先付①−玉子焼き−
暗い闇の中を漂っている。意識は朦朧として、すべての感覚が失われたかのようだった。
しかし、唯一味覚だけはわずかに感じることができた。甘味、酸味、そして強い苦味。
その味は料理人──シェフとして各国の料理を研究してきた自分でさえ、経験したことのない味だった。
昔、興味本位で毒性のあるキノコを食した時のことを思い出す。今感じている味は、まさにそれと同じ、生命を消し去るような味だった。
まだ、死にたくはない。
味覚に集中していると、段々と意識がはっきりしてくる。かすかな光、そしてかすかな音も感じられる。
「シェフ! 起きて! シェフ!」
誰かからの声が聞こえ、自分は目を覚ました。
「シェフ……!」
目を開けると、そこには魔女のような帽子を被った少女が立っていた。彼女は目を開けた自分を見て、安心したような表情を見せる。
「うっ……」
意識ははっきりしてきたが、体は思うように動かない。自分は力を込めて、どうにか上半身だけ体を起こす。
「よかったあ〜! シェフが起きた!」
魔女の少女は歓声をあげる。
「ここは……どこだ……」
周囲を見渡してみても全く見覚えのない場所だ。目の前の少女も知った顔ではない。とりあえず自分は、事情を知っているであろう魔女の少女に、そう尋ねた。
「ここはキュイディメ。そして私はキュイディメの管理人、ウィッチ。はじめまして、シェフ!」
「…………」
魔女の少女の言葉が理解できなかったのは、まだ意識がはっきりしていないからだろうか。いや、そうではないだろう。
「……すまないが、水をくれないか」
ともかく、未だに口に残っているこの苦味を消さないと冷静な思考はできない気がした。
「了解っ」
ウィッチと名乗った魔女の少女は、近くのテーブルに置いてあったガラス製の水差しを手に取り、同様に置いてあった木製のコップに水を注ぎ込む。
「はい、どうぞ」
自分はコップを受け取ると、勢いよくそれを喉に流し込んだ。苦味が薄れると同時に、意識もより鮮明になっていく。
「これは……硬水か」
飲んだ水に舌先を擦るような違和感があり、自分はその水が硬水であることに気付いた。
「すごい! 水の味も分かるなんて、流石はシェフ!」
魔女の少女は感動した声をあげる。しかし、硬水と軟水を判別することは難しくない。硬水と分かる人がどれほどいるかは知らないが、この水を飲んで違和感を覚えない人はかなりの少数だろう。
「部屋の内装は明らかに日本のものではない。出てくる水は日本では珍しい硬水。……ここが日本ではないことは分かる」
冷たい水で頭が冴え、やっと状況が整理できるようになる。
「ここは何なんだ。君の言った、キュイディメとは何なんだ?」
そう尋ねると、魔女の少女は考え込む素振りを見せた。
「説明するより、体感した方が早いかもしれないよ。シェフ、まずは私のお願いを聞いてくれない?」
「お願い……?」
「玉子焼き、作って!」
「えっ」
玉子焼きは単純な料理だ。まずは卵を割り、黄身と白身を溶きほぐす。
この時、黄身と白身をしっかりと混ぜないと、焼き上がったときに黄身と白身が分離して、黄色と白の斑模様の美しくない玉子焼きになってしまう。
かと言って混ぜすぎるのも厳禁だ。混ぜすぎるほど、玉子焼きのふんわり感が薄れてしまう。
「砂糖はどこにある?」
隣で見守っていた魔女の少女に尋ねる。
「上白糖? グラニュー糖? 黒糖? 氷砂糖もあるよ!」
「……上白糖でいい」
自分がそう答えると、魔女の少女は紙の袋を差し出した。
袋の中には白い粉が詰まっている。ひとつまみして口の中に入れると強い甘味が感じられた。
確かに上白糖だ。明らかに近代の技術で製糖されている。その砂糖をもうひとつまみすると、今度は卵の中にそれを投入した。
「他の調味料は? 醤油? めんつゆ? 出汁の素?」
「……砂糖だけでいい」
「えっ」
「玉子焼きは、卵と砂糖と水だけでいい」
それが、自分の玉子焼きに対する信念だった。
卵と砂糖だけでも、信じられないほど深みのある味を出せる。それが調理と言う名の魔法だ。
自分が料理人を志したのも、この玉子焼きの魔法に魅せられたからだった。
子供のときに母親が作ってくれた、卵と砂糖だけの玉子焼き。これだけの材料で何よりも美味しい料理が作れる。
自分はその時以来、ずっとその魔法に魅せられ続けていた。
卵と砂糖、水を混ぜ終えたらいよいよ魔法の出番だ。ここからの『焼き』が玉子焼きのすべてを決める。
まずはフライパンを熱する。油をしいて、フライパンに十分熱が入ったらいよいよ卵を投入する。
卵の焼ける音と共に、卵の香りが立ちのぼった。
火加減はこの卵の香りでわかる。少し火力が強い。手元のボタンを押して少し温度を下げることにした。
(しかし、なんでIHコンロがあるんだ……)
今回使っているコンロは、現代日本では珍しくない、電気で加熱するタイプのコンロだ。
珍しくはないが、この風変わりな世界で、なぜか調理機器だけ最新鋭のものがあるというのは、やはり違和感がある。
先程魔女の少女が勧めていたが、めんつゆや出汁の素が都合良くあるのもおかしかった。出汁の素なんて、それこそ現代日本以外にはそうは存在しないだろう。
(おっと……)
意識が一瞬料理から外れてしまった。ここからが調理の魔法の真髄だ。
わけのわからない場所でわけのわからない人間に作る料理であっても、料理は料理だ。手を抜くことはできない。
自分は全身全霊を捧げて、焼き加減を見守る。玉子焼きの表面は美しい黄色でなくてはいけない。
黒は論外。茶色も失敗作だ。美しい黄色の衣を重ねていったものだけが、玉子焼きを名乗れる。
火が通った黄色の衣を巻き、新しく卵液を流し込む。この単純な、しかし一瞬も気を緩められない作業が続く。
そして、最後の衣が巻き上がった。
「完成だ」
フライパンをコンロから下ろすと、速やかに玉子焼きをまな板の上に移す。
後は包丁で一口サイズに切り、皿に盛り付けるだけだ。
「……ん?」
玉子焼きを皿に盛り付けた瞬間、なぜか玉子焼きが輝き出した。
美しい黄色の衣を纏った玉子焼きは光を反射して輝いて見えることがある。しかし、今起きているのはその程度の光ではなかった。
色で表現するのは難しいが、あえて表現するなら紫色が近かった。その紫色の光が玉子焼きを中心に渦を巻いていく。
……そして。光が収まると、そこには黄色い衣をまとった少女が立っていた。
「はじめましてシェフさん。玉子焼きですぅ。こ、これからよろしくお願いしますぅ」
玉子焼きを作ったら玉子焼きと名乗る少女が玉子焼きから生まれたので、一緒に玉子焼きを食べることにした。
頭がおかしくなりそうになるが、しかしそれは紛れもない現実のようだった。
「はう……シェフさんの玉子焼き、あったかくて甘くて、とろけちゃいそうですぅ……」
玉子焼きと名乗った少女は玉子焼きを食べてそんな感想を漏らす。
「わかった? シェフ。 これがキュイディメなの!」
魔女の少女は玉子焼きを食べ終えると、いきなりそう宣言した。
「いや、すまない、分からない」
「そんな~!」
魔女の少女は頭を抱える。
「ここが……まあ、自分のいた世界ではないことはとてもよく分かった。しかし、この世界のことは分からない。キュイディメとは何なんだ?」
改めて自分はその質問を投げかけた。
「その玉子焼きちゃんみたいに料理から生まれた存在が暮らす世界。それがキュイディメ。シェフの世界、人間界で料理が作られると、キュイディメでは新しいキュイが生まれるの~」
「じゃあ、今まで自分が作った料理も全て、この世界で人として生きているってことか?」
そう尋ねると、魔女の少女は首を横に振った。
「本来であればそうだった。でも、100年くらい前から新しいキュイが生まれなくなったの。キュイが生まれるには『厨力』が必要になるんだけど、人間界からそれが供給されなくなった」
「厨力?」
「人間が愛を込めて料理を作ったり、感謝を込めて料理をいただいたりすると、キュイの力のみなもと『厨力』が生まれるの。でも料理を粗末に扱ったり廃棄したりすると『厨力』は汚れて、使い物にならなくなっちゃう」
そこまで言うと、魔女の少女はため息をついた。
「人間界の厨力が弱くなった原因は……人間界にいるシェフの方がよく知っているんじゃないの~?」
「ああ……」
魔女の少女の言葉は自分の胸に強く突き刺さった。
自分は料理人として料理を粗末に扱ったことはない。しかし、例えば客が料理を残す、あるいは想定どおりの客が来ないで食材が余ってしまう経験は幾度となくあった。
人間が100年前より料理を大切にしていないと言われると、それには何の反論もできなかった。
「私はキュイディメで一番厨力が集まる場所……ここで料理を作って、人間たちの代わりにキュイを作ろうとした。でも、私ではうまくいかなかった。だからシェフを呼んだの」
「何で……自分を選んだ」
「私が作った玉子焼きを人間界に送ったの。人間界で一番強い厨力を生み出している人の所に届くよう力を込めて」
「うっ……」
その言葉で自分の記憶が蘇った。このキュイディメに来る前の記憶だ。
家に帰るとテーブルの上に玉子焼きが置いてあった。それは自分の作った玉子焼きではない。自分で作った記憶もないし、そもそも見た目からして不恰好な、明らかに素人が作った玉子焼きだった。
不気味な玉子焼きだったが、かといってそのまま捨てるのも気が引けて、つい一口食べてしまった。
あまりの味に気を失い……気付いたらここ、キュイディメにいた。
「あの玉子焼きは……君が作ったのか」
「そう。美味しかった~?」
全く悪気を感じていない声で魔女の少女は尋ねてくる。
「ちなみに、調味料は何を入れた?」
「え~と、日本の料理だから日本の調味料と思って、砂糖、塩、酢、醤油、味噌。最近日本では緑茶味が流行ってるって聞いたから隠し味に茶葉。健康を考えて、最後に漢方薬も入れたよ~」
「……そうか」
自分を殺そうとした味の正体はひとまず分かった。そして、彼女はキュイを生み出す料理はおろか、そもそも料理が作れないこともよく分かった。
「話をまとめると、自分はこのキュイディメに新たなキュイを生み出すために呼ばれたと言うことか?」
「そのと~り! これからよろしくね~」
魔女の少女は相変わらず悪気を感じていない声でそう言ってくる。
人間界が料理を大切にしなくなったからキュイディメの世界が大変なことになっている、そのことはよく分かったし、料理人として申し訳なく思う。
しかし、だからと言って勝手に連れ去られ、故意ではないにしろ殺されかけた相手の願いを素直に聞けるほど、自分は人間ができているわけではない。
「あ、あのう……」
自分の隣に座っていた玉子焼きを名乗る少女が口を開いた。
「私、シェフさんに作ってもらえて、一緒に玉子焼きを食べられて嬉しかったです。ありがとうございます」
そう言うと彼女はぺこりと頭を下げる。
「それで、あの……シェフさんが作る他の料理も、シェフさんと一緒にご飯を食べて、お礼を言ったりしたいと思うんです。あの……だから……」
彼女は全身を小さく震わせていた。自分は肩の部分に手を起き、震えを抑えてやる。
「分かったよ。どこまでできるかは分からないけど、やってみる」
「シェフさんっ……!」
自分が宣言すると、玉子焼きは声をあげて自分の胸に飛び込んできた。玉子焼きの優しい甘い香りがふんわりと辺りに漂う。
この自分の胸で泣いている少女が自分の作った玉子焼きだと言うことは、この甘い香りが何より証明していた。今まで何千回と嗅いできた香りだ。
そして、自分に料理の素晴らしさを教えてくれた玉子焼きの頼みを、自分が断るはずはなかった。