音が消えた。目の前が真っ暗になり、世界が闇に包まれたかのように錯覚する。地面に寝そべっていたはずなのに、身体がなんだかふわふわして、宙に浮いているような気分だ。もしかして、私は死んでしまったのだろうか。今朝来た怨霊のように、白い風船のような醜い存在になってしまったのだろうか。
だとすれば残念だ。私にはまだやらなければならないことがあった。最近地底にできたかき氷屋にも行ってないし、あの子と一緒に遊びに行くという約束も果たしていない。そして何より八雲紫に餡蜜を奢ってもらえていないのだ。これは許されない。食べ物の恨みは恐ろしいということを身をもって味わってもらおう。幸いなことに、怨霊となったならば憑りつくことができるはずだ。
「怨霊になって幸いなんて、洒落でも面白くないわよ」
「え?」
どこからか、聞き慣れた声が頭に響いた。実際に耳にした訳でもなく、心の声でもない。直接頭に流し込まれているような、妙な感覚だ。
「鳩が豆鉄砲をくらったというより、さとり妖怪が心をよまれたような顔をしているわね」
体の感覚が急激に戻ってきて、腹の奥がえぐられるような痛みが襲う。粘り気のある液体が口から溢れ、せき込んでしまった。手で拭うことすらできないが、生臭い鉄の匂いがすぅと抜けていく。それと共に、暗闇だった視界も段々と開けてくる。ゆっくりと目を凝らし、開けたはずなのに一向に暗い目前を凝視すると、空中に浮かぶぎょろりとした瞳と目が合った。声を上げ、逃げ出しそうになるが、身体が思うように動かず、ただ呻くだけで終わった。どうして。なんで。こんなところに。
「まさか、あなたがこんなことをするなんてね。正直、見直したわ。同時に見損なったけれど」
いったい、なぜ八雲紫が来ているのか。
「どうして来たのか、って顔してるわね」
動けない私を持ち上げながら、八雲紫は微笑んだ。こっちとしては笑い事ではないのですが、と小さく呟くも、無視される。
「本当はこの問題に関わりたくなかったわ。地底の問題に地上が介入すると、碌な事がないですもの。ただ、あなたのペットが面倒なことをやらかしてくれまして」
視線を右に向けた八雲紫にならって、同じ方向を向く。そこには、私を心配そうに見つめるお燐と、星熊と睨みあっている伊吹萃香の姿があった。
「あのクソ猫が萃香を誑かして、地上で色々と騒ぎを起こさせたのよ。それで文句を言おうとあなたに会いにきたら、死にかけていたってわけ。全く、ペットの管理ぐらい頑張りなさいよ」
こちらに向かい、ドヤ顔で親指を立てているお燐は、私の顔を見た途端、勢いよく飛び跳ね、大急ぎでどこかへ去っていった。私はまだ彼女に何も言っていないにも関わらず、全力で逃げていく。きっと、呆れと怒りで眉間の皺が凄いことになっていたのだろう。彼女の心は“褒められると思ったのに、怒られるなんてひどい!”と愚痴を吐き続けていた。知ったことではないが。
「萃香、紫。どうしてそいつを庇った」あとでお燐をどう折檻しようかと考えていると、星熊が声を荒らげた。
「ヤマメをやった犯人をどうして庇った!」
八雲紫に変化はなかったが、伊吹萃香は目にみえて動揺していた。私を何回か見直した後に、私がいない間に何があったんだ、としきりに首を捻っている。が、考えることを諦めたのか「そんなの、私の勝手だろ」と鼻を鳴らした。
「というか勇儀だって、私に無断で古明地と喧嘩してたじゃないか」
「これは喧嘩じゃない」
「殴り合いをすれば、それはもう喧嘩だよ」
いえ、一方的な虐待でした、と言おうとするも八雲紫に口をふさがれた。余計なことは言うな、と耳元で囁いてくる。くすぐったいが、それよりも怖い。あと、口からいい匂いがした。
「よし、分かった。勇儀、ひとつ取引をしようじゃないか」
何が分かったか分からないが、伊吹萃香はうんうんと頷きながら、大きく手を叩く。
「取引だ?」
「私が勝ったら、古明地の処遇は私に一任しろ。お前らの恨みつらみは知らん。忘れろ。もしお前が勝つことができたら、古明地は煮るなり焼くなり好きにしてくれていい」
勝手に人の命を取引しないでください、と叫ぶも、八雲紫の白い手袋に口が覆われているのでもごもごとくぐもった声しか出なかった。無理に声を出そうとしたからか、少し口端に血が垂れる。が、誰も気にしてくれない。
「そんな取引に応じるとでも思っているのか」
「おいおい、鬼の四天王である星熊勇儀が、まさか喧嘩の申し込みを断るのかい?」
「言ってくれるじゃないか!」
何とも簡単な語られる怪力乱神はあっさりと挑発に乗った。私の苦労がばかみたいだ。こんなことならキスメが殺されそうなときに来て、助けてやればよかったのに。いや、駄目だ。キスメはヤマメに怪我をさせてしまったという事実にすら耐えられそうになかった。やっぱり、私が犠牲になるしか、キスメの凶行をも私のせいにするしか方法はなかったはずだ。そう自分に言い聞かせる。
「おいお前ら! 今から四天王の私たちが喧嘩するんだ。手出しをしたらただじゃすまないと思え」星熊が叫んだ。
「あ、あと酒の準備よろしく」伊吹萃香が星熊を挑発するように軽い調子で私たちを見つめる。
“今んうちにどっかで治療しに行っといてくれ”
こちらを一瞥し、片目をつぶった伊吹萃香に危うく惚れそうになった。だが、彼女の混沌とした内心をみてしまうと、とても感謝する気にはなれない。鬼なのに、鬼らしくない。でも鬼らしい。それが伊吹萃香という存在だ。
八雲紫に、今のうちに地霊殿の医務室へ、と伝えようとするも、相も変わらず、彼女の白い手袋を口に押し付けられているので、また、もごもごと鈍い声が出るだけだった。
「あら? 何をしているの? 私の指はおいしくないわよ」
馬鹿ですか、と口の中で唱える。
「なんて、冗談よ。それじゃぁ、私たちは酒を持ってくるから、終わったら連絡してくださいませ。景品はきちんと私が預かってるから。それじゃ、またねぇ」
私は景品ではないですよ、と嘆く私の声は、薄気味悪いスキマの奥底へと消えていった。
「それで? どうして死にかけていたの?」
真っ白なベッドに寝かせられた私は、全身を包帯でグルグル巻きにされていた。地霊殿の医務室は、ヤマメがいた頃とは打って変わり、閑散としている。真っ白な天井を見上げる形で横たえてはいるが、包帯で体が思うように動かせないので、横たえるというより、置かれていると言った方が正しい。目もあまり状態が良くないらしく、時々視界に白い靄のようなものが映った。腹に風穴が空いていて、こんな治療で大丈夫なのかと、当然の疑問を呈するも「多少けがをしていた方が、どっちに転んでも得するのよ」といつものような曖昧な言い方で誤魔化されてしまった。多分得するのは私じゃなくて八雲紫だろう。
「どうして死にかけって言われましても、話せば長くなりますが」
「そうねぇ。大体予想はついているんだけど、一応本人の口から聞きたいじゃない? どうしてそんな馬鹿な発想に至ったのか」
「私なりに考えたんですけど」
「馬鹿はどう頑張っても馬鹿なのよ」
私の首元に枕を差し込んだ彼女は、これで少しは楽になったかしら? と慈愛に満ちた表情で微笑んだ。確かに楽にはなったが、彼女のその気色悪い笑顔のせいで相殺される。あなたは私の母親か何かなんですか、と言いそうになるが、それだと相手が喜びそうなので、おばあちゃんか何かですか? と口にした。口にした途端、頭を支えていた枕が消え去り、布団に後頭部を打ち付ける。ポスンという軽い音の割には、鈍い痛みが頭を襲った。痛かったが、私の気分は晴れた。やはり、八雲紫はこうでなくては。
「まあ、ざっくり言えばキスメが土蜘蛛の糸を切ったことがばれまして、しかもキスメはその罪悪感で押しつぶされそうでしたので」
「それで?」
「ヤマメを怪我させたのも、キスメが血迷ったのも私のせいでした、って言いました」
「よく信じてもらえたわね」
「私は嫌われる天才ですから」
「そうね」
胸を張っていいのかは分からなかったが、怨霊にだって嫌われるんですよ! と自慢げに話すと、頭を扇子でパチンとはたかれた。腹に穴が開いている病人になんてことするんだ、と訴えるも、頭に風穴を開けてもいいのよ、と真顔で言い返される。単純に怖かった。
八雲紫の後ろの、医務室と応接間を遮る扉に目を向ける。八雲紫と会話することに疲れたからではなく、事実疲れていたからかもしれないが、とにかく、そこに誰かしらの気配を感じた私は、第三の目を向けた。無理に身体を動かしたからか、全身に激痛が走り、目には涙が浮かぶ。が、さとり妖怪として、本能的に相手の心をよもうとしてしまい、それは耐えきれるものではなかった。
“ああ、やっぱり怖いなあ。怒られたくないなあ”と心の声にも関わらず、猫撫で声がきこえた。お燐の声だ。もう怒っていないから、早く出てきてほしい。ペットは癒しだ。
「あらお憐。どうしてそんな所に丸まってるの?」
ガタン、と扉に何かが当たる音がした。ひぃっ! と甲高い悲鳴をあげたかと思えば、お空、お空と親友の名を連呼している。「やっぱ、お空も一緒に謝るの手伝ってー!」と叫ぶ声が段々と遠ざかっていった。ドタバタと騒がしい足音が過ぎ去った後には、静寂だけが残る。私と、八雲紫のため息が部屋を包んだ。いったい私はペットにどう思われているのだろうか。
「やっぱり、あなたは嫌われる天才ね」
「それ、褒めてますか、貶してますか」
「当然」
「当然、どっちなんですか」
椅子から腰を上げた八雲紫は、さあどっちでしょう、と嘯きながら、私が寝ているベッドの端、私の頭の近くに正座をするような形で座った。ふわりと甘い香りがし、目がチカチカする。
頭を撫でられる。突然のことに驚き、咄嗟に顔を背けようとするが、包帯で固定されているからか、ピクリともしなかった。私の短めのくせ毛を梳くように手をすべらせてくる。八雲紫が何を考えているか分からない。さとり妖怪なのに、分からないのだ。
「もし伊吹萃香が負けてしまったら、私は殺されますかね」
赤くなる頬を誤魔化すように、早口で言った。
「さあ? 萃香しだいとしか言えないわね」
「ですね」
もしあの時、八雲紫と伊吹萃香が助けてくれなかったら、私は死んでいたのだろうか。星熊は覚悟を決めていた。だが、同時に後悔もしていた。何に対しての後悔なのかは分からない。もしかすると、私に会ってしまったことかもしれない。
「私の選択は、間違っていたのでしょうか」
何となしに、八雲紫に尋ねた。たぶん、私は怖かったのだ。今回の件で星熊と八雲紫、つまり地底と地上の間で軋轢が生まれてしまうことを。そして、本当にこれでキスメとヤマメが平穏な生活に戻れるかどうかを、恐れていた。
「間違っているかどうかは私が決めることじゃないわね」
「なら、誰が決めるんです?」
「あなた自身よ」
いつものように、意味深な笑顔を浮かべた彼女は、「じゃあ、私はお酒を集めてくるわね」と言い残し、ベッドから腰を上げた。が、すぐに立ち止まり、目を丸くしてこちらに振り返る。久しぶりに、彼女の心から感情が漏れ出ている。どうしたのだろうか。
「どういう風の吹きまわしかしら?」
「どうって、何がですか」
「手よ」
て? と疑問に思うが、すぐにそれは解決した。彼女が手といったからか、私は無意識に自分の右手に視線を移していた。そして、八雲紫以上に衝撃を受ける。私の手は、白いフリルがついた絹のドレスを固く握りしめていた。つまり、包帯で動かしにくいはずの指を器用に使い、八雲紫のすそを離さないようにと引っ張っていたのだ。それも、私の気づかないうちに。
「まったく、地霊殿の主が幼子のような真似をしなくてもいいでしょうに」
「え、ええ。そうですね」
照れるように頬を掻いている八雲紫から目を逸らし、鉄板に焦げ付いた肉を引き剥がすように、指を一本一本離していく。彼女のスカートにはくっきりと皺がついていた。「それじゃ、今度こそ行くわね。また後で」と手を振り、スキマに飛び込んでいく八雲紫に適当に返事をした私は、ぼんやりと自分の右手を眺めていた。いったい、どうして彼女のスカートを握りしめていたのか、理解できない。もしかして、寂しかったのだろうか。いや、ないと首をふってその考えを振り払う。たとえ寂しかったとしても、八雲紫にあんな恥をさらすような行為はしない。きっと、一種の気の迷いだ。または、急激な緊張緩和による筋収縮が始まり、たまたま右手がスカートを巻き込んでしまったのだ。そうに違いない。
痛む体を無視して、強引に上体を起こす。背中を壁にもたれかかるようにし、背筋を伸ばした。怪我による腫れと包帯で少し大きくなってしまっている手で、自分の頬を軽く叩く。自分の選択が正しかったかどうかを決めるのは自分自身。まさにその通りだ。まだこの事件は終わっていない。解決していない。ということは、まだ解決できるかもしれないということだ。
「そうは思いませんか? 萃香さん」
天井にかかっていた靄が揺れたような気がした。
八雲紫が去った医務室は、壁にかかった時計の音が鮮明に聞こえるくらいに静かだった。それは心の声も同じで、どれだけ辺りに第三の目を向けても、誰の声も聞こえてこない。だから、普通に考えればこの部屋には私しかいないはずなのだ。だが、この部屋に伊吹萃香が潜んでいると確信していた。彼女の心がよめないのは、彼女が霧に姿を変えているからだ。
姿が見えない伊吹萃香に語りかけるように、ゆっくりと口を開いた。それこそ、名探偵が推理を披露する時のように。
「ヤマメが落ちてきたあの日、竪穴には霧が充満していました。その時の私は、きっと地上との温度差のせいだと思っていましたが、もう一度訪れた時には霧が一切なかったんです。地上は相変わらず寒いのにもかかわらず。どうしてか分かります? 分かりますよね? あの霧は、あなただったんじゃないですか? あの時、私たちと会話を終えた後、ヤマメが心配で竪穴まで着いてきた。そうですよね?」
今考えると、キスメが鬼達から責められていたあの時、鬼たちの上に漂っていた白い湯気も、おそらく彼女なのだろう。そして、今医務室の天井に浮いている僅かな白い靄も、彼女だ。
「それと、竪穴に生えていた鍾乳石。あれ、いくつか折れてたんですよ。八雲紫が放った地面にくぼみを作る程の弾幕を耐える鍾乳石が、です。とてもヤマメやキスメの仕業だとは思いません」
あなたのせいですよね、と声をかけるも、依然返事はなかった。ただ、部屋全体に散らばっていた靄が、私の頭上付近に纏まっていく。はやく、続きを話せ、と催促しているように感じた。
「つまりは、こういうことです。あの日、キスメによって糸を切られたヤマメは、落ちている途中で鍾乳石にぶつかり、引っかかった。体勢を整える前に、です。運悪く頭をぶつけた彼女は気を失ってしまった。それを見たあなたは、きっと焦ったのでしょう。妖怪がその程度で死なないことは知っているでしょうに、ヤマメを何とかして助けなければならない、と決意した。そして、倒れているヤマメに」
そこで私は一度言葉を切った。ヤマメのひしゃげた胸を思い起こす。血と体液でぐちゃぐちゃになっていて、土気色の臓器が痙攣するように動いていた、あの瞬間を頭に描く。いったい、どうしてこうなってしまったのか。あの子がいったような、推理小説のようにはいかない。犯人を見つけて、懲らしめて、終わりとは問屋が卸さないのだ。事実は小説より奇なりというが、正確には、事実は小説より救いなし、だ。
「倒れているヤマメの胸に、心臓マッサージを行ったのですね」
なぜなら推理小説のように、明確な悪人なんていないのだから。
「お前はつくづく嫌な奴だよ」
後ろから声が聞こえた。はっとして、振り返ろうとするも、例のごとく体が動かなかったので、諦めて第三の目だけを後ろに向ける。そこには伊吹萃香の姿があった。天井の露はいつの間にか無くなっている。
さすがの彼女でも、星熊の喧嘩を前に無傷でいられなかったのか、全身のあちこちに傷を負っていた。が、擦り傷やちょっとした切り傷ばかりで、軽症といっていいくらいだ。私の方がよっぽど酷い。
「お前はつくづく嫌な奴だ」
念を押すように、伊吹萃香は繰り返す。鬼である彼女にしては珍しく、俯きがちに、悔いるように言った。
「そんな一々説明しなくたって、心をよめば全部分かっただろうに。あの時のことをいう必要なんてないだろ。思い出させなくてもいいだろ!」
彼女は、私たちさとり妖怪のことを一切信頼していなかった。あの日、私たちが言った〈様子を見る〉という意味を完全にはき違え、つまりは新入りのヤマメに私がお灸をすえに行くと勘違いをし、それを止めようと密かに竪穴に先回りをした。そこで待っていたのは、想像を超える状況だった。私から守るはずだったはずのヤマメが、鍾乳石の上で仰向けに倒れていたのだ。最初は眠っていただけかと思ったが、どうも違うと彼女は気づいた。気づいて、戦慄した。私がすでにヤマメに何らかの罰を下し、亡き者にしようとしたと、勘違いをした。私に対する怒りのあまり、彼女は一瞬だけ、いつもの姿に戻ってしまった。この時、あの子が伊吹萃香の存在に気がついた。私に、何か気づかない? と言っていたのは、いま、萃香いなかった? という意味だったのだ。
そして、混乱していた伊吹萃香は直前の私たちの会話を思い出していた。あの子が言った心臓マッサージの話だ。「胸の辺りを軽く押す」「コツがいる」この二つの情報しかもっていなかった彼女は、とりあえずヤマメの胸を軽く押した、つもりだった。実際には、煮えたぎる私への怒りと、急な展開による動揺で、力を上手くコントロールできず、思ったよりも力を籠めてしまった。
目の前に血しぶきが舞った。鬼の優れた動体視力は、ヤマメの胸がトマトのように潰れていく様子をしっかりと見ていた。胸が裂け、臓器が顔に飛び散り、骨が砕け散る様子を、脳裏に焼き付けていた。
落下していくヤマメをみていた彼女の心境は計り知れない。心をよんでもなお、知ることができないくらいに、後悔が奥底まで染み付いている。不幸中の幸いと言えば、胸を押しつぶす瞬間をキスメに見られなかったことくらいだろうか。そんな彼女になんと言葉をかければいいか、私にはわからなかった。
「お前は、本当に嫌な奴だよ」
消え入りそうな声で、彼女はまた同じ言葉を繰り返した。
「なんであんな嘘をついたんだ?」
「嘘、ですか」
「お前が、キスメとヤマメを操ったっていう嘘だよ」
それしか方法がなかったから。キスメとヤマメを救い、地底の安寧を保つためには、あれしかなかったから。私は既に嫌われているから。思いつく理由はいくつもあった。でも、それを伊吹萃香に口にすることはできない。彼女が言いたいのは、そういう事ではないのだ。そうではなくて、“どうして私を庇うような真似をした”と憤っている。なぜそんな余計な真似を! と糾弾しているのだ。
「よく、考えてみてください。今回の件で、あなたが地底中から断罪の標的にされたとします。ですが、あなたほどの実力の持ち主なら、そう簡単に負けることは無いでしょう」
「当たり前だ」
「それが問題なんですよ。萃香さん、あなたは本気で殺しにきた相手を生きて返したりはしないでしょう? 鬼の四天王とそれ以外が本気の殺し合いをする。ほら、もうこれだけで緊急事態です」
「随分と合理的なんだな」と伊吹萃香は肩をすくめた。
医務室の、ツンとする薬の匂いにようやく慣れてきた。それでも、腹の痛みは治まりそうにない。穴が空いているからか、それともストレスによるものか。おそらく両方だ。
「でも、それだけじゃないですよ。他にも理由はありました。知ってますか? 私は勇気が無いんです。勇気のない山椒魚。そんな私がこんな決断をした。なぜか分かります?」
「何が言いたい」
「ヤマメを助けようとしたのに嫌われてしまうなんて、あまりに残酷じゃないですか。そんな酷い話はありませんし、私は認めません」
「優しいんだな、さとり妖怪のくせに」
一言多いですよ、と苦笑した私は、壁にもたれていた背中を、少し丸めた。包帯の中の汗に風があたり、心地がよい。だが、腹の痛みは一向に収まる気配はない。それどころか、鈍い痛みのせいで吐き気にまで苦しめられていた。
「でも、それだとお前はどうなんだ?」
いつの間にか私の目の前に伊吹萃香は現れていた。驚きのあまり三つの目を見開いてしまったが、彼女はそれに気づいた様子もなく、手に持った瓢箪を口にした。まずい、と肩をすくめて、お前のせいだと責められる。酷い言いがかりだ。せめて、もっとましな理由で怒ってほしかった。
「認めたくはないが、お前もキスメとヤマメ、そして私のことを助けようとしたわけだろ? それなのに責められるのは、認められないんじゃないのか?」
「でも、仕方がないんです。そういう運命ですから」
そういう、嫌われる運命ですから。自嘲気味にそういうと、伊吹萃香は「運命っていったい何だろうか」と肩を落とした。また、静寂が訪れる。カチカチと秒針がたてる音すら煩わしい。運命とは何か。そんなものは知らないし、知ったことではない。だが、もし運命を操れるような奴がいるならば、私はそいつを心底軽蔑するだろう。もう少し、さとり妖怪にも優しい運命をくれても良かったのに、と胸倉をつかんで問い詰めたい。
すぅ、と息を吸い込む音が聞こえた。伊吹萃香が、何かを口にしようとして、戸惑っている。が、当然私はその内容を心から読み取っている。
「私もお前が嫌いだよ」
なぜか照れ笑いを浮かべながら伊吹萃香はそう言った。
「どんな理由があれ、嘘をつく奴は嫌いだ」
「そうですか」
踵を返し、去っていく彼女の背中を見つめる。それはどこか寂しげで、心なしか二本の角も垂れ下がっているように見えた。彼女の心に寂しいなんて感情はないにも関わらず、だ。だからだろうか。遠ざかっていく彼女の背中に、分かりきっている質問を投げかけた。
「星熊との決闘、勝ちましたか? 負けましたか?」
目を丸くした伊吹萃香は、吹っ切れたかのように清々しい笑みを浮かべて振り返った。
「当然」
そのあとに続く言葉を、彼女は意図的に発しなかった。
犯人は一人! という決め台詞は間違っていたんですね