に出ているのかを想像しながら、スカウトをしている。
旭の中学時代は実際その目で見たわけではないし、『栃木にちょっといい選手がいる』と言う話を、横浜翔栄の木叢から聞いた程度。
荒垣と、彼女を見に行った時にたまたま見つけた望、その二人を天秤にかけている時間が長かったし、益子に関しては才能だけ見れば欲しいに違いなかったが、彼女が抱える事情は確証が持てるものではないにしろ単純に『家が遠い』という点でリストからは除かれる。
橋詰もその当時は東京でいっぱしの選手ではあったので、都内の強豪からも誘いがある中、まさか横浜翔栄への越境入学を選択したことは、倉石も想定外だった。
環境の整わない公立高に行った荒垣はともかく、橋詰英美という大きな才能を得た翔栄が、また毎年決勝戦の相手になるだろう、と倉石は考えていた。
そんな中でも逗子総合は、望の代で神奈川の団体戦代表を奪い返し、インターハイに出場する。
『センス』とは、倉石が考えるに、その言葉通り『感覚』だ。
もっと言えば、競技における『感覚器官』──望はそれを持っていた。
そういう意味で『センス』があるのは羽咲がダントツだろうが、益子も負けないぐらいに鋭敏であるし、久御山や豊橋など、持たざる者がある一定の地位を築き上げたのも、その感覚器官を十分に使いこなしているという要素が大きい。
次にどんな『仕掛け』をしてくるか? という嗅覚。
相手の挙動から、フェイントを『出したがっている』ことを見切る視覚。
いくつもある。
羽咲はそれこそ『第六感』的なセンスで相手の行動を察知し、先回りすることでそのスピードを生み出しているし、久御山も生来生まれ持った強靭なリストからくる『懐の深さ』を、相手が打ちたいコースを見定めることで補強して、荒垣の強打さえいなしてみせた。
そういう意味では、荒垣にも確かにあの当時、『センス』はなかった。
良くも悪くも上背頼りの『固い』プレイヤーで、その才能はもちろん間違いなく逗子総合に欲しかったが、倉石が『重量級』と呼ぶところの豊満な体型はともかく、荒垣はそれ以外にも、基本的に『見てから動く』あるいは『考えて動く』タイプだから常に後手を踏む。
多少の立ち遅れはその強打でなかったことにしてしまえるとしても、それではなおさら故障のリスクは高い。
小技を一から教え込み、そこに自分のエッセンスを加えて、頭を使えるプレイヤーに育て上げればもっとずっと、それこそ『三強』に割って入るようなポテンシャルを秘めてはいたが、壊れてしまえばすべてが台無しになってしまう。
故障した選手は当然退部することになるが、そうなれば特待ではなく一般生に戻り、学費も満額納めることになる。
家は貧乏ではない、むしろ父親がパイロットと言うこともあってどちらかと言えば裕福だというのはスカウトの基礎情報として押さえてはいたが、それよりも、あまり言うことを聞かなさそうな彼女が、倉石の見ていないところで勝手にオーバーワークに陥ってケガをし、途中でバドミントンを辞めてしまうという事態も十分考えられた。
『常勝』の逗子総合では、それは許されない事であるし、倉石も木叢と同じく、『獲るだけ獲ってあとは知らんぷり』など絶対に許されないという矜持を持っていたから、荒垣の才能と、そのリスクと『石澤望』と言うプレイヤーを天秤にかけた時、結局は後者に傾いたというだけのことだ。
別に何か意趣あって、一旦は決めた彼女の特待を取り消したわけではない。
彼の見込み通り、また危惧した通り荒垣は故障を抱えたまま最後の夏に臨み、クリステンセンとの試合では棄権と言う形でその現役生活を終えた。
今となっては、まあ、いつか遠い未来で、立花と望と、四人で一緒に酒でも飲むことがあれば話をしようと思う程度のものだ。
もっともその頃には、教え子はもっと別の、面白い話をたくさん持ってきてくれるだろう、と倉石は期待している。
存外熱を帯びているコート上の戦いに、益子も前のめりで注目する。
長い事連れ添ったパートナーが、自分も負けた羽咲を連想させる小柄な年下の少女──ドゥアルテは右利きだが、それがまたなおさら、自身が一瞬本気で切り結んだ『あの時』の羽咲に被る──に押されつつある様は、なんとも歯痒いものだ。
16-16と深いタイスコアで、旭は大きく肩を上下させて深呼吸をした。
『猛獣使い』としてのダブルスの経験値はこの数年ずいぶんと溜め込んできたが、シングルスはご無沙汰だし、何より試合のテンポが旭に染み付いたリズムに合わない。
仕方なく、バドミントンを初めてしばらくの頃から順番に引き出しを開けて、それでもドゥアルテを引き離せずに終盤まで来てしまった。
ここからは、ワンミスが命取りになる。
そして今日の旭は、ふだんよりずっとミスが多かった。
(たった五十センチなのに……)
いつものダブルスでは、前後はともかく、左右をそれほど厳しいコースを狙うことは少ない。
それなのに、今日はやけにそのエリアにシャトルが飛んでいく。
もちろんシングルスではアウトだ。
身長差に頼って相手を後ろに押し込もうとしても、初手のロングサービスが甘くなってしまうものだから、『手番』を安定して保持できない。
「旭! 自信もってけ!」
パートナーからの声に小さく頷き、旭はドゥアルテのショートサービスを掬い上げる。
向こうはずっとシングルスプレイヤーでやって来ているし、十五歳で代表入りするぐらいの才能なら、これからもそのつもりなのだろう。
日本でこそ旭は背の高い方に入るが、ヨーロッパではせいぜい普通だ。
そんな選手に対するセオリーなど、ドゥアルテはとうに会得している。
旭は旭で、歩幅とウイングスパンの短い相手なら、走らせ続ければいいと理解してはいるが、肝心要のサイドを突くショットの精度が悪く、そうした『原因』がはっきり見えるだけになおさら、自信を持つことは難しくなってしまっていた。
神藤コーチは、中国戦の前夜に益子から受けた相談を思い出す。
(旭はセンスがない……いや、センスと言う言葉を使うと、誤解しやすいかな)
益子にはその意味合いを懇切丁寧に諭したが、例えばこのセットを落とすにしろ拾うにしろ、いやむしろ、もっと遠い未来においても、旭に面と向かって『アンタはセンスがないよ』などと言うつもりはなかった。
曖昧なもの、根拠のないものに頼っては、一瞬のオーバーレブを引き出すことが出来ない。
旭海莉という高校三年生の少女が、コートの外ではどうだか知らないが、少なくとも試合中は、感情的になることはない選手だ。
それはそれで美徳だし、『上』で戦う上での必要条件でもある。
(けれど、今欲しいのは『振り切り』──志波姫が綾乃との試合で見せたジャンピングスマッシュのような大技……)
体格を考えれば、志波姫にできて、旭にできないわけはない。
しかし彼女はあくまでも、丁寧なラリーからどうにかポイントをもぎ取り、マッチポイントに漕ぎ付ける。
だが、随所に光るドゥアルテのクレバーさを考えれば、これはもしや、体力を削る目的を兼ねた『様子見』であるかもしれない。
シングルスが不得手なのは、サイドアウトが多いことや、長いサービスに伸びが足りないことを見ればすぐに判断できる。
それが遠く離れた極東の高校生であっても、だ。
一度のデュースを挟み、またしても旭がマッチポイントを得る。
彼女とて、あの益子泪の隣に立ち続けたプレイヤーだ。
単純な能力でいけば、流石に三つも下の選手に後れを取ることはない。
自分だってそうだった。
大学時代から全日本総合には出ていても、社会人チームの一線級が出て来るトーナメントの中盤以降では全く歯が立たなかった。
(でも、ただ単に勝つだけじゃ、旭はこの試合で何も得られない……)
勝ち負けではない何かを掴み取りたいから、シングルスで出ることを承諾したのだ。
そうでなければ、別のパートナーと組む益子をベンチで見ることなどせず、今スタンドにいる狼森か豊橋にでも、出番を譲っていただろう。
冷静に立ち位置と重心を見切って放たれたヘアピンに飛び込んだドゥアルテは、その頭上高くに打ち返されたシャトルを見送る。
22-20。
「旭」
ベンチ前に戻ってきて、タオルで汗を拭いている旭に、益子が声を掛けた。
「ん?」
あまり見ることのない表情だ。
不満そうな顔はよく見るが、こういった、何かを心配しているような顔は──。
だから旭も、それにどうやって返すのが正解なのか、判断をしかねている。
無理もない。
少なくとも益子にとっては、コートに独りで立ち、戦う旭を出迎えることなど今までほとんどなかったのだから。
つなぐ言葉を見つけられないでいる二人を慮って、志波姫が旭の肩を揉む。
「ちょ、ちょっと……」
「んふふ──力入ってるよ、旭」
首を傾げて逃げつつ、旭は少しだけ表情を崩す。
色づいた空気の隙間を縫いつつ、倉石は必要最低限の指示だけを旭に伝えて、すごすごと引き下がった。
「行ってくるよ、泪、唯華」
「……おう」
(さて──)
空気の入れ替えをしようと、倉石は大きく手を叩く。
インターバルの短い時間の中では、それほど具体的な指示を与えることはできなかったが、今日のところはまあそれでもいいだろう。
(第一セットの結果を見れば薄氷も薄氷……インターハイの上位に食い込むようなプレイヤーが、普通なら『高校一年生』に後れを取るようなことはない、が──)
現時点ではシングルスプレイヤーではないということを除いても、今日の旭の調子は悪かった。
待ち疲れもあるだろうし、精神的にも平静を装ってはいるが、いざコートに立てば否応なく『一人きり』という現実はのしかかってくる。
単純な実力差で勝つことが目的ではない。
シングルスとダブルスの兼業は、高校生レベルでこそ一般的だが、『上』に行けば行くほど困難になる。
例えば埼玉栄枝の岩崎・田中ペアやフレゼリシア女子の白石・美里ペアは同世代ということもあって、直接A代表枠を争うライバルになるだろうし、芹ヶ谷と笹下にしても二年後は、どれほどの成長を遂げているかわからない。
そういう強敵と、代表の枠を争っていくならば、ダブルスとしてのコンビネーションはもちろん、一人一人の能力を高めていかなければならない。
そういう意味で、今日は旭海莉に対する『基礎教養試験』の意味合いがある──倉石はそう考えていた。
(旭が自分でこの状況を打開することができるかどうか……それはダブルスでも有用な素質だ)
『益子泪』が抜きん出て強かったのは、倉石たち指導者から見ればもう随分昔の話だ。
日本中で、無数の才能がそれこそ泡のように、浮かんでは消えていった。
ようやく志波姫がその影を踏めるようになったあと、今度は益子泪を打ち破った羽咲綾乃という超新星が現れる。
だがそれでも、たった一度の敗戦で、すぐさま世代交代とはいかないのが競技の世界だ。
素人に毛が生えた程度のお粗末な三文記事ならともかく、松川や倉石達はまだ──と言う言葉を使うのも不適切なぐらいに──益子の実力を疑ってはいない。
なにしろ、彼女たちの年齢差はたった二つだ。
組み合わせ次第だが、来年の全日本選手権では同じカードが見られることだろう。
もちろん例えば豊橋にも、益子泪を倒すチャンスはまだまだ多くあるし、津幡が彼女から一ゲームを奪うのも、そう遠くない未来の出来事かもしれない。
世代の中心は益子泪に違いないが、一番近いところで『伝説』の第一章を共に過ごした旭海莉が、また次のページも共に名前を記していくことが出来るかどうかは、少なからず今日の試合にかかっている。
再開した試合は、倉石の予想通り、ドゥアルテが序盤を走る展開で動き出した。
5-2から一本取返し、旭はサービスの構えに入る前に、羽根を整える指の動きを止める。
(ん──?)
調子よくラリーポイントで取り合っていては埒が明かないと判断したのか。
あるいは単純に、不揃いな羽根が気になったのか。
ともかく、旭はドゥアルテを焦らす様にゆっくりとサービスジャッジの方へ歩いて行き、シャトルを取り変えて戻る。
高校の試合ではあまりのんびりしていると審判に急かされることもあるが、これはユースとは言え国際大会だ。
(合わせようとしている……世界大会の空気に)
そこに気付いたか、と倉石はノートで隠した口角を吊り上げた。
ふと横を見ると、益子も納得顔で頷いている。
ジュニアの国際大会でも勝ち進んだ彼女ならば、そうした所作は身に着けているに違いないが、少なくとも倉石の知る限り、旭と益子がともに国際大会に出たことはなかったはずだ。
慣れない異国の会場と審判、試合前のセレモニーも独特で、場慣れしている志波姫や益子はともかく、豊橋や狼森には、ここまでの予選では少し気後れしたような瞬間も見られた。
久御山や荒垣はいい意味でマイペースだし、望も今はある種の確変状態に入っている。
もっとも彼女の場合は、まだ『怖いもの知らず』の面が強いだろう。
冷静沈着で、大局観に優れる旭がとった行動の意味を、倉石はよく咀嚼しようと心がける。
(シャトルを交換するという事には、相手にテンポよくプレイさせない、という意図も往々にしてある……)
その他にも、乱れた呼吸を整えたりだとか、考えを整理したりと色々な事に使える時間だ。
今のタイミングでは、一気呵成に巻き返しを図るよりは、じっくりと追い上げていく方がいいと、旭は考えたらしい。
わざと羽根を打って散らすようなカットスマッシュを幾度か挟み、ドゥアルテの手元に強打を差し込んで旭はポイントを連取する。
そしてまた、旭はシャトルを交換した。
もちろん対戦相手の同意が必要だが、折れて抜けた羽根を見れば、ドゥアルテにも拒否する理由はない。
身長が低いために、旭の守備範囲を突き抜けていくパワーのない彼女にとって、シャトルが妙によじれてコントロールが甘くなることは命取りだからだ。
三連続ポイントで、旭はスコアをイーブンに戻す。
序盤を走って第二セットを獲り返すというドゥアルテの目論見は、ひとまずは外れた。
ダブルスならば、パートナーとの会話の中で勝ち筋を見つけることも出来るが、今は旭が一人で戦っている。
インターバル以外で何か戦術的な指示を送ることはルール上できないし、倉石もまさかシングルスの経験値がこれほど浅い選手を、この代表戦で見るとは思っていなかったから、どこから手を付けていいかも判断が付きかねていた。
旭がある程度盤外戦術に長けているのは、中国戦でのわざと羽根を折るカットスマッシュからもわかる。
だが本来の、ラリーの組み立てと言う面で言えば、ただ『来た球を打っているだけ』に限りなく近い。
対戦相手も同じ代表選手とはいえ三つも年下で、旭自身望よりも上背があるから単純なドライブの連打が通用しているだけのこと。
(……まぁ、大学に行って二年後ぐらいなら、シングルスでもそれなりの選手にはなっているだろうが──)
基礎体力や各種のショットの精度は文句をつけるところはないし、宮崎の大会を望と共に優勝したのも、じゅうぶん納得できる。
『益子泪』という才能を一番近くで見ていたおかげだ。
お手本のレベルがとことん高いものだから、自然に旭が自分に求めるラインも高くなっていく。
大したことのなさそうな相手に苦戦しているのは、至極単純な理由でしかない。
(コートの大きさ、ラリーのセオリー。ダブルスとシングルスは、全く違う競技とさえ言っていい……)
もちろん、まだまだ現役生活は長いだろうし、大学から改めてシングルスに専念というのも、旭のポテンシャルを考えれば悪くない未来が見えるところだ。
しかしそれは、旭と益子の両者ともに、望んではいない。
アスリートの人生として考えても、旭が大学でシングルスに再転向したならば、高校からずっとシングルスプレイヤーだった選手には当然後れを取る。
それが一年か、二年か。
あるいはもっと短いか、長いかは分からないが、いずれにしても、旭にとっては勿体ない時間だ。
益子にも同じことが言える。
彼女はそもそも、全日本ジュニア優勝経験者だ。
(シングルスに専念していれば、インターハイだって優勝できただろうが、そうはしなかった……他でもない益子泪自身がそれを望んだからだ──)
部活動の大会ではすこぶる低空飛行を続けていた彼女が、全日本ジュニアでは人が変わったように猛々しく戦い優勝したのは、彼女なりに旭に『筋を通した』のかもしれない。
私は、『旭海莉』を言い訳にはしない、と──。
徐々に息を吹き返した旭は、一セット目よりも開いたアドバンテージを拵えて、インターバルに入る。
満足げな顔で出迎える益子の肩を軽く叩き、旭はベンチに腰を落ち着けた。
「悪くないぞ。もう少し、色々混ぜていってもいいとは思うが……」
技術的には、全てのショットを使いこなせてはいる。
だが、その組み合わせは単純だ。
どうしたいのかという意図は良く見えるし、それは倉石の好きなプレイスタイルでもあるが、対戦相手がたとえば志波姫のように、もっと狡賢いプレイヤーだったならば、おそらく旭は劣勢に立たされっぱなしだろう。
しかし、今ここでノートを開いて一から戦術を教えている時間はない。
「いや……難しいですね、意外と。ダブルスの方が『速い』のに──」
怒ってはいないが仏頂面で、旭は息を吐いた。
倉石はふと、自分が現役だった頃の、最後の数年間を思い出す。
実業団を引退する少し前のことだ。
下からは若い才能がどんどん入ってくるし、自分の身体もあちこち痛みが出ている中で、彼はなんとなく『引き際』の淵に目を向ける機会が多くなっていた。
現役を終えて、そのまま会社に残って社業に専念するというのも、まぁ規模や知名度はそこそこだが、不況の中でもバドミントン部を維持し続けられるぐらいには堅調な企業だから、悪くはない選択だった。
けれど、純粋に競技に携わって生きていきたいという気持ちも、確かに持っていて、要するに『心』が燃え尽きる前に、身体が言うことを聞かなくなってきていたのだ。
選手としては終わりが近い。
そんな中で倉石は、指導者を志すようになる。
古い世代のコーチングを受けて来た最後の世代と言っていい彼は、持ち前の細やかさを発揮して、アスリートの心技体に関わるあらゆる知識を吸収していく。
練習の中では兼任コーチのような役割も担っていたし、その延長から始まって、戦術、練習方法、コンディショニングなどを勉強していった。
最後の花道にとチームが用意してくれた、ある大会を終えて、ひとまず現役に区切りをつけたその年が明ける頃、彼は会社を退職する。
そして、『もし実業団からの誘いが無かったら……』と大学時代に取っておいた教職の免許を活かして、逗子総合のコーチとして着任した。
今では神奈川きっての強豪を率いる名監督として、その名は知れ渡っている──やや煩いところが目立つのも含めての話だが。
ともあれ、彼がそんなふうに現役最後の数年間を過ごしていたころ、チーム事情で『空き枠』を埋めるために、ダブルスにも出場していたことがあった。
(シングルスでは、ある程度『パターン化』して相手を抑え込むことが可能だ。だがダブルスは常に、シャトルを打たない側の選手は不確定要素になる。カバーリングが甘いか、丁寧か……そうしたものを読み取る『センス』は当然旭にもあるが──)
ことシングルスにおいては、望でさえそうだったように、自分が打つシャトルの事で手一杯になってしまうプレイヤーも多い。
志波姫のように、ラリー中に相手ベンチの指導者を流し見て、対戦相手の意図を見切るような芸当は、そうそう出来るものではない。
そもそもがダブルスプレイヤーの旭にそれを要求するのは、酷と言うものだろう。
「……まあ、今日の試合は『いい経験』になるはずだ。ダブルスでは出来るのに、シングルスでは出来ないこと。それを知れるだけでも、意味がある。だろう?」
「──はい」
少しだけ眉間の皺を解いて、旭はベンチを後にする。
「……旭」
「ん?」
その背中に、益子が声を掛ける。
が、続く言葉はなく、彼女は口をぱくぱくと動かして、小さな声で『頑張れ』と言うだけにとどまった。
もうずいぶん、見た景色だ。
頭をかきながら苦笑いを向ける益子に、旭はふんと鼻を鳴らし、笑みを返す。
「……あとでね」