第119期7月11日
私にとって彼女は、八雲紫とはどのような存在だろうか。地霊殿の主という立場を押し付けてきた張本人。面倒事を押し付けてくるトラブルメーカー。何を考えているか分からない薄気味悪い奴。圧倒的な力を持つ妖怪の賢者。
尊敬をしているわけではなかった。もちろん好んでいるわけでもない。だが、今思えば、私は彼女にどこか惹かれていたのだと思う。リーダーという立場に相応しい力。相手を恐れさせる不気味な笑み、そして、すべてを見通すその明晰な頭脳に憧れていた。
だが、それは当たり前のことではあるが、そんな彼女の頭脳でも、見通せないことがあるのだということを、今日痛感することとなった。
「本当に分かりませんよ」私はそんなことを思いながら、口を開いた。
「意味がわからないです」
「意味が分からないって、どういうこと?」
不思議そうに私の部屋で紅茶を飲んでいる八雲紫は、わざとらしく肩を竦めた。
「あと五日で殴り合いをする相手の元で、呑気に紅茶を飲めるその度胸が分からないって言ってるんです」
昨日、星熊と特訓の約束を取り付けた私は、集合場所である血の池地獄へと向かおうとしていた。ベッドに入ってもどうせ眠れないので、一晩中椅子に座り日記を読み返していたからか、酷く腰が痛む。
なぜ日記を読み返していたのか。八雲紫のことについて、少しでも多く情報を集めたかったからだ。全てにおいて彼女に劣る私ができることと言えば、それくらいしかなかった。そうしているうちに約束の時間が迫り、部屋を出ようとしていると、いつの間にか八雲紫が先ほどまで私が座っていた椅子へと腰かけていたのだ。驚きを通り越し、呆れた。
「私の知っていた八雲紫は、そこまで厚くなかったですよ」
「何が厚いのかしら?」
「面の皮ですよ」
「あら。鬼の腹とどっちが厚いと思う?」
「知りませんよ。鬼の腹なんて触れば殺されてしまいます」
そうかしら、と不敵にほほ笑んだ彼女は、でも、あなたも変わったわよ、と扇子を開いた。
「私の知っていたあなたは、そこまで冷めていなかったわ」
「冷める? 紅茶のことですか?」
「違うわよ。そういう馬鹿なところは変わっていないのだけれどね」
「なら、何が変わったというのですか」
「性格よ。以前だったら、勝手に紅茶を飲んで! って怒ったでしょ? 貴重な紅茶なのにって」
「そんなこと」
そんなこと、あっただろうか。私が紅茶に対して目くじらを立てたようなこと、あっただろうか。もう、思い出せなくなっていた。
「それに、美味しくないわ。これ」
「流石ですね。舌が肥えすぎですよ」
「そうじゃないわ。匂いが酷くて」
顔をしかめた彼女は、虫を振り払うように手を振った。匂いなど、特に感じない。私がいるだけで空気が悪くなる、と嫌味を言っているのだろうか。
「でも、どっちにしろ今は紅茶なんかじゃ怒らないですよ」
「あら。優しくなったのね」
「違いますよ。紅茶も水も私にとっては同じですから。色が違うだけで」
「色の違いってのも大事よ。コーヒーと泥水じゃ全然違うでしょ?」
「変わりませんよ」
「それなら」
ふふっと、面白そうにほほ笑んだ彼女は私をじっと見つめ、何やら呟き始める。もしかして、泥水とコーヒーを用意しているのだろうか。だが、それでも私にはその二つの区別をつけることはできないだろう。そもそも、コーヒーなんて、味が分かる頃から飲んでいない。泥水ならばいやという程飲んだことはあったが、おいしくはなかった。
目をふっと閉じ、苦い思い出を辿っていると、瞼の裏から明るい光が差し込んできた。いつもの薄暗い私の部屋なんかでは味わえないような感覚だ。味わいたくもないが。
恐る恐る目を開くと、景色が一変していた。先ほどまで私の部屋にいたはずなのに、まったく違う場所にいる。そこはどこか懐かしく、そして恋焦がれていた場所だった。
「どう? 驚いたでしょ。あなたがかつて住んでいた地上の景色よ」
したり顔の八雲紫をじっと見つめる。彼女が座っているのは、無駄に高級感ある椅子ではなく、ただの岩へと変わっていた。薄暗かったはずなのに、爛々と輝く太陽に照らされ、眩しいほどに明るい。青い空にはぽつぽつと白い雲が浮かび、緑の木々によく映えていた。
私は美しい地上の景色を見て、唖然としていた。地上のことなんてもう忘れたと思っていた。文字通り遠く離れた世界で、地獄よりもさらに奥にある世界。勝手に地上に出た伊吹萃香に嫉妬することもできないほどに、無縁なものだと思っていた。それを思い出すことは、ただの現実逃避だと、誰からも嫌われている現状から逃げたいだけだと、そう諦めていた。
だが、その地上が今ここにある。
「いいんですか?」
「え?」
「地底から伊吹萃香が出てきて騒ぎを起こしたばかりだというのに、私を地上へと連れてくるだなんて、そんなことしていいんですか?」
一瞬ぽかんと口を開けていた八雲紫だったが、すぐにクスクスと笑い始めた。大人びた彼女が、悪戯に成功したような無邪気な表情を見せると、何とも言えない艶めかしさを感じる。けれど、そんな笑われ方をされる理由が分からなかった。
「どうして笑ってるんですか?」
「いえ。まさかここが本当の地上だなんて勘違いをするとは思わなくて」
「え?」
「あなたを、地霊殿の主を地上になんか連れていけるわけないでしょ。これは見せかけよ。幻影みたいなものね。ここは正真正銘あなたの部屋だけれど、周りの景色だけ地上に変えたのよ。ほら、色が変わると結構違うものでしょ?」
得意げに話す八雲紫に背を向け、辺りをぐるりと見渡す。青い空も、流れる雲も、揺れる草も幻影とは思えないほどにリアルだ。だが確かに違和感は拭えない。まったく風が無いし、草むらの上に立っているにもかかわらず、感触は床と同じだ。
「昔を思い出すかしら?」
「ええ、そうですね」
「感謝してもいいわよ」
「するわけないでしょ。悪趣味だよ、本当に」
彼女がいったい何のつもりでこんなことをしたのかは分からない。だが、心底不愉快だった。手に入りようもない幸せを見せるだけ見せるだなんて、生殺しではないか。そして何より、地上での生活を幸せと感じてしまっている自分がいることが、何よりも耐え難かった。地上で、人間たちに怯えながら暮らしていたときのほうが、誰からも嫌われている地底より、マシに思ってしまっている事実に絶望した。勝手に期待をし、勝手に傷ついた生娘のような自分に腹が立って仕方がない。
「八雲紫、あなたは何もかも知っていると思っていましたが、一つだけ私の方が詳しいものがあることを思い出しましたよ」
「何かしら」
「心ですよ。心については、私の方が詳しいです」
「それ、笑うところかしら」
冗談でしょ、と八雲紫は、困ったような笑みを浮かべた。
「そんなに気に入らなかったの? これ」
「こんな見せかけのもの、何の意味もないですよ」
「そうかしら?」
「そうですよ。上辺だけどれだけ取り繕ったって、中身が伴わなきゃ意味がないんです。ほら、よく言うじゃないですか」
「言うって、なんて」
「人間は内側が一番大事だって」
へえ、と首を傾げた八雲紫は、パチンと音を立てて扇子を閉じた。その瞬間、景色がぐねぐねとぼやけ始め、段々と私の部屋へと戻っていく。青い空と緑の草木が消え、殺風景でだだっ広い部屋へと戻っていった。
驚いたのはその時だ。確かに部屋は戻ったはずなのに、まだ幻影が続いているのではないかとすら思った。それほどまでにこの状況は異常で、あり得ない。
どうして目の前に星熊の姿があるのだろうか。
「おいおい、人の顔を見てそんなに驚くなよ」
「なんで」
「さっきから挙動不審だったが、今の方がよりおかしいぞ、古明地」
「なんで勇儀さんがこんなところにいるんですか」
さっきからいただろうが、と不満げに鼻を鳴らした彼女は、八雲紫の姿を見てぎょっとしていた。振り返り、私も彼女の方を向く。ゲラゲラと彼女は品なく笑っていた。八雲紫らしくない。いったいどうしたというのだろうか。
「あなた、勇儀がそこにいたことに気づいていなかったのね」
「おかげさまで。あなたの悪劣な幻影のせいで、心も読めませんでしたよ」
「だとしても、感触で分かりそうなものなのに」
感触? いったい彼女は何を言っているのか。そう思い、前を見ると彼女が何を言いたいのか、やっと分かった。慌ててその場から飛び上がり、後退りする。
「八雲紫、一つ言いたいことがあります」
「何かしら」
「鬼の腹は、地霊殿の壁と同じくらいに分厚いです」
また笑いだした八雲紫を尻目に、自分の手を見つめる。先程まで触れていた星熊の腹のぬくもりが、まだ纏わり付いているような、そんな気がした。
「おいおい古明地。鬼との約束をすっぽ抜かすなんて、いい度胸をしてるじゃないか」
八雲紫の対面にどかりと腰を下ろした星熊は、机の上に足を投げ出し、言った。
「浮気にしては堂々としすぎだな」
二人も来客があるだなんて、いつ以来だろうか。嬉しくもないが、どこか懐かしかった。ヤマメが地霊殿にやってくると聞かされた日を思い出す。あの時はまだ、地底でも私の話を聞いてくれるぐらいの妖怪は少なくなかったかな。いや、そんなこともないか。
「にしても、酷い匂いだ」私を嫌そうに見た星熊は、先程の八雲紫と同じような仕草をした。
「部屋掃除したほうが良いぞ、古明地」
「そうですか? 匂いなんてしませんけど」
てっきり冗談を言っていると思ったが、どうやら違うようで、本心から彼女は気味悪がっていた。気持ち悪いとすら思っている。
「それに、どうしてお前の部屋に八雲紫が来ているんだ、古明地」
座っている二人をぼうっと見ていると、星熊が頭をかきながら訊いてきた。
「私を置いて八雲紫を呼ぶだなんて、随分と楽しそうじゃないか。まあ、絶対に妬きはしないがな」
「呼んでませんよ」たまらず否定する。
「勝手に来たんです。私が八雲紫なんて呼ぶわけないじゃないですか。ゴキブリみたいなものですよ。気がつけばどっかから湧いてくるんです」
「酷いわね、傷つくわ。せめてムカデならよかったのに」
「どう違うんですか」
およよと袖で目を拭き始めた八雲紫は、すぐにその泣き真似を止め、がばりと顔を上げた。
「ゴキブリなんて、無駄に生命力が高いだけの害虫でしょ? 嫌われて当然よ。でも、ムカデは違う。確かに害をなすこともあるし、気持ち悪いけれど、それでも他の害虫を食べたりするんだから。どうせ嫌われるなら、役に立つほうがいいじゃない?」
そう高らかに歌い上げるように言った彼女は、「まあ、私はムカデでもゴキブリでもなく、高貴な妖怪の賢者なのだけれど」と恥ずかしげもなく言い放った。やはり彼女の面の皮の厚さは凄まじい。
「そんな高貴な妖怪の賢者のあなたは、一体何しに地霊殿まで来たんですか?」
言外に、早く帰ってくれと仄めかしながら、私は言った。
「遊びに来たわけでもないでしょうに」
「あら? 遊びに来たらいけないのかしら」
「私だったら、嫌いな奴の家にわざわざ遊びに行きませんよ」
「おいおい。それは私に向けても同じことが言えるのかよ」
ガハハと笑いながら、星熊が背中を割と強めに叩いてくる。
「嫌いなやつの家にわざわざ来てやってんだ。感謝しろよな」
「ええ」
“本当に、感謝してほしいもんだ”
そう彼女は内心で毒づいていた。彼女自身、どうしてここに来たのか分かっていないのだろう。特訓をすると言ったくせに、中々姿を現さない私を呼びに来た。それは事実だ。鬼として約束を破られることに我慢ならなかった。それも事実だろう。だが、特訓をさぼった私なんて放っておいて、他の鬼と酒を飲もうと考えていたことも、また事実だった。それよりもこちらを優先した理由が、私にも彼女にも分かっていない。
ただ、それよりも八雲紫がここに来た理由のほうがよっぽど理解不能だった。
「私がここに来たのはね、説明しようと思ったからよ」
そんな私の疑問の糸を解きほぐすように、八雲紫はこちらをじっと見つめていた。
「あなたがもしかして決闘について勘違いをしているんじゃないか、って思ってね」
決闘? と首を傾げている星熊を置いて、八雲紫は続ける。
「聞いたわよ。あなた、次の決闘から逃げれば、地底と地上の戦争が起きると、そう思っているようね」
「違うんですか?」
「違わないわよ。伊吹萃香が地上で暴れたという事実は重いわ。当然、それによる責任もね」
「なら、何を勘違いしているんですか」
「単純よ」
あなたが単純と言った時に、単純だった例がないじゃないですか。そう言うも、彼女は聞く耳を持たなかった。
「あなたは、責任を取らなければ、決闘から逃げれば戦争が起きると思っているようだけれど」
「けれど?」
「それだけじゃないわ。決闘にあなたが負けたとしても、私は地底に攻め入るつもりよ」
「え?」
「当然でしょ。負けたら責任をとったことにはならないじゃない」
そんなことはない。大事なのは落とし前がついたかどうか、地底の妖怪が地上に迷惑をかけた落とし前がついたかどうかで、勝ち負けなんて関係ないじゃないか。そう聞こうとする前に、星熊が口を挟んだ。
「ちょっと待て。いったい何の話だ。なんで萃香が暴れた責任を古明地がとらなきゃならない。そんなもの、萃香に取らせればいいだろ」
「管理者だからですよ、勇儀さん」
ぎろりと鋭い目を向け、立ち上がった星熊に、噛み含めるように言った。
「私の仕事は地底の管理です。つまり、監獄の看守と同じようなものなんですよ。脱走者が出ないようにするのが私の仕事で、その仕事を全うできなかったら、責任が伴います」
「なんだよ。まるで私達が囚人みたいな言い草じゃないか」
「強ち間違っていないでしょう。違うところといえば、看守もその牢獄から抜け出せないくらいです」
しかも刑期は永遠だ。流石に牢獄よりかは居心地いいだろうが、それでも閉じ込められているという事実に変わりはない。それを苦痛ととるか幸福ととるかは個人の感受性によるが、少なくとも私と星熊は幸福ではなかった。
そんな幸福ではない私達に向かい、八雲紫はいかにも幸福そうな笑顔で微笑みかけてくる。
「牢獄とは言い得て妙ね。確かに地霊殿の主が責任を取る理由はそれだけで十分すぎるほどなのだけれど、他にも理由があるのよ」
「なんですか。面白そうとかだったらはっ倒しますよ」
「違うわよ、頼まれたの」
「誰に」
「伊吹萃香に。この責任は地霊殿の主が取ってくれるさってね」
「嘘でしょ」
思わず、驚愕の声をあげてしまう。あの伊吹萃香がそんなことを言うだろうか。いや、普通ならば言わない。むしろ逆だ。彼女ならば、文句をいうやつはかかってこい、と自分で解決したがるはずだ。
「ねえ、憐れな子羊の話、知っているかしら」
困惑している私を見て楽しそうに笑った八雲紫は、そんな事を言いだした。星熊がつまらなそうに鼻を鳴らしているが、彼女はお構いなしに話し始める。
「よく言うでしょ、スケープゴートって。あれってね、単なる生贄とかそういう話も多いのだけれど、もっといい話もあるのよ」
「ラム肉でも食べるんですか? 人里の食糧問題も解決できそうですね」
「違うわよ。ある日、一匹の狼が羊たちを襲うのだけれどね、その狼はこう言うのよ。“勇気ある羊が一匹現れれば、他の羊は助けてやる”ってね。それで、一匹の羊が狼の前に出て結局食べられてしまうの。けれど、他の羊は助かって、その羊のことを永遠に語り継いだって話。どう? 感動的でしょ」
「感動的なまでにつまらなかったですよ。なんですか、その陳腐な話は」
八雲紫らしくもないほどに子供騙しの話だ。
「結局、皆を助けようとした羊は助かってないじゃないですか。誰かを助けようとした子が犠牲になる話は嫌いなんです。それに、実際なら羊は全滅してます。ただ狼が甘かっただけですよ。物語の都合で、狼は甘くさせられていたんです。やるならば徹底的に。やらないならやらない。そうじゃなければ意味がありません。ただの物語でしかありえない仮初の感動なんて、薄ら寒いだけです」
「その通りね。そんな話、作り上げなければ実際には起きないわ。もし起きればそれこそ感動的なんでしょうけれど」
うっとりと語る八雲紫は、その胡散臭い雰囲気と、人形のような非現実的な美貌も相まって、そこだけ別の世界があるように感じた。私ではたどり着くことができない遥か遠い世界。ああ、なんて羨ましくて、そして汚らわしいのだろうか。
「過去へと、そして違う環境へと身を置きたがる時は、現状に満足していない時、ということをよく耳にしますよね。勇儀さん」
「いきなり何だよ、古明地」
「いえ。あなたが地上に戻りたい、と考えているみたいだったので、つい。でも地上を望んだところで意味はないですよ。実際に地上に出れば、地底が恋しくなると思います」
「おいお前!」
星熊が声を荒らげ、胸ぐらをつかんできた。が、すぐに顔を強張らせ、ゆっくりと降ろしてくる。悪かったな、とぼそっと呟いた彼女は、苛立ちをぶつけるように、その長い髪をがしがしと掻いている。
“地底が恋しくなるだなんて、そんなこと思ってもいないくせに” 彼女は内心でそう呟いていた。まさしくその通りだ。地底が恋しいだなんて、世迷い言にすらならない。
ため息を小さく吐く。部屋が静まり返っているからか、異様なほどに重苦しい息の音が耳に残った。頭が重いのは、決して眠気だけのせいではないだろう。それも全て、八雲紫のせいだと、信じたかった。
頭が痛いのだって、私が嫌われるのだって、地底にいるのだって、全部八雲紫のせい。そう思い込めたら、どれだけ楽だっただろうか。もちろん、八雲紫は悪くない。確かに面倒事を持ち込んでくるのは事実だが、それだけだ。キスメとヤマメ、お燐を始めとするペット、そして地底の住民に嫌われたのは、自業自得以外の何物でもない。
「なら、伝えることも伝えたし、そろそろ帰るとするわね」扇子を広げ、隙間を作った彼女は、ひらひらと手を振った。
「それでは、また決闘の日まで」
「もう会わないことを願っておきますよ」
「つれないわね。そんなんじゃ、嫌われるわよ」
「誰からも愛されるさとり妖怪なんて、逆に恐ろしいですよ」
「それもそうね」
それでは、と隙間の奥へと消えていった妖怪の賢者に背を向け、星熊の隣のソファへと腰を落とす。ただ立っていた星熊もぼすんと腰を落としてきた。彼女の重みでソファが軋み、クッションが悲鳴を上げている。
「相変わらずよく分かんないやつだな、八雲紫は」
「そうですね」
「本当にあいつと決闘すんのか?」
「そうですね」
「まあ、古明地だったら簡単には負けやしないだろ」
「そう、だといいですね」
勝てるわけがなかった。どうして八雲紫があんなことを、負けても地底に攻め込むなんていったのか、未だに分からない。私が彼女に勝てないことなんて、分かっているはずだ。地底と地上の戦争なんて、彼女自身も望んでいないのに、どうして。
「お前の背中に地底の運命が背負っているって思うと癪だな。本当に癪だ。代わりに私が戦いたいものだね」
「そうしてくれると助かりますよ。八雲紫が許せば、ですけど」
「だな。くそ。なんで萃香はこんな奴に喧嘩を譲り渡したんだよ」
喧嘩を譲り渡すだなんて、鬼しか使いそうにない言葉だ。そう思っていると、険しい顔をした星熊の腹から、ギュルルと小気味のいい音が響いた。眉間にシワを寄せ、恐ろしい顔をした彼女とその音の軽さがどこか滑稽で、間抜けだ。
「まったく、むしの居所が悪い」
「それ、腹の虫ですか?」
「馬鹿にすんなよ」
口調こそ厳しかったが、彼女は笑っていた。少し気恥ずかしそうに鼻をこすってさえいる。
“朝からお前を待ってたから、何も食ってねえんだよ”
誰に言い訳するでもなく、彼女はそう思っていた。ちらりと時計を見る。まだ十時にもなっていない。昼時とは到底呼べなかった。
それでも、星熊は空腹に耐えきれなかったらしく、私の許可無く勝手に部屋をあさり始めた。何か食べるものがないかと色々ひっくり返している。咎める気はなかったが、さすがに日記を読まれるのは御免だったので、さりげなく回収しておいた。
「お、あったぞ」
食器棚の下を覗いていた彼女は、意気揚々とこちらへ近づいてきた。そんなところに食べ物なんてなかったはずだが。
「一体何があったんですか? 皿ですか? 鬼が食べるのはかっぱの皿だけだと思ってましたよ」
「違う違う。やつがいたんだ」
「やつって、何ですか」
「八雲紫」
嬉しそうにはにかんだ彼女は、後ろ手に隠したそれを、思い切りこちらに突きつけてきた。
「ムカデだよムカデ。さっき、あいつ言ってただろ。私はムカデだって」
「言ってませんよ。流石に八雲紫に怒られます」
「大丈夫だって。あいつは何だかんだ言って懐が広い。それこそ、幻想郷ぐらいにな」
「狭くないですか、それ」
「地底よかましだろ」
もぞもぞと彼女の手の平で蠢く細長い虫を見る。くるりと体を丸めたその虫を潰せば、八雲紫に勝ったことにならないだろうか。そんな馬鹿げたことを考えていると、とあることに気がついた。
「勇儀さん、その虫なんですけど」
「このムカデがどうかしたか?」
「それ、多分ヤスデですよ」
「え?」
「ほら、ムカデより小さいし、色も薄いじゃないですか」
「なんだよ。こいつ八雲紫じゃないのかよ」
「ムカデも八雲紫じゃないですよ」
いつの間にか、彼女の手からヤスデは逃げ出し、どこかへ消え去っていた。昔であれば、お空あたりが食べてくれたのだが、最近ペットが来ていないせいで、虫が増えているように思える。
「なあ、なんでもいいから食べ物をくれよ」空腹に耐えられないのか、星熊は身を捩らせていた。
「腹が減りすぎて死にそうだ」
「分かりましたよ。少し待ってください」
鬼がこんなことで死ぬわけないじゃないか。そう思いつつも、ベッドの下から箱を取り出す。私がかつて貯めていた菓子類だ。あの日以来、私は手にしていないので、かなりの量が残っているはずだった。
「随分と優しいじゃないか。古明地らしくもない」
「八雲紫も言ってたじゃないですか。どうせ嫌われるのなら役に立ったほうが良いって。私もゴキブリよりもムカデが良いです」
「ゴキブリに失礼だぞ」
苦笑しながら腹をなでている星熊の前に箱を置く。彼女はつとめて嬉しそうな顔をしようとしていた。心を読むまでもなく、私に気を使っていることが分かる。腹が減っているのは事実のようだが、私と一緒に食事をとることで、少しでも元気づけようとしてくれているようだった。どうして嫌いな相手にここまでするのか。心を読んでもわからない。
安っぽい紙でできた箱をゆっくりと開く。開いて、驚いた。星熊も目をまんまるに見開いている。それもそうだ。その箱の中に入っていたのは、お菓子ではなかったからだ。
誰が入れたのかはすぐに分かった。でも、まさかこんな所に隠してあるなんて思わなかったのだ。どうして捨てていなかったのか、どうして紙袋にしまったのか分からない。きっと、私が部屋から出なかったので、捨てるタイミングを逃してしまったのだろう。いずれにせよ、狂っている。
もう一度、箱の中を見る。あの男の、八雲紫に誘われて地底に来た憐れな人間の内臓だ。今思えば、あの男も八雲紫が関わっているのだった。
「おいおい、なんでこんなものがあるんだよ」星熊は、驚いてこそいたが、私と違い、全く動揺していなかった。
「どうして人間の内臓なんかが、こんなところに」
「捌いたからですよ」
その箱の蓋を拾い、閉じる。酷く腐敗しているそれには夥しい数のハエがたかっていた。
「臭かったのはそれのせいか。はやく捨てちまえよ、そんなの」
「いえ、せめて、地上で埋めてあげましょう」
そうすれば、彼だって、次郎と名乗ったあの男だって報われるはずだ。だって。
「人間は内側がいちばん大切なんですから」
狂っていますよね、本当に。彼の内臓を紙箱にしまったのは他でも無いあなたですよ。