第119期7月10日
決闘。果し合い。喧嘩。そのどれもが物騒で、私とは縁遠いものだ。まあ、姉妹喧嘩をしたことが無い訳ではないが、精々、心の中で罵倒を飛ばしあうぐらいの、可愛いものぐらいだ。つまり、私は初心者といってもいい。なんのか。喧嘩だ。逆に、八雲紫はそれこそ、プロと呼んでもいいだろう。数多の妖怪を力をねじ伏せてきた彼女は、争いごとに関しても、遥か上の次元にいるはずだ。
もし、今わたしと彼女が争えば、三秒も持たない間に負けてしまうに違いない。それこそ、喧嘩とは言えないほどに、決闘とは呼べないほどに呆気なく。なら、どうするか。鍛えるしかなかった。
「そこまで、頑張らなくてもいいんじゃないかな」
昨日あれほど外に出た方がいいと言っていたにも関わらず、八雲紫の決闘に私を巻き込もうとしていたにも関わらず、第三の目を使い、彼女は訴えてきた。心からは、とめどなく不安感があふれ出ている。
「きっと、八雲紫も本気で戦ったりはしないって」
「いえ、それはどうでしょうか」
どうして八雲紫が私に決闘を挑んできたか。昨日、眠れない中必死に考えた。こんなに頭を動かしたのは久しぶりだ。どこかぼんやりとして、働かない私の頭が出した結論は、やはり、落とし前、ということだった。
八雲紫が伊吹萃香を、地底を許したところで、幻想郷が許したわけではない。地底の妖怪が協約を無視して騒ぎを起こしました。けれど、幻想郷の賢者と仲が良かったので、無罪放免です。なんて言われても、納得する方が難しい。
私情で管理者が悪しき先例を作ってはいけない。なら、どうするか。責任を取らなければならないのだ。そして、責任を取ることが、リーダーの仕事でもある。その責任の取り方として、八雲紫は決闘という形をとったのだ。まだ、処刑でなかっただけありがたいというべきだろうか。
八雲紫は、この条件を飲まなかったらどうするか、何も言い残さなかった。そんなの、言うまでもないからだ。リーダーが逃げればどうなるか。それはいつの時代だって同じだ。その配下は、滅ぼされる。流石に地底の連中がやすやすと八雲紫に負けるわけはないと思うが、少なくとも、地底と地上の間に大きな溝が生まれてしまうだろう。今の曲がりなりにも平和な地底は消え去り、それこそ旧地獄に相応しいような、そんな悲劇的な空間になってしまう。
「だから、逃げるわけにはいかないんですよ」
「まあ、確かにそうだろうけどさ」
当然、しっかりした方の古明地と呼ばれている彼女は、そんなこと分かっていた。分かっていて、八雲紫が本気を出さないと思っているようだ。だが、その理由までは読み取れない。
「でも、どっちにしろ、私にはなんで頑張るのか分からないよ」
「どうしてですか?」
「だって」
彼女が何を言うのか、分かっていた。だが、それでも私は訊ねずにはいられない。なぜなら。
「だって、地底なんてもうどうでもいいって、そう思ってるんでしょ。地底なんて滅んでしまえばいいって。なのに、どうして地底のために頑張るの?」
「さあ、ね」
なぜなら、私自身本当の意味で頑張る意味を見いだせていないのだから。
「それで? いきなり話があるだなんて、何を企んでいるんだ」
星熊勇儀は、いやな顔を隠そうともせず、呟いた。
「飯はおごらないぞ」
「分かってますよ」
地霊殿を出て、私は真っ直ぐに旧都へと向かった。久しぶりの旧都だ。なかなかの距離があったはずだが、一匹の妖怪とも会わなかった。当然、ペットにもだ。だが、どこか物陰に潜んでいるようで、心の声は聞こえてきていた。その内容はここには書かない。書いてもよかったが、おそらく、書いていると、それだけでこの日記が埋まってしまうだろう。当然、呪詛の言葉で、だ。
旧都につくと、すぐに目当ての鬼を見つけることができた。星熊だ。というより、それ以外の妖怪は部屋に閉じこもったり、どこかへ逃げ出したりして、姿が見えなかった。まあ、用があるのは彼女だったので、問題はない。
「あなたには、お願いがあって来たんです」
「断ってもいいか?」
「いいじゃないですか。私とあなたの仲ですし」
「それ、最悪ってことだからな」
ガハハと楽しそうに笑う彼女の声に、愉悦の感情はなかった。そんな彼女をまねて、私もがははと笑ってみる。当然、楽しくなんてなかった。
「今なら、団子も付けますよ」
「お前が? 私に団子を?」
「どうかしたんですか?」
「いや、お前」
鬼らしくもなく、彼女はうろたえながら、私の肩を掴んだ。掴んで、後悔している。無意識に私を心配してしまった自分の心を呪っていた。人がいいというべきか、鬼がいいというべきか。
「あれほど甘味に執着していたお前が、まさか私に団子をくれるなんて思わなくてな」
「団子なんて、いらないです」
「え?」
「要らないものをあげて、必要なものを得る。合理的じゃないですか」
「お前、団子は命より大事って」
「知ってますか? 団子は甘いからおいしいんです」
「私はしょっぱいみたらしも好きだぞ」
「あっはい」
訝しげにこちらを見ていた彼女だったが、「それで? 頼み事ってなんだよ」と訊いてきた。私の頼みごとを、一応は聞いてくれるらしい。内心で、後々面倒になるよりはましか、と思っていたとしても、私にとっては好都合だった。
「勇儀さんって、喧嘩強いじゃないですか」
「当たり前だろ」
「だから、教えてほしいんですよ」
「教えてほしいって? 何を」
「喧嘩のやり方を」
もう一度、星熊はガハハと大声で笑った。今度は、心から愉悦を爆発させている。
「おいおい冗談だろ? お前さんに喧嘩を教えられる奴なんてこの世にいねえよ」
「そうですか」
「当たり前だろ。どっちかといえば、私の方が、いや。やっぱ教えなくていい」
「そうですか」
もし私が本当に強かったのならば、嫌われずに済んだだろうか。ふと、そんなことを考えた。恐怖され、嫌悪感を抱かれつつも、誰かには憧れられ、頼りにされたりしただろうか。いや、しない。私が嫌われているのは、さとり妖怪だからではない。私自身の問題だ。
「でも、いいんですよ。私は勇儀さんに教わりたいんです」
「嬉しくねえな」
「というより、あなた以外に話をしてくれる存在が、もはや家族しかいなくなりました」
「萃香は、ああ。あいつ外に行きやがったんだよな」
羨望と嫉妬の感情が彼女の心に宿る。やはり、なんだかんだ言って彼女も地上へと行ってみたいのだろう。だが、それだけは何としても避けなければならない。それこそ、土下座をして、地面を舐めてでも。なぜ? ふと、そんなことが頭によぎった。なぜ。そんなの、分からない。
「彼女は、いったい何をしに地上に行ったんでしょうか?」
「そんなの決まってるだろ」どういうわけか、彼女はふふんと鼻を鳴らした。
「喧嘩だよ」
「ですよね」
つい、大きく頷いてしまう。やっぱり、鬼が考えることなど一つしかなかった。
「恩返しという可能性はないですか?」
「恩返し?」
「そうです」
「あるわけないだろ」
何言ってんだよ、と彼女は肩をすくめた。今度は笑いすらしない。それもそうだ。あの喧嘩することでしか鬱憤を晴らせないような不器用な彼女に、そんなことができるわけがない。いや、違う。彼女は不器用ではない。私の方がよっぽど不器用で馬鹿だ。彼女を批判する権利は私にはない。そんなことは分かっていた。
それでもなぜか、この時の私は酷く苛立っていた。
「鬼は、喧嘩しかしないですもんね」
「酒も飲むぞ、もちろん」
「どうして酒を飲み、喧嘩しかしないあなたは皆に好かれるのでしょうか。力が強いから? だったら力が強いと思われている私が嫌われているのはなぜ? さとり妖怪だから? だったら、あの子はどうして私より人望があるの?」
そんなの、私が悪いからに決まっている。自分でもわかってはいた。それでも、口にせずにはいられない。
「おい。どうした、古明地。らしくないぞ」
「らしい? 星熊に私の何が分かるっていうの? 地底中から慕われ、喧嘩と酒におぼれ、一丁前に萃香に嫉妬してるくせに、豪傑だといわれ続けているくせに、私のことが分かるっていうの? 地底中から嫌われたことはある? ペットに無視される日々を過ごしたことがある? 誰も私を本心から嫌悪していると知っていながら、逃げることすらできない私の気持ちを考えたことがあるの? ないでしょ。あるわけがないです。所詮は鬼。地上に行きたいと心の中で駄々をこねることしかできない惨めな生き物。それでも私は羨ましいですよ。嫌われているという事実を、常に突きつけられている今よりは、圧倒的にね」
「おい、大丈夫かよ」
「ああどうかと思わずにはいられませんよ。どうか嫌いな地底を……」
「落ち着けって!」
がしりと肩を掴んだ彼女は、私を押し倒し、馬乗りになった。後頭部を強く打ち付け、痛みが走る。だが、それよりも。それよりも私は星熊の表情に驚いていた。なぜ、そんなにも辛そうな顔をしているのだろうか。
「落ち着けよ。落ち着いてくれよ、古明地。お前は確かに嫌われているし、私もお前のことが嫌いだ。だが、お前のことを慕っている奴もいるだろ。そんな風になるな。そんな、嫌ってもいない奴を、嫌いだなんて嘘を吐くなよ」
「例えば?」
「え?」
「私を慕っている奴もいるって、言いましたよね。そんな奇妙な奴の名前を、一人でもいいから挙げてみてくださいよ」
我ながら、酷い質問だと思う。彼女はただ、私を励ましたかっただけだ。嫌いで関わりたくない奴だが、不幸になってほしいわけではない。星熊はそう思っていた。彼女が慕われる理由は、鬼だからでも力が強いからでもない。優しいからだ。頼りがいがあるからだ。救ってくれるからだ。それでも、私はその救いを拒否してしまった。なのに、後悔すら感じない。
「お前のことを慕っている妖怪は」
「妖怪は?」
「そうだな。すまん。思いつかない」
心底辛そうに肩を落とした彼女は、力いっぱい自分の頭を殴っていた。ごん、と鈍い音が響く。ぽたりと、血が地面に垂れた。
「思いつかない、ですか」
彼女は怒っていた。自分自身に。私を励まそうとするばかり、嘘をついてしまったことを、心から後悔していた。それもそうだ。私を慕っている奴なんて、誰もいないことはもう明白だ。そんな分かりやすい嘘を口にするなんて彼女らしくもない。
「古明地。どうした本当に。確かにお前は陰湿な奴だが、そこまで暴力的でもなかったじゃないか」
「暴力的ではないですよ。少なくともあなたよりは」
「いや、暴力的だよ」
ふっと、彼女は鼻を鳴らした。どうやら、先ほど頭を殴ったことで気は済んだようで、いつものような、得意げな表情へと変わっている。やはり、鬼は単純だ。
「言葉の暴力だ」
「ただ、事実を言っただけです」
「人の心を読んで口にするだけで、それは十分暴力的だろ」
「確かに」
そうだろ? と、先ほどのことなど気にもせず、気さくに話しかけてくる星熊に、感動しそうになった。なんて懐が深いのだろうか。なんて優しいのだろうか。なんて愚かなのだろうか。
「どうした? そんなに私をまじまじと見て」立ち止まり、呆然と突っ立ている私の肩を、ぽんと強く叩いてくる。
「顔に何かついているのか」
「いえ、結局喧嘩は教えてもらえるのかなって思いまして」
おいおい、と彼女は苦笑した。“さっきボコボコに言ったくせに頼み事とは、豪胆だな”と心の中で笑っている。なぜか、感心してさえいた。
「まあ、別に教えてやってもいいが」
「助かります」
「でも、ただっていうわけにはいかないなぁ。何事にも対価が必要だ」
「もちろんです」
「団子は要らねえぞ」
私が何か、彼女に与えられるものはあるか。考えるも、思いつかない。
「さあ。対価に何をくれる」
「あれをあげますよ」
「あれって?」
「地霊殿の主という地位、とかどうです?」
ぽかんと、目を丸くした星熊は、すぐに口許を緩めた。腹に思い切り空気を入れて、大声で笑い始める。彼女が笑うたびに、振動で体がつぶれそうになった。痩せてくれ、と心の中で願う。
「おいおい。地底の管理者が言っていいのかよ、そんな台詞」
「いいんですよ。要らないものをあげて、必要なものを得る。合理的じゃないですか」
「お前は馬鹿だなあ」
心底楽しそうに、心から彼女は笑っていた。素直な喜びの感情を感じたのは、本当に久しぶりだ。嬉しくもなければ達成感もない。だが、不思議と悪い気はしなかった。懐かしい感覚だ。
「そんなもん、私も要らねえよ」
「ですよね」
「ただ、まあ」
気恥ずかしそうに頬をかきながら、彼女は言った。
「面白かったから、手伝ってやるよ」
「本当ですか」
「惚れちまうほど格好いいだろ?」
「もし惚れたといえば、どうします?」
「断るに決まってるだろ」
「いいじゃないですか。私とあなたの仲ですし」
「それ、最悪ってことだからな」
ケラケラと笑う彼女の下で、私は先ほどの彼女の言葉を思い起こしていた。私を慕っている奴はいるか。自分自身にそう問いかける。やはり、何度考えても、その答えはゼロだ。私を慕っている奴なんて、目の前の鬼を含めて、この世に誰もいない。
もちろん、あの子も、だ。
心というのは、いつまでたっても分かりませんね。自分の心も、です。