普通のお話です。
そういえばファミリーレストランって家族で利用したことあんまり無いな、と思った。
年齢を重ねるごとに家族でご飯、という機会が少なくなってくるからかもしれない。学生時代に友人グループと、部活やサークルなどの先輩後輩と、もしくは独りで、なんてことはしょっちゅうだった。思い返せば、ファミレスといって思い浮かぶのはそんなことばかりだ。
現に今、周りを見回してみれば学生グループがたくさん目につく。ファミリーは1つ……いや、2つ。
では、俺が誰とここに来ているのかというと。
「なんで私たちの家で一緒に暮らさないんですか!」
「なんで一緒に暮らすと思うのよ!」
「だって私たち、姉妹じゃないですか!」
「ダメだわ……こうなったコイツは話なんて聞きゃしない」
俺の隣に座る灰髪の女性が向かいの金髪の女性に呆れ、どっかりとその身をソファーに沈める。店内の明るいライトを受け灰色が鈍く輝くのを、綺麗だと思った。
呆れられた金髪の女性は未だにプリプリと何かを言っているが、特に誰かに向けて言っている訳ではなさそうだったのでスルーしておいた。
この2人は髪色こそ大きく違うが、その容姿はとても似ている。それも当然か。ここにいる俺以外の3人は姉妹なのだから。
「お兄さん!ドリンクバー行きましょう!私的最強ブレンドを教えてあげます」
「アンタもガキっぽいことしてないで、コイツに言ってくれない?一緒の家に住むのは無理だって」
「え?無理なんですか?」
「アンタもそっち側なのね……」
今度は俺の向かいの、どこか隣の彼女を幼くしたような印象の少女が声を上げる。まだ無邪気さを体全体に残しており、一緒にドリンクバーへと赴き、帰ってきて、今度はメニューのデザートページを食い入るように見つめている。
「まさか、こいつらがここまでアホだとは思っていなかったわ……」
「あの!パフェ食べてもいいですか!」
「勝手にしたら……?」
「あっずるい!お姉ちゃんもパフェ食べたいです!」
「勝手に!したら!」
肩をいからせ、対面の2人に声を荒げる。呆れたり怒ったり、忙しい人だ。
大きいの2人は未だに議論という名の会話のキャッチボールならぬボールのぶつけ合いを続けており、小さいのは自作のパフェの歌を口ずさみながらメニューの間に挟まっていた間違い探しで遊んでいる。(可愛い)
そうやって3姉妹がやいのやいのと盛り上がっているのをBGMに、食後のコーヒーと洒落込んでいた時だった。
「弟クン!」
思わずカップを落としそうになるのを堪える。どうやら俺に矛先が向かったらしい。
「弟クンの意見も聞かせてください!」
「そうよ!アナタからも言ってやって!一緒には住めないって」
「えー!どうしてですか!私、お兄さんと暮らしたいです!」
「弟クンはお姉ちゃんと一緒に暮らしたくないんですか!」
向かいの2人からの凄まじい圧に困り、隣の彼女に助けを求める。すると彼女は、顔を真っ赤にして反撃の狼煙を高々と上げるのだった。
「ウルサイわねぇ!アンタらの弟とか兄とか、それ以前に私たち新婚なのよ!そっちの家には戻らない!以上!」
視界に入る別卓の中で唯一の家族連れが会計を済ませ、店外に出ていくのが見える。
俺は「家族」でこのファミリーレストランを利用しているのだった。
ぼくからキミへ
「家族になるには」
神絵師になるためには、コミックイベント最終日の夜に焼肉打ち上げの画像をSNSにアップしなければならない。
何を馬鹿なことを、と笑うだろうか。しかし待ってほしい。このなんてことはない、ごく普通の行為にはいくつかの要因がなければできない事実が隠されているのだ。
まず、イベント後に打ち上げを行う元気が余っている、つまり場慣れしていること。夕飯時に焼肉屋に行くためには、直前ではない予約が必要であること。撤収作業も込みでその時間に行かなければならないこと。そのためには早めに完売しなければならないこと。そして打ち上げのメンバーが全てそれらの条件を達成していること。エトセトラエトセトラ……。
日本最大級の同人イベント、コミックフェスティバル通称「コミフェス」の3日目を無事に終わらせた帰り道、彼女が体を捻りながら後屈し、俺にこう言った。
「今夜は焼肉っしょー!あっはっはっはっは!」
これから同人作家さん仲間とコミフェスの打ち上げなのだが、3日間の疲れからなのか彼女の頭は少しイカれてしまっていた。夕焼けを宿したその表情は、無邪気にくしゃりと歪んでいる。
「今夜はって、打ち上げはいつも焼肉じゃないか」
「わかってないわねぇ。その時にしかできない旬のネタってものがあるのよ」
どうやら何かのネタらしい。
そして彼女に催促された俺は、もう一度先程のポーズをとる彼女を写真に収め、顔をよくわからない絵文字で隠し、先程と同じセリフと共にSNSにその画像を上げるのだった。
「あ、みんなも同じようなポーズの写真アップしてるよ」
「あー、くそ。先を越されたわ」
言葉とは裏腹に、彼女はニヤニヤと楽しそうだ。世界の色を吸い込んでオレンジに輝く灰のような髪が跳ね、歩幅が広くなる。俺は横に並び、脚並みと感情を彼女に合わせるのだった。
「打ち上げ楽しみだね。オルタ」
「……そうね、立香」
俺は小説家の藤丸立香。彼女は漫画家のジャンヌ・オルタ。同人活動の際は俺が話を作り、彼女が漫画にする。俺たちはパートナーなのだ。
打ち上げ会場は地獄絵図と化していた。屍が積み上がり、肉が焦げる匂いがする(焼き過ぎ)。デキあがった魑魅魍魎が踊り狂い、まさに混沌としていた。
「キタわ確定演出ぅぅぅぅ!」
「ざっけんな!」
「爆発四散しろ!」
「いいなー」
オルタは恒例の公開有料ガチャ回し選手権に参加しており、どうやら最高レアリティ確定のエフェクトを見て狂喜乱舞しているらしい。顔が真っ赤だ。完全に酔っぱらっている。
「なんですり抜けるのよ!」
「ざまぁぁぁぁぁ!」
「ィヨッシャァァァァ!」
「どんまい」
お目当てのものは当たらなかったらしい。しかし、当のオルタも野次馬の皆も楽しそうに笑っている。網から出る煙を吸い込む、ゴウという音すら聞こえないほどの騒がしい室内。誰もが半分ほど理性を無くしてゲラゲラ笑っているその様を、部屋の隅で焦げかけの肉を処理しながらハイボール片手に見守っていた。
「お疲れかい、マスターくん」
そんな俺を気にかけてくれたのか、仲間の1人が話しかけてくれた。眼鏡の似合う、クールな女性である。ちなみにマスター、というのは俺がオルタと一緒にやっているサークル「シュヴァルツヴァルト・ファルケ」内での名前のようなものである。オルタは「デュヘイン」で通っている。全てオルタが「なんかカッコいいから」という理由で付けた。
お祭り騒ぎのような彼女たちとは対照に、こちらでは比較的静かな時間が流れている。
「そういうわけではないんですが。相棒が、ああやってたくさんの仲間に囲まれて楽しげに笑っているのが嬉しくて、つい。普段は友達付き合いとかあんまりしないんで」
眼鏡さんは「確かにデュヘちゃんが普段からあんなに騒がしくするのは、ちょっと想像できないね」と言って笑った。
「せっかく頼んだ物が勿体ないってのもありますけどね」
少し恥ずかしいことを言ったな、という照れを誤魔化すように、スペースの空いた網の上にタンを並べる。眼鏡さんはニマニマと笑っていた。
「あーっ、アタシも食べたいっす!」
ふーっ……と、網から昇るゆらゆらとした煙とは明らかに違う線のような煙を吐きながら、また1人この部屋の隅にメンバーが加わった。騒ぎまくってお腹が空いたらしい。
「あっ、煙草大丈夫ですか?」
「いいよ気にしなくて」
短めの茶髪で耳にピアスをしている彼女は、ニコニコしながら肉を食い、煙草を吸い、カルーアミルクを飲んでいる。女の子らしいのかそうでもないのか、よくわからない。
「センパァイ、全然飲んでないじゃないっすか。ホラホラ」
後輩キャラでグラスを掲げてにじり寄ってくる彼女。普段なら少々鬱陶しいと思うはずだが、そんなことは微塵も思わずにこちらもグラスを掲げ、ぶつける。俺もなかなかに酔っているようだ。
「カンパイっすー!」
「はいはい、乾杯」
「では私も」
特に意味も無く3人で乾杯する。空になったグラスを机の端に寄せ、タッチパネルで新たな飲み物を注文した。
「で、何の話をしてたんですか?」
チャッピーが肉を咀嚼しながら問う。
「肉食いながら話すのやめなよ。女の子なんだから」
「マスターくん。この子はそういう奴なんだ。諦めな」
そーっすよ。とチャッピーが同意する。いや、君が同意してどうする。
肉を焼く手を止めずに会話を続けた。
「何の話かっていうと……」
ハッとする。何やら俺は恥ずかしいことを言っていなかったか?人をからかうのが大層好きでいらっしゃる眼鏡さんがこれに食いつかないことがあるだろうか。タイミング良く(悪く?)、煙で隠れてしまい、表情がわからない眼鏡さん。これは……どっちだ?
「いやね、今回のフェスも無事終わったなーという話さ」
サラッと答える眼鏡さん。
良かった。俺の恥ずかしい言葉は晒さないでくれたらしい。弱みを握られたということでもある。これから少しの間は彼女の顔色を伺って生きねばならないようだ。
「あー、そっすねぇ……。とりあえず終わって良かったっすよ。今はとにかく何も考えずに寝て、起きて、ゲームして、飽きたら寝る、グータラ生活がしたいっすよ」
相変わらずチャッピーは肉を食らいながら会話を続ける。
「デュヘさんとこは、上がるの早かったっすねぇ。流石っすよ」
「ありがたいことにね。ま、相方が頑張ってくれているおかげだよ」
オルタの方に視線を向ける。どうやらまだガチャ選手権は続いているらしく、大爆死した仲間の1人をオルタ含め複数人で盛大に煽っていた。
さっきの眼鏡さんも言っていたが、オルタは同人界隈の知り合いから「デュヘちゃん」「デュヘさん」と呼ばれている。格好良くない、と本人は不満げだったが、既に定着してしまった為か諦めてその呼び方に甘んじている。俺は可愛いから良いかなと思うんだけど。
「謙虚だね。マスターくんは」
「マジほんとソレっす。話考えてくれるし、手伝ってくれるし、性格もこの通り。みてくれも悪くないし。完璧か!?って感じっすよねぇ。デュヘさんマジ裏山っすよ」
「なんだなんだこの流れは」
お酒が入っているからか、皆口が緩いし、普段なら面と向かって言わなそうなことを普通にぶつけてくる。予期せぬヨイショムーブに少し焦り、話題の変更を試みるわけだが。
「はー、さっきのイッキが効いてきたかな。顔があっついわ」
「マスターくん照れてるね」
「かわいいっすよ」
完全に俺がターゲットとしてロックオンされているようだ。
君らも顔真っ赤だけどね、とは言わないでおいた。現状は2対1。この数的不利な状況に飛び込むほど理性は溶けていない。
「ハー、本当、マスターさん欲しいっすわー。1同人作家に1台レベルですよ。今度の新刊手伝ってくれません?」
俺への攻撃は終わっていなかった。個室の弱い照明が取調室を想起させる。弁護人が欲しい。
「黙ってるとドンドン立場が悪くなるっすよ?」
相手さんも取り調べのつもりだったらしい。ここは一発逆転のウルトラCを発動させざるを得ない。
「……依頼という形なら」
「だぁぁぁ!厳しいっすねぇぇ!」
マジックワードでこの局面はどうやら乗り切ったらしい。アタシとセンパイの仲じゃないっすかぁぁ、と縋り付いてくるチャッピーを、ここからは料金が発生します、と振り切る。
「それは後で相談するとして」
眼鏡さんがここからが本題、とばかりに話を切り替える。いや、後で相談ってなんだ。これで終わりだよこの話は。
「マスターくん、デュヘちゃんと同棲してるんだって?」
「……」
「あ、鼻からハイボール流れてる」
……。
「これは当たりで良さそうだね」
「いや、まあ、そうですけど。コミフェスとかあったし、その方が効率良いかなーって思ったし。べ、べつにずーっとってわけでは」
「どんだけ焦ってんですか」
あれ?リアクションが思ったより小さいな。チャッピーなんて、おもっくそからかってくる気がしてめちゃめちゃ身構えてたのに。
「そんなに驚かないっすよ。ここにいる人ほぼ全員察してますよ。ていうか」
「それで結婚してないっていうんだから、そっちのが驚きだよねぇ」
「デュヘさんたち、けっこ、えぇぇぇぇぇぇぇ!してなかったんすかぁ!」
「声がデカい!」
周囲を見渡すが、こちらの会話に聞き耳を立てている者はいなかった。よかった、みんな馬鹿みたいに酔っぱらっていて自分たちのことに夢中らしい。特にオルタに聞かれていなかったのが大きい。だって暴れそうだもの。
ていうか、驚き過ぎではなかろうか。なんでさっきより驚かれてるんだろう。結婚なんて、そんなスケールの大きい話、俺たちには早いと思う。
「そういうこと、彼女と話していないのかい」
「うん、まあ。話題に出たことないね」
「ダメっすよ、待ってるだけじゃ。デュヘさんだって、自分からじゃ言い出しづらいだろうし」
「えぇ、そうかな。そんなこと考えてもいないと思うけど」
最近は原稿でいっぱいいっぱいだったし。
「それこそ、えぇ、っすよ。何年ですか付き合い始めて」
高2からだから……
「7年とか?そろそろ8年かも」
「ゲゲぇ!そりゃ、そろそろ考えるどころか、ちょっち遅くないっすか?お互い、もう稼ぎもあることだし」
「うーん、そうかなぁ」
お互い、既に相手のいる生活が日常になりすぎて、そんなこと考えたことも無かった。お互いっていうのはおかしいか。少なくとも俺にとっては、オルタはもう生活の一部なのだ。今更そこに楔を打ち込む必要性を感じなくなってしまっている。
チャッピーがフゥーと長い煙を吐き出し、煙草を灰皿にこすりつける。消し損ねた火種がチリチリと燃え、ゆらりと紫煙が立ち昇る。先端が灰に変わり、フィルター部分まで達して消えた。
「デュヘさんのこと、好きなんすよね?」
「そりゃ、好きだけど」
……え、なんだ今の恥ずかしいやりとり。好きだけど、じゃないよ俺。
「じゃあなんで結婚しないんすか。想像してみてくださいよ。おはようからおやすみまで、ずっと一緒っすよ?最高じゃないっすか」
「う~ん……」
緩くなっている頭の回転数を上げる。しかし、どんなに考えても、1つの答えにしか辿り着かなかった。
「それって、今とどう違うの?」
同じ部屋で寝起きし、ご飯を食べて、原稿をして。あーでもないこーでもないと色々なことについて話して、たまに一緒に遊びに行く。今のままじゃないか?
眼鏡さんがグラスを傾け、チャッピーが箱から取り出した煙草に火をつける。何か言いたげだけど、何も言わなかった。
チャッピーのスモーキーな吐息と、氷が融けてぶつかる音がしばし3人の間を行き交う。グラスが空きそうなので、同じものを頼んでおいた。
「あのさ、結婚って――」
店員さんがグラスを取り換えていったのを合図に、俺が再び会話に火を着けた瞬間、
「ちょっとぉ~。何ぃこのお空間はァ~。もっと盛り上がっていきなさいよぉ」
べろべろのオルタがしなだれかかってきた。
「ちょっと、飲み過ぎじゃない?大丈夫?」
「大丈夫よぉ!なぁに3人でこそこそと……怪しいんですけどぉ?ホラ、そっち詰めなさいよ!」
眼鏡さんの横に座れば2-2でバランス良いものを、自分から進んで誕生日席に座るオルタ。顔が真っ赤なのはもちろん、目が半開きだし呼気の酒臭さが抜群だ。
しかし彼女の登場によって、先程まで漂っていた煙のようにモヤモヤしているのに鉛の如くずしりと重い雰囲気が雲散霧消した。正直助かった。あのまま話を続けていたら、何か決定的なものを失っていたかもしれない。そんな気がした。
「せっかくの打ち上げなのにズブズブと沈んでいきそうな空気のアンタたちのために、私が来てあげたってのよ。ほらぁ!飲みなさいよ!」
感謝の気持ちが辞職届けを叩きつけて帰ってしまった。相変わらず悪酔いすると面倒な奴だ。
「そんな君の厚意に水を差すようで悪いが、こちらはこちらで大変盛り上がっていたよ。ね、マスターくん」
「うん」
「な、なによ。そうなの?」
眼鏡さんの言葉から、オルタをからかってやろうという思惑がありありと読み取れ、ここは乗ることにした。いじられて照れる彼女可愛いもんね。わかります。
「マスターくんから聞いたよ。君は2人きりだと随分甘えるようじゃないか。可愛いところもあるんだね。いや、むしろそっちが素なのかな?」
「にゃっ!ちょっとアンタねぇ!」
オルタに胸倉を掴まれる。はっはっは、照れ隠しかな。どすこいどすこい。
「ていうか、マスターさんがアタシたちと仲良く話してて心配になって構ってもらいに来たって、正直に言ったらいいじゃないっすか。変に理由なんてつけなくていいっすよ」
「ちょあぁぁぁぁぁ!」
ビンタされた。俺が。おかしくない?
「君はキスするとき、必ず左に顔を傾けるそうだね」
「ウガァァァァァ!」
女性2人におしぼりが投げつけられた。俺には再びビンタ。ひらりと躱す眼鏡さんとチャッピー。ヒットする俺。俺だって躱したいよ。でも無理なんだ。胸倉掴まれてるからね。
ハァハァと荒い息を吐くオルタの背中をさする。俺もほっぺた痛いんだけど?さすってくんない?
「デュヘちゃん、ダメだよ暴れちゃあ」
「そっすよ。酔ってんですから。ゲロっちまいますよ」
「大丈夫?トイレ行く?」
ここでデロデロ吐かれたら困る。処理が面倒だし。
「だいっじょうぶよ!そもそも、アンタがこいつらに変なこと言ったからでしょうが!」
「適当に鎌をかけただけなんだけれど。でもどうやら当たっていたようだね」
「ステイ!ステイするんだ!これ以上はいけない!」
再び暴れ始めようとしたオルタの両二の腕を掴んで動きを止める。
「逃げるんだ!ここはまもなく焦土と化す!」
キャーキャーと、ふざけて悲鳴を上げ移動する眼鏡さんとチャッピー。その他の皆も悪乗りして逃げまどい、部屋内がカオスで統一された。
「アンタたちねぇ……!燃やすわよ!」
オルタもわかっているのだろう。これは遊びだ。みんなでふざけて、酒を飲み、ギャーギャー騒ぐ。誰もが笑っている。俺も、オルタも。
ここにあるのは、非日常だ。それぞれに各々の日常があるだろう。バックグラウンドだって違う。でも、ここにいる間、それらは関係ない。それを話題に出すことはない。誰も本名を名乗らないし、呼ばない。ここはそういう世界だ。共通していることは、同じイベントに参加したことだけ。それだけなのだ。それだけで、いいのだ。
だからこそ、眼鏡さんとチャッピーに俺とオルタのことについてあれほど突っ込まれたことは異質なのだが。
「……あ、ごめん。ちょっとタンマ。これはヤバいかも」
世界が凍った。オルタがトイレにゆったりと、しかし確かな足取りで向かう。
扉が閉まる。
「よっしゃぁ!まだまだいくぞぉ!」
たぶん誰もがソレを感じ取っただろう。俺は率先して再び騒ぎ始める。ウェイウェイとみんながそれに続く。これぞチームプレイ。オルタも聞かれたくないだろうし、俺たちも聞きたくない。良い仲間を持ったね、オルタ。
「アンタもガチャ引きなさいよ!」
戻ってきたオルタは元気そうだった。
公開ガチャ選手権、最後の競技者は俺のようだ。全員の顔がこっちを向く。こわ。
「でも、単発で6回しか引けないよ」
ここにいる全員がやっているソシャゲなのだが、俺はここ最近ログインをサボっており、あまりガチャが回せないのだ。
「そういうのいいから。ここでそのなけなしの石を使い切り、恥を晒しなさい」
「悪魔か」
周りに助けを求めても、みんなニヤニヤニマニマと、俺の死亡を望んでいるみたいだ。ここに人間はいない。全員、鬼か悪魔の類なのだろう。
しょうがない。アプリを開き、ログインボーナスを受け取り、ガチャ画面に移動する。ピックアップされている限定キャラのかわい子ちゃんに、準備不足でごめんね、と謝る。ガチャを引くボタンをタップする。
「キタキタキタキタ」
「シネシネシネシネ」
「私と一緒に地獄に落ちなさい……!」
どうやらこの部屋には魑魅魍魎が取憑いているみたいだ。呪詛を聞き流し、画面を見つめる。先程見たかわい子ちゃんに挨拶される。沈黙。今度は薄い照明が処刑室のように感じる。排気の音がやけにうるさい。ていうかこの部屋暖房効いてる?
「……あー、このキャラ、性能いいの?」
袋叩きに遭い、気を失った。ラストオーダーは終わっていた。
そろそろ解散するよ、と起こされたのは、皆が荷物をまとめている最中だった。いやもっと早く起こしてくれよ。
隣でオルタが寝ていた。酔いつぶれてしまったということが容易に想像できる。
「いやー、ぶっ倒れた君を見ていたら、酒が進むこと進むこと。みんなへべれけだよ。こりゃ、二次会もクソもないね」
「アンタらおかしいよ」
会計を済ませ、寝てしまったオルタを背負う。店を出ると、こんな時間にも限らず、辺りは飲み屋街の灯りと酔っ払いたちの喧騒で満たされていた。
打ち上げ参加メンバーと二言三言話し、帰路に就く。宴は終わった。俺たちは現実に戻るのだ。タクシーを拾い、家の近くまで運んでもらう。繁華街を抜けると、少しの街灯と月明かりが道を照らした。
寝ている横の彼女を気遣ってくれているのか、運転手さんはあまりこちらに会話を振ってこなかった。こんなあからさまな酔っ払いを嫌な顔せずに乗せていただいて、頭が下がる。決して酔いでふらついているワケではない。
アパート最寄りのコンビニで降ろしてもらい、会計を済ませる。背中でウンウン唸りながら寝ているオルタの頬をぺちぺちと叩き、起こす。
「ほらオルタ、起きて。水買うから。飲めば少しは気分良くなるだろうし、肩に寝ゲロされても嫌だし」
ぺちぺち。ぺちぺち。
「あぇ……?なに、ここどこよ?」
「ホラホラ起きてー」
ぺちぺち。ぺちぺち。
「おきたわよ……」
「聞こえてるー?」
ぺちぺち。ぺちぺ
「おきてるわよ」
「ごめん」
脳天にグーを叩きつけられた。
まだ酔いが抜けておらず、少々ふらついているオルタをコンビニ内にある椅子に座らせ、500ミリの天然水を買う。
メトロノームのようにゆらりゆらりと揺れる眠そうな彼女に肩を貸し、コンビニを出る。
「ほら飲んで」
キャップを開け、飲ませてやる。ズズとすするようにゆっくり飲み込む彼女がむせないように、口に入る量を調整して流し込む。
素面だったら絶対受け入れないよな、と思う。なんだかウサギみたいで可愛い。今度からかってやろうかな。張り手は免れないだろうけど。
オルタがボトルから口を離す。
「あー……ありがと。少し落ち着いたわ」
「そう、良かった」
俺も一口飲んで鞄にしまう。
「星でも見ながら帰ろうか」
彼女を担ぎなおし、歩き出す。駐車場から出てしまえば、そこには闇が広がっていた。コンビニの店灯りが無くなり、街灯もまばら。深夜をまわれば人が生活している気配もない。
完全に眠りについた住宅街を2人で歩く。一緒に歩く彼女は、うつらうつらと今にも眠ってしまいそうだ。
「ほらオルタ。星がよく見えるよ」
「そうね……ちょっとまぶしいわ」
うにゅうにゅと小さな声。ちょっと受け答えもちぐはぐだ。でもここで寝てもらっては困る。重いから。
空を見上げる。闇が濃くなれば光が強くなるように、灯りがないこの空間では星の便りがよく届く。
ふう、と1つ息をつき、隣の彼女が眠ってしまわないように会話を投げ続けるのだ。
「コミフェスお疲れ、オルタ。明日はゆっくり休もうね」
「あぁ、うん。何の生産性も無い、退廃的な生活をしてやりますとも」
ニヤニヤと後ろ向きな決意表明をする。明日だけとは言わず2週間くらいしたいわね、なんて。いや、原稿やりなさいよ。毎回泣かされてる担当さんが可哀そうだ。
「俺は明後日打ち合わせがあるから会社行くけど、昼過ぎには終わるだろうから、何処か美味しいごはんでも食べに行こうか」
「そう……。あぁ、それも良いわね」
「でしょ?お疲れさま会、やろうよ。2人でさ」
「楽しみにしてるわ」
にへら、と弱い街灯の下で微笑む彼女は、普段のツンケンした態度とのギャップで、ありえないほど可愛かった。
思わずその唇を盗んでしまったのは、しょうがないことだろう。世界中のどんな宝石より珍しいものなんだから。
「ちょっと、私さっきゲロ吐いてんのよ?」
「キミのなら、まぁ、いいかな」
「気持ちわる。地獄に落ちなさい変態」
やっぱり彼女は、笑っているのだった。色白な彼女の笑顔は、闇の中でもよく見える。星の光は今夜、彼女のためにあった。
最後の曲がり角を曲がれば、俺のアパートまでは直線だ。彼女の肩を少し揺らす。
「オルタ、そろそろ着くよ」
「〇□※%★」
意味を成さない音が彼女の口から洩れる。そろそろ限界か。ひとまず彼女を肩から降ろし、前に出て背中を向け、しゃがむ。人1人分の重さが背中に乗るのを感じ、落とさないように立ち上がる。相変わらず心配になるくらい軽い。2人分の荷物を転がす。家は目の前だ。
「アンタの……」
「なに、どうした?」
右耳に彼女の吐息多めの声が当たる。少しくすぐったい。
「おいしいお店もいいけど、アンタの作る料理も、すきよ」
「そう?ありがとう」
なんなのだ。この可愛い生き物。冷静に返事をした自分を称えてくれ。今、もし彼女を背負っていなければ、力いっぱいに抱きしめて細い体をへし折ってしまっていたかもしれない。バクバクと五月蠅い心臓の鼓動が背中の彼女に気付かれてしまわないように祈りながら、次の言葉を待つ。
「わたしも、料理のれんしゅう、しないと……」
「練習も何も、オルタは料理……えっと、それなりには、できるじゃないか」
外は震えるほど寒いのに、体の内側からポカポカと熱くなる。お酒のせいもあってかじんわり暖かかったオルタの体温が急に下がっていく錯覚を覚えるほどだ。彼女と触れている部分から混ざり合って、2人の境界が溶けて無くなっていく。
あぁ、確かに、この星空は眩しすぎる。このまま夜の闇が俺たちを隠してくれれば、誰にも邪魔はされないのに。
「そんな検索すれば作れる味じゃなくて……アンタのおかあさんに、おしえてほしいのよ」
「俺の母さんに?」
「そう……アンタの、故郷の、家庭の味。それを、ちゃんと学びたいの。アンタのおかあさんがおばあちゃんに習ったように……それを……いずれ、私が……」
「ねぇ、オルタ。それって」
彼女の言葉は、それ以上続くことはなかった。ぴゅうと小さな風が肌をなでる。
「……うぅ、さむ……」
早く帰ろう。眠っている彼女の体が冷えてしまう前に。
「おやすみ、オルタ」
じんわり暖かい彼女の体を背負い直し、家へと急ぐのだった。あぁ、やっぱり今夜は、星が綺麗だ。
まだオルタと交際していることを周囲に大っぴらにしていなかった時期のこと。俺は3姉妹と海に遊びに来ていた。
「私のことを、お姉ちゃんだと思って今日は遊んでください」
「出たわねバーサーカー」
「誰がバーサーカーですか!」
長女であるジャンヌ(オルタの双子の姉)が突如そのようなことを言い出したのだ。
「ほらオルタ、リリィ、弟が出来ましたよ」
俺の肩を掴んでグイグイと揺らす金髪の自称姉。浜辺、真夏の太陽、鋭い日差し。連日の記録的な猛暑と相まって、脳みそが焼かれているのかもしれない。
「アンタも、そういうのはハッキリ拒絶しないと。どんどん巻き込まれて大変なことになるわよ。聖書とか、やけに高級な絵とか壺買わされたり」
「清らかな方の姉さんがこの暑さでおかしくなっちゃいました」
「2人とも、その反応はあんまりじゃありません?」
仕方ないですね、と小ぶりなイルカボートを取り出すジャンヌ。嫌な予感しかしない。だってスラッガーよろしく振りかぶっているんだもの。
「ちょっとあんた、何するつもり?」
「何って、説得です」
ぶおんぶおんと、イルカをスイングする自称姉。説得?洗脳の間違いでなく?
「応戦するわよリリィ。さもないとコイツが弟になるわ」
「夏は人間を狂わせます……やっぱり冬の方が良いです」
この姉妹はこんなところでプロレスでも始めるつもりだろうか?
「いきますよ妹たち。さぁ、これで立香クンも家族になるのです……!」
これをバーサーカーと呼ばずしてなんと呼ぶのか。
わんわんニャーニャー、仲良くケンカする彼女らを見ながらなんだか微笑ましくなる。別にこういうのは今日に限ったことではない。ある意味コミュニケーションなのだ。これでも。
あっ、大丈夫なんですよー。いつものことなので。彼女ら仲良しなんですー。ハイ。ご心配ありがとうございますー。
周囲へのフォローは俺の仕事だ。慣れたものである。
どうやらひと段落着いたらしく、はぁはぁと肩を上下させながら帰ってくる3人。
おかえり。
「まったく。どうして2人とも立香クンを弟と認めてくれないんですか」
「認めるワケないでしょ……」
「そうです。それに立香さんは、私のお兄さんです!」
「なるほど!なら、私の弟でも、矛盾は生じませんね。私の弟、リリィの兄。ならオルタの……弟?ほら立香クン。お姉ちゃん、だよ?」
「わーいお兄さーん!」
右手をジャンヌ、左手をリリィに握られる。あぁ、揺すらないで揺すらないで。肩外れちゃうから。
じっと姉と妹に熱い眼差しを向けられるオルタ。一度眩しそうに太陽を見上げ、これみよがしにため息をつく。
「悪いけど、弟でもなんでもないわよ。ていうか、私たち付き合ってるし」
このクソ暑い日差しの中、足の裏を焼かれながらも、ジャンヌとリリィは2分ほど固まっていた。
「っていう夢を見たんだ」
「夢って……実話じゃない。ソレ」
「懐かしいね」
朝食というには遅すぎる時間に食事を取るオルタ。同じ卓に座り他愛ない会話に花を咲かせる。俺はもう朝食を済ませているのだ。
起床し、寝ている彼女を起こさないよう細心の注意を払い寝室から抜け出たのが2時間前。食事を済ませ、我が家のあちこちを侵食している戦いの爪痕(エナジードリンクの空き缶や簡易栄養食のゴミなど)を片付け、普段仕様に戻し終えたのが1時間前。唸りながら頭を押さえ、寝室から這い出てきたオルタの介抱をしつつ彼女の着替えを用意し洗面所に放り込んだのが30分前。彼女がシャワーを浴びている間に朝食の準備。そして現在。
なんて効率的かつ美しいタイムシフト。コーヒーが美味い。
「ねぇ。ねぇってば」
ちょっとした自画自賛に浸っていたところ、彼女に現実に呼び戻される。
「どうしたの」
「いや、結構呼んでたんだけど。ていうか1人でニヤニヤしちゃって、キモかったわよ?」
「おっと」
どうやら思っていた以上にナルシズムに浸りすぎていたようだ。ジト目で睨みつけてくるオルタ。返事が遅れると機嫌が悪くなっていく。これは彼女の習性だ。寂しがりというか、自分への自信の無さというか。キモいという罵倒も寂しさからくるものであり、そう考えれば屁でもないどころか可愛さ倍増。
「ごめんね。どうかした?おかわり欲しい?」
「違うわよ」
もちろん知っている。長い付き合いだ。彼女の胃のキャパシティくらい、とっくのとうに存じている。これは論点のすり替えというか、ちゃんと君のことを考えていますよというアピールである。いつまでも単純で可愛らしい彼女なのであった。心配である。
「そうじゃなくて」
きょろきょろと、唇を尖らせながら残念そうに部屋内を見回すオルタ。
「いつの間に、こんなに綺麗にしたの。私が覚えている限りだと、もっとおどろおどろしい、怨嗟の声とか聞こえそうな感じだったのに」
それはイベント前に原稿の締め切りに追われる同人作家の怨念だろうか。それの発生源なら、目の前にいる君なのだけれど。
「それだったら、今朝掃除したんだよ。あまりに汚くてさ。折角の休日だし、ダラダラするにしても散らかってるのは嫌かなって」
「1人で全部やっちゃったわけ?目が覚めて、あんたの姿が見えないと思ったら……先に起きて、そういうことやってた、と」
「なになに?寂しかったってこと?」
「ちっがうわよ!うるさいわね!」
腕を組んでそっぽを向くオルタ。照れちゃってまぁ。オラオラどうした。ほっぺた突いちゃる。
「じゃかしい!ほら、二日酔いで頭痛かったし!体調悪いときってやけに人恋しいモンじゃない!?そうそれよ!それだけ!……何笑ってるの?燃やすわよ」
そういうことにしてやりますとも。ただ、その言い方だと寂しかったのは認めてるんだけども。それを指摘してしまうと本格的にへそを曲げられてしまうので、これ以上は弄るのをやめた。
「それじゃ、私は洗濯でもするわ。確か溜まっていたわよね」
ん~、と軽く伸びをして立ち上がる。せっかくやる気を出しているところに水を差すようで申し訳ないんだけど……
「ごめん、洗濯も終わってるんだ。オルタがシャワー浴びてる最中に洗濯機回しちゃった」
「なんでよ!」
いや、なんでもクソも無いと思うんだけど。
不機嫌そうに、ぷくっと頬を膨らませて座りなおす彼女。砂糖とミルク多めのコーヒーをすすり、忌々しそうに遠くで鳴っている洗濯機の稼働音を聞いていた。
しばらく無言の時間が続く。オルタはコーヒーを飲みながら、時々俺の顔をじっと見るのだ。その視線が何処か俺を非難するようで、あるいは何かを懇願するような熱を含むもので、なんとなく居心地が悪いと感じた俺はスマホのニュースサイトに逃げていた。もちろん内容はまったくと言っていいほど入ってこなかったが。
この視線から逃げ切ることは不可能だと悟った俺は、少し気になっていたことを訊いてみるのだった。
「そんなに家事したがりだったっけ?」
そんな何気ない質問をぶつけられた彼女は、何故だか少しそわそわしだした。
「いや、したがりというか、私がしないと、というか……。これからは私が基本的に家事を覚えて、やっていかないといけないかな~って……」
髪をネジネジ、きょろきょろ、咳払いをひとつ、ふたつ。珍しく歯切れの悪い彼女。
「あ、ご馳走様でした。お皿は私が洗うわね~!」
ピュピューと逃げるように流しに駆け込むオルタ。ヘタクソな鼻歌を口ずさみながら皿を洗っている。……水使い過ぎじゃないかな。
皿洗いと言ったって、朝食、それも1人分の食器だ。その量はたかが知れている。ものの数分で帰ってきた彼女は未だムッツリとしていた。
「別に、率先して家事してくれなくてもいいよ?」
「私が嫌なのよ。あんたは何でもササッとこなしちゃうから、私が何もできない。それが嫌」
「俺は困らないんだけど」
「だから!私が困るんだって!言ってるの!」
ばしばしと机を叩く彼女。何をそんなにイラついているんだ。
ツーンと体ごとそっぽを向かれてしまう。
「どうしたの今日は。なんで突然そんなことを?」
「突然じゃないわよ。別にいいわ。この話はおしまいよ」
なんだろう。そう言われてしまうとなんだか余計に気になってしまう。
彼女は何を思っているんだろう。何を求めているんだろう。素直じゃないオルタは全てを明かしてくれないし、察しが悪い俺は彼女の気持ちを汲み取ってやれない。その心を問うにも、これ以上の追及は許さないと、目の前の背中が語っていた。
「昨日のオルタはあんなにも素直で可愛かったのにな」
つい零れた戯言は、悲しきかな、彼女の耳に届いてしまったらしい。ぐりんと勢いよく振り返り、こっちを見る。目が怖い。
「ちょっと、それどういうこと?」
「あ、ごめん。オルタは毎日可愛いよ」
「そ、そういうことじゃない!」
間違った。
「いや、見事なほどべろんべろんに酔ったオルタがね。普段言わないようなことをポンポン言うんだこれが」
「はぁ!?そんな馬鹿なことあるワケ」
「お酒強くないのにハイペースでいくから……酔っぱらうといつもだよ?」
「……ウソよ」
プルプルと震えていらっしゃる。そんなに信じられないのか?ていうか、覚えてない?
「もしかして、今までずっと記憶無くなってた?」
「……うがぁ!」
カァン、と開戦のゴングが鳴らされるのを幻視した。真っ赤になって跳びかかってくる彼女の脳内会議では、俺の記憶を消すという方向で結論づけられたらしい。
プロレスごっこは夕方まで続き、その日は2人とも疲れて寝てしまった。
次の日、仕事の打ち合わせのために俺はとある場所に赴いていた。
こういう風に角張った言葉を用いて曖昧な表現をすれば真っ当な社会人らしく聞こえるか、と見栄を張った自分はなんて浅ましい人間なのだろう。
なんてことはない。仕事というのは小説家なんていう威張ることもできない肩書きのものであるし、とある場所とは出版社の小さな会議室である。向かいに座る担当編集さん。その視線は手元の書類に。集中していらっしゃるようだ。今日もシルバーアクセがよく似合っている。腕とか。俺はこの人のことをファラオさんと呼んでいる。
ふぅ、とひと息ついて顔を上げるファラオさん。紫色の髪がさらりと流れた。
「どうですか?」
「問題ありません。来月分、確かに受け取りました」
「そうですか。ありがとうございます」
「いえいえそんな!」
ワタワタと手を振るファラオさん。チャリチャリとシルバーが音をたてる。
「藤丸先生は仕事が早くて助かってます。他の先生方に爪の垢飲ませたいくらいです。お茶碗1杯分くらい」
「そんなに俺の手は不衛生ですかね……」
「言葉の綾ですよー!」
その後、打ち合わせは特に波乱なく進んだ。雑誌連載の話やこれまでの連載をまとめて出版する話、その際の書き下ろしについてなど。これで何かしら問題が起こる方がそれこそ問題なのだが。
話題は早くも世間話へと移っていった。お昼までには打ち合わせが終わるかもしれん。
「仕事が早いというか、間近で担当さんを大いに困らせるお手本のような人物を見ているから、自然とこうはなるまいと考えてるのかもしれませんねぇ」
「あぁ、ジャンヌ・オルタ先生ですか。どうやらそうみたいですね。噂は届いてますよ。あまり良い噂とは言えませんケド……。あ、そういえば先生たちのサークルの新刊!読みましたよ!」
「え、買いに来てました?気付かなかったなぁ……」
ウチのサークルに顔出してくれてたのなら絶対気付くと思うんだけど。担当とかそういうのもあるけど、たぶん格好で。シルバーたくさん着けてそうだもの。
ファラオさんはどことなく恥ずかしそうに頬を掻いた。
「すいません委託で買ったんです……」
「現地も委託もないですよ!ていうか、言ってくれたらあげたのに。わざわざ購入してくれなくても……」
「そういうわけにはいかないのです!」
ばん!と机が悲鳴を上げる。俺の周囲には机に敬意を払わぬおなごが多すぎやしないか?
「作者さんと交流があるからといって……いや、あるからこそ!しっかりお金を払って購入する!それでこそファンなんです!現に私は……先生の携わる作品は個人誌から参加した合同誌、一般商品まで!全て自費で購入しています!見本を頂いたとしても!ここで卑しくもコネを使うなんてことしたら……ファン失格!それどころか、先生の作品まで汚してしまうのです!」
「……そうか」
ファラオさんの知られざる顔を垣間見た……というより、パンドラの箱を開けてしまったようだ。その後も火を吹く勢いで自分の作品、それもデビュー前にオルタと出した本までベッタベタのデロデロに褒められて、ハチャメチャに恥ずかしかった。なんでそんな前のヤツ知ってるんだろう。なかなか年季の入ったオタクなのかもしれない。ファラオさんのあまりの剣幕に、俺は頷いて相槌を打つだけのロボットと化していた。
「どうですか。ウチの漫画雑誌で原作とか、やってみませんか」
「ハイ……ハイ……いや、ちょっとまて」
流れるように仕事を増やされそうになった。策士だ。まさかこの時のために調べてた?
「これ以上仕事回すのは勘弁して……。あーこわ。危うく新しい爆弾引き受けるところだった。ファラオさん策士だね」
「残念です。いや、ファンなのは本当のことなんですけどね」
ちょうどいい時間ですし、お昼、行きませんか?と誘われたため、遠慮なくご相伴に預かることにした。先程、大層辱めを受けたので、仕返しにお前の財布をそれはもう軽くしてやるぞと意気込んで向かった街の洋食屋さん。食うぞ……しこたま食うぞ……!俺は人間火力発電所だ……!
と、血気盛んに臨んだのはいいものの。家に籠ってつらつらと文章を書いているだけの人間の胃袋のキャパシティなどたかが知れているというもので。早々にお腹いっぱいになった俺はせめて食後のデザートでダメージを、と企み、現在クリームソーダの上に浮かぶソフトクリームを突いているのであった。
「そういえば、ファラオさんって独り暮らしだっけ?」
空いた皿を店員さんが片付けていったのを見て、昨日のオルタが家事をやりたがったことを思い出した俺は、第三者の意見が聞きたいと思い目の前の人物に考えを仰いだ。
「いえ、実家住みです」
「家事とか、進んでやってる?」
「恥ずかしいことに、母に頼りっぱなしなんですよね」
たはは、と頭を掻くジェスチャーをするファラオさん。これはいい意見が聞けそうだと畳み掛ける。
「家事したいって思ったことある?」
「もう社会人ですし、手伝わないとなぁとは思うんですけど……」
「やってくれる人がいるなら、ついつい任せちゃう感じ?」
「ですね。できるなら、あんまりやりたくないですよ」
普通そうだよなぁと頷く。やっぱり昨日のオルタは、どこかおかしかったのだ。白く濁ったメロンソーダをくるくるかき混ぜる。上に乗ったソフトクリームが独楽みたいに回った。
「どうしたんですか?先生は結構、家事する方ですよね」
「そうだね。独り暮らししてたし。今はオルタと住んでるけど、彼女は、ほら。進んでやるタイプじゃないから」
「あはは……らしいですね」
「それがだよ」
ここからが本題なのだと、指をパチンと鳴らす。
「昨日さ、そのオルタがやけに家事をやりたがってさ。掃除とか洗濯とか。これからは~……なんつって」
「なるほど」
「なんか変じゃない?今までアンタがやるなら任せるわ……みたいな感じだったのに。ファラオさん、無性に家事したい時とか、ある?」
「いや~、どうですかね。ないかも。それは確かに、変……あ」
言葉の途中、ファラオさんは何かに気付いたように、視線を何処にとも向けず固まった。
誰か知り合いでも見つけたのだろうか。しかし、周りを一瞥しようともそれらしき人物はいない。
「え、どうしたんですか」
直接訪ねるも、言葉に詰まるように視線を右往左往させるばかり。お昼のバラエティー番組がむなしい笑い声を2人の間にちょろちょろと零す。
やっちまったと言わんばかりに頬を引きつらせながら、ファラオさんがおずおずと告げる。
「えと、あの。私が言う話じゃないと思うんですけど……」
「なんだい」
あのまま「べ、別に……なんでもありません!」とか言われてもスルーできるはずも無し。気になるので言ってもらうことにしたワケだが。
「先生って、オルタさんにプロポーズ……されました?」
ひゅっと軽い目眩のような感覚と共に体温が下がる錯覚。一瞬思考が停止し、パチパチと回線がショートする音を幻に聞く。
「え、いや……してないけど」
なんだろうこの違和感。視界が狭まる。しかしそれも一時的なもので、気付いたころには全て元に戻っていた。キッチンからはジュウと何かが焼ける音(おそらくハンバーグだろう)がするし、相変わらずテレビからは笑い声が遠く聞こえる。
そんな中、目の前のファラオさんは眉間にしわを寄せ、完全にやらかしたとばかりに天を仰いでいた。
手元の水を飲み干し、机を睨み付ける。逡巡しているのだろうか。言葉を選ぶように唸り、ついにその重い口を開く。
「最初に謝ります。失言でした。すみません」
「え、いや、何も気にしてないけど」
少し面喰ってしまった。こんなに重苦しい話だっただろうか?
「ここまで言ってしまったのでぶっちゃけてしまいますと、たぶん、オルタさんは、その……」
そこでモニョらないでほしい。なんだか刑を言い渡される前の被告人みたいだ。
「オルタさんは、そろそろ……というか、将来を見据えてというか……あの、待ってるんだと思います」
何を?と聞きたいところであったが、なんとなく察したし、ファラオさんがあまりに真面目な、困ったような表情をしていたので空気を読んで俺も黙り込んでしまった。
「その、プロポーズというかなんというか……結婚、したいんじゃないかなぁ、と。すいませんホント、こんなこと私が言うべきことじゃないってわかってるんですけど」
それは、コミフェスの打ち上げで眼鏡さんとチャッピーに言われたこととほぼ同じ内容だった。
プロポーズ……結婚……結婚かぁ。なんで皆、俺たちをそういう言葉で表そうとするんだろう。それって文面上の形式なだけじゃないのか?関係が変わるわけでもないはずなのに。そんなものがなくたって、俺はずっとオルタと一緒にいるのに。
「あんなこと言っておいてなんですけど、先生方のペースというか、納得する形で進めてください。なんか、もう、穴があったら入りたいです……」
ファラオさんがコートを被ってぷるぷると震えていた。いや、そんな気にしないでいいってば。なんだか可哀そうに思えて仕方なかった。テレビの中では、女性アナウンサーが美味しそうにラーメンをすすっている。なんてことはない。いつも通りの日常である。
その後は特筆することも無く。お会計を済ませた自分たちはその場で解散し、俺は自宅に、ファラオさんは会社に戻った。
『言い忘れてたんだけど、ちょっと出かけてるから。今池袋にいる』
オルタからそんなメッセージが届いたのは、自宅最寄駅に降り立ち、電車を見送った瞬間だった。いや、タイミングの悪さよ。思ったより仕事が早く終わったこっちの問題でもあるかもしれないが。
彼女の相変わらず野良猫のような性格に苦笑いを浮かべる。一度自宅に戻って合流し、一緒に店に行こうと考えていたんだけど。しかし、出先で待ち合わせして何処かに向かう、というのもこれはこれで良いかもと思い、少しのワクワクを覚えながら後続の電車に乗り込む。なんだか懐かしいな。音楽プレイヤーの奥底から今ではもう聴かなくなった昔好きだった曲を掘り起こし、再生した。
俺は見逃さなかった。待ち合わせに指定した場所で、ポケットに片手を突っ込んでつまらなそうにスマホを眺めているオルタ。俺が『そろそろ着くよ』というメッセージを送った瞬間に見せたニヤリと笑った表情を、俺は見逃さなかったよ。もちろん彼女はすぐにもとの無表情に戻ってしまったが。
「ごめん。待った?」
「……あぁ、アンタか。来たのね。それじゃ、行きましょうか」
おわかりだろうか。なんともいじらしいではないか。気付かなかったわ、とばかりにそっけなく振る舞う彼女であるが、先程の笑顔をこっちは見ているのだ。ここまででワンセット。あぁ、こういうのも久しぶりだ。5分ほど張っていた甲斐があったというもの。
オルタの手を取って横に並ぶ。少し驚く彼女。いやらしい笑みを浮かべてこちらを肘で小突く。
「何?浮かれちゃってまぁ。良いことでもあったの?」
「いや、別に」
どうやら自分が思っている以上に、俺はこのデート擬きを楽しんでいるようだ。
まるでここが日本の中心であると言わんばかりに溢れかえる他人、人、ヒト。俺は隣にいる彼女との何気ない会話に幸せを感じながら、夜色に染まりゆく雑踏に紛れ込んでいくのだった。
金髪の、自称お姉ちゃんがにこやかにドアを開ける。「いらっしゃい。まってましたよ!」なんて言って。結構遅い時間に押しかけているというのに、嫌な顔1つしない。
申し訳なさが顔を覗かせ、少しぼやっとしていると、俺たちの荷物が誘拐されていく。リビングへ軽やかに消えていく美しい金色。ここで立ち尽くすほど知らない仲ではないので、その優しさに甘えて遠慮なく上がらせてもらった。
「今日はこの後ウチに行くから。アンタも泊まりなさい」
ちょっと取りに行きたいものがあるのよ。とオルタが言うので、食事が終わって潰れない程度に酒をひっかけてから、彼女の家にお邪魔させてもらうこととなったのだ。
都心からは少し離れた駅が最寄りの、徒歩だと15~20分ほどの距離の住宅街。一軒家がそこそこ集まったところの1つに彼女たちの家はある。
「リリィは?」
「もう寝ちゃいました。お兄さんが来るんですか!なら今日は夜更かししちゃいます!なんて言って、さっきまで起きていたんですけどね」
まだまだお子様ですね、と笑うジャンヌ。無理をさせるわけにはいかないので、少し安心する俺。子供はしっかり寝て育つのだ。よく寝て、よく育てリリィよ。まぁ、姉2人を見る限りその成長は約束されたようなものだが。
よっこいせ、とリビングのソファーにその身を沈めると、フラフラ~っとそこを出ていく次女様の姿が目に映った。
「どしたのオルタ」
「私も眠いからとりあえず寝るわ。やるべきことは、明日の私に任せる……」
ものぐさな人間が言いそうなことを残し、2階へ向かうオルタ。そんなだから締め切りといつもいつもデスマッチすることになるんだぞ。
「いいんですか?立香くんとお姉ちゃんをこんな時間に2人きりにしてしまって」
お願いします煽らないでください。
「大丈夫でしょ。コイツが私以外にどうこうするわけ無いし」
「あらま」
信用されているんだか、そんな度胸は無いと馬鹿にされているんだか。前者であってほしい。前者であれ。
「それにアンタ、お姉ちゃんなんでしょう?自称ですけど。姉ならそんなこと起こらないはずよねぇ」
「わかりませんよ~。お姉ちゃんがまさか弟を!みたいなことだって、あるかもです」
煽り合いを今すぐやめてくれ。非常に居づらい。俺が。ていうかジャンヌ、襲うのそっちかい。
ハン、と一笑に付すオルタ。
「そういうのはねぇ、アンタとあのキラキラお嬢様が出してる薄い本の中だけでやってなさい」
驚くことに、ジャンヌもよく同人イベントに本を出しているのだ。キラキラお嬢様というのはそのサークルの仲間で、育ちの良さが随所から垣間見える女性だ。この2人も界隈ではなかなかに有名で、ファンタジックでキラキラハッピー(褒め言葉)な作品で人気を集めている。
「フィクションと現実がごっちゃになってるのね。痛々しい。それじゃ、おやすみ」
最後に悪態を残し、扉が閉まる。足音が遠ざかり、そして聞こえなくなった。ジャンヌと2人、残される。
まだリビングにぼんやりと漂うオルタの憎まれ口を一瞬でかき消すような笑顔を見せるジャンヌ。え、なにそのニコリ顔。なにをするつもりだろう。
キッチンに入り、何かをごそごそと漁る音。ややあって戻ってくる彼女の両手は、背中側に隠されていた。
「やっと2人きりになれましたね」
こわ。
え、その手に包丁が握られてるとか無いよね?
バッと突き出される両手。後ろに跳びお腹と顔をガードする俺。沈黙。
「ん?」
これは如何したものかと目の前の光景を確認する。
「何しているんですか?」
缶チューハイをその両手で握っているジャンヌ。それを両頬に当て、にっこりと笑っておかしな妄想をした俺を馬鹿にすることなく告げた。
「ちょっとお姉ちゃんとお話、しませんか?」
キンキンですよ、なんておちゃらけて。
あぁ、このヒトたちは一家そろって可愛いなぁと思ってしまうのは仕方ないだろう。オルタには絶対言わないけれど。
彼女の姉とはいえ、特に気後れすることなく会話は弾む。姉妹といってもジャンヌとオルタは双子だし、共通の趣味もある。同人活動が趣味かと聞かれたら微妙なところであるが。
話題はコミフェスのことや仕事のこと、最近見た可愛い猫動画など、とにかく色々なことを話した。喋りが進めば酒も進む。結構飲んだ結果、俺の口は中々に軽くなっていた。
「最近さ、周りが口を揃えるようにプロポーズとか、結婚って言うんだ。そんなこと考えずに生きてきたから、なんか面喰っちゃって。それが正しいことなのかなって。俺だけじゃどうにも考えられないんだ」
それは、最近俺の周囲でくるくると飛び回る言葉たち。心をじわりじわりと蝕む悩みの種。きっと大事なことなんだろう。重要なターニングポイント。そういう所に、俺は今立っているのだろう。しかし如何せん実感がない。現実味が沸いてこない。アルコールで理性をちびりちびりと溶かされていた俺は、目の前にいる彼女の姉にそれをぶちまけてしまっていた。
言ってしまってから気付く。これはこの人に相談すべきことでは無いのではないか。少し背中が冷える。顔は熱い。何を言っているんだ俺は。ほら、ジャンヌだって困ったような顔を……。
「そうですか。そんなことがあったんですね」
目の前の女性は、とても優しい、聖女のような表情をしていた。慈愛に満ちた、暖かい笑顔。それに俺は、驚くことしかできなかった。だって、今までこの話をした人は、みんな俺を咎めるような、困ったような顔をしてきたのだ。
「オルタの気持ちも考えてやれって、そう言わないの?」
俺は責めて欲しいのだろうか。そのようなことを口走ってしまう。
そうすれば自分でうだうだ考えずに、周りに押されたから、とプロポーズできるから?違う。そんな自分勝手なことはしたくない。そんな理由をつけて彼女の人生を縛ってしまいたくない。
「そんな風には、言いませんよ」
そんな葛藤を知ってか知らずか、ジャンヌは甘い言葉を俺の鼓膜に塗り付ける。
「そうですか。ついに来たかって感じですね。その気持ちに遅いも早いも無いって、私は思います」
あごに指を当て、少し考えるジャンヌ。言葉を選ぶように、ポツリポツリと言葉を零す。
「その気持ちは、きっとお花なんです。今まで丁寧に丁寧に、お水をあげて育ててきたお花。きっと、つぼみになったんでしょう。花が咲く1歩手前です。だからって、早く咲け早く咲けと焦ってはいけないと思います。これまで通り、水やりを続けないと。貴方のペースで。貴方たちのペースで。ちっぽけな理性に挟まれてグルグル悩むくらいなら、全て捨てて良いんです。周りは色々言うでしょうが。それだって善意であることには違いないんでしょうが、特に気にすることないです。どこに向かったって、前に踏み出したって、後ろに下がったって、ましてや振り出しに戻ったって、構わないと思います。貴方が貴方の意思で、気持ちで動いたのなら、その1歩は確かな1歩です。だから私はそのことについて何も言いません。貴方は貴方らしく悩んで、そして花を咲かせてください。その時、自ずと答えは出るでしょう」
お姉ちゃんとしては、色々言いたいこともありますが。
てへり、と舌を出すジャンヌ。
「お花が咲いたら、私に見せてくださいね」
以上、お姉ちゃんではない、ジャンヌとしての言葉でした。さて、こんな時間ですし、もう寝ましょうか。おやすみなさい。そう言って自分の部屋へと消えていく。
きっと彼女も恥ずかしかったんだろう。片づけを忘れていた。しっかりした彼女らしくない、可愛いミスだ。
「ありがとう、お姉ちゃん」
片づけをして、客間に。敷かれていた布団に潜る。穏やかな眠りが、俺を待っていた。
『しっかり生きてんのか。年末年始くらい、顔見せなさいよ(意訳)』というメッセージが母親から届いたのは、28日の夕方のことだった。
そういえばもうそんな時期か。12月はその名の通り忙しくバタバタと走り回っていたので、どうにもあっという間だったなぁ、と感慨に耽りながら、「明日からちょっと実家に行こう」とオルタに言ったところ。
「そういうことは早く言いなさいよ!」
クッションを投げられる、師走の末の夜だなぁ(詠嘆)(意味不明)。
いや、君も大概ですけどね?基本事後報告だし。
と、いうわけで現在12月29日の午前10時。実家に帰省しております。
「あらー!オルタちゃんいらっしゃい!今日もどえらい美人ねぇ!あんなのには勿体ないわぁ!あれは要らないから、ウチの子にならない?」
あんなの、あれ、とは勿論俺である。冗談でもやめてほしい。実の息子だぞ?悲しい。
ちなみにこれ、オルタを連れてくる度に玄関で繰り広げられる。ご近所さんに聞かれてるぞ。恥ずかしくないのか。
その後は、実家にいるからとゴロゴロ……できるはずもなく。大掃除や買い物にさんざ付き合わされ、こき使われ、夕飯を食べてやっとひと息つけたのである。
「ふぅ……」
「はぁ……」
ため息が父親とハモる。
大変ですね。
そっちこそ。
毎日でしょ?
慣れました。
それだけのことなのに、なんだか可笑しくて、笑ってしまった。相変わらず父さんは苦労しているみたいだ。
ちなみにオルタは。
「おせちの準備するわよ。あ、オルタちゃん借りるから。野郎どもは入ってきちゃダメよ。ほらビール。これでも飲んでなさい」
母さんに攫われてしまった。目の前にはそこそこ冷えた缶ビールが2本。父さんが「2本……1人1本か……そうか……」と呟き、シュンとしていた。それを見る俺は、なんだか可哀そうに思えてしょうがなかった。昔から母は気が強かったらしいが、付き合っても、結婚しても、子どもが出来てもそれは変わらなかったらしい。なんで結婚したんだろう?別に父は、尻に敷かれるのが好きというわけでも無いだろうに。無いはず。無いと信じたい。
今は好機なのかもしれない。オルタに聞かれず、口の軽い母にも聞かれず、そして違和感なく、今自分の中を渦巻くこの気持ちについて、父からヒントが得られる。そう思い、なるべく平然を装い、チビチビと大事そうにビールをすする父に質問を投げかけてみる。
「父さんはさ、なんで母さんと結婚したの?」
瞬間、父は少し面喰ったような顔をしたが、すぐにふわりと優しい表情になった。きっと、今俺がどのような状況で、何を考えているのかわかったのだろう。こういうとき、自分より長く生きている人間ってずるいなと感じてしまう。まだまだ自分は未熟な人間なのだと思い知る。
途端に、今自分は恥ずかしい話を、それも実の父親としていると我に返り、今すぐこの空間から飛び出てしまいたくなった。
コン、とテーブルにビールの缶が置かれる音がやけに大きく聞こえる。俯いてズボンを握ったり放したりしている頭上、言葉が降ってくる。
「僕は、ほら。この通り自分の意思というものが弱くて、流されて生きるような性格をしているだろう?これはいけないなぁと思ったんだが、如何せん変えられるとも思えなくてね。そこらへん、色々とあったわけなんだけれども……まぁ、どうせ流されるのならば母さんに引っ張っていってもらおうと考えたんだよ。今も昔もパワフルな女性だったからね。これからの人生、この人に振り回されるのなら、悪くないかなって。なんていうかな。わざわざこういう言葉に言い換えるのは非常に恥ずかしいんだけれども……」
きっとこれが、愛というものなのかな。そうだよ、愛に他ならない、ってわけさ。
「愛……」
愛って……なんだろう。今まで色々な文章を書いてきた。もちろん、愛だの恋だのにも触れてきた。でも、よくわからない。物語の登場人物における「愛」というのは簡単に考えることができた。でもその「愛」が自分に当てはまるとは、到底思えない。愛を謳う歌だって、世の中を見渡せば溢れるほどある。でもそれは何処かの誰かの、例えば作詞者の、作詞者がイメージした世界観の中の、「愛」……であって。それは俺のものではなかった。
オルタのことは好きだ。一緒にいたいって、そう思っている。じゃあ、これが俺の「愛」なのか?
また心がグルグルしてきた。理性が熱をもって煙を上げている。ジャンヌにはそんなもの捨ててしまえと言われていたが、どうにも俺はこれを簡単には手放せないみたいだ。
ふと父親の方を見てみると、可笑しそうに、嬉しそうに、寂しそうに、クスクスと笑っていた。まるで昔の自分を見ているようだ、と。
「考えて、考えて、ひねり出した愛の答えなんて、ひどくつまらないものだよ。今、それは出す必要のないものだ」
「どうして?これは、今俺に最も必要なものなんじゃないの」
「そんなことないさ。だって、母さんにプロポーズしたときの僕は、愛の答えなんて知らなかっただろうし。ずっとずっと一緒にいて、それが普通になって、なんてことないふとした一瞬に、あぁ、だから自分はこの人の隣にいるんだ……ってわかるんだよ。これが自分たちの愛なんだって。なにも、それがわからなければいけない、なんてことはないんだよ。そんな気がする」
じゃあ、なんで人類って結婚するんだろう。
「さあ、どうしてだろうね。そうすれば、休日なにしよう?とか、今日のご飯どうしようかなぁとか、少し暇な時間に何して過ごそうかとか、悩まなくてよかったからかもしれない。僕の場合はね。母さんが全部決めてくれたから。だからお願いしたんだ。僕と一緒に生きてほしいって」
「一緒にいると楽だから?結婚しようって?それを父さんから言ったの?」
「そうだよ」
ニコニコした父の笑顔が今までと別物のように見える。なんなんだそれ。モヤモヤと考え込んでいると、押し殺したようなくつくつという笑い声が対面から聞こえてきた。
「これだけだと、僕がなんだか悪い男みたいだね。でも、そういうことなんだよ。きっと、立香にもわかる」
父の中では、きっと俺はまだまだ子供なのだ。少しムッとする言い方だったが、ここでそれを表に出すほど子供ではない。なにせ、相手は経験者でこっちは未経験者。相手の方が物を知っていて当然だ。
「そうそう。そういうのは、お前から言わなければ駄目だからね」
あ、きた。これだ。俺がちょっとよくわからない、世間のジョーシキ。
「それさ、なんでなの?周りも言うんだ。プロポーズはしたのか?プロポーズはまだか?って。別にオルタが実際にそういう話をしたわけじゃないのに。しない俺が間違いみたいにさ。誰が決めたの。男の方からしろ、なんて、そんなこと」
今度は我慢もせずに、ワハハと声を上げて笑う父。なんだよ。俺が真面目に話しているときに。
「ごめん、こっちもふざけているわけではないんだよ。ただ、余りにも似ていたから」
誰に?とは聞かなくてもわかった。懐かしそうに電灯を見上げる父の目は、きっといつかの自分を見ているんだろう。
「理由がね、あるんだよ。基本的に女性が嫁ぐ側だからとか、制度的に、社会的にそういう風になるのが自然だからとか、あるかもしれない。けど、悪しき風習とか、常識とか、そういうのじゃない。僕たちの遺伝子に課せられた宿命なんだ。それっぽく言うならば、Yのみに刻まれた、かな。全てを教えてしまうと、また理性の迷路でぐるぐる迷ってしまうだろうから、言わないけれど。お前は賢い子だからね。今回は、それがマイナスに働いてしまっているらしい。でも、だからこそ、お前ならわかるだろう。なぜ、男からでなければいけないのか。父さんも、きっとオルタちゃんのお父さんだってそうだったはずだ。100年、1000年、ヒトがこの世界に誕生したその時から。女性のことを、真に考えてあげてごらん。きっと答えが見えるはずだ」
なんなんだろう。わかるような、わからないような。きっと今の俺は、なんとも形容しがたい表情をしていることだろう。父は困り顔だ。ビールが苦い。なんとなく、この父と2人の空間に居心地の悪さと孤独を感じてしまう。
「そうだなぁ。お前も聞いたことくらいはあるんじゃないか?有名人のプロポーズエピソードだったり、そうでなくても、これこれこういうサプライズでプロポーズされました……みたいな話。なんで、世の男たちはそんなにまでしてサプライズであったり、手の込んだプロポーズをすると思う?」
「サプライズって……喜ばせたいからじゃないの?驚かせたいからとか……あ、驚きと感動を錯覚させて成功率を……みたいな」
自分で言っておいて、なんてロマンの無い男なんだろうと思う。
「いや、そういうのもあるかもね。でもきっと、それだけじゃない。思い出してごらん、最近のオルタちゃんのこと。ここまで言えば、わかるだろう?」
それだけ言って、「流石に缶ビール1本じゃ、もう限界だ」と自室に行ってしまった。相変わらず、シリアスが長続きしない人だ。
そして俺も、その人の息子、ということである。なんだかそれ以上その場に留まるのが非常に恥ずかしく思え、自室へとエスケープするのだった。
深夜、真っ暗な自室にオルタの可愛らしい寝息が充満する。あの母がやることだ。もちろん客室なんて用意されておらず、俺の部屋に布団が敷いてあった。しかし残念。そんな悪戯、もう通用するほど初心ではないのだ。どうだとばかりに母にドヤってみせたが、件のお母様はそのニヤニヤを余計深めるばかりであった。本当に良い性格をしていると思う。
(プロポーズ、ね……)
俺の睡眠を奪う諸悪の根源、父の言葉が頭の中を巡る。母のニヤニヤの次は父のニヤニヤ顔が浮かび上がった。この2人、案外似てるのかな。
無音の暗闇の中、少し考える。眼鏡さん、チャッピー、ファラオさん、オルタ、オルタ、ジャンヌ……ここ最近話した、様々なこと。眠れない夜は、いつもより少し、孤独が寒い。
手を伸ばせば触れられる距離にいる。だけど、オルタはもっと近づきたいのだろうか。これ以上、もっともっと近くへ。きっとそうなんだろう。周りの人曰く。それが、今、俺とオルタを少し遠ざけている。
「ホント、素直じゃないな君は。言ってくれれば、何も悩まなくていいのに」
言ってくれなくたって、ずっと一緒にいるのに。
起こさないように、小声で呟く。呟いて、気付く。また、誰かのせいにしようとしていた。言われたじゃないか。ここから大事なのは、俺の言葉、意思、気持ちだ。
起き上がって、ベッドで眠るオルタの寝顔を眺める。闇夜にいても見失わない、その白い肌。すよすよと心地よさそうな彼女の表情を見て、自然と笑みが浮かぶ。
今まで、色んな表情を見てきた。笑い顔、怒り顔、泣き顔も、困った顔も。そういえば、最近はそのコロコロ変わる豊かな表情の中でも、不安げな顔が多かったかなぁ、なんて思い出す。
何が不安なんだろう。何に不安を感じているんだろう。俺は何処にも行かないよ。そんな顔しなくたって、ずっと一緒にいる。どうすればわかってくれるかな。何をして、言ってあげれば、安心してくれる?
悩みとつまらない理性が渦を巻いて雲を作る。曇天の冷たい部屋の中、手を伸ばし寝ている彼女の頬に触れる。起こしてしまわないように、壊してしまわないように。
瞬間、全てがわかった。指先に触れる温もり。血管を駆け巡り、心臓に突き刺さったオルタの熱が、俺に何もかもを教えてくれた。
世の男たちが花束の中に指輪を隠す理由、父が母にこれからずっと自分の予定を決めてくれと情けなくも言った理由、全て。
そうだ。不安なのだ。元始、女性は家庭を守る存在だ。今までの大人の庇護下から離れ、その責をその身1つに負うのだ。男は狩り……つまりは稼ぎに行く存在。その間、女性はその小さな体で守らなければいけない。自分の体よりはるかに大きいものを。それはいつの時代だって同じなのだろう。制度とか、風習とか、そんな小さいことじゃない。これは歴史だ。人類が今まで生き、繁栄とともにあった、その積み重ねだ。
それは不安に決まっている。だからこそ、男から言って、安心させてやらねばならないのかもしれない。
『自分には、君が必要なんだ』と。
父のなんとも情けないプロポーズだって、きっとそれを言うことで母に伝えたかったのだろう。
思えば、あの朝のオルタの行動は、家事を積極的にやろうとしたあの思惑は、「必要とされたかった」とか、そういう所にあったのかもしれない。
あぁ、俺は馬鹿だった。こんな簡単なことに、彼女の健気なアピールに気付かなかった。内から湧き上がる衝動に、叫び散らしてしまいそうだ。なんだ。なんだ。何も難しくなんてなかった。ごちゃごちゃ考えて、ぐるぐる迷って、結局全部すっ飛ばして答えはやってきた。ジャンヌの言った通りだ。
とある人に、勢いに任せてメールを送る。今の熱が冷めてしまわぬうちに、駆け足で飛び出してしまいたかった。きっと起きてないだろうが、それでいい。寝てしまうと、この激情は少し、冷えてしまうだろう。
さぁ、寝るぞ。今なら一瞬で眠りへと落ちていける気がする。暖房の設定温度を2℃下げるが、掛け布団を1枚蹴飛ばし左脚を放り出しているオルタを見て、結局エアコンのスイッチを切った。自分の布団に入ると、案の定意識がストンと落ちる。さよなら、今日までの俺。
次の日から2日間、俺はファラオさんのところの出版社で缶詰になった。
12月31日の夜、俺はオルタを家に呼び出した。実家ではなく、普段2人で暮らしている方の家である。
「なによ、わざわざこっちに呼び出して。おばさん文句言ってたわよ?あの野郎この忙しい時期に何処行ったって」
「はは……目に浮かぶよ」
言わずと知れた大晦日。その忙しさは推して知るべし。その怒りの炎は正月に浴びるとしよう。どうか正月気分で薄れていますように。
「で、なんなの?なにか無いと2日以上も姿を消して、別の場所に呼び出したりしないでしょう」
「そりゃそうだ。いや、初詣に行こうかと思って」
「はぁ?そんなこと?ていうか、初詣に行くにしては少し早くないかしら」
現在午後10時。その反応はごもっともである。
もちろん呼び出したのはそれだけではない。というより、初詣なんて、おまけもいいところだ。
「伝えたいことがある。大事なことなんだ」
どうしよう。どうやって伝えよう。何て言えばいいんだろう。覚悟なんてとっくに決まっているはずなのに、要らないことばっかりぽんぽん口をついて出て行ってしまう。
「へ、へぇ~。大事な話ぃ?そうなの。聞いてあげるわ。だから、早く言いなさい」
オルタがそわそわし出した。それを見て、俺の緊張も加速する。あ、手汗が……。いかん、何を言おうと思ってたんだっけ。沈黙がしんどい。息がつまる。
ちなみにこのやりとり、玄関で行っている。オルタを出迎えて、そのままだ。彼女はまだ靴すら脱いでいない。
よし、言おう。息を吸い込む。
「待って!まだ言わないで!ちょっと、時間をちょうだい!」
激しく咽た。な、なんで?思わずズッコケそうになるが、なんだか虚を突かれたような気分になった俺は、ズルズルと引き延ばさずにもう言ってしまえと腹を括った。
「これ」
「わあぁぁぁぁ!」
何をされると思っているのだろうか、オルタは。
顔を背け、両腕でガードする彼女。いやなんでさ。
「……なに、これ」
チラチラと隙間からこちらを窺い、差し出されたそれをまじまじ見つめる。
「……絵本?」
「そうだよ」
それは、表紙にタイトルだけ書かれた、それ以外真っ白な絵本。
タイトルは、『ぼくからキミへ』
手に取ったオルタが、それを見回す。何度見ても、それはただの絵本だ。器用に絵以外は完成しているだけの、絵本。
「それの絵を、君に描いてもらいたいんだ」
「なに?仕事の話?」
「まぁ、そうとも言うかな」
なによそんなこと……と、露骨にがっかりするオルタ。
「描いてあげるわよ。描くけど……え、本当にそれだけのために呼んだわけ?」
今度は彼女のバックにメラメラと燃えた黒炎を幻視する。それに慌てた俺は、彼女に続きを伝えようと躍起になった。
「まって!まだこの話終わりじゃないから、とりあえず中、読んでみて!」
小声で文句を溢しながらも、ぺラリぺラリとページをめくる。その音が聞こえる度に、俺の心臓が跳ね、鐘を鳴らす。今にも爆発してしまいそうだ。
手を動かすほどに、オルタの表情から色が消えていく。そして、そこに辿り着いたときに、彼女は完全に動きを止めた。
「なによ……これ……」
先程と同じようなセリフ。しかし、そこにはまったく別の熱がこもっている……ように感じた。
「何って、タイトルのまんまだよ。『ぼくからキミへ』」
それは、俺からオルタへのメッセージ。俺の気持ちを全て詰め込んだ、決意の証。
そして最後のページには、大事に嵌め込まれた、白金の指輪。
それをそっと取り出し、跪いて未だにこの状況を飲み込めないでいる彼女の左手薬指に通す。
「この絵本の絵は、君に描いて欲しい。君にしか描けない。俺には君が必要なんだ」
納期は、うん、そうだね。死が2人を分かつまで……なんて、どう?
少し惚けるように言ってみるが、彼女は何も言わない。唇がわななき、頬が色づいていく。自分の指に嵌められたその輝きと俺の顔を、何度も行き来するその視線。このままだと、何処かへ飛んで行ってしまうんじゃないかというくらい、儚げな瞳。だから俺は、彼女の目を見つめて、その一言を、今までの錯綜した諸々を粉々に吹き飛ばすその一言を、告げるのだ。
「待たせて、ごめん。もう決めたから。これからずっと、そばにいる。だから、」
結婚しよう。
発した言葉が空気中に溶けて消えていってしまうより早く、暖かい光の粒が俺の手の甲に零れ落ちてくる。驚いて目線を下げる。再び目の前にいる相手の顔を見ようとするが、その人物が胸に飛びついてきたせいでその表情を確認することができなかった。
「わっ、どうしたの。そんなに驚いた?」
「べ、別に驚いてないわよ!」
「でも、だって」
俺の服、ぐっしょり濡れてる……
「な、泣いてないッ!」
「それは厳しいんじゃない?」
ぐしぐしと涙を拭い、勢いよく立ち上がるオルタ。その眼は、清々しいほど真っ赤だ。
「ばか!いいでしょう!こんな時くらい、な、泣いたってぇ……!嬉しいときにも、涙は出るのよ!泣かせなさいよ、こういう……とき!くらいぃ……!」
拭っても拭っても、零れる涙は止められない。言葉の途中から、もう瞳から流れる感情を我慢しなくなったオルタは、再び飛びついてくる。
「絶対、死ぬまで!完成なんか、させてあげないんだからぁ……!」
気持ちを司るスイッチが熱暴走を起こした俺たちは、玄関先にいるということも忘れて、情熱的に抱擁を交わしながら幼子のようにわんわんと涙を流すのだった。
「心が宝石を生む」というフレーズを、何処かで聴いた。なるほど確かに、オルタが流したこの涙は、宝石のように……それよりも、綺麗だった。
どこからどこまでが自分の温度なのかわからないほど抱きしめ合い、上りに上がった熱がどうにか落ち着いてくれるのを待っていたら、いつの間にか年を越していた。
「まだ心臓、バクバクいってるよ」
「そうね」
「新年、来ちゃったね」
「初詣、行くんでしょ?」
俺たちは今、玄関に並んで座って肩を触れ合わせ、互いに体重を預けていた。オルタが熱い。きっと、俺の温度も心臓の鼓動と一緒に隣の彼女へ届いていることだろう。
「この玄関を開ければ、あたらしい世界が広がっているのかな」
「いつもと同じよ」
「いつもの景色が、特別に見えるみたいな」
「ないない。風情の欠片も無い住宅街よ」
「暖かな雪が降る……とか」
「それ、なんで融けないワケ?」
「きっと、月が綺麗だね」
「どうかしら。そんなこともないんじゃない?」
寄り添って、手を繋いで、言葉を交わす。いつものやりとり。いつもの軽口。これからもずっとずっと、続いていく。俺と彼女の、日常。
ただ、そう。誓いだ。誓いが必要だったのだ。「ずっと一緒にいるよ」という、約束の形。
誰かが花束に隠したように。声を失うほどの絶景込めたように。そして父が、「僕の生きる指針になってくれ」と母に言ったように。
自分には君が必要なんだ、と心の底の方にまで響かせるために。
それぞれにそれぞれのやり方がある。そういうことだ。ただ、共通することが1つ。何を渡すか、どんなメリットがあるか、そんなことは関係ない。不安も怯えも吹き飛ばす、強い想いが必要なだけ。「いつでも共にいる」という、その契りがあれば、それでいいのだ。
俺は、それをこの絵本という方法にした。
『ぼくからキミへ』
俺の職柄、そしてオルタのそれを考えてのことだ。図らずもサプライズ色が色濃くなってしまったが、それはそれということで。
かなりの無理と圧迫したスケジュールを押し通してくれたファラオさんたち関係者各位、頭が下がるばかりである。後でオルタと2人、報告も兼ねてお礼を言いに行こう。
「さて、と」
隣に座る、彼女の手を引いて立ち上がる。
「そろそろ行こうか。初詣」
「そうね。お義母さんとお義父さん、待ってるわよ?」
「あー、怒られるときは、一緒に怒られてくれない?」
「なんでよ」
べーっと舌を出して扉に手をかけるオルタ。
「あ、そうそう」
「何?」
かしこまり、咳ばらいを1つ。
「明けまして、おめでとう。今年も……今年から、よろしくお願いします」
お辞儀をすると、向こうもそそくさと髪を直し、コートの裾を払い、頭を下げる。
「明けましておめでとう。こちらこそ、よろしく」
言ってから、なんとも可笑しく思えてしまい、笑い合う。そろそろ、外へ出ようか。
オルタがドアノブを捻ったところで、大事なことを思い出した。
「……ん?あ、待って!プロポーズの返事!まさか、さっきの!?」
ガチャリ。扉が開いて外の空気が入り込む。悪戯が成功した子供のようないじらしい笑顔で、オルタが外へと飛び出す。
「察しなさいよ。無粋な男ね。まぁ、あれよ。いずれ一緒に、地獄に落ちましょうね。私のそばにいること、許可してあげるわ」
俺とオルタは、手を繋いで外の世界へと踏み出していく。新しくもなんともない、普通の日常。いつも通りの、いつもの世界。
しかし、今ばかりは。この部屋から外へと繋がるその1歩は、2人にとって特別な1歩になるのだろう。
<了>
おまけ
「立香クン……?お姉ちゃん、だよ?」
「ということは、立香さんは私のお兄さんですね!わーい!」
「自称姉に加えて、自称妹も増えた……」
「ま、実際そうじゃない?私と結婚するんだし。義姉と、義妹でしょ」
「……え」
「……はぇ?」
「なんかデジャヴ」
「ほっときましょ」
―5分後―
「ほら立香くん!お義姉ちゃん、です、よ!」
「お義兄さんお義兄さん!宿題手伝ってください!清い姉さんったら、ダメダメなんです!」
「助けてオルタ」
「遠慮が無くなったわね。ま、しょうがないんじゃない?」
「そうです!ほら!お義姉ちゃんの膝に横になってください!耳かきしてあげます!」
「違います!お義兄さんはワタシとお勉強です!ロジカルなお話するんです!」
「えぇ~……」
「いいじゃない。私の親に挨拶しにいくより、よっぽど楽だと思うわよ」
「え、オルタのお父さん、そんなに厳しい人だっけ」
「そうじゃないけど。相当びっくりされると思って。とりあえず、まあ」
「目ん玉飛び出るんじゃない?」
「目玉が飛び出ると思います」
「目ん玉飛び出しますよ」
ありがとうございました。
諸々は、活動報告のあとがきにて。ぜひご覧ください。
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