Komeiji's Diary《完結》   作:ptagoon

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第119期7月15日─流石にウジ虫はいいすぎですよ─

第119期7月15日

 

 よく、好きの反対は嫌いではなく、無関心であるという一説を耳にする。確かに間違ってはいない。好きと嫌いは紙一重という言葉からも分かるように、その存在に対する感情を記憶するだけでも、十分にその存在を意識しているといえるだろう。それが例え悪い印象だったとしても、些細な問題でしかないのだ。

 

 だが、嫌いと一言でいっても様々な種類があることを、忘れてはいけない。前述の嫌いは、あくまでも同立場であることが条件である。それは、部下と上司だとか、そういう意味での同立場ではない。例えば、人間同士であるとか、人間と鬼であるとか、種族的な意味での同立場だ。

 

 想像してみてもらいたい。もしも、あなたの部屋に蛆の大群が現れたとする。その時、あなたはどう思うだろうか。おそらく、強い嫌悪感を覚えるだろう。なぜなら、あなたは蛆が嫌いだから。でも、だからといって、あなたが蛆のことを好きになる可能性はない。紙一重では、決してない。だって、それは蛆なのだから。蛆という種族をあなたが嫌っているのだから。同立場では無いのだから。そして、その立場に私はいま、立たされているのだろう。

 

「でも、だからと言って、本当に蛆と同じ場所に立たせなくてもいいじゃないですか」

 

 私は鬼のような所業をする星熊に、大声で文句を言った。

 

 以前、流れてしまった星熊の訓練をしてもらうことになった私は、朝一番で血の池地獄へとやってきていた。本来特訓するはずだったあの日、八雲紫が来た日から暫く間が空いたことも相まって、もう特訓は行われないかと思っていたが、「前日くらい体を動かしたほうがいいだろ?」とわざわざ星熊の方から誘いに来た。

 

 遠出するのが面倒だった私は、できれば近場がいいと主張したものの、結局は血の池地獄に集合ということになった。星熊曰く「人がいる場所でやると迷惑になる」とのことだ。それは、喧嘩の訓練で迷惑をかけるという意味ではなく、私が来るということ自体が、大迷惑なのだ。確かにその通りではある。

 

 だから、血の池地獄で訓練を行うということに、もはや異存はなかった。だが、着いた瞬間に、いきなり蛆虫の輪の中へと担ぎ込まれるとは、想像もしていなかった。

 

 私を囲い込むように、白い、うねうねした芋虫が転がっている。体を伸縮させ、思い思いの方へと進んでいた。いつの間にか足にかけられていた縄を必死に引っ張る。ぴんと張ったそれは、完全に右足を固定していた。飛ぶことすらできない。

 

「なんだ。お前もウジ虫が嫌いなのか。意外だな」

 意気揚々と、星熊は笑った。

「嫌われ者も嫌うもんなのか」

「そんなことはいいですから、助けてくださいよ」

「お前が頼んだんじゃないか。訓練をしてくれって」

 

 訓練をするといわれ、まさか蛆虫の中に突っ込まれるなど、誰が思うのだろうか。

 

「いいか。今から私がお前に弾幕を放つ。それを避けろ」

「避けろって、右足動かせないじゃないですか」

「左足は自由だろ? それで十分だ」

 

 彼女には一度、十分という言葉の意味をきちんと調べてほしい。

 

「あと、避けるときにウジ虫、潰さないようにな」

「言われなくても、潰しませんよ」

「潰したら弾幕増やすからな」

「鬼ですか、あなたは」

「何を今更」

 

 地べたに座り、いくぞー、とのんびり叫んだ彼女の後ろに弾幕が現れる。その一つ一つが大きく、そして圧倒的な破壊力のものだった。私なんかが当たればひとたまりもないだろう。

 

 ただ、幸運なことにその弾幕のスピード自体は大したことなかった。ゆっくりと地面を撫でるように進んでくる。途中で曲げようとしているようだが、心を読めばそこまで脅威ではない。

 

 問題は、私の体がついてこられるかどうかだ。

 

 じりじりと近づいてくる弾幕は徐々にスペースを圧迫していった。星熊を見て、正しくは星熊の心を見てその弾の動きを予測し、体を寄せる。ロープを一杯に引っ張り、足元に注意しながら体を伸ばす。頭の中では完璧に避けられていたはずが、どうやら少しずれていたらしく髪の毛がじりりと嫌な音をたてた。

 

「おいおい、古明地らしくねえぞ。こんな準備運動でトチるなんて」

「私の知っている準備運動と違うんですけど」

「いいから次行くぞ」

 

 命がけの準備運動なんて考えたくもなかった。だが、自分から頼んだ以上そうも言っていられない。それに、八雲紫に勝つためには、このぐらいで音を上げては笑いものだ。

 

 次々くる弾幕の軌道を瞬時に読み取る。段々と視界を狭めてくる弾から身震いするほどの妖力が体を襲ってきた。それだけで気を失いそうだ。だが、その弾幕ばかりに気を取られていると足元の蛆を踏みそうになってしまう。こんな多数の虫の心を読むことなど不可能だ。サードアイだけ星熊に向け、顔は足元に向ける。なるほど。確かにこれは訓練になるかも知れない。そう思っていると、全身に強い衝撃が加わった。

 

 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。体が痛みで震え、脳が焼ききれそうなほどに痛い。

 気がつけば、いつの間にか空へと舞い上がっていた。コマ送りの画面を見ているかのように、世界がゆっくりと流れる。足と地面をつないでいたはずのロープは、いとも簡単に引き千切られていた。

 星熊が驚いているのが分かった。彼女の手には酒が握られている。なるほど、意識が酒に逸れ、弾幕の制御が不安定になったのか。心だけを頼りにし、肉眼で見ていなかったツケが来た。

 やっぱり、心なんて当てにならないな。遠のいていく意識の中、頭に浮かんだのは何故か嬉しそうに微笑むあの子の姿だった。

 

 

 

 目が覚めると、眼下には真っ赤な血が流れていた。

 ぼやけた頭ではそれが何なのか理解できず、ああ。私の体にはこんなに大量の血が流れていたのね、と見当違いのことを口走っていた。

 

「何いってんの、あんた」

 

 足元から声が聞こえた。真っ赤な血の中からだ。見知らぬ女性だ。どうしてそんな所にいるのだろう。ぬめぬめして気持ち悪いだろうに。そもそも煮えたぎった血の中にいて熱くないのだろうか。そこまで考えて、ようやく今置かれている現状に察しがついた。星熊の弾幕に当たった私は、吹き飛ばされ、血の池に落ちそうになっているのだ。慌てて宙を蹴り、浮遊する。

 

「いきなり落ちてきたかと思ったら、そこの岩に引っかかるんだもん。驚いたさ。しかも、地霊殿の主が」

 

 足元の池に浸かった女性が言ってくる。セーラー服を着た、水兵のような女性だ。当然のことながら人間ではない。幽霊だ。黒い髪は短く、幽霊特有の肌の白さは血によって際立てられていた。

 

「地霊殿の主が落ちてくるのが最近の地底のブームなんですよ」

「全身傷だらけで?」

「傷?」

「何があったか知らないけど、そこそこひどい怪我をしてるじゃないか」

 

 思い出したかのように全身に鋭い痛みが走り、その場に蹲ってしまう。近くに飛び出していた足場に身体を寄せた。どうやら骨は折れていないようだが、火傷と痣で皮膚の色がおかしくなっている。だがそれでも、手加減しているとはいえ星熊の弾を食らった割には軽症といえた。

 

「それで、地霊殿の主が何の用だよ。もしかして、私達を解放してくれるのか?」

「いえ。私にはそんな権限はありませんよ」

 

 ぎゃんぎゃんと喚いていた女性は、私がそう言った途端に分かりやすく消沈した。肩をこれでもかと落とし、「違うってよー」と誰かに呼びかけている。

 

「なんだよ、折角脱出できると思ったのに」

「期待したのですか?」

「ああ、そうだよ」

「次から期待なんてしないほうがいいですよ。一番傷つくのは、期待が裏切られたときなんですから。よく言うでしょ、上げてから落とすって」

「いわないよ」

 

 ふん、と鼻を鳴らした彼女は、自己紹介をしようと口を開いた。それを遮るように言葉を挟む。

 

「船幽霊。村紗水蜜さんですね。随分と長くここにいるようですが、多分永遠に脱出はできないですよ」

「え」

 

 なんで名前を、といいかけて彼女は押し黙った。むっとした顔を隠そうともしていない。

 

 “そうか心を読んだのか”

 

 彼女は驚き、困惑し、納得し、そして嫌悪した。いつも通りの反応だ。今更悲しみすら感じない。やっぱりね、という諦めだけだ。心を読まれてもいいと寛大な態度を示すやつなんて、この世の中にいるわけがなかった。もしそんな変人がいたならば、それはそれで関わり合いになりたくない。

 

「なら、何しにこんな地底の奥底まで来たんだよ。まさか暇つぶしとか言わないよな」

「こんなとこ、来たくて来たわけじゃないですよ。というか、血の池地獄に好んで落ちていく奴なんていません」

「分かんないじゃん。もしかしたらいるかもよ」

「いませんよ。そんな変人、きっと頭がおかしいやつです」

 

 異常な妖怪の見本市となっている地底ですら、誰も血の池地獄に飛び込む輩はいないのだ。それほどまでに、ここは忌避されている。私と同じくらいに、だ。

 

「というより、私のことを知っているんですか?」

「そりゃ、まあ。有名だしね。地霊殿の主とだけは関わらない方がいいって。というより、心を読めば分かるんじゃないの?」

「まあ、そうですね」

 

 うげぇ、と吐くふりをした彼女は、「助けてよ、一輪」と手を振っていた。“こんな奴と二人っきりだなんて”と嘆いている。本当に申し訳ない。だが、残念なことに身体がまだ自由に動かなかった。

 

 私から逃げようと血の池地獄でもがいていた彼女のすぐ横に、突然二匹の妖怪が現れた。まったく気が付かなかったが、どうやら血の池に潜っていたらしく、口から飲み込んだ血を吐き出している。昔見たスプラッター映画ですらもう少しマシな状況だった。

 

 そのうちの一人、水色の髪を前で二つに分けた女性が水蜜に向かいニヒヒと笑いかけた。尼のような格好をしているが、血まみれのため神々しさは感じられない。

 

「どうしたのさ、村紗。いきなり助けを求めるなんて珍しいじゃないか。まさか、地獄に落ちたわけでもあるまいし」

「知ってる? 地獄に落ちるよりもつらい状況があるのよ」

「え、なにそれは」

「さとり妖怪と二人きりにされること、ですか。なるほど。確かにそれは辛いことですね」

 

 水蜜に近づいたその二人はぎょっとしていた。驚きを隠そうともせず、こちらをまじまじと見ている。さとり妖怪と小さく呟いた妖怪たちの心には、明らかに後悔が浮かんでいた。

 

 その二人のうちの一人。雲のようにもこもことした入道が池から飛び出し、私の前に仁王立ちした。いかつく、そして荒々しい顔をした男の入道。一輪と呼ばれた入道使いの、使い魔ならぬ使い入道のようだ。極悪非道な地底の管理人から主を守ろうと、必死に威嚇している。

 

 だが、残念なことにそんな極悪非道なさとり妖怪である私は、威厳もひったくれもなく、ただ岩にもたれかかっているだけだった。

 

「えっと、何とお呼びしたらいいか分かりませんが、入道のおじさん。私はあなた方に危害を加えるつもりはありませんよ。もちろん、あなたの主の雲居一輪さんにも、その友人の水蜜さんにも」

 

 “信じられる訳がない” 

 

 彼の心はこの言葉で溢れていた。いったいどんな過酷な状況で生きてきたのだろう。きっと、誰も彼もを信じられないような、そんな苦境な時代に生きていたのね。そう思ったが、違った。単にさとり妖怪である私を信じていないだけのようだ。

 

 説得を諦め、岩にもたれる体重を大きくする。じわじわと広がっていく鈍い痛みから逃れるように身体をくねらせるも、一向に収まらない。この調子だと、明日の決闘までに治り切るか微妙なところだろうか。

 

「ひどい怪我じゃないか。いったい何があったんだい?」

 

 心配したわけではないだろうが、一輪が訊いてきた。ごまかしても良かったが、別に隠す理由もない。それに、いずれにせよ信じてもらえないのであれば、まだ正直に言った方がマシに思えた。

 

「準備運動をしていたら、こんな怪我をしてしまったんです」

「私の知っている準備運動はそこまで危険ではないはずだけど」水蜜は言い、一輪を庇うように前へと出た。怯えのせいで軽く体が震えているが、それを必死にごまかそうと虚勢を張っていた。滑稽だ。

 

「鬼流の準備運動なんですって。四天王の星熊に喧嘩の訓練をしてもらっていたのですが、やっぱ無謀でした」

 

 そういえば、星熊の姿が見えないと、その時にようやく気がついた。弾にあたり、血の池の方に落ちていった私を追ってきていない。その時の私は、きっと面倒になったのだろうと、嫌いなやつが準備運動で弾き飛ばされ、愛想が尽きたのだろう、とその程度にしか考えていなかった。

 

「喧嘩って、地霊殿の主がどうして喧嘩の訓練なんぞしてるのさ」

 

 少し考え事をしていると、一輪が嫌味たらしく言ってきた。彼女自身もそんな捻くれた言い方になると思っていなかったらしく、口に手を当て首を傾げている。本能的に嫌っているからだ、と私は思った。本能が口調を荒くしている。

 

「私が喧嘩の訓練をしている理由は簡単ですよ。明日決闘をするんです。誰と、ですか。ご存知かどうか分かりませんが、幻想郷の賢者とですよ。八雲紫です。ああ、知っていましたか。やはり彼女も有名なのですね。私と違い悪名ではなく善名でということが癪ですが。戦争をするのか? いえ、するつもりはないですよ。しないために戦うんです。意味がわからない、ですか。私もわかりませんよ。詳しくは八雲紫に聞いてください。簡単に言えば、地底と地上の戦争を防ぎたければ、私に決闘で勝て、と八雲紫は言っているんです。ほんと、彼女はいつだって私を苦しめる」

 

 薄気味悪そうにこちらを見つめる三人に気づき、口を止める。つい話し込んでしまった。悪い癖だ。最近はどうも自分の口が悪い気がする。気のせいだと片付けたかったが、もやもやとした心残りが胸に漂い続けていた。

 

「その話が嘘か本当かわからないけど」

 恐る恐る水蜜は言った。本当、の部分だけ妙に早口だったことは気にしないことにする。

「もし八雲紫と決闘するんなら、血の池地獄でしたほうがいい」

「なんでですか?」

「流れ弾が来てもそこまで迷惑にはならないし、何かの拍子に私達が脱出できるかも知れない」

 

 それに、と続ける彼女の顔は、どこか楽しそうだった。一輪が怪訝そうに水蜜の顔を見ている。それは、私の目の前にいる入道のおじさん、そして私自身も例外ではなかった。心を読んでいるにもかかわらず、彼女が本当にそれを口にするのか、と疑ってすらいた。

 

「それに、ここで戦ってくれるなら、私達が何か手助けしてあげるよ」

 

 当然、それは善意によるものではなかった。地底と地上が戦争になれば、自分たちはひとたまりもない、という思いが根底にあるのは確かだ。だが、それでも。それでも私を手助けするだなんて口にするとは。信じられない。

 

「あなた、正気ですか?」声をだすだけで肺が押しつぶされるように痛かったが、それでも聞かずにはいられなかった。

「私と関わり合いにならないほうがいいって、さっき自分で言ってましたよね」

「言ったね。そして関わり合いにならないほうがいい理由もわかったよ。嫌というほどね」

「なら」

「でも、私はとある人の弟子なんだよ。とある聖人のね」

 

 せいじん。聞き慣れないその言葉に戸惑うも、そんな私を置き去りにして、彼女たちは話題に花を咲かせていった。

 

「いくら聖だからって、さとり妖怪は匿ったりしないさ」一輪が水蜜に向かい、肩をすくめている。その手下である入道のおじさんも同じような動きをしていた。だが、彼女たち自身も、その言葉とは裏腹に“聖ならやりかねない”と内心で苦笑していた。ふざけないでほしい。

 

「その聖という方がどんな人なのか分かりませんが、私に心を開くなんて不可能ですよ。ありえないです」

「そのありえないことをしでかしそうなんだよ、聖様なら」水蜜が眉を伸ばす。

「無理です。絶対に。それこそ、血の池地獄に飛び込むような輩がいないように、私を好む輩もいないんです」

「なんでそこまで言い切れるんだよ」

 

 なんでそこまで言い切れるのか。そんなの考えるまでもなかった。

 

「私を誰だと思っているんですか。誰からも疎まれ、嫌悪され、そして蔑まれる地霊殿の主ですよ。嫌われる才能があるんです。私を好いてくれる存在なんてないんです。皆無ですよ。何もしなくても、どんな善行をしたとしても私は嫌われるんです。報われないんですよ。相手のことをどんなに考えたところで、地底のために何をしたところで誰もが私を遠ざける。蛆虫と同じなんですよ。どんな蛆虫がどんなにいいことをしても、所詮は気持ち悪い芋虫に変わりないんです」

「ウジ虫がいいことをするとは思えないんだけど」

「私はあなた達が羨ましいですよ。たとえ何年地底の奥底に、血の池地獄に封印されたところで、そうして心から信用できる仲間がいることがどれだけ幸せなことか。私はそんなもの絶対手に入りませんからね。絶対にです。あれだけ私を頼っていたペットはもはや姿すら見せてはくれない。地底を歩けば耳を覆いたくなるような罵詈雑言が全身を包み込む。一見仲良く接してくれる星熊ですら節々に嫌悪感が溢れているんですよ。そんな私を易易と受け入れるだなんて、冗談にしても面白くない。ふざけるな。世の中は想像以上に私に冷たい。あなた方がどんなつらい思いをしたかは知らないよ。知りたくもない。けどね。一度でいいから馬糞を頭からぶちまけられてみるといい。私の気持ちが少しでも分かるから。少しだけだけどね。いったい私が何をしたのかな。地底のために尽くし、地上との均衡を保とうとしていただけなのに、どうしてそんな私がこんな目に合わなくちゃいけないのか。憎くて憎くて仕方がない。私の犠牲の上で成り立っているこの地底が憎い。私の努力をドブに捨てようとしている八雲紫が憎い。ケンカばかりしてのうのうと生きている鬼たちが憎い。何も知らずに仲良く竪穴の管理をしている土蜘蛛と釣瓶落としが憎い。そして」

 

 そこで私は息を止めた。これ以上口にしてしまえば、自分の大事な何かが壊れてしまうような気がした。今までの自分の努力を、守ってきたものを自分で潰そうとしている。だが、そう分かっているにもかかわらず、口は止まらない。

 

「そして、同じさとり妖怪でありながら、ペットからも、そして地底の連中からも好かれているあの子が」

 

 どぼん、と威勢のいい音がしたのは、その時だ。大きな魚が水面を大きく叩いたかのような音がし、跳ね上がった血が雨のように降り注ぐ。誰かが血の池地獄に飛び込んだ。そう分かったのは、目の前の三匹の妖怪の姿が消え去っていると気がついた時だった。いつからいなくなっていたのか。もしかして、最初からいなかったのではないか。今まで見ていたのは私の心が生み出した幻影か何かではないか。そう思うほどに、影も形も消えていた。

 

「おい古明地。せっかく特訓をしてやってるってのに、逃げ出すんじゃねえよ」

 

 唖然としていると、血の池から勢いよく星熊が飛び出してきた。私のすぐ側に降り立ち、犬のように身体を振るわせ、血を落としている。少なくない量の血の水滴が身体にかかっり、焼けるような痛みに襲われるが、大して気にならなかった。むしろ、それにより頭が冷えていく。先程まで、どうしてあんなに酷いことを口走ってしまったのか、と後悔するほどには冷静になれた。

 

「ありがとうございます。勇儀さん」

「なんだよ気持ち悪いな」

「後少しで、取り返しがつかなくなるところでした」

 

 首を傾げた星熊は、いててと顔をしかめ、血に浸かった肌を撫でていた。薄黒く変色したそれは、煙を立てじゅくじゅくと膿んでいる。鬼の肌ですらこうなるのだ。私が入ったらどうなるか。想像するだけでぞっとする。

 

「勇儀さん。さっき血の池に飛び込んでましたけど、もっと長時間血の池の中に入っていられますか?」

「長時間って、どんくらいだよ」

「さあ。何百年か、千何年か」

「年? おいおい冗談だろ?」

 

 彼女が笑う度にポタポタと血が垂れ、岩を溶かしている。血の池地獄の血はどうやら普通ではないようだ。

 

「こんなとこ、一時間も浸かってられねえよ」

「鬼の四天王の勇儀さんですら、ですか」

「まあ、我慢すればいけるかもしれんがな」

「あなたが我慢すれば、多分何でもできますよ」

 

 言いながら、私は戦慄していた。先ほど、確かに水蜜と一輪、そして入道のおじさんはこの池にいたはずだ。彼女たちはどうしてああも平気そうだったのだろうか。やはり、私の生み出した幻影なのか。水蜜の、「何か手助けしてあげるよ」という言葉が頭に響く。あれも、本当は言われなかったのではないか。

 

「いやあ、驚いたなあ」

 

 そんなことを考えていると、血の池からひょこりと誰かが顔を出した。勇儀が珍しく甲高い悲鳴を上げ、驚いている。

 

「水蜜。やっぱいたんですね。幻影かと思いましたよ」

「幻影じゃなくて幽霊だ」

 

 一輪と入道のおじさんは姿を見せなかった。まだ血の池に潜っているのか、それともどこかに行ってしまったのか。

 

「なあお前。なんで血の池に嵌ってへらへらできんだよ」

 

 星熊の声は荒々しかった。怒気を孕むというよりは、興奮を抑えられず、つい口に出てしまったようだ。

 

「さっき飛び込んだけど、この私ですら久しぶりに痛みを感じたんだ。そんなとこに平然といられるなんて、只者じゃねえな。な、そうだろ。なら喧嘩しようぜ」

「ええ。いきなり喧嘩はない。鬼って怖いな。それに、私はただの船幽霊だよ。大した力はない」

「なら、なんでそんなとこで涼しい顔をしてられるんだよ」

「慣れ、かな」

「慣れ?」

 

 私の肩を掴み、やや強引に立ち上がらせた星熊は、そのままゆっくりと浮遊し始めた。そんな私達に声を届かせるためか、水蜜が声を荒らげている。どうして話している途中にどこかにいくのか、と疑問に思っているようだが、それより、私がここからいなくなることに安堵しているようだった。

 

「人間二度やれば慣れるというけど、幽霊は百年くらいでこの池に慣れたよ。やっぱ、どんな辛いことでもいつかは慣れるんだ」

「血の池に慣れるなんて御免だな!」

 

 星熊の大声が耳を貫く。真っ赤な水面はもはや遠くになり、水蜜の姿は店のように小さくなっている。だが、それでもこの声の大きさであれば届いただろうと確信できるほどの大声だった。

 

「いや、まったく酷い目に遭ったな。それもこれも、お前が血の池に落ちそうになるからだ」

「すみません」

「まあ、責めはしないさ」

 

 まいったな、と星熊は右手で髪を撫で、左手で腰を掻いた。つまりは、私を支えていた手をいきなり離した。

 

 あまりに自然に、そして突然だったため、私はなすすべなく落ちていった。身体が風を切り裂き、くるくると回転しながら真っ逆さまに落ちていく。

 

「おっと、何落ちてんだよ。子供じゃあるまいし」

 

 がしりと背中から太い腕が回される。近づいていた血の池が止まり、腹に少なくない衝撃が走る。嗚咽が漏れ、胃液がこみ上げてきた。

 

「おい、大丈夫か?」

「大丈夫じゃないですよ。もっと優しく受け止めてください」

「まさか手を離したぐらいで落ちていくなんて思わないじゃないか。飛べよ」

 

 深呼吸をし、息を整える。気を抜けば意識を失ってしまいそうだ。

 

「勇儀さん、この世で一番残酷なことって、なんだか知っていますか?」

「さあな。心を読むことじゃないか?」

「上げて落とすことですよ」

 

 先程よりも速い速度で血の池が遠ざかっていく。火傷の傷に風が当たり痛むが、唇を噛みしめ、こらえる。

 

「考えてみてください。血の池に落ちそうになっている時に、やっと助けられたと思ったら、急に落とされたんですよ。酷くないですか」

「酷くない」

「上げれば上げるほど、落ちた時の衝撃が強くなるんです。だったら最初から落ちていたほうが良かったと思うほどに、辛いですよ」

「なら、飛び込むか?」

「すみません冗談です」

 

 ふっと、星熊の心が緩んだ。絞られていた眉がほどけ、温かい笑みが浮かぶ。本心からの笑みだ。どうして彼女がそんな笑みを見せたのか、分からなかった。

 

「古明地、さっき一瞬だけだけど」

「なんですか」一応疑問形で聞いたものの、彼女が何を口にしようとしているのかは読めていた。だが、理解はできていない。

「お前、昔みたいだったよ。最近なんだか変だけど、さっきだけは違った」

 

 “まあ、元々変だったけどな”

 

 気がつけば、先ほど特訓をしていた場所まで来ていた。頭の中で、星熊の言葉を繰り返す。私は変わったのだろうか。変わってしまったのだろうか。自分では心当たりがなかった。

 

 星熊の顔を見ようと振り返る。それより早く、ぼすん、と体が跳ねた。目の前が土煙で覆われ、身体に妙な感覚が走る。地面に投げつけられたということはわかったが、右足に引きつった感覚が走った。嫌な予感がする。

 

「お前が準備運動に手こずったせいで、特訓の時間が減っちまった」

「え」

「さあ、続きだぞ古明地」

 

 目の前を覆っていた薄黄色の煙が晴れていく。反射的に立ち上がっていた。すぐにその場を去ろうともがくも、いつの間にか右足が地面にくくりつけられていた。今度はロープではなく、鎖で繋がれている。

 ゆっくりと、白い、うねうねとした細い芋虫が近づいてきていた。ステップするようにして必死に躱す。なんで、と思わず嘆いていた。なんでさっきと同じように、蛆虫の中央で右足を固定されているのか。

 

「準備運動は終わりだ。今度は本番だぞ。私が殴りかかるから、避けてみろ」困惑している私を他所に、星熊は大声で言ってきた。

「え、ちょ。私はさっきので怪我をしてしまったんです。もう動けませんよ」

「かすり傷じゃねえか」

「星熊なら、骨折してもかすり傷とか言いそうですね」

「骨折はかすり傷だろ?」

 

 そんな訳無い、と反論する元気すらない。

 

「それより、やっぱ蛆虫に囲まれるのはきついですよ。別の特訓にしてください」

「大丈夫だ」

「大丈夫じゃないから言ってるんです」

「大丈夫だ」

 

 似合わないウインクをした星熊は、一直線にこちらに向かってきた。痛む身体を強引に動かし、避けようとする。本気になれば彼女は私を木っ端微塵にできたはずだが、流石に手加減しているのか、頭上を彼女の巨体が過ぎ去っていった。

 

「さっきの幽霊も言ってただろ」

「言ってたって、なんて」

「どんな辛いことでも、いつか慣れるってな」

 

 結局、この後、私は気を失うまで特訓をする羽目になった。明日の八雲紫との決闘に勝てるようになったとは思えないが、やることはやった。そう思っていないとやってられない。

 

 今、私は結局ひとりで日記を書いている。あの子の姿もない。孤独だ。真っ黒な孤独。ふと、水蜜の言葉を思い出した。私を匿う奴がいるかもしれない、という言葉だ。そんな奴はいない。だが、そんなこと分かっている今も、私は心の何処かで期待しているのかもしれない。星熊のような、血の池地獄に飛び込む輩がいるのなら、そんな変人がいてもおかしくないのではないか、とそう考えてしまっていた。馬鹿らしい。そんなこと、ある分けがないのに。期待をすればするほど、辛いのは自分だと知っているのに。

 

 ただ、一つ言えることとすれば、こうして孤独の時間を過ごしている時間は、どれだけ長いこと過ごしていても、決して慣れることはないということだけだ。

 

 館の何処かで聞こえる、ペットとあの子の楽しそうな声を邪魔しないように、私はひっそりと味のしない団子を頬張った。

 

 それでは、明日はいい日でありますように。なんてね。

 




慣れ、ですか。地霊殿の主に慣れることができる妖怪なんて、多分誰もいないですよ

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