「今の話は本当ですか?」
お燐はもう一度、同じ言葉を繰り返した。
てっきり私は、彼女が怒っているものだと思っていた。仲間たちの遺体を勝手に捌かれ、自慢のコレクションを台無しにされて、さぞ激昂しているのだろうと、そう思っていた。だが、実際は違った。彼女は怒ってもいなければ、悲しんでもいなかった。心を覆っている感情はただ一つだ。そして、その感情を、私はよく知っていた。
彼女の心に浮かんでいるのは、嫌悪感。それだけだった。
「本当に、お二人が、みんなをバラバラにしちゃったのですか? 嘘ですよね。冗談ですよね。さすがに、笑えませんよ」
縋るような声で、彼女はそう漏らした。だが、それが嘘だとは、冗談だとは彼女自身思っていないのは明らかだ。
「冗談だと、嘘だと言っても、もうあなたは信じないじゃないですか。まあ、嘘でも冗談でも無いですが」
「そんな、なんでそんなことを!」
「あれ? 聞いてませんでしたか?」
お燐がどうして私たちの会話を盗み聞き出来ていたのか。それは八雲紫のせいのようだった。本当に彼女が何を企んでいるのか分からない。八雲紫は、私の部屋を追い出された後も聞き耳を立てていた。それだけだったらまだよかったが、どういう訳か、眠っていたお燐を起こし、自分の膝の上に置いて、一緒に聞いていたらしい。本当に余計なことをしてくれる。最初こそ、八雲紫に対する恐怖で震えていたお燐だったが、私たちの会話がペットの死体の話になってきた辺りで、そんな感情は何処かへ消えてしまったようだった。
「私が助かるために必要だったんです。さっき言ってたじゃないですか。食糧調達が必要だって」
「でも、だからといって!」
彼女の気持ちは嫌という程理解できた。私も同じような感情を、ついさっきまで持っていたからだ。だが、冷静にならなければならない。私は地霊殿の主。地霊殿の主は、薄気味悪くて、陰湿で、丁寧口調でなくてはならない。いま、やらなければならないことは一つしかない。私の持っている才能を使うのだ。嫌われる才能を使わなければいけない。
「お燐、少し冷静になりなさい。こうして私が助かったのですから、いいじゃないですか」
「よくないですよ! これも、八雲紫が変な交換条件を付けたから」
「違いますよ」
そう違う。怒りの矛先を、憎悪の矛先を間違えてはいけない。自分自身に言い聞かせるように、お燐に向けて小さくそう呟いた。地上との確執を持つようなことは、何としても避けなければならない。
「自業自得なんですよ」
「え?」
「今回は私が自分の尻ぬぐいをしただけで、八雲紫は関係ない」
「でも」
「でも? でも何だというのですか? あなたは彼女のせいでペットが葬り去られたと思っているのですか? 違うでしょう。内心ではそう思ってないじゃないですか。私を恨みたくなくて、嫌いたくなくて、無理矢理心を捻じ曲げようとしてるじゃないですか。でも、その発想に至っている時点で、手遅れなんですよ。あなたは無事、私のことを嫌いになったんです」
お燐の顔は、髪色と同じくらい真っ赤だった。大粒の涙がボロボロと零れ、今にも大声で泣き出してしまいそうだ。行方不明になったペット達のことをずっと思い浮かべている。そうして、その直後に彼女の頭に浮かんだのは、あの子の姿だった。まずい、と頭の中で声がした。私の声だ。
「でも、さっきの話を聞いている限りだと、死体を集めたのは。みんなを解体したのはさ」
「お燐!」
大きな声で、言葉を遮る。それ以上は言ってはいけない。あの子は何も悪くない。悪いのは私だ。私が食糧調達を諦めたから、こんなことになってしまったのだ。
「彼女は、私の命令に従っただけです。頼んだんですよ」
「でも、さっき喧嘩してたじゃないですか」
「あれは、彼女がお気に入りの私の死体を、人間の死体を捌いてしまったからですよ。お燐のコレクションは許可したけど、私のは駄目だと言ったのに」
お燐の顔がみるみる引きつっていく。目を見開き、口を真一文字に結んだその表情は、もはや見飽きてしまう程に、経験したものだった。右手に握った指輪をもう一度強く握りしめる。その指輪が安心感を私にくれるようなことは、当然なかった。
「ペットは可愛いですけど、所詮その程度です。私の命の方がよっぽど大事です。私は地霊殿の主なんですよ? 誰もが羨むリーダーなんです。むしろ、その私の命を助けるために四肢をもがれ、内臓を取り出され、頭を砕かれた彼らは、感謝すべきですね」
「あたいは」
お燐は、私から距離を取るように後ずさりし、いつの間にか扉へと手をかけていた。一刻も早くこの部屋から出たいのだろう。
「あたいは、そこまであなたの命が大切だとは思いません」
彼女の声は小さく、そしてか細いものだった。語尾が震えて、最後の方など言葉にすらなっていなかった。だが、それは私の頭にしっかりとこびりついていた。今でも鮮明に思い出せる。彼女の目には私は映っていなかった。彼女はこれから、ペット達の所に行って、泣きつくのだろう。その中にはあの子の姿も入っている。だが、私の姿だけは、彼女の頭の中からきれいさっぱり消え去っていた。
「あなた、ね」
初めてお燐に言われたその言葉は、思いのほか重かった。お燐の姿はもうない。いつの間にか飛び出していったようだった。そのことにすら気づかない自分に嫌気がさす。ソファにどさりと崩れ落ちた。胸の中に大きな穴が空いたような喪失感に襲われる。あの子は悪くない。八雲紫も悪くない。悪いのは私だ。そう何度も思い込む。
どのくらいソファに座っていたのだろうか。いつの間にか眠ってしまったようだった。視界はぼやけ、頭は重い。目を開けているはずなのに、世界が暗くなったように感じた。まだ夢の世界にいるような、そんな感じがする。
だから、目の前で涙を流している妖怪の賢者を見ても、私は驚かなかった。
まだ夢の中にいたのかと、そう思ったのだ。あの八雲紫がこんな顔をする訳がない。彼女はいつも憎らしいまでの笑顔を浮かべ、こちらを見下しているのだ。そんな彼女が涙を流すことなど、無いに違いない。
「ごめんなさい」
そして私に謝ることも、無いと思っていた。
「そんなつもりじゃなかったの」
いつもは閉ざしている彼女の心から、悲しみが溢れていた。漏れ出ていると言ってもいい。あの八雲紫の感情を感じることなんて、それだけでも珍しいことであるし、その内容が負の内容であることなんて初めてだった。いつもであれば、馬鹿にし、笑っただろうが、なぜだろうか。もう、どうでもよかった。
「本当に私は、あなたが頑張って食料を集めてきたと思ったのよ。まるで出来の悪い子供が一人前になったように嬉しくてね。それで、あなたの偉大さを火車と一緒に見ようと思っただけなのよ。なのにこんな」
彼女が早口で何かを捲し立てているのは分かった。私に謝っているということも分かった。だけど、肝心の内容は理解できない。ただ、煩わしかった。
「八雲紫」
「な、なにかしら」
「うるさい」
ひゅっと息をのむ音が聞こえた。目を向けると八雲紫が、目を丸くし、こちらを見ている。どうしてそこまで驚いているか分からない。だが、とにかく私は気が立っていた。世界がぐるぐると回り、もう何が何なのか分からなくない。
「一つ、聞きたいことがあるのだけれど」
いつもの自信満々な彼女の声とは打って変わり、蚊の鳴くような声で、彼女は訊いてきた。
「どうして、私やあの子のせいにしなかったの。別にあなたが一人でそんな辛い目に遭う必要なんてないじゃない」
「それ、本気で言ってますか?」
私はあまりに間抜けな質問に、つい笑ってしまう。カラカラと、喉を掻き切るような音が部屋に木霊する。でも、どうして私が笑っているのか、自分自身でも分かっていなかった。
「お燐は、最初は私たち全員を恨んでたんですよ。嫌ってたんですよ。それこそ、修復不可能なくらいに。だったら、せめて一人だけに絞った方がましじゃないですか。嫌われるのは一人でいいんですよ。私はあれですから」
「あれって、何かしら」
「反とも倒れ派ですから」
お燐から話を聞いたペット達は、どのような反応をするのだろうか。きっと、お燐と同様、私を嫌うのだろう。もしかしたら、あの子はその話を否定するのかもしれない。けど、私は知っていた。一度ついた負のイメージは、ちょっとやそっとで壊れない。私はペットに嫌われることになる。それは、もはや推論ではなく、事実だった。
このままソファの上で溶けてしまいそうだった。溶けてしまいたかった。だが、どういう訳か、八雲紫が私を支えるように、隣に座っていた。赤ん坊をあやすように私の頭を撫でている。
「やっぱり、間違ってたんですよ」
意識することもなく、勝手に言葉が零れていく。
「間違っていたって、何が?」
「私みたいな弱い妖怪がリーダーをするなんて、無理だったんです。強い妖怪と弱い妖怪は決して交わるべきじゃないんです」
「そんなこと言わないで頂戴」
八雲紫の声色は、不気味なほどに優しかった。彼女にも、そう言った声が出せるのだな、と感心したが、ただそれだけだ。特に興味も湧かない。
「そ、そうだ」
そんな私の反応を見て、少し焦ったかのような仕草を見せた八雲紫は、懐から何かを取り出した。今日は全然妖怪の賢者らしくない。大胆不敵で、常に相手の奥底を覗いているような彼女にしては珍しく、悲しんだり、焦ったりしている。だが、面白くもなんともなかった。
「大福、二個持ってきたのだけれど、一ついるかしら」
ソファにだらしなくもたれかかったまま、彼女の手にある真っ白な大福を見つめる。これを食べれば、少しは気分も晴れるだろうか。まだマシになるだろうか。
「一つ、貰います」
少しほっとした表情を見せた八雲紫の手から大福を受け取り、一口で放り込む。普通の大福だ。もちもちした独特の感覚が口の中に残る。
「どうかしら。少し砂糖が多かったかもしれないけれど」
「そうですね。少し甘いかもしれません」
そう、と小さく呟いた彼女は、急に慌ただしく席を立った。その顔は青ざめている。何か急用があったのだろうか。
「どうかしたのですか?」
「い、いえ。ちょっと用事を思い出して。お暇させていただくわね」
「そうですか」
スキマを開いた彼女は、こちらをじっと見ながら、ゆっくりとその中に入っていった。彼女の感情はもう読めない。ただ、その真剣な顔は、八雲紫らしくないことは確かだった。スキマが閉じる瞬間、その真剣な顔が歪み、また泣き出しそうな顔になったように見えたが、きっと気のせいだろう。
「まったく、なんだったんでしょうか」
私の答えに反応してくれる人はいない。しんと静まり返ったこの部屋は、居心地が良かった。誰の悲鳴も聞こえてこないし、呪詛も聞こえてこない。
口に残った大福を飲み込もうとすると、小さな違和感に気がついた。口の中に何か、四角くてザラザラしたものがある。とても飲み込めそうにない。餅から引き剥がし、それを取り出す。それは、小さな正方形の紙切れだった。見覚えがある。
ハハハ、と声が響いた。誰の声か。私の声だ。いつの間にか笑っていた。全く気がつかなかったが、私は口を大きく上げ、全力で笑っていた。何も面白くないのに、何もかもがどうでもいいのに、それでも笑っていた。右手に持っていた彼の指輪はいつの間にか床へと落ちている。机の上に置かれたその紙きれをもう一度見た。
“激苦抹茶入り”と書かれていたそれを、くしゃくしゃと丸める。
笑いは収まらなかった。まさか、本当に砂糖と抹茶の区別がつかなくなるとは。私の笑い声は地霊殿中に響き渡っていたはずなのに、誰もくる気配もなかった。そのことに、また笑いがこみあげてくる。
ペットに嫌われ、甘味の味が分からなくなった。悲しいはずなのに、それでも笑いが止まらない。涙なんて、出てこなかった。
生きている意味、無くなっちゃったなあ。
しかも、人間は人間や妖怪の死体を食べることができないらしいですね。つまり、骨折り損のくたびれ儲けだったわけです。