はねバド!~Second Wind~   作:STORICKS

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4th game Thunderstruck

「リタイアド、デスカ……」

 このおっさんはヒマなんだろうか。

 旭が二試合目を終えて二階に戻ってくると、キアケゴー氏は相変わらずそこにいた。

 確かに、端のコート上のこの席は、会場全てを見渡せるという意味では悪くない位置だが、なにぶん反対側のコートとは距離が遠い。

「これって、初日三試合消化できないと、帰らされるんですか?」

 旭は、開会前の説明になかった疑問をぶつけてみる。

 彼女自身は何も故障など抱えていないが、重盛が敗れた有川は肘を厳重にアイシングしていたし、矢本はたった今棄権したところだ。

 誰もかれも、三年間ひたすら努力を続けてきた選手たちだ。

 痛いの痒いのと口には出さなくとも、抱えてる爆弾の一つや二つ……。

「イエイエ、そんなコトはありませんヨ。ランキングからは外れますケレド……」

 ランキング──。

 旭はゲームを落とさずに2勝を収めた。

 他にストレートで連勝しているのは、インターハイ第四シードの久御山に、長門湯谷都央の深川。

 ここまでは実力から言って妥当だろう。

 それに追いすがるのは同じく二勝の望だが、彼女の連勝は『対戦相手の棄権を含む』という注釈付きだ。

 

 

 

「お待たせ──怒られちゃった」

 電話を掛けてくる、と言って姿を消した矢本が戻ってきた。

「あ、うん……」

 赤くなった目を見て、望は察する。

 電話の相手はおそらく志波姫だろう。

 矢本にしてみれば、インターハイを制しての引退だ。

 膝に爆弾を抱えながらの全国制覇は、それまでの苦労が何もかも報われるような、至福の時だったに違いない。

 それで終わっても、良かったんじゃないのか。

 手術をすれば全てがリセットされるわけでは決してない。

 怪我を悪化させるリスクを背負ってまで、本気で挑むべき大会だったのか。

 同じように怪我を抱え、二年の大会ではトーナメントの半ばで姿を消した志波姫。

 ギリギリの状態でブレーキを踏んだ結果、春の選抜は個人戦優勝、インターハイは団体戦優勝を達成した。

 そんな彼女の言葉は重い。

「あと一つやれば、ノルマ達成ね」

 努めて明るく、矢本は言った。

「そうだね、でも──」

 重盛はまだ試合中だ。

 一セット目は17-21で落とし、二セット目の序盤。

 2-5というスコアは厳しい。

「相手、誰?」

 オレンジ色にグリーンのラインのユニフォーム。

 プレーは大雑把、よく言えば大胆。

 ただし、左利きだ。

 望はふと、羽咲を思い出す。

「名前は知らないけど、あのユニフォームは知ってる。那智高よ、和歌山の」

「あぁ、だからミカン色……」

 やっぱり、ウチやフレ女のように黒いユニフォームの方が強く見えるな、と望は思った。

 コースは雑だが勢いのあるショットを、重盛が足で拾いまわる。

 そんな展開のラリーが何度も続いているが、最後にはシャトルは重盛のコートに落ちる。

 結局、二セット目は12-21と差が開いての敗北。

「おつかれ、シゲ」

 挨拶を終え踵を返す重盛に、望が声をかける。

「あーっ! ダメだったぁ……」

 敗れはしたが、どことなく満足げだ。

 心底この大会を楽しんでいるのだろう。

 無理もない。

 重盛が横浜翔栄のレギュラー格と言えるようになったのは、せいぜい二年の秋ぐらいから。

 少なくとも県大会優勝時は、単・複のダブルエントリーを任されるほどではなかった。

 それまではA特待、B特待の選手が厚遇されていたが、橋詰を筆頭に鳴り物入りで入学しながら、今一つ伸びがなかった彼女たちのカンフル剤として抜擢された新人戦で、重盛は好結果を残す。

 結果的にはエース橋詰の不調で三年夏は北小町に敗れたが、それは言っても仕方がない。

『エースの負けは全員の負けだ』──よく、倉石に言われた言葉だ。

 学校を背負って立つ一番手の試合は、勝っても負けてもただの一試合ではない。

 そして、『エースが戦って負けたなら、しょうがない』とも。

 少なくとも望には、どのような結果になろうと周囲を納得させるだけの鍛錬を積んできた自負がある。

 だからこそ人付き合いが苦手で、どこか天然でマイペースな彼女はいつも、逗子総合の部員たちの中心にいた。

 本物のエースは、決して孤独ではない。

 三人で談笑していると、近づいてくる人影。

「あの……良かったら、やらへん?」

 聞き慣れぬイントネーションの主。

 望が思うに、彼女がこの大会参加者の中では、一番強いだろう。

 勝ち越しを決めて、ノルマの三試合目。

 間延びしたタイムスケジュールもあって、少し疲労を覚えていた望だが、『インターハイ第四シード』ならば、相手にとって申し分なかった。

 

 

 

「面白いカードが始まりますネェ……」

 キアケゴー氏が顎で示したのは、どことなく雰囲気が似た二人のマッチアップ。

 宇治天神台・久御山久世に相対するのは逗子総合・石澤望。

 お互い2勝を挙げている者同士の対戦だ。

「望チャンとくーチャンは、ざっくり言えば同じタイプデス」

「……くーチャン?」

 たぶんそうだろうと旭は思っていたが、久御山のことだとミス・アンヌが補足する。

「どちらもラリーの組み立てに長けたオールラウンダー。違うのは、カットの切れを生み出すのがくーチャンは振りの強さ、望チャンは肘の柔らかさ……ぐらいでしょうネ」

 オリンピックの金メダリストにそう言われると、旭はそんな気がしてきた。

 だいたいどの試合を見ているときでも、隙あらば鼻毛を抜いていそうな泪ほどではないが、旭もあまり他人の試合をじっくり見る方ではない。

 ただ、午前の試合で望が見せたリバースカットは、まだ彼女の脳裏に鮮明に焼き付いている。

「実力で言えばくーチャンが上でしょう。夏の第三シードは伊達ではナイ。ただし──完全上位互換では決してアリマセン」

 コートの二人がウォームアップをしている間、キアケゴー氏は話を止めなかった。

 『三強』の三人がみな東日本出身であるのに対し、それに次ぐ実力とされる久御山は地元京都の出身で、宇治天神台にも自転車で通っている。

 小学生世代から鎬を削る『三強』が、関東のレベルをぐんと押し上げたのに対し、久御山の育った関西では、彼女ほどの圧倒的な存在は居なかった。

 当然のようにジュニアの地区大会を制し、関西圏の強豪校がこぞって特待枠を用意したのに対し、彼女は自宅から最も近い宇治天神台を選ぶ。

 条件に差は無かったから、自宅から通えてバドミントン以外に労力を割く必要がない選択をするのは当たり前だった。

 キアケゴー氏に言わせれば、それが彼女と『三強』の間にできた段差の原因だという。

「アナタの友人たちが子供のころ、周囲に与えた熱量を、なぎさチャンや望チャン……、沢山の選手たちが受け取ったハズ。もちろん、海莉チャンもネ?」

 もはやツッコミを入れるのはあきらめて、旭はコートに目を向ける。

 才能は輝きを放ち、太陽の周りを惑星が回るように、呼応して別の才能が覚醒する。

 『黄金世代』の成り立ちは得てしてそういうものだと、キアケゴー氏はため息交じりに言う。

「くーチャンは残念ながら、彼女たちとは離れていた。積み込んだ燃料が少ないのデス」

「……」

 ある一定の速度以上に加速しなければ、ロケットは地球の重力から逃れられない。

「予言、シマショウカ?」

「──予言?」

「この試合は、ガス欠にあえぐロケットを、殻を破った猛禽が叩き落す──そんな試合になるデショウ」

 名残を惜しむように、キアケゴー氏は目を細めた。

 そして、閉じる。

 と、また先ほどまでのいたずらっぽい笑み。

「──その猛禽が、狩りの仕方を弁えていれば……デスガネ」

 

 

 

「ふ──うっ……」

 長い台詞回しを続けている舞台俳優のような気分だ。

 喉元の澱みを吐き出して、望は白帯を見つめる。

(0-3か……ここで一本返したい……)

 簡単に与えた点数ではない。

 音楽に例えるならほんの一小節だけ、久御山の方が長く歌い上げただけのことだ。

(──ショート。 前に張る!)

 球足が伸びないように気を使いながら、望はヘアピンを返す。

 彼女にさほどの強打がないことを知ってか、コートミドルに留まっていた久御山は、高く打ち上げて距離を取った。

 アウトレンジでは、望に分が悪い。

 しかし、そう簡単にネット前にはつかせて貰えないことは、望も承知の上だ。

 なにしろ相手はインターハイ第三シード。

 荒垣には敗れたが、それでも一セットをもぎ取ったほどの実力者。

 その点では望も同等であるが、それは荒垣が進化を遂げる前の出来事だ。

 倉石の指示を完遂していればあるいは、勝っていたかもしれない。

 矢本と同じように、限界を迎えた荒垣が棄権して……。

(いや……考えるな。好きにやる。好きだから、もっと好きになるために)

「石澤、がんばれー!」

 と、コート後ろで声援を送るのは重盛だった。

 矢本も右手を握り、劣勢の望を鼓舞する。

 緊張していると思ったのか、重盛はラケットを逆手に持ち、エアギターの真似をしてみせた。

「うん!……、──よしっ」

 ここからだ。

 

 

 

「押されてますね」

「ン? ソウデスネェ……」

 含み笑いで受け流すキアケゴー氏の表情から旭は、まだ彼は『予言』を外した気にはなっていないと理解した。

 コートではまたしても長いラリー。

 これまでのポイントのリプレイを見ているような、足音の少ない探り合いだ。

「シャトルの音、綺麗デスネ」

 要領のいい選手は、既に三戦を戦い終えたのだろう。

 望たちの第三コートの両隣は空いていて、フロアは閑散としていた。

「……どっちが?」

「両方デスヨ。海莉チャンは、『共感覚』って、知ってマスカ?」

 『音』に、『色』がついて『見える』というそれは、専門的には『色聴』と呼ばれる。

 もちろん旭はそんな感覚を受けたことはないし、コートで戦っている二人もそうだろう。

 学校に戻ったら、連れの多重人格者にでも聞いてみよう。

 話半分にラリーを眺める旭を脇に置いて、キアケゴー氏はまたも独白を始める。

「バドミントンを始めた頃、ある国際試合で、そういうコトがありました。もっとも、『色』のような、はっきりした感覚ではアリマセン」

 大きなタイトルのかかった試合、ここ一番のポイントで、相手の意図がシャトルの音を通じて見えるのだという。

「それは、『勘』みたいな……?」

「違いますネ。もっと具体的で確実な、『読み』とも違うナニカ、デス」

「……『ゾーン』に入る?」

「近いデスネ、素晴らしい。海莉チャンも経験が?」

「まあ、多少は……」

 思考の周波数が一気にオーバークロックされるような。

 ほんの数秒を何十倍にもスローモーションして、『何をしたか』は後になってもはっきりと覚えている。

 そういったことは今まで何度かあった。

 ただ、自分は凡人だと自覚している旭と、元金メダリストの感覚が同じなはずはないだろう。

「私は幼い頃から、国の強化選手として、最高の環境を与えられてキマシタ……」

 それは練習機材や金銭的な援助のことではない。

 『好敵手』の存在だ。

「日本語では『咬ませ犬』に侮蔑的な意味合いを含みマスガ、英語で言う『アンダードッグ』には、そうした意味合いは薄いデス」

 英語の勉強は大事ですよ? と、この時期の高校三年生にはきつい冗談を挟み、キアケゴー氏は続けた。

「なぎさチャンとコニーの試合など比較にならない、文字通りの死闘。泥仕合の連続デシタ……」

 血の滲んだ汗がコートに広がり、足の痙攣が止まらず無理やり打ったスマッシュに飛び込んだ相手が、緑色の胃液を吐いた後動かなくなった。

 そこまでやらないとメダルは獲れないのだろうか。

 旭にしても、冬の練習で吐く選手は何人も見たことがあるが……。

「どんなスポーツでも、超一流のアスリートというのは、『人体の究極』を見せてくれる存在デス。彼らは必ず、『ゾーン』に、意図的に入る術を会得シテイル……」

「──……羽咲」

 あのインターハイ、益子との試合で見せたそれは、まさに今キアケゴー氏の言っていることじゃないか。

 旭は身震いした。

 試合前にキアケゴー氏の言った通り、久御山は彼女たちよりは格下のはずだ。

 だとしたら──。

「……えっ?」

 いつのまにか、スコアはひっくり返っていた。

 

 

 

(おかしい、なんでやの……)

 六連続失点など記憶にない。

 男子並みのスマッシュを持つ荒垣に押し込まれたあの試合の一セット目でさえ、そんな連続ポイントは与えていない。

 対面の選手はまるで、著名なジャズ奏者のように、飄々と己のソロパートを続けている。

 何かキッカケがあったか?

 最初の失点はいったいどんな形で……。

(とにかく、一本切らな)

 七本目のサービス。

 ここまでずっと、ロング、ショート交互に打ってきているから、順番通りならここはロングだ。

(やっぱり!)

 読み通りだ。

 確かにサービスは安定している。

 というより、強打やフットワークで劣る選手ならば、サービスを鍛えるしか勝ち筋はないのだ。

 久御山自身も、サービスには自信がある。

「──っと!」

 望のバック奥へ、大きくクリアー。

 打数は増えるがお互いに、攻め手を作れない状況。

 詰めるには持ち駒が足りない。

(あ……そや、これ……)

 徐々に、久御山は自分の失点を思い出してきた。

 望の組み立ては基本的に、少しずつ距離を詰めてミドルからのドライブの応酬。

 足を止めて戦うその手口は、三試合目の疲労を考えれば妥当だ。

 しかし、何かがおかしい。

 意図したとおりの展開なら、あんなに急いで返球する必要はないはず。

(なんでそんな、小さい振りで……?)

 

 

 

「海莉チャン?」

 隣のおっさんは何か喋っていただろうか。

 旭はハッとして、キアケゴー氏の方を向いた。

「海莉チャンは、音楽は好きデスカ?」

「──は?」

 雰囲気重視の援交オヤジかよと思いながら、旭は適当な答えを探す。

「あーまぁ、それなりに、ですね。洋楽とかはあんまり……」

「ピアノとギター、どっちが好きデス?」

「は? いや、どっちもどっち……」

 小さい頃に楽器をやっていたとわけではない。

 年相応にカラオケは好きだが、寮の門限を破るほどでもない。

(ピアノとギター? もっと三味線とかお琴とかあんだろ、ジジイ)

 見た目には気を使っている旭だが、さして派手好きというわけでもない。

 どちらかと言えば、奔放な益子の隣で、彼女を必要以上に浮かさないためのおしゃれという側面が強かった。

 宇都宮学院と言えばそこそこにお嬢様私立ではあるから、ピアノのレッスンとやらを受けている一般生の友達もいるかもしれない。

(部活以外のメンツとは、そこまで絡まなかったけど……)

「要するに、『鍵盤楽器』と『弦楽器』──ナンデスヨ」

「は? はぁ……」

 ピアノの調律師の人数を推測する問題が、よく外資系企業の入社試験で出されることがあるが、ピアノというのは『調律』をしたら基本的にそれを弄ることはない。

 対してギターというのは弦の張りを調節する機構がついていて、極めて容易にチューニングを変えることができる。

 音楽の授業の評点などどうでもよかった旭だが、そう考えてみるとギターの方が面白そうだ、と思った。

 そして、気づく。

(──……チューニングを変える?)

 

 

 

 おぼろげに、久御山は望の優勢の理由を感じ始めていた。

 たまに思い出したようにバックスイングをキッチリと取ってクリアーを上げることはあるが、遠目に見れば何の変哲もないドライブの連打。

 だが。

(全部違う……。球の伸び、カットの変化量も。こんなの──)

 非常識だ、と久御山は心の中で悪態をつく。

 やっている本人はおそらく、意図的に打ち分けてはいない。

 そのためにやたらと急いたスイングで、『フォームを作る時間』を潰しているのだろう。

 こんなことは、練習するものではない。

(コイツ、今思いついたやろ絶対!)

 常識からは外れている。

 少なくとも、久御山自身が考え、作り上げてきたバドミントンの中にはない。

「あっ──」

 荒垣と渡り合うほどの打ち手が、普通なら絶対差し込まれないようなドライブ。

 身体を捻って躱せばアウトだったかもしれないそれを、久御山は当ててしまう。

(アカン……呑まれる)

 力なく浮いたシャトルを望が叩き、スコアは11-7となってインターバルに入った。

 

 

 

 

 あの日、その言葉を投げかけた『二年生』にそこまでの意図はなかっただろう。

 ただその瞬間、望の心は完全に折れた。

 二度と開けるまいと誓った宝箱を抱えて、ひたすらに倉石の戦術を飲み込み、技術を吸収していく。

 握力のなくなった右手から、生皮ごとラケットが抜け落ちることもしょっちゅう。

 いつも望は、倉石がやめろというまでブレーキを掛けなかった。

 入学したての一年生など、血飛沫の舞うコートに圧倒され泣き出す者もいたほど。

 『逗子総合の石澤』は、そうして作り上げられていった。

 敗れた時は、口には出さないが望は倉石のせいだとどこかで思っていたし、倉石自身がその負けを背負い込んでいた。

 やがて競技を続けるか否かの分岐点が近づき、望は心のどこかで、宝箱の鍵を探し始める。

 鍵を手渡したのは荒垣だ。

 しまい込んだ宝物は、より輝きを増して少しずつ、望のもとに戻ってくることとなる。

 

 

 

「望チャンの積んできた努力は、他の誰よりも、『純度』の高いモノデス」

 『やりたいこと』を一切捨てて、『出来ること』だけを追求していく。

 多感な年代、夢が最も大きく膨らむ時期の選手にとって、それは容易ではない。

 それはある意味では重盛にも通じるものだが、競争の中で勝っていくための取捨選択という重みしかもたなかった彼女のそれに対して、望にとっては唯一の、競技における死を避ける手段だった。

「トコロデ、先程の話デスガ……ギタリスト、誰か名前を知ってマスカ?」

「リンゴ・スターとか?」

「……それはドラマーデスネ。ビートルズはいい趣味デスガ」

 別に旭はビートルズファンではない。

 ただ、音楽の教科書で見た名前だったから挙げただけだ。

「ギターソロには楽譜がアリマセン。いわゆる即興ライヴ、インプロヴィゼーション、デス」

「──石澤がそれをしてる、と?」

 キアケゴー氏はにっこりと頷いた。

「華麗なギタープレイも、日々の基礎的な鍛錬があってのモノ。そして『基礎』とは、最早音楽とは言えない、ただ音を並べただけのモノだったりシマス」

 指を動かす、あるいは一定のリズムを乱れずに刻む。

 楽譜を並べて、ひとつひとつ弾けるように上達していく、というのとは技術の厚みがまるで異なる。

 望はつい最近まで、競技者として伸び盛りの時期をただひたすらにそんな基礎に費やしてきた、とキアケゴー氏は言う。

 どちらが楽しいかと言えば後者だろう。

 バドミントンとは言えないような低レベルな事から、繰り返し繰り返し練習してきた。

「競技を始めた『最初の一日』が、最も成長度が大きい。これは、ワカリマスネ?」

「ええ……」

「出来ることがどんどん増えていく。それが周囲より少し早いだけで、全能の神にでもなったヨウナ……」

 早熟の天才、神童。

 よく言われることだ。

 しかし、それが通用するのは高校まで、彼はそう言い切った。

「泪チャンもようやく、普通の人になりマシタ。勿論、それで終わりデハナイ。伸びしろはまだいくらもアリマス──本人が望めばデスガ」

 ただしそれは、大人と渡り合っていくための『第二段階』の成長だ。

 基礎を見直し体力を練り直し、気ままに積んだ積み木をいったん崩す覚悟も必要だろう。

 大学生に勝った志波姫や、プロ選手であるコニーは既に、その領域に入っている。

 そのための『燃料』も十分に積み込んである。

「望チャンの成長曲線は、似てはいますが彼女たちとは違いマス。なぎさチャンや、くーチャンとも、ネ」

 誰よりも早く『第二段階』に直面し、モチベーションの折れた望には、何の覚悟も必要なかった。

 少しばかり悪態をつきつつも、自らの燃料をほとんど使うことなく、指導者に牽引されて成長した。

 久御山は違う。

 覚えた楽譜を、より上手く弾けるようにと努力しただけだ。

 それ自体否定されるものではないし、それは聞き惚れるほどに『上手い』のだが。

「ラリースポーツは、言わば即興ギターバトルなんデスヨ」

 旭はもう一度、今年のインターハイを思い起こす。

 相手のプレイを受けて、絶妙なレスポンスを『即興演奏』する志波姫。

 そもそも、体格やセンスで、誰よりも『フリースタイル』なプレイが許容されるコニー。

 両手使いの羽咲も含まれるか──。

「荒垣も……」

「その通りデス。彼女はコニーとの一戦で、明らかに変貌した。『コニーだったから』とも、言えマスガ……」

 『好敵手』の存在。

 惑星の誕生は、いくつかの星がぶつかり合ってできたものだという。

「望チャンも、変わりましたネ……」

 コート上で起きている現象から読み取るならば、『視野の広さ』が大きく向上した。

 何も考えず手癖で打っているような、バラついたドライブを見れば、意図的にそうしているとわかる。

 拘ってきた『基礎』のフォームは、捨てようとしても捨てられない。

 理にかなったフォームだから、シャトルをミートできる。

『キー』さえ外さなければ、この演奏が終わることはないだろう。

「ソレは無理ですヨ。くーチャンではネ……」

 十代の選手が持つ『上手さ』は、時には大人を喰ってしまうレベルに成長するかもしれない。

 しかしそれは所詮、基礎に穴を残した『砂上の楼閣』──。

 本物の強敵と相対した瞬間に、なまじ穴が見えてしまうから、傾いた柱にしがみつくしかない。

 やがて──驚くほどあっさりと、城は陥落した。

「マッチワンバイ石澤──21-17、21-6」

 後半は完全に望の独り舞台だった。

 得意のラリーで相手に翻弄されてしまったとあっては、さしもの久御山にも打開する手段がない。

 第一セットはほんの手慰み程度のスピードプレイで望に迫ったが、終盤はほとんど足が止まり、望もそれを感じてか早めの仕掛けですんなりと勝ち切った。

 第二セットに至っては、リバースカットの大盤振る舞いで望が序盤を走り、集中力を欠いた久御山のミスも続いての結果だ。

 人もまばらになった二階席が、コールを聞いて静かに沸く。

 お目当てだっただろう矢本がリタイアし、大半の選手が既に三戦目を終えてホテルに戻っても、残っていたわずかな取材陣が、遠慮がちにカメラを向けた。

「三連勝……デスネ」

「凄かったです。特に、第二セットは……」

「まぁ、疲労もあったのデショウネ」

 確かに、通常の大会のように次々と試合をこなしていくのならば、案外疲労は残らないものだ。

 三試合目を阿方と戦い、勝ちはしたが旭は一セットを落とした。

 白星を三つ獲得したのは数人だろうが、セットカウントでいくなら、旭は望に勝たなければならない。

「石澤とやりたいな……」

「それはいい。私も是非見ますヨ」

 

 

 

 圧倒的勝利を収めた望を、重盛と矢本が労う。

「ありがと、シゲ」

 重盛の差し出したタオルを受け取り、望はベンチに座り込んだ。

 友人の唐突な覚醒に戸惑っているのか、重盛は少し距離を置いて座る。

 矢本は矢本で、どことなく収まりが悪そうに髪を弄っていた。

「ちょっとは、強くなったかな」

 満足げに、望は借り物のラケットを握った。

「ちょっとどころか──」

 と言いかけたところで、重盛のお腹が豪快に鳴る。

「……あはは」

「帰ろっか、ホテル」

「うん!」

 会場を出る間際、一試合目の組み合わせ発表の場所で、望は足を止める。

「?」

 外用のスニーカーに履き替え終わった重盛が、ドアの前で引き返してきた。

「ごめんシゲ、ちょっとだけ待って」

 望は携帯電話を取り出し、そこにある自分の今日の試合結果を撮影する。

 そして、他の選手たちの星取りをチェック。

(宇都宮学院の旭海莉……あとは知らないなぁ……)

 照明がほとんど落ち、暗くなった会場内では各セットの細かい数字までは読めなかった。

 セット数はわからないが、同じく三連勝していたのは他に今治第三の鈴木、長門湯谷都央の深川、埼玉栄枝の岩崎。『ミカン色』の那智高・米子の名もあった。

「これは……」

 矢本が思案顔で星取り表を見つめる。

「実力ならやっぱり深川、かしら。栄枝の岩崎も強いけれど……」

 能天気なのか、空腹が限界を迎えているのか。

 重盛は笑って、外に出ようと二人を促した。

「いやー今の石澤なら誰だって勝てるよ! だからほら、はよはよ」

「そんな簡単には行かないよ……」

 泉や橋詰に苦戦していた夏からしたら、この大会では何もかもが上手くいきすぎているようで、望は浮かれるよりも不安が強い。

「大丈夫──アンタは今、誰よりもバドミントンが上手だよ」

 

 

 

「夜はもうだいぶ冷えるな。今日は熱燗にするか……」

 お通しと、とりあえずの生ビール。

 いくつかの小皿を空けた頃、倉石は店員を呼ぶ。

 ふと、テーブルに置いた携帯電話の画面が灯った。

「電話ですか?」

「いや……『ライン』だ。石澤から」

「へ?」

 立花は、目をぱちぱちとさせる。

「『ライン』なんかやってんすか? 生徒と?」

「バカ、大声出すな」

 倉石に比べれば、はるかに生徒たちと年の近い立花ですら、泉以外のラインは知らない。

 コーチになりたての頃は、猛練習で部員の顰蹙を買い、荒垣にも嫌われていたという事情はあるが。

「全員入ってるぞ。ほら、武山、松浦、稲田……」

「なんでまた……」

「便利だからな、色々と」

 聞けば、大会の日程や組み合わせ表はPDFで送られてくるから、それをそのままPCから部員のグループに送信しているのだという。

 なるほど合理的だ。

「声には出しづらい事も、文章には書けるしな……」

「で、石澤は何て?」

「『3つ勝ちました。明日も頑張ります』だとよ」

 そうして倉石は、添付されていた写真を立花とともに見る。

「『勝ちました』って……えぇ!?」

「意外か?」

「失礼ですけど、まぁ正直……一つは相手の棄権ですけど」

 一つ目は、豊橋アンリに快勝。

 第二戦の相手・矢本千景は棄権し、三戦目。

「久御山にこのスコアというのは……」

 今年の夏、インターハイに出場する荒垣と羽咲のために、立花は松川女史の助力を得て、全国の有力選手を調べ上げた。

「俺からすれば、予測……いや、期待できた事だがな」

 お猪口を呷り、倉石は息をつく。

「荒垣との神奈川準決勝、第一セット終わってインターバルの時、石澤が俺に何を言ったと思う?」

 『私のやりたいバドミントン──これから、見つけてきます』

 反対側のサイドにいた立花達には、そのやり取りは聞こえていなかっただろう。

 しかしその後の第二セット、倉石は指示を飛ばすことを辞め、望は荒垣から一セットを取り返す。

「あの時から、だな」

 その短いインターバルの瞬間、『逗子総合のエース』は、自らの胎内に、バドミントンプレーヤーとしての『石澤望』の核を宿す。

「そして、全国大会で──ゲスく言えば、志波姫に孕まされたようなもんだ」

 本人の前では絶対言わないが、と倉石は注釈を付けた。

 何かのはずみで、そうしたことは往々にして起きる。

 コニーに相対した荒垣の、覚醒とも言える変貌を、最も近いところで目の当たりにした立花にしてみれば、その比喩は実にしっくりと腑に落ちた。

「なんとなく、わかります」

 おそらく、久御山との二セット目に、新たな『石澤望』が誕生した。

 これからしばらくの間、その『石澤望』は無邪気に自分の世界を広げていくだろう。

「……でも、それは、コーチじゃダメなんですか? 倉石さんじゃ──」

「それじゃダメだ。大人にやり込められた、それだけではこの年代は成長しない。羽咲がそうだろう?」

 相手の本気度はわからないが、事実として世界ランク一位の王に1セットマッチを勝った羽咲。

 『未知との遭遇』によって選手が成長する、というのなら、羽咲は神奈川準優勝に留まることはなかっただろう。

「プレーヤーとしての成長は、俺たちが狙って起こせるものじゃない」

 基礎たる土壌を貪りつくした果てに、その種が芽吹くかどうかは誰にもわからない。

 それでも、芽吹いたはずの種を死なせないために、倉石はひたすら精力的に指導を送る日々を繰り返す。

 その結果が、一年の空白を挟んでなお躍進し、名だたる強豪を抑えて、神奈川の王者に君臨する逗子総合の原動力だ。

「だから、石澤をこの大会に送り込んだんだ。費用は全部俺持ちでな」

「──は?」

「当然だろ。特待とは言え引退した三年生だぞ? しかも実績のない初開催の大会に、学校から経費が下りるわけないだろう」

「まぁ、そりゃそうか……」

 だったら今日は奢りますよ、と立花が言うが、倉石は固辞する。

 学生コーチに奢られるほど困っちゃいない、と冗談めかして。

「勿論、アイツにはそんな事言ってない。……クサイ言い方だが、俺の罪滅ぼしでもある」

 スランプと言うには深すぎる闇に落ちた望に、半ば強制的に練習メニューを指示し、技術を教え込んだ。

 それが度を越した単なるシゴキではなかったのは、今の望が故障を抱えていない事実を見ればわかるが、約二年半もの間、基礎練習に明け暮れ、フォームの欠点をひとつひとつ潰していく作業に、望は音を上げることはなかったのか。

「──『辞めたい』と言ってきたことは流石になかったが……な」

 どちらかと言えば、彼女の周囲の声の方が大きかった。

 なぜそこまで、一人を追い込むのか。

 一見すれば『特別扱い』に、不満を持った部員もいたが、そんな生温いものではなかった。

 部内の対抗戦にもほとんど顔を見せない。

 しかし、たまに試合に出れば、次々と飛ぶ倉石の指示を、機械のごとく精密にトレースしてみせる望に、周囲は徐々に反応を変える。

 アスリートとしては欠点と言える、望の『心の弱さ』が少しずつ、見えてきたからだ。

 試合中は全く表情を変えないが、終わって握手を交わすときには、後ろからの声に苛立ったり、寂しげな顔をしたり。

 居残り練習後、一人ぐずりながら後片付けをしている姿を、たまたま忘れ物を取りに来た後輩が見つける。

 望はそれに気づかず、後輩にとってもその時の彼女は、気安く声を掛けられるような状態ではなかったが、その事実は部員の『ライン』で広がる。

 ほんの少しでいい。

 悩めるエースの重荷を、肩代わりしてあげられるようになろうと、部員たちは陰で団結する。

 望も含めて全員の努力はやがて報われ、夏の王座奪回を果たす。

「罪なんてないんですよ、たぶん……」

「ん?」

「だってみんな、倉石さんと石澤の周りに、集まってたじゃないですか」

「──……そうだな、そうかもしれん……」

 

 

 

「なんでいきなり強くなっちゃったの?」

 夕食のバイキングに出たポークソテーの肉はデンマーク産の豚だそうだが、恐らく味わっては居ないだろうスピードでいち早く食べ終えた重盛が、デザートと思しきアイスクリームを手に聞く。

 きょとんとしている望に、重盛はスマッシュを叩きこむ。

「県大会の時、そんな強くなかったじゃん」

 矢本は思わず噴き出した。

「なんでだろう……やりたいことが、明確になったから、かな」

 つなぐ言葉は覚束ない。

 しかし望は、掴んだ欠片を是が非でもものにしようと、今日の三試合を反芻していた。

 他でもない自分の身に、いったい何が起きたのか。

 豊橋に対しては、ここ一番の点差状況までリバースカットを伏せた。

「説明、シマショウカ?」

 と、物好きの老人が現れる。

「ミスター・キアケゴー! サインください!」

 重盛は目にもとまらぬ早業で、紙ナプキンを一枚とり、どこかからボールペンを取り出す。

「ハッハッハ。ミス・アンヌ」

「はい、どうぞ」

 用意が良いのか、他のテーブルでも同じことを言われているのか。

 ミス・アンヌが取り出した色紙に、キアケゴー氏は太めのサインペンを走らせる。

「メルシィ!」

 それはフランス語だ、と望は心の中で突っ込んだ。

「二枚目デスヨネ? 転売はダメデスヨ?」

「あ、大丈夫っす。英美のぶんだから」

「アア、ナルホド……ではもう少し、書き加えマショウ」

 そう言うとキアケゴー氏は重盛から色紙を受け取り、再びサインペンで何かを書いた。

「……なんて読むの?」

 矢本と望も色紙を覗く。

 そこには、『エミチャン』とカタカナ。

 そして。

「……”God Rejse”……?」

「『良い旅を』と言う意味デス。受け取り方はエミチャンに任せますケレド……」

 髭をさすり、サインペンのキャップにふたをして、キアケゴー氏は空いた席に腰を下ろした。

「望チャンは最近何か、新しいことを始めましたカ?」

「新しい……それは、バドミントンでですか?」

「イイエ、日常生活でも、なんでもイイデス」

 思い当たることと言えば、ひとつ。

「そういえば車を──免許、取ったので」

「オオ、素晴らしいデス。車はいいものデスヨ。特に日本車はイイ、壊れマセン」

 彼ほどの成功者なら、ポルシェにでも乗ってるだろうか。

「私が最初に乗った日本車は……そう、ミアータでしたかネ」

 付き合いの古い友人から格安で譲り受けたオープンカーだという。

 背の高い彼には、小さな日本車では屋根付きだと都合が悪かったらしい。

「車にはエンジンが積まれてイマスヨネ?」

「はぁ、はい……」

「アスリートも同じコト。レースで勝つには、エンジンが大事デス」

 草レースの盛んなあちらの車事情。

 キアケゴー氏には中年以降の趣味として、草レースを嗜んだ時期があった。

 のめり込んで、結構な額をチューンナップにつぎ込んだ事もある。

「エンジンというのは、技術の塊デス。アスリートに置き換えれば、最も基礎的な、コアになるモノ……」

 クランクを、ピストンを磨き上げ、バランスを取る。

 レース用エンジンはそうやって、勝つためのパワーを高めていく。

 もちろん、普段のメンテナンスも重要だ。

 オイルや点火プラグは消耗品。

 ターボというのは、言ってみればドーピングのようなものだから、ここでは自然吸気エンジンの話をしよう。

「そうしてここ一番、ホームストレートで思い切りアクセルを踏む。スピードは上がり、前を行くライバルを追い抜く……最高の瞬間デスネ、アレハ……」

「……」

 望は、アイスを食べ終えた重盛を横目で見る。

 話相手の自分よりも、重盛の方が理解が深そうだ。

「アクセルを踏まなければ、パワーは出マセン。少し前までの望チャンは、そんな状態デシタヨ?」

「え──」

 今まで一度も、試合で手を抜いたことはない。

 倉石が格下と断じた対戦相手にも、彼は『次の試合』に向けてベストの勝ち方を模索していたし、望もそれを受けて忠実に戦った。

 それ自体は、まごうことなき『全力』だ。

「簡単に言エバ、望チャンのエンジンは……もっとパワーが出る、というコトデス」

 突き詰めたレース用自然吸気エンジンは、時にレブリミットが一万回転を超える。

「今までの望チャンは、せいぜいエンジン出力の八割程度しか使い切ってイナイ。そうさせたのは指導者デショウ。モチロン、一概に悪いという事ではアリマセン」

 むやみにエンジンをふかす、というのは確実に、その寿命を縮める。

 競技生活はスプリントではなく、耐久レースだ。

 少なくとも幼少期に大した戦績のない望は、そう願っていた。

「しかし──今日は違いましたネ?」

 望は頷く。

 三戦目、明らかに『格上』と思える久御山に先行を許した立ち上がり。

 それまで培った基礎に身を委ね、望は敢えて思考を止めてスピード勝負を挑んだ。

 バックスイングもなく、スイートスポットをずらしたシャトルは面白いように久御山のリズムを崩し、立て直そうと彼女が仕掛けてきた早いラリーにも打ち勝っての第一セット先制。

「アレこそまさに、限界ギリギリまでアクセルを踏みこんだ瞬間デス」

 『ゾーン』に入る経験は、何も技術を高めていれば必ず出会えるというものではない。

「──イヤ、もしかすると……アレでもまだ、レブリミットではないのかも知れませんネ」

 第二セットは、あまり参考にはならないだろう。

 集中力の限界と疲労が同時に来た久御山には、精密にサイドラインに落ちていくリバースカットをただ見送るしかなかった。

「プロ選手と言えど、一人の社会人デス。車も運転スレバ、飲みにも行くデショウ」

 おっと、これは望チャンには早かったですかね?

 そうキアケゴー氏は言って、席を立った。

「ヒントになりましたカ?」

「少しは……ありがとうございました」

「ウン、それは良かったデス。それと──」

「?」

「──パスポートは、持っていますカ? 恐らく望チャンは、近々それを必要とするデショウ」

 

 

 

(パスポート……)

 それを必要とするような未来が、あるのだろうか。

 日課にしている筋トレをこなして、長めの入浴とストレッチを終えた望は、ホテルの部屋の狭いテーブルに、二冊のノートを広げた。

 一冊は、バドミントンのコートがずらりと描かれた、専用のもの。

 こういうものは一般の文具店では見かけないが、倉石によれば部活動用具の専門卸業者が取り扱っているのだという。

 もう一冊は、普通のノート。

 特段、誰かに見せるために書いているものではないが、日々の練習での気付きや、その日の心境などを手なりに書き綴ったものだ。

 三年に進級してすぐに三冊目のノートを使い切り、今広げているそれは都合四冊目になる。

 今までのページには、ゴールデンウィークの合宿から、夏のインターハイまでの記録を付けてあった。

 それからしばらくノートを付けていなかった望だが、ふと思い出したように、ペンを走らせる。

「速いラリー……スイッチを入れる感覚。──違うなあ」

 熱で消えるというそのインクで書かれた文字を擦って消し、望は改めて書き直した。

──ギアを上げる。

 これだ、とばかりに望は蛍光イエローのマーカーペンを取り出し、その短い部分をなぞる。

 言葉にしたことは案外すぐに忘れるように人間はできているが、何かに書き記す、というのは記憶を長持ちさせるには有効だ。

 備え付けのティーバッグをカップから取り出し、熱い紅茶を啜る。

「ふぅ……」

 明日は誰と戦うのだろう。

 二日間で七試合だから、明日は四試合だ。

 『パスポート』を使う気なら、今日負け越した選手を指名すればいい。

 ただ、今の望にとって、それはあまり意味のないことだ。

 そもそもデンマークの大会にしても、どれほどの質かは分からない。

 野球やサッカーならだいたいどこの国が強いかは望も知っているが、バドミントンにおける強豪国、というのはあまり聞かない。

 それこそ、キアケゴー氏やコニーの出身であるデンマークぐらい。

(たしか、ドイツの上の方だよね……?)

 あいにく地理の教科書は持ってきていなかったので、望は頭の中に世界地図を描いた。

 東南アジアの地形は詳細に描けるが、こと地球の裏側についてはぼやけてしまう。

 そこで話される言葉が何語かもわからない。

 英語ではないだろうというのは、夕食の時に重盛がもらったサイン色紙の文字で分かった。

 アルファベットだが、綴りは英語のそれではない。

「……ま、いっか」

 枕元に置いた携帯電話が充電コードにつながっていることを確認してから、望は部屋の電気を消し、布団に潜り込んだ。

 しんと静まった室内に、時折外の廊下の話し声が聞こえる。

 若い女性の声だから、たぶん望と同じ、この大会に出場している選手だろう。

 シーズン外れの南国の宿にはうるさい団体もおらず、心地よい疲労感にたちまち望はブラックアウトした。

 

 

 

「相手を崩そうとするあまり、堅く考えすぎだ」

 脳内で声が響く。

 電波の遠い通話のようなそれがさざ波のように引いて行き、ふと望は、自分がコートに立っていることに気づく。

 誰に宛てたものかわからない声援。

 隣のコートに目をやれば、どこの県の学校なのか、聞かない名前同士が戦っている。

 白帯の向こうには、志波姫──。

(……よしっ)

 主審に促され、望は彼女のサービスに備えて膝を曲げ、姿勢を低くする。

(初手は高く、奥に返す。身長がさほど変わらない相手なら、長いラリーはイーブンで行ける。問題は、そのあと──)

 二手目、三手目と望は徐々に志波姫をバックコートに押し込んでいく。

 空いたフロントにカットスマッシュを沈めるのがベストパターンだろうが、それが通用しないことは一セット目ではっきり分からされた。

(ミドル奥からストレート、ここから……)

 志波姫は高めの球で望をいったん下がらせ、作った時間で少しずつネット前に寄せる。

(ドライブで、ボディへ!)

 乾いた音を立てて、シャトルは志波姫の肩口に向かう。

 距離を詰めてのボディブローだ。

 いかに春の王者と言えども、苦しい体勢からなんとか肘を抜き、シャトルを弾き返す。

(詰まった! もう一度──)

 ごくわずかだが、確実に浮いたそれを望は、早いトップから今度はカットをかけて返球。

 同じ球なら二度は通じないだろう。

 しかし、肩から少しだけ沈んで鳩尾を抉ってくるそのシャトルを、志波姫はたまらずクロスに打ち上げて逃げる。

 次はヘアピン、と読んだのか。

 志波姫は小刻みにステップを踏み、ネット前中央に張り出す。

「ふッ──!」

 望の返球はまたしてもボディへ。

 十分なバックスイングから放たれたリバースカットは鋭く曲がり、シャトルは志波姫のラケットを弾いて転がった。

「よしっ!」

 志波姫に後手を踏ませた。

 望は興奮を沈めつつ、サービスの構えに入る。

 ここは間合いを取らない。

(一気に走る──後半に強い王者の方程式を壊す!)

 ロングを打ち上げ、望はコートミドルに出る。

 志波姫の返球は──。

(高い……? いや──)

 腰を溜めてタイミングをずらし、ラケットを振りぬいた志波姫を、望は見逃さない。

 しかし、相手を見ていた分、対応は一歩遅れる。

(差されたッ──一度クリアーで逃げる)

 トップを作り切れずに下から打ったクリアーは、それほどコースは厳しくない。

 案の定志波姫は、お膳立てと言わんばかりに望の足元へ返球。

 シャトルを追って前に出ながら、望は考えた。

 高度は既に白帯を割っている。

 上からは打てない。

(ここから押すには、どうする?)

 強打のない相手にラリーで勝つには、前に出るのが一番手っ取り早い。

 それを知らない志波姫ではないだろう。

 彼女はたちまちネット前に詰め、盤石の態勢で望を待ち受ける。

(乱れさせなければ叩かれる……ここはクリアー)

 渾身の力で、望はシャトルをしばき上げた。

 触れないぎりぎりを狙った『抜き』のクリアーなら攻勢的意味を持つが、このクリアーはそうではない。

 完全な時間稼ぎだ。

 志波姫もそう受け取ったらしい。

 一瞬ラケットを出しかけるが、あきらめてすぐにバックステップを踏む。

 呼応して望も後ろに跳び、改めて前に──。

(キック、バック……)

 前後のフェイントを入れた望に対し、一瞬の逡巡を挟んだ志波姫。

 二度目のキックを見て、彼女は改めてネット前勝負と確信し、ドライブを打って再び前に詰める。

(ここでヘアピン!)

 前に走る志波姫の目前に、望はそっとシャトルを『置いた』。

 可能な限り重心をニュートラルに保ちつつ、志波姫はそれを打ち返す。

(崩れない……でも、体勢は悪い!)

 白帯の上を這うように越えてきたシャトルを、望は落ち着いて返球する。

 志波姫のバックへのストップショット。

 時間を取ろうと、彼女はそれを掬い上げ、望の頭上に送った。

(浅い──叩く!)

 飛び上がった望は、力いっぱいシャトルを上から打ちつける。

 無理な体勢から放った攻撃は、十分な威力を持たなかった。

 なんとかボディには行ったが、スピードが足りない。

 志波姫は右足を引いてスペースを作り、器用にラケットを操って返した。

 詰まった距離が、徐々に開いていく。

(よし……バックコートへ!)

 望はほとんどネットに背中を向けた体勢から、ラケットを横に振る。

 ミドル奥に戻っていた志波姫は、足を切り替えて左斜め前へ出、広く空いた眼前、望のフォアサイドにヘアピンを送った。

(く──これじゃダメだ……)

 振り子時計のように、戦況は僅かな振れ幅で動いている。

 大きくバランスを崩すには──。

(ドライブ! 浮いていい、可能な限り遠く……)

 フォアハンドから、望は志波姫のコートの対角奥にシャトルを飛ばす。

 滞空時間の長いそれに追いつくのは苦労しない。

 志波姫は体を捻り、より長いクリアーを望に返した。

 コースはほぼ中央だが、十分な深さがある。

(リバースカット……サイドラインへ落とす!)

 半分、志波姫はそれを予期していただろう。

 しかしそれでも、物理的に拾えないシャトルはある。

 目いっぱい投げ出した志波姫の手からラケットが飛び、フロアに転がって大きな音を立てた。

 からん、からんからんからん……。

 湧き上がる観衆。

 望の脳内に反響する音は次第に大きくなり、耳がぞくぞくとするような感覚を伴って──。

 

 

 

「……あ」

 厚い布団にくるまれ、じんわりと汗ばんだ身体。

 呼吸をする胸の上下に伴って、掛け布団がかすかな音を立てる。

 まだ覚醒しきっていないのだろうか、少し耳鳴りがした。

「…………そうだよね」

 あの志波姫がラケットを手から滑らせるなど、有り得ない。

 夢の中でも失礼な話だ。

 望は独り、にやりとして、携帯電話を手に取る。

「五時半……か」

 ついこないだまでなら早朝ランニングの時間だった。

 しみ込んだ生活リズムはなかなか変わらない。

 寝巻き代わりの着古したジャージを脱ぎ、望は床に置いたカバンから、着替えの入ったビニール袋を取り出す。

 防寒用のスポーツタイツに、中綿の入った冬用のジャージ。

 寒さを考えるならニット帽も欲しいところだが、望の場合は簪が引っかかるのでNGだ。

「──行くか」

 名も知らぬ今日限りの隣人を起こさないよう、望はそっと鍵をかけてエレベーターに向かう。

 一階で止まっているそれを動かすのは、恐らく今日は彼女が初めてだろう。

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