第119期7月16日
久しぶりに参加した宴会は、想像以上に騒がしかった。それもそのはずだ。ほとんどの地底の妖怪が旧都に集まり、酒を飲んでいるのだから、むしろ騒がしくならないほうが異常である。
だが、まさか私がその宴会に参加するなんて思いもしなかったし、むしろその主役となるだなんて、夢にも思わなかった。包帯とガーゼで全身をぐるぐる巻きにし、四肢を硬いギブスで守っているとはいえ、八雲紫によって半殺しにされた私が酒を飲めると、彼女たちは本当に思っていたのか。
古明地が地底を守ったことを祝う会。なんてネーミングセンスのない宴会なのだろうか。「主賓のいない宴会なんて、アルコールが抜けた酒と同じだよ」そう私の肩を撫でた星熊の笑顔が頭によぎる。私の特訓のおかげだな、と鼻を鳴らしていた彼女は、今は他の鬼たちと一緒に酒を飲んでいた。飲ませている、と言ったほうが良いかも知れない。
あの後、八雲紫が幻影を解き、降参した後、地底の妖怪たちは思い思いに称賛の声を投げかけてきた。どうやら、ぼろぼろになっても八雲紫に立ち向かうさまが、彼らの琴線に触れたらしかった。それは、星熊のような鬼も例外ではなく、やっぱ強いな、お前は。と訳のわからないことを言った後、当然のように宴会の準備を始めたのだ。まあ、鬼なので仕方がないと言えるだろう。ただ、一つ疑問に思うことがあるとすれば
「どうしてあなたが平然と宴会に参加しているんですか、八雲紫」
「あら、失礼ね。いいじゃないの」
その、私と戦っていた八雲紫がすぐ隣で美味しそうに酒を飲んでいるということである。
「地底ってのは、お互いを殴ることで仲が深まるのでしょう? なら、なんの問題もないのよ」
「ありますよ、帰ってください」
「酷いわね」
眉を下げ、大袈裟に肩をすくめた八雲紫は、椅子に座らされている私の肩に頭を置いた。
「誰のおかげでこうして宴会に参加できていると思っているのかしら?」
「そうだよ、びっくりしたでしょ」
いきなり後ろから声をかけられ、ぎょっとした。咄嗟に逃げようとするも、身体に痛みが走るだけで、身じろぎ一つできない。
「ああ。怪我をしているから動かないで」
その声の主は、とてとてと私の前へと歩み寄ってきた。大きな黒い帽子を揺らしながら、大丈夫? と心配そうに声をかけてくる。
“思ったよりもひどい怪我だけど”
彼女の第三の目が私を心配そうに見つめていた。そして、八雲紫に対し少しの憤りをぶつけている。
「ここまでやらなくてもよかったんじゃないかな。流石に酷すぎるよ」
「ごめんなさい。つい」
「ついで家族をぼこぼこにされた私の気持ちも考えてほしいね」
それを言うのであれば、ついでボコボコにされた当の私の気持ちはどうなるのだ。そう考えていると、クスクスと二人は笑い始めた。
“今から説明するよ”
酒瓶を持ちながら、第三の目をくるくると回した彼女は、私を気遣うように正面で腰を落とした。悪戯っぽいその笑みは、彼女の短い髪も相まって、少年のように無邪気に見える。
「少年だなんて失礼しちゃうな。実の姉妹なのに」
「なら、その実の姉妹に説明してくださいよ。何が何だかさっぱり」
「分かってる分かってる」
そう笑った彼女は、酒瓶を乱暴に口に入れ、ぐびぐびと飲み始めた。何かをやりきったかのような清々しい笑みだ。その心も、喜びと達成感に満ちていた。
「申し訳なかったんだよ」
酒の勢いに任せ、呂律が怪しい口で彼女は言った。
「この前、お燐たちペットに嫌われたのは、私と八雲紫のせいでしょ? あれ以来元気がなくなっちゃって、見てられなかったんだよ。なんだか、死んじゃったみたいでさ」
「私は生きてますよ」
「いや、あれは死んでいるとの変わらなかったわ」
八雲紫にとっても嫌な思い出なのか、眉を絞るように細めていた。
「私が何をやっても反応しないし、怖がらない。怒りもしなければ悲しみもしない。ただ、何かを呪い続けるだけ。そんなのを生きているだなんて言えないわよ」
八雲紫の頬は少し上気していた。彼女の手にあった酒瓶は、すでに空になっている。あの妖怪の賢者がそこまで酒を飲む姿なんて、初めて見たかも知れない。だが、八雲紫よりも、はるかに酔いが回っているのか、馬鹿みたいに酒を飲んでいる妖怪がいた。他でもない私の家族だ。
「だから、私達は考えたの」そんな、馬鹿みたいに酔っぱらい、被っている帽子を私の頭に載せた彼女は、にぱっと笑った。
「どうすれば元気を出してくれるかって考えた」
「それで、どういう結論を出したんですか?」
「簡単だよ。みんなに嫌われておかしくなっちゃったなら、皆に好かれるようにすればいいって」
彼女の言っている意味が分からず、首をかしげる。
「おかしいと思わなかったのかしら?」八雲紫の息は、すでに酒臭くなっていた。
「地底と地上の戦争なんて、妖怪の賢者が望むはず無いじゃない。あなたが負ければ地底に攻め込むなんて、あんなの嘘よ嘘」
「え」
「それに、確かに地霊殿の主は地底に関して責任を負うけれど、流石に伊吹萃香の件だけで決闘だなんて、大袈裟な段取りは組まないわよ」
私は呆然としていた。八雲紫は、地底に攻め込む気がなかったということなのか。私に責任をとらせる気など、はじめから無かったというのだろうか。なら、いったい何のためにこんなことを。
そこまで考えて、ようやく最初の言葉を思い出した。
「私のため、ですか」
「そうだよ」
ふふん、と鼻を鳴らし、さとり妖怪らしく私の心を読んだ彼女は、得意げに胸を張った。
“私がいないと、本当に駄目なんだから” 頼もしい心の声が、私の胸を貫いた。
「羊の話。面白いね。でも、その通り。皆のために犠牲になるための話は誰だって感動する。でも、実際にはそんなに上手くはいかないんだよ。そんな都合の良い展開なんて訪れない。だから、作ったの。地霊殿の主が自分の命を削ってでも地底を守る、という展開をね」
八雲紫の、作り上げなければ実際に起きない、という言葉を思い出した。彼女がどうして妙に演出がかった言葉を述べたのか、変なルールをつけたのか、これで全て合点がいった。彼女は初めから、私に負ける気でいたのだ。私が地底を守ろうとしている様子を、他の地底の連中に見せつけるために、わざわざ幻影を使い旧都を血の池に偽装した。
「だから、あの鎖を消したのですね。血の池地獄の様子を再現したはいいものの、あくまで幻影でしかない鎖を触ろうとすれば、幻影だということがバレてしまいますから」
「あの時は焦ったわ。私らしくもなかったわね」
いったいどこまでが幻影で、どこまでが現実だったか、私には分からない。ただ、どうしてそんな回りくどいことをしてまで私を助けようとしたか、それが一番分からなかった。
「あなたの真似をしたのよ。地霊殿の主の真似をね」
八雲紫の声はとろんとし、らしくもなく目は潤んでいた。
「あなたはいつも悪役になるじゃない。ヤマメとキスメの時も、食料調達の時も。だから、今回は私が悪役になったのよ。地底に攻めようとする私に命がけであなたが立ち向かう。やっぱり感動的よね」
「それ、あなたが考えたんですか?」
八雲紫はぶんぶんと子供のように首を振った。彼女じゃないとすれば、と思い首を横に向けるが、違うよ、と心で否定される。なら、いったい誰がこんな事を考えたのだろうか。
「これを考えたのは私だよ」
どこからか、声が聞こえてきた。前でも後ろでも、もちろん左右からでもない。上からだ。体全体を後ろに反らすようにし、天井を見上げる。そこには誰の姿もなかった。心も読めない。だが、私にはそれが誰だかすぐにピンときた。聞き覚えのある声もそうだが、もやもやと薄く漂っている霧に、酷く懐かしさを感じたのだ。間違いない。地上に行ったはずの彼女だ。
「伊吹萃香。いつの間に地底に帰ってきていたのですか」
「今さっきだよ。勇儀たちに絡まれたら面倒だったからね」
しゅるしゅると音を立てながら、霧が八雲紫と私の間に集まってくる。だんだんと人の形になっていき、あっという間に小鬼の姿が現れた。にししと笑い、八雲紫に手をひらひらと振った伊吹萃香は、らしくもなく私に向かい眉を下げた。
「前に、私に話しただろ、古明地」
「話したって」
「助けようとしたのに嫌われてしまうなんて、あまりにも残酷だって、そんな酷い話は認められないんだって、そう言ってただろ」
「そうでしたっけ」
「ああ、そうだ。そしてこうも言った。私は嫌われる運命にあるから仕方がないってな」
思い出そうとするも、その部分だけ何か硬い箱で閉じられているかのように、記憶が封じられている。だが、伊吹萃香の心には、その時の状況がはっきりと刻み込まれていた。彼女がヤマメの胸を押しつぶした後、私の部屋へと来ている場面だ。私が、彼女の罪を被っていること、嘘をついたことの理由を説明しているところだった。
「私は借りを作りたくないんだ。だから、八雲紫に頼んだ」
彼女のいう借りが、ヤマメの件だということは、心を読むまでもなく理解できた。
「私が地上に行った責任をとるためと言えば、古明地は決闘に乗ってくるはず。なんせ、あの古明地だからな。それで、一芝居打ってくれれば、古明地が命がけで八雲紫と戦っているさまを地底の連中に見せつけてくれればいい。そう私が頼んだんだ。そうすれば、今の現状を打破できるはずだってな」
どうして、と私は呟いてしまう。どうして彼女がそんなことをする必要があるのか。全く理由が分からなかった。それではまるで、伊吹萃香が私のために地上に行ったみたいではないか。
「そうだよ」
心を読んだのか、私の膝で酒を零している全くしっかりしていない、しっかりしている方の古明地が、にべもなく言い放ってきた。
「だから言ったじゃん」
「言ったって、なんて」
「鬼が地上に行くのは、きっと誰かに恩返しをするときだけだって」
あなたを助けようとする奴もきちんといるのよ。そう八雲紫がのんびりとした声で言ってきた。私は何も言うことができず、ただ俯くだけだ。
私を慕ってくれるやつはいるか。そんな奴はいないと思っていたし、今でもそう思っている。だけど、この時は。この時だけは、そういう奴がいると信じてもいいか、と思えた。
「なんだよ、辛気臭い顔して。地霊殿の主でも、流石に驚いたか」
包帯で顔を巻かれているため、表情なんて見えないはずなのに、伊吹萃香はそう断言してきた。
「まあ、酒でも飲めば気も晴れるさ。ほれ、古明地も飲みなよ」
「飲んでるよー」
「そっちじゃない方の古明地だ」
そう言うや否や、私の口元に酒瓶を突っ込もうとしてきた。口を閉じようとするも、強引に開かれ、口の中に酒が流れ込んでくる。そもそも度が強すぎるせいで、鋭い刺激が喉を襲った。ゴホゴホと咽せてしまう。
星熊が他の鬼を引き連れてこちらに来たのはその時だった。一瞬、私を襲いに来たのかと思い、慌てて心をよむ。よんで、なるほどと納得してしまった。彼らの心にあったのは、恐れと、羨望、そして落胆だった。
「おお萃香、久しぶりじゃねえか」
いつものように、気丈な大声で星熊は伊吹萃香の肩をたたいた。流石に鬼の四天王二人と一緒にいるのは、普通の鬼でも辛いらしく、おずおずと他の鬼たちは去っていく。物いいたげに私と八雲紫を見ていたが、気にしないことにした。
「お前、いきなり地上にいきやがって。羨ましいぞこの野郎」
「悪かったよ。でも、その件はもういいだろ。地霊殿の主が責任をとってくれたんだからね」
ちらりと私を見た伊吹萃香は“嘘ではないでしょ”と心ではにかんでいた。
「いいなあ。私も地上に行きてえな。な、駄目か? 古明地」
「なんで私に聞くんですか。八雲紫がいるんだから、そっちに聞いてください」
「なあ、いいだろ八雲さんよお」
「だめに決まってるでしょ」
星熊に酒瓶を投げ渡した八雲紫は、先程までのだらけた姿勢を直し、星熊にピシャリと言った。
「これ以上地底の連中が地上に来たら困るのよ。流石に鬼の四天王が立て続けに二人出てきたら混乱が起きるわ」
「なら、時間が経てばいいのか」
「駄目よ。何かが起きない限りね」
何かってなんだよ、と不貞腐れたように口を尖らせた星熊は、おーい、といきなり大声を上げた。
「パルスィ! 来てくれ」
彼女の声は、旧都中に響き渡り、ぐわんぐわんと木霊していた。それでも橋姫は中々姿を現さない。その間、暇だったのか、星熊は私を持ち上げ、ぐるぐると回っていた。いったい何をしているのだ。
「いや、やったな。古明地。流石だよ。ありがとうな」
「あなたに礼を言われるなんて、むず痒いですね」
「安心しろ。これは本心からだ」
鬼の彼女が言うのであれば、間違いないだろう。そう思い彼女の心を読む。確かに彼女の心には感謝の念もあった。
“どうして私はここまで古明地に関わっているんだろうな”
だが、同時にそんなことも考えていた。どうして私に関わるのか。それを彼女に伝えるのは、あまりに残酷すぎた。
しばらく待っていると、パルスィがおずおずと妖怪の隙間をかい潜るようにして姿を現した。その顔は、羞恥からか真っ赤に染まっていて、綺麗な緑の瞳には、うっすらと涙の膜ができている。
「お、来たか。遅かったじゃないか」
「遅かったじゃないわよ。何も大声で叫ばなくてもいいのに。恥ずかしいったら」
わるいわるいと眉をハの字にしている星熊を睨みつけていた橋姫は、どこか生き生きとしていた。比較的短い金色の髪は艶があり、全身に妖力が漲っている。
「久しぶりですね、パルスィさん」
私が声をかけると、彼女は一瞬ぴくりと体を震わせた。様々な感情が彼女から溢れてくるが、結局、少しの嫉妬と自責の念に落ち着き始める。ぎぎぎとゆっくり顔をこちらに向けた彼女は、恨めしそうにこちらに目を向けた。
「ありがとう、というべきなのかしらね。地底の救世主さん。まったく、妬ましいわ」
「どういたしまして、というべきでしょうか。あなたに妬まれるなんて、光栄ですよ」
「なんて図太い精神、妬ましいわ」
久しぶりに会った彼女は、全身ボロボロの私を見て、少し悔しそうに目を細めていた。だが、私が三つの目を向けていることに気がつくと、慌てて首を振り、こほんと咳払いをした。
「というか、どうして勇儀はー、パルスィを呼んだのー?」
私の膝下でよだれを垂らし、第三の目を回して遊んでいた彼女は、さとり妖怪らしくもなく、本当に分かっていないといった様子で聞いた。きっと、泥酔しすぎて心を読めていないのだろう。
「どうしてって、そりゃ、嫉妬しちまったからに決まってるだろ」
「嫉妬?」
「おいおい。本人に言わせるのか? やっぱりさとり妖怪ってのは趣味が悪いな」
「いや、いいですよ、言わなくて」
あの豪胆な星熊が自ら嫉妬していると自覚することなんて、一つしかなかった。きっと地底にいる全員が同じ感情を抱いているだろう。
だから橋姫はやけに調子が良さそうなのだな。そう納得しかけたが、すんでのところで思いとどまる。いや。そんなことはない。それだけが原因ではなさそうだ。地底に第三の目をぐるりと向ける。全員とまでは言わないが、意識を集中させれば、多くの妖怪の心を読むことが出来た。そして、彼らの中に渦巻いている感情は、嫉妬ではない。
「パルスィさん。一つ、質問があります」
「なによ。私の心についての質問には答えないわよ」
「あなたって、嫉妬の心が周りで溢れていたら、力が強くなったりしますか?」
「まあ、そうね。そりゃ、ないよりはあったほうがいいけど」
嫉妬。一言でいえば、単純に思える。だが、嫉妬と言っても、それはあくまで負の感情の一形態であり、明確にここからここまでが嫉妬だなんて、そんなことは私にすら判断ができない。ただ、あえて言うのであれば、嫉妬に一番近い感情は、悔しさと嫌悪だ。
それから私達はしばらく酒を飲み続けた。私はみんなと酒を飲みながら、正しくは、酒を飲んでいる連中の様子を私はただ眺めていただけだったが、それでも楽しかった。そう。楽しかったのだ。こんな感情久しぶりだった。あの八雲紫が私に対し、申し訳ないという感情を抱いているとは思わなかったが、それでも素直に嬉しいと思えた。やり方は彼女らしく遠回りだったが、それでも良かった。
はじめに気がついたのは私だった。私達をちらちらと気にしている存在がいた。お燐だ。お燐がこちらを気にしている。心こそ読めなかったが。なにか言いたいことがあるのは明らかだ。
「あれ、お燐が見てるね。全然気が付かなかった」
私の心を読んだのか、それとも自分で気づいたのかは分からないが、彼女は八雲紫に目配せし、酒瓶を持ったまま立ち上がった。
「なら、私達はどこかに行っとくよ」
「え?」
「こういうのに、おじゃま虫はいらないでしょ?」
そうね、と頷いた八雲紫は隙間を開き、一瞬で姿を消した。地上に帰ったのかと思ったが、少し遠くで他の連中と酒瓶ごと移動したようだった。突然移動させられたことで、鬼の二人と橋姫は嫌悪感を抱いているようだったが、私の知ったことではない。今は、そんなことを気にしている暇なんてなかった。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
何も考えていないつもりだったが、どうやら私は不安に思っていたらしく、それを読み取ったらしい彼女は温かい目を向けてきた。
「きっと、大丈夫」
そう言い残した彼女はとてとてと千鳥足で宴会の中心から外れていった。どうやら地霊殿に帰るつもりらしい。あんなに酔ってひとりで帰れるかどうか怪しいところだ。現に、彼女の帽子はまだ私に被せられたままだ。あれほど大事にしている帽子を手放すなんて、彼女らしくもない。
「あの、あんたに少し話したいことがある。いや、あります」
少しあの子に意識を移した瞬間に、お燐は私のすぐ前へとやってきていた。酷く緊張しているようで、その二本の尻尾は逆立ち、耳はしなびている。だが、緊張しているのは私も同じだった。
「その、あたい。その」
「落ち着いてください。私は見ての通り逃げも隠れもできませんよ」
こほん、と咳払いをしたお燐は、腹を決めたのか目をきっと細めた。彼女の心の、緊張という靄が払われ、その下に隠されていた感情が露わになる。それは私を動揺させるには十分だった。
「あの、ごめんなさい!」
深々と頭を下げたお燐は、しばらくその姿勢のまま固まっていた。私が何かを言ってやらねばならないことは明らかだ。だが、何も言うことはできなかった。動揺と驚愕で、何も考えることができない。
「あの、あんたは、ご主人様は悪いことをしていないのに、あたいはなんて酷いことを!」
「あの、大丈夫ですよ」
ようやくその一言が出たのは、お燐の後ろにヤマメとキスメの姿を見つけた時だった。彼女たちもお燐と同じような感情を抱いている。
「落ち着いてください。お燐。何も心配しなくていいんです。本当に」
「でも」
「大丈夫ですよ。大丈夫。きっと大丈夫」
大丈夫という言葉は、いったい誰に向けたものか。きっと私自身に向けたものだろう。どういうわけか、目に涙が浮かんでいた。心配そうにこちらを見つめるお燐に、もう一度大丈夫だから、あなた達は大丈夫、と言い聞かせる。
「大丈夫ですよ。あなたは絶対に悪くないです。悪いのは私です。だから、むしろ謝らないといけないのは、私なんですよ」
「いえ、そんな」
「だから、これでチャラにしましょう」
一体何をチャラにするのか。私自身にも分かっていなかった。けれど、今はそんなことは何だっていいのだ。とにかく、お燐を安心させなければ。
「だから、大丈夫なんですよ。これからも、よろしくお願いします」
吊り上がっていた目を緩ませ、頬を上げたお燐は、おずおずと引き下がっていった。どうして私の涙が溢れたのか。考えようとしたが、ぼやける視界の奥にキスメとヤマメの姿を見つけ、慌てて涙を拭う。きっと、彼女たちもお燐と同じように謝るのだろう。そして、その予想は的中することになる。彼女以外にも、何匹かの妖怪が私に謝りに来た。
椅子に座り、自分に頭を下げる彼女たちの様子を見るのは、なんとも居心地が悪く、正直に言えば勘弁願いたかった。
「お詫びの品です。ぜひ、これを」
私がかつて常連だった甘味屋の店主も、その謝ってくる妖怪のうちのひとりだった。差し出されたのは団子だ。受け取りたくはなかったが、そういう訳にもいかず、渋々受け取った。
その後も、宴会は滞りなく進み、無事に終わることができた。八雲紫に酒を口に突っ込まれたり、星熊に抱きかかえられ旧都中をぐるぐると回されたりしたが、無事に終わることができた。
無事? 私の心以外はね、くそったれが
そして今、私は一人で日記を書いている。
私の部屋には私以外の誰の姿もない。お燐の姿も、お空を始めとする他のペットの姿も、もちろんヤマメもキスメの姿もない。まあ、それも当然か。
痛む右手を強引に動かし、文字を書き続ける。血と涙で文字が滲んでしまっているが、それもしょうがないだろう。悔しくて、悲しくて仕方がない。
結論から言えば、地底は相も変わらず私を恨んでいた。
私に謝りに来たお燐たちの心に浮かんでいた感情はただ一つだった。あまりに純粋で、そして真っ直ぐなあの感情に、私は耐えられそうにない。
それは恐怖だった。ただただ、私を怖れていた。ぼろぼろになっていたとは言え、あの八雲紫を結果的に降参させた私に対する恐怖、そんな私に喧嘩を一瞬でも売ってしまったという、漆黒なまでの恐怖。それが彼女たちを謝罪に持っていった。そこに、感動なんてものはない。ただの一つもなかった。
八雲紫は分かっていなかったのだ。心というものを分かっていなかった。いくら外面上は仲良く接したところで、愛想よく振る舞ったところで、私にはその心が読めてしまう。見せかけだけじゃ意味がない。どんなに私を称賛するふりをしようが、どれだけ私に忠実になるふりをしようが、そんなもの、かえって悲しくなるだけだ。人は一番内面が大事なのに。
あの子は、分からなかったのだろうか。確かに、私が八雲紫と戦ったことで、地底の連中が私を見直したことは事実だ。だが、感情というものはそこまで単純じゃない。いくら蛆虫がいいことをしたところで、好まれる可能性なんて無いのだ。これからも、行きつけの甘味屋は私を店に入れないし、鬼たちだって話すらしてくれないだろう。キスメやヤマメ、お燐たちペットに至っては、もはやここに記すことすら憚られる。
私と彼女たちの関係は一度壊れてしまった。そして、壊れてしまったものはすぐには直らない。そんなことは分かっていたはずなのに、彼女たちともう一度仲良くなることなんて無理だと分かっていたはずなのに。私は期待してしまった。期待なんて持つべきではなかったのに。一番つらいのは、上げてから落とされることだと知っていたはずなのに。それでも私はまた、あの温かい空気の中に戻れると、そう思ってしまった。
私を慕ってくれるやつはいるか。さっきの宴会の最中、私はいると、確かに存在するのだと思った。だが、やっぱりそんな奴はいなかったのだ。
ああ、どうして。どうして私はここまで嫌われてしまったのだろうか。何を間違ってしまったのだろうか。私は悪いことをしたのだろうか。ねえ。どうして。いったい、いつの間に。私はここまで。やっぱり、私は死んだほうがいい。その方が地底のためになる。どうして私は生まれてきてしまったのだろうか。なんのために生きてきたのだろうか。もう、わからなくなっていた。
あの子は酔っ払ってもう眠ってしまった。ペットたちはきっと、彼女のそばで震えて眠っているのだろう。私という脅威に怯えながら、眠れない夜を過ごしているのだ。そして、それはペットだけじゃなかった。
あれだけ私に賞賛の言葉をかけた鬼でさえ、心のどこかでは、私が八雲紫に負けることを期待していた。あの橋姫ですら、落胆の感情をのぞかせていたのだ。つまりは、そう。はなから私を応援しているやつなんて、誰ひとりいなかった。地底の安定よりも、私の死の方を彼女たちは望んだのだ。八雲紫の勝利を誰もが切望していた。
どうせ嫌われるのであれば、地底の役に立って死にたい。そんな願いですら、私は否定されてしまった。いや、まだできるか。だって、私が地底にいることこそが、彼女たちにとって一番の厄災なのだから。なら、私がいなくなれば、彼女たちを喜ばせることができる。
つまりは、もう。私は何をしても手遅れということだ。死ぬことでしか、地底のためにならないと、そういうことなのだろう。
今まで、私なりに地底のために頑張ってきたつもりだった。そのために、全てを犠牲にしたことすらあった。だというのに、私はこの自分自身が築き上げてきた地底に否定されるのか。無様だ。笑える。滑稽じゃないか。
ああ。最高だ。きっと私の友達も笑ってくれるだろう。知らないの? 私に友達なんていない? わたしの友達はいいやつなんだ。きっと、いいやつだよ。知らないけど。
もしかしたら、本にしたら売れるかもしれないね。表題は、そうだな。憐れな羊は内臓までドブと同じ味がするってどう? もちろん憐れな羊は私のことだよ。何が羊を称えるだ。バカバカしい。憐れな羊はそのままジンギスカンになることさえ叶わず、ただ腐っていくだけに決まっているのに。
タチが悪いよ。本当に。どうして期待したのかな。八雲紫の自信満々な言い方にそそのかされたのかな。私なんかよりよっぽどしっかりしている方の古明地と呼ばれている彼女が言うのだから、間違いないと思っちゃったのかな。そんな訳ないのに。
やっぱり、私の居場所なんてないんだ。お燐の感情を思い出す。そうだ。確かに彼女はずっと心の中でこう呟いていた。
“お願いだから、私も殺さないで”ってね。
おかしいよね。私もって。私は今までペットを殺したことなんて無いのに。でも、勘違いしちゃったんなら、仕方がないね。言葉がどれほど無意味かなんて、嫌というほど知っているから。
もう二度と、彼女の背中を擦ってやることは出来ない。そんなの知ってたじゃないか。お空ですら、最近は姿すら見つけることが難しい。本能だ。本能的に私を避けている。もうそこまで来てしまったのだ。彼女たちの中では、私は明確な敵となってしまったの。敵の敵は味方というのに、ふしぎだね。
ああ、懐かしいな。いつか、お燐の背中を撫でたり、こうして日記を書いている時に、邪魔されたりしたっけ。お空に心臓マッサージで殺されかけたこともあった。これも本に書いておこう。私の貴重な楽しい思い出だ。きっと、私の友達も笑ってくれる。
でもね。そんなのは儚い夢だったんだよ。なかったことなんだ。考えても見てよ。わたしだよ。わたしがペットと普通に話して、サワれるわけ無いじゃん。だってわたしだもん。
ああ。包帯が破れて右腕の骨がむき出しになっちゃった。でも、痛くないからいいか。
夢から醒めないと。わたしは死んでいるんだ。死んでなきゃならないんだ。みんながわたしの死を望んでいる。わたしもわたしの死をのぞんでいる。素敵! みんなとわたしがはじめて同じことを考えたね!
甘味屋からもらった団子を見つめる。もちろん食べない。そのまま地面に落とし、踏みつぶした。だって、どくがはいってるんだもん。あのお姉さんも大変だよね。わたしが通っているって理由で、他の客が暫く来なかったんだもん。そのせいで、飢えて子供が病気がちになっちゃったんだもんね。まあ、もうその心配はないんだけど。だって、もうその子は死んじゃったんだから。わたしのせいだね。やった! きっと私の友達も笑ってくれる。誰だよ、それ。
星熊だって、きっとわたしのことを憎んでいるんだ。だって、彼女がわたしにかまう理由を、わたしは知ってるんだもん。いったら怒られそうだけど、日記だからいいよね。
彼女は外に出たいんだよ。伊吹萃香に嫉妬しているくらいに。だから私に恩を売っているのさ。それで外に出れるかどうかはわからない? そうだね。というか無理だね。だけど、そう言ったら彼女は絶望しちゃうから、だめだよ。上げて落とされたときがいちばんかなしいんだから。そうだっけ? そんなこともないか。きっと私の友達も笑ってくれる。
八雲紫もお人好しだよね。わざわざわたしのためにこんな面倒な手順を踏むだなんて思い上がり過ぎだよ。わたしを救うことなんて、誰にもできるはずがないのに。わたしがだれかにすくわれることなんてあるわけがないのに。そりゃそうだよね。嫌われるさいのうがありあまってるのだから! ざいあくかんから逃げたいがために、こんなことをして満足するだなんて、うす汚れすぎだよね。だって、わたしはすくわれてないのに、まん足してかえっちゃったじゃん。
あのこもそうだよ。心をよめるのに。地底のようかいたちが本当はわたしのことを好きになってないって、感動なんてしていないってわかったはずなのに。わたしですらわかったのに、どうしてわからなかったんだろう。馬鹿だね。わらってあげるよ、あっはっはってね。
ああ、なかないで。あなたはつよいこよ。そうでしょ? 古明地っていいなまえだよね。わたしはすきだよ。さとり妖怪はきらいだけど。でも、ちれいでんの主は、さとり妖怪をすきにならなきゃならないの。なんでか? きまってんじゃん。そんなのもわからないの? そんなんじゃ、わたしのともだちにたべられちゃうよ。
さとり妖怪がさとり妖怪をすきになってあげなきゃ、だれもさとり妖怪のことをすきになってくれないじゃん。そうでしょ? そうだよね。そうにちがいない。
あ、だんごあるじゃん。おいしそうなだんご。大きくてひとつしかない、まんまるなだんご。誰がもってきてくれたんだっけ。わたしのともだち? ちがうの? じゃあだれだろ。わたしのともだちかな。いや、彼女はもっとしょっぱいものがすきか。猫だもんね。おりんって猫はなにがすきだったっけ。あんまりおぼえてないや。
まあ、いいや。たべればぜんぶいっしょだって。いってたもんね。だれかが。だれだっけ。おねえちゃん? いや、わたしには家族はいない。いたかな。いないっけ。まあいいや。じゃあだれ?
まあ、いいや。たべればぜんぶいっしょだって。いってたもんね。だれかが。だれだっけ。まあ、いいや。だれでも。たべればぜんぶいっしょだって。いってたもんね。いただきます。
んんー! からいね。あまいかも。そしてしょっぱい! だんごってこんなあじなんだね。びっくり! いままでたべたことがなかったから。
あれ。口からなにかがこぼれてきた。なんだろう。赤いね。とまらないね。いたくないのにいたいね。なんだろ。めからみず? ち? ちだ! くちからちがとまらない! なんでだろ。はりねずみでもたべたかな。はりねずみってこんなあじなんだね。ああ。わかった。どくだ! どくがはりねずみにはいってたんだ。どうしてどくがこんなところにあるんだろ。でも、ちょうどいいか。これでねがいがかなえられるかもしれない。
ねがいってなんだっけ? わたしは何をすればちていがよろこぶんだっけ。ああ。おもいだした! わたしがしねばいいんだ!
どうか、許して