第119期 7月9日
きっと、大丈夫。私がこの世で一番嫌いなセリフだ。無責任で、傲慢で、そして不躾な言葉。これほどまでに、私を苛つかせる言葉はない。
何が大丈夫で、何が大丈夫じゃないかなんて、私にしか分からないじゃないか。それを、どうして知ったような口で、そんなことを言えるのか、理解に苦しむ。お前には私の気持ちを分かられてたまるか、とますます腹が立つだけだ。
だが、一人だけ、その言葉を口にしていい例外がいた。
「きっと、大丈夫だよ」
そう声をかけられた私は、普段であれば憤り、自棄を起こし、自室に閉じこもるか、地底中を駆け回るところだった。が、そうはしなかった。その理由は単純だ。声をかけてくれた相手は、唯一、私のことを知ったような口で、私の気持ちを分かったように言うことができる存在だったからだ。
「だから、元気を出してね」
心配そうに薄く笑った彼女は、頭に被った帽子をソファに置き、私の肩へと頭を預けてきた。机の上に置いてあったカップが、振動でカタリと揺れる。かつての天真爛漫だった彼女とは思えないほどに、しおらしい。きっと、以前のことを気にしているのだろう。
“本当にごめんね”
心の中で、いつものようにそう呟いた彼女を前に、私は大きくため息をついた。その小さな音ですら、私の部屋には染み渡るように響いていく。
あの日以来、私の部屋に来るペットはいなくなった。元々普通の妖怪たちは来ることもないので、実質的にはいつも私一人だ。広く感じていたこの部屋だったが、より一層大きく感じられる。だが、一人というのも悪くない。気が楽だ。そう思い込む。
「だから、いつも言ってるでしょ? 謝る必要はないんですよ」
目を閉じ、肩を落としていた彼女は、ますます縮こまった。彼女の心に、罪悪感があふれる。そんなもの、感じる必要もないのに。
「私はあなたが頑張っているのを見るだけで、いいんですよ」
「まるで、お母さんみたいなこと言うなあ」
ふわりと笑った彼女だったが、心の靄は消えていない。
そんな私に会いに来てくれるのは、目の前で頬を擦り付けてくる彼女だけだった。もし私が一人っ子であったならば、きっと既にこの世にいないだろう。それほどまでに、彼女の存在は私にとって大きかった。
未だ、食べ物の味は分からない。全身を覆う倦怠感のせいで、全てにおいてやる気が出ない。だが、彼女と話している間だけは、そのことを忘れることができた。彼女がここに来る理由の半分が、罪滅ぼしの感情だと分かっていても、それでも今の私には十分すぎる。
「ずっと部屋に引きこもってないでさ、たまには外に出てみたら?」
「外に出るのは、なかなか大変なんです」
「そうなの?」
「鬼が地上に出て行ったとき、八雲紫は死にそうな顔をしてましたよ」
そう私が口にすると、どういうわけか、彼女は顔を歪ませた。心の中の陰がぐるぐると回り、何を考えているか分からない。だが、一瞬、驚きの感情が含まれたのは確かだった。
地底の妖怪が地上に出ることはご法度だ。だから、わざわざ地底に”封印”するという言葉を使っている。なのに、最近それを破り、地上へと出て行った鬼がいた。もっとも、彼女は結構な頻度で出ていたけれど、今回は、無視できないほどの騒ぎを起こしたらしかった。詳しくは知らないが、鬼の四天王の彼女が起こしたならば、相当面倒なことになったのだろう。八雲紫が死にそうな顔になるのもうなずける。
その鬼とはだれか。そう。伊吹萃香だ。
「鬼が地上に行くのは、きっと誰かに恩返しするときだけじゃないかな。鶴みたいに」
「いや、喧嘩しに行くに一票です」
「確かに」
もし当たったら、団子をおごってあげるよ、と彼女は笑った。味のしない甘味なんて、ただ苦痛でしかなかったが、それでも私は笑みを作る。彼女がなぜそう言ったのかを読めてしまったからだ。
“あの頃のように戻りたい”
彼女はそう切望していた。あの頃、といってもそんなに遠い過去ではないはずなのに、遙か昔のように思える。下には下がある。そのことを痛感させられていた。
「とにかくさ、外に出てみようよ。気が晴れるかもしれないし」
「いいですよ、私は」
「なんでさ」
「自分の心に聞いて見てください」
正直に言えば、家族水入らずで散歩をするのも、悪くないと思い始めていた。だが、それはあくまで散歩が目的だった場合だ。何を企んでいるか分からないが、彼女の目的がそれ以外にあることは、明らかだった。
「腐っても、私はさとり妖怪ですよ。あなたが何を考えているかなんて、分かるんですから」
「そんなこと、分かってるよ」
“分かってて、聞いているんだよ”
彼女は悪びれもせず、私の肩を大きく揺すった。視界ががくがくと揺れ、目が回る。つい最近であれば、心の中で悲鳴を上げ、実際に素っ頓狂な声をあげていたかもしれない。だが、もはやそんな元気は私にはなかった。ただ、面倒だな、と思うだけだ。
まあ、どうせ部屋にいたところで、仕事をする気にもなれないから、いいか。そう思い始めていた時、ガシャリ、と嫌な音が響いた。あ、やばい、とつぶやく声が聞こえる。
足元に冷たい何かが触れた。ゆっくりと視線を移す。そこには、無残に割れ、破片と化したカップがあった。紅茶が床にしみ、私の靴下を濡らしている。
「ご、ごめん」
両手を合わせ、ペこりと頭を下げてくる。彼女の柔らかな髪の毛が地面に垂れていた。
「割れちゃったね」
「いいですよ。別に」
「で、でも」
「こんなもの、すぐに直せますよ」
「いや、私が新しいのを買うよ」
心の中で、ごめんなさいと謝りながら、彼女はもう一度頭を下げた。
「壊れちゃったら、すぐには直らないでしょ」
「まあ、確かにそうですけど」
「よし! なら、任せて!」
「何を任せるのかしら?」
突然、私たち姉妹以外の声が部屋に響いた。聞き覚えのある声だ。久しく聞いていなかったため、一瞬誰の声だか分らなかった。が、すぐに思い出す。そもそも、いきなり部屋に現れることができ、なおかつ心を読むことができない奴なんて、一人しか知らなかった。
「八雲紫」
「あら、驚かないのね」
「いや、驚きましたよ」
そう。この時の私は確かに驚いていた。八雲紫が急に現れたから、ではない。そんなこと、もうどうでもよかった。なら、何に驚いたのか。もっと単純だ。八雲紫が私に会いに来たこと自体に、驚いたのだ。
「まさか、あなたが会いに来るとは思いませんでした」
想像以上に、私の声には抑揚がなかった。
「てっきり、嫌われたのかと思っていましたよ」
逆に、私のことを嫌っていない妖怪なんていないか。そう思うと、つい自嘲気味な笑みが浮かんでしまう。一度浮かんでしまった笑みはなかなか消えず、ケラケラと笑い声が零れた。いったい何が面白いのだろうか。きっと、何も面白くないのが面白いのだろう。
「それで、用件は何ですか」笑いながら、訊ねた。
「あなたは面倒ごとを寄越すときしか、来ないじゃないですか」
「あら、辛辣ね。そして重症」
うふふ、と見慣れた笑みを浮かべた彼女は、いつものように口元で扇子を広げた。相も変わらず胡散臭い奴だ。早く帰ってよ。
「本当はここじゃなくて、血の池地獄で話そうと思ったのだけれどね」
「へえ」
「中々姿を現さないものだから、こちらから訊ねたってわけ」
“私が連れていく予定だったんだけどね”
カップを片付けながら、肩をすくめている彼女は、ぺろりと舌を出した。いつの間にか、八雲紫と接触していたのだろう。まったく気が付かなかった。
「それで、用件なのだけれど」何かを考えるように目を上にあげた八雲紫は、躊躇なく私の隣へと腰を下ろした。
「つい最近、伊吹萃香が地上で騒ぎを起こしたこと、当然知っているわよね」
ああ、と声が零れる。なるほど。どうして彼女がここに来たのか。そんなの、考えるまでもなかった。鬼が地上で騒ぎを起こせば、それは地底の管理者である私の責任となる。八雲紫は、それを糾弾しにきたのだろう。心なしか、彼女の目にはクマが浮かんでいるようにも見える。
「知っているには知っていますが」
「知っているって、どのくらい?」
「そうですね。いつの間にか地上に脱出して、結果的に地底に帰ってきてないってことぐらいですかね」
「全然知らないじゃない」
呆れか怒りか。はぁ、と心底大きなため息を吐いた八雲紫は、わざとらしく肩を落とした。こっちはこんなに苦労しているのに、と愚痴のようなものをすら零している。
「いい? 彼女はね、地上で自身の能力を使って、連日連夜飲み会を開いたのよ」
「え、そんだけですか」
「そんだけって」
「いや、伊吹萃香なら、もっとやらかしてそうだと思っただけです」
なんとも平和的でいいではないか。私なんて、もはや飲み会に誘われることはなくなったというのに。まあ、誘われても行かないけど。
「それだけだったら、まだよかったのだけれど」
「けれど?」楽しそうな相槌が、隣から聞こえる。
「けれど、鬼が飲み会を連日連夜開くってことは、つまりは」
「つまりは?」
「連日連夜、伊吹萃香が喧嘩をするってことでもあるのよ」
伊吹萃香が、毎日飲み会を開き、そのたびに喧嘩をする姿を思い浮かべる。地獄絵図。いや、そんな言葉ですら生温いだろう。よく地上が滅びなかったものだ。
「八雲紫」
「何かしら」
「実は私、最近いやなことばかりで、世の中に絶望していたのですが」
「え、ええ」
「大変そうなあなたを見ていると、私はまだマシかもしれないって思えてきました」
どういたしまして、とぎこちなく笑った八雲紫を見ていると、いきなり後ろから肘でつつかれた。
"思ってもいないことを”と三つの目を半開きにした彼女に対し、私は口の前で人差し指を立てた。慌てて話題を変える。
「やっぱり、私の言う通りだったじゃないですか」
べつに嬉しくなかったが、さも喜んでいますといったように頬を上げた。
「鬼が地上に行くとしたら、喧嘩しに行く時だって」
「えー、恩返しという可能性もまだ」
「ないです」
悲しそうに眉をひそめる彼女を見ると、どこか心が落ち着く。まだ私はここにいていいのだと、いなくてはいけないのだと、そう思わせてくれる。実際は、私なんていなくなっても、大して問題がないと知っているのに。
「恩返しとかなんとか知らないけれど、私はただ文句を言うためにわざわざ地底まで降りてきたわけではないわよ」
「いいですよ、それだけで」
「よくないわよ」
八雲紫の声は、どこか弾んでいた。「思ったより元気そうね」とほほ笑んでいる。なぜ彼女が楽しそうなのか。理由は分からない。それでも、こんな私ですら、楽しそうだな、と思えるほどに上機嫌だ。橋姫が見たら、きっと嫉妬心を募らせるだろう。
「きちんと落とし前をつけてもらわないとね」
「落とし前?」
「そう」
「落とし物ならよくしますけど」
がくっと肩を落とした彼女を前に、つい、首をかしげてしまう。私がつけられる落とし前だなんて、もはや無いに等しい。そんなこと、八雲紫も知っているはずだった。
「また、食料を集めろっていうんですか?」
「それは忘れなさい」
急に真顔になった八雲紫は、早口でそう言った。誤魔化すように、大きく咳ばらいをし、「落とし前っていうのはね」と言葉を続ける。
「落とし前っていうのは、決闘してほしいのよ」
「決闘?」
「幻想郷のリーダーである私と、地底のリーダーであるあなたで決闘をするのよ」
「それは、遠まわしに死ねといっているのですか?」
「違うわよ」
何が違うのか分からないが、八雲紫はもう一度、決闘よ、と言った。どうして二回口にしたのか、これも分からない。
「郷に入れば郷に従えって言うでしょ? だったら、ここは地底らしく、そして鬼らしく、決闘で落とし前をつけてあげようじゃない」
「決闘って、弾幕勝負とかですか?」
「違うわ。鬼みたいな、殴りあいよ」
やっぱり、死ねと言ってるじゃないですか。そう反論するも、彼女は聞く耳なんて、持っていなかった。
「それに、その問題はもう完結したんじゃないんですか? 確かに伊吹萃香が地底を脱出したのは私の管理不足ですが、今は無事地上に受け入れられたんですよね。だったら、問題ないじゃないですか」
「そういうわけにはいかないわ」
私の隣に座ったまま、八雲紫は扇子を振った。ちょうど私の目の前の空間が裂け、漆黒のスキマが現れる。無数の目が私をぎょろりと見つめていた。何度見ても気持ち悪い。どうして、こんな隙間に易々と入っていけるか、分からなかった。馬鹿みたい。
「あら、驚かないのね」
「何がですか?」
「いや、なんでもないのよ」
どこか悲し気に眉をひそめた八雲紫だったが、すぐにいつもの微笑みへと戻った。
「何事もなければ、確かに落とし前はいらなかったけれど」
「何かあったんですか?」
「喧嘩の時にね、神社やらなんやら色々壊したのよ、萃香が。その落とし前をつけなきゃいけないでしょ?」
「いけなくないですよ」
それなら、一週間後、楽しみにしているわね。そう一方的に言い残した八雲紫は、勢いよくスキマへと飛び込んでいった。
嵐のように去っていった八雲紫がいた場所を、呆然と見つめる。神出鬼没。まさに彼女らしい。久しぶりに彼女の理不尽さを感じた気がした。だが、懐かしさはない。どうしてだろうか。
「落とし前って、大げさだね」
そんな、感傷に浸りきれていない私の肩に、どすんと強い衝撃が走った。
“昔、こうしてよく遊んだよね”と肩車のように、私の頭を足で挟み、楽しそうに鼻歌を歌っている。
「神社なんて直せばいいのに」
「分かってないですね」
八雲紫の、不敵な笑みが頭に浮かんだ。分かっていないのは私の方だ。そんなことは分かっている。こうして日記を書いている今も、彼女が何を考えているかなんて、分からない。ただ、一つだけ、分かることがあった。
「壊れたものは、すぐには直らないんですよ」
いま、博麗の巫女は壊れかけの神社でしばらく過ごさなければならない状況だということだ。
きっと、大丈夫