豊橋アンリに快勝したことで、『インターハイで見なかった名前』に対する見方は変わった。
すれ違った後、望の背中を目で追う選手も増えている。
彼女にとってはいくらか面映ゆい部分もあるが、注目を受けるのは満更でもない。
『自分のバドミントン』で、全国屈指のラリープレイヤーを押し込んだ。
心なしか、メーカーブースのスタッフの愛想も良くなった気がする。
ガットやグリップテープ、シャトルはもちろんだが、バドミントンにおいてはラケット自体も消耗品だ。
小物類に比べれば断然長持ちはするが、使っているうちにカーボン繊維に微細な隙間ができてくる。
またラリーの最中、床に倒れこんだ拍子にラケットを踏んでしまって折れる……というようなことも、たまにある。
だから望達は、大きなラケットバッグに、同じスペックのラケットを最低二本は持っておく。
「──あ」
全国大会常連の強豪校には、用具メーカーからの営業回りも多い。
卸価格そのままというわけにはいかないが、一般の店で買うよりも多少は安く購入できる。
望が今愛用しているラケットは、その時営業が持ってきていたモデルで、県予選の少し前から使用しているものだ。
その後継だろうか、最新バージョンが出ている。
掲示された希望小売価格と、財布の中身を照らし合わせていると、ブースの奥の方にいたガット張りのスタッフの動きが止まり、側に立っていた選手がそれを受け取った。
「はい、22ポンドですね」
(えっ、22……?)
女子選手ではかなり強めのテンションだ。
望は標準的な20ポンドを張っている。
実際にはガットは打撃を繰り返すごとに、僅かに緩んでいくから、実質は20ポンドを切っているだろう。
22ポンドというのはそれこそコニーや荒垣、津幡など、パワー系の頂点に君臨する選手の数字だ。
それよりも。
(お金、先に払ったのかな?)
その選手は、ラケットは自前だったのだろう。
バッグにしまい込むと、そのまま奥の空きコートへ歩いて行った。
「あの……このラケットって」
「使いますか?」
一仕事終えたスタッフが、ガットマシンの脇から歩いてくる。
「あ、えっと……」
「ここにあるのは全部試打会用のものだから、後で返却してくれれば、使ってもらってかまわないですよ。ガット代だけは、頂きますけど」
「えっ」
「むしろ、使ってもらえるとこっちも宣伝になるので」
そういえば、さっきの選手が持っていったラケットも、ステンシルマークが入っていた。
学生の大会では基本的にダメなはずだが、この大会は別に関係ないのだろう。
「じゃあ、そこの上のやつを、エアロバイトの20ポンドで」
「色はどうしますか?」
「あ、緑で。ステンシルはいいです」
熟練のスタッフなら、ガット張りはすぐに終わるだろう。
望はそのブースを離れず、彼女の後の『赤色』グループの試合を眺めた。
(シゲ、頑張ってるなぁ)
重盛の初戦の相手は、有川という選手だった。
第一ゲームは案外競らずにモノにしているが、第二ゲームは序盤からもつれ合っている。
選択肢が少なく、迷いのない選手は、格上相手でも序盤は主導権を握れることが多い。
遠くに見えるスコアは6-6。
ここから自分の長所を生かして突き放せれば、ストレートで勝ちきれるだろう。
逆に弱点を突かれる形になれば、恐らく第三ゲームまでもつれる。
それは、望の昼食の時間が遅くなることを意味していた。
他のスポーツに比べれば、バドミントンは用具の進歩が少ない方だ。
コンタクトスポーツではないから防具など付けないし、同じカーボン製でもゴルフクラブやテニスのラケット等に比べれば、それ自体の価格は安い。
(ちょっと、打ちたいな……)
十一時半を回った会場内。
二階席には昼食をつまみながら試合を眺める人影が目立つ。
『はい二人組作って』──が苦手な望にとっては、この状況で練習相手を探すのは苦行だ。
と。
「あら、石澤さん?」
「え?」
声に振り返ると、矢本が居た。
「ラケット借りたんだ」
「あ、うん」
矢本も同じく、この『出店』をぶらついているクチだろう。
「どうだった? 一試合目」
「え、まぁ……なんとか」
勝つには勝ったが、出来ればストレートだけで勝負したかった。
倉石の戦術は望専用のスペシャルというわけではないから、カット主体の組み立てでなくても使える。
もちろん、パターンの中にはカット系のショットを挟む手筋もあるが、それは一般的な選手でも打てるレベルのものを想定していた。
考え込む望に、矢本は歩みを止める。
「お昼、一緒にどうかしら」
「いいですけど、シゲ──友達を待ってても?」
「構わないわ。どのコート?」
矢本はそう言うと、試合が行われているコートを一つずつ見回していく。
「あそこ。あの髪を結んだ──」
「ああ……ふうん」
スコアは11-9で、重盛のリード。
サーバーが相手ということは、いったんは引き離したが、また捕まっているということだ。
「雲海の有川ね、相手」
「強いんですか?」
「さあ……やったことはないけれど」
雲海と言えば、北陸の古豪だ。
高校野球ではよく名前を聞くが、バドミントンも強いらしい。
インターハイに出てきたなら、有川は恐らくその学校のエースなのだろうが、重盛がここまで善戦しているのは、望にとっては意外だった。
「結構やるのね、重盛さんって……そっか、横浜翔栄か」
「うん、まぁ」
翔栄はともかく重盛個人はそうでもなかったはず、と望は思っている。
県予選前のある日、練習後にレギュラーメンバーを集めたミーティングで、団体戦の展望を倉石が語ったことがある。
トーナメントの序盤は問題なく勝ち上がれるだろうということについては、メンバー全員の意見が一致していた。
本題はその先、横浜翔栄との決勝についてだった。
望は、シングルスのみのエントリーで、橋詰にぶつける。
そこは木叢監督との読み合いだが、誰が来ても望なら勝てると踏んだのだろう。
ダブルスの橋詰のペア、重盛瑞貴。
ここは横浜翔栄にしてみれば、半ば『捨て』だと倉石は言った。
重盛以上に勝てる選手でもう一つのダブルスを組み、確実に一つは勝てるようにする。
つまり、重盛はその当時の横浜翔栄の団体戦メンバーの中で、三番手以下だったということだ。
ここを逗子総合の二番手・三番手のペアで勝って、ダブルスの勝敗はイーブンにしておく。
──石澤、お前は相手が橋詰だろうと誰だろうと、絶対に勝て──。
あとは残りのシングルス二枚で一つ勝てばいい。
そうすれば『全国』だ──。
「……」
そんな話を思い出しながら重盛の戦いを眺めていた望は、ふと矢本に目を移し、口を開く。
「──フレ女は、どうしてシングルスとダブルスで重複させなかったの?」
「えっ?」
唐突だったのだろう。
矢本にしてみれば、昨夜ちょっと望を不機嫌にさせてしまった一件があったから、あまり自分の学校や、自分自身のことをつらつらと喋る気はなかった。
しかし、問われれば答えるのは礼儀だ。
「ううん……一番は、唯華の状態かな。肩は完治してたけど、宮城の決勝もかなり熱かったしね、コニーと」
春の王者は、この夏地方大会を制して全国にやってきたわけではない。
同校対決を制したのは留学生のコニー・クリステンセン。
かなりの接戦だったと聞く。
あのレベルの選手になれば、たとえ同校対決でも手を抜くことはなかっただろう。
全力で戦い、胸を張って全国に行く。
それが、トーナメントで戦ってきた選手たちへの矜持だ。
「単純に勝つことだけ考えれば、唯華がダブルエントリーするのが、一番勝率が高かったと思う」
それでも、シングルスに専念した理由。
地方大会からそれでやってきているから、というのもあっただろう。
「ウチは確かに選手層は厚いけど、唯華に追いつける選手は居なかったからね」
「うん……」
「でも、それをやっちゃうと、また同じことになるから」
同じこと、とは肩の怪我のことだ。
カットや強打を多用するわけではない志波姫。
フォームに問題を抱えているはずもない王者の肩が壊れたのは、単純にオーバーワークによるものだろう。
「石澤さんは、今まで怪我したこと、ある?」
「あ、いや、私は全然……」
頑丈な身体。
それは、アスリートにとってかけがえのないもの。
逗子総合だっていっぱしの強豪だ。
手ぬるい練習では、神奈川の頭は到底張れない。
そもそも望が逗子総合に呼ばれたのも、『壊れない選手』だったからに他ならない。
あるいは重盛も、そうだったかもしれない。
「さっ、来い!」
コートから大きな声が上がる。
第二ゲームはデュースまでもつれたが、重盛がマッチポイントを迎えていた。
有川は肘の調子が悪いのか、しきりに利き腕の外側を揉むようなしぐさを見せている。
望はその姿を、逗子総合に入りたての頃に、練習に付き合ってくれたある上級生に重ねた。
『壊れそうな選手』を見分けられるのは、倉石が『壊れた選手』を知っているからだ。
──二年前。
「私が言うのもなんだけどさ、石澤。あんた今のままじゃ勝てないよ」
入学したての練習試合で惨敗し、スランプに陥っていた望にある日、倉石が付けた二年生が言った。
彼女は現在の望と同じく、絶品のカットスマッシュを武器に一年から県予選のレギュラーを張り、当時のエースだった上級生とともに、個人戦ダブルスでの夏の全国を手中に収めた。
全国大会でも活躍し、将来有望と言われた選手だったが、インターハイの後に肘を壊す。
冬を越えても肘は復調せず、リハビリを続けながらマネージャーとして部に帯同していた。
伸び盛りの二年の春でこの状況では、彼女の高校でのバドミントンは、既に終わったと言って良かっただろう。
もっとも、倉石が彼女を望の練習相手に指名したのは、そういった理由のほかに、同じくカットを武器とする選手であったこともある。
「はい……」
肩を落とし、ため息をついて望はコートに散らばったシャトルを集め始めた。
「それ、集めたらちょっと休憩しよっか」
「あ、はい」
どちらかといえば少数精鋭の逗子総合だが、望のためにコートを一つ空けている分、他の選手たちは割を食う。
鳴り物入りで入部したルーキーに不満はあろうが、怪我に悩むその二年生部員の献身的な指導を見て、周囲はそれを呑み込んだ。
すべてのシャトルをかごに戻した望を連れて、彼女は体育館の外に出た。
軋み音を立てて外の光を呼び込んだ扉に、倉石が目を向ける。
「ちょっと出ます」
「ああ──」
望と同じく彼女も、『全免』ではなかったが一応は特待で、逗子総合に入ってきていた。
普通なら選手として戦えなくなった時点で特待扱いは外され、一般の生徒に戻るところだったが、倉石は彼女をそのままバドミントン部に在籍させている。
外に行って何をするかは知らない。
女同士のナイーブな話かもしれないし、一発平手を喰らわせるのかもしれない。
ただ、ひとまずは任せよう。
そう思い、倉石はほかのコートで行われている三年生の練習に目を戻した。
体育館から校舎へ続く屋根付きの通路の脇、自販機が並ぶちょっとしたスペースで、二人は足を止めた。
「あの……」
「石澤、ここに手、届く?」
「え?」
彼女が指し示したのは、屋根の下についている雨樋だった。
望はそこに手を伸ばすが、つま先立ちでは届かない。
軽くジャンプして叩いた雨樋は、金具に擦れて奇妙な音を立てた。
「私は届くよ」
そう言うと、彼女は踵を少し浮かせただけで、その雨樋に指先を掛けてみせる。
「荒垣なら、ベタ足でも届くだろうね。腕も長いし」
「……」
荒垣──その名を聞くことに、望はうんざりしていた。
監督からも同じことを何度も言われている。
時には怒鳴りつけられ、時には諭すように。
「自分より才能持った人って、たくさんいるんだよ」
連綿と続く強豪・逗子総合の歴史。
それを紡いできた先輩の中には、有名大学や実業団、全日本メンバーになった人もいる。
そういう人が時たまのオフに母校を訪れては、現役生とともに練習に励む。
石澤が入学してからも、数回あった。
いつも仏頂面の倉石監督が相好を崩し、彼女たちと会話している。
やがて三年生の誰かが指名され、試合形式で打ち負かされるのが常だった。
「はっきり言うよ。あんたのスマッシュは拾われる。うちの一年にだってそうじゃん」
「それは……わかってます、けど」
「けど何?」
バドミントンを始めた頃、誰しも『かっこいい』スマッシュに憧れる。
それは野球小僧がホームランに憧れ、波打ったスイングで三振を繰り返すように。
「スマッシュ打つのは私も好きだよ。バドミントンやってる奴で嫌いな奴はいないと思うけど」
強打で押し込んで、堪え切れずクリアーに逃げる相手。
コートを蹴って飛び上がり、オーバーストロークから相手コートにシャトルを突き刺す。
誰もが憧れる夢、少年漫画の必殺技だ。
「ガキの頃、それこそ団栗の背比べの頃はよく打ってたし、決まってたよ。中学に上がったら背の伸びる奴もいて、叩かれたらやり返したくて、深め狙ってちょっとアウトになったりしてさ……」
彼女も、ジュニア世代ではそこそこに名の売れた選手だった。
神奈川では有名なクラブに入っており、中学ではすっかり有名選手になった彼女をスカウトに来た倉石の前で、二つも三つも年上の選手を破ってみせた。
「調子乗ってスマッシュ打ったら、普通にドライブで返されてさ」
もちろん、自分の成長が止まりつつあることを自覚していた彼女が、本気でスマッシュでポイントを取りに行ったわけではない。
その時は既に、強打に固執する選手ではなくなっていた。
カットを多用する、中学生にしてはクレバーな立ち回りが、倉石のお眼鏡にかなったわけだが。
「そういうのって結構楽しかったりするんだよね。絶対壊れない壁って、全力でぶっ叩けるじゃん?」
それについては、望も同意する。
ジュニア時代の荒垣と対戦したことも幾度かあったが、そのころから身長が図抜けていた彼女に対して、強打で勝負を挑んだことも数多い。
もちろん、中学一年から二年、三年と上がるにしたがって、荒垣はどんどん背が伸びていき、『そこそこ』で止まった望の強打は、全く通用しなくなっていた。
「そういう、『無邪気』っていうのかな。私は別に嫌いじゃない。でもさ」
きゅっと睨みつけられた望は、身体を固くする。
「あんたはもう、そういうのじゃないでしょ。『逗子総合の石澤』なんだよ、あんたは」
『逗子総合の石澤』──。
その言葉が脳に貼り付いたまま、望はその日、練習を続けた。
がむしゃらに強打を叩いてみても、シャトルはコートに落ちない。
肘を壊した二年生ですら、たやすく返球してくる。
やがて無為に過ごした時間が終わり、部員は後片付けに走る。
望が使っていたコートだけ、ネットはそのままだ。
塾に通うから、と二年生が帰った後、望は一人でステップワークの練習を繰り返す。
何十周しただろう。
疲れ果ててポールにもたれかかり、ふと見ると外の光は、真っ赤な夕焼け色に変わっていた。
今日は日曜だから、朝から練習だったはずだ。
でも、何をしていたのか思い出せない。
苛立ちに任せてグリップテープを毟り、巻き直す。
「あ……」
白いグリップテープが、まだらに紅く染まっていた。
ふと右手を見ると、マメは潰れ、まだ潤った血が手に滲んでいる。
「っ──」
これだけやっても、何もわからない。
気付くまでは何も感じなかった右手が、熱を持ち痛み始める。
掌に涙が落ち、ついに望は声を上げて泣き出した。
聞きつけた倉石が二階の教官室を飛び出し、降りてくる。
「どうした石澤! 怪我でもしたか?」
倉石が、座り込んだままの彼女の左腕を掴み引き上げると、望はそのまま倉石に倒れこんだ。
「お、おい──」
ハッとして望は、慌てて姿勢を正す。
「すみません、監督……わかんないです、もう、こんなんじゃダメなのに──」
嗚咽の合間に、望は言葉を絞り出した。
どうやったら勝てるのか。
好きなやり方じゃ勝てないのか。
何のためにバドミントンをしているのか。
倉石は腕組みをしたまま、望がひとしきり泣き腫らすまで無言だった。
「……石澤」
「うっ──はい……」
「お前が、『自分のバドミントン』で勝つことは、今は出来ん。それは、三年間お前を預かる責任として言っておく。ただ──」
「?」
「『逗子総合の石澤』としてなら、勝つ方法を教えてやることはできる」
その日から、ノートは少しずつ埋まり始める。
「一時には戻らないと」
「そうだね」
会場近くの定食屋に腰を落ち着けた三人は、それぞれに好みのメニューを注文する。
せっかく宮崎くんだりまできたのだから、どうせなら地元の名産品を食べたい、と言ったのは重盛である。
どちらかと言えば矢本の方がそれに同調したのは、望にとっては意外だった。
「宮崎と言えばやっぱ豚肉でしょ」
そう言って重盛が注文したのは、厚切りの生姜焼きが見た目にもジューシーな定食。
望は豚トロ丼を選び、対抗して海の幸を選んだか、矢本はカツオのたたき定食をチョイスした。
「そういえば矢本さんは、一試合目どうだった?」
「勝ったわよ。もつれたけどね」
対戦相手は福岡国際大付属の中尾。
インターハイでは益子や豊橋、羽咲までもが絡んだ『死の山』に骸を晒す結果となった彼女だが、それでも王者フレ女の一角を占める矢本から、一ゲームを奪う健闘を見せた。
「昼から誰とやろうかなぁ……」
思わせぶりな視線を向ける彼女に、望は箸を止める。
「ウチは、上から順番がいいな」
微かな沈黙に口を挟んだのは重盛だった。
「上から順番?」
「強いヤツとやりたい」
一枚残した生姜焼きをご飯に乗せて、重盛は口を大きく開けてかぶりつく。
「……そうだね。せっかくだし」
この大会はトーナメントじゃない、ランクマッチだ。
七つ勝てればベストだが、負けても終わりにはならないのなら、自分が成長できる相手と──。
「やろう、矢本さん」
「……いいわ」
定められた時刻の少し前、三人は会場に戻ってきた。
「ありゃ、これは一試合『待ち』だね」
設営された十のコートにはすべて、先客がいる。
「そうね……」
二階に上がるのも億劫だとばかり、矢本は壁際にラケットバッグを置き、サイドのポケットから小さなパッケージを取り出した。
「なにそれ」
「これ? BCAA」
アミノ酸。
連戦が続き、試合開始時間も前の試合に引っ張られるバドミントンの大会では、時間を決めて食事をとることはできない。
故にトッププレイヤーともなれば、手軽にエネルギーを補給できる食べ物、たとえばバナナやおにぎりなどを常に携帯している。
遠征ではそれらを用意するのは面倒だし嵩張るものだから、小さなパッケージで事足りるサプリメントは有用だ。
「私も持ってるよ。これはカプセルだけど」
矢本が飲んだのは粉末状のもので、望が持っているのはカプセルタイプだ。
おおむね一回に六粒ほど摂るのだが、米国産だけあって一つ一つが大きい。
「それ、ちょうだい」
せがむ重盛の掌に、望はカプセルを落とす。
「あ、シゲ。水──」
望がペットボトルを差し出す前に、重盛は喉を大きく動かし、カプセルを飲み込んだ。
数度胸を叩き、重盛は大きく息をつく。
「あ~効いてきた」
「そんな速効性はないよ」
そもそも飲んですぐは、カプセルが溶けていないだろうに。
苦笑する望と矢本。
そうこうしているうち、午後からの『二試合目』が始まった。
やや被り気味の、各コートのコールアップ。
二階席や取材スタッフの注目は、やはり京都の久御山か。
あるいは、宇都宮学院の旭海莉か。
もっとも、周りが一番観たがっているのは、その二人の対戦かもしれない。
望と重盛にしてみれば初見の相手も多いのだが、矢本にとっては手の内を知っている相手も多いのだろう。
「ちょっとあっちの方見ていかない?」
「あ、うん」
確かに、見ていても重盛には特に打てる対策はないし、望にとって少なくともこの大会では、『自分のバドミントン』がどこまで通用するか、ということにしか興味がなかった。
勝てそうな相手を選ぶ、というその思考自体がすでに、相手に合わせてバドミントンをするということ。
今必要なのは、それではない。
「そういえばさっき、ラケット借りてたわね、石澤さん」
「ええ、まあ……」
ラケットブースに来てみると、望が借りたはずのモデルが、再び壁にかかっていた。
おそらく同じものを複数持ってきているのだろう。
それはそうだ。
望や重盛はともかく、矢本や今試合中の久御山クラスになれば、特待の誘いの一つや二つあるはず。
名前を見ればおそらく半分ぐらいの選手は、そうした『滑り止め』をキープした状態でこの大会に来ている。
結果を残して、さらに上位の大学からの誘いが来ればしめたもの。
用具メーカーにしても、他社にガッチリ食い込まれている大学や実業団に行くだろう『三強』クラスよりも、こういった選手に使ってもらう方が宣伝効果は高い。
「ああ、これね……」
「今使ってるのと、そんなに変わらないと思う。まだ打ってないけど」
矢本はそのラケットを手に取り、タグに書かれたスペックを確かめる。
「いくつ張った?」
「20」
「私なら21ポンドにするかな。細めなら22で」
そう言うと矢本はラケットをもとの壁に戻し、隣のブースに歩みを進めた。
フレ女のユニフォームに、スタッフの方も揉み手で待ち構えていたが、残念。
午後一番手の試合がおおむね終わり、ちらほらと空いたコートに新たな選手が立つ。
危なげなく二勝目を挙げた久御山と入れ違いに、望は中央の第三コートに入った。
この位置で、対戦相手が矢本と来れば注目度も高いだろう。
(立ち上がりを大事にしよう。失点も意味のあるものに……)
矢本千景は、荒垣ほどではないが背が高く、腕も長い。
コニーの加入でオーダーに多少の変動があったが、昨年までの雄勝・矢本のペアと言えば、二人そろって身長を生かした強打で押し込んでいくスタイルが身上の、全国でも有数のペアだった。
と──。
「えっ……」
ネットを挟んで反対側。
彼女は、膝にサポーターを巻いていた。
「矢本さん、膝」
「ん? ……ああ、大丈夫よ。おまじないみたいなもの」
「──」
望は、県予選を思い出す。
対荒垣戦の序盤は、左右に走らせて膝にダメージを与える作戦を仕掛けた。
体力を奪う、という意味なら常套手段だが、倉石は荒垣の膝が限界に近いことを知って、その作戦を指示したのだ。
結果的には、荒垣の強打に対しコントロールしきれなかった望が、彼女の膝を終わらせることはなかったが……。
一抹の影を心に落としたまま、望はウォームアップを終える。
(やるしかない──C2からC6のローテ)
初手は矢本のサービス。
ネット前では、サイズの大きい矢本よりも望の方が分がいい。
それを知ってか、ロングサービスを挙げた矢本に対して、望は彼女のバックサイドへのドライブ。
(おっ)
やや、球足が長い。
(というよりも、初速が高いのかな?)
新品のラケットに新品のガット。
いつもと同じポンド数で張ってもらったはずだが、少しばかりシャトルの伸びがいい。
ガットマシンに狂いはないが、一般の小売店では初期のガットの伸びを考慮して、ほんのコンマ数ポンドほど高めに張る。
そのせいだろう。
深いドライブに対して矢本は、最も長い対角線にクリアーを返す。
ラウンドを入れてフォアからリバースカットを打てば、最初のポイントは望のものだろう。
(でも……)
望はそうはせず、ストレートに回転数を抑えたカット。
相手のフォア前に落とすC2、これは拾わせていい。
「ッし!」
長い脚を生かした広いストライドで、矢本は難なく追いつく。
重心を腕にかけ過ぎていないからコースも突けるし、身体の戻りも早い。
(上手いな、足が良く出てる)
打球を追いつつ、望は矢本の動きを見る。
コート中央奥、どちらにも対応できるニュートラルな重心。
(もう一度距離を取る。C4……!)
高く打ち上げる、バック奥へのクリアー。
しかし、思ったよりも距離がない。
(──しまった!)
ラウンドを入れても十分、スマッシュのバックスイングには間に合う。
望は細かくステップを踏み、身体を低く伏せた。
だが。
「え──」
矢本はラウンドを入れず、ハイバックでクリアーを返す。
長い腕を生かしたそれ自体は十分な深さがあり、即座に攻めに繋げるのはリスクが大きい。
(……なんで?)
矢本ほどの選手なら、中途半端な飛距離のクリアーなど上から叩き伏せるはずだ。
ラウンドが出来ないということもないだろう。
思い当たることとすれば──。
(やっぱり、膝か……)
ラウンドを入れて上から叩くとなれば、身体がやや後ろに流れながらのジャンピングスマッシュが最善手。
ただしその場合、踏み切りと着地の二度、膝に大きな衝撃が来る。
それを避けるためにハイバックでいなす、というのは道理だ。
矢本のハイバックを受けて、望は空いたフォアにドライブカットを沈める。
1-0。
膝に手を当てることこそないが、シャトルを拾ってよこす拍子に、踵を軽くフロアに叩き付ける仕草からも、膝の状態が良くないことが分かる。
「……」
ショートサービス。
間合いが詰まればスピードで望が優位、守備範囲ではリーチの長い矢本に分がある。
ただしそれは、フットワークが万全なら、という条件付きだ。
膝を労わるなら、ネット前には来ない。
(──だよね)
矢本の返球はまたしてもクリアー。
足が出ない代わりに腕を伸ばし、大きくラケットを振ったそれは、飛距離こそあれコースは甘い。
これならパターンCが使える。
同じタイミングで一試合目をこなした矢本は、おそらく望のリバースカットを見ていないだろう。
まだ、奥の手を出すタイミングではない。
(バックサイドへ長いボール、C2……)
矢本の返球はまたしてもハイバック。
次はクロスでネット前に落とすC3。
先ほどと同じC4を、今度は丁寧に深く、コート奥隅へ。
背中を向けて追いかける矢本の顔が歪む。
C5はストレートへのヘアピンだが──。
「はっ!」
同じハイバックの返球を、望は力いっぱい叩き返した。
ボディへのドライブ。
かつての倉石なら怒号が飛んだことだろう。
「く──」
矢本はハイバックの体勢から体を引き、逆手でシャトルを打ち返す。
ジャストミートではない、差し込まれた羽根だったが、幸運にもシャトルは白帯に当たり、望のコートに落ちた。
「あ……ごめんね」
「いえ──」
ネットインはハードラックだ。
ポイントを得た方が謝意を示すのは競技における一つのマナーとなっている。
間違っても『狙った』だとか、煽りを入れてはいけない。
「……でも今の、ヘアピンの方が良かったんじゃない?」
「!」
答えずに、望は踵を返した。
(わかってる。C5はストレートのヘアピン、でも……)
それを打ったら、矢本は拾いに走っただろうか。
拾わせればC6──相手の体の後ろへのクリアーで、手筋はC2に戻る。
それを繰り返して体力を奪い優位に立つ。
「サービスオーバー、1-1」
矢本はまたしてもロングサービス。
強打があるのに、崩しに来ない。
望はほぼ確信していた。
(膝、相当悪いな……)
大きな身長は長所ではあるが、ウェイトという短所をも同時に生む。
荒垣に比べれば足回りは多少細いが、上半身の肉付きは彼女以上に思えた。
ここ最近急激に悪くなった、というわけではないだろう。
おそらく『かなり悪い』と、『ちょっと悪い』の間をずっと行き来している。
その意味では荒垣と違い付き合い方を知っている分、今この試合で壊れる確率はずっと低そうだ。
ただ、それでも。
「──っ!」
C4までをなぞった後、望はカット気味にラケットを振る。
腕が長い選手はどうしても、手元が詰まる。
今度ばかりは矢本も捉えきれず、シャトルは彼女のコートに落ちた。
2-1。
「……」
不満げな顔で、矢本は足元のシャトルを拾い、ラケットに乗せて望に放り投げる。
「ねえ?」
「?」
「気にしてる? 私の膝」
「え──そりゃあ、まあ……」
他の選手なら、別段気にも留めなかっただろう。
自分自身が不調を抱えているかもしれないし、お互い様と言っていい。
ただ望には、それを良しとすることができなかった。
あの二年生や、荒垣を知っているから。
「貴方はそういう人なんだ……」
甘いと言われれば、間違いなくそうだろう。
否定はできない。
「お願いだから、手は抜かないで。限界が来たら自分で止めるわ」
「でも……」
「──ヒラで打とうや」
小声だが明らかに変わった声色。
望は目を見開いて矢本を見つめる。
「ね」
それはほんの一瞬で、もう既にさっきまでの矢本に戻っていた。
(手は、抜かないで……か)
望は改めて間合いを作り、サービスを打った。
同情を拒むフリをするような、安っぽい浪花節ではないだろう。
手合わせを望んだのは彼女だが、誘ったのは矢本の方だ。
(何か勝算がある? いや──)
五点差でインターバルを迎えても、矢本の動きにキレは戻らない。
様子見や撒き餌とするには、配分が大きすぎる。
結局、第一ゲームを望が勝ち切ったところで、矢本は棄権した。
「なんで私と……無理にプレイしたの?」
試合後、会場の隅でストレッチをする矢本と望。
インターハイのような大舞台ではないから、そこまでしおらしい感情はないが、やはり望には腑に落ちない部分があった。
「ううん……最後にやってみたかったから、かなぁ」
「最後?」
「手術するの。まだ正確な診断は出てないけど、たぶん半月板ね」
リハビリには一年はかかるという。
それから、落ちた体力をもとに戻して競技の第一線に復帰するには、また短くても一年はかかるだろう。
無理を承知でこの大会に出たのも、その二年間を待ってくれる大学を探してのことだ。
「……」
考えてみれば、納得がいく。
インターハイの団体戦もそうだ。
ダブルスと重複せずにオーダーが組めるのなら、絶対的エースの志波姫、コニーのどちらかは万が一の切り札として、最後の試合にとっておけばいい。
そうしなかったのは、矢本を出来るだけ温存する必要があったから。
福岡国際大付属の中尾は、同校の平田に比べれば一枚格下。
平田ならいざしらず、二番手に一セットを落とすというのは、『フレ女のシングルスレギュラー』としては考えづらい。
「でも、戻ってくるよ」
「そう……だね」
手術とリハビリを終え、矢本が競技に戻ってくるのは順調なら大学三年、二十歳だ。
バドミントンは案外、現役生活が長い。
二十三歳の年齢から全日本を十連覇した選手もいる。
もちろん、それに比べると望たちの才能や資質は、取るに足らないものかもしれないが。
試合中一瞬見せた鬼気迫る表情とはうって変わって、矢本は柔和に笑う。
「目指せパリ、かな」