インターバルが明けて、少しだけ縮まった点差を、旭はすぐに広げ直す。
試合のサイズ感にアジャストしてきたのか、旭の所作は先程までのようにどこか急いていて強打に固執するようなことはなく、対面のドゥアルテが体勢を崩し、彼女の放つシャトルを追いきれないようなシーンも幾度か見られた。
チェンジオブペースの上手さ──それは益子とのダブルスで培ったものだろう。
望はともかく、彼女とともに宮崎の大会に参加していた久御山と豊橋は、試合の頭から最後までではないにせよ、『益子泪』のパートナーだった旭海莉の独りでの戦いに注目していた時間帯もあった。
初戦の松江愛鹿・馬野山との試合や、望との最終戦の一つ前、雲海の有川との試合でも、それまで二日間で都合五試合をこなしていた疲れと上手く付き合いながら、巧みにゲームのリズムを操っていた姿は、望や久御山たちの記憶にはよく残っていた。
県予選や地区大会を経て、少なくともイ!)ンターハイに出場しているとなれば、その実力は確かなものがある。
それでも益子泪は、同じ三強の津幡と共に石川県を勝ち上がってきた大島を、十本も持たせないほど圧倒的に、退けて見せた。
抜きん出た力を持ちながらも、飽きっぽく、熱しやすく冷めやすく、気分屋で──要するにそういう不安定な気質のパートナーと、ずっと一緒にいたのだ、旭海莉は。
ただ単に、世代の最強選手の従者としてコートに立っていたわけではない。
益子泪がインターハイ個人戦で羽咲に敗れた夜に彼女が自称したように、その関係はまさしく『対等』だった──と、益子は旭の背中を見て、今更ながら理解した。
どこかの時点で、気付いてはいたのだ。
県内では名門とされる宇都宮学院で、旭海莉は一年生から有望株として期待されてはいたが、それは益子を上回るものでは決してなかった。
矢板監督の心中では、どうすれば『益子泪』を腐らせずに居させられるかが、最大の懸案事項だった。
アスリートの成長に不可欠なものはいくつもある。
たとえば日々のトレーニングや、プレッシャーのかかるゲームにおける、良質の負荷。
そうしたものをタイムリーに提供できる、優れた指導者も間違いなく必要だ。
しかし、とりわけこの若い世代のアスリートにとっては、物理的な距離はどうあれ、常に意識し合い高め合うライバルの存在が、最も重要なものになる。
益子本人がどう思っていたかはわからないが、少なくとも周囲からは彼女に比肩するプレイヤーと目されていた志波姫は、地元宮城のフレゼリシア女子に進学した。
それはそれで、順当な進路だろう。
数年前に彼女たちが経験した出来事を思えば、地元への愛着が日本有数の強豪校の魅力に勝っても、決しておかしくはない。
ともあれ、埼玉栄枝から志波姫に誘いがあったことは、さほど県外の選手に手を出さない矢板監督の耳にも入っていた。
二人に次ぐ存在として名前が挙がっていた津幡にも、志波姫と共に栄枝からの勧誘があったらしいが、結局彼女もその誘いを断る──だからと言って、遠く北陸から栃木になど来るはずもなかった。
結局、県内ではそこそこに名の知れている、せいぜいちょっと人よりバドミントンが出来る程度の、普通の少女たち──その中では一番手だったかもしれないが、旭海莉も当然そこに含まれる──の中に、突如混じり込んだ異物ともいえる存在が、益子泪だったのだ。
競技を続けていく上でのモチベーションになるようなライバルなど、そこにはいない。
背中にパートナーの視線を受けながら、旭はコートの中を忙しなく立ち回る。
ここが正念場と見てペースを上げたドゥアルテのショットはいずれも厳しく、なるほど若くして国の代表に選ばれているだけのことはあると、松川や倉石達を納得させるだけのクオリティを発揮していた。
しかし、第三セットにもつれ込むという危惧を生じさせるほどではない。
国旗の入ったユニフォームで戦うことなど、旭にはこの大会が初めてだ。
ましてや、今戦っているのは不得手なシングルス。
(『旭海莉』と言うプレイヤーが非凡であることは認めざるを得ない……いやまあ、認めたくない理由などないが)
それでも倉石は、ここまでの善戦、むしろほとんど優勢を手放さず、盤石の戦いを繰り広げるとは思っていなかった。
お互いへとへとの状態で、しかもたったの半ゲームとは言え、自分が手塩にかけて育て、そして覚醒のきっかけを完全に掴んでいた教え子と引き分けたのだから、それなりにベースは高いところにあるのだろう──とは考えていたが。
ドゥアルテが点数を稼いでいく中で、旭もここぞの甘いショットを逃さずに反攻を仕掛けている。
相手の息切れを見逃さずにラッシュを仕掛けてポイントをもぎ取り、二点のリードを得てマッチポイントに辿り着いた彼女は、前髪に絡む汗を指で跳ね除け、少し間をおいてからサービスを放つ。
(フムン……こういうところは、一気に攻め落としたくなるものだが……)
ドゥアルテはまだ末脚を残している、という判断なのだろうか。
いずれにせよ倉石が好む、慎重な、というよりはきちんと『筋書きを作っている』試合運びだ。
彼らからすれば、例えば自分のスタイルに固執し続けることでもちろん得られるアドバンテージもあるが、ロスも決して小さくないあたり、豊橋や狼森はまだまだ『甘ちゃん』で、久御山や志波姫ぐらいでようやく『シビアに戦える』という評価になる。
その点で言えば、望や荒垣はまだまだ『子供のバドミントン』だ。
そして、才能や実績と言う点では彼女たちをはるかに上回る羽咲や益子が、どういうわけだか猶更『子供』なのは、どこかおかしくも感じられる。
もっとも益子については、あえて『子供』であることを選択しているような場面も、これまでの予選では見られたが、羽咲に関しては絶対的にセルフコントロール能力が足りていない。
フィジカルに恵まれなかったという事よりもむしろ、そちらの方が倉石には、その『将来性』にどこかしら陰りを感じる原因であった。
今現在世界ランキングの上位に位置している日本人女子のプレイヤーで、一七〇センチを超えている選手はどちらかと言えば少数派だし、そういう意味では、低い身長と言うのは決して打ち破れない壁ではない。
荒垣や益子ならば、今まで日本人に居なかったタイプのプレイヤーになれる可能性がある、というだけのことで、数年後に世界ランキングの一位に教え子の名前があったとしても、倉石は喜びこそすれ驚きはしない。
ここにいる誰かが、『東京』はともかくその次では表彰台に上り、ともすれば一番いい色のメダルを首からかけていてもおかしくはないとさえ考えている。
(だが、旭は──恐らくこの先も、『独り』では戦えない……)
高校三年間をダブルスに専念したことによる、絶対的な経験値の不足はずっと後まで尾を引くだろうし、彼女のプレイそのものは、基本に忠実と言えば聞こえはいいが、須らく凡庸だ。
何か大きな弱点と引き換えに、圧倒的な武器を手にしているわけでもないし、当たり前のショットを当たり前に打っているだけで、志波姫のようにミスが異常に少ないということもない。
その破綻の影響を最小限にとどめる大局観にこそ、旭海莉の非凡さが垣間見えるにせよ、『特別な何か』を授けられた──ギフテッドには、決して分類されないタイプのプレイヤーだ。
(それでも……)
数巡の探り合いの後旭は、上背を活かして強打を叩き込み、浮いたシャトルをクロスに沈める。
21-18。
「ねえ、旭」
「なに?」
決勝トーナメント会場のオーデンセに向かうバスの中。
ロスキレを出た時から、二人一団から離れた位置に座っていた。
唯華がそれを咎めなかったのは、今日のことが、二人にとってとても特別なことだと、ちゃんと理解してくれているから。
暗闇をすれ違っていく車のヘッドライトをぼんやりと眺めながら、海莉は首の骨を鳴らす。
声をかけて来たのだから、何か言いたいことがあるのだろう。
「いや、……今日、がんばってたな」
負けたわけでもないのに慰めるような泪の口調に、旭は思わず吹き出してしまった。
「なあに、それ」
私はいつだって頑張ってるよ、と言いたいところだが、そんなことはもう、流石にこいつも分かっているだろう。
「ありがと」
「うん」
素直に顔を見れない悔しさが、心の中に募る。
自分と違ってシングルスも出場していたパートナーの試合を、ずっと、負けてしまえばいいのに──と思って見ていたから。
「……応援してた? 私のこと」
「はぁ?」
当たり前だろ、と泪は呆れたように言う。
ま、でも──わかってたんだろうな。
『外』にいるときはずうっと、私がそういう目で、泪を見ていたことを。
「泪、ごめんね」
「な──なに、急に」
「……なんでも」
こんなに、しんどかったんだ。
予選突破も決まって、試合の勝ち負けも決まっていて、それなのに。
唯華のためでもあったけど、『負けられない』って思って試合をするのが、こんなに大変だったなんて。
負けてしまえばいい、と泪に言ったことはなかった。
でも、心の中ではずっとずっと、そう望んでいて。
「ねえ、泪は──」
「ん?」
「──『負けたかった』の?」
昨日今日の事を言っているのではない、と泪もすぐに気付く。
それは、二人が心を少しだけ重ねた日の言葉と同じだった。
周囲の期待も勿論あるけれど、負けるたびに傷ついていったのは、原始の『益子泪』そのもの。
羽咲との試合は、そうじゃなかったかもしれないけど。
「今は、ちがうよ」
「……」
一人ぼっちの『益子泪』は、羽咲に壊してもらえた。
私がそれを出来なかったのは、バドミントンが下手だったからじゃない。
知らなかったんだ。
泪がいつも、どんな気持ちでコートに立っていたのかを。
「あのさ……」
「?」
「私、少しは上手くなった? バドミントン」
「ん~……」
難しげな益子の唸りに、そこで初めて、私は彼女の方を振り返った。
「……ま、あと四年は組もうや」
オーデンセに到着したのは、随分夜も遅い時間帯だった。
いつものミーティングはとりあえず翌朝、ということになり、望たちはそれぞれに割り当てられた部屋へと散らばる。
三人部屋がひとつに、二人部屋が三つ。
今度ばかりはと強い要求を出した益子と、旭は同部屋になった。
そうなるとバリエーションも限られてしまい、結局は逗子総合で合宿をしていた時と同じ部屋割りになる。
つまり、望は志波姫と同室だ。
備え付けのシャワーから彼女が出てくると、志波姫はベッドの上で柔軟体操をしていた。
「──ねぇ、志波姫」
「……」
聞こえていないはずはない。
言葉の分からないテレビなど付けてはいないし、彼女は益子のようにイヤホンと旭だけが友達というわけではないのだから。
「……志波姫?」
まだ、返事はなかった。
開いた脚の間に、年相応に薄い胸をぐっと沈めて、志波姫はそのまま動かないでいる。
「──唯華」
ふっ、と笑い声が漏れた。
「あははは……ごめんごめん、望。なに?」
名前で呼ぶことがそれほど重要なのかと思いながらも、望はさっきまで頭の中に作り上げていた質問を探し出す。
「あのさ、ラインって──」
「あ、教えてなかったっけ?」
そっちじゃないよ、と望は自分の領土であるベッドに腰を下ろし、敷布団の上に畳まれていた、薄いタオルケットを肩に被った。
スマートフォンを手にきょとんとした顔の志波姫に、はぐらかされているのではないかと望は不安になったが、またいつものいたずらっぽい笑顔で隣に座ってくる彼女を見て、望も少し、心が解れる。
「ライン出し、だよね」
「ん~……ああ、綾乃ちゃんの試合のこと?」
望が頷くと、志波姫は身振り手振りを交えつつ、その中身を教えてくれた。
要約するならば、『相手の守備範囲と、自分がコントロールできる攻撃範囲の差』──だと、志波姫は説く。
通常なら、その二つの領域に大きな差は出ない。
望や志波姫のように、抜群の強打を持っているわけでもないならば、猶更だ。
だからこそ彼女たちは苦心して、相手の重心の逆を突いたり、前後に振り回したりして、その差分領域を可能な限り拡げていく。
今回の代表では最も背の低い羽咲は、誰よりも『速く打ち返す』ことが出来るという長所で、その不利を補っている。
しかし、望たちよりもずっとアジリティは高いにしても、打球速度そのものは速くないから、そう簡単に相手を『抜く』ことはできない。
今日見ていたあの試合で──もっと言えば、彼女が試合をしている時はいつも──、羽咲はテクニックとスピードによって絞り出した、その『ライン』にキッチリとシャトルを届けることで、ラリーの中の優位を掴んでいったのだ。
「……フムン」
簪が抜かれて長く垂れた髪を解きほぐしながら、望は羽咲のプレイを反芻し、また、部活引退後に倉石と共に練習した『ライン出し』の記憶も引っ張り出して、志波姫の説明を理解しようと試みる。
「志波姫も、そういうこと考えて試合してる?」
「ん、いや……私は、絶対ポイント欲しい時だけ、かな」
試合の中で『落とせない』場面。
全てがそうだとも言えるが、例えば志波姫が勝つのに苦労する相手──益子泪と対戦するときなどは、彼女の体調やモチベーションを見極めながら試合の序盤をゆったりとこなし、リスクを追わずに極限までミスを避けて少しずつ優位を稼ぐ。
そうして、あと一点突き放せば益子が『折れる』、という瞬間に、リスクを背負って『ライン』にシャトルを打ち込んでいくのだという。
『絶対に欲しい』時にこそリスクを冒す、というのは、望にはなんだか矛盾しているようにも思えたが、流石の志波姫も、益子相手に『順当』に戦っていては勝てないのだろう。
「でも、それって……相手の力を把握しないと」
「そりゃね。だから序盤はやっぱ見るし、相手に先行されることがほとんど」
私は『後半に強い』んじゃなくて、『前半に弱い』んだよ、と笑ってみせる志波姫。
そこで慌てずにいられる、確固たる自信が彼女の強さの一端でもある。
「……私も?」
「もちろん」
今の時代、そこそこの有名校になれば、家庭用ビデオでその戦いぶりを撮影し、動画サイトに投稿する物好きは居るものだ。
望だって、昨年のインターハイの荒垣の試合を、そうした『有志』の映像で見ていた。
それでなくても、そもそも逗子総合はフレゼリシア女子と当たる前、既に団体一回戦を戦っている。
正体までは掴めなかったにしても、羽咲の『五つ目のクロスファイア』の存在に気付いた志波姫なら、『逗子総合の石澤』の実力を正確に把握することなど容易かっただろう。
「ま、だから二セット目はもっと、十本ぐらいで勝てると思ってたよ。ぜんぜん粘られた」
「あはは……」
望は、数か月たった今も、その試合をよく覚えている。
第二セットで彼女が頼ったのは、倉石に押し付けられただけのはずだった、各種の『パターン』。
ただそれをなぞっていっただけなのに、どうしてか志波姫を圧す場面もあって──。
「なんか、益子には『組み立てがクソ』って言われたけど……」
志波姫は肩を竦めて笑った後、泪はホント口悪いなぁ、とあきれて言う。
「言い方は間違ってるかもしれないけど、確かに、『強い人のやるラリー』じゃなかったかな」
「あぁ……」
そりゃそうだ、と望は頷く。
私は決して『強い人』じゃないのだから。
自分のやりたいバドミントンで戦った第一セットは、志波姫の『様子見』にさえ全く歯が立たなかった。
前への落とし──望が唯一、人より上手だったものが、通用しない。
倉石が何も言わず、見守っていてくれていただけに余計に、望は悔しさと焦りを強めてしまう。
序盤から点差の開き具合はともかく、基本的に先手で試合を進められていたのだから、一セット目のインターバルで彼に頼ることも出来たのに。
そうしなかったのは、自分の弱さだ。
「最初から、ああいう攻め方で行ってたら?」
「まあ読むよね。望の点数が逆になって、ちょっと増えるぐらいだと思うよ」
「あぁ、そっか……」
と、急に志波姫は望の手を握り、ごめん、と言った。
「えっ?」
「今キツイ事言ったと思う。──私、バドミントンのとき、こうなっちゃう」
ぽつぽつと呟くような、たどたどしい口調。
つい昨日の夜、見た表情だ。
「ああ、いいよ全然。気にしてない」
もちろん望にだって、今の言葉は多少『刺さる』部分もあったのだが、そこに動揺したというよりもむしろ、急に手をぎゅっと握られたことの方がよほど、彼女の心拍を速めていた。
インターハイで全国制覇を遂げた学校のキャプテンなのだ、彼女は。
フレゼリシア女子の監督は倉石と違い、服が赤ければサンタクロースと間違えそうな優しいおじいちゃんだった。
彼がどんな指導をして、志波姫を始めとしたあのメンバーを成長させてきたのかは知らないが、たぶん『うちの』よりは自主性に任せる部分が大きいだろうな、と望は考えている。
そうした中で、キャプテンは常に先頭に立たなければならない。
望はどちらかと言えば、『立たされている』ような感覚もあった。
そういうところが、鉄火場での弱さに繋がっているのかもしれない。
「私ってやっぱ、人の気持ち考えるの下手なのかな」
「え?」
志波姫の疑問は、望には全く腑に落ちなかった。
短い付き合いではあるけれども、彼女ほど周囲に気を配れる人は、少なくとも同世代でこれほどバドミントンが上手い人の中では知らない。
そんな、慰めているのか何なのかよくわからないことを望は言ってみたが、志波姫はどうもそう言うつもりで発言したわけではなさそうだった。
「気持ちを考えるのと、気を配るのは、ちがうもん」
「……まぁ、うん」
泣き出しそうなほどではないが、眉尻を下げている志波姫の手を、望は強く握り返すしかなかった。
それはそれで、彼女の術中に嵌まっているような気がしなくもなかったが、まあそれでも、今日のところはいいかなと望が予想したとおりに、志波姫はがっつくでもなく、また回避する時間を与えない絶妙なテンポで彼女を押し倒し、器用に掛布団とタオルケットを操って、二人分の暖を取るに充分な体勢を築き上げる。
「……もう」
「ふふ──望は優しいね。私のまわり、優しい人ばっかりだ」
胸元に絡む、志波姫の甘ったるい鼻息をいなしつつ、望は彼女の首元に腕を回して抱いたまま考える。
もっとも志波姫の動きは、やたら擦り付けるようにして、本格的に事に及ぼうという意図を見せるほどではないにしても、本来なら『危機的状況』と言っても差し支えないような状態だ。
そんな中でも冷静に回転を続けてくれている頭脳に、望は感謝しつつもまた、ここのところ世話になっているデンマークの食事が美味しいうえに、日本では──などという表現を頭の中に浮かべるごとに、彼女はつい顔がにやけてしまう──毎日のルーティンだった早朝のランニングも、こちらに来てからは行っていないものだから、神経が図太くなるのはいいにしても、体重もまた増えてしまっているのではないかという心配してもいる。
(みんな、大変なんだなぁ……)
望が三年間苦しんだのは、自分との戦いがほとんどだった。
意識的に他人を遠ざけるようなことはなかったが、必要以上に深く関わることもなく、望は『逗子総合のエース』であるために足りないものを、ずっと追いかけていた。
志波姫に比べれば、背負っていた荷物は軽かったに違いない。
思考の合間に、彼女の動きが徐々に弱まってきて、まさかこのまま息絶えるわけではないだろうが、今日のところは抱いたまま寝てもいいかと思ってきたころに、望はふと、先ほどの志波姫の話を反芻する。
(ライン出し……相手の守備範囲と、こっちの攻撃範囲の差──)
言葉にすれば簡単な話だ。
ポイントを奪うための『原理』と言ってもいい。
そこにさえ打っておけば、相手は有効なリターンを打てないのだから。
望だって、狙ったところにシャトルを打ち込む技術には長けている方だ。
志波姫の目論見を潰し、ゲームをひっくり返せはしないまでも、慌てさせるには十分なほど。
(──でも、どうやって『そこ』を見極める?)
いくらプレイスメントに秀でていても、狙うべき『的』がわからないのではどうしようもない。
望はどちらかと言えば、相手が触れないエースショットの割合が多いプレイヤーではあった。
上背がないわりに伸びのあるドライブに、時折抜群のキレを誇るカットを挟んでいけば、例えば神奈川の準決勝では、荒垣を完全に翻弄できていた。
大柄な体格はウイングスパンの広さという長所を与えてくれるが、同時にウェイトの重さと言う短所も押し付けてくる。
それでも足を使って拾い回ることのできる荒垣を相手にしてなお、望はエースを奪ってみせた。
しかし、彼女よりもっと『拾える』プレイヤー、例えばコニー・クリステンセンや津幡路のような強敵を相手にその優位を保てるかと言えば、望にはそこまでの自信はない。
倉石から教わってきた各種のラリーパターンが、あるいはその助けをしてくれるのかもしれないが、彼が自分で言っていた通り、あれは全部『自分が風上に立つ』ためのものだ。
相手がその上を行くプレイを発揮してきたら、通用しなくなる。
パターンのすべてを倍速でこなせるようになれば、別なのだろうが。
(そりゃ無理だよな……身長も、これからはそんなに伸びないだろうし。打球速度を高めるのには限界がある)
そもそも、それが通用しなかったから、パターンの色々を倉石に教わったのだ。
じゃあそれ以外の『スピード』はどうだろう、と望は考えを一歩進める。
(狼森とか、羽咲とか……そういう速さは、私にはないな)
これから先、モノにできる『長所』でもなさそうだ。
羽咲のプレイスタイルから着想を得たクイックモーションにしても、それ自体が付け焼刃である以前に、常用するようなショットではない。
ずっとあのペースで打っていればミスも増えるし、それは望が自分の進化系と信じてやまない『志波姫唯華』とは真逆だ。
だいたいそれでは、クイックの意味がない。
(要所要所で使っていくのはいい、けど……いや、やっぱり志波姫みたいに『絶対取るところ』で、ギアを上げていくのがいいのかな)
もちろん、相手にサービスオーバーをくれてやったならば、『一本』と気合を入れて取り返そうとするのは望にとっても当たり前のことだった。
それをもっと、一試合の中での大きな『波』を制御していくことができればいい。
(そうなるとやっぱ、旭が上手いんだよなぁ……)
志波姫の言った『もしもを追いかける』ではないが、望も少しの間だけ、『もしも』の未来を考える。
今にして思えば、京都や名古屋はともかくとして、宇都宮学院に進学してみたかったし、フレゼリシア女子にだって入ってみたかった。
もちろんそれは、『益子泪』と『旭海莉』が宇都宮学院に居るというのが分かっている今だからこそ浮かんだ憧憬であるし、来るもの拒まずのフレゼリシア女子とはいっても、特待扱いもなく当たり前に学費や寮費を負担してもらう両親の事を考えれば、仮にずっと昔から志波姫と親交があって、一緒にやろうと誘われていたとしても望は、二の足を踏んだに違いない。
特待生として扱ってくれて、身の丈に少しだけ合っていないぐらいの逗子総合が、いちばんいい選択だったのだろう──倉石と言う良き指導者にも巡り合えたことだし。
と、そういうふうに彼女は理解している。
それに、自分なりに頑張ってきた結果の『今』を捨てるのも忍びないのだ。
(……どっちかと言えば、志波姫よりも神藤コーチとか、松川さんに訊く方がいいかも)
彼女たちの方が、よほど経験は積んでいる。
何と言っても、『日本代表』の先輩なのだから。
「いや、ここまで来るかね、しかし……」
そう言って、度数の低いビールを呷る有千夏を見て、明美は少しはにかんだ。
今回の大会の記事を乗せてもらう予定の出版社にメールを送ってから、彼女はノートパソコンを閉じる。
「よくやってるよ。あの子たちも、有千夏もね」
「はは……」
壁に向かった長いデスクの脇には、ここまでの全グループの予選の結果がプリントアウトされた紙束が置いてあった。
有千夏はそれを拾い上げて、首の骨を鳴らしながらぼんやりと眺める。
「あの子、勝ったのか」
「コニーちゃん? 負けるような相手なんて……」
と、明美はあるマレーシア人の選手に思い当たる。
ミナチ=イスマイール。
法令で決まっているわけではないが、バドミントンを『国技』とするかの国でも、世代での傑出度は益子やクリステンセンに匹敵するプレイヤー。
歴史的な事情から多種多様な遺伝子が混ざり合う国民の中で、『純マレーシア風』の顔立ちは彼女の人気に拍車をかけている。
「でも、一回戦からタイか……辛いね、あっちは」
「そうだね」
予選に振り分けられた国を見れば、オランダとアメリカ、本来は日本の代わりに参戦するはずだったインドネシアと中国、マレーシアとデンマークなど、強国同士の『潰し合い』が組まれているはずだった。
ただし、タイの入ったDポットには、めぼしい強敵はいない。
スウェーデンは北欧のよしみで枠を貰っているようなものだし、そもそも経験の浅いベトナムと、発祥国とは言えぱっとしないイギリスでは、東南アジアで確たる地位を保持しているタイを脅かすには力不足だ。
事実、予選のスコアは圧倒もいいところで、一つの負けも喰らわずにパーフェクトでの決勝トーナメント進出を決めている。
タイトな大会日程の中で、移動も考慮して明日は全チームが休みとなっているものの、予選の蓄積疲労が一番軽いことは間違いない。
「明日、公式練習だけど……」
「ああ──倉石さんも気にしてた」
決勝トーナメントからは、国際大会でも使用されるオーデンセのメイン会場を使用する。
日本の学生大会とは比べ物にならないぐらい設備は整っているし、ホークアイシステムも無論あるから、『チャレンジ』もOKだ。
「試合で使えるかな?」
「さぁ……日本の子供は基本、『審判は絶対』だからね。私も使ったことないけど」
そりゃそうだ、と明美は笑う。
自分たちが現役の頃に、そんなテクノロジーは存在しなかったのだから。
今ならば中学生でもスマホを持っているのが当たり前だが、有千夏や明美がジュニアの頃は、電卓のようなボタンが付いた『携帯電話』が主流で、それさえ子供が持っているのは珍しいものだった。
今はSNSだって身近なもので、衛星放送で見たらしく、この大会についてコメントをしている人も多くいる。
「まあ、今は全日本総合だって使ってるんだ。チャレンジを上手く使う練習も、ジュニアの世代から必要になってくると思うよ」
有千夏の言葉に、明美はうんと頷いて、自分のぶんの缶ビールを開けた。
当然だが、チャレンジを申告して結果が出るまでは、プレイは中断される。
その時間を有効に使えれば、判定が覆った時の『仕切り直し』もスムーズにいくだろうし、荒れた呼吸を整え、ダブルスならばパートナーと意思の疎通を確認するのにも好都合だ。
「荒垣が言ってきたよ」
「え?」
廊下を歩きながら、立花はそう言葉を発した倉石の横顔を見た。
周囲の部屋から話し声が聞こえないのは、壁が厚いからだけではないだろう。
楽勝とは言わないまでも盤石の予選突破を決めたが、三日連続で慣れない時間帯の試合をこなした選手たちには、それなりの疲労が蓄積しているはずだ。
「一回戦と、決勝に出る──とな」
「決勝……」
つまり彼女は、自分抜きでデンマークと戦うことを了承したのだ。
もちろん向こうも一回戦を戦わなければならないが、その相手はアメリカ。
言うまでもなく世界をリードする超大国であるが、ことバドミントンにおいては、存在感は極めて小さい。
コニー・クリステンセンを筆頭に、テクニックとフィジカルを兼ね備えたスーパージュニアが居並ぶデンマークが、特にバドミントンが人気でもない国に不覚をとることはない。
「荒垣はベトナム戦、シングルス1に出す。それでいいか?」
「はい」
日本とベトナムを天秤にかけても、同じようなものだ。
ひとつふたつ上の世代なら軽く喰ってしまえる逸材は、なにも『三強』だけではないのだから。
「デンマーク戦、どうなりますかね」
怪我をしてからどうも、後ろ向きな思考になりがちだと自覚している立花だが、今抱えている心配事は、全く倉石と共有できるものだ。
「フムン……少し整理したい。付き合ってくれ」
そう言いながら、たっぷりと缶ビールを詰め込んだビニール袋を倉石は掲げた。
やけに多く買い込んだな、とは思っていたが──と立花は頷く。
「単純に立花君の、今までの『感想』はどうだ?」
「ん──そりゃ……」
羽咲はともかく、荒垣については『出来過ぎ』と言ってもよかった。
予選一試合目のシングルス1、張蒼華との試合。
序盤こそ競り合いになり、多少慌てるところもあったが、第二セットからはしっかりと地に足を付けて戦えていた。
ロシア戦を休んで、最後のポルトガル戦も、相手がそれほどでもなかったにしろ、初めて組む石澤とのコンビもどうにか合わせていって、総括すればきちんと実力を発揮できている、という印象だ。
「アイツに関しては俺も同感だ。プレイヤーとしてのスケールには、すごく夢があるな」
「ええ、まあ」
そういう、『力のぶつけ合い』──ここで言う力とは、物理的なものだけを指すのではない──をして、観るものを楽しませてくれる。
その点では狼森もなかなかワクワクさせてくれる選手ではあるが、見た目にわかりやすいのはやはりあの豪快なスマッシュだ。
もう少しだけクレバーさも持ち合わせてくれれば、より彼女の『スケール』に見合った舞台が頻繁に訪れるようになることだろう。
「チーム全体としては?」
「……『場慣れ』していると感じたのはやっぱり、益子と志波姫ですかね」
うん、と倉石も頷き、一本目の缶ビールを空にした。
「まあ確かにウチの石澤は、そういう意味では『場慣れ』はしてないな」
苦笑しつつも彼は、早くも二本目に手を伸ばす。
度数も低いものだし、明日はせっかくのオフだから、少々の深酒も許容範囲と言うことなのだろう。
益子、志波姫の二人と、それ以外の選手に関して、基礎となる技術においては、そこまで大きな差はない。
もちろん異常なほどミスが少ない志波姫だとか、一瞬の閃きを野生的に表現してみせる益子のセンスには、倉石達でさえ舌を巻くほどの驚きを感じさせることも多いのだが、むしろそうしたことよりも、『試合運び』をきちんと出来るか否か、というところに違いがあった。
「そういう意味では、豊橋は上手く羽咲を引っ張っていたと思います」
「だな。ペアのフォローアップは抜群に上手い。今だけでなくこの先も、誰と組んでもやれるだろう」
むずがる羽咲を宥めつつ、最後まで制御しきった豊橋の試合運びは、予選を勝ち抜く上で絶対に必要な『勢い』を最初の一試合で生んでくれた。
自分だって緊張しているだろうし、羽咲と組むのは初めてだったにも関わらず、だ。
長いラリーに相手を引きずり込むのが得意な豊橋だからこそ、味方に付ければ献身的にパートナーを支えてくれる。
「旭はまた少し違うな。あいつは包容力もありながら、ムチを入れるのが上手い」
全日本ジュニアの優勝者ともなれば、青天井の自信家か、世間知らずでもない限り、多少は気後れするものだ。
旭はそのどちらでもないが、それにしては実にバランスよく『益子泪』を操縦している。
「ストライカーと司令塔だな」
サッカーに例えて、倉石は二人の関係性を評した。
絶妙なパスを供給してやらなければ、フォワードがいくら走り込もうとも、いたずらに体力を消耗させるだけだ。
おまけにそいつは大概な気分屋と来ているから、パスを出す方も気苦労が多い。
旭がその身長も相まって、線の細い身体つきをしているのは、別に矢板監督がそれほどウェイトトレーニングに注力していないだけではないだろう。
『教え子』の方は、器具を使うのはほどほどにさせているが、自重を活かしたトレーニングは欠かさず行っているし、倉石から見ても──本人の前では言わないが──入学当初の細っこい体格からすれば、脚も『ちゃんと』太くなってきていた。
「パワーはついている。あくまでも『そこそこ』だがな」
「ええ……」
ウェイトマシンは逗子総合にだってあるし、教え子をそこに半年ぐらい閉じ込めておけばそれこそ荒垣のようなスマッシュが打てるようになっていたかもしれないが、それは倉石の指導方針とは全く異なるものだし、望にとっても、別に荒垣のようになりたいわけではなく、荒垣に『勝つ』ためのプロセスとして、強打で負けたくない、上回りたい、というのが本当のところだった。
何よりそんなことをしてしまえば、彼女の関節は柔軟性を失い、また増えた荷重によって故障のリスクも増大する。
荒垣が下半身の鍛錬を怠っていたわけでは決してないが、事実として『壊れた』のだ。
「久御山は──」
「うむ……ちょっと質が違う。石澤よりもずっと具体的に『志波姫』に近づこうとしている──益子や津幡に対してもそうだろう」
憧憬ではなく、いかほどの距離かは知らないが、射程に捉えているのだ──『三強』を。
基礎技術は極めて高いレベルにあるし、それを一試合通じて発揮することが出来る。
自動車レースに例えれば、タイヤやマシンの状態がどうであれ、安定してラップタイムを刻むことが出来る選手、と言う印象を倉石達は抱いている。
しかしコーチ陣が最も感じているのは、コートの内外で全く人柄が変わってしまう、という点だ。
悪いことではない。
最近は出ていないが、益子泪が昔見せていた『多重人格』とは意味合いが違うし、羽咲に比べればその振幅はずっと穏やかなものだ。
決して『悪人』になるわけではないし、狼森ほど切羽詰まった感じは持たせない。
それが彼女なりの、コート外も含めた試合運びなのだろうし、技術に加えてこうした世界大会でさえも序盤から順応し、『アウトラップで立ち遅れない』強さがある。
フロックで第三シードに入ったわけではない、というのは、立花も一目見て理解した。
神藤達『日本代表』の先輩から見ても、主役を張るほどの傑出度はないにしても、必ずどこかしらに『出番』を貰えるプレイヤーだという。
「だが、『一発の速さ』はどうかな……コースレコードは作れないタイプだと、俺は思うよ」
例えばノーシードから勝ち上がって、あれよあれよという間に表彰台に上ってしまうような選手ではない。
倉石は、そういう意味ではよほど狼森の方が『爆発力』はある、と見ている。
おそらく中国代表でエース格だった劉知栞から二十六本も奪って、てんてこ舞いさせたほどに。
だがその試合も結局は敗れた。
狼森あかねに必要なのは『結果』だ──。
志波姫唯華を追いかけることで成長してきたのは事実だが、これからはそうではなく、『自分の形』を見据えていくために、自分を信じることができる勲章を、彼女に与えなければならない。
「……苦労するな」
「?」
「いや、実はな。俺は少し逗子総合で、特待で獲る選手を増やそうと思っていたんだ。だが正直見きれん、この九人でさえ──」
「……わかります」
彼に比べて飲むペースは遅いが、立花もようやく一本目を空ける。
少しばかり、辛味の利いたつまみがあればなお進むのだが、やたらに大ぶりなチョリソーを腹に入れるには時間も遅すぎて、デンマークでちょうどよいものを見つけるのは難しかった。
ともあれ、倉石の苦悩は立花にもわかる。
年齢もそうだが、コーチとしても遥かに若輩者の彼は、男女合わせて十人にも満たない部を見渡すにも苦労していた。
逗子総合はそこまでの大所帯ではないが、それでも多彩な才能が体育館いっぱいに広がり練習をこなしている中で、それぞれに的確な、そして濃密な指導を送る倉石に対しては、有り体に言って尊敬する部分が大きい。
夏のインターハイ、立花は選手と同じぐらい、その指導者にも注目していた。
例えばフレゼリシア女子や、加賀雪嶺にしてもそうだが、インターバルごとにどんな言葉を選手と交わし、彼女たちのポテンシャルを引き出していたのか。
自分は結局、最後の最後で『止める』しか出来なかった。
それが──そのタイミングも、もっと言えば止めること自体──正しかったのかどうかさえ、今でも確信は掴めていないし、もちろん荒垣は『感謝している』とは言ってくれたが、まだ『選手』を上書きしきれていないと自覚する一端にもなった。
それを感じ取ったからこそ、倉石もあのような事を言ったのだろう。
「頼りないな、俺達は」
「いや、そんな……」
倉石の自嘲にあわてて立花は否定を入れるが、その後の彼の言葉には、頷くしかなかった。
「志波姫が居てくれて、助かってるよ。本当に」
生まれも育ちも違って、その実力も絶対値はともかく、得手不得手はバラバラな選手たちを短期間でまとめるのに、彼女ほどふさわしい人物はいない。
年相応にお調子者の一面も、あえてそうしているかと思うほど、真面目な時の志波姫の言葉は、同世代の選手たちに澱みなく浸透していく。
もちろん彼女だけでなく益子も、言葉は拙いがその『戦い方』で、大いにメンバーを引っ張ってくれている。
時として言葉にする方が残酷なこともあるし、本質が覆い隠されてしまうこともある。
それでもきちんと距離を近づけて、誰とでも鍔迫り合いに持ち込むことが出来るのは、倉石達にとっては、バドミントンの実力も当然ながら、志波姫がいることの効果は大きい。
「泪、電気消すよ?」
「お~ん」
眠そうな返事のあと、泪はだるそうに起き上がって、手にしていたスマートフォンを卓上の充電ケーブルに繋いだ。
それからまた元のベッドに戻り、布団をかぶって──つまり、寝床を間違えている相方の尻を、海莉はあきれ顔ではたいてから、ため息をつく。
「いてっ」
「……なに、一緒に寝るの?」
「ダメ?」
相変わらず寂しげな顔が上手いものだと、旭はもう一度、今度はより大きくため息をついた。
「もっと寄せて」
「ん~?」
別に泪のことは嫌いじゃない──むしろ、ちょっと早めに咲いた金木犀ぐらい好きだ──が、単純に体積の大きい物体が同じベッドに存在していることで、自由気ままな寝相を妨げられるのは億劫だ。
おかげで布団の被りが薄くなって寒いのはお互い様だが、間違っても風邪を引いては困ると思い、海莉は使っていないもう一方のベッド──何故かメイキングは乱されている。アリバイ作りのためか?──から毛布を引き抜いた。
「ほら」
「お、あったかい」
まるでミノムシか何かのように毛布にくるまって、泪はできるだけベッドの隅の方に体を寄せた。
「……ったく」
海莉にとっても、いくら壁が厚かろうと、デンマークに来てまで石膏像を泪と取り違える気はない。
だいたい泪にしても自分にしても、そんなに声は出さないし──ではなくて、もう二度と、そんなつもりはなかった。
どこの誰が叩き壊したのか知らないが、ここのところまるで、出て来ていないのだから。
「──泪」
「ん……?」
返事なのか、鼻を鳴らしただけなのかわからず、海莉はそのまま黙りこんでしまった。
(……志波姫とダブルス、楽しかった?──なんて……)
まあそれ以外にもいろいろ言いたいことはあるけれど、どれも無粋だ。
それに、答えを聞くのも怖い。
「旭?」
どうやらさっきのは、返事だったらしい。
ただ、海莉の方も今改めて言葉にしようとすると、どうしても声が震えそうで。
「……旭」
ミノムシから手が伸びてきて、旭の心臓のあたりに収まる。
「っ、ちょっと……」
まさぐるわけではないが、少しだけ敏感なところに触れた。
そういうのじゃない、と言わんばかりに泪は手を引っ込めて、もう一度強く海莉を呼んだ。
「旭、ねぇ──決勝戦、頑張ろうよ」
最初、聞き間違いだと思った。
でも泪は確かに、『決勝戦』と言ったんだと気付く。
「……決勝? なんで?」
「絶対そこまで連れてく。だから待ってて」
まだ、明後日からのオーダーも聞かされていないのに。
泪には分かっているのだろう。
ベトナム戦はともかく、デンマークに勝つには──そのことにどれほどの意味があるのか、海莉には理解できなかったが──、自分がシングルスで出場して、あちらの『三強』の誰かを打ち破らねばならない、と。
「泪──それが、あんたの『答え』?」
「そう」
どこかでそう思ったんだ。
今日の試合で?──じゃない。
泪はずっと昔、初めて彼女出会った頃のことを思い出す。
田舎の部活の寮に押し込まれて──それ自体は、別に納得していたけど──、まあ控えめに言ったって『へたっぴ』しかいなかった。
こいつもそんな中の一人だったはずなのに。
今日の試合中、『唯華に頼れない』と思った自分がいた。
なんだかんだあった中でもずっと、友達として接してくれた彼女だからこそ、頼っちゃいけないと、そう感じたのかもしれない。
そこにいるのが旭じゃなかったからかもしれないけれど、なんだか『ダブルス』じゃない気がした。
少しだけ鼓動が速くなっている海莉の心臓に、改めて泪は手を置いた。
こいつ、いつも勘違いしがち。
「──私の『答え』だよ。旭と組んで、世界一になる」
「……うん」