Komeiji's Diary《完結》   作:ptagoon

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第119期7月16日─耳が痛いですね─

第119期7月16日

 

 ひとり孤独に日記を書く。いつものように、いつも通りに静まり返った自室で筆を進める。何もおかしいこともなければ、間違ったこともしていない。そもそも、日記というものは一人で書くものであるから、大勢の前で書いたりなんかはしない。

 

 そんなことは分かっていた。だが、どうして私は今こんな気持ちになっているのだろうか。きっと、分かっていなかったからだ。私も、八雲紫も、そしてあの子も分かっていなかったのだ。何を。心をだ。心を分かっていなかった。

 

 だが、それもこうして私が日記を書けている事実に比べれば、些細な問題だろう。今日は八雲紫との決闘の日だった。その決闘が終わったいまも、こうして日記を書けているということは、無事に生き残れたということだ。

 

 日記が生存証明になる。まさにこんなことを今日言われた。それは他でもない、八雲紫の言葉だった。

 

「日記っていうのは、生存証明になるのよ」

 

 例に漏れず、勝手に私の部屋に忍び込んだ八雲紫は、いつの間にか私の日記を机に広げていた。隠していたはずなのに、どうやって探し出したのだろうか。そもそも、人の日記を勝手に読むことは、幻想郷の賢者としてはどうなのか。言いたいことはたくさんあった。だが、とりあえず、言わなければならないことは、そんなことではない。

 

「八雲紫、どうしてあなたが私の部屋で寛いでいるんですか」

「どうしたの、急に。いつもそうじゃない」

「言い方を変えましょう。どうして今日殺し合いをする相手の本拠地で呑気に相手の日記を読んだりしているんですか」

 

 ばさり、と音がした。八雲紫が私に日記を投げてきた音だ。手をのばすことも億劫で、そのまま日記が足元に落ちていくのをただ呆然と見る。開いていたページが皺になり、折れ曲がっていた。

 

「日記っていうのは、生存証明になるのよ」

 

 もう一度、今度はゆっくり噛み含めるように言った八雲紫は、珍しく真剣な顔つきで私に目配せしてきた。何だかんだいいつつ、今日の決闘に感じるものがあるのかと思ったが、どうやら違うようで、私の足元の日記を見つめている。

 

「たとえ、誰かが死んでしまったとしても、残された日記を読めば、いつまで生きていたか分かるでしょ。いわば、隠された遺書みたいなものね。そこに残された言葉を糧に、その日記を読んだ人は故人の想いを汲み取ることができる」

「だから何ですか」

「つまり、日記を書いているうちは生きているってことをいいたいのよ。だから、あなたはまだ生きている。死んでいない」

「何を言っているのかさっぱりです」

 

 深く追求しようとも思ったが、八雲紫の言葉が分からないことはいつものことだったので、やめた。彼女もこれ以上話す気は無いようで、すぐにその硬い表情を、いつもの胡散臭いものに変えている。

 

「それより、はやく行きましょうよ」扇子を取り出し、ソファに深々と腰を落とした八雲紫が苛立しく、口調が強くなってしまう。

「早く、下らない決闘をしましょう」

 

 八雲紫は返事をしなかった。ただ面倒そうに目を細めているだけだ。これから殺し合いをするというのに、随分と呑気ではないか。きっと、私には負けることがないと高を括っているに違いない。だが、それは正しかった。私は八雲紫にどう足掻いても勝つことはできない。

 

 だが、地底を差し出すような気もさらさらなかった。

 

「戯言はいいですから、早く行きましょうよ。面倒なことは手早く終わらせたいんです」

「あなたの妖生が手早く終わってしまうのかも知れないのよ? もう少し落ち着きなさい」

「早く終わらせたいんです。場所は血の池地獄にしましょう。あそこなら、誰もいません」

 

 話を聞きなさいよ、とぶっきらぼうに笑った彼女は、すぱり、と扇子を振った。もはや見慣れてしまったスキマが開く。薄気味悪く、気持ちも悪いが、ただそれだけだ。

 

「さっきの日記に、血の池地獄に行けば船幽霊があなたを助けるって書いてあったのだけれど」

 

 ニヤニヤと笑いながら、彼女は私に顔を寄せてきた。吐息が肌にかかり、鬱陶しい。一対一の決闘に誰かを巻き込むことを非難しているのだろう。ただ、そこに何の問題もなかった。

 

「冷静に考えてください。私はさとり妖怪で、地霊殿の主なんですよ。そんな私を助けようだなんて、本気で言っているわけないじゃないですか」

「そんなことわからないじゃない」

「分かりますよ。私を救おうだなんて思ってる輩は、誰もいないんです」

「いるんじゃないかしら? 私はあなたを助けようと思っているのだけど」

「なら、決闘で私が負けたら地底を攻めるっていうあれ。取り消してください」

「いやよ」

 

 満面の笑みを見せた彼女は、い、や、よ、と耳元ではっきりと言い直してきた。意地が悪いというか、面倒くさいというか。

 

「だって、ああでも言わないとあなたが本気で戦わないかもしれないじゃない」

「私が本気を出したところで大差ないでしょう。亀は全力で走っても遅いんです」

「分かってないわね。頑張ることに意味があるのよ」

「あなたらしくもない綺麗事ですね。反吐が出る」

「少なくとも、頑張る姿は人を感動させるわ。分からないのかしら?」

「分かってないのはあなたですよ」

 

 そう。八雲紫は分かっていなかった。何もかも分かっていない。私がこの決闘に負けたら、八雲紫を始めとする地上の戦力が地底に攻め込む。たかがそんなことで、どうして私が本気を出すと思ったのか。こんな憎い地底のために、私を拒絶する薄暗い世界のために、私が頑張る理由なんて無い。そう思っていた。

 

 だが、今思えば、八雲紫が分かっていなかったのは、そんなことではなかった。もっと重大なことを彼女は勘違いしていたのだ。

 

「まあいいわ。そろそろ準備もできただろうしね」

 

 スキマに身体を半分入れた彼女の声は、少しくぐもっていた。彼女の後を追い、スキマへと近づく。

 

「準備って、なんのですか」

「さあ、心の準備じゃない? あなたの」

 

 そんなもの、とうの昔からできているに違いなかった。

 

 

 

 

 八雲紫のスキマを抜けた先には、もはや見慣れてしまった血の池地獄が広がっていた。錆びているからか、こげ茶色が強い岩盤が広がり、奥には大きな溝がある。その溝の底に例の血の池があった。昨日、私が落ちかけた池だ。星熊の弾幕による怪我はまだ完治していない。体を動かす度に鈍い痛みが走るが、まだ身体が動くだけマシといえた。

 

「なら、私がはじめ、と言ったら始めましょうか。本気の決闘を」

 

 その溝から少し離れた場所に立った八雲紫が、いやに響く声で言ってきた。

 

「西部劇の見すぎじゃないですか?」

「いいのよ。不意打ちで終わったらつまらないでしょ?」

 

 確かに、心を読めない八雲紫の不意打ちを避けることはできない。ありがたくその妙に演出がかったルールに則ることにした。昨日、星熊が置いていったものだろうか、地面に置かれている鎖へと近づく。私の右足を固定していたものだ。あれほど乱暴に扱ったのに、傷一つ無かった。蛆虫の姿はもうなくなっている。その鎖を持とうとしたものの、それより前に早口で八雲紫が口を挟んだ。

 

「さっそくだけど、決闘の勝利条件を伝えるわね」

「え?」

「ほら、そういうのがあったほうが面白いじゃない」

 

 いきなりそう言ってきた彼女を訝しんでいると、足元に一瞬、スキマが開いたのがわかった。先ほどまであった鎖がすっかりと消え去っている。そこを足で踏み潰すように強く蹴るも、ただ、ざらざらとした砂の感触があるだけだった。鎖なんて、影も形もなくなっている。見間違えたのだろうか。きっと、ストレスと極度の緊張のせいで、無いものが見えてしまったのだろう。

 

「そうねえ。こういうのはどう? 相手が死ぬか、降参といえば負け。うん。中々いいんじゃないかしら?」

「本当にそれでいいんですか?」

「もちろんよ」

 

 どうして彼女がそんな条件を出してくるのか、きっと何かしら考えがあるに違いない。

 

「なら、早速始めましょうか。準備はいい?」

「準備ならとっくに出来ていました」

 

 私の言葉が聞こえていないのか、仰々しく扇子を振った彼女は、きりりと眉を引きつらせた。

 

「これより八雲紫の名によって、地上と地底による決闘を始める」

「なんですか、そのかしこまった言い方は」

「これは地底の存在に関わる重大な決闘であり、運命を決する戦いである。いざ、静粛に代表同士での一騎打ちを。それでは」

 

 はじめ。

 

 彼女がそういうよりも早く、私はその場から大きく跳躍した。足元で爆音が鳴り響き、衝撃波で身体が揺さぶられ、平衡感覚を失いそうになる。

 

 宣言と共に、八雲紫がいきなり弾幕を放ってきた。予想してたとはいえ、本当にやってくるとは。どうやら手加減してくれる気はないらしい。

 

 不安定な体勢のまま、飛んでくる弾幕に目を向けず闇雲に体を動かす。身体のすれすれを凄まじい破壊力の光弾が音速で駆け抜けていった。近くの岩場に当たり、破片が身体を切り刻む。鋭い痛みに意識が奪われそうになるが、必死に体を動かし続けた。

 

 予想通りだ。やはり、彼女は追尾性の弾幕を放ってきた。これならば、袋小路にならないように、動き続ければなんとかなる。ただ、こんな馬鹿みたいな作戦はすぐに彼女にばれてしまうだろう。なら、相手は何をしてくるか。考えろ。考えなければ。心が読めない分、考えるんだ。

 

 弾幕の暴発により、大きめの岩が真上から降ってきた。急いで岩の裏に隠れ、それを盾にするように重力に従い落ちていく。その瞬間、顔のすぐ上で大きな爆発が起こった。爆風に身を煽られ、地面に叩きつけられる。バウンドしてさらに岩に顔面を強打した。

 

「あら。直撃しないとは予想外ね」

 

 目がまわり、視界が血で覆い尽くされる中、必死に私は立ち上がった。範囲攻撃。ちょろちょろと避ける私を潰すにはそれが手っ取り早い。現に彼女は、今もふらふらとよろめいている私に、同じ大規模な爆発する弾を放とうとしている。慌てて横に飛び込むも、逃げ切れず、右足が巻き込まれる。

 

 地面を転がり、そのまま血の池付近の溝近くまで身体が吹き飛ばされた。右足を見る。赤く、そしていびつな形になったそれからは、血と体液が吹き出していた。

 

「右足、骨が折れちゃってるんじゃない? もう降参したらどうかしら?」

「知ってますか。骨折はかすり傷なんですよ」

 

 何を言っているのかしら、と不敵な笑みを浮かべたまま、追撃の弾幕を放ってきた彼女を睨み、跳ぶように身体を投げ出す。右足を怪我した状態で避けられるはずもなく、身体に燃えるような痛みが広がった。思わず、声が漏れる。自分の声だと認識できないほどに悲痛な声だ。

 

 痛みで気を失いそうになり、遠のいていく意識が痛みで呼び起こされる。目の前がチカチカと点滅し、身体が言うことを聞かない。その場でごろごろと転がり、痙攣するように全身が細かく震える。血を吐いていたのか、口元は濡れていた。

 

「案外早く決着がつきそうね」

 

 こちらに近づいてくる八雲紫の足が見えた。右手をつき、身体を起こそうとするも、その肝心の右手が直角にネジ曲がっていて、支えにならない。裂けた肉の隙間から骨が覗いていた。

 

「流石にもう動くことはできないでしょ。後は降参するか、死ぬかのどちらかよ」

 

 右手が駄目なら左手をつけばいい。そう思ったが、左腕の感触がなかった。目をやると、血の気を失い真っ青になった腕がぷらぷらと揺れている。なら。足はどうか。目を下に向けると、足より早く、腹の異常に気がついた。あるはずだった皮膚がただれ落ち、肋が突き破っている。どうして生きているのか不思議なくらいだ。

 

「ほら、降参するなら早くいいなさい。じゃないと、殺すわよ」

 

 声を出そうと口を開くも、激痛が走り、こひゅと肺の隙間から空気が漏れる音しか出ない。耐えられない痛みが走り、またもや私はその場で痙攣した。涙と血で顔がぐしゃぐしゃになっている。

 

 やはり、八雲紫には勝てなかった。分かっていたことなのに、心に絶望が満ちていく。このまま私が負ければ、降参をすれば、地底と地上は闘いを始める。別にいいのではないか。むしろ、地底がむちゃくちゃになった方が、私の気も晴れるのではないか。

 

 

「わた、しは」

 

 恐怖と痛みで押しつぶされそうになった時、ようやく言葉が口から出た。小さく、そして血が泡立つせいでくぐもっていたが、それでも八雲紫に向かい言葉を続ける。

 

「わたしは、こうさん」

「あら。降参するのかしら?」

「こうさんなんて、しません」

 

 べっちょりと顔を覆う液体を服の袖で拭う。唇は震え、気を抜けば大声で泣き出しそうだった。折れた右足を強引に地面につけ、立ち上がる。たまらず悲鳴がこぼれた。だが、こんなもの。

 

「こんなもの、普段受けてる心の傷に比べたら大したことありませんよ」

 

 頭はぼやけていた。極度の恐怖と緊張で思考が定まらない。激しい痛みに身体がついてこないのか、その場で嘔吐してしまう。吐瀉物に混じり血が足元を濡らし、びしゃびしゃと嫌な音を立てた。

 

「八雲紫、一つお願いがあるんですが」

「お願い?」

「私を拷問するなり、晒し者なりにしていいので、地底を許してはくれないでしょうか」

 

 流石にこの状況から八雲紫に勝つことは難しい。不可能ではないかもしれないが、困難だろう。なら、私のすべきことは一つだ。

 

「そもそも、この決闘は地底の妖怪が地上で暴れた責任をとるためのものだったはずです。なら、地上の連中が満足すれば、納得すればそれでいい。そうですよね」

「まあ。そうだけれど」

「ただ私が死ぬだけでは、決闘に負けるだけで満足できないのなら、満足できるように殺してくれていい。手の先からみじん切りにしていっても、ミキサーにかけても、炎で焼いてもいい。それで地上の連中は納得するなら、地底と地上の戦争を防げるなら、それで手を打ちませんか?」

「あなたはいいのかしら?」

 

 一瞬、八雲紫の言っている意味がわからず、うろたえる。

 

「それだと、あなたの命は失われてしまうのよ。それでもいいの?」

「どうせ死にそうですしね。それに、私は合理的なんです」

「合理的?」

「要らないものをあげて、必要なものを得る。合理的でしょ?」

 

 そうだ。地底にとって、今の平和は何よりも大切なものなのだ。それに、地底にとって私の命なんて、要らないもの以外の何物でもなかった。

 

「たしかに理に叶っているわね」

「なら」

「でも、駄目よ」

 

 背中に燃えるような熱さが走った。呻き、悶えることしかできない。八雲紫が何かをしたということはわかったが、それだけだった。

 

「何回も言わせないで。地底を救う方法は、私に勝つこと、ただそれだけ」

 

 無意識に歯ぎしりをしていた。ぬめりとした血のせいで奥歯が滑る。力を振り絞り立ち上がる。膝は真っ二つに割れ、じゅくじゅくと黄色い液体が溢れ出ていた。だが、無視して強引に身体を起こした。そのまま八雲紫の前へと立ちはだかる。

 

「なら、こんなところで寝てるわけにはいきませんね」

「もう降参したらどう?」

「いや、まだです」

 

 闇雲に、力を振り絞り八雲紫に向かい殴りかかる。型もへったくれもなく、もつれる足を引きずるようにして八雲紫へと突進していく。

 

 殴られた。頬に鈍い痛みが走り、またもや地面に崩れ落ちる。歯で口の中を切ったからか、それとも元々の傷のせいか、口内に血が溜まっていった。吐き出すと、血とともに白い歯の欠片も飛び出す。

 

 それでも私は、折れた腕の骨を地面に突き刺すようにし、もう一度立ち上がった。

 

「どうして、あなたは」

 

 八雲紫が次に言う言葉が、私には分かった。彼女の心は相変わらず読めない。だけれども、流石にそこまで困惑した表情をされれば、嫌でも分かってしまう。

 

「どうしてあなたは、そこまでして地底を、誰も彼もがこの私を拒絶する地底を救いたがるのか、ですか」

 

 押し黙り、俯いた八雲紫がゆっくりと足を進めてきた。後ずさることすらできない。少しでも動けば、そのまま倒れて動けなくなりそうだった。

 

「確かに私は地底なんて大嫌いですよ。ええ。本当に。滅べばいいと最近はずっと考えていました。クソみたいな妖怪の掃き溜め、恩を仇で返すことしかできない奴ら。何度死ねばいいと願ったことか」

 

 ぽたり、と頬から何かが垂れた。手でそれを拭い、目の前に持っていく。てっきり血だと思っていたが、涙だった。

 

「あなたなら、私が何をしてきたか知っているじゃないですか。ヤマメとキスメの件だって、本当は私は悪くないのに。彼女たちの幸せを願ったばかりに、私は嫌われた。この前のもそうです。食料調達をするだけで、どうして私がペット達に嫌われなければならないんですか。ええ。分かってますよ。自業自得だってことくらい分かってます。私がそうなるよう望んだんですから。でも、少しくらい見返りがあってもいいじゃないですか。もう耐えられないんです。仕方がなかった。これで相手は幸せになったじゃないか。そう何度自分に言い聞かせたところで、当の本人たちの憎悪に耐えられるはずがないんです。想像してみろよ。必死に彼女たちを救うために奔走し、結果として助けることができたのに、その見返りは嫌悪だなんて、あんまりでしょ。私が何をしたというの。何をしなければいけなかったの。なんで私は嫌われなくちゃならないの。どうして私はこんな目に遭わなくちゃいけないの。どうして私は今まで救ってきた奴らに恨まれなければならないのか。そう思うよ」

 

 気がつけば、私は右手を空へと掲げていた。その手の中には私の身体から伸びた第三の目が握られている。いびつに曲がり、切れた筋肉がぷらぷらと揺れているが、痛みは感じなかった。

 

「毎日毎日、やってもいないことで内心で罵倒され、嫌悪され、馬鹿にされる。道を歩けば嘲笑され、何かを食べれば毒を混ぜられる。しかも、それが嫌がらせではないんだ。本気。本気で私を殺そうとしてくる。そんなこと、耐えられるはずがない。必死に身を粉にした代償が、殺意だなんてね。笑えるでしょ? 笑えよ」

 

 意識するより早く、言葉が溢れていく。今にも死にそうな怪我を負っているはずなのに、それでも口は動き続けた。

 

「何が地霊殿の主だ。ふざけるなよ。私はこんな思いをしたかった訳じゃない。ああそうだよ。こんな地底、私が助けてやる必要はない。むしろ清々する。地上と戦争になったら、いい気味じゃないか。私を拒絶する世界なんて、何をやっても報われないような愚鈍な世界なんて、滅べばいい。そんなのは分かってるんだ。分かってるんだよ。八雲紫。分かるか? けどね。けど、それでも私は。確かに地底はクズだ。この世からなくなったほうがいいと思うし、願ってもいる。全てが憎い。ここにいる連中は救いようもない奴らだと知っているんだ。知っているんだよ。けど。だけど!」

 

 頭の中から、懐かしい記憶が溢れてきた。いつの日か、ヤマメがやってきた時の宴会の記憶だ。あの頃から私は嫌われていた。それでも、どうしてだろうか。あの時、確かに嫌悪感を振りまきながらも、確かに私の周りには妖怪がいた。いたはずなのだ。そして、その時の私は、温かみを感じていた。

 

「だけど、だからこそ私は戦わなければならないんです。これでも私は、あんなしょうもない連中のリーダーなんですよ。すごい。格好いい。憧れる。頭を垂れて忠誠を示し、靴に頬ずりをして崇め奉りたくなる。そんなリーダーにはなれませんでしたが、薄気味悪くて、陰湿で、丁寧口調な地霊殿の主になることはできました。あんな下らない連中でも、いい所があると知ってしまっているんです。なら、諦める訳にはいかないじゃないですか。私は確かに嫌われています。いつだってそうです。きっと、これからもそうでしょう。でも、感情ってのは複雑なんです。嫌いと好きだけじゃ区別できないんですよ。だから、こんな嫌われている私にすら話しかけてくれるやつはいたんです。知ってしまったんですよ。橋姫の思いやりも、星熊の気遣いも、ペットの純粋さも、ヤマメの生真面目さも、キスメの愛情も、知ってしまったんですよ。それに、あなたも言ってましたよね」

「言ってたって、なんて」

「私はムカデになりたいんですよ。ゴキブリではなく。どうせ嫌われるなら、役に立つほうがいいじゃないですか」

 

 すとん、と身体が落ちた。下半身が急になくなったかのように力が入らず、そのまま地面に横たわる。ぼやけた視界は真っ黒な天井を映しているはずだった。けれど、どういう訳か目の前に八雲紫の姿がある。その手には扇子が握られ、まっすぐに私に向けられていた。

 

「私は嫌われ者です。きっと、これからもそうでしょう。だとすれば、私の命が無くなろうと、せめて地底だけは消えてほしくない。どうせ嫌われているのであれば、憎まれてしまうのであれば、役に立ちたいに決まってるじゃないですか」

 

 そうだ。未来永劫、地底の連中は私を受け入れないだろう。何をしたところで、どうしたところで、口すらきいてくれないに違いない。あの星熊ですら、会う度に嫌悪感を増しているのだ。しまいには彼女も私をいないように振る舞うのだろう。だが、それでいい。それでもいいのだ。私は決して良い妖怪でもない。そんなのは分かっていた。善意で地底のために尽くしているわけではない。

 

「私は、いいんだよ。いいんだ。死んでもいいんだよ。自己満足だ。どうせこんな最悪な地底にいても長生きできない。なんなら生きる意味を失った私は、もう死んでると言っても良い。だったら、せめて地底のために死にたい。そう思うことを、そんなふざけた妄想をしてしまう弱さを、お前なんかに分かられてたまるか!」

「あなたはまだ死んでいないわ」

 

 氷のような冷たい目で、八雲紫は私を見下ろしていた。本当に氷でできていたのか、溶けた水が目元に溜まっている。

 

「ねえ、羊の話、覚えているかしら?」

「え?」

「この前したでしょう?」

 

 てっきり、その扇子の先から弾幕が飛び出てくるものかと思ったが、どうやら違うようだ。突然の話に眉をひそめている私を見て、どこか得意げな表情で八雲紫は小さく息を吐いた。

 

「ある日、一匹の狼が羊たちを襲うのだけれど、勇気ある羊のおかげで、他の羊は助かって、その羊のことを永遠に語り継いだって話よ」

「ああ。あの、感動的なまでにつまらない話」

 

 きゅっと視界が狭まるのがわかった。怪我のせいで体力が尽きているのか、その羊の話に感じるものがあったのか、おそらく、両方だ。

 

「皆のために犠牲になっている羊の姿を見れば、普通は感動するものよ」

「前も言ったじゃないか。そんなの、ただの仮初めです。現実では起きっこないんですよ」

「そうね。そんな話、作り上げなければ実際には起きないわ」

 

 でもね、と彼女は胡散臭い笑みを浮かべた。視界がぐにょりと曲がり、世界がくるくると回転していく。彼女の背にある薄黒い血の池地獄の天井が、渦を巻くように歪んでいった。ああ、ついに意識が途切れる寸前なのだな。きっと、もう二度と目を覚ますことはないだろう。そう思ったが、違った。いきなり世界が変わり、騒がしくなっていく。血の池地獄だと思っていた景色が崩れ去り、旧都が現れた。何が起こったか分からず、私は驚いていた。どうして、と声が漏れる。

 

「作り上げなければ実際に起きない。つまり、逆を言えば、作り上げれば実際に起こせるということなのよ」

 

 痛む身体をひねるようにし、あたりを見渡す。そこは、酷く見慣れた場所だった。私と八雲紫を取り囲むように無数の妖怪がこちらを見ている。そこには、ヤマメやキスメ、星熊やペットたち、そしてあの子までもいた。

 

「地霊殿の主が地底を助けるために犠牲になっている。どう? 感動的でしょ?」

 

 もう一度ぐるりと見渡す。さっきまでの血の池は消え去り、旧都の中央に私達はいた。八雲紫が例の幻影で私を欺いていたのだろう。さっきまで聞こえてきていなかった周りの彼らの心の声が嫌というほど聞こえてくる。さっきまでの戦いや会話は、すべて知れ渡っているようだった。

 

 ほっとした表情で私を抱きかかえた八雲紫は、目を細めた。わざとらしく身体を揺さぶり、息を大きく吸った。

 

「降参よ」

「えっ」

「そこまでして地底を守ろうとするなんてね。あなたの熱意に負けたわ。今回は、あなた達地底の勝ちよ」

 

 八雲紫のその言葉をかき消すような、大きな歓声が旧都を覆った。

 

 




地底は、地底はそうじゃなくてはいけないんです。平和で、そして危険でなくてはいけない。大丈夫ですよ。大いなる犠牲には、いつだってそれ相応の対価があるものです。その調律はもう、大丈夫なんですよ。気にしなくてもいいんです。だから、ねえ。もうそろそろ

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