迷者不問   作:お米太郎

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いつも読んでくださりありがとうございます。投稿しました。

※今後はChatGPTに添削・アドバイスをもらいながら掲載します。最終的な文章と構成は筆者が調整しています。


公安刑事、殺人事件に巻き込まれる

封筒の紙質だけが、やけに良かった。こんなの、『上』からの指令をもらったときでも触ったことがない。

金持ちの招待状というのは、開ける前から腹が立つ。——いや、助けた相手の礼なのだから、腹を立てるのは筋違いだ。菊花はそう自分に言い聞かせながら、封を切った。

 

『米花デパート 特設ホール

 上映会ならびに謝意の会にご招待いたします』

 

上映会。パーティ。

嫌な予感しかしない単語が、二つ並んでいる。

 

(当たるなよ。こういう予感だけは当たるなよ)

ああ、今わたしの胃が一点を責められる感覚さえある。

 

当日。ホールは思ったよりも落ち着いていた。

照明は柔らかく、壁際にはワインと軽食。中央にスクリーン。スタッフが静かに動き、招待客は“良い声”で談笑している。米花町にしては、上品な空気だ。

 

「楠君、緊張しとるのう」

阿笠が笑った。

「してませんよ。……してませんけど、ここ、逃げ道少ないですね」

「そこ緊張の理由なんじゃよ!」

 

菊花は肩をすくめた。今日の二人の服装はオフィスカジュアルに近い。

阿笠はYシャツ、スラックス。エンジのストライプ柄。菊花もYシャツ、スラックス、紺色のジャケット。最初に身につけていたアイテムで賄った。どうせ、ワンピースを着たところですぐに処分に回してしまう。

 

——その時。

 

「おーい、博士!」

聞き慣れた声が飛び、振り向くと毛利小五郎が大股で歩いてきた。隣に蘭、そしてコナン。今日のコナンは“ちゃんとした服”を着ている。つまり、付いてきた。胃がさらに槍でつつかれる感覚に包まれる。

 

(あぁ……来たか……)

 

「阿笠博士、こんなとこで何してんだ?」

「招待されたんじゃよ。……ほれ、こちらは楠よしのさん」

「はじめまして、毛利さん。今日は——」

「よしのお姉さん!」

コナンが割り込んだ。

「また事件の匂いする?!」

「するわけないだろう。匂いで事件を呼ばないの」

菊花は目だけで叱った。コナンが「へへっ」と笑う。こうやって見ると、年相応のかわいらしい男の子に思える。事件への嗅覚がありすぎる。

 

蘭が申し訳なさそうに手を合わせる。

「すみません……お父さんが“無料のパーティ”って聞いたら……」

「え?蘭ちゃん??俺のせいみたいに言ってない?ちょっと??」

 

その会話に、店員のような声が重なった。

 

「いらっしゃいませ。皆さん、こちらへどうぞ」

 

振り向く。

笑顔。柔らかい声。完璧な接客。

——安室透だった。

 

菊花の背中が、ひやりとした。

 

(……いる。なんで、ここに)

 

安室は菊花を見て、にこやかに笑った。笑ったまま、目だけが動いた気がした。“確認”。“判断”。そんな単語が脳裏をよぎる。

やめろ、胃。折りたたまるな。私はちゃんとメシも楽しみたい。

 

「楠さん。今日はご一緒なんですね」

 

「……ええ。たまたま、です」

 

たまたま。

米花町でいちばん信用できない言葉を、菊花は口にした。

 

「では、席へご案内しますね」

 

安室は当たり前のように先頭に立った。案内の所作は丁寧で、客の導線を読む視線だけが妙に速い。店員の顔を貼り付けたまま、場の空気と人間の癖を拾っていく。妙に既視感があるように思えてならない。

——仕事のそれだ。

 

(……やめろ。変に勘が働くな。今日は「招待客」。ただの一般人だ)

 

菊花は自分に言い聞かせ、歩幅を合わせた。

 

スクリーン寄りの席はすでに半分ほど埋まっていた。前方は関係者らしいスーツの列、後方は招待客が散らばって座っている。壁際に立っているスタッフの数が、ささやかな催しにしては多い。

 

(“護衛”の数だな。……何を守る? 客? フィルム?)

 

「楠さん、こっちじゃ」

 

阿笠が手招きした。蘭が隣に座り、コナンは当然のように菊花の近くを確保した。小五郎は軽食のテーブルを目で追いながら座る。座った瞬間から落ち着きがない。米花町の無料は、わりと命がけである。

 

「ねえねえ、よしのお姉さん」

 

コナンが声を落とす。子供の高さの囁きは、案外よく刺さる。

 

「安室さん、ここで何してるか知ってる?」

「さあ。店員さんの副業、じゃない?」

「副業でこんな高級そうなイベントの案内係やるかなぁ……」

「やる人はやる。稼ぎもしゃばいんだとおもうよ」

「ふふ。よしのお姉さん面白いね」

 

コナンが少し笑う。かわいい。

 

 

やがて照明が少し落ち、司会者がマイクを持って前へ出た。

スーツ姿で、笑顔が硬い。こういう人間の笑顔はだいたい「場を回す」ための笑顔だ。落ち着いた声音ではきはきと話し出す。

 

「本日はご来場ありがとうございます。先日の緊急事態では、皆さまにご心配をおかけいたしました。——そして、迅速にご協力くださった皆さまへ、改めて御礼申し上げます」

 

視線が菊花に向けられた。拍手が起こる。阿笠が小さく会釈し、蘭も微笑む。コナンは拍手の振りだけしている。現金なやつだ。

 

(……目立つのは嫌だって言ったのに。しっかり晒されてる)

 

胃が、ひとつだけ嫌なところを押してくる。上映会より先に、菊花の胃が上映されそうだ。

 

司会者が続ける。

 

「本日の上映は、当館が保管しております、貴重なフィルム資料——『水煙の憧憬』制作当時の記録映像です。一般公開は今回が初となります」

 

貴重なフィルム。

初公開。

 

昨日、自分が拾った“上映会用”のラベルが、脳内でいやな音を立てた。

 

(……やっぱり、これ。こいつが狙いか)

 

菊花は背筋だけで姿勢を正した。周囲の視線を切り、壁際のスタッフを観察する。小さなイヤホン。立ち位置が被らない。視線が互いに交差しない。

——訓練された配置だ。

 

映写機が回り、スクリーンに粒子の粗い映像が映った。

古い映像。白黒に近い色。揺れ。音のノイズ。

 

なのに。

 

(……このノイズ、変だ)

 

脳が、勝手に分類を始める。古いフィルムの揺れではない。音の割れでもない。混ざっているのは——人工的な「欠け」だ。切り貼りの跡。ほんの一瞬の黒。誰かが「見せたくない何か」を抜いたときの痕。

 

(編集……? いや、違う。編集ならもう少し自然にする。これは——)

 

その瞬間、スクリーンが一拍だけ暗転した。

 

会場がざわつく。

だが司会者は動揺しない。台本通りに見える。

 

「——機材の調整です。すぐに再開いたします」

 

暗転の向こう側。

菊花は、客席の後方――非常口の辺りで「黒い影」が動くのを見た。

 

(いた)

 

次の瞬間、照明が戻り、映像が再開する。だが何かが違う。

人の呼吸のテンポが一斉に変わる。怖いものを見た時の、あの間。

 

前方の関係者席。

スーツの男が、椅子の肘掛けを掴んでいた。白い指。震え。汗。

 

(……さっきの招待客。救急で運ばれた関係者か? いや、別人だ。顔が違う)

 

男が、喉を押さえる。

 

「……っ」

 

音にならない声。

椅子からずり落ちるように、床に倒れた。

 

「キャ — — !」

 

悲鳴。

誰かが立ち上がり、椅子が倒れる。

会場が一気に崩れる。

 

「落ち着いて! 動かないで!」

 

声が出た。菊花自身が驚くほど鋭い声だった。人の波が止まる。止まらないと——二次災害になる。

 

菊花は男に駆け寄る。脈。呼吸。瞳孔。

さっきのデパートで覚えた動きが、反射で出る。

 

「蘭さん、救急車!」

「わ、分かった!」

 

「博士、周り下げて! コナン君は——」

 

「はいはい! 分かってますって!」

 

返事が早すぎる。絶対分かってない。

 

「分かってない顔してる。来ない!」

 

菊花が言うと、コナンが口を尖らせた。

 

「えー!」

「えーじゃない。コナン君、きみは子供。だめだよ」

「俺、こう見えても——」

 

菊花は男の状態を見ながら、片手でコナンの襟を掴み、ひょいと持ち上げた。軽い。軽すぎる。これが子供だ。コナン以上に重い荷物も片手で持たされた記憶が脳裏によみがえる。

 

「うぇ!?」

 

「現場に入らない。足元に落ちた物踏んだら証拠消えるでしょう」

「よしのお姉さん、おねがい!見たい!」

「静かになさい。慣れてはいけないの。阿笠さん、コナン君を」

「お、おお!」

 

コナンを阿笠の方へ放り投げるように預けた。小さな探偵は、菊花にふくれっつらで睨んでいる。

 

「楠さん……」

蘭が不安げに覗き込む。体も震えている。菊花は安心させるように言い聞かせる。怖がらせない。

 

「大丈夫だよ。……大丈夫じゃないから、救急と警察」

 

その言葉に、蘭の顔が強張る。

——警察。米花町でその単語は、鐘の音だ。

 

その時。

 

「楠さん」

 

背後から、安室の声がした。振り向くと、安室はしゃがみ込みもしない距離で、状況を見ていた。視線が、倒れた男ではなく、菊花の手元と周囲の床に落ちている物へ流れている。

 

(こいつ……現場を見る目が、ただの店員じゃない)

彼の目つきが鋭くなる。見れば見るほど、そっくりで気味が悪い。

 

「……安室さん。人が多すぎるので、対応お願いします」

「分かりました」

 

即答。早い。早すぎる。

 

安室がスタッフに短く指示を飛ばす。言葉は丁寧だが、内容が命令に近い。スタッフが一斉に動く。会場が、少しだけ“整う”。

 

(……指揮系統が出来てる。なんで?)

 

菊花が男の首元を確認しようとした瞬間、視界の端でキラリと光るものがあった。

 

床に落ちた、小さな銀色の欠片。

映写機の方から転がってきたような位置。

菊花はそれを拾いかけて——

 

「楠さん」

 

また呼ばれる。今度は少し低い声。

 

振り向く。安室が、ほんの少しだけ眉を下げていた。

 

「手を汚さない方がいい。——証拠になりますから」

 

菊花の指が止まった。

 

(……今、証拠って言ったな?)

 

同じ言葉を、さっき自分がコナンに言った。

それを、安室も言った。

 

菊花の胃が、槍じゃない——冷たい指で、内側から握られる感覚に変わった。

 

その時、遠くでサイレンが鳴った。

 

そして菊花は理解した。

今日の上映会は、最初から「事故」じゃない。

誰かが“見せたいもの”と“見せたくないもの”を持ち込んでいる。

 

しかも、この会場には——

それを見抜ける人間が、複数いる。

 

遠くでサイレンが鳴った。

 

ホールの空気が、一段だけ固くなる。

米花町では救急車とパトカーの音は、季節の風物詩みたいに鳴るくせに、聞くたび胃が嫌な動きをする。慣れたくない。慣れてはいけない。慣れたら人じゃない。

 

(……あー、帰ったら寝たい。いや、寝られるか? 寝たいけど)

 

救急隊が先に入ってきて、倒れた男の周囲が手際よく整理される。

 

「ありがとうございました、引き継ぎます」

「……お願いします」

 

声が平らになる。息を整えているだけだ。

膝をついたまま、床の銀色の欠片に目を落とす。

 

(拾うなって言われた。……まあ正しい。正しすぎて腹が立つ)

 

その“正しい声”の主が、少し離れた場所でまだ客を誘導している。安室透。映写機の方と自分の手元を、何度も同じ角度で見ていた男。

 

(……落ち着かない)

 

次に入ってきたのは、警察だった。

 

「関係者以外通さないでください! 警察です!」

太い声と一緒に、見慣れた丸いシルエットが現れる。

その横に、スーツ姿の女性刑事。佐藤美和子。

さらに後ろから、高木刑事が頭を下げながら人混みをかき分けてくる。

 

(この間の警察官か)

 

菊花は立ち上がり、スカートのない身なりを軽く払う。こういう時、スラックスは強い。ワンピースだったらもう詰んでる。

 

目暮が状況確認のために救急隊と短く交わし、視線がこちらへ来る。

 

「あなたが最初に対応を?」

「はい。……その場に居合わせたので」

 

菊花が答えた、その瞬間だった。

 

「楠さん?」

 

(気づくよな、そりゃ)

 

菊花は頭を掻きまわしたくなった。でも、やれない。いまはそんな時間ではない。

 

佐藤刑事が、ぱっと表情を変える。

そして、心配そうに見つめてきた。記憶力がいい。

菊花が言った。

 

「……こんにちは。佐藤刑事」

「こんにちは。楠さん」

 

高木刑事が「え?」の顔で、佐藤を見る。

蘭と阿笠も「え?」の顔をする。

コナンは「にや」の顔をする。やめろ。こちとら、一般市民だよ。

 

佐藤刑事は一拍だけ周囲を見て、声量を落とした。あまり他人に聞かせないよう、ひっそりと教えてくれる。

 

「この間は助かりました。ほんとに」

「……いえ。たまたま居合わせただけです」

「たまたまっておっしゃいますけど、現場で状況を整理してくれたから、解決できたんですよ」

「たまたまです。ちょうど。目に入っただけでしたから」

 

菊花が淡々と言うと、佐藤刑事はふっと笑った。笑ってから、すぐ仕事の顔へ戻る。

 

「目暮警部。この方、以前の件でも落ち着いて対応してくださって。現場慣れ、してます」

「……ふむ。ご協力感謝しますぞ」

 

目暮が頷く。

その“現場慣れ”という単語だけで、菊花の肩が重くなる。

高木刑事が小声で佐藤に耳打ちする。

 

「佐藤さん、その……“以前の件”って?」

「あ、えっと。……詳しくは後。今はこっち優先」

 

佐藤刑事はそう言いながら、ちらりと蘭とコナンたちを見る。

伝わる。――ここで口にすると、子供が火を点ける。

 

案の定、やっぱりがっつり点火した。

阿笠の腕の下をするりと抜けて、コナンが地面に降り立ち駆けてくる。

 

「ねえ、佐藤刑事! よしのお姉さんって前にも事件に――」

「コナン君、今は待ってちょうだい」

 

佐藤刑事が、笑顔でばっさり切った。

“優しい顔で黙らせる”技術。大人はこうやって子供を止めるんだよな、と思う。

 

菊花は、コナンの頭にそっと手を置いた。

髪が柔らかい。体温も高い。彼に目線を合わせる。

 

「コナン君」

「な、なぁに?よしのお姉さん」

「君が気になるのもとてもわかるけど、ここは大人に任せなさい。殺人現場、見せたくないんだ」

「……」

「わかった?」

「……わかった」

 

しぶしぶ頷く顔が、かわいい。かわいいけど、かわいいだけの生き物じゃないのが厄介だ。

 

(この子、ほんとに“事件の匂い”が分かるんだな……犬か?)

 

佐藤刑事が、目暮に状況を入れる。

 

「倒れたのは前方席の男性。上映中に急に倒れたそうです。心停止で救命処置、救急搬送。映像の暗転が一度あった、という話も」

 

菊花は補足する。

 

「暗転の前後で、後方の非常口のあたりに“影”が動きました。……人の影です」

「目撃、ですな」

「はい。ただ、自信はありません。映写機を使っていて、ここは暗いままでしたから」

 

確証はない。

確証がないことを確証がないまま言うのは、変な労力がいる。

 

(あれは何なのかわからない)

 

床の銀色の欠片が気になる。気になるけど、触ってないのは自分の正解だ。

触ったら、説明が増える。説明は胃に刺さる。

 

そのとき。

 

「楠さん」

 

また呼ばれた。

安室が、今度は“店員の柔らかい顔”で近づいてきた。立ち位置が絶妙に遠い。近づきすぎず、でも聞こえる距離。くそ、顔が網谷に似すぎて腹立つ。

 

(距離感がうまい。うまいのが嫌だ)

 

「お客様の安全確保で、スタッフ通路の扉を閉めてよろしいですか?」

「ええ。……ただ、ほかの方が避難しやすいように、通路があれば」

「承知しました」

 

安室が軽く会釈する。

その会釈が、なぜか“報告”に見える。

 

(……誰に?)

 

佐藤刑事が、ふと安室を見る。

もちろん気づく。気づくけど、今は掘らない。掘ったら穴が開く。米花町の穴はだいたい深い。ダム穴みたいなところがある。こわい。

 

 

目暮が、会場全体へ向けて声を張った。

 

「皆さん、警察です。必要な方には順にお話を伺います。勝手に移動しないでください」

 

ざわつきが引く。消えない不安の中で、菊花はコナンたちの方へ視線を戻した。

 

蘭はまだ顔が青い。阿笠は落ち着いているふりをしている。

小五郎も、蘭の肩を支えるように立っている。

 

そしてコナンは、目が光っている。

――やめろ、今から名探偵モードに入るな。

 

そこへ、佐藤刑事が一歩だけ、コナンたちの方へ寄った。

声は小さく、でも届くように。

 

「……この楠さんね、前の事件でも協力してくれたの」

「えっ」

蘭が目を丸くする。

阿笠も「ほう」と眉を上げる。

 

コナンが待ってましたとばかりに口を開きかけた、その前に。

 

「ただし。今は余計なこと言わない。――いい?」

佐藤刑事は笑ってるのに、圧がある。

コナンが「は、はい」と素直に言う。珍しい。

 

菊花は、墨汁を飲ませられたような気分になる。

 

(あー……これ、完全に“目立つ流れ”に乗ってる。やめて……)

 

菊花は息を吐いて、蘭にだけ小さく言う。

 

「蘭さん、大丈夫?」

「……はい。でも……」

「怖いよね。大丈夫。今は大人がやるから」

「……ありがとうございます」

 

蘭の返事が少しだけ戻る。

——よかった。こういう時、子供を落ち着かせるのが一番手間で一番大事だ。

 

そして、背後。

 

「……なるほど」

 

誰にも聞こえないくらい小さな声がした気がした。

安室のいる方向から。

 

(聞いてる。ぜったい聞いてる。ああ、こんな日になるとは)

 

菊花は、胃の奥をなだめるように一度だけ手のひらを握った。

今日は“楠よしの”として、無難にやり過ごす。

 

無難に。

無難に、だ。

 

(……無難って、米花町にあるのか?)

 

答えを出す前に、佐藤刑事が菊花へ視線で合図した。

「楠さん、ちょっといい?」

 

言い方は柔らかい。けど、断れない種類の柔らかさだ。

菊花は頷いて、コナンの頭から手を離す。

 

「阿笠さん、蘭さん。……すみません、少しだけ」

「お、おお。大丈夫じゃよ」

「はい……」

 

菊花は人の波を避けるように、壁際へ寄った。

佐藤刑事は一歩前で止まり、声をさらに落とす。

 

「……楠さん。前の件、どこまで話してる?」

「何も。というか、話せることがないです」

「だよね。分かる」

 

佐藤刑事は一瞬だけ目を閉じる。悩む顔じゃない。決める顔だ。

 

「でも、今のホール。あなたが“前にも現場にいた”って、こっちの人間が知ってると動きやすい。——あそこの彼にも共有する」

 

菊花の眉が、ほんの少し動く。

 

「……必要ですか」

「必要。彼は、変に口滑らせないし、勝手に詮索もしないわ。——ただ、あなたに失礼なこと言わないように、先に釘刺しときたい。いいかしら?」

「……お願いします。あの人、悪い人じゃなさそうだし」

「うん。悪い人じゃない。むしろいい人」

 

佐藤刑事は、ちらりと会場を見た。

目暮の動き、鑑識の導線、周囲の客の顔。

視線が一瞬だけ——安室の方を掠める。掠めただけで、すぐ戻る。

 

(佐藤刑事も気づいてる。そりゃそうだ。……胃が回る)

 

佐藤刑事が続ける。

 

「あと……“あの子”。コナン君」

「はい」

「楠さん、うまいわね。止め方。怒鳴らないで止めるの、難しいのに」

「……子供を怖がらせたくないですから。多分、止めても入ります。あの子。ただ、現場を見せたくない」

「だよね」

 

佐藤刑事が少しだけ笑う。

その笑いが消えるより先に、声の色が変わった。

 

「……楠さん。これ、ただの急病じゃない可能性がある。上映中の暗転、後方の影。あと、あなたの反応」

「私の反応?」

「暗転の瞬間、あなた、会場じゃなく“逃げ道”を見ていたわよね?普通は倒れた人を見る。あなたは違った」

 

(……見られてる。いや、そりゃ刑事だ。観察眼は鋭い。仕事で嫌というほど見てきた)

 

「癖です。そうしないと落ち着かない癖」

「うん。ただ、その癖が役に立つかもしれないの」

 

佐藤刑事は小さく息を吐いて、言い切った。

 

「だから、楠さん、お願い。あなたのことは“前にも現場協力した一般人”として扱う。余計な詮索はさせない。代わりに、見たことは教えてちょうだい」

 

取引だ。綿につつまれたような痛い取引。

菊花は一拍置いて頷く。

 

「……分かりました」

 

その瞬間、背後から気配が近づく。

 

「佐藤さん」

 

高木刑事だった。申し訳なさそうな顔。仕事の顔。緊張の顔。

佐藤刑事が、わざと普通のトーンで向き直る。

 

「高木くん。今ね、楠さんと状況整理してたの」

「は、はい。……あの、楠さん。先ほどは……」

 

高木が言いかけて、言葉を飲む。

“この間の件”を飲み込んだ顔だ。佐藤が先に釘を刺したのが分かる。

 

「気にしないでください。忙しいでしょう」

菊花が言うと、高木は肩を落として頷いた。

 

「はい……。あ、えっと。……ひとつだけ確認を。さっき“影が動いた”って」

「ええ。非常口のあたりです」

「人の形、でした?」

「……たぶん。断言はできません」

 

高木がメモを取る。

真面目だ。誠実だ。だからこそ、余計なことに巻き込まれてほしくない。

 

そこへ、目暮の大声が飛ぶ。

 

「佐藤君! まず映写機周辺の確認だ! 鑑識も回せ!」

「はい!」

 

佐藤刑事が即答し、菊花にだけ小さく言う。

 

「……楠さん、無理しないで。気分悪くなったらすぐ言って」

「はい。……よくなったらナポリタンかコーヒー、おごってください」

「いいわよ。どっちもおごる」

 

佐藤刑事が軽く肩を叩いて、走っていった。

 

菊花は、ホールの中央へ戻ろうとして──

ふと、視界の端で安室がこちらを見ているのに気がついた。

 

見ている、というより。

“隠す気がない”目だ。舌打ちをしたくなるが表情を崩すまい。

 

(……ああやだやだ)

 

菊花は心の中でだけ、丁寧に悪態をついた。

 

(米花町、無難どころか、だいたい地雷原じゃないか)

 

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