はねバド!~Second Wind~   作:STORICKS

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はねバド!~Second Wind~ 日本代表編
7th game エクストラ・マジック・アワー


 選手の招集には全力を尽くす──その言質を得て、倉石は決心した。

 やるぞ、となれば行動は素早い。

 まずは立石を『いつもの店』に誘い、招集が確定している宇都宮学院・矢板監督への挨拶。

 それから、タイミング良くドアをノックする音。

「──入れ」

 微かなドアの軋みの後に姿を現したのは、逗子総合の制服に身を包んだ、──日本代表。

「お帰り、石澤」

「はいっ!」

 心なしか背筋も伸び、風格がついている。

 荒垣より上だ、と信じてはいたが、ここまでになるとは、倉石も思ってはいなかった。

「優勝おめでとう。間違いなく、お前自身が掴んだものだ」

「──ありがとうございます」

 少し潤んだ目元を指で撫で付け、望はカバンから封筒を取り出す。

「? なんだ、それ」

 封は切られていた。

「中、見てください」

 『これから見つけてきます』──そう言ったあの時よりも、強い意志の宿った眼差し。

 倉石は頷いて、その箔押しの封筒の中身を開く。

「……これは」

 厚手の白い紙に、透かしと、明朝体の羅列。

 表題は、『ワールドユースバドミントン大会日本代表選手団招集通知』。

 文面はお決まりのものだ。

 倉石も大学生の頃に何度か受け取ったことがある。

 そのころのものに比べれば、印刷もきれいになっているが……。

「『……貴殿を上記大会における日本代表選手団派遣対象とします』……」

 そして、その下。

「『代表選手団特別顧問ヴィゴ・キアケゴー』……、──ん?」

『監督』の欄は空白だった。

 その役が決まる前に、望が宮崎で受け取ったものだから、当然と言えば当然だ。

 これから選ぶ選手には、倉石の名前入りの招集状が送られるのだろう。

「……」

 倉石は空白の欄と、戸惑っているような望の顔を見比べる。

 困ったような彼女の表情をひとしきり楽しんで、倉石は彼女に背を向け、サインペンを手に取った。

「え? 監督──」

「『日本代表』にようこそ、石澤。俺が、代表監督の倉石だ」

 望の目尻から、さっきは何とか堪えたものが頬を伝る。

 そして、肩を震わせたかと思うと、──彼女は笑い始めた。

 つられて倉石も笑う。

「短い間だが、よろしくな」

「……はい!」

 

 

 

「──羽咲と荒垣を、代表に!?」

 相変わらず声が大きいな、この男は。

 倉石はそう思いながら、二割ほど残ったジョッキを空にした。

 羽咲綾乃については、立花もすぐに了承した。

 もっとも、本人次第ではあるが。

 羽咲の性格からして、そこに『強いヤツ』が居れば喜んでやって来るだろう。

 もう一人の方は、どうだろう?

 ──単刀直入に行こう。

 倉石は店員にお代わりを告げて、立花に切り込む。

「あいつの膝は、どうだ?」

「……悪くはないです」

「なら──」

 立花は彼を制するように、持ったままの箸を置く。

「本人に聞いてみます、とりあえず……まあ、答えはわかってますけど」

「そうだな……」

 荒垣本人は百パーセント、『行きたい』と言うはずだ。

 だが、無理はさせられない。

 彼は『荒垣なぎさ』を、世界に連れていくという使命を背負った。

 それだけの才能だし、順当に開花しつつある──かすかな不安要素を抱えながら。

「試合は三日連続の予選で、ダブルスとシングルスの重複はできない。テレビの関係とか、選手の負担とかの理由だそうだ」

「じゃあ、予選で終わるなら、多くても三試合ってことですか……」

「まあ、そうなるな。終わらせる気はさらさらないが」

 立花は思案顔だ。

 荒垣本人の耳に入れれば、這ってでも参加したがるだろう。

 そして、この機会を捨ててまで、『今』を膝の治療に充てることが正しいのかどうか、答えを見つけられないでいる。

「……俺は、行かせたいです」

「ああ──不安か?」

「そりゃ、そうでしょう。今はプレーの動きを控えているとは言え、膝が完治したわけじゃない」

「なら、君も来ればいい」

「え?」

 もともと、倉石はそのつもりだった。

 合宿を張れるのはせいぜい四日程度だが、それでも倉石と松川だけでは選手のコンディションやプレーの意思を隅々まで確認し、コーチングすることはできないだろう。

「コーチとして帯同してくれ」

「倉石さん……」

「──ここは奢るから」

 快諾を得て、倉石はほっとした。

 出来ればもう一人ぐらいほしいところだが、それはすでに当てがある。

 

 

 

『──はい、フレゼリシア女子高校バドミントン部です』

「……あれ?」

 随分声が若いな、と倉石は思った。

「あ、ええと、逗子総合の倉石です。夏のインターハイではお世話に──」

『ああ! その節はどうも。志波姫です」

 なんだ、やっぱりか。

 一瞬亘監督が女子高生に変身したのかと、倉石はバカな想像をしたと恥じる。

「どうも……志波姫くん、亘監督は?」

『今日はスカウトに出てます。神藤コーチなら居ますけど……』

「そうか──いや、うん。また電話します、と言伝を頼めるかな?」

『承知しました。メモ取りますね──』

 それから、倉石は自分が代表監督を引き受けたこと、『神藤有千夏』にコーチを頼みたいことなどを伝える。

 思えばどうして、彼女はフレゼリシア女子のコーチを引き受けたのだろう。

 自分が育てたコニーがいるから、というのは確かに理由になるだろうが、そうすると彼女が卒業したら同時に辞めるのか?という疑問が倉石にはあった。

 彼女の手腕に疑う余地は全くないし、だからこそ倉石はコーチをお願いしているわけだが、フレゼリシア女子にしてみれば、僅か二年だけコーチを呼ぶというのは、長期的な目線で見て強豪校の永続にとってプラスばかりではない。

 とすれば、コニーが引退した後も……?

「それはそうと、亘監督はお元気ですか?」

『ええ、元気ですよ。相変わらず、そんなに顔は見せないですけど。たまに身体動かしたりして、あの体形を維持してますからね』

「維持してるんだ、あれ……」

 電話の向こうで志波姫が笑う。

 これは彼女のジョークだっただろうか。

 最後に、倉石は最も重要なことを伝える。

「それから、──志波姫くん、『代表』に来てもらえるか?」

『私、ですか?』

 意外だ、という反応をしたのが、倉石にとっては意外だった。

 彼女の実力なら、呼ばないはずがない。

「ああ、故障がもしあるなら、別だが……」

『ありませんよ、今は。そうですね……監督と相談します』

「ぜひ頼む。良い返事を期待しているぞ」

 電話を切り、倉石はまた考える。

 志波姫の性格からして、周囲に相談せずに即決はしないだろうとは思っていたが。

 しかし、やきもきさせる──。

(次は矢板先生……)

 電話帳をフリックする指を止め、倉石はふと考える。

 よくよく考えれば、旭はダブルスプレイヤーだ。

 であれば、益子泪を呼ぶのは当然のように考えていたが……。

(──そもそも来るのか? あの益子が)

 幼少期から世代の先頭を突っ走り、羽咲に負けたことでようやくその『重荷』から解き放たれた益子泪。

 彼女の心境を慮れば、引退してから大学までの、貴重な『充電期間』だ。

 年相応に、遊びたいこともあるだろうし、それを許されてもいいほどに、益子の果たしてきた役割は大きい。

 家庭環境も複雑だと聞いている。

 だからこそある種『都落ち』とも言える宇都宮学院への進学を選んだ彼女だが、今一度『日本代表』という肩書を背負わせるのは、一人の少女に対する仕打ちとして、褒められるべきことなのか?

(戦力的には間違いなく必要だ。背丈のある左、と言う点では、志波姫よりも優先順位は高い。そして何より──)

 益子泪が来ないとなると、旭海莉の扱いが難しくなる。

 望と共に彼女が勝ち取った今回の『代表招集』は、どこにもケチのつけようのないものだが、やはり旭は『ダブルス』でこそ真価を発揮する。

 宮崎の三日目、エキシビジョンでは望と組んで暴れまわったらしいから、益子が来なくとも他の誰かと組ませればいい、という考え方もできるが……。

「──とりあえず、保留かな」

 気分を変えようと、倉石は体育教官室を出る。

 自販機の前まで来ると、そこに数人の人影。

 望と、二年生の後輩たち。

 すっかり日も落ちて、生徒もまばらになった校舎に反射する笑い声。

 倉石はどことなくバツが悪そうに、自販機に向かう。

「おーい、風邪ひかないうちに帰れよ?」

「あ、監督! おつかれさまでーす。じゃあ先輩、また」

 パタパタと駆けていく後輩たちを笑顔で見送って、倉石と望は二人きりになる。

 望は引退後も相変わらず、毎日大きなラケットバッグを抱えて登校していた。

「おう、お疲れ」

「お疲れさまです」

 この季節ではもう、ホットのコーヒーが当たり前なのだろうが、今倉石が必要としているのは冴えた頭の回転だ。

 数台並んだ自販機をなぞって、隅っこにコールドのブラックコーヒーが残っているのを見つける。

「……そうだ、石澤」

「なんですか?」

「代表に呼ぶんだが、誰か良い選手いないか?」

 望はしたり顔で言う。

「……荒垣」

「お前の方が上だ」

 同じセリフを今まで何度言っただろう。

 倉石が苦笑すると、缶が熱いのか、つまんだ袖ごと握ったコーヒーを揺らせて、望は笑った。

(俺に向かって冗談を飛ばすとは、逞しくなったもんだ……)

「荒垣はもう誘ったよ、羽咲も。あとは志波姫。益子はまだ連絡してないが……」

「そうですか。うーん……」

 望は、夏のインターハイと、宮崎の大会を振り返る。

「狼森は?」

「もう呼んだ。合宿に来るよ」

「ちょっと落ちますけど、芹ヶ谷?」

 笹下とのペアで、インターハイ準々決勝まで行った選手だ。

 しかし神奈川県予選では、羽咲に敗退している。

『ちょっと落ちる』のはまごうことなき事実だ。

「あいつを呼ぶなら、笹下も呼ばなきゃならん。二人は無理だ。他のメンツは落とせん」

 一年生にして夏のインターハイを準々決勝まで勝ち上がった彼女たちは、実力的には申し分ない。

 しかし、短期決戦で不可欠になる『バリエーション』へのアジャストの点で、経験値の不安はある。

「久御山とか、アンリちゃんは?」

「アンリって豊橋か? あいつはいいかもな」

 そのあたりは、松川も推していた名前だ。

「……よし、わかった。ありがとうな。気を付けて帰れよ、『日本代表』?」

「はい。お疲れ様です」

 少し大きくなった背中を見送って、倉石は空き缶を捨て、独りきりの『作戦会議』に戻る。

 おおよその大枠は見えてきた。

 この場限りの『日本代表』が、動き始める。

 

 

 

「ちょっと泪、どこまで行くの」

「へ? 新幹線じゃないの?」

「違うって」

 新幹線も止まる地方の主要駅と言えど、平日の昼前では駅構内の人もまばらだ。

 間違えた方向に突き進んでいる泪の手を引き、旭は券売機の前に立つ。

「……」

『逗子』の文字を路線図で探すが、すぐには見つからない。

「なー、やっぱ新幹線にしようぜ」

「ダメ。電車一本で行けるんだから」

「何時間乗るんだよ、それ……」

 とりあえずICカードにチャージしておけば、なんとかなるだろう。

 そう思い直して旭は、財布からくたびれたカードと五千円札を出した。

 古い日付の定期券が印字されている。

「泪、お金ある?」

「あるよ、バカにすんな。仕送りだけはやたら多いんだよ」

「ならいいけど……」

「グリーン乗ろう、グリーン」

 そう言うと泪は歩き出して、改札に向かう。

 旭は慌てて後を追った。

「お昼いらないの?」

「いる。めっちゃいる。駅弁食おう、駅弁」

「じゃあグリーンだね」

 進行方向を変えた泪に、旭は追いつく。

 思えば、電車なんていつぶりに乗るだろう。

 部活のオフが土日にかかれば、ちょっと足を延ばして大宮ぐらいまでは遊びに行くこともあった。

 宮崎に行くときは高速バスで羽田まで行って、それから飛行機だった。

 そうなると、岡山でのインターハイ以来か……。

「いろいろあんなぁ。焼き餃子ダブル弁当」

「やめときなさい、そんなの。太るよ」

「お、なんだこれ。新幹線だ」

 泪が着目したのは、数年前にできたばかりの北陸新幹線を模った容器の弁当。

「色んなの出るなぁ」

 随分と楽し気な泪を横目に、旭は構内の時計を見る。

「私これでいいや。だるま」

「じゃ、私はこの新幹線にしよう」

 二人は目当ての弁当とペットボトルのお茶を買い、袋を手に改札に向かう。

 平日の真昼間から制服の女子高生が駅をうろうろしているとなれば、周囲の耳目を集めそうなものだが、『サボり』の疑いは、彼女たちが抱えている大荷物によって薄れているだろう。

 改札を通り、ホームに向かう。

 普段は使わないエレベーターを待つのは、彼女たちだけだ。

「ねえ、泪」

「ん?」

「アンタ、もしかして来ないかと思ってた。イヤになったじゃないけど、疲れたかなって」

 旭のそれは偽らざる本心だが、泪は何事でもないように笑い飛ばす。

 ようやく『普通の人』になることができたのだから、わざわざまた『十字架』を背負いに行くことはないのに。

 倉石からの招集を受けて、矢板監督にも、同じような内容を言われた。

 彼は大人だから、泪の家庭環境についても生徒たちより深い部分まで聞いているだろうし、人一倍泪を気にかけていたことは、普段の練習中でも見受けられた。

 バドミントンの技術的な部分では、そうそう教えられることはないにしろ、体力面の強化などは手を抜かせずにやらせていたし、彼もまた生徒を預かる責任を負っていた。

 根っこが腐ってしまえば、いくら手をかけても芽は出ない。

 だが、矢板にとっては、預かった三年間で花は咲かせられなくとも、『益子泪』を保存しておくという責務があった。

「お前なぁ……私はずうっとやってきたんだよ、バドミントン」

「でも言ってたじゃん。『勝つから楽しい』んだって」

 負けた後でも楽しいものなのか、とは旭の立場からは聞き辛かった。

 彼女は幾度も全力を出しながらも負けてきたから、それでも、だからバドミントンは楽しいと、とっくに理解している。

 対して泪は、本当に『全力』を出して負けたのは羽咲だけだろう。

 あれは、誰がどう見ても異常な才能の持ち主だ。

 だから『負けたのは仕方なかった』という風潮が、益子泪を追うファンや大人の間にはくすぶっている。

 それでも、たった一つの『全開の敗北』のおかげで、ずっと追ってきている記者以外からの取材はなくなったし、高校卒業以降の、用具メーカーのスポンサーの話も立ち消えになった。

 これから二つ目、三つ目の負けを経るごとに、そうした『特別扱い』がどんどんなくなってしまう。

 それ自体は泪が望んでいたことだが、もっと大人になってから、『益子泪』の伝説を終わらせる方が、その後の彼女にとっても受け入れやすいのではないか?

 彼女を受け入れてくれる『家族』は、まだ居ないのだから。

「ずっと大人に『ハジかれる』ばっかりだったからさ……」

「……」

 ある時期から、益子泪は協会主導のジュニア代表から姿を消す。

 国内大会には変わらず参戦していたから、怪我などではなかった。

 まあ彼女自身の素行もあったのだろうが、多くの理由は『大人』の横槍だ。

 そして宇都宮学院に入ってからの戦績を見れば、明らかに競技へのモチベーションが落ちているのが見て取れる。

 このまま埋没する──本当の『益子泪』を知らない大人たちがみれば、よくある早熟の天才、神童の墜落に過ぎない。

「ほれ、電車来たぞ」

 緑とオレンジのライン。

 グリーン車には車内清掃が入るらしく、五分ほどの待ちぼうけ。

 車体の動きが止まり、電磁音が消えると、ふと静かになった。

「お前が言いたいのはこうだろ──益子泪が、普通の人間になっちまう前に、『伝説』のまま消えるって手もあるんだぞ、って」

「……そうね。そのつもりだと思ってた」

「けどな、それは神藤との試合の、『負けを認めない』ってことだろ。それはイヤなんだよ。家族とか、大人とかどうでもいいけど……」

「──」

「何十年か先に引退した時に、『あいつに負けてよかった』って思える自信があるから、今は」

 旭はハッとする。

 これだけ泪と近い位置にいる自分でさえ、あの『伝説』を心のどこかで、まだ追い求めている。

 『辞めるなよ』とは言ったが、それは憧憬から出た言葉だ。

 周囲の、理解していない大人と同じ。

「……ごめん」

「謝るなって。お前と一緒にやってきてよかったよ、ずっと」

 旭は下唇を噛み、かつてキャプテンに言われた言葉を思い出す。

『いい大人になろう』──。

「ありがとう、泪。また、間違えるところだった──」

「いいって、私はここにいるんだから。それに今日この電車に乗れってことは、『分かってる大人』がいるんだろ? どこかに」

 

 

 

「──で、アンタどうしたいの?」

「出ますよ、勿論。集大成ですし」

「ふーん……」

 今日はいつもよりリボンの張りが悪いな、と志波姫は思った。

 目の前にはフレゼリシア女子のコーチ、神藤有千夏。

 もちろん、彼女に相談する前に、亘監督にも話をした。

 ほっほっほ、と笑い、彼はにっこりと頷いた。

「コーチは行かないんですか?」

「いや、……決めかねてる」

「ありゃ、なんで?」

「綾乃がいるから」

 羽咲が神藤有千夏の実の娘であることは、今や公然の事実だ。

 ただ、『親子のしがらみ』としては、益子家のそれよりもはるかにレアケース。

「別に清算しろなんて言いませんけどね」

「……どんな顔して会えばいいんだろ」

 会うなり即抱きしめてやればいいのかな、と有千夏は呟く。

(距離の詰め方ヘタな奴か?)

 志波姫は見えないようにジャージのフードをかぶってから、くすりと笑った。

「──ま、四日間の合宿だけじゃ、何かを教える時間は無いですし……選手の心を引っ掻き回すぐらいなら、来なくていいですよ?」

「……言うねぇ」

 確かに厳しい口調だったと思う。

 でもそれを言っておくことが、代表に選ばれた選手としての責任だと、志波姫は思った。

 まして、倉石からは代表のキャプテンを依頼されている。

 もっともそれは、実力や性格からして、他に適任者は居ないだろうと彼女自身も考えている。

「まぁ、アンタとか益子には、すぐに直せる欠点は無いけどね……他の選手はどうだろ」

「綾乃ちゃんは?」

「良くなってるよ、ヴィゴのおかげだ。それを継続させる作業は必要だろうね」

 有千夏の中では、旭と石澤は良く知らない。

 荒垣と久御山は試合を見ていたし、綾乃の対戦相手の豊橋も少しは覚えている。

 彼女たちはそれぞれ、全日本十連覇の選手から見れば、すぐにこれとわかる欠点を抱えていた。

「……やっぱり、ダメだな」

 気付いてしまったなら、『日の丸』を背負う選手に、その欠点を残したまま戦っては欲しくない。

 有千夏はため息をつき、志波姫に向き合った。

「──行くよ、私も。『日本代表のコーチ』としてね」

「……それじゃあ、合宿とかの日程のメールはあとで、転送しておきますね」

「ああ、頼む」

 二人は身体を翻し、逆方向に歩き始めた。

 そうだろう、と志波姫はにやりとする。

 放っておくなんてできやしない。

『欠点』とは可能性だ。

 デンマークや中国まで行って、才能を見つけ、育ててきたあなたなら。

『今』のすべてをコートに賭ける選手たちの、しなやかな情熱を目の当たりにしてしまったなら、もう──目を伏せてやり過ごすなんて、出来ないんだ。

(──だから、綾乃ちゃんに会いに行くんでしょ。素直じゃないなぁ、どいつもこいつも)

 

 

 

 

 

「すまんな武山。現役のお前らに……」

「いえ、全然」

 代表合宿を受け入れる準備として、逗子総合バドミントン部は総出で合宿所の大掃除をしていた。

 つい数週間前に、テニス部が秋合宿を張ったばかりで、思ったより手間はかからなかったらしい。

「目の前で、日本代表の練習見れるんスから、そっちのが全然ありがたいですよ」

 物わかりの良い、と言うよりも、純粋に競技者としての欲だろうか。

「ありがとうな。……これで、みんなで飯でも行ってこい」

 倉石は財布から一万円札を数枚出し、武山に渡す。

 普段は部活終わりの買い食いは禁止という建前だが、今日は特別だ。

「──ありがとうございます。行ってきます!」

 そうして、まだ片づけをしている部員のもとに、武山は走って行く。

「……さてと」

 合宿は週末の金曜からだ。

 火曜日には成田から飛行機に乗ってデンマーク、コペンハーゲンに行く。

 キアケゴー氏に頼んで、スカンジナビア航空のプレミアムエコノミー席を確保してもらった。

 バゲージの扱いが乱暴だから、用具類は機内持ち込みにした方がいいだろう、とは彼のアドバイス。

 帰りは一応、決勝まで残ったことを想定して、余裕を持たせた日程にしてある。

「さて、資料作らないとな……」

 合宿が始まる前日の木曜日には、全員が逗子総合に集まることになっている。

 選手の資料は、既に松川から倉石に送られてきていた。

 ご丁寧に、望の分まで。

 倉石は、ダブルス専門で益子と一緒くたになっている旭を除いて、五十音順で先頭になる荒垣から、レポートを手早く確認する。

「……これなぁ」

 膝蓋腱炎、軽度──診断したのは倉石も何度か生徒を連れて行ったことのある、神奈川では有名なスポーツ診療所だ。

 診断に間違いはない。

 立花の話では、今は軽いトレーニングに留めて、膝の靱帯を整復させることに取り組んでいるらしい。

 軽い打ち合いでは問題ないとのことだが、いざ試合になればどうだろうか。

「次は……石澤」

 松川よりはよほど長い時間、彼女のプレーを見てきた倉石だ。

 自分の方が良く知っている。

 そう思っていたが、そのレポートには彼が気付いていないことが、たくさん書かれていた。

「……『攻め手に詰まると、距離を取りたがる。その瞬間は視野が狭くなり、志波姫戦でもそこを突かれている』──か……。確かに、そうだな」

 意図の限定されたショット──どうしてもそれは気持ちを抜きがちになる。

 野球に例えるなら、ボール球が先行し、苦し紛れにストライクを取りに行った棒球をホームランされる、というような。

 しかし、松川のレポートは悪い内容ばかりではない。

 最後に記されていた一文。

『もし、高校生活が五年間あれば、彼女はインターハイを制する可能性が高い』……。

 

 

 

「はぁー、こいじゃこいじゃ……まだ乗るんか、汽車……」

 昼下がりの東京駅。

 居合わせた修学旅行らしき団体を掻き分けて、狼森あかねは悪態をつきつつ歩を進める。

「あかね!」

「──あ!?」

 在来線ホーム下、ずらりと並んだ柱の一角に、見知った顔が居た。

 あまりスキを見せたくない相手だが、この大都会に気後れしていた狼森には、救いの神に見える。

「志波姫! なんしたば、お前さ?」

「何って、合宿でしょ、あんたも」

「んだ」

「しっかし……随分大荷物だね」

「だでお前、二週間も海外行くんだ。このぐらい……」

 バドミントンバッグに、大きなキャリーケース。

 おまけに背中にやや小ぶりのリュックを背負った彼女は、遠くからでも良く目立った。

「したばって、誰か待っとる?」

「ああ、神藤コーチをね。今トイレ行ってるから。一緒に行こうよ、逗子まで」

「おおよ」

 渡りに船、とばかりに狼森はキャリーケースを柱に立てかけ、その上に腰を下ろす。

「しっかしお前、ようやっと『海』に出れるやな?」

「……?」

「言ってただが、あんとき──」

『この大会が終わったら私は海に出る。世界を一周するんだ』──。

 夏のインターハイ。

 ベスト4が出揃った後、会場近くの道で狼森は志波姫を呼び止め、『羽咲』対策のヒントを与えた。

 一緒にいた美里には、ただの冗談に聞こえていたようだが、ずっと志波姫を追ってきた狼森には、その言葉の響き方は異なっていたようだ。

「ああ……」

 随分細かいことを覚えているものだと、志波姫は苦笑する。

 もっとも、彼女がそう言ったのは、まるっきり口から出まかせでもなかった。

 朧げに、高校を卒業したら海外に出るつもりではいたのだ。

「そういえば言ってたかな、そんな事……」

 そのつもり、ではあった。

 もう、日本でやり残したことはない。

 強豪校主将として団体戦優勝を果たし、自身も肩の怪我から完全復活を印象付けた、春の選抜での優勝。

 戦績に陰りが見え始めた『益子泪』よりも、スムーズに『子供』から『大人』のバドミントンプレーヤーへと羽化を遂げた志波姫の方が、将来的には大きな存在になる。

 それが一般的な見解であった。

『二年後』を本気で考えるなら、海外に出て、武者修行をするべきだ──そんな声もあったし、志波姫自身もそれを見据えて臨んだ、夏のインターハイ。

 しかし、狙っていた春夏の個人戦連覇が羽咲に絶たれ、そうも言い切れなくなった。

 無論、一つの負けで、志波姫の評価が揺らぐことはない。

「まぁ、でもね」

 それでも、『やり残したこと』がいくつも見えてきてしまった。

 それを解決しなければ、海外での戦いも、実りの多いものにはならないだろう。

「志波姫、お待たせ──と。あんたは……」

「青森高田の狼森あかねだ、神藤コーチ。よろしくお願いします!」

「ああ、よろしく。行こうか」

 そう言うと、神藤は腕時計に目をやり、二人を少しだけ急かした。

 

 

 

「うーん……」

 オーダー表を前に頭を悩ませているのは、倉石と松川、立花だった。

 予選一試合目は中国が相手。

 オリンピックなど国際大会でも常に上位に顔を出し、全ての年代にわたって、デンマークを凌ぐ最強国と言っていいだろう。

 個の力では上回る選手が居ても、団体戦となると十三億の人口がモノを言う。

 インターハイや県予選のような、『当たりの読み合い』は、向こうはしてこないだろうから、単純に『強い順』で組んでくる。

 そうなると──。

「一番強いペアが先頭に来る、ですか?」

 倉石がそう聞くと、松川は頷いて言った。

「ええ……私もナショナルチームに居た頃、ユーバー杯なんかで中国とはさんざんやりましたから」

 そのころの記憶を、松川は書き続けているノートに求めた。

 中国はどの競技でも、選手の実力ごとに階層付けが為されている。

 国土が広いこともその一因だ。

 地方都市で一番になった選手が、北京、上海の国家体育センターに招聘され、そこに集まってきた選手たちの中でのトップが、代表選手の枠に収まる。

 日本のように、代表クラスが常に大会で顔を合わせるということは無いから、チームとして機能させるためには、合宿期間を長くとり、統一した戦術を浸透させなければならない。

「……だいたい、同じような選手なんですよね。まあ、顔も一緒ですけど」

「フムン。確かにリオを見ていたが、特にダブルスではその傾向が強い……」

 プレーの質は当然高いが、やっていることはオーソドックスだ。

 シングルスではやたらに背が高かったり、といった一芸選手が出てくることもあるが……。

「で、あれば。最初は『見』に回る──か」

 卓上サイズのホワイトボードの上で、倉石は選手の名前が書かれたマグネットを滑らせる。

「羽咲、豊橋……?」

「まずダブルス1は、相手の出方を見る。『専守防衛』に徹すれば、この二人なら中国の攻撃パターンをほぼ全て使わせることができるだろう」

 そうして得た情報をもとに、『旭・益子』で攻略する。

 ここで悪くてもイーブン。

「シングルスは……」

 立花が右手を上げる。

「俺は、ここで荒垣を見ておきたいです。『何か』が起きるなら、早い方がいい……」

『何か』が起こってほしくはないし、現地到着後には大会本部でのメディカルチェックと、ドーピング検査がある。

 ドーピング検査の方は、予選終了後にも再度行われるらしい。

「それなら、荒垣はシングルス1だ。石澤と久御山はそんなに『上』での経験がない。中国戦は見させて、雰囲気を掴ませる」

「──なら、狼森、志波姫ですね」

「そういうことだ」

 ひとまず、オーダー表は出来上がった。

 あとは、合宿でどこまでフィットできるかだが、中国戦で組ませるペアについては問題ないだろうと、倉石は考えていた。

 旭と益子はそもそもずっとダブルスを組んでいたし、豊橋と羽咲は二人とも、『受けて立つ』タイプのプレイヤーだから、例えば荒垣と益子を組ませたりするよりはやりやすい。

 一息入れようと倉石は二人を促して、体育教官室を出る。

 神藤コーチとキャプテンの志波姫が参加するなら、応接室のスペースが足りなくなってしまうから、合宿所の食堂を使うのがよさそうだ。

「……そういえば、荒垣さんは?」

「今、石澤と打ってます。羽咲も家に寄ってからくるって言ってましたから、多分もうすぐ……」

 ドアを開けると、軽やかな羽根の音が飛び込んでくる。

 いまや『日本代表』の二人には、ほんの遊び程度のラリーだろう。

 それでも、立花は幾度となく荒垣の膝に目をやり、また彼女の表情を見て、問題はないかと心配している。

 ほどほどにしとけよ、と声をかけて、倉石達は外に出ていく。

「そういえば、松川さん」

「はい?」

「全員揃ったら、少し『薬』のことについて話をしてもらえますか? 引っかかると大変だ」

「そう、ですね……」

 

 

 

「いやー、日本代表かぁ」

「顔、顔がもう……」

 浮かれている、という次元ではないほどに緩み切った荒垣の顔に、望は思わず吹き出してしまう。

「だってさ……」

 中学生に完封負けを喫した後しばらくの落ち込みからは、想像もつかない幸福だ。

「──にしても、まさか、逗子総で練習するとは思わなかったよ」

「そうだね……」

 望と荒垣は、それぞれに歩いてきた三年ほどの道のりを思い返す。

 どうして、荒垣でなく自分が逗子総合に選ばれたのか──。

「神奈川の決勝の前、言われたんだよ」

「?」

「『お前もウチに獲っておけばよかったと、後悔してる』って、あの監督が」

「うそ……」

「いや、ほんとほんと」

 そうだったらよかったのにな、と望は下を向く。

 でも多分、荒垣が逗子総合に来ていたら、彼女は満足できただろうか?

 膝の故障の兆候が見えた瞬間、倉石なら間違いなく、通常の練習メニューから彼女を外す。

 そうして回復に努めるとなれば、やっぱりどこかで、インターハイの連続出場は途絶えてしまっていたのかもしれない。

「でもさ……」

 その後を言いかけて、望は慌てて口を閉じた。

(本気で、逗子総合に来たかったの? なんて……私からは言えない)

 彼女の父親はパイロットだし、家は裕福なはずだ、と望は考えた。

 それなら、多少条件が悪くても横浜翔栄や、埼玉栄枝だって行けたはず。

 それこそ重盛と同じC特待で翔栄に行ったなら、橋詰やその他の特待生など蹴散らして、エースにのし上がっただろう。

 でも、そうなっていたら、オーバーワークで膝を壊していたかも知れない。

 木叢監督は、選手に無理を強要するような人ではないが、選手本人がやってしまえば同じこと。

 『やらない』のを叱らないのだから、『やる』のも止めないだろう。

「なんだかんだ、一番いい道だったのかな、って気はするよ」

「……そう、だね」

「でも、望は倉石さんのところで、良かったんじゃない?」

「そりゃ、私は──」

 色んな高校から誘いが来るほど、大した選手じゃなかったから。

 今は仮にも日本代表だが、子供の頃は『三強』はもちろん、荒垣にだって大きく負けていた。

「見る目あるよ、あの監督」

 そう言って、荒垣は膝のサポーターを撫でる。

「これだって、倉石さんからもらったんだぜ?」

「──え、それちょっと引かない?」

「……確かに」

 一応、ウチのコーチに言われたんだけど、と荒垣はフォローしておいた。

 そして、二人はまた、コートに戻る。

 ふと、踵を鳴らす望を見て、荒垣はもう一言、倉石が言っていたのを思い出す。

(……ま、言わなくてもいいか)

『石澤を獲ったことは、後悔していない』──。

 

 

 

「それじゃ、駅まで豊橋と久御山を迎えに行ってくる。立花君、あいつらを頼む」

「了解っす」

 倉石は松川を助手席に乗せ、体育館脇の門をくぐる。

 遠ざかっていく排気音の代わりに、近づいてくるヘッドライト。

 型落ちの高級車だが、ショーファードリブンとして設計されたそれは、後部座席に三人が座っていても、窮屈さはなさそうだ。

「イヤ、遠かったデスネ。日本のハイウェイは機能的ですが、車の数に対して貧弱スギマス……」

「電車でいいって言ったじゃないの、ヴィゴ……」

 ミス・アンヌにお礼を言って、彼女──神藤有千夏は車を降りる。

 次いで、志波姫と狼森が、大人たちの手を借りつつ、大荷物をトランクから下ろした。

「……おい石澤、キンチョーすんなって」

「いや、いざってなると、ちょっとね……」

 そうは言っても、望は今のところ、この場にいる唯一の逗子総合の関係者だ。

 体育館の扉から進み出て階段を降り、到着したゲストを出迎える。

「あ、石澤!」

 人懐っこい笑顔で手を振り、キャリーバッグを引きずって近づいてきたのは、志波姫だった。

 後ろに狼森も続く。

 先に到着していた羽咲も、望の後に続き、束の間、再会の感傷に浸った。

「それじゃ、ヴィゴ。ありがとうね」

「──!」

 耳ざとく『母親』の声を聞きつけた羽咲が、一瞬表情を硬くする。

 それを察してか知らずか、望が一足先に、神藤有千夏に握手を求めた。

「よろしくお願いします、神藤コーチ。ウチの倉石は──」

「ああ、明美から電話があったよ。駅に二人迎えに行くって。よろしくね、石澤」

「はいっ」

 そして神藤は、荒垣とも握手を交わすと、そのまま体育館の中へ進む。

 中に逃げ込んだ、自分の娘を捕まえるために。

「──綾乃」

「……」

 二人のわだかまりは、もう随分薄れたはずだ。

 それでもまだ、直に顔を合わせて話すことは、難しいのだろうか。

 なんとなく聞き及んでいたが、根本のところは良く知らない望は、同じ境遇の狼森を、合宿所に案内して、姿を消す。

「──お母さん」

「!」

 張り詰めた空気が、動いた。

 事情をよく知る荒垣と立花、志波姫は、息を呑む。

「もういい年でしょ? なんでコーチなんか……」

「は?」

 場を和ませようとしたのか、志波姫がわざとらしく吹き出す。

「──あははは! 神藤コーチ、『いい年』ですって」

「ふ……覚悟しな、綾乃? 今度こそ、最後まで付き合ってあげるよ」

──『ご飯』は逗子総合の部員たちが作ってくれるらしいし。

「ま、それより先に……立花君と唯華、ちょっと」

「? はい」

 神藤は二人を連れて、体育館の二階へ上がる。

 フロアには羽咲と荒垣が残された。

「じゃ、なぎさちゃん──」

「やんねーぞ、今日はもう」

「え~!?」

「お母さんにやってもらえよ、あとで」

 合宿の本番は明日の朝からだ。

 今日の所は、全員が顔を揃えて夕食を共にし、お互いのことを少しでも理解する時間をとる。

 聞けば風呂も大浴場を使うらしい。

 理子に持たされた化粧水は、適当にみんなに分けてやろう。

 益子なんかは、喜ぶだろうか?

「さて、アタシらも寮行こうぜ。着替えたいし」

「むぅ……」

 

 

 

「──これ、明美の作った資料?」

「ええ、そうです」

 青いプラスチックのファイルに収まった、九人分のデータ。

 神藤コーチはそれを開くと、一ページ目からざっとめくっていく。

「荒垣、石澤……旭は?」

「益子の次です。彼女は基本的にダブルスプレイヤーなので……」

「なるほど……確かに、そうかもね」

 シングルスとダブルス、両方の経験がある選手はいいが、荒垣のようにほとんどシングルスオンリーの選手や、旭のようにその逆が居ると、オーダーを組むのも苦労する。

「ちょこちょこ相談は受けてたけど……悪くないメンバーだね。津幡が出られないのは残念だけど。荒垣が居るなら、あのタイプは一枚でいい」

 本来は、『三強』の津幡にも声をかける予定でいた。

 ところが夏のインターハイを経て、『荒垣なぎさ』に対する評価は極めて高くなっている。

 膝の不安を込みで考えても、将来必ずデンマーク代表のエースを張るコニー・クリステンセンを、追い込んだほどの選手だからだ。

 彼女に負けてしまった津幡より、『同じタイプ』でより上回っている。

 それがキアケゴー氏や神藤、倉石の評価だった。

「相変わらず細かいね、明美は……唯華、見るかい?」

「私の攻略法でも書いてますか?」

 にやりとした後、志波姫はそのファイルを受け取る。

 と、階段を上がってくる音。

「遅くなった──と。志波姫……」

「あ、倉石さん。いえ、監督」

「呼びやすい方でいい。豊橋と久御山が着いたぞ。今松川さんが案内してる。部屋は全部二人部屋だから、適当に分けといてくれ」

「じゃあ、行ってきます」

 そう言うと志波姫は、ファイルを神藤に戻し、体育教官室を出ていく。

(部屋分け、か……)

 フレゼリシア女子の寮も、基本的には二人部屋だ。

 彼女は相方が途中でやめてしまって、三年の時は独りだったが。

(泪と旭は、一緒でいいな。あとは綾乃ちゃんが気を使わなくていいように、荒垣の部屋で……)

「うっ、さむ……」

 宮城よりは、多少暖かいと思っていたが、それでももう、十二月が近い。

 志波姫はジャージの襟を立て、腕組みをして背中を丸める。

(アンリは誰とでもいいだろうけど、久御山……どうしよう)

「あんまり知らないんだよなぁ……石澤もだけど」

 久御山久世──関西では世代随一のプレイヤーと言っていい彼女だが、今までの高校生活では、直接手合わせをすることはなかった。

 ほとんど選抜もインターハイも常連で出てきていた彼女だが、結局『戴冠』というところまでは至らずに、高校での競技生活を終えている。

 望に関しては、夏に手合わせした限りでは、余裕をもって勝てる選手ではあった。

(でも、片鱗は見えた。だからこそ、宮崎で勝ってきたんだろうな……)

 選手としてのピークを、人為的に操ることはできない。

 目の前の勝利を渇望して、全力を出すのはアスリートとして当然のことだ。

 特に、ただ純粋に競技に打ち込める年代である、ジュニアからアンダー20ぐらいまでの期間は。

 プロになってしまえば、それぞれの大会は異なる『重み』を持つ。

 A代表への選考対象となる大会では、遮二無二勝利を目指すとしても、実業団リーグの試合で大差がついたら、最後の最後まで羽根を追うか? と言われれば、答えはノーだ。

 

 

 

「これでコーチ陣が揃ったわけだが……」

 倉石は眼鏡を拭き、掛け直す。

「合宿は明日から四日間しかない。中国なんかは二週間以上やって来てるそうだ」

 その情報をもたらした、松川が頷く。

 神藤が言う。

「今から出来ることは、ペアのフィッティング。これに二日はかけたい」

「一戦目のオーダーは決めたよ。これで問題なければ──」

 そう言って松川が手渡した紙を、神藤はじっと見つめた。

「……まあ、妥当だろうね。現実的に勝ちに行くなら、これしかない」

 予選リーグは中国の後、ロシア、ポルトガルと対戦する。

 ロシアはともかく、ポルトガルは明らかに格下と言っていい。

 一昔前には名選手も輩出したが、とりたてて国を挙げての強化などしていないし、小国から出てくる才能はそう多くないから、団体戦では問題なく勝ち越せるだろう。

「ロシア……今はどうなんですか?」

 立花が訊く。

 彼と他の三人では、競技の年代に二十年近い開きがあった。

 もともと、国威発揚を目的にスポーツにも資金や人材を注入してきた共産国家だが、ソビエト連邦崩壊後の今でも、そのある種『伝説的』な強さは保たれているのか。

「大したことはないと思うよ。もともと優先強化対象ではなかったし、素材は中国ほどは揃わない……」

「そう。つまりは悪くとも二勝一敗で、予選は突破できる。できる、が──」

 そうなったとき、即ちB組二位で予選を通過した時、決勝トーナメントの対戦相手はA組一位となる。

「A組は……」

「オランダ、アメリカ、台湾、オーストラリア。……まあ間違いなくオランダだろうな」

「オランダかあ……」

 松川は天を仰ぐ。

「厳しいね」

「うん……そうねぇ……」

 神藤がポツリと漏らした一言に、松川も同意する。

 デンマークと並んでオランダは、西欧では比較的バドミントンの人気が高く、何より国を挙げての強化体制が整っている。

 何より彼らを悩ませるのは、オランダ人の特性──女性の平均身長にして、日本人とは十センチ以上の差がある。

「全員荒垣みたいな感じだからな。日本人は一番苦手とするタイプだ。むしろ中国なんかの方がやりやすさはあるだろう……」

 お家芸のテクニックも、パワーで押し込まれてしまっては使いどころがなくなる。

「一位で突破したら?」

「D組二位だ。勝てば、C組一位とA組二位の勝者」

「……C組は」

「まあ一番キツイ組だろう。これはどっちが出てくるかわからん」

 デンマークとマレーシアが含まれるCポット。

 コニーが居るデンマークの方が、一歩有利だろうか。

「言ってもマレーシアにとっては国技ですからね。デンマーク代表と言えど、楽には……」

「そこで消耗し合って、ヘロヘロで準決勝に出てきてもらえれば、優勝まで見えるな」

 倉石がそう言うと、松川と神藤は顔を見合わせた。

「希望的観測には付き合いかねる──けど、可能性はある」

 

 

 

 

「みんな、良く集まってくれた。監督の倉石だ。明日から練習が始まるが、その前にいろいろと説明をしなきゃならん」

 そう言って倉石は松川を促し、『薬』──ドーピング検査についての講義を開始する。

 ナイーブな話になるだろうと思い、倉石と立花の『男性陣』は松川に目配せをして、外に出ていった。

「……ドーピング検査が初めての人もいるだろうから、基本から説明するね。まず、やることは尿検査とかわらないんだけど──」

 U-18と言う年代は、国の選手層によっては、オリンピックに直結する選手たちだ。

 急ごしらえとは言え、この代表には『東京』の枠を十分狙える逸材が揃っていると倉石達は自負するが、それは他の国も同じこと。

 選手としてピークを迎えるにあたって、こういった『トラブル』は避けねばならない。

 小さい頃からジュニアの国際大会に出場経験があるのは、益子と志波姫だけ。

 高体連の大会ではドーピング検査などしないから、他の選手たちにとっては初めての体験だ。

 相手が同性とは言え、見られながら用を足すというのは、あまり気分のいいものではない。

「……うん、それであの──もしよかったら、練習してみて? 結構ガッツリ見られるから……」

 練習、という言葉の意味するところを得て、選手たちに動揺が走る。

 無理もない。

 もちろん誰にでも、幼いころにおしめを変えて貰い育ってきたわけだが、そんなのはもう、物心つく前の話だ。

 ざわつきを鎮めようと、壁にもたれて黙っていた神藤が口を開く。

「あのさ、一応──出ないと、試合出れないからね。オリンピック目指すなら、必要なことだから」

 思いがけず厳しい口調に、再び空気は締まった。

「そういうこと。あと、サプリメントなんかは必ず報告書に記入すること。メーカー名と、商品名は英語で書かないといけないから、それも調べておいて」

 そうして、松川は報告書のコピーと、『練習用』の紙コップを皆に配る。

 報告書の方はともかく、紙コップの方をまじまじと見つめ、望は隣に座った志波姫の表情を伺う。

 彼女にとっては、なんでもないようだ。

 それは経験がそうさせるのか、あるいは性癖か──。

「──お母さんも、やったの?」

 と、羽咲が口を開く。

「やったよ。明美もやったし、麗暁やコニーだって、やってるさ」

「ふうん……」

 他人に見せるんだ、と羽咲は呟いた。

「……ま、検査官のことは、ぬいぐるみだとでも思いな」

 性的に最も成熟しているのが誰かは分からないが、最も未熟なのは羽咲だろう。

 下手な『手ほどき』をすれば、心に傷を負ってしまうかもしれない。

「そんなところかな。あとは現地で外に行くときは、必ず私か有千夏がついていくから。これは、未成年として当たり前のことね」

 デンマークの治安はさほど悪いという印象はないが、それでも言葉も通じない外国だ。

「じゃ、呼んでくるよ──」

「あ、明美。ちょい待って」

 壁から背中を離し、神藤は皆が座るテーブルの正面に立つ。

 そうして上着を脱ぎ、コーチ用のポロシャツに縫い付けられた、『日の丸』のワッペンを見せて言った。

「アンタたちにはまだ、『これ』の本当の重みは理解できないかもしれない。けれど──」

 皆を見回す神藤に、選手たちも呼応して目を向けた。

 益子も椅子を鳴らし、背筋を伸ばす。

「変に気負ったり、退くことはない。これからの、『これ』の重みを作っていくのは、アンタたち自身だからね」

 何十年か先に引退した時、あの時『これ』を背負って戦って良かったと、振り返ることができるように。

 次の世代が、決して軽んじることのないように。

「短い期間だけど、私らは全力で、アンタたちに教えるから」

 

 

 

 松川が男性陣を呼び戻し、今度は倉石が中央に立つ。

 後ろには、部活でも使用していた、オーダー表とバドミントンのコートが描かれたホワイトボード。

「一戦目、中国戦のオーダーを発表する」

 その隅に張られた名前入りのマグネットを、倉石と立花が手早く所定の位置に貼っていく。

 意図したわけではないだろうが、倉石は背中で隠していたそれを、自らが横にずれて露わにする。

「……」

 沈黙の中、ペアに宛がわれた豊橋と羽咲が、顔を見合わせる。

 枠に名前のない久御山と望は、少し目線を下げた。

「理由を一つずつ説明する。まず、入っていない久御山と、石澤」

「──」

「お前たちはこの中でも、国際大会の経験が少ない方だ。だから一戦目は見させる。いいな?」

「はい」

 少ない、と言うよりも、自分にはないから当然の処置だろう、と望は思った。

 久御山の方はどうか知らないが、彼女もそう経験が多いとは思えない。

「当然二戦目の、ロシア戦は出てもらう。逆に荒垣は休みだ。お前はしっかり休養を取ってくれ」

 うん、と頷いた荒垣を確認して、倉石は話を続ける。

「で、オーダーに入ってる豊橋と羽咲のペアだが……明日から練習だ」

 急ごしらえのペアに、中国相手に白星を期待するのは酷だが、倉石はそこにもフォローを入れる。

「誤解しないでほしいが、お前たちに勝てとは言わない。ただ……このダブルス1で、中国の選手のパターンを出来る限り多く、あとの奴らに見させてほしい。それが出来ると踏んだから、お前たちに大事な一発目を任せるんだ」

 もちろん勝てるならそれに越したことはないし、ダブルスを組んでみて呼吸が合うようなら、後の益子・旭のペアとで二連勝も望める。

 よくわからない、という顔をしている羽咲に、立花が助言する。

「羽咲……神奈川での、橋詰と重盛との試合と一緒だよ」

「……うん」

 どうやら納得したらしく、羽咲は隣に座った豊橋と手を合わせ、お互いの健闘を誓いあう。

「あとはシングルスだが──荒垣、狼森、志波姫で行く」

 二勝二敗で最後までもつれたなら、そこはキャプテンの志波姫しかいないだろう。

 本当ならプレッシャーに強い荒垣を、勝敗の決まる可能性の高い四戦目に持っていきたいところだが、星取りが『悪い方』で回ってきたなら、取り返そうと無理をしてしまうことは容易に想像できる。

 であれば、スピードと言うストロングポイントを持っている狼森を四戦目に置いた方がいい、というのが松川や神藤の意見だった。

「確かに、ドンケツはヤだかんな……」

 狼森がぽそっと言った。

「──まあ、団体戦だからな。志波姫は最後だが、どんな形で回ってきても、『日本代表』としての戦い方を見せてやれ」

「わかりました」

「うん。明日は八時から練習だ。今日は風呂入って早めに寝とけ。それじゃ、解散」

 ありがとうございました、とそれぞれが言い、立ち上がる。

 と。

「ねぇ、ちょっと待って──私達だけで、話をしよう」

 志波姫がそう言うと、いの一番に部屋を出ようとした狼森が立ち止まり、戻る。

『大人たち』が出て行ったのを見計らって、志波姫は口を開いた。

「なんだばや、話って」

「別に、大したことじゃないんだけどさ……」

 彼女の人間性、リーダーシップは、この年代の選手なら誰でも知っている。

 幼いころから共に戦ってきた益子達だけではなく、荒垣や望にとっても、それは例外ではなかった。

 自然に、志波姫の話には皆耳を貸す。

「どうしよっか、部屋割り」

「部屋ぁ?」

 何だそんな事か、と益子は首を鳴らし、旭の袖をつまんだ。

「私はこいつとじゃないと、やだ」

「別にそこはいじらないわよ。けど、他の──」

 そう言って、志波姫は荒垣と羽咲を交互に見る。

「ん……アタシは別にいいぜ、誰でも」

「えぇー」

「ペア組むんだろ、豊橋と寝ろよ」

 と、豊橋の顔が赤くなった。

「あ、いや……そういう意味じゃなくて」

「それじゃ、そうしましょう。荒垣は久御山と、アンリは綾乃ちゃんね」

 うん、と頷いて、羽咲は豊橋にまとわりつく。

「あれ、そう言えば……あかね、アンタ一人だよね」

「あ? ウチはいいべ、別に」

「ダメよ。アンタ……も、そうね。アンリの部屋で」

「でら狭くなっちまうべや、それ」

 と、望が口を挟む。

「大丈夫。あそこ角部屋だから……」

 大荷物の豊橋を見て、松川が宛がった部屋。

 二階の角になるそこは本来四人部屋だから、三人と、豊橋と狼森の荷物を置いても、狭さは感じないだろう。

「じゃ、それで。石澤は私とね」

「え……うん、よろしく」

 よかった、と望は安堵した。

『練習』をするにも、年下の羽咲や狼森にはあまり見られたくなかったし、子供のころから良く知っている荒垣もちょっと、遠慮したかったところだ。

 益子の『俺』が出れば何をされるかわかったものではないし、ベストとは言わないまでも、志波姫なら『本番』の経験だってあるし、まあなんとかなるだろう、と望は思った。

 そうして数十分後、望は自分の目論見が、国際大会では全く通用しないことを知る。

 

 

 

「ユニットバス付なんて、結構いい合宿所あんじゃん? 逗子総合」

「便座は冷たいけどね」

 午前中は授業、午後からは荒垣にラリーを付き合い、夕食後のミーティングも済ませた望は、少し眠気を感じていた。

 しかし、同室の志波姫が机に置いた『それ』を見て、はっと目が醒める。

「……志波姫、それさあ」

「ん? これ?」

「うん」

 先刻、松川から聞かされた、国際大会の洗礼。

「あぁ……望は、無いんだっけ? 経験」

「ない、よ?」

 ドーピング検査の経験の話だろうか、それとも、同い年の女の子の前で──したことがあるかどうか、ということだろうか。

 どちらにしても、望にはそういう経験はなかった。

「これねー……」

 そう言うと志波姫は紙コップを手に、ベッドに座る望の足元にしゃがみ込む。

「──このぐらい、見られるから」

「……マジで?」

「マジ」

 赤くなったり、青ざめたりしている望を可愛いと思ったのか、志波姫は彼女の隣に腰を下ろし、頭をぽんぽんと叩く。

 そもそも昔は、一人で採取したそれを、窓口に提出するだけでよかったのだという。

 それなら望にも、病院の診察で何度か経験があった。

「『すり替え』をした選手が居たのよ。もうだいぶ昔の話だけど。しかもその方法が──」

 志波姫の話は、望にドーピング検査の必要性と、その手順の妥当性を納得させるに値する、衝撃的なものだった。

 禁止薬物の反応が出ない他人の尿を、体内に入れておく、だとか。

 それが明るみになると、今度は簡易DNA検査まで行われるようになり、それが本人のものであることを確かめる。

 極め付けは、薬物を摂取する前に採った尿を避妊具に入れ、それを体内に入れて検査の時に出す。

 これを見破るためには──。

「──それはもう、なに? 『拡げて見せろ』ってこと?」

「言い方」

「あ……」

 今度は真っ赤になった望を気遣ってか、志波姫は努めて明るく言う。

「ま、相手はお医者さん、だから。間違いなく女性のね」

「うーん」

 望は簪を外し、頭をかく。

「日本でも、社会人の大会だと、ドーピング検査やることもあるよ? 全員じゃないけどね」

「そっか……」

 結局、アスリートとしての義務であるものだから仕方ないんだと、望は理解した。

 理解はしたが、だからと言っていざ本番で、ちゃんと『下』が緩むかと言われれば……。

「日本人はそんなに疑われないから。逆にちゃちゃっとやらないと、怪しまれるしね」

「自信ないなぁ……」

「練習する?」

 志波姫の屈託のない笑顔に、望は若干背筋が寒くなるのを感じた。

 しかし合宿の間に一度ぐらいは、練習しておかないとダメだろう。

「……考えとく」

 せめてもう一段階ぐらい、間を踏んでいけばなんとか……。

 望は、志波姫を促して大浴場に向かった。

 

 

 

「やるよ、泪」

「マジで?」

 酒が飲めるなら、酔った勢いでやってしまえるのに。

 そう旭は思いながら、紙コップを手に、ユニットバスに向かう。

 開けっ放しのドアの前に、泪を立たせて。

「いやーきついっす」

「茶化すな! 目、瞑っててよ」

「ごめんごめん……」

 泪が、きちんと目を瞑ったのを確認して、旭は下着を脱ぎ捨て、空っぽの浴槽の中で座り込んだ。

 気まずい沈黙。

 電気を付けないのは賢明な判断だが、換気扇でも回せばいいのに──と泪が思ったその時。

「っ……──あ!」

 ぱたたた、とFRPに跳ね返る水音。

(シクったな、えんがちょ)

 泪は彼女に気づかれないように鼻を鳴らす。

 軌道修正に成功したらしく、それからは少しこもった音が響く。

「……ふう──ほら」

 紙コップには、八分目ほどまで注がれた、黄色い液体。

 やはり『シクった』らしく、手が少し濡れている。

 まあそれでも、糸を引いてるよりはましだと、泪は思い直した。

「見せんでいい。手洗えよ、百回ぐらい」

「うるさいよ」

 真っ赤な顔で旭は泪を睨み付け、中身を便器に捨てる。

『それ』を浴槽の中に捨てられなくてよかったと、泪は安堵した。

「アンタもやれ」

「ちょっと何言ってるかわかんない」

「なんでだ」

「同じコップ使うのかよ……」

「いいわよ、洗ってあげるから」

「やめろ、フニャフニャになるだろ──あぁ!?」

 旭は勢いよく蛇口をひねり、紙コップを洗う。

 硬さを失ったそれが変形し、ついには旭の手に、くしゃりと握りつぶされた。

 彼女はひょうたん型になった断面を指で拡げ、なんとか元の形にしようとする。

「……はい」

「『はい』じゃないよなぁ?」

「ズルいでしょ、私だけやり損かよ」

「──わかったよ!」

 ひと呼吸おいて恥ずかしくなってきたらしく、真っ赤な顔で震え出した旭が可哀そうに思えた泪は、自らも同じように下着を脱ぎ、浴槽に腰を下ろした。

「お前これ入んねぇって、物理的に」

「気合いでなんとかしなさい」

 くそ、と小さく悪態をついて、泪は背筋をきゅっと伸ばし、狙いを定めるため、下腹部に右手を伸ばした。

「……」

 つととと。

 最初は小さかった音だが、途中から泪は狙いを付けるのをあきらめたらしい。

 浴槽内に、盛大に跳ね返る音を閉じ込めようと、旭は慌ててドアを閉める。

「おい、ちょ──」

 これで少なくとも、廊下まで漏れ聞こえることはないだろう。

 旭は安心して、音が終わるのを待った。

「……終わった?」

 旭が再びドアを開けると、真っ暗闇の中でバランスを崩したらしく、泪が膝立ちになって肩を震わせていた。

「──暗くて狭いのは、いやだ」

 涙目でこちらを振り向く彼女に、旭は慌てて謝る。

 昔、そんなことがあったのかもしれない。

「……ごめん。慌てた」

「いいよ。はい、これ」

 底から雫の垂れる『それ』を、泪は旭に渡そうとする。

「いや、いらないから」

「だよなあ」

 そうして泪は、中身を便器に捨て、紙コップを握りつぶす。

「はい、というわけでね」

「というわけで、じゃない。シャワーで流してよ、ちゃんと」

「はいはい──いいやもう、風呂入っちまおう。着替え出しといて」

「わかった」

 と言うが早いか、泪は上半身をすっかり曝け出していた。

 十八歳の女性にしては筋張った背中に、旭はしばらく見とれる。

「……なんで閉めない」

「あっ──」

 後ろ手に投げつけられた服を受け取り、旭は慌ててドアを閉めて、浴室の電気を点けてやった。

 洗濯籠代わりのスーパーの袋にそれを詰め込んで、旭はベッドに寝転がる。

 本当は大浴場でみんなと入るのが好ましいのだろうが、泪の裸を他の誰かに見られるのは、少し口惜しい気がした。

(まったく、もう……)

 浴室からは呑気な鼻歌が聞こえている。

 と、こもった声が旭を呼んだ。

「おーい、旭~」

「あ? あぁ……」

 そう言えば、泪は手ぶらでシャワーを浴びているはずだ。

 旭は泪の鞄から、手際よくまとめられた『お風呂セット』を取り出す。

「はい」

 出来るだけ見ないように、旭は少しだけ開けたドアの隙間から、それを彼女に手渡した。

「いっつも思うけどアンタ、意外と几帳面なのね」

「は? つーより、慣れてるからな、遠征とか」

「ああ……」

 それに、恐らく泪は、彼女の家の中にも『居場所』がなかったはずだ。

 身の回りのものも、こじんまりと収めていたに違いない。

 宇都宮学院の寮ではなにかと奔放に振舞い、旭との二人部屋でも随分と店を広げていたのは、孤高の天才としての見せかけと言うよりも、そう言ったことの反動があったのかもしれない。

 風呂にしたって、いつも勝手に一番風呂に入って、勝手に上がってくる泪に付き合ったことも、何度となくあった。

 そのたびに先輩に頭を下げるのは旭の役目で、よく先輩たちもそれを叱らなかったものだと、旭は思い返して笑みを零す。

「ちょっと、飲み物買ってくるからね」

「おーう」

 上機嫌な返事を聞いて、旭は財布を手に部屋を出る。

 と、湯上りで赤らんだ顔の志波姫と、望に出会った。

「お、旭~」

「……お疲れ」

「泪は?」

「いるよ、風呂入ってる」

 そう言うと、志波姫は大げさに、口をへの字にして見せた。

「あ、ダメだなぁそういうの。みんな仲良く裸の付き合いしなきゃ」

「いや、まあ……『練習』の流れでさ」

 それを聞いて驚いたのは、望の方だ。

「え、もうやったの?」

「言い方」

「あっ……」

 やったと言えばやったに違いない、と旭は苦笑する。

 志波姫は肩をすくめて、表情を崩した。

「旭──」

「?」

「ありがとうね、泪を独りにしないでいてくれて」

 

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