はねバド!~Second Wind~   作:STORICKS

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6th game When Johnny comes marching home

「ミス・アンヌ? これは何かの間違いデハ……」

「いいえ、合ってます。電話して確認しましたよ? 申し訳ないが、今回は準備期間が取れないので、と……」

 久しぶりに、自分より胸の大きそうな女性を見た。

 矢本はそう思って、キアケゴー氏の手元の紙を覗く。

「なんです? これ……」

「アッ! ダメですよ、ちーチャン。これはトップシークレットデス。ヒットマンに命を追われマスヨ!?」

「はぁ……」

 国家の存亡を左右する機密文書でもあるまいに、と矢本は苦笑する。

 一瞬ちらりと見えた文字は、何某の『辞退』。

 彼の抱えているアカデミーが、どこかの国の選手を引っ張ろうとして断られたのだろうか。

──あれ?

 待てよ、と矢本は気付く。

 一瞬で読めたのなら、それは日本語のはずだ。

 辞退する?

 インターハイも終わったこの時期に、何を?

「参りましたネェ……マァ、私がいくら気を揉んでも仕方アリマセンガ、コレハ……」

 隣の老人は、その紙をくしゃっと握り潰した。

 丸まっていて光沢があるから、おそらくファックスの用紙だろう。

 亘監督に言われて、よくファックスを送ったり、受け取ったものを持っていったりしていたから、矢本にはわかる。

「そうすると……『アソコ』しかないですネェ……」

 思案顔の老人をよそに、フロアでは二試合目がちらほらと始まっていた。

 望の姿を矢本は探す。

 すると、視界の端の方で、簪がきらりと輝いた。

 対面にいるのは、『ミカン色』だ。

「これは、勝てそうですね……」

「エエ、まあネ」

 なんとなくキアケゴー氏は上の空だ。

 矢本も集中を解き、ゆったりと眼下の試合を眺める。

 昨日の『ミカン色』──那智高の何某さんのプレイを見るに、今の望と張り合えるレベルにはない。

 これは無風で勝ちだな、と彼女は思った。

 あまり長いラリーも続かず、というよりも『ミカン色』のミスが多く、望は得点を重ねていく。

(んー……確かに強打はあるのだけれど……)

 それ以上にミスが多いし、強打自体の精度も低い。

 気の強い雄勝なら、『よくこんなんでインターハイに出られたな』などと、ポロっとぬかしてしまうレベルだ。

 矢本も油断しないように、唇をきゅっと結ぶ。

「マァ、田舎の選手ですからネ……」

 キアケゴー氏もつまらなそうに言う。

 あるいは、さっきの『辞退』のショックが尾を引いているのか。

 お気に入りの絵本を読み終えてしまった子供のような目をしている。

 しかし、そんな二階席とは対照的に、コートの中の『ミカン色』は、大差にもめげずにパワー全開だ。

 気圧されて多少はポイントを失ったとは言え、試合が行われている各コートの中でいち早くインターバルに入っているぐらいだから、望にとっても楽勝は楽勝なのだろうが。

「でも、楽しそうですね」

「部活動としては、アレが正解デショウ。立派な『アスリート』デスヨ」

 それが野球部であれサッカー部であれ、高校における部活動とは、あくまでも教育の一環だ。

 プロを目指し、物心ついたころからラケットを手にしていた選手と、高校に入って初めてバドミントンのコートに立った選手とでは、当然実力は大きな差が出る。

 和歌山。

 矢本には場所も良く知らず、ミカン畑しかないというイメージの田舎だ。

 過疎の進む地域の高校で部活動を運営するには、バドミントンのような、一人でもできるスポーツぐらいしか成立し得ないのだろう。

 しかし、たとえば幼いころからバドミントンをやっている選手が最終的に目指す地点──『プロ』になるために、『競技を楽しむ』ということが絶対不可欠な資質の一つであるとするならば、コートで望と対峙しているプレイヤーは、他の要素はともかく、それだけは間違いなく持っていた。

 あのインターハイで、望が最後まで見せなかった、見せられなかった表情を今、彼女はしている。

 第二セットも最初のラリーでスマッシュをアウトにしてしまった彼女は、最早この試合では望の影を踏むことさえないだろう。

 それでも、いつかの日に一旦潰えた『石澤望』というバドミントンプレイヤーの、祝福すべき再誕に、彼女──『橋本芽衣』はほんのひとさし、色を添えるに違いない。

 

 

 

 

 五連勝、セットロスはわずかに1。

 旭海莉と石澤望は、矢本の棄権を別にすれば、その数字で並んでいた。

 もしこの後二試合を戦ってまだ同率だった場合、自分の棄権が何かしら影響してくるのではないか……と、矢本は心配している。

 昼を過ぎ、セットは二つ落としていたものの、同じく五勝で並んでいた埼玉栄枝の岩崎が、豊橋に敗れて星を落とす。

 望は今治第三の阿方に、旭は雲海の有川に勝ち、六勝をキープ。

 文句を言わせないためには、直接対決しかない──。

 旭もそう考えたのか。

 二階席で、彼女は望を『待っていた』のだろう。

「いいよ。最後だし、ハッキリさせようか」

 彼女は静かにそう言って、ひとつ背伸びをした後、歩き始める。

 フロアに下りる階段は狭いし、なんといっても今はライバルだから、望は彼女の後ろについて歩いた。

 ささやかな観察だ。

 背筋を伸ばし、軽い足音を一定のリズムで刻んでいる。

 同じ会場で六試合もやっていれば、少しは相手のプレイを見る時間はある。

 その意味では、重盛と一緒にうろうろしていた自分よりも、旭の方が少しだけ有利かもしれない。

 そう望は考えた。

 

 

 

 降りていく二人を見送って、矢本と重盛はキアケゴー氏の言葉に耳を傾ける。

「泣いても笑っても、これがラストゲーム。総合的には同じタイプ、サイズもウイングスパンも同じぐらいデショウ」

 少し望チャンの方が『重そう』ですがね、と彼は付け加えた。

 生理の重さなら益子と毎日付き合っている旭の方が重いだろうと重盛は考え、矢本は『それを言うなら、胸は私の方が……』と視線を下に向けた。

 恐らくキアケゴー氏の意味するところは後者だろうが、ともあれ二人はコートにつき、言葉を交わすでもなく準備を始める。

 と。

「──ねぇ、一セットじゃダメなの?」

 コートに立っている旭から、二階に声が飛ぶ。

 それは会場に反響し、自分の試合を終えてもまだ残っていた選手たちや、周囲の取材陣は静まり返る。

 問いかけた先は、この大会の主催者。

「フムン……」

 キアケゴー氏は何事かミス・アンヌに耳打ちすると、旭に少し待つように言った。

 ミス・アンヌはどこかに電話をし、ほんの十秒ほど通話して、キアケゴー氏に向かって親指を立てる。

「──オーケーですヨ。もうアナタ達以外に優勝の可能性はアリマセン。ただ……両者が同意スレバ、デス」

 最初に旭が提案をしてから、望はずっと考えていた。

 仮に一セットマッチになった場合、有利なのはどちらだろう。

(断る理由は無い……かな?)

 二人とも四試合目だ。

 体力、というこれ以前の試合によっては大きく消耗度が異なるパラメータを、勝負のアヤにしたくない。

 旭はそういう意図なのだろうか?

 それとも、短期決戦で優位に立てる何か──例えば圧倒的な武器があるのか?

(でも、そういうセコい事はしなさそう)

 今まで望は、彼女と直接試合をしたことはなかったが、その『横にいる人』がとことん目立つものだから、彼女のことはちらほら聞こえていた。

 あの『益子泪』とダブルスを組む選手──それはある意味、畏怖の対象でもある。

 益子自体はそれこそ世代の中ではずっと抜きんでていて、『セコい』策を弄する必要もなかったし、そういう『王者』と対等に付き合おうとするなら、ある種の『気品』は求められるだろう。

 どこぞの選手のように、勝てないからと言って相手に風邪を移すとかはしないはずだ。

 望はかつて荒垣からその話を聞いた時、芹ヶ谷の行動がしょうもなさ過ぎて笑ってしまった。

 もっとも、それで母親が家を出てしまったという当の本人、羽咲の境遇には同情するが。

(あー……なんでもいいや)

 思考が道を間違えてしまった。

 あまり間を持たすのも得意ではない。

 実際望自身も疲労は感じている。

 ならばベストのパフォーマンスが出せる間に、勝つにしろ負けるにしろ決着をつけたい。

「いいですよ。一セットで、やりましょう」

 会場から、どよめきとまばらな拍手。

 旭は望に向けて軽く頭を下げた後、ウォーミングアップを始めた。

「なんで一セットにしたんだろうね?」

 重盛は先程のやりとりを、よくわからないという顔で眺めていた。

 矢本にも、それに対する答えは浮かばない。

「さあ……別に故障もないと思うし」

「特別、どちらかにとって有利ということはアリマセン」

 キアケゴー氏が言った。

 一セットマッチにしてしまえば、望は相手をじっくり見ることはできないが、それこそ一ポイントごとに違うパターンのラリーを繰り出せるほど、ボキャブラリーは多い。

 旭の提案は『スタミナ』面の不安が大きいだろう、と彼は考えた。

「たしかに、旭さんはダブルスプレイヤーですし」

 重盛も同意した。

 ダブルスよりもシングルスの方が疲れる。

 二人で戦えば指示や状況判断、またテンションの上がらない相方を鼓舞するなど、いろいろと仕事は増える。

 対してシングルスは、当然コートは広くなり、運動量も大きくなるが、それは強豪相手のダブルスでも同じことだ。

 どちらかと言えば、『自分で結果のすべてを背負える』という意味で、確かに疲れない。

「でもさ、それだと旭さん有利じゃない?」

「イエイエ、コトはそう単純じゃないんデスヨ……」

 あの短い時間に望がそこまで思慮を巡らせたかどうかは分からないが、とにかく彼女はその要求を呑んだのだ。

 それは、今となっては数少なくなった望の欠点である体力面の不安からかもしれないし、あるいは、短期決戦に自信があるのかもしれない。

 ただ、重盛には、少なくとも神奈川県予選の頃の望からは、そうとは思えなかった。

 どちらかと言えば泉には粘られているし、荒垣にも第三セットで大差を付けられたのはガス欠が一因だ。

 やがてウォーミングアップは終わり、会場には静寂が訪れる。

 そして、最初のポイントを伺うサービスの構えに望が入ったところで、ざわつきが起きた。

「──……左?」

(え──!?)

 望は目の前の光景を疑った。

 旭は右利きだったはず。

 それなのに。

 望はあわてて主審に合図し、靴紐を結び直すことを告げた。

 公式試合ではないから、多少は大目に見てもらえる。

 一度紐をほどき、再度結び直す時間で、望は心の動揺を鎮めようと努力する。

(右利き、だったよね? ハッタリ……にはリスキーすぎる)

 相方の益子は確かに左利きだ。

 だから見様見真似でそれを習得したとも考えられる。

 しかし、試合で使えるようなレベルになるのだろうか。

(仕方ない、とりあえず『見る』しか……)

 改めて仕切り直しの後、望はショートサービスを打った。

 まずはネット前の細かいラケットワークを見る──。

 と。

「あっ──」

 望がシャトルを打った瞬間、旭はラケットを右手に持ち替えていた。

 おそらく、ラケットに目を落とした一瞬に。

(なに、結局ハッタリ?)

 ネット前に詰めた旭は、大きくロビングを上げて距離を取る。

 飛距離もコントロールも、間違いなく『利き手』のそれだ。

(まあいい。旭に強打は無い、それなら……)

 旭が対面のコートミドルにいるのを確認してから、望は足を踏み切って落下点に入り、クロスにスマッシュを放つ。

 拾われることは百も承知だ。

(もし、ラリーの途中で『左』が出るなら、それは本物──旭のバックを狙って組み立てる……)

 機敏にサイドステップを踏み、旭はシャトルに追いつく。

 ラケットは当然、右手に握っていた。

 上がったコースは甘く、ネット前に詰めた望には容易に仕留められた。

 だが、確かめておくべきことがある。

(これを、クロスにドライブ──さあ、どうだ?)

 敢えて長い球を返球した望の、『期待』通りと言って良かっただろう。

 旭は左手にラケットを持ち換えて、クリアーを返す。

 だがこれも厳しくはない。

 数巡のラリーの後、最初のポイントを奪ったのは望だった。

(……なんで? まるで意味のない──)

 まさか、益子への憧れなどは無いだろう。

 最初のインパクトだけだ。

 それを武器とするなら、『質量』が不可欠になる。

 確かにそこそこ様になってはいるが、利き腕よりも筋力がない事を考えれば、『右』よりも厳しいコースに配球できるクオリティが必要なはずだ。

(また『左』か……なら今度は、ロングを打ってみよう)

 バドミントンでは左利きが有利なのは事実だ。

 それはシャトルの設計からくる、左右の非対称性によるものでもあるし、守備範囲や組み立て、強打の角度が多数派の右とは異なる、ということからもわかる。

 望はあえて、少し伸びのないロングサービスを放った。

 コースはギリギリをついているから、『右』ならばラウンドを入れてスマッシュで返すところだろう。

(それでも『左』に拘るなら──)

 旭は足を細かくステップしただけで落下点に入り、左腕に握ったラケットを振りぬいた。

「!」

 望が構えたラケットから、シャトルは鋭く曲がる。

 軌道を大きく変えた──クロスファイアが決まり、スコアはタイ。

(これ、か……? いや、これだけ?)

 確かに、望の打つリバースカットよりも、よく掛かっている。

 しかしそれなら、『打たせなければいい』のだ。

 『左のフォア』即ち『右のバック』へのショットを避ける。

 それだけでいい。

(──でも、そうすると……)

 リバースカットは使えなくなる。

 もちろんコースに決めればいいわけだが、今までのように絶対的な安牌にはならない。

 益子と一緒に練習してきた旭だ。

 クロスファイアの軌道だってイメージはあるだろうし、それよりキレの落ちる右利きのリバースカットなら、拾う確率は高い。

(なるほど、考えたなぁ……これが有効に使える間に勝負を付けたいから、一セットマッチなんだ、たぶん)

 両手打ちの練習なんて、部活ではやらせてもらえないだろう。

 筋力のスタミナはほとんどないに等しい。

 スタミナがなくなればコントロールは出来ないし、あの小さなコルクを利き手じゃない方で正確に『切る』のは不可能だ。

 そうなれば普通の『右』オンリーになるに違いない。

 

 

 

(思ったより冷静だな、あいつ……)

 旭は、対面の望を見て思った。

 さっきのクロスファイアは、たまたま上手く捉えらえた。

 ただそれ以前に、『打たせてもらった』という部分が大きい。

(まあ、こんな『遊び』で何点も取れるとは思わないけどね……)

 それがある、と思わせるだけ──それでいい。

 リスクが大きすぎる。

 こんなのをいつでもどこでも繰り出してくる羽咲が異常なんだ。

 旭は袖で額の汗を拭き、サービスの構えを取る。

(私レベルじゃ、僅かでも石澤のバリエーションを削ることが出来れば、この奇襲は成功。どこかで前に出て、そこから一気に体力を使い切って逃げる。追いつかれれば私の負け、逃げ切れば勝ち──)

(拾われる……)

 インターバル中、望は第一セット前半を頭の中でリプレイする。

 リバースカットを計四本打ち、旭はそのうち三本を返してきた。

 もっとも、さらにその中の二本は甘い返球だったから、結局リバースカット勝負は三対一で勝っている。

 しかし、そもそも渾身のカットに『触られる』こと自体が、望の予想外だった。

 スコアは11-10。

 一点差と言えどリードはリードだが、早晩無くなるだろう。

 旭は時折『左』を見せて望の心理的なリズムを崩しつつ、ヒタヒタと背後に迫ってきている。

(にしても、なぜ……?)

 旭自身の謙遜を省いても、彼女はそこまで抜きん出た選手ではない。

 少なくとも『三強』の地位を脅かすような存在ではなかったし、そう言う意味では狼森や豊橋よりも『格下』と言える。

 望は、旭が手を抜いてこちらを煽っているのかとも思ったが、それはないだろう、と打ち消した。

 挑発に乗せるためには、物理的なエサが必要だ。

 一番簡単なのは、点数を与えること。

 あるいはいつぞやの羽咲のように、荒垣に対してスマッシュをわざわざ『打たせてやる』──だとか。

 そして『挑発』とは、その後に少なくとも与えたポイントを取り返すことで成立する。

 それがなければただの接待か、八百長だ。

 あの益子泪の隣に三年間立ち続けた選手が、そんなつまらない真似をするはずはない。

『左』がこれからも出るなら、それに対する警戒を怠らなければいい。

「ふー……っ」

 旭は天井を見上げ、目の焦点を意図的にずらした。

 頭の奥に、かすかに痛みが走る。

──目が疲れている。

 無理もない、もう四試合目だ。

 対面の望は既に立ち上がって、屈伸運動をしている。

(足に来てるか──?) 

 周囲に気づかれないようにタオルをかぶってから、お互い様だな、と旭は笑う。

 足にはもちろん来ているし、普段使わない左腕にも、鈍さを感じ始めている。

「……ねぇ、泪」

 あれは、いつだったか──。

 

 

 

「なんで、手を抜くの?」

 泪と付き合い始めてすぐの頃。

 ムラっ気にはさんざん悩まされてきた旭が、一年秋の関東大会の敗退後にキレた。

「あ?」

 試合の途中から急にペースを落とした泪を見て、旭は一瞬怪我を疑ったが、歩いている姿を見れば、そんな素振りはない。

 泪は何か、ゴニョゴニョと呟いている。

「──ハッキリ言えよ」

 彼女の肩を掴み、旭はドスを聞かせて睨み付けた。

 泪は目を逸らして、旭の手を振り払う。

「っせぇな……」

 それきり、赤くなった顔を背け、速足で逃げていく彼女を、旭は追わなかった。

 その日の帰りのバスで、泪は独りで一番後ろの席を占領していた。

 普段なら旭がそこにいるが、今日は居ない。

 

 

 

 寮に戻ると、泪は同室の旭に一言もかけず、汗に濡れたウェアをランドリー用の籠に叩き込んで、大浴場に向かっていった。

 本当は学年が上の先輩達から先に使うのが暗黙の了解だが、彼女にそれを咎める人はいない。

 旭は何もかもバカバカしくなって、バスの中から耳に付けていたイヤホンを乱暴に引き剥がし、机の上に投げ捨てる。

「──クソ……クソっ……」

 勝ちたかったのに。

 泪と、じゃない。

 他でもない、自分自身が勝ちたかった。

 もし勝っていれば、春の選抜は当確──。

 なのに、何故。

 と、部屋をノックする音。

(なんだよ……パンツでも忘れたか?)

 旭はもし今泪と顔を合わせたら、ぶん殴ってしまいそうだったが、幸運にもそれは避けられた。

「──キャプテン」

「ごめんね、旭。益子居ないなら、入っていい?」

「あ、どうぞ……」

 後輩が『お姉様』の所に遊びに行くことはよくあるが、先輩が後輩の、それもキャプテンが一年生の部屋を訪ねてくるのは珍しい。

 大したもてなしもできないが、旭の心配は杞憂に終わる。

 彼女は自前でペットボトルに入った炭酸飲料を持ってきていた──二本。

「飲む?」

「あ、頂きます」

 さっき、少しばかり目から出た水分を補給しよう。

 キャップを空けて一口啜る。

 炭酸は苦手だが、まあせっかくのご厚意だ。

「あいつ風呂行きました。──すんません」

「いいよ、そんなの。いつもの事でしょ」

 寮のルールはいくつかあるが、それを破る事にかけては、もしかするとバドミントンよりも益子は才能がある。

「……惜しかったね、今日」

「あ、はい。でも……」

 次の言葉は、上手く継げなかった。

 でも、なんだろう。

『わざと負けた』──。

 あんなに練習したのに。

 他のみんなが遠ざけた泪に、色んなことを教わって、上手くなって、頑張ったのに。

 肩を震わせる旭の背中を、キャプテンは優しく撫でる。

「旭には、辛いよね。私たちがもっと、しっかりしてれば──」

「……違います、キャプテン。私と泪の、問題です。先輩たちは悪くない」

 それからひとしきり泣いて、旭は大きく息をついた。

「──すんませんでした、甘えちゃって……」

「ううん……あんまり抱え込まないで?」

 ぽん、と旭の頭に手をやって、キャプテンはベッドから立ち上がり、机の脇のスツールに腰を下ろす。

 泪はまだ、戻ってこない。

 ほんの少しだけ晴れた気持ちで、旭は泪のことを考える。

 使い古された表現だが、『泣く』という行為は、心の洗濯だ。

(──泪は、泣いたことあるのかな?)

 人間はみな、泣きながら生まれてくる。

 そういう意味では、あるに違いないが……。

「なんで、ああなったんですかね……」

「え? うーん……なんでだろ」

 旭と共に戦うことが、いきなり嫌になったわけではない。

 何もきっかけは無かった。

 少なくとも、旭に落ち度はない

 ミスを続けたわけでもないし、むしろ好調だった。

 プレーの合間のコミュニケーションも、普段と変わりなかった。

 良くも悪くも目立つ泪に、虫の居所が悪くなるようなヤジでも飛んだのか。

 しかしどちらかと言えば旭には、泪が何かに怒って集中力を欠いたというよりも、エネルギーを急に失ったように見えた。

──多分考えても、答えは出ない。

 益子泪は天才だ。

 安っぽい賛辞ではない。

 周囲の大人も、戦った子供も、みな口をそろえて言う。

 多分気まぐれに、旭との間に開いた扉を閉じただけの事だろう。

 他の誰にでも、そうしてきたに違いない。

 感情的になっている旭を察してか、キャプテンは口を開いた。

「あの子、なんでウチに来たか知ってる?」

「えっ? そりゃ、まあ、みんな噂してますし……」

 本来、宇都宮学院は益子ほどの逸材が来るような場所ではない。

 全国に名の知れ渡る強豪であるが、部員は全寮制だということや、肝心要の体育館が他の部活動と共用であることなどから、今一つ選手の集まりは悪い。

 戦績はあまり安定せず、埼玉の栄枝や、神奈川の横浜翔栄などに比べれば一段下と言えた。

 そんなところに『天才』が来た理由──家庭環境。

「あの子はね、家族から拒絶されて、ウチに来たんだよ」

「……」

 泪が中学三年生の時、あるいはそれ以前から既に、多くの名門校が獲得に名乗りを上げていた。

 その中には当然、埼玉栄枝や横浜翔栄も含まれる。

 同世代では橋詰や石澤、荒垣などが関東では有名選手だったが、それでも益子に対する評価とは、大きな開きがあった。

 それらの中で唯一全寮制だったのが宇都宮学院だ。

 そこを選んだ理由はつまるところ、『家に居られない』──ということ。

 言わば泪はこの学校に、閉じ込められている。

「それは、みんな知ってますよ」

「そう、あの子は『周囲の大人』に恵まれなかった──」

「……」

「旭」

「はい?」

 スツールから立ち上がり、キャプテンは言った。

「良い『大人』になろう、私達は。──泪のために」

 

 

 

 翌朝。

「あれ……おい、今日練習だっつったろ?」

 集合時間として伝えたのは八時。

 それをすっかり過ぎて、時計の長針が真下に来た頃に、ようやく泪は現れた。

「いいからアップしなよ」

 旭は素っ気なく言う。

「んだよ……何すんの? ノック?」

「試合だよ」

「は? 誰と」

 泪がシューズを履き、つま先を床に打ち付ける音が響く。

「私と。勝ったら──」

 と、体育館の扉が閉まる。

 もちろん、自動ドアじゃない。

「えっ、なんで締まった?」

「勝ったら、『出してあげる』よ?」

「はぁ!?」

 泪はにやついて首をかしげる。

「……『俺』に勝てると思ってんの?」

「だから特別ルール。1ポイント取ったら私の勝ち」

 鼻で笑う泪。

 まあそうだろう。

「いやお前、そりゃいくらなんでも──」

 旭は体育館の電気をつけ、コートに入った。

「これでも?」

 ラケットを、左手に握って。

「……上等じゃんよ」

 

 

 

 左でも、案外やれるもんだ──。

 旭はそんなことを考えながら、泪の何十度目かの挑戦を退けた。

 時計は午後一時。締め切った体育館は、二人を汗だくにしている。

(こんなこと、五時間もやってたのか──)

「……おい……」

 当然だろう。

 旭は泪が21点連取するのを防ぐだけでいいのだから。

 例え利き手ではなくても、対戦相手が天才でも、そのぐらいは出来る。

「なに? ゲームカウント37-0、だっけ?」

 それでも、ここまで来れば意地だ。

 普通の試合で換算するなら、軽く五試合分ぐらいは動いている。

 泪の方はその数倍以上で、もう膝が笑っていた。

「てめ──」

 ネットを腕で押し上げ、泪は旭に詰め寄る。

「何のつもりだ、コラ」

 背の高い泪に見下ろされる旭。

 しかし、弱ったその眼差しは、睨み返すのに苦労しなかった。

「──なんで昨日、わざと負けた?」

「は?──……」

 泪は押し黙る。

 もし勝ってたら、選抜行けたのに。

 そう言っても、彼女には響かないだろう。

 中学時代から既に国際大会への出場経験がある泪だ。

 国内の学生大会など、どうでもいいのかもしれない。

「んなもん、別に──」

「質問に答えなさい、泪。どうして、途中で勝つのをやめたの?」

 泪はそれに答えずに、踵を返して扉に向かう。

 篩える腕で力いっぱい扉を横に引くが、動かない。

「なん、っだよ……! 出せよ!」

 思い切り扉を蹴りつけると、泪の方が反動で吹っ飛んだ。

 疲労困憊で足は滑り、なかなか立ち上がれない。

 それでも彼女はめげずに、拳で扉を叩く。

「出せっ……出してよ!」

 怒気は薄れ、声は弱弱しくなっていく。

「出して、……ここから、出してよ──う、っ──!」 

 何かが破砕する音。

「──泪?」

 尋常でない反応。

 身体が痙攣している。

 彼女は口から、ほとんど水分ばかりの吐瀉物を滴らせていた。

 そして、それを拭おうともせず床に倒れ込む。

「ちょ──キャプテン! キャプテン!?」

 旭が叫ぶと、扉はすぐに開いた。

 今日のことは彼女と示し合わせて、外から閂をかけておいた。

「なっ──、どうしたの、これ!?」

「いや、……外に出ようとして、急に吐いて……」

 キャプテンは旭からタオルを受け取り、まず泪の口元を拭いて、それから上着を脱がせた。

「意識がない、けど息はしてる……過呼吸?」

「たぶん脱水症状ね。とにかく運ぶよ」

 旭は彼女と共に泪の腕を抱え、寮まで運んで行った。

 

 

 

 上半身を拭いた後、冷えないようにジャージの上を着せて、旭は泪をベッドに寝かす。

 それから、己の浅慮を悔いた。

「……旭」

「──はい」

 謝る、のは当然必要だろうが、ひとまずはキャプテンの言うことを聞こうと旭は考えた。

「貴方の意図もわかるけどさ……」

 まともに聞いても、泪から真実は返ってこない。

 はぐらかされるだけだ。

 それでは意味がない。

 だから、素人考えでショック療法を実行した。

 とことん追い込んで弱らせれば、本音を吐くだろうと思って。

──一歩間違えば、泪の命を絶っていたかもしれない。

 単純な疲労と心理的なショックだけでは、そこまでの事態には至らなかっただろうが、これまた素人考えでそう思い込むと、旭は背筋が寒くなった。

「危ないから、普通に。ウチでも夏の練習じゃたまにあるでしょ? 水買って来たから、気が付いたらゆっくりこれ飲まして、それから話しなさい。私に謝るのは後でいいから」

「──」

「言ったでしょ? 自分で抱えるなって」

「はい……」

「じゃ、片付けてくるから」

「え、私が──」

「貴方はここに居なさい。目が覚めて誰も居なかったら、今度はその子、何するかわからないよ?」

「……」

 そう言うと、キャプテンは部屋を出ていく。

 それから、どのぐらいの時間が経っただろう。

 ペットボトルはすっかり露を纏っていて、旭は少し肌寒さを感じた。

「……泪」

 僅かに空いた唇から、微かに吐息が聞こえる。

(寝顔は、子供なんだけどな……)

 見つめていると、すうっと引き込まれそうになり、旭は思わず、唾を飲んだ。

 そして──、彼女のベッドに身を忍ばせる。

 石鹸の匂い。

 どうしていつも、泪は安物のシャンプーばかり買うのだろう。

 もっと気を遣えば、あんなにガサガサに髪が跳ねることもないのに。

 ふと、旭は身体を起こし、眠っている泪をまじまじと見つめた。

 被せただけのジャージはとうにはだけて、彼女の左半身が露になっている。

 筋張った左腕、丸く盛り上がった肩。

 そして──、

「ちっさ……」

 ぷしゅっ、と泪の口から息が漏れた。

「……なにお前、そう言う趣味なの? 私としたい?」

 調子は軽いが、弱くかすれた声。

「は──んなわけないでしょ!?」

 旭は顔が真っ赤になるのを見られまいと、掛布団ごと跳ね起きて自分のベッドに逃げる。

「ちょ……寒い」

「あっ、ごめん──」

「来いよ、旭」

 そう言うと泪は身体を壁の方にずらし、旭が入るスペースを作る。

「……その前にちゃんと着て、服」

「マジ寒い、早く」

 想像もしないほど弱った声でそう言われてしまうと、旭は言う通りにするしかない。

 投げ出された左腕を枕にするしかなかった。

 背中に抱えた布団とともに、泪のベッドに倒れ込む。

「──ごめんなさい」

「……俺も」

 それからしばらく沈黙が続き、旭は少し眠気を覚えて来た。

 その前に、聞いておかなければ。

「ねぇ?」

「なに」

「なんで、──わざと負けたの?」

「……わかんない」

 絞り出すような声。

 でも、『言いたくないなら、言わなくていい』とはならない。

 疲労困憊の泪が、無言の重圧に負けたとすれば、今日の出来事は、いつか『若気の至り』になるだろう。

 彼女は語り始める。

「──私、何もわからなくなった」

 なんでこんな学校に居るのか。

 私は本当は埼玉栄枝に家から通っていて、部活の帰りに肉まんや何かを買い食いして。

 当たり前に勝ち上がって行って、でもいつか、当たり前に負ける日が来て。

 悔し泣きして家に帰って、『頑張ったね』って言われてまた感極まって。

 次の日から、次は絶対負けないって思って練習して。

 左だから有利だとか、背が高いから強いとか、そんなんじゃなくて。

 全力、全開で勝ちたくて。

「……」

 ひとしきりの独白を、物言わず聞いていた旭は、まず素直に『わがまま』だと思った。

 でも、泪にしてみたら、それは本当にささやかな願いなのかもしれない。

「『負けたかった』──の?」

 途中から涙声になっていた泪は、鼻をくすんと鳴らして答える。

「そっか……」

(ああ──)

 この子を救うには、どうしたらいいんだろう。

 泪が全力を出しても、勝てない相手なんて。

 自分では、無理だ。

 遠く及ばない。

 ダブルスを組んではいるけど、旭が試合でやることと言えば、順番が来たらサーブを打って、飛んで来れば適当に返すだけ。

 旭自身、そこそこの選手ではあったから、泪と組んでいれば相手は勝手に気圧されて、競り合う試合なんて今まで一度だってなかった。

 それからは、記録上は旭のポイントであっても、結局泪が独りでやってしまっていた。

 一緒に組んでいるから、旭には分かる。

「ねえ、泪」

「……ん」

(私がもっと上手くなって、ダブルスで、泪が少しでも私に頼れるようになれば、泪はきっと、それを『負けた時の言い訳』にできる)

 今はまだ、そんなレベルじゃないとしても。

「私がもっと、下手だったら良かったのかな……どんな上手い人と組んだって、選抜なんか出れるわけない選手だったら……」

「……」

「私の方が、『わがまま』なのかな」

「……ちがうよ」

 力ない否定。

 泪にしてみれば、『私が手を抜いたぐらいで負けんなよ』って、言いたいのかもしれない。

 そのぐらいの奴じゃないと、ペアなんか組みたくないって。

「ペアだから……もっと、旭と組みたいから」

 実力差がありすぎるダブルスペアは、お互いが不幸になってしまう。

「──イヤになった? 旭は、私と組むの」

「……百パーセント『ノー』とは言えないかもね」

「やめる? ダブルス」

「──やめない」

 やめるもんか。

 旭は、手探りで泪の右手を探り当て、強く握る。

「だから、教えて? あんたが『旭に頼ったせいだ』って言えるぐらい、私が強くなるように」

「……」

「それまでは、泪が何をしても、わざと負けても、文句言わない──」

 ──自分は何を言ってるんだろう。

 わざと負けるなんて、スポーツへの冒涜だ。

 それでも旭は、己の理性ではもう、心から出た言葉を打ち消すことはできなかった。

 『ただのバドミントンプレイヤー』であることをやめる。

 これからは、『益子泪の隣にいるプレイヤー』として生きる。

 少なくともあと二年間の、高校生活の間は。

 それがひとまずは今日の償いであるし、泪が求める、ある意味で『死に場所』に辿り着くために。

(ズルいんだよなぁ、先に『死に』やがって……)

 しばらく、昔の思い出に浸った後、旭は主審の呼びかけに答えて立ち上がる。

 と──。

(いっ……て……)

 くるぶしに、強烈な痛み。

 旭はできるだけ顔に出さないようにして、気取られないように右足の足首を曲げ、伸ばす。

 ごくささやかなストレッチに見えたが、望は見逃さなかった。

「……?」

 規定より恐らくはかなり長かっただろうインターバルの間、望は一つの指針を見出す。

 ポイントを奪えないまでも、旭の『左』はこれまで有効に作用している。

 リバースカットを狙うことに躊躇してしまう、という点で。

 で、あるならば。

(──相手の策を『封じる』バドミントン)

 今までの六試合、あるいはもっと以前から、望は根本的にその考えを捨てていた。

 これは、『相手が上手く立ち回った場合の失点は仕方ない』という、倉石の立てた戦術によるところが大きい。

 対荒垣戦で狙いとしたのは、『体力を削って消耗戦で勝つ』という一点のみで、スマッシュや強打そのものに対して、それを封殺する作戦を立てていたわけではなかった。

 インターハイの対志波姫戦でも、彼女の巧みなラリーに、望はミドルコート以降まで押し込まれることが多かった。

 そうなってしまっては、カットスマッシュの威力は半減する。

 望の身長では、角度がつかないのだ。

 故に、二セット目を取り返すまでには至らない。

 より得点を伸ばすことができたのは、ある意味『開き直り』のおかげでもあり、オーソドックスな組み立ての精度がやたらに高かったから、というのが理由であった。

 無論、春の王者に対して、そんな単純な攻撃を通用させてしまうところに、望の今大会での躍進の一端があったわけだが。

 

 

 

「いやーまいったまいった」

 重盛はようやく腹の嵐が収まったのか、晴れやかな表情で矢本達の隣に座る。

「なんで、全部左で打たないんだろうね?」

「それは……急ごしらえ、ってわけでもなさそうだけど」

「──『利き目』デスヨ」

 人間の眼は両方が同じ機能を有してはいるが、その精度には大きな差がある。

 バドミントンでは言うまでもなく重要な『動体視力』が、実は左右の眼で大きく異なるのだ。

「シャトルを打つときは、半身の体勢になりますヨネ? 『利き目』はその時、後ろ側にあるほうが都合が良いデス」

 スイングの体勢づくりや、次への対応という意味で、基本はネットに対して半身になる。

 真正面から飛んでくるものに対して、案外遠近感がつかみづらいということもあるが、十センチほどのわずかな差であっても、それだけシャトルを長く見ることができる。

 仮に旭のそれが、長い年月をかけて習得した『左打ち』であっても、『利き目』との整合性が取れていなければ、効果を発揮できない。

「でも、あのリバースカットを返せる、となると」

「ソウ……本当は、海莉チャンの眼は、『左利き』なのかも知れませんネ……」

 コート上では、ようやく後半戦が始まった。

 望のサービスから始まったそれは、ロングに放たれる。

 旭はできるだけ足の指をいたわるように、かかと体重で後ろに下がり、ロブを返した。

「……駄目デスネ」

「え?」

 流石金メダリストと言うべきか、キアケゴー氏は一瞥しただけで旭の右足に起きたトラブルを見抜く。

 それと、もう一つ。

 ずしゃり、と足を滑らせる音。

「ちょ──石澤さんっ!?」

 望が、倒れていた。

 

 

 

(やば……つった……)

 ハムだ、と望は痛みの個所を特定した。

 重盛の好物ではない方の。

 彼女が顔を上げる前に、主審は試合をストップしていた。

 痙攣の止まらない太腿を、なんとかしようと揉みしだくが、今度はふくらはぎがつる始末。

 これはもう、無理だ。

 プレーを続行しても、今のは旭のポイントになっているから、背中にロングサーブでも打たれてしまえば拾えない。

 主審に向けてバツ印を作ろうと上半身を上げた時、視界の端で揺れ動く人影。

「え──」

 旭も、限界が来ていたらしい。

 なんとか立ってはいるが、顔は苦痛に歪み、歩いているわけでもないのに、右足の靴紐が揺れている。

「ダメ──」

 ひざを折ったかと思うと、旭はそのまま尻もちをついて座り込んだ。

 ミス・アンヌと重盛、膝の悪い矢本が少し遅れて駆け寄る。

「シゲ……ごめん、つっちゃった」

「大丈夫? 伸ばすよ──」

 重盛は、望の右足かかととつま先を両手で持ち、力を入れて脚を伸ばす。

「あ、いってっ……」

 四試合という数字だけでは、さほどの負担ではなかっただろうが、慣れない環境での大会、間延びした試合感覚など、二人の体力を削る要因は各所にあった。

 最大の原因は、二人とも長いラリーを得意としており、また打開する策に乏しいという点。

 望のリバースカットが拾われ始めていたのも、左どうこうではなく、単純にキレが落ちていたのだと、彼女は悟った。

「医務室に行きマショウ。大会は終わりデス」

 キアケゴー氏に促され、ミス・アンヌは旭を、重盛は望の腕を担いで、コートを後にする。

 誰彼ともなく、まばらな拍手。

 申し訳程度に残っていた数試合が行われ、その日の日程は終了した。

「シゲ、ありがとね」

「うんにゃ、いいよ。惜しかったね」

 旭の隣のベッドに収まり、望はうつ伏せになっている。

 痙攣を起こした右足に、キアケゴー氏が現役時代から愛用しているという、怪しいジェル状の何かを塗られているためだ。

 塗っているのはミス・アンヌだが、彼女の手もなかなかに『強者』だと、望は彼女の過去に思いを馳せた。

「ウウン、海莉チャンはちょっと、捻ってますネ、これ」

 流石に旭にそのジェルを塗っているのはキアケゴー氏ではなかった。

 そういうものの扱いに手慣れているらしく、矢本がその役を買って出ている。

 まあ確かに、重盛にやらせると、その手でそこら中を触りそうだから、矢本の方がいいだろう。

 筋肉の内部の痛み、熱を、外に塗ったジェルのメントール成分が奪っていく。

 これはいい、あとで商品名を聞いておこう。

 望はそう思った。

 11-10から後半が始まって、旭のリターンを望が拾いに走った刹那の事故。

 つまりはスコアが同点のまま、二人とも棄権してしまった。

「あの、ミスター・キアケゴー……」

「ンン? 何ですか、望チャン?」

「試合結果は──?」

 はあ、と彼はため息をついた。

「……マァ、引き分けでいいんじゃないでしょうかネ。両者優勝デ」

 望は頷く。

 そして、旭の方を見る。

 目が合った。

「あ、……えっと」

「いいよ、それで。──石澤さん」

「うん」

 それきり、会話は続かない。

(……ほとんど初対面みたいなもんだしなぁ)

 いきなり『なんで左で打ってたの?』とか聞くのは、望のコミュニケーション能力では荷が重すぎる。

 なにしろ相手はあの益子泪のパートナーだ。

 蛇の道は蛇、ではないが、彼女も相応に癖のある人間だろう。

 望は足元から漂うメントールの香りを楽しむことにした。

「あの、このジェルって……」

「欲しいの?」

 ミス・アンヌはそのパッケージを望に見せる。

 思いがけず、それは日本語だった。

「サロメチール?」

「日本製よ。普通に薬局でも売ってるわ」

「ふーん……」

 なんだ。

 それならいつでも買える。

「コレはイイですよ? 『引っかからない』デスシ」

 キアケゴー氏の言った言葉が、一瞬望には『引っかかった』。

(……引っかかる? 何に──)

「ともあれ、落ち着いたらホテルに帰って、あとは夕食会デスネ」

 また重盛が暴れるだろうな、と望は苦笑する。

「明日のエキシビションは、ドウシマショウ?」

 そういえばそうだった。

 ランダムでペアを組んで、ダブルスマッチを行う。

 これは大会に参戦した全員がペアになる可能性があるが、矢本など故障を抱えている選手は免除だ。

「うん、私は構わないですけど……」

「私も大丈夫です」

 ベッドの上で身を起こし、旭は言った。

「ただ、できれば石澤さんと」

「え──」

 試合中の表情とは違い、穏やかに笑って、旭は言った。

「組みたい。ダブルス」

「……うん、いいよ」

 キアケゴー氏は意味深に笑う。

 二人の思いを実現する企みを、始めたのだろう。

「いいデスネ、それ。優勝者のペアなんて、受けますヨ。ソレニ……お互いにとって、価値がアル」

 

 

 

 重盛と言う名の暴走特急が、あらかたオードブルを喰らい尽くした頃。

 望のように友人を連れていたり、阿方と鈴木のように同じ学校から来ているのは少数派だから、おおよそ皆、『食事を共にする』というレベルでは初対面のはずだが、どのテーブルも空いた皿を脇に、会話が弾んでいる。

 ひときわ笑顔が弾けているのは、豊橋のいるテーブルだ。

 試合中も、努めてプラスの感情を表に出し、対戦相手へのリスペクトも持っている。

 そういうところが、人を引き付けるのだろう。

 幼い頃から競争に晒されてきた選手たちの中では、それはよほど新鮮に映るに違いない。

 と──。

「石澤……さん、ちょっと話できる?」

 彼女のテーブルを訪ねてきたのは、旭だ。

「あ、うん。いいよ」

 矢本と重盛に断って、望は席を立つ。

 かなり前からタイミングを伺っていたらしい重盛は、いそいそとデザートのコーナーへ向かった。

 矢本もそれに付き合って、空のグラスを手に後を追う。

 望と旭はホールを少しばかり歩き回って、余分のテーブルがまとめられた、静かな場所へ向かう。

 喧騒が遠ざかる。

 周囲を見渡して、人影が近くにない事を確認してから、旭は話を始めた。

「──今日、ごめんね。最後までやれなくて」

「ううん、私もだから……」

 それだけ? と言う風に旭に目を向けると、彼女は思案顔だ。

「……あの、さ」

「?」

「キアケゴーさんに聞いたんだけど、デンマーク行きの件」

「ああ……」

「──『二人』じゃないみたい」

「え──?」

 望には当初、その意味が分からなかった。

 明日はあくまでエキシビションだし、望は旭と組むことになっている。

 そうなると、六勝の内容的には、旭の方がふさわしい、となる。

 なにしろ彼女は全ての試合を最後まで戦い切ったのだ。

「……一人しか、行けないってこと?」

 旭は頭を横に振る。

 それから、もう一度周囲を見渡して、彼女は小さな声で言った。

「まだ、他にもいる」

「──え?」

 

 

 

「ほかに居ないんですか? 亘さんとか、矢板さんとか……ほら、加賀雪嶺の──」

『そこら辺に断られたから、と言うわけでは誓って、ないデス──ガ、貴方にやっていただくのが、最善と考えてイマス。無理なお願いだとは百も承知デスガ、是非……」

「明日まで、考えさせて下さい。急すぎる。事情はわかりましたが……」

『良い返事を期待してイマス。こちらからの条件は、『石澤望と、旭海莉をメンバーに含むこと』──それだけデス』

 それで、通話は切れた。

 随分長い間話し込んでいたように倉石は感じていたが、携帯電話に表示された時間は八分ほど。

 眼鏡を外し、眉間を指で押さえる。

「……まいったな」

 そんなところに名前を出すようになった教え子の成長にも驚くばかりだが、自分にこんな大役が回ってこようとは、倉石は思ってもみなかった。

 電話相手の髭の老人が彼に求めたのは、コペンハーゲンで行われる『ワールドユースバドミントン』の代表監督。

 世界のバドミントン強豪国のU-18世代が集う大会だが、そもそもバドミントンの強化に力を入れている国自体が少なく、アジアからの出場国と言えば長年中国、インドネシアを筆頭に、韓国、タイなど数か国に留まっていた。

 それらの国々でさえ、年によっては参加していないことも多く、日本も国内の大会スケジュールの関係や、個人戦がなく団体戦のみで争われること、協会の強化費用の予算繰りの問題からこれまで参加していなかった大会だ。

 そもそも、キアケゴー氏が宮崎での大会を主催したのも、インドネシアが国内事情により急遽参加を断念した事情による。

 スポンサーや、テレビでの放映権料の問題から、16か国が揃わないと都合が悪い。

 そこで白羽の矢が立ったのが、バドミントンの人気もそこそこにあり、キアケゴー氏が先だってアカデミーを開設するなど協会への影響力もあった日本だということらしい。

「日本代表だと?あいつが──いや、俺が監督? 冗談きついぜ、全く……」

 十一月下旬のこの時期は、差し迫って高体連の大会が近いわけではない。

 ただ、それだけに母校の選手をじっくり指導できる時期でもある。

 それは辞退したフレゼリシア女子の亘監督や、宇都宮学院の矢板監督と同じく、倉石にとっても重要だ。

 なにしろ『飯のタネ』なのだから。

「……」

 ともかく、引き受けるかどうかはさておき、選手の選考をしなければ。

 倉石は、電話の少し前にキアケゴー氏から送られてきたメールを開く。

 添付ファイルには、大会要項と組み合わせ表が付いていた。

 何と言っても国際大会だ。

 予選リーグは抜けたインドネシアの代わりに入って、ロシア、中国、ポルトガルと戦う。

 2複3単は普段の高体連の団体戦と同じだが、おそらくテレビ放送の関係だろう、勝敗が決まってもダブルス、シングルスと、必ず全ての試合を、一試合ずつ行う、とあった。

「うーむ……」

 三日連続の予選リーグの後、一日空いて決勝トーナメント。

 ひとまず決勝トーナメントは脇に置いて、予選の一回戦は中国が相手だ。

 向こうの事情は分からないが、国策としてスポーツでも世界の覇権を狙っているお国柄、生半可な選手が出てくるとは思えない。

 こちらも日本最高の選手を揃えなければ、あるいはモチベーションを失う結果にもなりかねない。

 とすれば、志波姫、益子、津幡……羽咲に荒垣、か?

 そこに旭と石澤を入れろとなると、あとはリザーブで二人ぐらいだろう。

 実力で行くなら狼森、豊橋、久御山……。

 しかし志波姫や益子はともかく、その他は国際大会の経験などあるのだろうか。

 『三強』の中では一歩後手を踏んでいる津幡でさえ乏しい。

 荒垣の膝の状態も気になるし、立花と相談しないといけない。

 羽咲は世界ランク一位のワンから一セットを奪ったほどだから、実力や経験と言う意味では申し分ないが、そもそも自分があれを制御できるのか。

 それは、『石澤望』以外の選手についても言える。

 大会まであまり時間がない。

 協会のトレーニングセンターも予定がいっぱいで使えないから、合宿を張るとなれば逗子総合が会場になる。

 そもそも急な代表団派遣に予算が付いたのも奇跡的だ。

 協会が出すのはささやかな合宿手当てに現地の宿泊費と、デンマークまでの往復はプレミアムエコノミー。

 選手のコンディションを考えればビジネスクラスにでも座らせてやりたいが、まあギリギリの線だろう。

 合宿のための国内移動の交通費は各自の学校持ちだ。

 そうすると新幹線一本で東京まで来れるところ──福岡国際大付属の中尾ぐらいが限界か。

 宿は最悪、ウチの合宿所を使えばいい。

 日本代表としては貧乏くさい気もするが……。

「──俺一人で考えても、埒が明かんな」

 倉石は携帯電話を手に取り、電話帳で『ま行』を開いた。

『や行』とか『わ行』は後でいい。

 選手の招集に関しては、キアケゴー氏が直接交渉してもいい、とまで言ってもらっている。

 ただ、立花には直接話すべきだろう。

 引退後の荒垣はともかく、羽咲に関してはまだ高校での競技生活がたっぷり残っている。

 『ま行』──先日引退したばかりの松浦の後に、その名前はあった。

 元全日本の彼女なら、国際事情にも詳しいだろう。

『──お世話様です、松川です』

「ああ、すいませんどうも。逗子総合の倉石です。実は折り入って相談が……」

 それから手短に、倉石は事情を説明した。

 松川もキアケゴー氏の周辺にはよく顔を出しているから、仕事と日程が折り合わず行けないまでも『宮崎の大会』のことは知っていたし、亘監督が代表を率いることを固辞した、あたりまではすんなりと進んだ。

「……それでですね、松川さんに『アドバイザー』として帯同して頂きたいんですよ」

『──アドバイザー、ですか? まぁ、もともと旅行がてら取材に行くつもりでしたから、予定は合わせられますよ』

 彼女の主戦場は高校生年代だが、夏のインターハイから秋口の新人戦にかけて、働き詰めだったらしい。

 そのへんの仕事がようやくひと段落ついて、やれ航空券でも手配しようか……といった頃の倉石の電話だ。

 現地の事情にも詳しい彼女が代表に帯同してくれれば、これほど心強いことはない。

 倉石とて現役時代は強打で鳴らした選手だから、国際大会の経験もあるにはあるが、それはもう何十年も前の、台湾や中国、アメリカなど比較的日本人になじみのある国の話だ。

 是非に、と倉石は念を押して、電話を切る。

 ──と。

 画面にラインの新着。

『優勝しました! 宇都宮学院の旭さんと同率ですが(汗 それと、帰ったら相談したいことがあります』

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