第119季4月11日
誰かに感謝されることは嬉しいものである。どんな理由にしろ、ありがとうと言われるだけで胸が高鳴るし、やったあ、と叫びたくなる。お礼に甘味屋に連れてってくれれば最高だ。だが、それにも例外がある。ありがとうと感謝されてもうれしくない時もある。
一つ目は、嫌いな奴に言われた時だ。お前に褒められてもうれしくないし、むしろ腹が立つ。こういうことを思った事のある人は、少なくないだろう。誰だってそうだ。嫌いな奴がいかに自分を褒めようが、持ち上げようが、全く嬉しくない。
二つ目は、身に覚えの無いことで褒められた時である。あなた、あの魔王を倒してくれたのね、と言われても、倒してない本人からすれば、ただ困惑するだけだ。自分はやってないと、説明するのにもまた更なる手間がかかる。
今日私は、このことを痛感することとなった。
「ありがとう。助かったわ」
書斎で本を読んでいると、いきなりどこかからそんな声が聞こえた。驚いた私は。その場で飛び上がり、きょろきょろと辺りを見渡してしまう。が、どこにも姿が見当たらない。
恐怖を感じた私は、急いで第三の目を部屋のあちらこちらに巡らせた。だが、何も反応はなかった。そこで、私はそれが誰の声か、やっと分かった。地霊殿の書斎に、私に気づかれずに入って来られるような奴は、ほとんどいない。そして何より、きょろきょろと無様に部屋を見渡している私を観察するのが好きな、悪趣味な奴を、私は一人知っていた。
「何の用ですか、八雲紫」
「あら? 随分と冷たいじゃない。また団子でも落としたのかしら」
振り返ると、すぐ目の前に八雲紫の姿があった。そのことは分かっていた。彼女はいつもそうだ。私を驚かせようと、さまざまなことをやってくる。以前も、お菓子の中にわさびを入れ、残念わさびでしたと、わざわざ分かりきったことを書いた紙切れも入れるといった、子供の様な悪戯もしてきた。何のためにか。私を驚かすためだ。今回も、私のすぐ近くにきて、驚かすつもりだったのだろう。そんなことは分かっていた。予想できていた。
でも、予想できたからといって、驚かない訳ではない。
うひゃあ、と声を上げた私は、そのまま地面に転がった。ぬめりとスキマから出ている八雲紫はくすくすと楽しそうに笑っている。腹が立ったが、何より私は怖かった。彼女の言った食料調達がまるで進んでいなかったからだ。きっと、催促しに来たに違いないと、恐怖を感じていた。だが、そんな私に対し、彼女は予想も出来ない言葉を口にした。
「まさか本当に達成してくれるとは思わなかったわ。見直した。やればできるじゃない」
「何の話ですか」
頭をくしゃくしゃと撫でてくる八雲紫が、不気味で仕方がなかった。どうして彼女は私を褒めるのか、そこまで嬉しそうなのか、分からない。
「何の話って、頼んだじゃない」
「頼んだって」
「食料調達よ。日記に挟んであったでしょう?」
扇子を開き、いつものように自分の口元を覆った彼女は、どさりと無断でソファに座った。これもいつもどおりだ。いつもどおりでないことといえば、彼女の機嫌があからさまにいいことだけだ。感情を中々顔に出さず、いつも仮面のような笑みを浮かべている彼女にしては珍しい。
「きっちり1000人分用意するなんて、やるじゃない」
「え」
「どうやったかは知らないけど、何か一つくらい言うことを聞いても良いわよ」
「私、知らないんですけど」
きっと、その時の私の顔は、心底微妙な表情だっただろう。身に覚えの無い成果に対する恐怖と、鬼達に殺されずに済んだという安堵、そして、胸を覆いつくす奇妙な違和感。私は軽く眩暈を覚えた。
「食料調達なんて、諦めてましたよ」
「へえ?」
「私はあなたに何も渡してなんかいないです」
八雲紫は私の言葉をどう捉えたのか分からないが、曖昧な返事をし、ソファに深く座り直した。私は何が起きたか分からず、混乱していた。だというのに、余裕綽々な彼女を見ていると、馬鹿にされているのではないか、と怒りたくなる。が、逆に彼女が私を馬鹿にしていない時なんて無かった。
「まあ、あなたがそう言うならそれでもいいけれど。それでも私は約束するわ。あなたが血の池地獄に実は入っていないなんて、誰にも言わないと」
「本当ですか?」
「あら? 疑っているのかしら」
「そうです」
そうは口にしたものの、私は彼女を疑ってはいなかった。単純に、少しは反抗したかっただけだ。だが、私のささやかな抵抗は、まるで彼女には届いていないらしく、いつの間にか取り出した紅茶を飲んでいた。それは、間違いなく私のものだ。勝手に場所を覚えたのだろうか。
いつの間にか、知らないところで、私が食糧調達をした、という事実が出来上がっていた。どういうことなのか、さっぱり分からない。これも八雲紫の悪戯だろうか、とも思ったが、いくら八雲紫といえど、そこまでするほど暇じゃないだろう。それに、もし悪戯だとすると、すでにネタ晴らしをし、驚かせようとするに違いない。
「今年の冬は長くなりそうなのよ」
訝しんでいる私に向けて、八雲紫は片目を閉じた。今まで見たこともない仕草にたじろいでしまう。あなたはそこまで陽気で上機嫌になれたのかと、言いたかった。
「在庫が無くなって、食料不足に陥った時にこれを渡せば、あなたも嫌われ役から脱却できるんじゃないかしら?」
「そんなんで嫌われなくなったら苦労しませんよ」
「あら。そうかしら?」
そうだ。私たちさとり妖怪は、たかが少し恩を売ったくらいでは好意を持たれない。むしろ、気味悪がられるだけだ。私はそれを痛いほど知っていた。だが、八雲紫はとてもそのことを理解しているとは思えない。きっと、地上の問題に頭を悩ませ、そこまで気が回っていないのだろう。ただ、それは私も同じだった。地上と同じく、地底も今、大変なことになりつつある。
「そんなことより、今は地底が大変なんですから」八雲紫を驚かせたくて、私は大袈裟に焦っているように、手を振った。
「大変?」
「そうです。全てのものが骨に変わるような異変かもしれません」
「はあ?」
八雲紫の心は相変わらず読めない。だが、彼女が今どう思ったかは分かった。こいつは一体何を言っているのか。気でもおかしくなったんじゃないか。そう思ったのだろう。その証拠に、彼女は私の発言の後も、呑気に紅茶を飲んで、「それは大変そうね」と微笑んでいる。
「信じてませんね?」
「むしろ、どうして信じてもらえると思ったのよ」
「旧都に行けば、たくさん骨がありますよ」
「そうなの? 後で見てみるけど、絶対にそんな原因じゃないわよ」
そう決めつけた彼女は、「あ、そうそう」と話題を変えた。よっぽど私の話に興味がなかったのか、それとも単純にその事について今思い出したかは分からないが、その声は、少し間延びしている。
ごくり、と紅茶を飲み干した彼女は、また、扇子を広げた。カッコウツケにしては、あまりにも不格好だ。
「あなたに返さなければいけないものがあるのよ」
「何ですか? 平穏ですか?」
「そんなもの、もともと持ってなかったじゃない。渡してくれたお肉の中に入っていたの」
これよ、と彼女はその扇子を閉じた。どれだよ、と文句を言いたかったが、それは叶わない。どうしてか。息を吐くことができなかったからだ。首を絞められたわけでも無いのに、胸が苦しくなり、喉が開かない。鯉のように口をパクパクとさせる事しかできなかった。
震える手で、八雲紫が手に持ったものを受け取る。何も言わず、私はそれを握りしめた。八雲紫がそれを渡してきた瞬間、私はすべてを覚った。さとり妖怪らしく、ようやく覚ることができたのだ。何をか。真相をだ。
頭が真っ白になる。なぜだか、無性に泣きたくなった。怒りと、悲しみと、そしてむなしさでだ。
「八雲紫。さっき、ひとつだけ言うことを聞いてくれると言ってましたよね」
「ええ、言ってましたね」
「だったら、早速一つ、お願いしてもいいでしょうか」
私の言葉を聞いた彼女は、露骨に嫌そうな顔をした。どうしてそんな顔をするのか私には分からない。願いを聞いてくれると言ったのは、そっちの方だというのに。
「少し、席を外してもらえないでしょうか」
「え?」
「姉妹水入らずで話がしたいんです」
その願いがよっぽど予想外だったのか、彼女は本当にいいのね、と繰り返し聞いてきた。
「骨に変わる異変とやらの件も、大丈夫なの?」
「ええ。それは解決しました」
どういうこと? と何度も聞いてくる彼女を全部無視した私は、扉へと近づいていく。振り返ると、八雲紫の姿はなかった。約束通り、席を外してくれたのだろう。珍しく感謝を言いたくなる。絶対に言わないが。
扉をゆっくりと開き、前を見る。そこには誰もいなかった。が、大声で叫ぶまでもなく、廊下の端から一人の少女が駆け寄ってくる。私の心を読んだのだ。その少女の顔には、いつものような気楽さはなく、どこか悲しそうだった。その理由は安易に想像できる。
私はいったい、どうしたらいいのだろうか。分からない。八雲紫から返された、彼のつけていた指輪を固く握りしめる。
「案外はやくバレちゃったね」
悪びれることなく、彼女はそう笑った。
「忘れるまで、ずっと逃げておこうと思ったのに」
私たち姉妹は、机を挟んで向かい合っていた。こうして面と向かいあって話すのは珍しい事でも無いのに、なぜか胸が苦しかった。その理由は分かる。彼女の心には、一切の悪意が無かったからだ。
「まずは、私の話を聞いてくれますか?」
「心が読めているのに?」
「読めているのに、です」
ふうん、と気の抜けた声を出した彼女は、口元に手を当て、話さなくなった。手短に、と心で訴えかけてくる。だが、残念なことに手短に終わる予定はなかった。
「八雲紫に頼まれた食料調達。いつの間にか私の知らぬ間に達成されていたのですが、あれはあなたの仕業ですね」
「答えを知ってて聞くのはどうかと思うけど、とりあえずお礼を言ってもいいんじゃないの」
確かにその通りだ。私のために奔走してくれた彼女には感謝こそすれど、文句を言う筋合いはないのは分かっている。それでも、私は口を挟まずにはいられない。胸に溜まった感情を言葉にしないと、そのままその言葉の重みで胸が押しつぶされてしまいそうだった。
「あなたはいつだって私を助けてくれる。今回もそうでした。八雲紫に私の救出を頼んだ責任もあったようですが、それよりも、不出来な私のために、頑張ってくれたのですね」
「そう、だね」
“私がいないと本当に駄目なんだから”
また、いつもの彼女の口癖が聞こえた。が、今はそれもただ煩わしいだけだ。
「ですが、いきなり1000人分もの食べ物を集めることは困難に近かった。そりゃあ、そうですよね。地底の連中に協力を頼もうにも、私のために唾を吐く奴はいても、食べ物をくれる奴はいませんから。だから、自分達でどうにかするしかなかった」
私たちの食べる量を減らしたところで、微々たるものにしかならない。集めようがない。なら、どうするか。そこで私と彼女の選択に差が出たのだ。私は諦めた。彼女は諦めなかった。こんな私のために、必死に案を絞り出した。そして、思い付き、実行したのだ。
食料が無ければ、作り出せばいい。
「あなたは合理的です。きっと、今回のこともあなたが正しいのでしょう。妖怪としても、地霊殿の主としても、あなたの方が向いています」
「なんで私は罵倒されているの?」
「ですが、さとり妖怪のあなたなら分かっているでしょうが、心ってものは合理的じゃないんですよ。理解はできても、納得できないんです。正しいことだとは分かっても、感謝できないんです」
「納得できないって、なにに?」
「死体を食料として差し出したことに、納得できないんですよ」
食糧を集められなかった彼女は考えた。考えて思い付いたのだ。地底で一番手に入りやすい食料の存在を。そして、効率よく膨大な量の肉を手に入れる方法を、思いついてしまった。
「あなたは、初めは地底に落ちている妖怪の死体を探しに行ったんですね。そして、見つけた死体を捌いた。地底に溢れた骨は、あなたの仕業だった。スケルトン事件。地底中に骨がばらまかれた事件は、あなたがやったのですね。あれは、物が骨に変わるような異変ではなく、あなたの仕業です。地底に骨が散乱していたのは、捌いた後の骨の捨て場所に困って、適当に捨てていたから」
彼女は返事をしない。それでも私は話を続けた。
「悪気が無かったのも知っていますし、あったとしても別に怒りません。あれは悪戯の範疇に入るでしょう。」
星熊と一緒に彼女を旧都で見かけた時、彼女は骨を捨ててきていたのだ。それを、私や星熊に見つかりたくなくて、全力で逃げた。
「昨日、夕食がなかったのは、食料調達のノルマに、それ差し出せば足りたからですよね。それで、お遊びで骨を入れた鍋を食卓に並べてきた」
彼女は、部屋の外から私たちの様子を窺っていたのだ。部屋の外からでも彼女は心を読むことができるが、私はできない。それを利用して、私に会わないようにしていた。
「まさか。物が骨に変わるなんて突飛なことを考えているとは思わなかったよ。驚いた。だから、つい悪乗りしちゃった」
「悪乗りで済ませられませんよ。本当に」
去り際に、あと少し、と彼女の心の声が聞こえたのは、あと少しでノルマを達成できると考えていたからだ。それを私に聞かれたと知った彼女は、わざとらしく転び、誤魔化しにかかった。今思えば、そんなんで騙されるような奴がいるのか、と思うくらいだが、少なくとも私はまんまと引っかかった。
「しかし、地底にある死体の中で、人間が食べられそうな死体を回収したのはいいですが、到底数が足りないことに気がついた」
「案外少なかったよ」
「それで、お燐の部屋にあるコレクションを捌いたんですよね」
彼女は返事をしない。狼狽え、私の顔を心配そうに見上げるだけだ。お燐がどれほど苦労して集めたか、知っているはずなのに、彼女はそのことについては何も思っていないようだった。また、集めればいい、と考えている。間違っていない。私の命とペットの趣味を天秤にかけた彼女は、私を取ってくれた。頭を下げなければいけないのは、分かっている。それでも、私は。
「でも、それでも足りなかった。定期的に地底に死体を探しに行っても中々足りず、焦った」
「期限が近くなってたもん」
「だから、亡くなったペットの遺体を食料にしようと思ったのですね」
そこで、初めて彼女は動揺を露わにした。心が混乱で蠢いている。彼女にも悲しみはあった。今まで世話したペットの死に直面したのであれば、それも当然だろう。だが、それでも罪悪感は無かった。彼女が今混乱しているのは、そのことについて私が絶望を抱いているからだ。
「お燐はペットのことをかなり心配していました」
思った以上に低い声が出た。が、そんなことはもうどうでもよかった。
ペットが行方不明になった理由は簡単だ。亡くなった彼らの死体が消えていた。ただそれだけのこと。世話役の彼女であれば、亡くなったペットを人知れず何処かへ運び、調理することなんて簡単だった。寝不足で目を充血させていたお燐の顔を思い出す。行方不明になった彼らのことを心配していた彼女に、こう伝えれば安心するだろうか。ペットは行方不明になってないですよ。亡くなったんです。死体はもうありませんが、特別な事情があったわけではありません、と。
絶対に彼女は、いやペット達は怒るだろう。そして、それは私も同じだった。
「私たちを慕って、彼らはここに集まってきてくれたんですよ。世話だってみてたんでしょ? 可愛がってあげたのでしょう? そんな彼らの、腹を裂いたというのですか。四肢を切ったというのですか。頭をもいだというのですか!」
私に彼女を叱りつける権利がないのは分かっていた。そもそもが自分のせいであるのに、それをまるで彼女のせいのようにしてしまっている。そんな自分が大嫌いだ。それでも、口から言葉は途絶えない。
「分かってますよ。理不尽なことを言っているのは。あなたは何も間違っていないことは分かっているんです。それでも、私は」
「違うよ」
突然、彼女は口を挟んだ。いきなりのことだったので、呆然として、ただ彼女の顔を見つめる。目つきの悪い鋭い目には、哀れみが浮かんでいた。
「違うって、何がですか」
「今怒ってるのは、私がペットを食料として差し出したことだと思ってるでしょ? でも、本当はそうじゃないんじゃない?」
「何を言って」
「人間の男」
彼女の言葉に、心臓が止まりそうになった。いつの間にか、自分の右手へと視線が移ってしまっている。理由は分からない。それでも私は悲しかった。
「私がその人間の男を地底で拾って、捌いたことを怒ってるんでしょ? 絆されたわけでも無いだろうに」
「少し、黙って下さい」
「たかが少しの時間会っただけで、そこまで感情移入したら駄目だよ」
「黙って下さい」
「でも、いいじゃん。死んでからも人里に貢献できたのなら、本望だったんじゃないかな」
「黙れ!」
ガタンと音が響いた。一瞬、何の音か分からなかったが、机の上についた自分の手を見て、ようやく自分が手を叩きつけた音だと分かる。
あの人間の死体が見つからないのは当然だった。他でもない目の前の少女が、彼の死体を処理してしまったのだ。弔うこともなく、祈ることもなく。あの献身的な彼の死体は、解体され、肉を剥がされ、内臓を処理され、ただの肉片へと変わり八雲紫に渡されたのだ。
「彼は。あの人間の男は、奥さんのために死にに来てたんです。こんな陰湿な地底にわざわざ降りて、自分を犠牲にして妻子の幸福を約束したんですよ。最期くらい、きちんと弔ってあげるべきだったんです。最期くらい報われるべきだったんです」
そこで、どうして私があの人間に嫌悪感を抱かなかったのか、やっと分かった。私は彼に同情していたのだ。正直ものは報われなければならない。人のために行動したものは、救われなければならない。そう思ったのだ。
「だけど、そんな彼は結局死後も救われなかったんです。そんな彼を、あなたは捌いたというのですか!」
私は、いつの間にか声を荒げていた。どうしてそこまで自分が感情的になっているか分からない。薄く微笑む彼の顔が脳裏にこびり付いて離れなかった。
「どうしてそんなことをしたんですか。あなたは何も思わなかったんですか!」
「そりゃ、悲しかったさ。でも」
彼女は俯かせていた顔をばさりとあげた。その目には哀れみと悲しみが混じっている。虚ろで、儚い目だ。彼女のそんな目を、初めて見たかもしれない。あまりにも悍ましいその目に、私はぞっとした。
「このままじゃ、どうせゴミになるだけでしょ? 地面に埋めるか溶岩に落とすか飾っておくか知らないけどさ、どうせ使えないじゃん。だったら、有効活用した方がいいに決まってるよ」
彼女の言葉を前に、私は何も言い返すことができなかった。ただ、その場で佇む事しかできない。彼女の言うことは正しい。これ以上なく正論だ。私のために頑張ってくれたたった一人の家族だ。なのに、どうしてだろうか。私は彼女のことが分からない。心を読んでいるのに、分からなくなってしまった。
「出て行ってください」
「え?」
「すこし、頭を冷やさせてください」
私の声は、か細く、消え入りそうなものだった。だが、それでも聞こえたらしく、何も言わずに席を立ってくれる。
扉の前まで来た彼女は、徐に振り返った。心配そうにこちらを見て、励ますように口を開く。
「でも、これで血の池地獄に落ちる必要もなくなったし、八雲紫に恩を売ることもできた。ハッピーエンドだよ。結果良ければ全てよしって言うじゃん」
「そうですね」
廊下をとテトテと歩いていく姿を見ながら、確かにその通りだ、と一人で頷いていた。結果的には私は助かった。地底にある骨もすぐに土に還るだろう。何の問題もない。結果良ければすべてよし。なるほど、そうだったかもしれない。
「でも、それは誰にもバレなかったらの話ですよね」
視界の端に、ぬるりとスキマが現れる。そこから出てきたのは八雲紫ではなかった。
「今の話、本当ですか?」
声のする方へとふりかえる。そこには目を真っ赤に泣き腫らした、火焔猫燐の姿があった。
ごめんなさい