院内はあわただしい雰囲気だった。看護師たちがフロア内を行き来していているのを菊花は眺めていた。
近くに座っている患者たちは、「殺人事件ですってよ」「病院でまで起きるだなんてねぇ」「さすが東都と言うべきか……」「私これで3回目。笑っちゃうわ」とおしゃべりをしている。
しかし、話題を耳にすれば笑えない話である。3回も事件に出会ったと言ったご婦人は、殺人事件が3回なのか、それとも事件・事故を含めて3回なのか気になったが、聞き耳を立てるほかない。
ご婦人方の話に耳を傾けつつ、菊花は出入り口の方に目を向けた。
警察官が数人立っており、誰も通り抜けできなくなっている。
犯人を逃さないためであろう。もし通るとしたら、綿密な持ち物検査をされるだろうし、そんな迷惑受けたくない。
「物々しい…」と、菊花は言って、本日2度目の溜息を吐いた。
「仕方ないんじゃない?犯人が、この病院から逃走したら周囲はパニックになるわよ」
「いつ解除されるんでしょうかね」
「多分1時間もしないうちに」
1時間もしないうちに?、と、菊花が思わずおうむ返しに呟いた。
殺人事件が起きても、その日のうちに解決することはあり得ない。殺人事件などが起きた場合、被疑者を捕まえるのに数か月はかかることもある。
それなのに、灰原はなぜそう断言できるのだろうか。
「釈然としない顔ね」
「まあ、そう言われたら誰だってこんな顔しますよ」
「江戸川君がいるからっていう意味もあったのだけれど」
「江戸川君…さっきの男の子ですか」
菊花は先ほどの男の子を思い浮かべた。ニコニコと笑うかわいらしい男の子だった。守りたい、あの笑顔。
決して、菊花に少年趣味があるわけではない。健全な精神を持つ、歴とした公安刑事だ。子どもの笑顔は国の宝と言うべきである。しかし、あの子はあまり見たことのないタイプである。
普通の人が気にしないようなところに興味を持ち、弓矢のような鋭さで、相手に質問する。
その様子は、ただの知りたがりのようで、よく他人を観察しているのが分かった。
「保護者もついているだろうから大丈夫よ」
「そう言ってもねぇ…」
菊花は思わず渋い顔になる。
先ほど、灰原が『謎を解くのが好き』と表現していたが、そこが問題なのではない。現場には遺体があるはずだし、その遺体を直接見るとなると、精神的によくない。
あの背丈を見ると、まだ小学校低学年だろう。そんな小さい年齢の子どもが現場に出入りしているとなれば、何故警察は出入りを許可するのか。
保護者がついているならば、なるべく現場から遠ざけてくれていることを願う。
処方箋を鞄に仕舞い込む。何でも入る便利な代物だが、処方箋を3週間分も渡されたので、鞄はパンパンに膨れてしまった。
現場に踏み込む一般人を止めるのができないのは残念だが、現在の自分の立場は警察官ではない。この病院に患者として来院しているだけだ。やけどの酷い
何もやることがない菊花は、灰原にならって雑誌を取りに行き、パラパラと雑誌を流し読みし始めることにした。
数ページほどめくると、今月のおすすめカフェ特集というものがあり、【喫茶店ポアロ】というお店が紹介されていた。女性店員とマスターが出ていた。一緒に紹介されているメニューもひどく食欲を刺激させる。
昨日から、何も食べていない菊花には拷問となるほどのダメージだ。空腹は腹痛となった。シクシク痛む。
帰りの道で阿笠にコンビニを寄ってもらえないか相談してみようか。
菊花が少し考えていると、阿笠が「美味しそうじゃのぅ!!」と声を上げた。
「何を見ているんですか?阿笠さん」
「ああ、これなんじゃよ」
阿笠が菊花に見せてきたのはとんかつについての特集記事だった。ダイエットをしている人にもおすすめなとんかつメニュー。豆腐を肉の代わりに使用し、かつ煮を作るのだという。実際にそのような出しているお店も紹介され、とても美味しそうだ。
「美味しそうですね」
「哀君、ワシこれが食べてみたいんじゃが…」
「却下。最近油こいものをせっかく控えているんだし、焼き物で我慢して」
「ええ~!!」
阿笠は続けて、「とんかつ……」と呟いた。何とも涙を誘う声音だ。菊花自身も、最近こってりとしたものを連日食べてると、胃もたれが登場し始めてきた。
20代ではそんなものを吹き飛ばせた。菊花のフレッシュな胃は消化速度も早かった。連日の日本酒、揚げ物、悪魔のトリプルコンボにも負けなかった。
しかし、最近になってお腹周りが気になり、控え始めた。改めて、菊花は阿笠の体型を短く見た。
言っては悪いが、彼は肥満体型である。しかも灰原に揚げ物を止められているのだろう。菊花には彼の気持ちが痛いほどわかった。
「阿笠さん、分かりますよ。その気持ち」
「楠さん…!」
「揚げ物最高ですよね…。私も最近お腹周りがヤバいんで控えているんです。しかし揚げ物は悪魔の魅力…。白いご飯…指2本分ものの幅がある、とんかつにかぶりつきたい」
菊花は網谷と共に訪れたカフェレストランに思いを馳せた。
その店は、警視庁内にあり、当然、警察官の姿が多かった。警察官は男性の割合が多いため、料理の量もすごく多いのだ。女性向けも勿論展開しているが、あまり食べている人が少なかった。
胃袋が比較的に丈夫な菊花は、大盛りのカツカレーを頼むことが多かった。
同伴した網谷は、ギガ盛かつ丼と呼ばれるものをよく食べていた。顔に似合わず健啖家であり、それを平らげた上で、またさらにドリアなどを食べていた。
「気持ち悪くならないの?」と菊花が尋ねれば、「これくらい食べないと腹にたまらないんだよ」と返された。実に気持ちの良い食べっぷりは菊花たちや他の警察官にも伝染し、警察官になりたての頃よりも、胃が大きくなった。
具体的に言えば、スパゲッティ200g、白米1合が余裕で食べられるようになった。男性顔負けの食いっぷり。
確実に、エンゲル係数が上がった。
閑話休題。阿笠は菊花の言い方に頷きを何回か続けた。どうやら気持ちが通じたようだ。
「楠さんは分かっておる」
「揚げ物は正義ですね」
【美味しいものは脂肪でできている】……とは的を得ているフレーズであった。
ここに、揚げ物大好き同盟が誕生した。
灰原は冷めた目で、2人を一瞥し、また雑誌に目を落とした。
現在11時32分。上階で殺人事件が起きてから1時間と3分が経つ。
灰原の言葉通り、殺人事件はきれいに幕を下げたらしい。うなだれている女性が警察官と共に階段を降り、出入り口に向かっている。
あれが事件の犯人だろうなと、菊花は推測した。殺人を犯してしまうほどの激情を持つのは人間らしくもある。
受付で見かけた職員が「出入り口が解除されました。大変お待たせいたしました」と通る声で言った。
菊花は妙な姿勢をとり、「やっと帰れるみたいですね」と言った。彼女が取ったのは、両腕を90度に折り曲げ、バンザイの姿勢というもの。腕を普通にあげれば、火傷と鈍痛が響いてつらいためである。
「すごい人ね…」
灰原の言うとおり、出入り口には事件を聞きつけた野次馬と、帰ろうとする者たちで入り乱れ、なかなか外に出られる兆しが見えない。
「他に入り口がないか確認してみますか」
「そうした方がいいかもしれないのぅ」
菊花は院内図を確認しようと立ち上がった。
ちょうどタイミングよく3人の腹の虫が鳴った。一番大きく鳴いたのは菊花であった。
「コンビニ、近くにありましたっけ」
「イレブンストアがあった気がするのぅ。哀君、調べてくれんか?」
「ええ。分かっ……、ごめんなさい、電話が……」
スマートフォンが細かく振動した。灰原は2人から少し離れた所で電話を取った。
「もしもし」
《もしもし》
「あら、江戸川君。さっきはどうも」
《今、電話平気か?》
電話の主は、先ほどの少年・江戸川コナンだった。
菊花と話した時よりも、大分ぶっきらぼうで、子供らしからぬ口調である。それもそのはず、江戸川コナンは、工藤新一と言う有名な高校生探偵が中身なのだ。毒薬を飲まされて、なぜか体が縮んでしまっている。
灰原も同じく、中身は宮野志保と言う少女だ。彼女の場合は毒薬を自ら飲んで縮んでいる。お互いの正体を知っていて、ともにその毒薬を扱った組織を探っている。
灰原は言った。
「ええ。あなた、私をちゃん付けなんてするから寒気がしたわよ。槍でも降るかしら」
《バーロー!!あの女の人がいたから仕方なく、だよ!仕方なく!!あんなの俺のキャラじゃないって。…実は、お前に伝えておいた方が良いと思ってな》
コナンがやや強く言い返し、真剣な声音に変わった。
「メールで良かったんじゃないの?」
《いや、直接電話の方が早く伝わるからな。メールだと、これ聞いた時に顔に出るぞ。博士の近くにいるあの人に伝わったらマズいだろ?》
「まあ、それもそうね…それで?要件は?」
《バーボンがこの病院に来てんだ》
「バーボン、?!」
灰原の声色に焦りが入る。
バーボンといえば、以前ミステリートレインで対峙した男だ。まさかこんなところに来るなんて。
「どうして組織の人間が…?」
《楠田陸道という男を探してるんだと。お金を貸してたとか言ってたんだが組織絡みだよな、多分》
「ちょっと、江戸川君」
半ば、制するように、灰原は声を潜めた。
「組織の人間がいるかもしれないのに何を言ってるの!?」
《一応お前に伝えておこうって思って蘭たちに見つからないように抜け出してきたんだ》
ふくれるようにコナンが返したが、彼には少し心配の感情が、灰原には伝わった。
「そう……。見つからないうちに博士たちと病院を出るわ」
《ああ、じゃあな》
「あ、ちょっと!」
コナンはすぐに電話を切ってしまい、礼を言いそびれてしまった。待ち受け画面に、自分の顔が映し出され、灰原は顔色が悪いことに気が付いた。
脳裏に、胡散臭い笑みをたたえるバーボンが浮かぶ。あの件で、シェリーを殺したと思っているのを、コナン達から聞いているし、彼がアルバイトしている時間帯のポアロには行ったことがないので、自分とシェリーを結びつける可能性は低い。
しかし、ここで出くわせば面倒なことが起きることは灰原にとっても明確だ。どこか別の出入り口を早く見つけて出た方が良い。
菊花は先ほどの雑誌の続きを読んでいた。駅近くには美味しいお店が数多くあるらしく、行きたくなった。しかし、それを叶えるには、まず自分の怪我を整える方が先決である。
さっさと火傷を治して、阿笠達の元から離れようと思った。居候の身で物見遊山をするのは、2人に迷惑な行動であると、菊花は判断した。
「ごめんなさい、電話が来てしまって」
灰原が電話を終えたらしく、戻ってきた。彼女の頬はほんのりと紅潮していた。
「構わんよ。それじゃあ哀君も戻ってきたことだし帰ろうか」
「そうですね。あ、コンビニってどこにあるのかわかります?」
「ワシはあんまり覚えてないのぅ…。哀君チョチョイと調べてくれんか?」
手のひらの上で指を滑らせる動作をすると、灰原は、阿笠のお願いに了承しかけるが、目がいきなり大きく見開かれ、そして、顔色が変わった。
「灰原さん?」
「哀君、どうしたんじゃ」
「あ。何でも…、何でもないわ。コンビニだったわね」
一瞬でさっきまでの表情に変えたが、顔色は青いままだ。指先が白くなっており、震えが起きている。菊花は灰原の視線の原因を辿っていく。
すると、その視線の先には、子供が2人、大人が2人。子どもはコナンらしき少年と高校生くらいの少女、大人の方は色素の薄い髪色の男性とがっしりとした体型の男性だった。
4人とも、前を向いていて、顔を判別できないが、人のよさそうな雰囲気があり、灰原を怖がらせる原因は見つからなかった。
しかし、顔をこわばらせるということは、何か彼女との間にあったのかもしれない。そんな彼らと灰原を近づけるのは些かいただけない。
菊花は何かアイデアはないか考え、阿笠に言った。
「阿笠さん、ここって正面の玄関以外に出入り口ってありますかね?」
「このフロアのまっすぐ進んで右に曲がって、そのまま歩いた所にあるみたいじゃ」
「じゃあそちらの方を使いましょう。あのままでは通るに通れませんから」
菊花がそう促せば、2人とも反対せず頷いた。
別の出入り口の方は、菊花達と同じく使っている人が多かった。玄関の野次馬たちに辟易しているのだろう。大多数が疲れているような顔色だった。
野次馬に出会うことなく、すんなりとビートルを停めたパーキングエリアに戻ってこれた。体がロボットのような菊花が歩いても、なかなかの速さで到着できた。そして、精算機に駐車券を差し込み、退場した。
道路に出て信号待ちをし、阿笠が息をつく。
「すごい人じゃったのぅ」
「あんなにいるの初めて見ました」
菊花は相槌を打った。
「事件が起きていましたしね…。灰原さん、コンビニどうですか?」
「見つかったわ。イレブンストアがまっすぐ行ったところにあるみたい。大きい店舗だからビートルも停められるわ」
行きと同じく、灰原と菊花は後部座席に座った。スマートフォンに覗き込む形で、地図を見ればコンビニらしきマークが点在している。
「昼食代、私が支払いますね」
「楠さんに悪いわ」「さっき診療代払ってたじゃないの」
「病院まで送って下さったし、そのお礼をできていません」
手当などがちょくちょくついたお給料をもらっているし、そこまで散財をするような人間ではない。コンビニで沢山購入しても、懐がダメージが入るなんて微々たるものだ。
菊花が譲らないとみると、阿笠が「哀君、楠さんのお言葉に甘えよう」と言った。
「遠慮しないでどーんと買っちゃって大丈夫です」
「そう?」
「ええ!!」
菊花は、それこそ大船に乗ったつもりでと言いたげな顔であった。
コンビニに到着し、本当に菊花が宣言通りおごってくれたので、灰原はしっかりとおごられることにした。ちょっぴり高めのアイスクリームも一緒に。
阿笠は、ヘルシーさを銘打った弁当を。
菊花も思い切って、胸やけのことは気にせず揚げ物がたくさん入ったお弁当と、おにぎり2つ、パスタサラダを購入した。
コンビニで大人買いするのは結構楽しいのである。
阿笠邸に到着した。お昼を過ぎて、13時ごろに到着した。菊花は、ゆっくりと立ち上がり、ビートルから出た。車を降りると、アスファルトが反射してまぶしい。
「買い物したもの先に持っていくわね」
「あ、お願いします」
「楠さんはゆっくりでいいからの」
先ほど買った袋にはアイスクリームなども入っているので、ありがたい。車のカギをかけ、忘れ物がないか確認した後、すこしだけ遅い足取りで阿笠邸に入った。
玄関を開けると、扇風機のファンの音が聞こえてきた。2人はお弁当を温めたり、飲み物の準備などと、準備をしていた。菊花もお手伝いをしようとしたが、灰原の「そのまま休んでて」と言われてしまい、手伝いそびれてしまった。
「すみません。あの、手を洗いたいんですけど、洗面所はどちらに?」
「こっちにあるから案内するわ」
「有難うございます」
灰原に案内されるまま、洗面所に到着した。「手を洗い終わったらそちらに行きますね」と述べ、菊花は灰原の足音を聞きながら、手を洗った。
腕をまくると、赤い熱傷のあとは浮き出ていて、グロテスクな様相だった。
しっかり治ると聞いても、少し不安である。グルグルと腕を回す。痛さと熱さがまざって不快感が強い。菊花は考えていた。
なぜ、自分はこんな怪我を負ってしまっているのか。椅子に座っているとき、あの時はどこかで爆発音が聞こえていない。じゃあ未来の日本に来たときにできたものか?もし殉職していなかったら、12年後の自分は過去のあの時に行ってしまったのか?それとも。
「死んだらどこにゆくんだろうね」
菊花の呟き、その答えを知っているのは神様だけだ。ふわふわのタオルで水を取り、キッチンに戻る。
すでに、お弁当のにおいが漂っていて、一層大きくお腹が鳴ってしまった。
食べ終えると、火傷の箇所が疼く。
最近は怪我をしていなかったので、包帯を巻くのは久しぶりで、慣れておらず、何回も失敗する。
見かねた灰原がきれいに巻くのを手伝ってくれた。
「ありがとうございます」と菊花が礼を言うと、「別に」と横を向かれてしまった。耳の端がややオレンジ色に染まっている。
言葉が淡々としていて分かりにくい子だと思ったけれど、人のいい子なのだな、と菊花は笑った。
玄関のチャイムが鳴った。
「ワシが見てくるよ」
阿笠がインターホンを確認し、少ししてからこちらに戻ってくる。
「沖矢君じゃ」
「絶対また肉じゃがだわ」
灰原は口を一文字に結び、何とも言えない表情をした。おきや。どのように書くのか。珍しい苗字だ。沖屋かな?
灰原のことを「哀君」と呼んでいる例があるので女性かもしれない。
「あの、おきやさんって…?」
「隣の家に居候中の院生よ。家が燃えたんですって」
うさんくさい、と言う彼女は、あまりその"おきや"という人物を好んでいないらしいようだ。
隣人に挨拶すべきか迷っていたが、灰原がさっと立ち上がり、
「楠さん、私と一緒に上の階に避難しておきましょ」
と、言って、菊花が休んでいる部屋に向かった。
菊花は、少し驚いて、「え?私挨拶した方がいいのでは……?」と言った。
しかし、灰原は「あとでいやと言うほど話すから」と言った。
さあ、と家の住人に催促されたなら仕方ない。どんな人物なのか気になるが、ここは2階に上がっておく。
「博士、彼が帰ったらメールして」
「分かったぞ」
灰原と菊花が上階に上がったのを見届けてから、阿笠が沖矢を招き入れた。灰原の予測通り、圧力鍋を持って立っていた。
「阿笠さん、こんにちは。また肉じゃがを作り過ぎちゃったのでおすそ分けに伺いました」
「哀君の予想通りじゃったな…」
「どういうことです?」
「いやいや、こっちの話じゃ。気にせんでくれ」
「そうですか。中に入ってもよろしいですか?」
「構わんぞ」
阿笠に了承を得られたので、いつものように、沖矢が靴を脱いだ。しかし、「おや?」と何かを見つけたようなことを呟いた。
「どうしたかね」
沖矢が目ざとく見つけたのは、女性もののパンプスだ。阿笠の家には、家主の阿笠と灰原という少女だけ。仮に、灰原がパンプスを使うにしても、大きすぎる。誰かがこの家に来ているのだろうか?
なんとなく気になってしまい、阿笠に声をかけた。「阿笠さん、お客様でもいらっしゃるんですか?」
「い、いやここにはおらんぞ」
「ここにはいない?」
「あ、今出かけてるんじゃよ!!買い物をお願いしておってのぅ〜」
明らかにうろたえていた。それは分かりやすく。
「それに哀さんもいらっしゃらないとは……」
「2人で買い物に出かけておるよ」
「買い物に出かけてるとのことですが、こちらのパンプスは?」
沖矢は阿笠に笑いかけた。
阿笠と灰原にしてみれば、沖矢が来ることなど頭の中から抜けていて、菊花の履いていたパンプスをしまい忘れていたのだ。
「もし戻って来られるのなら、ご挨拶した方がいいですね。哀さんと連絡取れますか?」
「あ、ああ。携帯を持たせているから可能じゃよ」
今、連絡するわい。阿笠はそう言って、携帯電話を起動して、メールを打ち始めた。その間、沖矢は女性がどのような人物なのか考えていた。
……ローヒールなのにかかと辺りが結構削られている。外勤が多い?営業の仕事をしている?汚れはあまり目立っていない。手入れをよくしているのか。結構高めの革靴……。これ、7万以上するやつか。以前ジョディが欲しいと叫んでいたメーカーだ。
ともすれば、この持ち主は靴にお金をかける人間。
……プレゼント?それとも自分で購入した?日本で、靴にお金をかける女性は珍しい。どんな仕事に就いているのか。
沖矢の疑問は少しずつ膨れた。
部屋に戻ったあと、少しだけ話の話題として、灰原に身の上を聞かれ、菊花は、【楠よしの】の今までを答えた。
楠よしの。
名前はひらがなで≪よしの≫。両親が植物を育てるのが趣味で、また2人とも桜が好きだったので、ソメイヨシノから拝借。一人っ子。神奈川県出身・東京都在住のOL。
大学時代は、現代アジアについて学んでいた。新卒採用された会社で3年働いて家具メーカーに転職。現在は課長職に就いている。
好きな食べ物は高菜とんこつラーメンと、スフレパンケーキ。
「営業と言ってもセールスをするわけじゃないんですよ。顧客になにか困っていることありませんかーって聞いたり、橋渡しをしたり」
「1番やりがいがあったのは?」
「大企業さんの相手をした時かなぁ。成功したら上司が高級寿司屋に連れて行ってくれるって言うから頑張りました」
これはすべて菊花の経験ではなく、【楠よしの】の経験だ。よしのの設定を練る時に、原には随分と助けてもらった。「花の名前使おう」「そこはツメが甘い」「一人っ子ならこういう関係だろう」「大学時代の専攻はお前がやってたことの方が真実味がある」「営業だったら御園に声をかけてみ? 面白い経験を教えてくれるぞ」…など。
重箱の隅をつつくようなことを言われまくったが、その細かすぎるアドバイスは、架空の人間のリアリティをもたらした。また、同僚にも、原と同じく細かい指摘を受けた。みな平等に多忙であったのだが、この作業は、なかなかに楽しい。設定を盛りすぎて理事官に「この設定は……小説にでも使うのかい?」と苦笑されたりなどという出来事も起きた。
灰原は、【よしの】の話を静かに聞いていた。時折相槌なども打つが、あまり菊花の話の邪魔をしない。とても聞き上手だ。
「食べ物で釣られる割合が高いのね」
「!! 言われてみれば」
「……」
無言の空間と化した時、携帯電話が軽く震えた。
灰原が確認をすると、メッセージか何かを読む度に険しくなっていくのが見えた。
どうしたんですか?灰原さん。
「……また来たのね」
はぁ、と、灰原は深いため息をつく。菊花が見せてもらったのはチャット形式のものだった。
阿笠から、『沖矢さんが帰ってくれん。楠さんのことを気にしておる』と、可愛らしい顔文字と共に書かれていた。おきやってこんな漢字なのか。惜しかった。普通に沖屋だとか置屋系だと疑わなかったんだけども。
「しかも、私達が買い物に行っているとか言ったみたいなの」
灰原は口を一文字に結んだ。病院で見せた時とは違っていたが、こちらは心底面倒くさそうな顔だ。
灰原は自分の感情を読み取られにくいと自負しているようだが、感情の機微に聡い菊花にしてみれば、難易度は高くない。
「顔だした方がいいみたいですね」
菊花は【楠よしの】らしい笑顔で応えた。
沖矢という男性は、テレビの前に置かれているソファーに座っていて、2階から降りてくる2人を見ると、阿笠の隣に立とうと近づいてきた。そして、人の良い笑みを浮かべた。
「こんにちは、哀さん」
「どうも」
挨拶を返されたが、灰原は至ってクールな調子のままだ。ぶっきらぼうに返答したともいう。しかし、沖矢は気に留めていない。
菊花の方にも顔を向け、
「はじめまして。私は沖矢昴と申します」
「楠よしのと申します」
菊花は恭しくお辞儀をして、沖矢と握手をした。すると、沖矢は言った。
「あなたは武道がお得意のようですね」
「へ?一体どうしてそれを?」
と、菊花は返した。
「楠さんは怪我をされているようですが、重心のかけ方や、少しだけ相手と距離を置いて、相手を短く一瞥してから、私と握手をされていましたから。憶測で言ってみたんです」
「はー、なるほど」
大いに当てられて驚かされた。憶測なのにバッチリと正解している。観察眼が恐ろしくある男性だ。
「まるで探偵みたい」
沖矢は照れくさそうに頬を掻き、
「シャーロックホームズが好きなだけですよ。探偵だなんて恐れ多い…」
「沖矢さん、悪いけどなんの御用?」
灰原が二人の会話に割り込み、質問をぶつけた。
「肉じゃがを作りすぎてしまったので、それをおすそ分けに」
「おすそ分け。最近多いわね」
灰原は台所にあった鍋に目を向けた。
いつも沖矢が、こちらに持ってくる鍋だ。1番最初に持ってきたものはひどく複雑な味であったが、最近色々と料理スキルが上がってきたらしく、結構普通の美味しい肉じゃがに変化してきた。
灰原は、あまり賞賛を送るということをしないので、彼の料理を美味しいと確実に言ったことはない。
「今日は料理研究家の方が出していたレシピですから美味しいと思いますよ」
「最初の頃に比べたら結構まともそうだわ」
灰原は鍋をのぞき込んで言った。
「沖矢さんって料理をするのがご趣味なんですか?」
菊花が問いかけた。
「一人暮らしだと外食で済ませがちなので……。健康のために始めたんですよ」
「あとで夕食として頂くとするかの」
「あ、私ちょっと頂きたいです。よそっていいですか?」
菊花が手を上げる。
火傷を負っているため奇妙な上げ方になった。
「お腹痛くない?」
「まだ余裕ありますよ。沖矢さん頂きますね」
阿笠に食器の位置や場所を一通り教えてもらったあと、沖矢の肉じゃがを少しだけもらった。
レシピは流石研究家というべきだった。誰が作っても具材はしっかりと染み込んでいて、美味しいタイプのやつである。
ジャガイモのほくほく加減がちょうど良く、ほろりと口の中で崩れていった。
ひとしきり食べ終えたところで、菊花が言った。
「汁なしの肉じゃが、初めて食べました」
「美味しく作れたようでよかったです」
沖矢は破顔した。
小さな探偵たちからは、なかなか手厳しい評価を貰うので、菊花のように素直に褒めてくれる人は久しぶりである。
「昴さん、そろそろ戻ってくれる?」
少しだけブリザードが吹きそうな声量で、灰原は沖矢に阿笠邸から退出するように促した。
「ああ、すみません。長居してしまいましたね」
「お鍋はこっちで持ってゆくから大丈夫じゃ」
「ありがとうございます。ではまた」
沖矢の足音が遠のいたのを聞くと、灰原はしかめ面で言った。
「…博士、なんで私たちが買い物に行ったとか嘘を言ったのよ」
「だってのぅ、哀君。沖矢君が肉じゃがおすそ分けに来るとは思わんじゃろ?」
「迂闊だった……」
灰原はため息をついた。そして「博士、コーヒー淹れてくる」と言って、
肉じゃがが美味しかったというのが1番の感想になるが、
灰原さんはお疲れの様子である。
「私もお手伝いしますよ」
灰原がコーヒーミルを取り出し、豆を黙々と挽いた。少しの会話と無言が交わるお茶会であった。
沖矢はアメリカーノを入れた。このコーヒーのレシピはFBIに入局して間もないころに、同僚に教えてもらったものである。それに口をつけながら、先ほどの風景を思い浮かべた。
思ったより普通の一般人だった、というのが沖矢の初見であった。身なりが貧しいとかではなく、本当にそこらの道を歩いていそうな、印象があまり残らない女性だった。
彼女は怪我をしているのか体の動きがぎこちなかった。しかしながら、見た目からは連想できなかったが、武術に明るいようで、相手をよく観察しているように見えた。
かなりあてずっぽうではあったが、武術に心得があるのかと問えば驚いた顔もしていた。その武術が、自身と関わりの深い截拳道であるのか、はたまた古武道のようなものなのか。
沖矢は気になるが、小さな少女の行動によって、それは聞かずじまいであった。
沖矢は、阿笠邸を見やった。
邸宅の中の様子を確認できないが、先ほどの彼女の怪我の状態を見るに、直ぐにでも治癒できる状態であるが、いくらでも接触する機会もある。その間、今日みたいに会える確率も高い。探偵と言われたならば、遺憾なく発揮させてみようじゃないか。
沖矢…もとい、赤井秀一は思った。