まだ、太陽も照り付ける時刻であった。
じりじりと全てを焼き尽くそうとする太陽に、染井菊花は目を手で覆った。
「あっつい…」
「さっきアイスコーヒー2杯も頼んでたろ。あれで冷えたんじゃあないのか?」
「そんなわけないですよ。暑い。原さんまだ着かないんですか?」
「もうちょっとだ」
原と呼ばれた男は、菊花を一瞥するだけである。
菊花は汗でべたつく前髪を2本の指で払いのけ、
「早く冷房に当たりたいです。あっつい!!!!」
「あー、喋るな。よけいに暑く感じるだろ。足だけ動かせ」
とにかく、その店に着かなければ、彼らの汗はとどまることを知らないだろう。菊花と原は、少し言葉を交わしながら、件の店へと向かっていった。【コロラド】…件の店とはここらしい。洒落ている店構えだ。
「いらっしゃいませ…おや、原さんではないですか」
原はドアに付いていたベルが数回鳴らした。若い店員が二人を出迎えてくれた。
「よっ。さらちゃん。個室空いてる?」
「ええ。他のお客様はお見えになっておられませんから。それと原さん」
「何だ?」
「ちゃん付けしないでくださいね。これでも成人男性ですから」
「はいはい。じゃあいつものところに」
「かしこまりました」
出迎えてくれた店員は原と軽口を叩き合う。2人は親しい間柄なのだと菊花に感じさせた。店員は一番奥にある個室に2人を通した。
「原さんいつものやつ、あとでお通ししますね」
「了解」
「それでは」
店員はそれだけ言うと、影のように立ち去った。
「うわ、広い」
「んで、染井」
「はい」
「どうだった?」
たった一言。
それだけを聞いて、菊花は今回、誘われたのが【仕事】に関する内容も含まれているのだと認識した。
「幹部と一部の警察官による癒着、人身売買、また信者に対する洗脳などを確認できました。中々尻尾を出してくれなくて苦労しましたけど」
何故客がいないのに声を潜める必要があるのか。それは彼女たちの職業が関係しているためである。
彼らの職業は警察官。その中でも所属は公安部総務課に所属している刑事だ。総務部と言うのは、カルト方面の仕事が多い。菊花がこの仕事に決めたきっかけは、単純に「警察官ってかっこいいな」と思ったためである。テレビや小説が影響されたといっても過言ではないだろう。
大学を卒業後、警察採用試験を受験し、見事合格した彼女は、警察学校で自分の腕と知識を磨いていった。警察学校で「公安になりたいんだ」と目標を言ってみれば、揶揄されることも少なくない。同期の親友はただ笑わずに応援してくれた。
負けず嫌いな彼女は不言実行を表現するように、成績上位者のリストに名前を連ね続けていった。休日でも、走り込み・座学の復習を欠かさず鍛えた。努力を見ているのは神様だけではない。
警察学校を卒業し警察官になって8年経った。その成績を、今の上司である原に見込まれて公安部へと移動した。2年と半年経った日の出来事である。現在の理事官に某宗教団体への潜入捜査を命じられた。日本には宗教の自由があるが、公安ににらまれる団体は良く無い輩も多い。
菊花は続ける。
「中には幼い子供を虐げていることも確認が取れました」
「外道が」
吐き捨てるような原の言葉に菊花は頷く。子供は可愛いと思うし守らなくてはいけない存在だ。人権を踏みにじられるなど許されることじゃない。この宗教団体は公安が監視している中でも新しく、最近になって、活発化してきたことを菊花は理事官たちに伝えていた。また、元信者たちの被害報告が上がってきたり、違法行為も耳に入ってきたのだ。
一言でいえば地獄である。宗教というものは時に人を狂気の淵へと陥れる。原はメモを取りながら、ほかの同僚の名を出した。
「先に潜入してた網谷は?」
「櫻原理事官に提出しに行っているかと」
「仕事が早いな」
「期待のエースと言われてますから。彼」
網谷と言うのは菊花の後に、宗教団体へと潜入してきた公安の一人である。1つ下の彼と既知の関係であったので、公安部で再会し、互いに驚いたこともあった。日本人特有の黒ではない、アメジスト色の瞳は、甘いマスクの彼によく似合っていた。派手な見た目をしているが、れっきとした純日本人である。
「お前と同期だというのが信じられん」
「彼、童顔が凄いので大学生と間違えられるみたいです。おかげで潜入もしやすいと言ってました」
「原さんお持ちしました」
「ああ、悪い」
「また何かあればそちらのボタンでお呼びください」
「おう、ありがとな」
「いえ」
先ほどの店員が数種類の酒を持って立っていた。お猪口1杯程度の日本酒、軽めの焼酎など。度数の低いカクテルもある。またいくつかの軽食も持ってきていた。いくら非番といえど、沢山のお酒を飲むことはなかなか叶わない。店員は一礼して、個室から去った。
待ってましたと目を輝かせた菊花に、原は苦笑していた。
「続きは飲みながらでいいか」
「そうしましょう」
『それじゃあ乾杯!』
お猪口に注いだ酒がこぼれぬよう、交わす。口当たりがいい。まるで水のようだ。
「めちゃくちゃいい銘柄ですね、これ?」
「柏盛」
「……大事に呑みます」
「理事官には?」
「明日の午前1番で」
「そうか」
「あの店員さんと親しいんですね」
「知り合いの弟だよ。更科だからさらちゃん」
なるほど。苗字を軽く略して"さらちゃん"ということか。
菊花は納得したが、はたと気づいたことがあり、
「バレてますよね、私たちの職業」
「ああ。さらちゃんは俺の協力者でもあるからな」
「いつのまに…」
「ちょっと前からだよ」
原はニヒルな笑みを浮かべた。
目付きが鋭い原が笑うとまるで悪役の如し。網谷が言っていた気がする。ちなみに協力者というのは公安刑事が独自に使役する一般市民を指すことが多い。謝礼の多くは刑事のポケットマネーが殆どだ。
「ここは色々な情報が流れてくるらしいからな。事情を話したら手伝ってくれるようになったのさ」
「はあ。…それで原さんの方は」
「ようやく逮捕まで漕ぎ着けた。まあ手柄は捜査一課に譲ることになったがな」
原は肩をすくめた。表立って動いてしまった場合、顔が割れることもあり得る。マイナスで考え、成功してもそれが当たり前。同僚の言葉のように愛国心がないとやってられない仕事かもしれない。菊花はこの国を守る仕事を、自分が担っていると思うと誇らしく感じていた。
「よし、仕事の話はここまでだ。今日は奢ってやるよ」
「やったーありがとうございまーす‼」
この際だから高い日本酒をばかすか飲もうと思った菊花だが、原には見抜かれてしまい、「料理限定だからな。酒は自分で払えよ」と釘を刺されてしまい、思わず口をとがらせた。
そのあと2人は、21時近くに店を出た。今宵の空は雲もなく、月の光が二人を照らす。【コロラド】は閑静な住宅街に近い立地に立てられているため、菊花達の足音が響くだけである。都心部とは信じられない静かさだな、と菊花は思った。
「ご馳走様でした。また奢ってください」
「馬鹿言え。こんな休みほとんどねえから」
軽口を叩き合う2人にただの上司と部下の姿だけだ。
「家まで送ってく」
「えぇいいんですか?」
「お前は女だ。何かあったら親御さんに申し訳が立たん」
女だから。その言葉は何度聴いたか検討つかない。しかし、原の言葉にはそういった意味合いはなく、ただの心配を含んでいただけであった。菊花は有難く好意を受け取ろうと思った。
思ったのだが、くらりと意識が沈む感覚が菊花を襲った。
「あ」
「大丈夫か‼」
原の焦った声が菊花の頭に響く。
「軽い立ちくらみだと思い、ます」
「その様子じゃあそれだけじゃなさそうだぞ?今タクシー呼ぶからその椅子を使え」
「はい…」
店の前にある椅子にもたれる。
(いつもこんなことないのに…)
非番だというのに不運だ。これが潜入中に起きていたら大変だと、菊花は背筋が寒くなりそうだった。
「体調悪いの隠してたんだったら早く言えよな」
「一時的なものだと思います。すみません。ご迷惑をかけて」
「迷惑でもねえさ」
「う、」
「おい…おい?!染井どうした!」
痛みはぶり返し始めた。
すぐには収まらぬ痛みに、耐えきれなかった。菊花は意識を手放した。
ーー哀君。彼女の容態はどうかの?
ーーまだ起きないわね。…博士。この人の傷、尋常じゃないわ。
ーーそうカリカリするもんでもないと思うがのう。普通のお嬢さんのようじゃぞ。
ーーでももしかしたらという可能性もあり得るわ。万が一も考えなきゃ。
声が聞こえる。原のものではない。あそこでブラックアウトした後、誰かに助けてもらったのだろうか。菊花がうっすらと目を開けていくと、最初に天井が見えた。そして、次に人間らしきものが2つ。小さい少女と髭をたくわえた男性だ。少女の方は、大きく目を見開き、「博士!」と傍らの男性に声をかけた。男性も同じように驚きを表情に現れていた。
菊花は視線を彷徨わせた。椅子に座っていた時と全く違っている。勢いよく起き上がろうとすると、体に雷のような衝撃が走った。
「いっ!!!」
「ちょっと!!動いちゃダメ!」
「安静にしないと駄目じゃぞ!!お嬢さん」
少女に支えられて、もう一度体を起こした。今度はゆっくりと注意深く。
「ここ、は?」
「博士の家よ」
菊花の呟きに続く形で少女は言葉を返した。少女は先ほどと似た表情で、
「家の前で倒れていたわ、貴方」
「え…」
「知り合いの医者に手当をお願いしたんじゃ。お嬢さんの傷が酷すぎたんでな」
菊花は自身をまじまじと見た。
熱を帯びた腕は芽しょうがのような赤みを帯びて厚ぼったい。新しい皮膚が作られているみたいだが、痛みの方が強い。腕だけではない。胸の方も確認してみればそちらも同じような症状があった。絹糸のように細い切り傷がついている。
「意識を失う前爆風に巻き込まれたようだけど……」
「あ、えと…、自分は立ちくらみがひどくて椅子で休んでいたのですが」
「記憶が混濁しているのかしら…名前は分かる?」
「楠です。楠よしの」
菊花は偽名を答えた。
見たところ一般市民のようだが、念のためである。
「楠さんね。私は灰原哀。こっちは阿笠博士」
「阿笠です」
原にどやされそうだ。
「すみません。けがの手当てまでして頂いて」
「いやいや。楠さんが目を覚ましてくれて良かった。目を覚まさんから心配していたんじゃ」
「それと、これあなたのよね?」
「それ!!」
灰原に手渡されたのは、いつも仕事で使用している鞄だ。あわてて受け取り、中身を確認する。何も盗られていないようだ。
「良かった。大事なものが入っているのでなくしたのかと思いました」
ふと菊花はここがどこなのか気になり、2人に尋ねた。
「ちなみにこちらのお宅はどこに立っているんですか?」
「米花町よ」
「べいかちょう?」
菊花は一瞬どこにいるのか見当つかなくなった。『べいかちょう』という名前の町は見た記憶がない。
「首都は東京都ですよね?」
「東都に決まってるじゃない」
「東都なんて聞いたことがない…」
「何を言ってるの?日本人なら誰でも知っているわよ」
灰原は菊花を訝しげに見つめた。常識がないだとか思われたのかもしれないが、菊花にしてみれば、馴染みのない名称ばかりであった。
「そんなはずは…東京タワーとはないんですか?」
「東都タワーやベルツリーはあるけど貴方の言う建物はないわ」
「そんな!」
菊花は背中に冷や水をかけられたようだった。30年近く生きてきて、自分の知っているものが誰一人して覚えていない。鞄の中の携帯電話を探る。赤い携帯が見えた。彼女が個人的に使用しているガラパゴスケータイである。
菊花は驚愕した。
「2018年?!え?!」
2018年。何回確認しても、画面にはその4ケタが写っている。
菊花が生きていたのは2006年。12年も前であったのだ。