「これチケットな。新逗子から一本で行けるから、迷うことはないだろう」
「はい」
羽田発宮崎行きの飛行機のチケットを受け取り、望はそれをカバンにしまい込む。
「一人旅なんて初めてか?」
「ええ、まあ……」
大会要項をよくよく呼んでみると、キアケゴー氏の考えが随所に滲んでいる。
夕食会の会場であるホテルに招待されるのは選手のみで、指導者は招待されていない。
理由は二つあるだろう。
単純に、プレイヤーではない人間を招待するコストが出せない。
オリンピックを制し、ヨーロッパ各国、先日日本にもアカデミーを開設したキアケゴー氏ではあるが、その運営にかかる費用の多くは、キアケゴー氏個人の著作やメディア出演、コーチング料などの収入から持ち出しだ。
順調に回り始めればアカデミーの入会費やレッスン料で収入は上がるだろうが、コーチの人件費も考えればそうそう儲かるとは思えない。
もう一つは、このタイミングでいったん、選手をこれまでの指導者から切り離す必要がある、ということ。
これも考えてみれば当然だ。
大学にしろ実業団にしろ、新たな指導者の下で選手は戦うことになる。
そのフィッティングに時間がかかっているようでは、『二年後』には到底間に合わない。
求められるのは選手個人の自律能力だ。
二日間で七試合という、多くの大会に比べてやや甘いスケジュールになっているのも、ペース配分や、戦術を自分でしっかり考えて試合に臨ませるためだろう。
スペースの問題もあろうが、この大会のコートに『コーチの席』は用意されていないのだ。
取材関係者を除き、一般の観客や引率の教員、監督たちはみな二階に案内されることになる。
「まあ、行っても俺からは全く指示を出せないからな……ノート持ってるか?」
「え? はい」
ラケットバッグの横のポケットから、石澤は萎びたノートを取り出す。
「もう一冊持っていけ。こっちは白紙だ。少しずつ、埋めていけ」
「ありがとうございます……」
同じデザインのノートを二つ。新品という割には、少し色あせた表紙の方を上に重ねて、望はそれを再びバッグのポケットにしまった。
「まあその、あれだ。思い切りやってこい。お前自身のバドミントンで」
「はいっ!」
始発駅から乗車して、三十分ほどたっただろうか。
空港直通の急行列車が、横浜駅に滑り込む。
ドアが開くと、見知った顔がいた。
「あ、石澤!」
「シゲ」
手を振るのもそこそこに、重盛はプラットホームを振り返り、ガッツポーズを作った。
「行ってきます」
相手は、横浜翔栄の木叢監督。
望の姿を認めると、目を細めてにっこりと笑い、軽く頭を下げる。
応じた望が再び顔を上げると、ドアは閉まりかかっていた。
平日だが、夕方五時少し前の時間帯では、電車内もまだまだ余裕がある。
重盛は、背中の大きなバッグを膝元に降ろし、座っている望と向き合った。
「いよいよだね」
「そうね。ちょっと緊張する」
重盛の方は、そうでもなさそうな表情だ。
正直に言えば、望や重盛よりも格上の選手がほとんどの大会に出るというのに、気後れはしないらしい。
望の方は、飛行機に乗る自体初めてだったから、そのぶんの緊張もあるのかもしれない。
家族旅行といえばほとんど車で、インターハイの移動も新幹線だった。
空港、というものを望は生まれて初めて、まじまじと眺めた。
ひたすらに大きく、広い。
見上げても朧げな、遥か高空をゆくそれらが、地上でのそのそと動いているのを見るのは、すこし可笑しく思えた。
国際線のメインは成田だが、羽田にも海外へ行く路線があることぐらいは、望も知っている。
世界ランク一位、ワンのいる中国。コニーの故郷デンマーク。
それらと渡り合った荒垣や羽咲は、いずれ大人になったら世界へ行くのだろう。
『……私は、どこへ行くのかな』
チケットには宮崎と書いてある。
そうではなく、『二年後』、またはもっと先の自分は、一体どこにいる?
機内は冷えると聞いていたから、スカートはやめておいてよかった。
それよりも、飛行機のトイレにまでウォシュレットがついているとは驚きだ。
白いチノを引上げ、履き直す。
鏡を見て、金属探知機にひっかかった簪を挿し直し、望はトイレを出て自分の席に戻る。
アテンダントに促され、シートベルトを締めると、それを待っていたかのように飛行機は動き出した。
「私待ちだった?」
「どうだろう……石澤って結構マイペースだよね」
二人顔を見合わせ、重盛と望は笑う。
窓際に座った重盛の向こうに、東京湾岸の夜景が少しだけ見えた。
やがて飛行機は向きを変え、窓には一列に並んだライトが映る。
「飛ぶね」
「シゲ、乗ったことあるの?」
「何回かね。旅行で」
「ふーん」
ずしん、と振動が腹に響いた。
煌々と明るいターミナルビルが、後ろへぐんぐん流れて行く。
やがて飛行機は地上を離れ、振動と轟音が遠くなる。
左、右と向きを変えていくうち、地上と夜空が交互に見えた。
幾度かそれを繰り返し、星が少しだけ大きく見えるような高度に達すると、体がふっと浮くような感覚。
ベルトサインが消え、チャイムが鳴る。
「トイレ行ってくる」
「あ、うん」
膝をすぼめて、重盛の通るスペースを作り、望は何も映らない窓を眺めた。
と、何か放送している。
「──……定刻通りに東京国際空港を出発いたしました。機長は荒垣、副操縦士は小松。現地天候は晴れ、飛行時間は一時間四十五分を予定して……──」
慣れない重力の変化か、ラケットバッグのほかに、三日分の着替えを詰め込んだキャリーバッグを持っての電車移動の疲れか。
望はすこし微睡を感じていた。
重盛が戻ってきたら、少し眠ろう。
寝汗を掻かないように、望はライダースジャケットのジッパーを少し緩めた。
「ああ、あそこねぇ」
空港を出てタクシーに乗り込んだ頃には、夜九時を回りかけていた。
普通なら、未成年の少女二人が大きな荷物を抱えて、こんな田舎のタクシーを捕まえれば、運転手の方は訝しむところだろう。
「今日は、お嬢ちゃんらみたいなの、たくさん乗せちょるきに」
地方のFM局にありがちな、少し古めの流行り歌を三つほど聴いているうちに、タクシーはホテルのエントランスに滑り込んだ。
「はいこれお釣りね。領収書は?」
「あ、大丈夫です」
荷物を受け取り、ホテルのエントランスに向かう。
入れ違いに、スポーツウェアに身を包んだ少女。
「あれ……」
イヤホンをしていたせいか、望と重盛には気付かず、彼女は脇をすり抜け、走り去って行った。
「今治第三の阿方だ」
「えっ、知り合い?」
「ううん。私は対戦したことないけど、今年のインターハイで荒垣がね」
「ふーん」
招待状を手に、フロントに向かう二人。
と、少し舌っ足らずな日本語。
「アナタたち、『スピリッツ・オープン』の参加者かしら?」
「えっ?」
振り返り、声の主を探していると、ロビーの隅のテーブルから、初老の老人とともに若い女性が向かって来た。
「ようこそ、『スピリッツ・オープン』へ」
「貴方は……」
蓄えた髭が、もさもさと動く。
「ヴィゴ・キアケゴーです。宜しく。本物デスヨ?」
ヨーロッパ風のジョークだろうかと首を傾げつつ、望と重盛は彼と握手をした。
皺の深い手だが、バドミントン選手の証であるマメは、まだまだ固さを残している。
「ミスター・キアケゴー! サインください!」
と、重盛はカバンから綺麗に折りたたんだタオルを取り出す。
望の方は何も用意していなかったから、目の前の老人にどう対応しようかと迷っていた。
「主催者自ら出迎えですか……」
「モチロン。アナタ達は全員が、我々の『フェスティバル』の大切なゲストですカラ」
「『フェスティバル』……?」
キアケゴー氏は、側にいる若い女性に目配せした。
「ミス・アンヌ。アレを」
「はい。お二人とも、これをどうぞ」
「……?」
渡されたのは、パッケージに入ったシリコンバンド。
小さい頃に流行ったヤツだ。
重盛などは中学生のころ、これを七色そろえて虹色を手首に巻き、チームメイトから『マサイ族』と綽名されていたらしい。
「会場が狭いのでね。最初の一試合は順番で戦ってもらいます。最初は青いバンドを貰った選手同士。アナタ達は緑と赤ですから、少し後の方になりますネ」
「ふーん……」
「それと、ICタグですね」
ミス・アンヌと呼ばれた、胸元の空いた女性が補足する。
「明日の午後からの自由対戦では、試合前と試合後に、各コートの主審にこれを読み取らせてください。それで試合数、対戦相手と勝敗を管理します」
「はいっ」
改めてフロントでルームキーを受け取り、望と重盛はエレベーターに乗り込んだ。
まずは荷解きをして、さっきすれ違った阿方のように、体も動かしたい。
時計は夜の十時前。
近くにコンビニがあることも、タクシーの車窓から確認済みだから、ちょっとそこまで走るのが良さそうだ。
「『フェスティバル』、だってさ」
重盛がぽつりとつぶやく。
「うん……なんか不思議な感じだね。普通の大会じゃないってのは、なんとなくわかってたけど」
「これさ、ウチら色違うじゃん」
「そうだね」
重盛はさっそく手首に付け、望はライダースジャケットのポケットにしまったそれを取り出し、お互い見合わせる。
「てことは、一試合目はシゲと当たらないんだ」
「そうだね。でも、一回はやりたいね」
「うん」
そのうち、エレベーターは重盛の部屋がある階に止まった。
「じゃ、ウチここだから」
「うん、お疲れ」
「また明日ね」
手を振り、重盛は自動ドアの向こうに消える。
シリコンバンドを手に持ったままの望は、とりあえずそれを手首に付けてみた。
偶然だろうが、緑色は逗子総合のジャージと同じ色。
望以外の三年生が、どこかの特待の話を貰ったとは聞いていない。
この大会で自分が活躍すれば、『逗子総合』自体にも注目は集まるだろう。
「よしっ」
ドアが再び開いて、望は一歩踏み出す。
と。
「あっ」
「きゃ──」
小さく声を上げたのは、望よりいくらか長身の、長い黒髪の少女。
「ごめんなさい。見てなくて」
スマートフォンを片手に、その背の高い少女は謝る。
「あ、いえ。全然」
と、左手に持ったスマートフォンの根元に、緑色のシリコンバンド。
一瞬それに目を止めて、顔を上げると、向こうも気づいたようだ。
「あなた……あれっ?」
見覚えのある顔だ。
「あっ、もしかしてフレ女の」
そこまで言うと、その少女はスッと背筋を伸ばし、軽く頭を下げた。
「こんばんは。矢本です」
「やっぱり……逗子総合の、石澤です」
「知っているわ。うちの学校と対戦したもんね」
「あ、うん……」
矢本のいたフレゼリシア女子にとっては、優勝の一過程に過ぎなかっただろう。
「唯華と戦ったわよね? 二セット目なんか、一年生の頃の唯華を見てるみたいだったわ」
「っ──」
きゅっと眉を顰めた望。
それを見て、矢本は慌てた表情で背中を丸める。
「ごめんなさい。イヤミじゃないのよ、本当」
「あ、うん……」
「良い選手だな、って思った。貴方と似てると思う、唯華は」
「ありがとう……」
「それじゃ、またね」
また背を伸ばし、エレベーターのドアが閉じきるまで、彼女はにっこりと笑ったままだった。
望はといえば、つい先ほどの矢本の言葉を反芻していた。
『一年生の頃の唯華』……。
彼女に悪気がなかったのは本当だろうが、悪気がなくても、あの時の望はその程度の選手だったのだ。
技術はそれなりのレベルにあっても、戦術の方がお粗末。
メンタル面でも、同じ強豪校といえど向こうは全国制覇、こちらは神奈川を勝つのがやっと。
「ふうっ……」
臍を噛み、望は自分の部屋に向かう。
『二年後』に、オリンピックのコートに立てるのだろうか、自分は。
あるいは、毎年行われるインカレや、その先の全日本。
トロフィーを抱くことなく、そう遠くないうちに、競技生活の『上がり』を迎えて、普通の人になってしまうのだろうか。
「……よし」
今は考えないようにしよう。
脱ぎ散らかした服も、開いたキャリーバッグもそのままに、望はランニングシューズに履き替え、ワイヤレスのイヤホンから音楽が流れていることを確認してから、部屋を出た。
熱くなった心を鎮めるには、コンビニまでじゃ短すぎる。
じっくり堪能したホテルの朝食を、ほとんど消化し終えた頃。
望が振り分けられた緑色グループの一つ前、黒いバンドを巻いた選手たちが各コートに散っていく。
五面二列、都合十面のコートは、すべて埋まっているわけではなかった。
『次のグループの選手は、コートが空いていればそこで練習してもいい』というのは、今朝行われたキアケゴー氏の挨拶の後、ミス・アンヌが行った説明の中にあった事項だ。
望は念のため、練習相手が『色違い』でも構わない、ということもミス・アンヌに確認してある。
しかし、そこに向かおうとする人影はまばらだ。
試合を終えた青と黄色のグループは、それぞれ知り合いを見つけては場所を取り、これから始まる黒色グループのある試合に注目していた。
「──第四コート。旭海莉、宇都宮学院。馬野山美保、松江愛鹿」
静かな呼び出しに、右手に握ったラケットを軽く掲げる余裕を見せたのは旭。
幾人かのカメラマンがフラッシュを炊き、次いで彼らはレンズを馬野山に向けた。
「各コート、ウォームアップを始めてください。ウォームアップは三分間です」
アナウンスの後、ひと呼吸おいて最初に音を出したのは旭だった。
吸い込まれるような高いサービス。
といっても、まだ試合ではない。
馬野山は硬い表情のまま、ハイクリアーを返す。
シューズがフロアに擦れる音が、次第に増えていく。
たちまち、すべてのコートで打ち合いが始まった。
お互いに手を探り合うような。
「……」
空きコートを占領した望と重盛も、その光景にしばらく見とれていた。
二階席から見るのと、同じフロアの視点から見るのでは、情報量が全く違う。
「シゲ、やろうか」
「あ、うん」
重盛はここにきて緊張しているのだろうか。
幾度かイージーミスでシャトルをネットにかけている間に、三分は過ぎた。
静まり返った空間に、まだ出番でない者が音を立てるのは無粋だ。
そう思い、望はシャトルを拾い上げてコートを出た。
「もういいの?」
「うん。ちょっと見たい」
「そっか。ま、ウチも見たいけど」
望と重盛が興味を示しているのは、専ら第四コートだ。
そしてラッキーなことに、二人が陣取った第五コートは、そのすぐ隣にある。
ここは特等席だろう。
「オンマイライト、旭海莉。オンマイレフト、馬野山美保。馬野山、トゥサーブ。ラブオール、プレイ!」
示し合わせたわけではないだろうが、主審のコールは第四コートが最も早かった。
他コートに遠慮したのか、馬野山は間合いもそこそこにショートサービスを放つ。
アンダーハンドから大きくバックスイングを取った旭の返球は──ヘアピン。
「!?」
高く打ち返すだろうと思っていた馬野山は慌てて前に出るが、既に立ち遅れていた。
急いた足音が、他コートのコールに掻き消される。
「っ!」
なんとか触ったシャトルは、すぐさま旭に叩き落された。
「1-0、サービスオーバー」
しまった、という表情の馬野山が、旭にシャトルを渡す。
してやったりというわけでもなく無表情で、ぐるりと小さく円を描いて歩き回った後、旭はサービスの構えに入った。
他のコートはまだ、シャトルが落ちていない。
「ふッ!」
息が漏れるほど、力を込めたロングサービス。
天井に突き刺さろうかという高さに面食らった馬野山だが、機敏なステップでバックラインを踏み越えた。
「そうだよね、やっぱ……」
「えっ、何が?」
望が発した言葉に、重盛は疑問を向ける。
「初めての会場だからね。コートの広さを把握するために、出来るだけ高く遠く打ち上げる。セオリーだよ」
「ふうん……」
旭のサービスの、長い滞空時間の間に、他のコートでも最初の得点が入ったようだ。
これだけにぎやかになれば、練習を疎ましく思う人もいないだろう。
望は重盛を促し、再びコートに入った。
「マッチワンバイ旭、宇都宮学院。21-9、21-4」
「えっ」
驚きの声を上げたのは重盛だ。
「あ?」
何か不満か?とでも言わんばかりに、旭が重盛を睨みつける。
重盛は慌てて目をそらして、敗者の方を見た。
もっとも、その瞬間、馬野山に注目していたのは恐らく彼女一人だっただろう。
圧倒的な勝利にも表情一つ変えず、丁寧にラケットをケースにしまう勝者を、何台ものカメラが追う。
「シゲ?」
不思議そうな顔で、望は重盛を見る。
「石澤。あの旭って何者?」
「何って、益子泪のダブルスパートナーだよ」
「マジでか」
「知らなかったの?」
「全然」
声を潜めてはいるが、もし聞かれたらまた旭のガン付けを喰らいそうだ。
「馬野山は今年、荒垣に初戦で負けたけど、そんなに弱い選手じゃないよね」
「うん、まあね。それよりシゲ、もうそろそろ上がろう。組み合わせ見ないと。それに……」
望が視線をコートの外に送る。
その先でコートの空き待ちをしているのは、今治第三の阿方と、もう一人。
チームメイトの鈴木美空だった。
「あ、そうだね。ごめんなさーい」
そそくさと用具を片付け、重盛はコートを出る。
望の方は、ひとまずベンチを空けて、待っていた二人に会釈した。
「すみません、お待たせしました」
阿方は無表情のまま、軽く頭を下げてベンチに向かう。
望に答えたのは鈴木の方だ。
「かまんで、全然。試合、がんばらんかね」
「ありがとう。そっちもね」
柔和な表情の鈴木に、阿方が声を荒げる。
「美空、なにやっとん! はよぅせんか」
「はいはい」
まるでアトラクションに急ぐ子供と、お母さんのようだ。
望は二人に見えないようにクスッと笑い、大会事務所に向かう。
ふと、周囲を見渡してみる。
望のグループ、『緑色』は全体の四番目だ。
午前中は全員が一試合を終えるまで、自由対戦は無しとのことだったから、それまでの三つのグループのほとんどは、二階席に戻っていた。
今フロアにいるのは『緑色』と、重盛がいる五番目の『赤色』。
フロア中央の大きな通路スペースを歩く望と逆方向に、小走りで去っていく選手は大体赤色だ。
ちらほらいる他の色は、そのグループに友達でもいるのだろう。
よく見れば、コートを設置しているのはフロアの半分ほどで、空いたスペースにはバドミントン関連の用品メーカーのブースが並んでいる。
少し針路を変えてそこに寄ってみると、望が普段使用しているガットのメーカーもあった。
数十種類のガットのパッケージが壁に並び、ブース中央にはガットマシンと専属のスタッフ。
まるで祭りの夜店のようだ。
『フェスティバル』とはこういうことか、と望は気分が沸き立つのを感じつつ、組み合わせ発表場所である大会事務所に急いだ。
もう既に、いくつかの組は指定されたコートに向かって歩いている。
「遅いですヨ、望チャン」
「は? えっ、はい……」
ちゃん付けよりも、何故キアケゴー氏自ら呼び込みをしているのかのほうが気になったが、怪訝な表情の望に、キアケゴー氏は表情を変えぬまま、机にある資料に目を落とした。
眼鏡はかけていないから、老眼はまださほど来ていないのだろう。
「エート……アナタの相手は豊橋サンですね。アンリチャン」
「はいっ!」
机を取り囲んだ数人の人垣の向こうで、右手が上がる。
「よろしくね、えっと」
「石澤です」
「石澤さん!」
贅肉のない腕、きれいな肌。長い睫毛と大きな瞳。それらの何よりも彼女の魅力を引き立たせているであろう屈託のない笑顔で、豊橋アンリは望に握手を求める。
「うん、よろしく。いい試合をしよう」
望はそれをしっかりと握り返した。
「──ラブオール、プレイ!」
主審のコールに合わせるように、周りの雑音が遠のいていく。
(ロングならパターンC、ショートならD……)
頭の中でノートを開いて、望は攻め筋を再学習する。
(──ロング!)
スローモーションの中、白帯を突っ切って打ち上げられたシャトル。
いい集中だ。
望は自身の立ち上がりに満足しつつ、脚を後方へ運ぶ。
高いが、入っている。
パターンCはネット前からボディフェイントでクリアーを誘発し、お互いに距離を取るための手筋だ。
対荒垣用に磨き上げたものだが、望はそれをロングサービスへの対応に応用した。
「ッ!」
予定通りのハイクリアー、体の重心はニュートラルへ。
対戦相手が荒垣だったなら、ちょっと球足が短ければ即座に強烈なスマッシュが飛んでくるところだが、今日の相手は豊橋アンリだ。
上背は無いし、強打を武器にする選手でもない。
足を止めずラリーを続けて、優位に立ったところで最小限のリスクを冒して点を獲ってくる。
あの羽咲でさえ一時は追い込んだほどのプレイヤーだ。
(前……!)
ミドルコートへ出た望に対して、安全策をとるならクリアーでの返球。
だが、豊橋はミートポイントを深く置き、コースを狙ったドライブを打つ。
(バックではたく……、いや)
クロスへのワイパーが一瞬頭をよぎるが、望はラケットの角度を変え、豊橋の鼻先へとヘアピンを落とす。
コートに落ちればラッキーだが、拾われても主導権はイーブンだ。
持ち前のフットワークで難なく追いついた豊橋は、ミドルやや奥へのクリアー。
(ネット前は嫌う、か)
立て直すべく足を戻す豊橋をちらりと見て、望はやや後方に跳び、──
(無理筋だけど、……勝負!)
炸裂音とともに放たれたシャトルは、豊橋が戻ろうとする右コートの反対側へ、鋭く曲がり落ちる。
「──!」
強い回転を与えられたシャトルが、ねずみ花火のようにコートを這う。
さしもの豊橋も、重心が後ろへ下がった状態では、斜め前への体重移動はできず、これを見送るしかなかった。
「サービスオーバー、1-0」
「っし!」
望は小さくガッツポーズ。
ふと、バックライン奥を見るが、そこには誰もいない。
重盛はどこかでウォームアップでもしているのだろう。
それよりも、監督がいない。
喧しかった頃の倉石も、インターハイの時のように、片膝をつきじっくりと見守っていた倉石もいなかった。
それがどうした、と言わんばかりに望は、使い慣れたラケットのグリップを握りしめる。
(ショート、かな)
早い間合いに対して、豊橋は苦も無く高いクリアーのリターンを上げた。
先刻と同じように、望はコート奥にいったん下がる。
(それなら、それで)
ネットに張り付かれるのがいやなら、別にこちらは張り付く気もない。
逗子総合に入学したてのころに比べれば、身長だって少しは伸びている。
それに、身長に頼らず角度を付ける方法が、望にはあった。
(距離を取るなら、取らせればいい……)
パターンCの、前へのフェイント。
豊橋はそれが欺瞞だと知りつつも、容易に短い羽根は送れない。
カットスマッシュ一本で、彼女はほぼ正確に望の実力を把握した。
近い間合いでのドライブの乱打戦になれば、細かい変化でこちらの芯を外してくるだろう。
少しでも浮かしてしまえば、はたき落されるだけ。
前には張らせない、という強い意図を望は受け取っていた。
(前後に振ってクロスで落とす。オーソドックスだけど……全国屈指のディフェンダー、豊橋アンリにラリーで勝負する……!)
長く高い豊橋のシャトルに対して、望は変化を抑えたカットをランダムに混ぜて揺さぶる。
そのたびに豊橋は反対コートの『前』を伺うが、フェイントと見切っているはずの動きに縛られて攻め手が出せずにいた。
やがて、しびれを切らした豊橋がミスを犯し、シャトルはサイドラインを越えてコート外に落ちた。
「あーっ!」
声を上げ、豊橋は左手で太ももを叩く。
2-0。
(流れは変えない。切れるまでショートで行く)
と、先ほどとは違って豊橋は純粋なクリアーでなく、ドライブ気味に返してきた。
初手からリスクを負ったそれは、ネットにかけることを嫌ったか、やや浮き気味だがコースは厳しい。
裏をかかれた望は、バックハンドで返さざるを得ない。
(ち……っ、ここから!)
パターンに付けられたアルファベットは、あとの方になるほど悪い状況の想定だ。
Cはあくまでも、イーブンなラリーからエースショットへの手筋。
今の状況では使えない。
やや甘くなった返球を、豊橋はまたも厳しい逆サイドへドライブ。
「くっそ……!」
すんでのところでコートに落ちそうなシャトルを、望はアンダーハンドで思い切りしばき上げた。
体勢はさらに悪く、ほとんど豊橋に背中を向けている。
望は時計回りに体を回転させて、目を切ったシャトルを探した。
豊橋は細かくステップを刻み、上を見上げている。
返せただけで御の字、深さもコースも大甘。
(スマッシュ、来る!)
コンマ五秒の読み合い。
ラケットを体の中心に据え、豊橋の目線からコースを探る。
(──右ッ!)
と、一歩目を踏み出したところで、望は軽くジャンプした。
逆だ。
シャトルは選んだ方とは反対側のコート奥隅ギリギリに落ち、跳ねた。
ふうっと大きく息をついてから、望はシャトルを拾い豊橋に送る。
「サービスオーバー、1-2」
(仕方ない、切り替えろ……)
サービス自体が甘かったのか、あるいは二球ショートを続けたのが甘かったのか。
考えている余裕はない。
望の構えに呼応して、豊橋のサービス。
(ロング──攻める!)
十分に深いサービスに対し、望は大きなストライドのバックステップを踏み、いったんコート外まで出る。
豊橋の動きは見ない。
「──らぁッ!」
まるでテニスのサーブのような、オーバーハンドのストローク。
放たれたシャトルは白帯ぎりぎりを飛び、ネットの向こうに抉れて落ちる。
呆気にとられた豊橋は、あるいはアウトだと思ったのか、ほんの一歩二歩動いただけで足を止めた。
サイドラインに跳ねたシャトルに、二階席からどよめきが上がる。
「サービスオーバー、3-1」
心なしか、主審のコールも上ずっているように思えた。
手応えを確かめつつ、望は豊橋の準備を待って、間合いを図る。
(なに、今の……)
手に持った紙コップを落としそうになり、旭は慌てて手元に目をやる。
甘いサービスならまだしも、ジャッジが悪い選手なら見送るほど際どい、非の打ちどころのないロングサービスだったのに。
多くの観衆が、フレゼリシア女子の矢本を見ようと集まるエリアを避け、どちらかと言えば空席の目立つエリアに、彼女は陣取っていた。
その直下で行われている、『組み合わせ次第では全国ベスト8クラス』対『個人としては県ベスト4』の試合。
九州の片隅にまで、追っかけと思しきファンが訪れている豊橋アンリに、『ジャリを一匹連れた若女将』が極上のジャイアントキリングを仕掛けている。
(泪がいれば絶対パシらせるのに)
腹の虫を宥めつつ、旭は名残惜しげに席を立った。
と、スマートフォンが振動する。
「なに」
不機嫌そうに出た旭に、電話の相手は驚いた。
『えっ、怒ってんの?』
「別に。なんか用?」
『あ、いや……今何してるかなぁって』
彼氏か。
旭は心の中でツッコミを入れつつ答えた。
「一試合終わって、勝ったよ。今休憩中」
『よかったじゃん。相手、誰?』
「えっ?……うま、うまなんとか」
近くに『うまなんとか』が居ないだろうな、と旭は周囲を見渡す。
どうやら居ないようだ。
誰も目を合わせてこないし。
『なんだそりゃ』
「んなことより飯買ってきてよ、泪。お腹空いちゃった」
『バカなの? バカになりたての人?』
「うるせぇ」
ケラケラと笑っているうちに、旭はエントランス前に並んだ出店に辿り着いていた。
益子と、彼女の兄の珍道中に対しては生返事で間を持たせつつ、腹持ちのよさそうなサンドイッチをチョイスする。
「あ、一人面白いヤツいたよ」
『誰?』
「名前は知らない。頭に割り箸差してる」
『──そいつ、石澤でしょ多分。昔やった時は耳かきだった』
「ほーん」
お釣りを確かめもせず無造作にポケットに突っ込み、旭はサンドイッチ片手に館内に戻る。
自分の席まで戻ったところで、ふと、眼下の試合が止まっていることに気づいた。
「うわっ」
『えっ、なに?』
「豊橋アンリに11-3だ、今」
八点差で最初のインターバルを迎えたが、望の心中は穏やかでなかった。
逃げ切りを決めるには、まだゴールまで遠すぎる。
それよりも。
(軌道を見られてる……?)
セットアップのパターンは違えど、最終的な手筋はほぼ同じ形の得点。
左右どちらかの前に豊橋を釣り出してから、後ろに体重をかけたのを見ての逆サイドへのカット。
こちらも遠くから打っているのでスマッシュにはならず、足を出せば追いつけたショットもいくつかはあったはず。
ところが現実は、4-2からひとつ取り返したのみで、豊橋は消極的なプレイに終始しての、望の六連続得点だった。
(まぁ、いい)
見せたパターンはそう多くない。
手早くグリップテープを巻き直すと、望はコートに戻った。
(──やっぱり、ね)
第一ゲーム後半、豊橋は一気に組み立てを変えた。
ロング、ショートに関わらず、サービスリターンは全て望のフォアサイドへの低く長い羽根。
敢えて打ちやすいところに返球し、相手が丁寧にスイングのトップを作るための時間を与える。
その隙に豊橋は態勢を整え、持ち前の長いラリーに望を引きずり込んでいく。
望が一点ずつを取り返す間に、豊橋は二点、三点を奪った。
「サービスオーバー、13-8」
とはいえ望も、この程度の粘りは想定済みだ。
厳しいコースは捨て、チャンスボールだけを確実に仕留める。
ただ、このままの流れで行ってしまうと、二〇点手前で同点になってしまうだろう。
(リバース、混ぜてくか)
できればこのゲームのうちは使いたくなかったし、前半終了時点ではそれで行けそうだった。
ここまでの展開で、望はリバースカットを一球も打っていない。
オープンコートへの長いドライブでも、できるだけラケットの面をまっすぐに向けて、リバースカットのイメージを消してきた。
彼女が恐らく唯一与えられた才能──肘、手首の柔らかさ。
それによって、望の放つリバースカットは、通常のスイングとほとんど見分けがつかない。
(バックにロング。今まで通りフォアに置いて来れば──)
高く打ち上げたサービスに対し、豊橋はラウンドを入れてのハイクリアー。
望の正面のフォアサイドが大きく空いているが、これは罠だろう。
視界の端に、コート左ミドルへスタートを切る豊橋。
望は彼女の手元に狙いを定め、秘蔵の一撃を放つ。
「え──」
ストレートを向いていたはずの望から、シャトルがまっすぐに向かってくる。
虚を突かれ、完全に詰まらされた豊橋の返球は、ネットにかかった。
「14-8」
こちらにシャトルを寄越す彼女の表情から、望はそのインパクトの大きさを感じた。
ラケットの振りからは全く見分けがつかないそのリバースカットは、目線が少しでもブレている状態では、捉えることができない。
目で捉えられなければ、一歩目が出ないのも道理だ。
もともと、この大会の七試合を戦う上で望は、序盤の二試合ぐらいは全く見せない戦略を立てていたが、初戦の相手がこれほどの強敵なら、致し方ない。
「さっきの奴より全然強いじゃん、コイツ」
サンドイッチを食べ終え、ゴミ箱を探して歩き回った後。
ラケットメーカーのブースで最新モデルを素振りしたりして戻ってくると、第一ゲームは終わっていた。
21-10。
インターハイで見ていた『一年』との試合よりも、豊橋が粘れずに落としている。
その事実に旭は驚愕した。
「逗子総合……そう言えば居たな、開会式」
サイドチェンジして、旭が座る席に、今度は望が背中を向けた。
黒いユニフォームに白抜きの学校名。
旭の通う宇都宮学院と同じ関東圏、神奈川の強豪だ。
「……一本!」
コートから声が響く。
気力充実といった背中の望に対し、顔が見える豊橋の方は、ややショックを引きずっているようだ。
足の削り合いでは益子にも迫る豊橋だが、打球に対して足が止まったのは、彼女にとっては恐らく初めての体験だっただろう。
(あれは私でも止まる……。シャトルが瞬間移動してくるような)
益子のダブルスパートナーであり、練習相手でもあった旭。
バドミントンに有利な左利きの益子泪。
『スピリッツ・アカデミー』に所属している羽咲を上回る変化量のクロスファイアも、対面で何度も見てきた。
第二ゲームからは惜しみなく繰り出される望のリバースカットに、コート全体を俯瞰できる位置にいる旭ですら、目が追い付かないでいる。
当然その逆、ストレートに鋭く落ちるカットもあるのだ。
ヘアピンやワイパーの小技もうまいし、ノーマルなドライブも、その身長にしては強く、深く伸びてくる。
シャトルの軸がぶれない、綺麗にミートしている証拠だ。
と、旭の視界が少し暗くなった。
頭上の照明を遮っているのは、この大会の主催者。
「素晴らしいデスネ、彼女」
ヴィゴ・キアケゴー氏は、ミス・アンヌを伴い、旭の隣に座る。
「……そうですね」
益子と違い、目上にはとりあえず敬語を使う。
幼少から輝きを放つ選手ではなかった旭の、ささやかな処世術だ。
「当たり前デスガ、ノーマルなショットとカットでは、ラケットの向きが違いマス。スイングが効率良く、強くなる……トップランカーになればなるほど、違う軌道を描く時間は短く、見分けは付きづらいデス」
関節が柔らく、ラケットをより素早く回転させることができれば、外から見た軌道のズレは小さくなる。
肘の外旋・内旋という言葉がある。
投擲系のスポーツ──野球におけるピッチングが代表的だが、手に持った『もの』により強い力を加えるためには、肩の回旋だけでなく、肘の回旋が重要となる。
「その一点に限って言えば、望チャンは全日本クラス。それと──故障歴がナイ」
「故障歴?」
野球肘、という言葉があるように、幼少期の肩肘の酷使は、靱帯に深刻な損傷を与える可能性がある。
省エネ型の志波姫でさえ、高校二年の時に肩を壊した。
あの『簪』の方は、今見ている限りでは肩や肘、脚を気にすることなく戦っている。
「競技に入ったのが比較的遅かったということもありマスガ、指導者が良かったんデスネ。選手をよく見ている。才能に頼って選手を壊さないコーチは、この国では貴重デス」
裏を返せば、この国の指導者のレベルはまだそんなものなのだろう。
確かに他の競技でも、選手ならいざ知らずコーチとして日本人が活躍しているというのは、ほとんど聞かない。
取り立てて愛国心などなく、この先国旗を背負って戦うつもりもなかった旭だが、少しばかり恥ずかしさを感じた。
あらゆるスポーツの中で打球初速が最速と言われるバドミントン。
ラケットは肉まん程度の重さしかないとしても、肘の柔軟性にかまけて無暗にカットを乱発しては、いずれ肘を壊す。
そして、ヒトの靱帯の再生能力は極めて低い。
練習場所が被らない野球部と『強豪』を兼ねているバドミントンの名門校も多いが、あちらの『甲子園』では、毎年のようにエースピッチャーの連投、投手の酷使が話題になる。
口さがない評論家などは、『才能の墓場』とまで言う。
ゴールデンエイジを過ぎて、あらゆる形の篩にかけられる年代にあって、故障で競技を離れるというのは、あとになって回復不可能なロスになってしまうのだ。
バドミントンも他人事ではない。
プロ選手を呑み込むまであと一歩のところで、棄権せざるを得なかった荒垣。
神奈川県のチャンピオンが、団体戦の予選をパスしてまで回復に努めた膝が、最後の最後に悲鳴を上げた。
完調ならそれこそ、下で試合をしている望の逗子総合は、インターハイに来れなかったかもしれない。
「……いつだって『二番手』だったんデショウネェ……」
二番手──。
キアケゴー氏の言葉は、自分のことを言われているようで、旭は少し体の奥が冷たくなった。
ペアを組む以上は対等とは言え、一対一の手合わせで、益子に勝てたことなど、結局最後までなかったのだ。
望にしても、荒垣という県内屈指の才能に、全国への道を二度も断たれた。
もし、今年のインターハイに出ていたら……。
それは、眼下の試合結果がヒントになるだろう。
「──マッチワンバイ石澤。21-10、21-14」