Komeiji's Diary《完結》   作:ptagoon

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第119季3月1日—意外に悩んでたり、いや、意外ではないですか―

 第119季3月1日

 

 山椒魚は悲しんだ。最近流行っている文芸作品の冒頭にこんな書き出しがあった。内容は知らない。ただ、のっぺりとして悩みがなさそうに見える山椒魚ですら悲しむことがあるのだとすれば、毎日つらい仕事に精神をすり減らし、まさに地獄の日々を送っている私が、悲しみのあまり大声で泣いても何の問題もないのではないか。そんなことを考えた私は、思いの丈を鬼畜な八雲紫にぶつけた。鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、かすれる声でそう言ったのだ。

 

「確かに、あなたの苦労は分からなくもないけど」

 我が物顔で地霊殿のソファに座っている八雲紫は眉を下げた。

「だけど、みたらし団子を地面に落としたからって、そこまで泣かなくても」

 

 この地底の暑さを地上に分けてほしいわね、と寝そべるようにしてくつろいでいる彼女に対し、すぐさま口を開こうとしたが、涙のせいで言葉が詰まった。ひっく、と情けない声しか出ない。小さく深呼吸をして、震える喉を精一杯に開いた。

 

「だって、楽しみにしてたんです」

「……そう」

「地底では中々手に入らないんです」

「そうみたいね」

「唯一の癒しだったんです」

 

 深く考えるとまた涙が浮かびそうだったので、小さく首をふって頭から悲しみを追い出す。だが、それでも胸を締め付けるような感覚は消えない。

 

 そんな情けない私を見かねたのか、八雲紫は小さく息を吐くと、いつものように扇子を口元で広げた。

 

「二つほど、いいことを教えてあげましょう」

 声に出さず、小さく頷く。

「一つ、山椒魚は肉食の両生類で、川の中にいる魚を食べて生活しているわ。ただ、食欲旺盛でね。共食いをすることも少なくないらしいわよ。つまり、山椒魚は決して『のっぺりとして悩みがない』わけではない」

 

 彼女がいったい何を言おうとしているのか、分からない。ただ、励ましてくれる気はないということは確かだった。

 

「二つ、『山椒魚は悲しんだ』で始まる井伏鱒二の小説は、岩穴に入って出られなくなった山椒魚が、ストレス発散にその岩穴に入ってきた蛙を閉じ込めるって話なのだけれど」

「まるで私たちみたいですね。地底に閉じ込められた哀れな蛙が私で、意地悪な山椒魚はあなた」

「私は出られるけどね。むしろ地底の連中からしたらあなたが山椒魚よ」

 確かに、と納得してしまった。

 

「ともかく、その小説の終わりでね、空腹で死にそうな蛙に山椒魚がこう問いかけるのよ。『お前は今何を考えているんだ』ってね」

「へぇ」

 その話は私のみたらし団子に関係があるのか、と訊ねたくなる。

「それで蛙はこう答えるの。『今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ』と」

「いい話じゃないですか」

 

 いま地底において最も足りていない寛容の心をその蛙は持っていたのだ。やっぱり、何でもかんでも喧嘩で解決してしまうのは良くない。特に私が巻き込まれやすいという点が駄目だ。

 

「でもね、20年くらい前に結末が改正されて」

「ほう」

「その部分がまるごと消されたの」

「え」

 それでは改正じゃなくて改悪じゃないか。

 

「つまりね。最初は和解したはずの蛙と山椒魚は、結局和解できないことになったのよ。どう? 残酷だと思わない?」

「思いますけど、それと私のみたらし団子はどう関係するんですか?」

「関係ないわよ。ただ、私が言いたかったのは」

 パチンと音と共に扇子が閉じられる。その奥にあった彼女の頬は吊り上がっていた。

「あなたと一緒にされた山椒魚が可哀想ってことよ」

 私はまた大声で泣きたくなった。

 

 

「それで? あなたが私を呼び出すなんて、なにか問題でも起きたの?」

 一通り私をいじめ終わって満足したのか、表情を引き締めた彼女は背筋を伸ばした。その不敵な笑みはそのままに、白い手袋を軽くさすっている。熟考している時の彼女の癖だ。

 

 頬を軽く叩き、涙を引っ込める。真剣な彼女の前では、不思議とこちらの気も引き締まった。

 

「この前、新入りの土蜘蛛が何者かに襲われまして、地底中がその犯人さがしに躍起になっているんですよ」

「それは……面倒ね」

 

 これだから地底の連中は、と声を低くして唸っている。どこか飄々としている彼女にしては珍しく、なかなか結論を出さないでいた。

 

 仲間が襲われた、だから犯人を捜す。もしかすると、それは当然のことなのかもしれない。だが、地底においてそれは非常事態と言ってもいい。喧嘩が多い地底だが、それはあくまでも喧嘩。お互いがお互いを拳で語り合う。それは基本的には一対一で、たまにグループ同士で、ごくまれに星熊勇儀対大勢で行われているが、それは問題ない。なぜなら、実力が拮抗しているからだ。酷いけがを負うことはあるが、そこから恨みつらみをもって、敵対することはない。むしろ、清々しい顔で一緒に酒を飲みあっている。それが地底と言う場所での常識だ。

 

 だが、喧嘩ではなく、今回のように一方的に相手を襲った場合、仲間たちは犯人をどうするか。反省するまで叱りつけるか、二度とそんなことをできないように痛めつけるか。

 

 違う。殺す。

 

 奴らは確実に犯人を殺す。鬼を筆頭に、身体が残らないくらいにまで徹底的に殺す。それはあの星熊勇儀でも例外ではない。だから緊急事態なのだ。もし、犯人が悪党だったら問題ない。もっといえば、私と関わり合いがない奴だったらいい。殺されても自業自得だ。だが、もし私の知人だったら? 私のペットだったら? そう思うと、恐怖で足がすくんだ。

 

「どうしたもんかねぇ」

「地上の誰かを犯人ってことにして連れてくるってのはどうでしょうか」

「却下。鬼にそんな嘘は通用しないわ」

 

 見下すように、ため息をつかれる。そんなんだからペットに馬鹿にされるのよ、と鼻を鳴らした。私は正直にいえば、ペットたちに馬鹿にされているとは思いもしなかったから、え、そうなの、と声を出しそうになったが、ますます白い目で見られそうだったので、代わりに恨み言を呟くことにした。

 

「なら、何か意見を出して下さいよ」

 

 私の言葉を聞いた途端、露骨に嫌な顔をした彼女だったが、すぐに表情を緩ませた。そうねぇ、と目を細くし、面白い玩具をみつけた子供のようにニタニタと笑っている。気味が悪い。

 

「あなたが犯人と名乗り出れば鬼も納得するんじゃないかしら?」

「冗談じゃない」

「あら、結構いい案だと思うのに。犯行方法も面白い物だったら、より信用されるかも」

 事実、本当に納得されそうで恐ろしかった。むしろ、その光景が頭の中にありありと浮かぶ。

「やっぱり、なんとか風化させなければなりませんね」嫌な想像を遮るように私は言った。

 

 それができたら苦労しないわよ、と顔をしかめた彼女は、机の上に置いてあった煎餅をつまんだ。手袋を付けたままでいいのかと問いかけると、気まずそうに咳ばらいをし、伸ばしていた手を引っ込めた。心なしか頬が赤くなっているように見える。きっと、気のせいではないだろう。

 

「ゆかりんも意外とかわいいとこあるんだねー」 

 

 突然うしろから声が聞こえ、驚きのあまり素っ頓狂な叫び声を上げてしまう。いくら聞き慣れた声と言っても、真後ろでいきなり声がすれば誰だって腰を抜かす。が、さっきの煎餅の意趣返しなのか、八雲紫は嫌味に笑い、パタパタと私に向かって扇子をふっていた。うざい。

 

「そんなに驚かなくてもいいじゃん」

「いや、急に出てきたら驚きますよ」

「心が読めるなら気配にぐらい気づいてよ」

 

 そんな無茶な、と私は笑う。四六時中聞き耳を立てていられないように、つねに心をよんでいられるわけではないのだ。目の前の優秀な誰かさんとは違って。

「というか、二人ともさー」

 

 えい、っとジャンプして私たちの間にある机に飛び乗った彼女は、その場でバレリーナのように体をくねくねとよじっている。

 

「どうして犯人を捕まえようって発想にならないのかなー。それで万事解決じゃん」

「そうですか?」

「犯人を見つけて、懲らしめて、終わり! たったの三手順だよ」

 

 確かに、大抵の推理小説では、犯人を見つけて、懲らしめて、終わる。だが、現実ではそんなにうまくことが運ぶだろうか? 

 

「しごく単純な意見だけれど、それ以外手がないのも事実。鬼たちに懲らしめられて無事でいられるかは分からないけど、その犯人には犠牲になってもらおうかしら」

 

 ゆっくりと、重い腰を引き上げるようにして立ち上がった八雲紫は、これしかないといわんばかりに拳を叩いた。

 

「分かるんですか、犯人」

「あら、それを見つけるのはあなたの仕事でしょ」

「私は探偵になったつもりはありませんが」

「あなた如きに探偵は無理よ。せいぜい山椒魚くらいね」

「もう訳が分からないです」

 

 ふふっと不敵に笑った八雲紫は、それでは行きますか、とおもむろに境界を私の目の前に作り出した。また、素っ頓狂な声をあげて、大きく尻もちをついてしまう。くすくすと馬鹿にするような笑い声が部屋を包む。誤魔化す様に煎餅をかじり、どこに行くんですか? と話題を逸らす。“分かりやすいなー”と心を突かれるが、気にしない。

 

「そう、ね。やっぱり竪穴に行かないといけないかしら」

「事件は現場で起きてるんだね!」不思議なことを彼女は愉しそうに言った。

「いま、なんて? 事件が起こった場所を現場と呼ぶのではないですか?」

 

 分かってないなあ、と呟いた彼女は現場百回! と叫んだかと思うと八雲紫がつくった境界に飛び込んでいった。止める暇すらなかった。

 

「ほら、あなたも行くわよ」

「行かなきゃ駄目ですか」

「いつから引きこもりになったの?」

 

 呆れるように肩をすくめている八雲紫から目を逸らし、応接間の天井に目をやる。豪華なシャンデリアが部屋を照らしているが、そのガス灯を束ねている煌びやかな姿が小さく見えるほど、天井は高い。ペットのキリンですら余裕で入れる。まさしく夢のマイホーム。折角こんないい場所に住んでいるのだ。わざわざ外に出る必要はない。だが、時々思うのだ。もう遥か昔のことのように思えるが、地上で姉妹二人で怯えながら体を寄せ合って寝たあの洞穴のことを。そして、あの辛い日々が時々たまらなく愛おしく感じる時がある。だからこそ、私はここから出たくない。竪穴に行ってしまったら、ここに帰ってきたくなくなってしまいそうだったから。

 

 みたらし団子の件で涙を流したからか、そんなナイーブなことを考えていた。しかも、後で訊いた話では声に出ていたらしく、ばっちり八雲紫に聞かれていたらしい。死にたい。だが、そんな私の思いを知っていたにも関わらず、楽しげに笑った八雲紫は、私の前に扇子を突き出した。顔から血の気が引いていくのが分かる。心はよめなくても、彼女が何を考えているのかは一目瞭然だった。

 

「一名様ごあんなーい、ってね」

 

 お茶目な声が聞こえた途端、私の足元に境界が生まれ、ストンとそのまま落ちていく。ああ、結局私は彼女には逆らえないのだな、と改めて認識させられる。仮に私が山椒魚なら彼女は一体なんなのだろうか。きっと、洞穴自体が彼女に違いない。この洞穴ババアー! と叫んだ声は、むなしく虚空へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

「やっぱり、現場に行ったからといって犯人が分かるわけじゃないんだね」

 

 辺りの壁をつつきながら、うーんと可愛らしく首を傾げた彼女は、悩ましげに帽子をいじくった。

 

 結局、私たちはヤマメが落ちてきた竪穴を調べることにした。とはいうものの、推理小説のようにポンポンと証拠が見つかる訳でもなく、美術館を巡るように、ゆっくりと竪穴を昇っているだけだ。こんなことをして意味があるのだろうか。まだ地霊殿でペットの背中を撫でている方が有意義だ。

 

 竪穴の様子は前来た時と、つまりヤマメが落下してきた時と大して違いはなかった。無愛想でゴツゴツしている焦げ茶色の岩壁は、時々私たちを牽制するかのように鍾乳石を突き出している。だが、飛行の妨害となるほどのものではなかった。実際に邪魔になりそうなものは既に折られている。きっとキスメかヤマメがあらかじめ折ったのだろう。

 

 ゆっくりと上を見上げる。いつの間にか二人とは距離ができていて、暗さのせいか姿を捉えきれなくなっていた。慌てて追いかける。あの日みたいに霧が出ていたら、きっと彼女たちの姿を見失っていただろう。不幸中の幸いだ。

 待ってくださいよ、と叫びながら彼女たちの背中を追うが、一向に近づく気配がなかった。

 

「遅いと置いてくからー」とすでに置いて行っているにも関わらず、のうのうと言ってくる。そんなにはやく進んでしまったら、証拠に気が付かないのではないか、と考え、なんか文句を言われたらそう説明しようと心に決めて、追いかけるのを諦めた。私の体力の無さは筋金入りなのだ。

 

 八雲紫からの攻撃を避けられたのは偶然だった。突然こちらに振り返った彼女は、「諦めは人を殺すわよ」と微笑み、無数の光の玉を私めがけて放ってきたのだ。いくらあの八雲紫でもそんな突拍子もないことをするとは思わなかったので、反応が遅れた。不規則に、猛スピードで迫ってくるそれらを目で追うことはできず、発作的に八雲紫から距離をとろうとする。しかし、それよりもはやく七色の弾幕が迫ってきて、みるみる距離が縮まっていった。視界が光に包まれる中、壁から飛び出した鍾乳石が目につき、必死にその影に飛び込んだ。爆風と凄まじい音が竪穴中に木霊する。埃が巻き上げられ、ケホケホと咳き込む。どうやら光弾は追尾性のものではないらしく、そのまま穴の奥底へと消えていくものと、鍾乳石にぶつかって消えるものだけで、私に直撃するものは無かった。

 

「あら、まさか避けられるとは思わなかったわ」私を見下しながら、八雲紫は楽しそうに言った。

「ちょっと、死ぬかと思いましたよ!」

「あなたがノロマだからよ。歩みの遅い奴は殺していい、って常識でしょ?」

「そんな常識があってたまるもんですか」

 

 子供の様に地団太を踏んで、このやり場のない怒りをぶつけようとしたが、残念なことにここは空中だったので、代わりに思い切り鍾乳石を蹴り飛ばした。鈍い音が響き、私の足に鋭い痛みが走る。あまりの痛みに、折れました! 骨も心も! と叫んでしまった。そのまま鍾乳石の上でうずくまる私を見て、上空の二人は呆れたのか、哀れに思ったのか、ゆっくりとこちらに降りてきた。その目は理不尽に半分閉じられており、睨むような、さげすむような、とりあえず私を不安にさせるような目つきだった。

 

「何やってんの。馬鹿じゃないの」

 

 姉妹として恥ずかしいんだけどー、と反抗期の娘のように訴えてくる。妖怪に反抗期があるとは思いもしなかったが、悲しみよりも彼女の成長に対する喜びの方が僅かに勝った。が、八雲紫の「遊んでないで、早く行くわよ」という一言で、私の心はまた奈落へと落ちていく。天秤の右側にピンセットで慎重に喜びを積み上げていき、やっとのことで左側の悲しみの分銅と釣り合ったかと思ったのに、そんなもの知らないとばかりに左側の皿を両手で押し込まれた気分だ。遊んでなんかないし、いきなり殺そうとしてきたあなたが悪い。そもそも竪穴なんかで推理ごっこをしたところで意味はないんじゃないか。そう言いたかったが、残念なことに足りなかった。何がか。勇気だ。

 

「山椒魚には勇気が足りないんです」

「何いってんの。馬鹿じゃないの」

 今度の反抗期の言葉は、心の天秤の右側ではなく、左側に乗っかってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

「ここより上に出ると、地上になってしまいますよ」

「そうね。そろそろ降りましょうか」悪びれもせず、八雲紫は笑った。

 

 結局竪穴を昇っていったところで、たいしたものは見つからなかった。それはそうだ。もしあったとしても私なんかでは到底見つかりそうにないし、他の二人は実のところ真面目に探してすらいなかった。現に、反抗期となった古明地家の問題児は、「地上の風って冷たいんだったけ?」と無邪気に地上へと続く穴を見上げている。日光が差し込んでいるのか、僅かな光が辺りを照らしているが、それもか細いもので、暗闇といって差し支えのないほどだった。にも関わらず、私は思わず目の前に手をかざした。地上の光、太陽の光を見てしまったら、何かが壊れる気がしたのだ。どこかの西洋妖怪のように体が灰になるわけではないが、自分を構成する何かが、音もなく崩れていくような、そんな嫌な予感がした。

 

「地上までけっこう距離があるのに、こんなに風って吹いてくるもんなんですか?」その風が私の嫌な気分まで吹き飛ばしてくれれば良かったのに、そこまで風は優秀では無かった。

 

「普段はそんなこと無いわよ」八雲紫は困るわぁ、と微笑んだ。元気すぎる孫に手を焼くおばあちゃんのように、優しく、柔らかに眉を下げる。

「今は特別に寒気が強くて吹雪が収まらないのよ。きっと、桶屋は大儲けしてるわね」

「風が吹いたら桶屋が儲かる?」

 

 八雲紫らしい、面白くもない洒落だ。肌寒いのは、風のせいだけではない。風邪をひいてしまう前に、早く帰りましょうと踵を返した時、あっ、と叫ぶ声が聞こえた。私と八雲紫は顔を見合わせる。何かに気がついたのか、問題児は既に問題を起こすのではなく、答える方にまわっていた。気のせいか、頭の上に豆電球が浮き出て、ピカンと光ったかのように見えた。

 

「そういえば、見当たらないじゃん!」

「見当たらないって、何がですか?」

「彼女だよ! 前はいたのに」

 

 彼女とは誰のことだろうかと考え、すぐに思い至った。いるはずの彼女の姿がない。竪穴は地上と繋がっている。この一点のみ警戒すべきことではあるが、むしろその一点があまりにも恐ろしい。そんな場所を一通り見て回って、無人であるはずがないのだ。竪穴の管理を任せている、桶に入った臆病で凶暴な少女。恐るべき井戸の怪こと、キスメの姿がないのだ。

 

「そういえば、ヤマメの見舞いにもキスメは姿を見せていなかったですね」てっきり、竪穴に籠っていると思っていたが、違ったようだ。

「ん? ああ、そうだったかもねー」小さく首を捻って、“急にどうしたの?”と訝しんできた。自分が言い出したことだろうに、どうして困惑しているのだろうか。他の誰かのことを考えていたの? と心で訊ねるも、“知らなーい”と返ってくるだけだった。興味を失くしたのだ。

 

「竪穴にいないなら、キスメは一体どこに行ってしまったんでしょうか」

「キスメって、あのつるべ落としの? たしか土蜘蛛の子と仲がいいとかいう」

「ええ、そうです」

「その子が姿を見せないの?」

「ええ、そうです」

 

 鼻で笑った八雲紫はあなたねぇ、と語尾を強めた。嫁をいびる姑のようだなぁ、とどこか他人事のように考えていたが、肩を掴まれ、目を強引に合わせられる。

 

「その子、無茶苦茶怪しいじゃない。どうして早く言わないのよ」

「そんなこと言われましても」

「早く探しましょう」

 

 そもそも犯人を捜す気なんてなかったんですから、そんな私の戯言は、いざ、犯人さがしへ! という勇ましい声にかき消されてしまった。

 

 昇る時よりもさらに速く私たちは竪穴を下っていた。そんなに急ぐと途中でキスメがいても気がつかないんじゃないか、と思ったが、八雲紫がそんなへまをするのも想像できなかった。できれば昇りの時も同じくらい集中して辺りを見渡してもらいたかったが。

 

 下から、生暖かい湿った向かい風が頬を撫でる。辺りが暗いせいで、自分がどのくらい降りてきたか、分からない。時間的にはもうそろそろかな、と思ったところで、少しずつ地面が見えてきた。見えてきて、驚いた。昇る時にはぶっきらぼうなくらいに平坦だったそれは、みるも無残に掘り起こされていたのだ。綺麗に円状にくぼみができていて、その中心からは僅かに煙があがっている。何かが高速で思いっきり地面に突っ込んできたかのような、そんなくぼみだ。

 

「これ、あなたの光弾のせいではないですか?」

「そうみたいね」

 

 あっけらかんと言い放った八雲紫を殴らなかったのは、奇跡に近い。何がそうみたいね、なのか。地面がえぐれるほどの弾を私に打ち込もうとしていたのだ。確実に息の根を止めにかかっているとしか思えない。もし避けられなかったら彼女はどう責任を取るつもりだったのだろうか。

 

「でも、私はあなたが避けられると信じていたわよ」

「よく避けられたわね、とか言ってませんでしたっけ」

「覚えてないわ」

 

 私の心をさとり妖怪でも無いのに読み取ったのか、彼女は適当なことを嘯いた。もういっそのこと、犯人は八雲紫です! と発表してしまった方が、気が楽になりそうだ。

 

 意図的に八雲紫と目を逸らし、大きくへこみ、ひび割れてしまった地面に足を下ろす。焦げ臭いにおいが鼻につき、自然と眉にしわが寄る。何かが燃えたような、息苦しい匂いだ。

 

「あれ、なにかしらね」

 

 いつの間にか私の後ろにいた八雲紫が扇子を突き出していた。彼女に従うのは癪だったが、大妖怪の雰囲気にのまれたのか、勝手に視線が動いてしまう。八雲紫が差していたのは、くぼみの中央付近、煙が漂っている場所だった。どうやら、この焦げ臭さはあの煙から発せられているようだ。

 

「あの煙がどうかしたのですか?」

「折角三つも目があるのに、あなたは何を見ているのかしら? その下よ、下」

 

 こいつはいちいち私を蔑まないと物を喋れないんじゃないか、と本気で不安になる。人を馬鹿にして喜ぶような奴が幻想郷の賢者なんてやってていいのだろうか。きっと、こいつの部下は随分と苦労しているに違いない。

 

 いやいやながら、煙の下へと足を進める。黒色と白色が混じった煙からは、顔を背けたくなるほどの異臭が、相変わらず漂っている。その発生源を確かめるべく目を凝らしながら近づいていくと、地面と同じ、茶色の物体が燃えているのが見えた。見えた瞬間、息が詰まる。匂いに堪えられなかったからではない。その煙の発生源があまりにも衝撃的過ぎて、呼吸をすることさえ忘れてしまったのだ。

 

「紫さん。あの、これ」

「ほら、私の言った通りじゃない」得意げに八雲紫は笑った。

「風が吹けば桶屋が儲かるのよ」

 

 パチパチと音を立てて燃える桶を見ながら、私は呆然とするしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「これ、キスメの桶ですね」

 

 ところどころ黒く炭化している桶を見おろしながら、私の頭には一抹の不安が浮かんだ。もしかすると、八雲紫の光弾によってキスメが死んでしまったんじゃないか。それこそ体が消滅してしまうほどに。一度そう考えてしまうと、どんどんとその想像が膨らんでいき、背筋を凍らせる。ああ、もしそれが本当なら、地底と地上で戦争になってしまうかもしれないな。私は何処かへ逃げようかな。そんなことを考えていると、「キスメは死んでいないよー」と間の抜けた声が聞こえてきた。大きな帽子を揺らしながら、スキップをして私の肩に手を置く。

 

「普通に考えて、桶が残ってるのにキスメだけ吹き飛ぶことなんてありえないでしょ。多分、地面に埋まってたのがゆかりんの光弾で掘り起こされたんだよ。よく見ると湿った土がついてるし」

 

 もう一度、桶をしっかりと見つめる。確かに、所々に濃い色の、牛のフンのような土がついていた。

 

「でも、なんでキスメの桶が地面に埋まってたんでしょう?」

「そんなの簡単だよ!」

 勢いよく私にむけてビシリと指を突き出した。あまりに鋭い動きに、てっきり目を突かれると思った私は、おののき、顔の前に手を突き出してしまう。

「証拠隠滅って知ってる? キスメはこの桶が証拠になるから隠したかったんだよ!」

「証拠?」

「そう。ヤマメを殺した証拠を、性懲りもなく隠したのさ!」

 

 どうしてそんな気取った言い方なのか、そもそもヤマメは死んでいない、というかその駄洒落は八雲紫並みだからやめて、と言いたいことは無数にあった。あったが、口にはしなかった。どうしてこれがヤマメを突き落した証拠になるのか、そっちの方が気がかりだ。

 

「えー、分からないの?」何も言っていないのに、彼女はいやらしく笑った。私の心をよんだのだ。

「ほら、もっとよく見てよ。桶の口のところ。何かついてるでしょ?」

 

 これでもかと顔を近づけて、桶を観察する。匂いが酷いが、気合で我慢する。恐る恐る、桶の口の辺りを手で触れた。ザラザラとした木の感触の他に、べちょりと粘り気があるものが手についた。咄嗟に手を引き、指先を見つめる。キラキラと輝く白い糸が爪についていた。

 

「蜘蛛の糸」

「そう! ヤマメの糸だよ」

 満足そうに頷いた彼女は、犯人は一人! と決め台詞なのか、よく分からないことを叫んだ。

「犯人はキスメで決まりだ!」

 

 

 頼むから、絶対に口外しないでくれ、と二人に頼み込み、桶を持ち帰った。八雲紫は当然よ、と微笑んでいたが、もう一人の探偵気取りは「えー、せっかく推理ショーしようと思ったのに」と口を尖らせた。なんとか、今度いっしょに遊びにいく、という約束で満足してもらい、とりあえずその場はしのぐことができた。

 

 正直、キスメが犯人と聞き、そんな馬鹿な、と思うよりも、やっぱりか、と思ってしまった。彼女が時々みせる凶暴性はつるべ落としとしての威厳をこれでもかと見せつけてくる。もしかすると、その本能が理性を凌駕し、発作的にやってしまったのかもしれない。

 

 ただ、これではっきりしたことがある。今回の事件は絶対に表に出してはいけない。正直、この日記に書こうか迷ったくらいだ。この秘密は墓まで、地獄まで持って帰ろう。どうか仏様、蜘蛛の糸を切ってしまった哀れな桶少女を救って下さい。

 そして、明日目が覚めて、犯人が知れ渡っているなんてことがありませんように。

 

 

 

 




地上に帰りたいのに帰れない。悲しいですね

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