デジモンアドベンチャー それぞれの物語 (光子郎編)   作:アキレス腱

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デジモンアドベンチャー それぞれの物語 (光子郎編)

いつだって貴女は僕の思考の斜め上をいく。

僕がただの頭でっかちだったあの頃からずっと、貴女は僕の対極にいた。

まるで太陽みたいな明るさを振り撒いていたかと思えば、嵐のように癇癪を起こして僕を困らせる。

正直うんざりしていた時もあった。

親に愛され、友に囲まれ、馬鹿正直に感情を吐露しても許されてしまう愛嬌を兼ね備え、きっと悩みなど何もないのだろうと、半ば嫉妬混じりでもあった。

けれど、貴女が笑うとつられて笑顔になる自分に気付いた。

本当は笑いたい、怒りたい、泣きたいのにそれが上手くできなかった自分が、貴女につられて感情を表面化していた。

自分でも驚くほどに。

これが恋愛感情なのだと気付いたのは、貴女が遠い地へ行ってしまってからだった。

煩いほどの騒がしさや、図々しいまでの人懐っこさ、花の咲いたような笑顔、自分では可愛くないと言っていた怒り顔、すぐ側で見れなくなって初めて、寂しいと感じた。

 

春休みも終わりに近付く時期、都内のショッピングセンターは子連れや休みを満喫する学生、はたまた新生活を間近に控えてやや緊張気味の若者が多く行き交う。

そんな中、無地のTシャツにチェックのシャツという流行りに乗れない格好をした僕と、ミニスカートに華奢な身体にフィットするインナー、フワリとまるで霞みを纏ったかのようなカーディガンを翻す貴女が並んで歩く。

貴女の左足首から膝下まではぐるりと白い包帯が巻かれ、サイズを気にせず履けるサンダルを突っかけていた。

僕の手には今しがた貴女によってお買い上げされた品物たちが収まる紙袋が二つほど下げられている。

買主の貴女は当然のことながら手ぶらだ。

僕は右隣の貴女の足元をチラリと見やり、包帯が巻かれた足でモデルばりのウォーキングをこなしている様を確認する。

思わず「はぁ」と溜息がこぼれた。

 

中学1年の終わりに勃発した東京湾での決戦。

あの日、アメリカから飛んで帰って来て参戦していた貴女は、戦いの終結後、サポートで疲れ果てて転た寝していた僕の頭に、本が何冊乗るか試すという暴挙に出てくれた。

当然レスラーでも何でもない僕の首は重さに悲鳴を上げる。

そして身動ぎした直後、雪崩の如く音を立てて崩れ落ちた本の塔が貴女の足を直撃してまさかの負傷。

全治1週間だと医師の診断書片手に責任を追求され、因果応報なのではという僕の反論はあっけなく却下された後、日本に滞在する間の従者を命じられた。

その従者として栄えある最初の仕事が今回の荷物持ちだ。

 

「次はねぇ、5階の帽子屋さんに行きたいの〜」

「はぁ…」

ならなぜ最初の6階で服を買った時にすぐ5階に降りずに1階の化粧品売り場に来たのだろう。

相変わらず気分屋の貴女の行動は非効率的で理解し難い。

先を行く貴女から一段遅れてエスカレーターに乗り、目的地の5階を目指す。

単なる移動中もまた、貴女は通り過ぎるお店の数々に目移りしては1人楽しそうだ。

いいですけどね、貴女が笑っているのなら。

5階の帽子屋で貴女は帽子を2つも購入した。

帽子などというものは、僕にとっては高度なファッションアイテムであるため、2つも購入したら使い所に迷って箪笥の肥やしになるに違いない。

ファッションリーダー顔負けの貴女なら、そんなことはないのでしょうけど。

つばの長い春色の帽子をかぶって鏡の前でポーズをとる貴女を見ながら、そういえば昔もそんな大きな帽子を被っていたと感慨にふける。

確かあの夏の別れの時、電車の窓からめいいっぱい身を乗り出してパートナーに手を振っていた貴女は、帽子を風に攫われた。

一度も口にしたことがなかったけれど、あの帽子は貴女にとても似合っていたと思う。

それを言えなかったのは、単に僕に甲斐性が無かったというだけ。

「ねえ、似合う?」

鏡から僕の方に振り返って貴女は問い掛ける。

「はい、お似合いですよ」

今は多少の甲斐性も身に付けたと思う。

「じゃあこっちは?」

そう言ってスポーティーなキャップを被って再度の質問。

今日の格好だと幾分ギャップがあるように思えたが、トータルで可愛い。

「そういうのも似合いますね」

「でしょ〜?レースやフリルだけで纏めるのって何か物足りないから、頭とか足元で少し崩したいのよねぇ」

僕には分からないファッションセンスの話だ。

帽子屋を満喫した貴女は、そろそろ足が疲れたので休憩したいと言い出し、フードコートでクレープを僕に強請った。

「苺チョコバナナ、クリーム増量よ!アタシはトッピング用にあっちの韓国料理屋のキムチ買って来るねー」

先に確保した席でそう早口に告げた貴女は、クレープ屋とは真逆にある韓国フード店に駆けて行く。

相変わらず食の好みが常人と一線を画している。

目玉焼きに納豆と砂糖をかけると聞いた時の衝撃と言ったらなかった。

僕は言われた通りにクレープを注文し、会計を済ませて品物を受け取って席に戻った。

僕にはちょっと甘すぎる食べ物を眺めながら貴女を待つ。

じきに貴女は鼻歌まじりにキムチが盛られた皿をトレイに乗せて現れた。

僕からクレープを受け取り、クレープにキムチを乗せると思いきや、まさかのクレープをキムチの皿にダイブさせて食べ始める。

言葉を失う僕を尻目に「美味しい〜」とご満悦の様子だ。

チラリとクレープ屋を振り返ると、他の女性客達がクレープを手に慎ましやかに食べ進めるのが見えた。

きっとあれが世間一般で言うところの正解で、僕の目の前で展開されている状況はイレギュラーなのだと思う。

僕は給水機から汲んで来た水を飲みながら、貴女が食べ終わるのを待った。

「あー美味しかった!ごちそーさま」

満面の笑みのところ申し訳ないが、口の端と頰にキムチクリームが残っている。

僕が紙ナプキンを差し出すと、貴女は「え、ウソ、どこどこ?」と慌てて手に取り口を拭う。

「まだもう少し右です」

「え〜だからドコよ〜?」

口元は取れたが、頰の場所が分からずにモタモタとしている。

恐らく化粧が崩れないように拭いたい思いもあるのだろう。

何だか鳩尾の辺りが疼くような感覚がした。

「仕方がないですね」

僕は少しだけ身を乗り出し、力加減を考えながら貴女の頰のクリームを拭う。

貴女は僕の手の行方を目で追いかけながら、他人に拭かれる感覚が照れ臭いのか、少しばかり口を尖らせていた。

「取れましたよ」

「ありがと…」

紙ナプキンを折り畳んでトレイに戻し、紙コップの水を一口口に含んだ。

そこで気付く。

貴女が何やらジーッと僕の方を睨んでいることに。

「な、何ですか?」

「いつの間にそーゆーことサラッと出来ちゃうようになったの?」

「そーゆーこと、というのは?」

「女の子のほっぺについたクリーム拭いてあげるなんてことよ!」

「えぇ?」

何故かキレられる。

「そ、それは、ミミさんが上手く拭けないでいるようだったのでお手伝いしたまでで…」

「だからっ、そんな“お手伝い”を照れもしなければ躊躇いもしないでどーしてできるようになったのって聞いてるの!」

「ど、どうしてって…えぇ?それって怒られるようなことですか?」

「怒ってないわよ、どーしてか聞いてるだけじゃない」

眉を吊り上げ、頰を膨らめ、加えてキーンと耳に響く高い声。

これで怒っていないと言い張るところは変わらない。

貴女は求めた返答が中々得られないことに苛立って、更には「む〜」と唸り出す。

僕としては怒らせるつもりなど全くなかったので、この状況は予想外だ。

「あ、あの…僕の場合、多分ミミさんにしかできないと思いますが」

「へ?何それ、どーゆーこと?」

「ですから、僕は元々異性との付き合いは苦手ですし、仲間以外に特別親しい女性もいません。仲間内であれば砕けた対応もできますが、さすがに空さん相手は恐れ多いですし、ヒカリさんや京くんとこうした場面があるとも思えません。とすると、残るは同い年のミミさんになるわけですが…」

「アタシは余り物ってこと?」

ジロリと睨まれ、僕は少しばかり肝を冷やす。

「い、いえ、そういうことでは決してなくてですね。ミミさんくらいですから、僕に対してこの距離でこうして接してくれる異性というのは」

この僕の言葉に、貴女は何やら面食らった様子を見せる。

そして、視線を泳がせて何かを考えるような素振りを見せた後、「ふーん、そーなんだ」と小声で呟くのが聞こえた。

 

さて、ブレイクタイムを挟んで買い物は後半戦。

靴に雑貨にアクセサリー、何故か家具コーナーまで回って展示用のソファで寛いだり、買う気も無いのに電気屋のマッサージチェアを試すなど、ショッピングセンター内部を制覇するかの如くだ。

手荷物の数もアレヨアレヨと言う間に増え、行く先々の店で「袋おまとめしましょうか?」と問われては袋が巨大化していった。

日本に滞在中はホテル暮らしと聞いてるのに、こんな大量の品を購入して大丈夫なのだろうか。

いや待て、先に空輸する気でいるのかもしれない。

そんな僕の予想は、貴女相手では大抵裏切られる。

一度ホテルに帰ると言うので、歩いて15分程の道程を両手一杯の荷物を抱えて歩いた。

貴女はボーイの申し出を断って僕に荷物を運ばせて部屋に招き入れようとする。

仮住まいとはいえ仮にも女性の部屋。

僕が躊躇うと貴女は「いーからいーから、だって疲れたでしょ?」とニンマリ笑った。

疲労はしていたけれど、それとこれとは話が違う。

「休憩ならロビーでも一階のカフェでもいいですから、さすがに部屋は」

言いながら顔が熱くなるのが分かった。

しかし、貴女はそんなこと御構い無し。

「えー、だってこの部屋広いのよ?窓際にテーブルもあるし、ティーセットもあるからお茶くらい淹れるってば」

「そういうことじゃないんですが…」

顔に集中していた熱を、貴女の察しの悪さが冷ましていく。

所詮、意識しているのは自分だけ。

貴女にとって僕は仲間以上でも以下でもないのだと、こういう所で思い知らされる。

強く咎めようかとも考えたけれど、「ちょっとくらいいーじゃないのよ、ケチ!」と眼前で拗ねられてしまうと敵わない。

「分かりました、少しだけ…お茶一杯だけご馳走になります」

折れた僕に、貴女はとても嬉しそうだ。

今そんな顔しないで下さい。

 

貴女の言った通り、ホテルの部屋は広かった。

1人部屋だと言うが、ベッドはダブルサイズでスペースも余裕があり、テレビや冷蔵庫なども心なしか大きい気がする。

「ユニットバスじゃないから快適」なんて設備の説明をしてくれたが、生憎と確認する気にはなれない。

僕は運んできたたくさんの袋達を言われるがままベッドに置いて、貴女が指定した窓際の丸いティーテーブルに備え付けられたソファに腰を下ろした。

窓からは都会の街並みが見える。

「ねえねえ、焙じ茶と紅茶、どっちがいい?」

お茶の準備をしている貴女からの問い掛けに、僕は後者を選択して返事をする。

「りょーかい」と楽しそうに答える貴女の作業する気配を体の左側で感じていた。

ものの数分で紅茶の入ったティーカップがテーブルに鎮座していた。

正面のソファには貴女が座っている。

貴女はティーバッグをやたらと上下させた上に紐で括って絞り上げるなんてことまでしていた。

「そうすると渋みが増しませんか?」

「アタシは渋い紅茶にりんごジャムと七味入れて飲むのが好きなの」

そう言う貴女のカップの隣にはりんごジャムの瓶と七味唐辛子の小瓶が異様な存在感を放って佇んでいる。

「僕はあっさりなストレートでいいです」

と先に牽制してからティーバッグを一度底まで沈めてゆっくり引き上げた。

貴女のより大分薄い色の紅茶が出来上がる。

二人で紅茶を飲みながら、先の戦いのことやデジタルワールドの思い出なんかを話し合った。

 

あの世界とデジモンは僕にとって未知のものへの探究心を擽ぐる恰好の研究対象であり、己と向き合うきっかけを与えてくれたかけがえのない存在であり、一生の仲間を得た大切な場所。

小さかった自分の世界が無尽蔵に広がっていくことへの歓びは不安を飛び越え、僕は進むべき道を見出すことができた。

同時に、どこかで諦めていた家族や友人といった人間関係に対する考え方も随分と変わり、人を信じることができるようにもなった。

貴女はもっと純粋にあの世界を捉えて、感じて、その中で変化していったように見えたけれど、それは僕の主観でしかない。

ただ、そんな貴女を、僕はいつも羨ましく思っていた。

 

「…アタシが羨ましい?光子郎くんが?」

「ええ、僕ならブレーキをかける所で迷わずアクセルを踏めるんです。ミミさんや太一さんには一種の憧れのようなものを感じていたと思います。まあ、アクセルを踏んだ先で必ずといっていいほどアクシデントに巻き込まれるので、当時は多少イラっとしましたが」

「な、なによー!アタシだって光子郎くんが頭ばっかで考えて中々行動に移さないトコとかにイラっとしてたんだからね」

「そうでしたね、ミミさんにはよく怒られました」

「そうよー、いーっつもパソコン抱えて難しいこと言ってばっかで、ホントは何考えてるのか、さっぱり分かんなかった」

「はは、返す言葉もありません」

昔話は、今も色褪せずに僕の中に残る記憶達に明かりを灯す。

お互いの紅茶が無くなると、貴女はおかわりを作ってくれた。

僕が時計に目をやる度に、貴女は少しだけ声の調子を上げて話す。

やがて陽が傾き、室内の大半が影に落ちた頃、電気をつけるといって席をたった貴女は、親から持たされていると言っていた携帯を放置していたことに気付いて慌て始めた。

「パパ心配してるだろーなぁ、ちょっと電話かけてくるから待ってて」

「え、あ、それなら僕はそろそろかえ」

「いいから待ってて!すぐ終わるから」

立ち上がろうとした僕の言葉を遮って、貴女は部屋を出ていってしまった。

1人ポツンと暗い部屋に残される。

帰るタイミングを逃したことに肩を落とす。

電気を点けようか迷って、窓を振り返ると街の明かりが見えた。

これはこれで見ていれば飽きないかもしれない。

再びソファに腰を落ち着けて、背もたれに身を沈めると、柔らかいクッションが迎えてくれた。

最初に座った時も思ったけれど、それなりに座り心地が良いソファだ。

目を閉じれば眠れそうでもある。

そう言えば、昨日の夜は海外の友人とチャットをしていて寝るのが遅かったため、結構な睡眠不足であったことを思い出す。

薄暗い環境にこのソファの座り心地はまずいかもしれないと思いはしたものの、既に微睡みに引かれた意識は覚醒を拒否していた。

そこで記憶は途切れ、次に僕の意識を引き戻したのは雨のような連続した水音だった。

雨?

昼間はあんなに良い天気で、天気予報でも雨なんて一言も言っていなかった筈…。

そこまで考えてハッと目を覚ました。

部屋は真っ暗で、窓からの差し込む街の明かりと、バスルームと思われる部屋から漏れる明かりが部分的に室内を照らし出している。

すぐさま時計を確認すると午後7時を過ぎたところだった。

深夜ではないことに安堵したのも束の間、外は昼と変わらず晴れていて雨なんて一滴も降っていないのに、壁を隔てて聞こえてくるこの水音は一体何でしょうか。

状況が掴めてきた僕の鼓動が一気に速くなる。

「か、帰らないと…」

動悸がする胸を抑え、ぎこちない動作で部屋の入り口に向かおうとするが、途中でスーツケースに躓いて思いっきり顔から床に突っ込んでしまった。

鍵の開いていたらしいスーツケースが衝撃でパックリと開き、中の荷物が散乱する。

衣類らしきものが僕の上にも被さってきた。

自分の間抜けさに頭痛がする思いだったが、それよりも更に頭の痛い事を貴女はしでかしてくれた。

僕が転んだ時にそれなりの音がしたのだから、驚いて様子を見に出てくるのは至極当然。

しかし、問題はその格好である。

「なんか凄い音がしたけど大丈夫?」

顔面を抑えて上半身を起こした所に投げかけられた声の方を振り仰ぐと、全身から水滴を滴らせ、バスタオル一枚で胸から太腿までを隠した貴女がバスルームの扉の影から身を覗かせていた。

「っっっわぁあああああああ!??????!?!!!」

「きゃっ!?」

化け物に遭遇したかの如き叫び声を上げた僕に、貴女は驚いていたようだったけれど、僕の方が驚いて心臓が止まるかと思った。

僕は大慌てで肩や頭に引っかかっていた衣類を掻き集めて沸騰しそうになっている顔面を覆い、貴女の姿を視界から消し去る。

「ははは、早くドド、ドアを閉めっ、閉めて下さい!」

声がひっくり返ってしまったけれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。

一瞬でも視界に写してしまった貴女の姿が、瞼の裏に蘇っては思考を掻き乱していくのを止められず目も瞑れないのだ。

かといって貴女を直視したらそれこそどうなってしまうか分からない。

だから視界を覆い隠して、貴女が扉の奥に引き返してくれるのをただひたすら待つしかなかった。

「あ、あぁあ、さすがにこの格好は無いわよねっ!」

自分の姿のあられもなさに気付いてくれたのか、貴女がパタンと扉を閉めてトタトタと奥に戻っていく音が聞こえた。

僕は治りきらない動悸に揺れる胸を抱えながら、それでも貴女という脅威が去ったことに僅かながら安堵を覚える。

顔を覆っていた衣類をズルズルと手元に引き寄せ、皺くちゃになったそれらを見下ろす。

僕が目隠しに使っていたのは、貴女の私服と思われるブラウスやTシャツだった。

クリーニングして返さなければと冷静な思考が働く頃、またしてもバスルームの扉が開いた。

瞬間的に身を硬くして目隠しをした僕の正面から、貴女の声が降り注いだ。

「もう服着てますぅ」

しかしそう言われても貴女を見ることなどできず、目隠しも外せない。

「っその…す、すみません、でした。決してこ、故意にではないんです。眠り込んでしまったのは僕の落ち度ですし、その間ミミさんがどう過ごそうと、ここはミミさんが借りてるわけですから問題は無いわけで、でもだから帰ろうとして、躓いて…」

「荷物ぶちまけましたってわけ?」

「っ……はい、すみません」

面目次第もございません、と目隠ししたまま項垂れる。

「ねえ、いつまでアタシの服で目隠ししてるの?」

「あ、いえ、これはっ」

チクリと刺さる言葉に慌てて衣類を取り払うが、視線は自然とあらぬ方向へと向かう。

真正面に貴女の存在を感じながら、僕は視界に映るクローゼットの扉を凝視していた。

「あ、あの、シワにしてしまいましたので、クリーニング代払います」

「別にいいわよ、そのくらい」

「そ、そういう訳にはいきません!」

「ふーん、じゃあさ、クリーニング代の代わりに別のもので支払ってよ」

「べ、別のものというのは?」

なんとなく話の流れがおかしな方向に行っている気がして、チラリと目線を正面に向ける。

が、それはしてはならなかったと後で後悔する。

服を着ていると言った貴女は、確かに服を着ていたけれど、元々生地が薄い上に十分に水滴を拭き取らずに着用した所為で薄ピンクのTシャツは所々透けて下着が見えており、しかも下衣に至ってはショートパンツで露出度が半端じゃない。

「ちょっ、ミミさん?!」

「え?なに?」

貴女は僕が何でこんなに慌てているのか全く分からないという顔をして首を傾げる。

乾かされないままの濡れた髪の毛の束が首筋に沿ってこぼれ落ちた。

もうどこを見ていいのか分からない。

頼むから自分が女性であることを、いや、僕が異性であることの認識を改めてもらいたい。

「あのですね、服は着ればいいというものじゃありません、ちゃんと隠すべきところは隠して下さい」

「はぁ?」

「っだから、見えてるんです!」

もどかしさから声を荒げるなんて、格好悪いことこの上ない。

恐らく僕の顔は真っ赤だと思う。

それくらい顔は熱くて、鼓動は煩く耳の奥で鳴っていて、手も声も震えていて、直視できない貴女を全身で意識している。

でも当の貴女は…。

「え?どこが?何が?あ!あー、もしかして下着?大丈夫よぉ、これ見えても平気なやつ、っていうか見せるやつだから。最近流行ってるんだぁ」

恥じらいをどこに置いてきた。

グラリと眩暈がするような苛立ちが沸き上がる。

感覚の違いなのかもしれないが、そういうファッションなのかもしれないが、流行なんてこっちは知ったこっちゃない。

好きな女性に目の前でそんな格好をされたら男はどうなるか、貴女はまだ知らない。

いつも通りの笑顔で笑う貴女に、僕は初めてやましい気持ちで手を伸ばした。

ゆっくりと、でも確かな力で細い肩を捕まえてバスルームの扉に押し付ける。

重心のコントロールを失った貴女が床に尻餅をつくのと同時に、僕は細い足の間を割って膝を前に進め、身を乗り出した。

貴女の笑いが途切れて、僕を見る表情が変わる。

「え…光子郎く」

「ミミさんが悪いんです」

ただの責任転嫁だが、無意識とはいえ煽ったのは貴女だ。

貴女に跨るような体勢で、僕は貴女の濡れた髪を手の甲で持ち上げて細い首筋を露わにさせる。

この後何をするのか自分でも分かっていなかったが、身体は自然と動いていく。

肩を捕まえていた手で、見せるタイプだと豪語した下着の線をなぞると、貴女は怯えるようにして肩を竦めた。

そこで僕は我に還る。

驚きに固まる貴女と目が合うと、途端に冷や汗が噴き出した。

「あ、ああのっ…こ、これは、ぼ、僕は…っ」

僕の異変に貴女が目を瞬かせる。

僕は貴女から手を離し、銃を向けられた人のように両手を挙げて後退った。

「す、す、すみませんっ!!」

状況に耐えられなくなった僕は、謝罪だけを叫んで部屋を飛び出した。

エレベーターを待てずに階段を駆け下り、ホテルから出て2分ほど、方向も気にせず全速力で走った。

走っている間、頭にあったのは貴女の驚愕の表情と自分への罵倒だけ。

想いを告げたわけでもなければ、合意の上でもないというのに、あんなことをしてしまった自分は最低だ。

理性という手綱をああも易々と手放し、しかもそれを相手に責任転嫁して事に及ぼうとまでしてしまった。

貴女が怯えて竦んでくれなかったら一体どこまでのことをしていたのか、考えるだけで恐ろしい。

ちゃんと謝らなければならなかったのに、居たたまれなさに飛び出して来るなど、ダブルで最低だ。

 

その日、案の定というか何というか、僕は眠れなかった。

でも単に自責の念に押し潰されてというだけではなく、それ以上に自分が俗欲に塗れた生き物だと知ってしまったことも手伝ってのことだ。

眠ろうと目を閉じて思い出すのは貴女の湯上がり姿であったり、際どい私服姿であったり。

それらを振り払おうとしても、手に残る貴女の肌の滑らかさが蘇って頭がクラクラした。

最低なことをしたと思っている筈なのに、理性の叫びを無視して身体は熱くなる。

普段冷静に振舞って見せていても、一皮剥けば所詮十代前半の雄でしかない。

こんなことはいけないと思いながら、手招きする快感に引きずられる。

布団を頭まで被って声を殺し、下半身を刺激する。

初めてのことで何をどうすればいいか分からないが、必死で快感を求めて手を動かした。

未だ見ぬ貴女の乱れる姿を想像して息が上がる。

「っ、う…」

達する時に抑えきれなかった小さな呻きが、自分の耳には大きく響いて羞恥心が高まる。

布団の中で篭る呼吸が煩くて、手のひらで受け止めた液体がドロリと指を伝う感覚が不快だった。

最低な気分で朝を迎える。

汚れた下着をどうするか、深夜頭を悩ませて出した結論を早朝に実行する。

それでも、恐らく母にはバレるだろう。

身の回りのことへの管理が行き届いている親を、この時ばかりは恨めしく思った。

だが、実際気付いていたであろう母は、自分が干すよりも先に風にはためく洗濯物を見て首を傾げただけで、特に触れずにいてくれた。

どんなに抜けているように思えても、あの人は自分よりずっと大人なのだと改めて思う。

そして自分は、自制心も保てない子供なのだと。

 

昨日のことがあったからだろう、それから3日間、貴女からの連絡は途絶えた。

当然だ。

それだけのことをしたのだから。

謝りたかったけれど、自ら連絡を入れる勇気はなかった。

貴女が日本を発つまで残り2日と迫る中、意気地のない僕は動けずにいた。

 

父と母が揃って親類のお見舞いに出掛け、留守番を任された僕は、パソコンでの作業もそこそこにリビングで怠惰な身体をソファに預けていた。

あの日から寝不足が続いていて、全身の気怠さと頭痛が慢性化しつつある。

昼間からこのダラけ具合はよろしくないと分かってはいるものの、何かをやる気はちっとも湧いて来ない。

電話が鳴っても取るのが億劫で、先程も居留守を決め込んだばかりだ。

ウトウトと襲いくる眠気に抵抗する気もなく、微睡みに意識を預けようとした時、玄関の呼び鈴が僕を現実に引き戻した。

それも一度なら聞かなかったことにもできるのに、しつこく何度も鳴らしてくるとなれば、おちおち寝てもいられない。

重たい身体を何とかソファから引き起こし、撥ねる髪を無造作に撫で付けながら玄関に向かう。

「どちら様ですか?」

眠気の取れない声で問うのと同時に玄関の覗き穴に顔を近付けると、外にいた人物を認めた僕の脳が瞬時に覚醒した。

「っ、な、え?」

覚醒したものの思考が鈍っているために考えがまとまらないでいると、外に立つ人物はキッと覗き穴に的を絞って睨みを効かせると、大きな声で言った。

「ちょっとぉ、メールは無視、電話は居留守、チャイム鳴らしても反応が遅い!いるならさっさと出て来なさぁーい、光子郎!」

物凄く聞き覚えのある声で罵られ、僕は急いでチェーンを外してドアを開けた。

扉の向こうには、ライトグリーンのワンピースに白いボレロを羽織って仁王立ちする貴女がいた。

「ミミさん…」

「やっぱりいるんじゃない、何でメールも電話も出ないのよぉ!」

「え、あ、すみません…」

条件反射的に謝る僕に貴女は更に追い討ちをかける。

「大体ねぇ、この間だって飛び出してそのまま音沙汰も無いし、どーゆーこと?」

「すみません」

痛いところを突かれ、もはや謝ることしかできない。

しかし、貴女の怒りがこの程度で治る筈もなく、カツカツと靴の踵を鳴らして玄関先に乗り込んで僕を追い詰めた。

「こっちは滞在期間中予定が詰まっててすぐ会いに行けなくて、もう気になって気になってしょうがなかったんだから。このアタシのモヤモヤ、どーしてくれるのよぉ!」

「あ、の…本当に、申し訳ありませんでした」

貴女に押し負けて反り返る僕の足元では、応対のために突っかけただけのスニーカーの踵がずぶずぶと潰れていく。

目を合わせられずに謝る僕に半ば呆れたのかもしれない貴女は、ふうっと大きく息を吐いた。

そして、「大きな声出したら喉渇いちゃった、お邪魔していい?」と僕の返事を待たずに家に上り込む。

リビングまで行った貴女は、今し方僕がダラけきっ身体を横たえていたソファに腰を下ろした。

僕はノロノロと貴女の後を追いかけて、何が飲みたいかを尋ねると「何でもいいわ」と一番困る返事が来た。

冷蔵庫を開けて見つかったアイスティーをグラスに注ぎ、貴女の前に差し出すと、貴女は短くお礼を述べて一気にそれを飲み干す。

ぷはっと息を吐いて口元を拭う仕草が、いつか見た姿に被った。

空になったグラスをテーブルに置いた貴女は、僕を振り返って「ちょっと座って」と着座を促す。

拒否権は無いのだと悟ると、僕は観念して貴女の斜め前に正座した。

「何で正座?」

「何でって…この間のことを怒っているんでしょう?ミミさんに少しも非が無いとは言いませんが、明らかに僕が悪かったんですから、貴女の怒りには正当性があります」

「怒ってなんかないわ」

「そう、だから怒ってなんて…え?」

思わず聞き返してしまった。

目線の先にいる貴女は足を組んで、ついでに腕も組んで、少しだけ不機嫌そうな表情をしている。

「あの、ミミさん?怒って…」

「だから怒ってないの、この間のことは」

この間のことは、ということは何か別のことで怒っていらっしゃる。

聞くより先に貴女は喋り出す。

「アタシが怒ってるのはその後!アフターフォローがなってないってことよ!」

「あ、あふたぁふぉろお?」

「そうよ、アフターフォロー!思春期男子が突っ走るくらい何よ、こちとらハグやらキスやら日常的にぶちかましてるお国で何年も生活してるんだから。日本男子はそれこそ羊の皮を被ったオオカミだけど、オオカミになったとして、その後のフォローが何にも無いんじゃ印象悪くするだけじゃない!」

「は、はい」

「いい?あーゆーことの後は本気なのか遊びなのかハッキリさせてくれなきゃ、女の子は対応に困るの。本気なら気持ちを伝えてパーで叩かれなさい!遊びなら遊びと言ってグーで殴られなさい!分かった?」

早口でまくし立てられ、二の句が告げない僕だったが、どちらにしても打たれることだけは分かった。

この場合、貴女の言い分に照らし合わせれば、僕はまず本気か遊びかを貴女に伝えなくてはならないらしい。

勿論、遊びであんなことができるほど僕自身軽薄な人間ではないと自覚している。

ここで正直な気持ちを伝えなければ貴女に失礼だと、僕は腹を括った。

「確かに、僕の対応は不誠実でしたね…」

居住まいを正し、僕は貴女に深々と頭を下げた。

「僕の自制心が足りないばかりに、ミミさんにはご迷惑をおかけしました。でも、決して遊び半分や興味本位で迫ろうとしたのではありません。僕は、その…貴女が…貴女のことが」

核心に迫るほど顔に熱が集中していく。

それこそ顔から火が出るんじゃないかと思うくらい熱くなって、急激に視野が狭くなっていくような感覚に襲われる。

ぐるぐると回る思考が次の言葉を紡げと煩く急かし、その度にどもってしまって言葉が途切れた。

貴女はさぞイライラしながら僕のこの様子を見ていたのだろう。

踏み切れない僕の背中を貴女自身で押しに来るほどだったのだから。

「光子郎くん、その先はこっち見て言って」

崖っぷちに立つ僕を更に追い詰めるかの如く淡々と紡がれた貴女の言葉。

僕はもう振られる覚悟も同時に決めなくてはと己に言い聞かせ、恐る恐る顔を上げて貴女を見た。

貴女は真剣な表情でこちらを見ていた。

真摯な眼差しは逆に切なげにも見えて、告白する緊張とは別の動悸が疼くのを感じた。

あれほど熱いと感じていた顔の熱がみるみる内に引いていく。

まるで時が止まったかのような空間で、僕はゆっくりと自分の気持ちを言葉にした。

「ミミさん、僕はこれといった取り柄もなく、ミミさんと並んで歩けるようなセンスもありません。話の引き出しも少なくてつまらないし、貴女を怒らせてばかりで男としては頼りないかもしれませんが、それでも貴女のことが好きです」

言い終えた後に貴女が一瞬微笑んだように見えた。

でも次の瞬間、左頬に熱い衝撃が加えられた。

「っ!?」

痛いというより驚いて固まる僕の前に、貴女は膝を折って座り込み、今し方引っ叩かれた僕の頰に引っ叩いたであろう右手を添えた。

「有言実行」

何故か誇らしげな表情で言われ、確かにさっきどちらの場合でも打たれる結果が待っていると認識したことを思い出す。

「そうでしたね、確かにパーでした」

クスリと笑いが溢れる。

僕は頰に添えられた貴女の手に、躊躇した後に自分の手を重ねた。

「あの…僕の気持ちは言った通りなんですが、もし可能ならミミさんの気持ちを教えてもらえませんか?」

手を振り払われなかったことで微かな希望を抱いた僕は、どうしても貴女の気持ちが知りたくなった。

貴女にとって僕という存在はどのポジションなのか、また僕の望む関係になることは可能なのか、心がはやる。

自然と貴女の手を握る僕の手に力がこもる。

僕の問い掛けを受けた貴女は、どこか拗ねたような表情で一度目を伏せた。

「何とも思ってない男の子を、例え仮住まいだって自分の部屋に入れたりしないわ」

ドクンと胸が高鳴る。

「ただの仲間としての相手なら、寝てる間にシャワーなんか浴びないわ」

貴女の頰が僅かに赤い。

「好きじゃなきゃ、あんな風に迫られて嬉しいなんて思ったりしないわよ」

恥ずかしさを打ち負かして気持ちを吐露した貴女を、僕は思わず抱きしめていた。

「何よ、アタシがどれだけ言葉や行動でアピールしてたと思ってるの?それなのに光子郎くん、ちっとも気付いてくれないし」

「それは、すみません」

言いながら貴女の頭を撫でる。

貴女は僕の胸に頭をグリグリと押し付け、猫のように甘え始めた。

「ちょっとやり過ぎかなって思うくらいやってやれって思って部屋に呼んでも寝ちゃうし」

「寝不足で、すみませんでした」

「もうシャワーでも浴びてやれってしたら漸く動いてくれたけど、すぐに怖気付いて逃げるし」

「はは…それはその、本当にすみません」

「連絡くれずに放置するし」

「はい、情けなくてすみません」

「結局何もかもアタシからじゃないのよー!もお、男として恥ずかしいと思わないの?」

「返す言葉もありません」

「開き直ってんじゃないわよ、この朴念仁、パソコンオタク!」

今度はポカポカと、さして力の入っていない連続パンチが飛び出す。

僕が甘んじてそれを受け入れる次第でいると、グイッと襟首を捕まれた。

「ミミさん?」

至近距離の貴女の顔に思わず呼吸が止まる。

もう少しで鼻先が触れそうだ。

さっきからドキドキと煩い心臓の音が、また一段と速くなる。

「ね、この間の続きは?」

「え゛?」

まさかの発言に僕の思考が停止する。

しかし貴女は止まらない。

「この間の、あの後光子郎くんはどうするつもりだったの?」

「どどど、どうって…」

「ね、教えてよ」

真剣な眼差しで迫られても、事がことだけにそう簡単に答えるわけにもいかない。

そもそも、僕に教えられるような経験値はなく、ただの知識としてしか持っていない。

一人で致すことですらついこの間デビューを果たしたばかりだというのに。

いや、それ以前に貴女に迫っておいてそれもおかしな話ではあるが。

「お、教えると言われましても、ぼ、僕は初めてで…」

「アタシだってそーよ」

そうでしたか、それは少し安心。

ではなくて、この流れは非常にまずい。

この間は衝動に任せてしまったけれど、そう簡単にしていい行為では無いのだ。

ましてや中学生の身の上で、もしかした場合に責任だって取れない。

この場を何とか諌めなくては…。

「あの、ミミさん。こういうことは勢いでしてはいけないと思うんです。そりゃ、この間は僕の勢いでそういうことになりかけた訳ですが、十分な知識もなければ準備もないこの状況で、何かあった時に傷付くのは女性の方だと言いますし」

貴女の両肩を捕まえて少し距離を取って話す僕に、貴女は終始ブーたれていた。

「あーあ、あの時勢いで流されてくれたら良かったのに」なんてとんでもないことまで言い出す始末。

あの時、貴女の方も不安や恐怖があったから竦んだのではないかと問うと、貴女は「そーゆー時の女の子の怖がる素振りや嫌って言葉は大抵イエスの意味なんですー」と口を尖らせた。

まさかの事実に少しだけショックを受けた。

じゃあその時になったら、こちらが遠慮する必要は無いということか。

そう心で呟く。

でもその前に色々と勉強しておかなければ、と密かに決意した。

 

この日、貴女は午後から友人と会う約束があると、それはそれは不本意そうに告げてきた。

折角両想いになれたのだからもっと一緒にいたい、と駄々をこねる貴女は可愛くて、当然僕も同じ気持ちだったのだけれど、先約のご友人を無下にするわけにもいかないというのは双方の考えだった。

「明日は昼の飛行機だからそんなに時間無いし、それもこれもみーんな光子郎くんがウジウジしてた所為なんだからぁ」

「え、でも昨日まで予定が詰まってたんじゃ…」

「そーゆー問題じゃ無いの!」

「あ、はい、すみません」

理不尽のようにも感じたが、自分との時間が欲しいと思ってくれているというのは素直に嬉しかった。

なんだかんだと文句を言いながらも玄関に足を運んでいく貴女。

細い手首につけたブレスレット型の時計を見て、大きなため息を吐く。

「はぁ〜あ、タイムリミットかぁ」

「あの、何時にホテルに帰る予定なんですか?」

僕がそう尋ねると、貴女はぱぁっと顔を輝かせた。

「スイーツ食べて近況報告してだから、夕食前、6時くらいにはフリーになれると思うの!」

「夕食はホテルで?」

「う〜ん、最上階にレストランがあるんだけど、お高い感じで肩凝っちゃうのよ」

「それなら、一緒に食べませんか?僕も今日は両親とも帰りが遅いので、一人なんです」

「ホント!?やったぁ!」

大袈裟なほど喜んだ貴女は、勢いよく僕の首に抱きついてきた。

「うわっ」

予想外の衝撃に何の準備もしていなかった身体が情けなくもよろめく。

何とか踏み留まって、腕の中の貴女を見ると、「へへ〜」と緩みきった顔で笑っていた。

くわぁああっと言いようのない恥ずかしさがこみ上げ、僕は片手で額を押さえた。

「あぁもう…」

「ん?なぁに?」

密着したまま見上げる仕草はやはり猫のよう。

額にかかる髪を避ければ擽ったそうに目を瞑り、ぎゅうううっと抱きしめると「苦し〜」とジタジタもがく。

まずい、楽しいんですけど。

猫を手懐ける時のような何とも言えない幸福感がじんわりと心に沁みる。

こんなことをしていると、ますます離れがたくなってしまうというのに、僕は5分近く貴女で遊ぶのをやめられなかった。

そして5分後、遊び過ぎた弊害で膨れっ面になった貴女は、さながら頬袋パンパンのハムスターだった。

「すみません、楽しくてつい…道中気を付けて下さいね」

必死に笑いを堪えて貴女を送り出す。

「一人で楽しんじゃってずるい、夜は覚えてなさいよ」

まるでチンピラの捨て台詞のような言葉を残し、貴女は友人との待ち合わせ場所に向かって行った。

 

貴女が友人と過ごしている時間、僕は少々の仮眠と、私服コーディネートに頭を悩ませ、残りはインターネットで調べものをして過ごした。

約束の6時、友人と会う場所から近いという理由で待ち合わせは僕の家だったため、精一杯悩んだ私服を着て貴女を待つ。

貴女は6時を5分ほど過ぎた頃にやってきた。

足が疲れたとぼやく貴女に、一応怪我のこともあるので一度上がって休んでから移動しようと提案すると、ニコニコと上機嫌になった。

「折角だから光子郎くんの部屋行こうよぉ」

「面白いものなんてありませんよ?」

「知ってるわよー、そんなこと。だからいいじゃない」

どうせ拒否権は無いのだと、僕はそれ以上の抵抗はせずに部屋に招き入れる。

貴女はクルクルと部屋の中を見て回った後、ちょこんとベッドの端に腰を下ろした。

「何か飲みますか?」

「ううん、大丈夫。ね、光子郎くんもこっち来て」

てしてしと自分の隣を手で叩いて示す貴女に促されるまま、僕は貴女の隣に腰を下ろす。

ギシッとベッドのスプリングが軋む音がして、マットレスが自重で沈み込む。

と同時に新たにギシッと音がしたかと思うと、「ていっ」という掛け声が被さり、視界が揺らいだ。

この時、貴女のスカートの裾を踏んでしまわないことにばかり気を取られていた僕は、僕が座ると同時に飛び付いてきた貴女への反応が僅かに遅れてしまったのだ。

「う、わっ!」

急に飛び付かれた僕は見事にバランスを崩し、今度は踏みとどまることができずに二人一緒に布団にダイブした。

ドザッと布に身体が衝突し、ギシギシとスプリングが鳴く。

僕は貴女の下敷きで、多少の痛みと息苦しさに見舞われる。

危ないじゃないですか、と文句の1つも言おうかと顔を横に向けると、至近距離でクスクスと笑いを堪える貴女がいて、そんな気も失せた。

「お返しですか?」

「せーかい」

「いいですけどね、この程度なら」

「あ〜バカにしてるでしょー」

「してませんよ」

「絶対してる〜、じゃあこれならどぉだ!」

ムキになった貴女は両の指をヒラヒラさせると、僕の脇腹の上でそれを躍らせた。

「わっ、ちょっ、やめ、あ、あはははっ、あ、ミミさ、あははっ」

擽りにめっぽう弱い僕は、抵抗虚しく貴女の餌食となる。

わぁわぁと騒いでベッドの上を転げ回り、貴女が満足する頃には僕はグッタリとしていた。

「はぁ、はぁ…もう、ムリ」

「大勝利ー!」

横たわる僕の側で、座って勝ち誇る貴女。

横目でその姿を見て思う、いっそ清々しい疲れだと。

僕はおもむろに貴女の手を掴み、それに気付いた貴女と目が合うと、自分でも驚くほどスルリとその言葉を口にした。

「ミミさん、抱き締めてもいいですか?」

貴女の表情が一瞬止まって、しばし目が泳いだ後、「いちいち聞かなくてもいいわよ」とお小言での返事を頂いた。

僕は上半身を起こして貴女と向き合い、既に抱き締めたことのある華奢な身体を、その柔らかさや温かさを感じられるようにゆっくりと優しく抱き締める。

最初の時は緊張していたこともあって(今もそれなりに緊張はしているが)じっくりと実感できなかったけれど、好きな人を抱き締めてその温もりを感じることは想像していたよりもずっと気持ちがいい。

嬉しさや安心といった穏やかで安らかな感情が心に広がる。

これを知ってしまったから、人肌恋しいなんて言葉が生まれたのかもしれない。

気持ち良すぎて離したくないな、などと考えていると、腕の中の貴女がふるふると震え始めた。

まるで何かを堪えているかのように思えて、僕はそのままの体勢で問い掛ける。

「ミミさん、どうかしました?」

「っ……く」

「く?」

「首ぃっ」

「首?」

首がどうしたのかと、僕はすぐ真横にある貴女の首を見る。

すると、途端に貴女は「ひゃぁっ!」と奇声を上げて身を竦ませた。

「あ、もしかして、髪の毛が擽ったかったですか?」

思い当たった節を尋ねると、貴女はコクコクと首を縦に振った。

「すみません、こうしてるのが心地よくて」

さっきの擽り攻撃のお返しというわけではないが、僕は擽ったがった貴女の首筋に頰を寄せた。

温かい体温が伝わる。

「やっ、こうしろ、く…」

貴女は小さく抗議の声を上げた。

それが今にも泣き出しそうに聞こえて、思わず身を引いた。

「そんなに擽ったかったですか?」

首を押さえて俯いてしまった貴女に、僕は情けなくも弱腰になる。

少し調子に乗りすぎたかもしれない、そう反省していると、貴女はキッと目を吊り上げてこちらを睨みつけてきた。

「み、ミミさん?怒ってます?」

「怒ってない、けど…もうメチャクチャ擽ったかったぁ、何で〜?アタシ擽りには強いはずなのにぃ」

「う〜」と唸る様子からすると、どうやら悔しかっただけのようで、僕は一安心した。

じゃあもう一回いいですか、と言いたかったが、本題である食事のことを何1つ決めていないのはまずいと思い、話題を移すことにした。

 

「いっただきま〜す♪」

「いただきます」

2時間後、僕の家の食卓で貴女と二人手を合わせていた。

結局何が食べたいのか、どこへ行くのかという話は結論が出ず、のんびりしたいという貴女の希望を優先する形で、そのまま僕の自宅で有り合わせの自炊をすることになったのだ。

僕が一品、貴女が一品作り、ご飯を炊いて完成したメニューは、白米と目玉焼き、野菜スープだ。

ちなみに、前者は貴女、後者は僕が作った。

本当は味噌汁が食べたかったけれど、貴女が味噌汁なら山椒とプリンを入れたいとか言い始めたからやめた。

替わりの野菜スープはシンプルにコンソメと塩胡椒で味付けし、どうしても何か入れたいなら後入れでお願いしますと頼んで了承してもらった。

目玉焼きは2つずつ卵を使用して、トッピングにどうしても納豆が欲しいときかない貴女のために近くのスーパーに買い出しにも出た。

終わってみれば8時を回り、遅い夕食になった。

 

「本当に納豆と砂糖をかけるんですね…」

貴女のお皿で巻き起こる僕的大惨事を目の当たりにして、思わずこぼした一言。

貴女は「美味しいんだって、一口食べてみる?」とお皿を差し出そうとして来る。

僕は丁重にお断りして、自分の目玉焼きにポン酢を少々垂らした。

「光子郎くんのポン酢だってアタシからしたら信じられない」

「そうですか?うちは両親ともこうやって食べていたので、それが普通だと思ってました」

目玉焼きの白身を切り分けながら、普段この食卓を共に囲む両親のことを思い浮かべる。

実の子ではない僕を引き取り、育ててくれた優しい人達。

昔はその事実にショックを受け、一方的に引け目を感じて両親との間がギクシャクしていたこともあった。

それを変えてくれたのは、仲間やデジモン達との出会いだ。

今ではわだかまりは消え、素直に両親を尊敬できているし、少しだけ甘えることも覚えた。

「ミミさんの所はご両親も納豆と砂糖ですか?」

「んー、パパは基本ママの出すまま食べてるから、トッピングはその都度違うけど、生クリームと明太子ってこともあったわねー。あ、あとイチゴジャムと粒マスタードは見た目ケチャップとマスタードだから、パパが騙されて食べてから驚いてたっけ」

「そ、そうですか」

さすが貴女の母親。

どうでもいいが、何故太刀川家の人間は料理に甘いものをトッピングしたがるのだろうか。

そして、必ずといっていいほど甘いものと辛いものを組み合わせる傾向にある。

理解し難い感覚だ。

 

こんな感じで、初めての二人だけの夕食はなんだかんだと話題が尽きず、楽しいひと時となった。

 

食器の片付けを終えて食後の焙じ茶を持って部屋に戻り、先に部屋で寛いでいた貴女に差し出すと、貴女は嬉しそうにカップを受け取った。

「あー美味しいー」

「ご希望だったのんびりご飯、には沿えましたか?」

「うん、ありがとー」

焙じ茶を啜りながらニコニコと笑う貴女につられて僕も表情が緩む。

不思議だった。

僕の部屋に貴女がいて、さっきまで貴女と2人で食事をしていて、そんな僕達がお互いを想っているということが、とても。

全部夢だったらどうしようか。

実は都合の良い妄想で、目覚めてみたら今日の朝のあの重たい気持ちに戻っていたら。

「それは嫌だな…」

「何が?」

無意識のうちに声に出ていたらしく、貴女が何のことかと聞いてくる。

僕は下手くそな笑いで誤魔化そうとしてみたが、貴女相手に分が悪いことは重々承知していた。

しつこく問い詰められ、仕方なく白状すると、貴女はケラケラと笑い転げた。

「そんなわけないじゃーん、もうそんなに信じられないの?」

「そりゃあそうですよ、僕みたいな人間がミミさんの隣にいられるなんて。それも仲間としてではなく、異性として。そんなの、全く想像できませんでしたから」

「何よそれ、身分違いの恋みたいな言い方。大昔の貴族主義じゃあるまいし。それにね、僕みたいなって言うけど、光子郎くんだって中々いない人材よ?」

「そうでしょうか?」

そう言われて少しばかり顔が上がるが、そういう時貴女は決まって落としてくる。

「そうよー、実年齢にそぐわない喋り方や言葉の選び方もさる事ながら、絵に描いたような草食系男子を体現するかのような外見、それなのに興味を持ったものへの執着心や集中力は並々ならぬ偏屈っぷり、ジャンルとしてはオタクよね!」

やはり落としてきた、そして全て事実であるため反論できない。

ますます持って貴女に好かれた理由が分からないではないか。

しかし、貴女はここでスイッチを切り替える。

「加えて、影の努力家、家族想い、仲間想いだけど持ち前の不器用さが災いしてとーっても伝わりにくい。何せいつも役割的に縁の下の力持ちだから、気付かれないことが多いのよね」

スッと隣に寄り添うようにして告げられた言葉に、僕は間抜けにもポカーンと口を開けて目を瞬かせた。

まさか、貴女がそんな風に僕のことを評価してくれてるなんて思ってもみなかった。

呆けた口元を自ら押さえ、僕はこそばゆいようなムズムズとした喜びが生まれるのを感じた。

「あ〜顔緩んでる〜」

すかさずこちらを覗き込んできた貴女が、意地悪そうな顔で笑う。

何故だか恥ずかしさが勝り、僕はふいっと顔を背けた。

「緩んでませんっ」

「うっそだぁ〜、どーせ照れてるんでしょ?」

言い当てられてぐうの音も出ないが、僕だってそれなりに意地っ張りな性格だ。

ここで貴女の言い分を認めて軍門に下るほど素直ではない。

緩んだ顔を何とか引き締め、クルリと貴女の方に向き直る。

「照れてませんよ、ミミさんが思ったよりも観察眼に優れていることに驚きとともに喜びを感じただけです」

「何それ、アタシ褒められてる?」

キョトンとする貴女に、僕は少々わざとらしいとも思いつつ声の調子を上げて続ける。

「ええ、そうですよ。ミミさんはモデルのような出で立ちと素敵な声、愛嬌あるキャラクターで人を惹きつける魅力がありますが、そうした表面的な部分だけでなく、中身も深みのある人だということです」

「そうかしら、それほどでも…ん、でもちょっと待って、それって今までは表面的な良さしか見えてなかったってこと?」

貴女は最初こそ嬉しそうな顔をしたものの、遠回しに言われていることを理解して表情が一変した。

じとっと僕の方を睨みつけ、「こぉしろーくぅん?」と恨めしげな声が飛び出す。

案外早い段階で気付かれてしまった僕は、次に用意していた褒め言葉を飲み込んで、「まあまあ、落ち着いてください」と抑えにかかった。

また飛び掛かってきそうな貴女を諌めて、僕は一つ咳払いをしてから本音を話し始めた。

「前にもお伝えしましたが、僕に無いものをたくさん持っているミミさんは憧れの対象でした。それは外見やセンスだけじゃなく、純粋に本質的な部分にも惹かれていたのだと思います」

「…う、うん…」

急に真面目になった僕に対し、貴女の怒りのボルテージは急降下したようで、しおらしい態度になる。

「本質というのはいわゆる中身でしょう?」

「そうね…」

「ミミさんのことは最初から可愛い人だと思っていましたけど、好きだと思ったきっかけは恐らく中身を知ったからです。でも僕だってミミさんの全てを知っているわけではないですから、一緒にいることでさっきみたいな新しい発見があるんだと思います。それはとても、喜ばしいことだと僕は思います」

「………」

とうとう最後には顔を赤くして閉口する貴女。

ある意味勝ったというやつかもしれない。

あえて言わなかったけれど、僕は貴女の少し考えが足りない所も可愛いと思っている。

こうした言葉の羅列に弱い所も。

ほんの少し悔しそうで、でも嬉しそうな貴女を、僕は正面から抱きしめた。

そして、貴女の表情を伺いながら顔を寄せる。

僕の行動の意図に気付いた貴女は、ぎこちなく顔を上げて目を閉じた。

長い睫毛が震えている。

ハグもキスも日常的に行われている国で暮らしていると豪語していたけれど、貴女自身は日本人の女の子。

どんなに大人っぽく見えても、気丈に振る舞っても、お互い10代前半の心身ともに発達途上の子供だ。

勝手に早鐘を打つ心臓に後押しされるように、僕は自分の唇を貴女の唇に重ねた。

フワリと柔らかい貴女の唇の感触心地よくて、でも傷付けるのが怖くて、震えてしまった最初のキス。

お互いに呼吸の仕方が分からなくなっていたのか、唇を離すと震えた吐息が双方から溢れた。

貴女の顔は真っ赤で、恐らく僕も同じで、恥ずかしさから目を合わせられない。

それでも、唇に生々しく残る感触は衝動を掻き立てる。

おずおずと手を伸ばして貴女の頰に触れると、貴女はそれに応えるようにギュッと目を瞑った。

僕も貴女も、緊張し過ぎて力の加減がおかしくなっているのかもしれない。

こんなことでよくもまあ、ひとっ飛びに先へ進もうとしていたものだ、と自分自身を振り返って恐ろしくなる。

もう一度口付けて、柔らかさに埋もれたい欲求をほんの少し解放した。

最初の時よりも強く触れ合う感覚が、ダイレクトに脳に届く。

頰に添えた手に、貴女のサラサラとした髪がかかる。

酔ってしまいそうだと思った時、縋るように貴女の手が僕の首に回った。

それだけで心は貴女でいっぱいになる。

これが愛しさだというのなら、恋愛に溺れる人の気持ちも分かるような気がした。

何もかも解きほぐすような幸福感と、相手を求めてやまない切ない欲求が共存していて、心のバランスが取れない。

今はただ、貴女に触れていたいと思う。

明日には遠い異国に帰る貴女を、少しでもこの身に刻み付けておきたいと。

 

この日の内に一線を越えなかったのは、一重に僕の良く言えば慎重さ、悪く言えば臆病風に吹かれてのことだったのだが、このことを僕は程なくして少しだけ後悔する。

それは、僕がアメリカと日本という海を跨いだ遠距離恋愛を甘く見ていた所為だ。

空港で貴女を見送った時、貴女は何度も何度もメールや電話をすると話していた。

僕は全てにイエスと返したけれど、貴女ほど切実ではなかったように思う。

時差のこともあるので、連絡には気を遣わなければならないことは承知しているつもりだった。

でもそれは知識の上での話であって、実際に体感する物理的距離と時間的な差異は、想像より遥かに辛いものだった。

過ごす文化の違い、環境の違い、最初は珍しい情報を聞くだけでも楽しかったが、同じ時間を共有しているという感覚は徐々に薄れ、会いたくても会えない寂しさや、話したい時に話せないもどかしさばかりが募った。

友人なら割り切れていたのに、何故こうも心は我儘に育ち、言うことをきいてくれないのだろう。

時計を見ては14時間遡った時を生きる貴女を想う日々。

声を聞けば嬉しくなる、メールの文面を見れば顔が綻ぶ、それは変わらないけれど、その後に襲いかかってくる寂しさは日を追う毎に増していった。

 

この頃からデジタルワールドと僕達の距離感にも変化が見え始めていた。

政府主導でデジタルワールドの調査、観測が開始され、あの世界での選ばれし子供達の自由度は大きく制限されることとなる。

そして、仲間の1人である太一の妹、ヒカリの能力を政府の目から隠すための措置をエージェントとともに施し、僕達もまたデジタルワールドから少し距離を置くことを余儀なくされた。

僕は現実世界とデジタルワールドのパイプ役として、京都の大学教授である空の父親を筆頭とした研究チームと連携し、政府の動きとデジタルワールドの安定を観測する役割を任されることになる。

また時を同じくして、選ばれし子供のネットワーク作りに本格的に乗り出した太一のサポートもすることになった。

それは、僕の夢の第一歩でもあった。

忙しさを増していく僕の日常が、貴女と会えない寂しさを埋めることはなかったけれど、やりがいに満ちた毎日であると感じていた。

 

こうして、年に何回か帰国する貴女に会える日を心待ちにしながら、それなりに充実した月日が過ぎる。

僕は中学3年生になり、受験シーズンを迎えていた。

別段受験に苦しんでいるわけではなかったが、知識を深めるという意味で勉強は大切だと感じていたため、今日も机に向かって参考書を開いていた。

そこに太一からメールが届く。

内容は、以前から話していた海外の選ばれし子供のネットワークと国内のネットワークを強化するために、アメリカに住んでいる貴女に協力を頼みたいというものだった。

アメリカ側ではマイケルが精力的に動いてくれていると聞いている。

そこに貴女にも加わってもらい、こちらとの連携を強化したいということだろう。

今は結構頻繁に海外組ともコンタクトを取っていて、春には交流会の話も持ち上がっている。

貴女が参加してくれれば、連絡する機会も、会える機会も増えるかもしれない。

そこまで考えて、公私混同だと苦笑いが浮かんだが、私情を抜きにしても貴女の協力を仰ぐことには賛成だった。

太一には僕から頼んでみるとの返事を送り、時計を確認してから貴女宛のメールを打った。

貴女からの返信はすぐに来た。

『マイケルから時々話は聞いてたけど、協力させてもらえるなら喜んで。アタシにできることなら何でも言って!』とのことだ。

助かります、との返事を打つついでに、春の交流会のこと、先程考えた公私混同を少しだけ匂わせる文面を添えた。

すると、貴女は照れ笑いの顔文字とともに『アタシも同じこと考えた』と返事を送って来た。

文面の向こうに、これを打っている貴女を思い浮かべる。

途端にギュウッと胸が締め付けられ、切ない溜息が溢れた。

会えないからこその相手を思いやる気持ちや、会えた時を大切にすること、この遠距離恋愛で学んだことは数多くある。

それでも…。

「貴女に触れられないのは辛いですね…」

次に貴女に会えるのは、恐らく年末年始。

最後に会ったのは7月の終わり。

前回、夏休みを利用して貴女の誕生日を祝うため、単身渡米した時のことを思い出す。

親に無理を言って行かせてもらったわけだが、簡単なヒアリングしかできず、喋ることのできない英語圏で、しかも向こうではジュニアスクール生に間違えられるような日本人中学生の僕が、現地入りして途方に暮れたのは言うまでもない。

どっちを向いても知らない言葉だらけで、異国に対して物珍しさはあるものの、やはり言葉の壁は大きいと感じた。

簡単な単語とジェスチャーなどを駆使すれば何とかなると言われてはいたが、それを実行するには中々の勇気が必要だということも思い知った。

まず日本人とは身体のスケールが違うし、雰囲気に負けてしまうのだ。

中には親切な人もいるが、ネイティブな英語で話しかけられてもテンパってしまうばかり。

貴女と貴女の両親が迎えに来てくれるまでの間に、僕は己の浅はかさを身に染みて感じたのだ。

貴女と合流してからは、何と頼もしかったことか。

ニューヨークを案内してもらって観光を楽しむことができたし、アメリカならではのジャンクフードは胃もたれしたけど美味しかった。

またこの機会にと、貴女は僕のことをご両親に紹介してくれて、しっかりと挨拶ができた。

そして、本来の目的であった貴女の誕生日も、家族と一緒に祝った後に2人でも祝うことができた。プレゼントに選んだのは、ありきたりかも知れないけれど、ハートとスターのトップがついたネックレス。

アクセサリー店で3時間悩んだ末に購入した物だったが、そのエピソードは伏せて渡した。

貴女はとても喜んでくれて、僕の方が嬉しかったくらいだ。

ふと、思い出に浸っていた僕を、メールの受信音が現実に引き戻す。

送り主は太一だった。

先ほどの話は終わったはずだが、と思いメールを開くと、明日の時間について書かれた内容だった。

そういえば、明日の夜に自宅のネット環境を整えたいのだと言っていたっけ。

既にスポーツ推薦で高校を決めている太一は、勉強そっちのけでもっぱら選ばれし子供の交流事業に精を出しており、色々と忙しくしていた。

全くもって、あの人の行動力には感服させられるものがある。

その上で持ち前のリーダーシップとカリスマ性を存分に活かせているのだから。

ただ、その裏には妹のヒカリに対する並々ならぬ思いがあることを知っている僕としては、時にはセーブして息抜きをしてもらいたいとも思っていた。

ついこの間、妹を信頼できる後輩に任せることになったから安心、と話してはいたものの、それもいらぬ兄心故に、ヒカリにとって弊害になっていないか若干心配ではあった。

かと言って、他人が口出しできる問題でもない為、一日でも早くあの世界が公認のものとなれば助けにもなるだろうと考えるほかないのが現状だ。

太一に了承したとの返事を送り、僕は受験勉強に戻ることにした。

 

11月に入り、風が冷たくなりつつある今日この頃、僕はアメリカ在住の友人と共同で立ち上げた会社のオフィスに来ていた。

会社とは言うものの社員がいるわけではなく、一人仕事のためのスペースといった所だ。

仕事はオフィスに設置されたハイスペックパソコンとネット環境があれば問題はない。

まあ、学生である以上本文は大事にしたい所なので、近いうちにだれか人を雇いたいとは考えていた。

事業の内容はデジタルワールドの解析を進めていく過程で開発した検索ソフトを、現代のインターネット上で展開させていくというもの。

本来なら情報修正やシステムメンテナンスのために人手が必要になる。

だが、これは少し狡いかもしれないが、デジタルワールドと現実のリンクを上手く使えば、あの世界に協力者がいればこちらの人手が必要なくなるのだ。

あちらとこちらのミックス手法は前例が無いだろうし、デジモンやデジタルワールドが公認の存在で無い限りまだ公開はできないが、いつかそうした共生の道を歩めると信じて、今のうちから実用に踏み切った。

共同代表であるアメリカの友人も、選ばれし子供ではないが、同様の考えを持っている。

あの世界を知ってしまった時から、可能性は無限大にも広がったのだ。

 

カタカタとパソコンを操作していると、携帯の着信音が鳴った。

おもむろに携帯を引き寄せて待ち受け画面を開くと、そこには太刀川ミミの文字。

今日本時間は夕方4時を少し回った所で、向こうは深夜の筈だ。

驚いて電話に出ると、明るいいつもの貴女の声が聞こえてきた。

『やっほー、光子郎くん。調子はどーだね?』

「ミミさん、そちらは今深夜の筈では?大丈夫なんですか?」

『だーいじょうぶよー、今日いっぱい昼寝したから』

「そういう問題ですか?まあ、貴女が大丈夫ならそれでいいですが」

『何よー、嬉しくないの?』

「そんなことないですよ。嬉しいです、声が聞けて」

『えへへ』

「それで、どうしたんですか?深夜にわざわざ電話なんて」

僕は席を立って窓際に行き、少し日の傾いた東京の街を見下ろしながら尋ねる。

『そうそう、あのね、今日これからって何か予定ある?』

「いえ、今はオフィスですが、この後は特に何も」

『やった!そしたらさ、ちょーっとお願いがあるんだけど…』

「?」

何事かと首を傾げた僕の疑問は、数十秒後に驚愕に変わる。

 

同日、日本時間の午後6時。

僕はのどかな山林にいた。

周囲には亜熱帯のような植物の群生帯が所狭しと生い茂り、晴れ渡った空には滲んだ雲が浮かんでいて、その隙間をおよそ現代では見つかることのない飛行物体が時折見え隠れしては飛び去って行く。

どうにもこうにも見覚えのあるこの景色は、僕にとって人生の転機であった世界のものだ。

そして、今では行き来を規制している場所でもある。

バレたら絶対に怒られる。

内心で肝を冷やしながら、自分のデジヴァイスにインストールしたプロテクトが正常に働いていることを確認し、目的地へと歩き出す。

何故こんなところにいるのか。

それは2時間ほど前、電話口での貴女からのお願いが発端だった。

貴女のお願いというのは、あろうことかデジタルワールドに行きたいからゲートを開いて欲しいというもので、それも理由は頑として喋らず、ただただひたすら懇願してきた。

僕は何度も、今の現実世界とデジタルワールドの危うい関係を説明し、無闇にゲートを開けることはできないのだと説明したが、貴女はそれでもお願いの一点張り。

途中、怒ってみたり、猫なで声でお願いするなどしてきたが、どれにも僕が渋い返答をしていると、最後には本気で泣きが入ってしまい、僕が折れる嵌めになったのだ。

折れた後で、僕も一緒に、と付け加えられて益々頭を抱えた。

それから1時間ほどかけてエージェントなどに根回しをし、適当な理由をでっち上げてゲートを開く準備をした。

しかも、アメリカ側からもゲートを開かなければならないため、二つのエリアに渡る作業が必要になる。

お互いにデジヴァイスを持っているから大幅に手順は省略できるものの、仲間や他の選ばれし子供がデジタルワールドから距離を置いて慎重になっていることを思うと、どうしても後ろめたい気持ちが生まれてしまう。

とはいえ、貴女のお願いを断りきれない僕が悪いのであって、何かあった時には全ての責任を被る覚悟は決めていた。

貴女に指定されたエリアにやってくると、先にこちらのエリアにゲートを開いていた貴女が僕を見つけて小走りに駆け寄ってきた。

「よかったぁ、ちゃんと来てくれて」

「来ますよ、それは。ミミさんを一人で行かせるわけにいかないでしょう」

「ごめんね、ワガママ言って」

ぺろっと舌を出して謝る仕草は、なんでもない時は可愛いと思うけれど、今日のような無理難題を押し通された時には素直に可愛いと思えない。

我ながら心が狭いのだが、さすがに今回のことは一歩間違うととんでもない代償を支払うことになるかもしれないのだ。

そして、恐らく貴女はそれを理解していない。

そう思うと、どうしても胸の内で苛立ちが燻った。

何事もなく終わればいいけれど……。

 

貴女に連れられてやってきたのは、小高い丘にポツンと佇む小さな機械遺跡だった。

この世界の遺跡については、ある程度エージェントが調査をして記録も取ってあるため、データとしては見て知っているものが多いのだが、この遺跡は初めて見る。

小さな遺跡だから調査対象から外れていたのかもしれない。

というか、僕の知らないこの遺跡を、どうして貴女は知っているのだろう。

「あの、この遺跡に何があるんですか?」

「いーからいーから、とにかく来て」

僕の質問にまるで答える気がない様子の貴女は、ズンズンと僕の手を引いて歩いて行く。

遺跡の入り口は開いていて、壁は青く、天井は高い。

遺跡に一歩足を踏み入れると、横の壁にはこの世界独特の文字列が、通路に沿って蛍光灯のように光って並んでいた。

通路の奥から冷んやりとした空気が流れてくる。

「さ、この奥よ」

さも当たり前のことのように奥へ向かおうとする貴女を、僕はさすがに引き止めた。

「ちょっと待ってください、このまま何の説明も無しに奥へ行くのはさすがに。僕はこの遺跡を知りませんし…」

「アタシが知ってるから大丈夫よ」

「いえ、でもっ…」

食い下がろうとする僕に、貴女はまたも大丈夫の一点張り。

もどかしさは苛立ちを煽り、何も知らされないことに対して不満もまた募る。

何故、どうして、貴女は分かってくれないのか。

「行けば分かるから、はや」

「ミミさん!来る前に何度も言いましたが、今この世界で何か問題を起こすわけにはいかないんです。この先に何かがあって僕を連れてきたんでしょう?なのにどうして何も説明してくれないんですか?そんなに僕は信用ないですか!?」

こちらの言い分を聞いてくれない貴女に、僕はとうとう怒りを露わにしてしまった。

貴女の顔がみるみる強張って、傷付いた表情へと変わる。

繋いでいた手が鈍く解け、貴女は顔を背けて俯いた。

「ミミさ」

「…によ、信用してないのはどっちよ?」

「え?」

小声で呟かれた言葉は聞き取れず、僕が聞き返すと貴女は目に涙をいっぱい溜めて言った。

「光子郎くんの方こそアタシのこと全然信用してくれてないじゃん!そりゃ、アタシは光子郎くんみたいにこの世界のこととか深く考えれてないかもしれないけど、アタシはっ…アタシにとって大事なのは…っう」

最後は涙に呑まれて言葉にならず、貴女はボロボロと泣き出してしまった。

ついカッとなって怒ってしまった手前、僕は慰めていいのかどうかも分からず、気不味さに沈黙する。

貴女は後から後から溢れる涙を袖口で何度も拭い、その度に服のシミが広がった。

「も、いいっ…今日だけはって思ってたけど、アタシばっかバカみたい」

「今日?」

「光子郎のバカ!」

僕の疑問に答えることなく、貴女は僕を罵倒して遺跡の奥に走って行ってしまった。

「ちょ、ミミさん!」

僕は慌てて追いかけるが、程なくして突き当たった三叉路で頭を抱えた。

どの方向に走って行ったのかが分からない。

デジヴァイスを取り出してみるが、位置情報は大雑把すぎてアテにならなかった。

「はぁ…」

自然と溜息が溢れた。

この遺跡の構造は全く知らないし、どんな機能を持っているのかも謎。

一つ言えるのは、いくら少し考えの足りない貴女でも、二つの世界のバランスが微妙なこの時に、凶悪なデジモンが出現したり、全く未知の場所に僕と二人で訪れようとする筈は無いということ。また、事前にプロテクトをインストールしてあることで、何かしらの事態の時には優先的に僕達のデータが保護されるようになっているため、命の危険はまず無い。

少なくとも最悪の事態にはならないだろうという予想が立てられるだけ、僕は冷静になることができた。

だが、現状自らの足で探すしか方法は無い。

勘を頼りに道を選び、僕は一番左の道へと足を向けた。

道は進むに連れて天井が細く、高くなり、暫く歩くと拓けた場所に出た。

「コントロールルームだと助かるんだけど」

そう言いながら中央に突き出た四角い機械に近づく。

すると、どうやら当たりだったようだ。

僕は自他共に認める機械オタクの勘でコンソールを操作し、この遺跡の地図を表示させる。

そして、そのデータを自分のデジヴァイスにダウンロードし、かつ貴女の居場所を検索した。

「見つけた…真ん中の通路を行ったんですね」

貴女は先程の三叉路の中央の道を進んだ先にある、大広間のようなフロアにいるらしく、どうやら今は移動していないようだ。

貴女のシグナルが動かないのを見て、僕は別のコンソールを操作して遺跡の概要を調べてみた。

特に重要な機能があるわけでもなく、元々はエネルギーの生産プラントだったことが分かった。

今はエネルギー供給はストップしていて、既存の設備で発光体を取り込んで特殊な鉱石に埋め込むことで半永久的に光り続ける結晶体を製造しているとある。

まるで人間みたいなことをしていると感じた。

それ以上の情報は得られなかったため、コンソールをダウンさせ、貴女を探しに走り出す。

貴女はまだ泣いているんだろうか。

どうして貴女は『今日』という日に拘って、僕をここに連れてきたんだろう。

 

辿り着いたそこは、元エネルギープラントの心臓部分だった。

幾重にも張り巡らされた半透明のパイプの中を一定のリズムで光源が走り、左右対象に列を成すドーム状のプラントに吸い込まれていく。

足下はガラス張りで、プラント内で合成されたのであろう結晶体が次々と排出されて溜まっていて、キラキラと眩しい光を放っていた。

「すごい…」

光が支配する光景に思わず感嘆の言葉が漏れる。

眩い光に目が慣れた頃、僕は建ち並ぶプラント群の奥に貴女を見つけた。

プラントの壁に背中を預け、膝を抱えてうずくまっている。

その近くには、デジモンらしき小さな影が見えて、僕は急いで駆け寄った。

僕が近づくと小さな影はサーっと引いていき、貴女が一人取り残される。

さて、何と言葉をかけたものか、口下手な自分には皆目見当がつかない。

大したことは思いつかないが、それでも貴女に声をかけた。

「ミミさん、探しましたよ」

「…………」

「あの…さっきは少し言い過ぎました。でも、楽観視できる状況では無いことを分かって欲しくて…」

「っ、追いかけて来てまで言うことがそれなの?」

バッと顔を上げて、貴女が抗議を叫ぶ。

その瞳にはまだ涙が浮かんでいて、瞼は赤く腫れていた。

「あ、その…」

「光子郎くんにとってこの世界が大事なのは分かるわ。アタシにとってもこの世界は大事よ。でもそうじゃないの、アタシが大事にしたいモノは、世界全体とかそういうのじゃなくて、もっと小さくて、ささやかでいいのに、それさえダメなの!?」

貴女が大事にしたいもの。

そう言われて、それが一体何なのか、自分はまるで分からないことに気付いた。

僕は僕にとっての大事なものは、僕達が大事にしているものだと思っていた。

それは決して間違いではないけれど、あくまで広義の意味であって、個々の思いまで汲んでいるわけじゃない。

貴女にとって大事なものを、僕は考えたことがあっただろうか。

小さくて、ささやかで…。

「一体、何を…?」

惚けたように溢れた質問に、貴女が懇切丁寧に答えてくれると思った訳ではない。

しかし、

「っ、そんなの自分で考えて!」

と思いっきり頰を引っ叩かれるとは思っていなかった。

強烈なビンタをかました後、貴女は本日2度目のエスケープをする。

僕はジンジンと痛む頰をさすり、プラント群の間を走っていく貴女の後ろ姿を見送った。

「考えろと言われても…」

自分の浅慮は認めるけれど、貴女の心が読めるわけでない僕は、貴女が本当に大事にしたいものが何なのか分からないのだ。

世界全体ではなく、小さくて、ささやか。

貴女の残したキーワードを反芻するが、全くもって見当がつかない。

貴女の性格を考慮したとして、確かに大義や責務などの大勢のためというものより、個々の感情や背景に寄り添うタイプであるため、世界のバランスなどよりもこの世界の生き物達を大切にしているということなのか。

それでも、その思いと今回のこの遺跡が結び付かない。

あれこれ悩んでいると、先程の貴女の周りにいた影達がおずおずと近付いてきた。

「君たちは…」

影達の正体に少しだけ驚いて、でも妙に納得してしまった。

そして、僕は彼等から真実を聞かされることになる。

 

 

散々探し回った貴女は、来る時に使ったゲートで既に自宅に帰っていた。

しかも、僕が追いかけてこれないようにゲートを向こう側からロックまでして。

直接貴女を追うのは諦めて、僕も隣のエリアから自宅へと帰って来た。

すっかり夜も更けており、明日は寝不足確定だった。

寝る前に貴女にメールを打ったが、返事が来るかどうかは難しい所で、もしかしたら暫く応答してもらえないかもしれないとさえ思う。

それだけのことを、僕は貴女にしてしまったのだ。

布団に身を沈め、僕は長い長い溜息を吐いた。

それは自分の浅はかさと、愚かさに打ちのめされた結果だ。

既に日付の変わった時計を横目で見る。

今日は11月7日。

どうして気付かなかったんだろう。

貴女が深夜にも関わらず連絡して来た時、どうしてもと我儘を突き通した時、あの世界で会って嬉しそうに笑った時、楽しげに先導している時、遺跡で口論になった時…。

気付くポイントは沢山あった筈だった。

「考えが足りないのは僕の方じゃないか」

悔しさに胸が焦げる。

 

11月6日、昨日は僕の誕生日だった。

 

昨日の朝、母に今日は早く帰って来れるのかと聞かれたが、誕生日など失念していた僕は普段と変わらない対応をした。

さっきリビングに行った時、僕へのプレゼントとして用意してくれていたであろう包みが、受取人不在の荷物みたいな顔をしていた。

家族の気持ちも、貴女の気持ちもまるで汲めていない。

つい数ヶ月前、貴女の誕生日を一緒に祝ったのに、家族と、貴女と、とても幸せそうに。

それなのに、僕はどうだ?

自分のことにばかりかまけて、世界のため?みんなのため?自分の大切な人の気持ちにも気付けずに、何を偉そうに言っているんだろう。

僕の手には、ほのかに光る結晶体が握られている。

あの遺跡から持ち帰ってきたものだ。

手のひらにすっぽりと収まるサイズの結晶体は、機械遺跡で大量生産されていたものよりも小さく、形も角を落とした角柱に綺麗にカットされている。

また上下の一端は細い革紐で巻かれ、紐の先端はぐるりと輪を成し、首に下げられるようになっていた。

目の前に翳すと、結晶体の中の光源がまるで月明かりのように綺麗で、ほんのり温かい。

これを作った者たちと、その思いを汲もうとした貴女。

ごめん、本当にごめんなさい。

貴女に会って、謝りたい。

 

 

僕の今までの人生で最低の誕生日となった日から、かれこれ1ヶ月が過ぎた。

未だに貴女との連絡は取れていない。

メールも電話も応答がなく、無論向こうからのコンタクトも無かった。

選ばれし子供のネットワーク作りのための連絡は基本的には太一が行ってくれているので、そちらとはやり取りをしているようだった。

それを知った時には寂しさと、ほんの少しの腹立たしさを感じたけれど、全ては因果応報だと自分に言い聞かせた。

誰かの口から貴女の話を聞くたびに溢れそうになる想いを、あの日から肌身離さず持ち歩くようになった結晶体を見ては鎮めた。

もしこのままずっと拒絶され続けたら、もしこの関係が終わってしまったら、そう思うと眠れない日もあった。

そうこうしている内にクリスマスが近付き、選ばれし子供のネットワークグループ幹部でのクリスマス会とやらが企画された。

いつか大々的にやりたいと野望を燃やす太一が発案者で、ネットワークを管理する主要メンバーを労う忘年会も兼ねるとの話だ。

僕はその会の会計を任され、参加者リストの作成や、国内に点在する参加者との連絡役を担っていた。

今回の対象者は、開催規模が小さいことや当月発案ということもあって国内メンバーに限っている。

だから当然、リストの中に貴女の名前などあるはずがなかった。

クリスマスが過ぎて、年末年始は帰国すると以前は話していたが、それも気が変わってしまっているかもしれない。

ここ最近の僕は、思考に余裕ができると貴女のことばかり考えている。

参加者の交通費の算出を終えて、一時パソコンでの作業を中断した。

目の奥が鈍く痛む。

少し仮眠を取ろうと、1時間後にアラームを設定して布団に潜り込んだ。

 

『この子たちはね、ミミが大切にしている人の誕生日を祝いたいって言ってくれたの。それで、ミミを慕っていたデジモン達に声をかけて、テントモンにも協力してもらって、この機械遺跡の設備を使って皆んなでプレゼントを作ることにしたのよ。二人がこっちに来るのは難しいだろうから、ミミに渡して、ミミから光子郎に渡してって言ったんだけど、ミミが皆んなにも会わせたいって…』

あの日、機械遺跡にいたのは貴女を慕うデジモン達と、貴女のパートナーだった。

貴女が泣いて走り去った後、僕は彼らから全ての事情を聞かされた。

そこに集まっていたのは、本当に数多くのデジモン達で、一部始終を見ていた者達からは貴女を泣かせるなと批難もされた。

貴女のパートナーは僕の気持ちを慮りながら、でも貴女の気持ちも分かってあげて欲しいとその大きな瞳を潤ませていた。

 

アラームとともに暗澹たる気分で目を覚ます。

枕元の薄明かりを引き寄せ、手の中に収めた。

クリスマスイブ前日から学校も冬休みに入り、クリスマス会が終われば特に予定も無い。

最悪貴女が帰国しないのだとして、ご両親に頭を下げて会う算段をつけることは可能だろうかと考える。

あの子煩悩なご両親では貴女の意思が最優先になる可能性は大だが、それでもダメ元で頼んでみるしかないかもしれない。

貯金はパアだが、貴女を失うことに比べたら安いものだ。

本当の本当に最悪の場合、あの世界を渡って行くことも考え始めるほどに、僕は重症化しつつあった。

 

選ばれし子供ネットワークのクリスマス会兼忘年会当日。

会場となるお店の入り口で参加者の受付を終えた僕は、店内に入ってすぐの幹事に割り当てられた席に腰を下ろす。

クリスマスドンピシャのタイミングだというのに欠席者もなく、全国各地から集まってくれた選ばれし子供の代表者達。

その顔触れは既に見知っている人が多いが、中にはメールでしかやり取りをしたことがない人もちらほらいた。

太一の発声で乾杯し(中高生がほとんどなのでソフトドリンクだが)、店内が一様に賑やかになる。

僕も情報交換や、今後の展開についての話を振られ、それなりにコミュニケーションを図った。

余興として、こういう集まりでは恒例のビンゴ大会を行い、太一選出の斬新な景品に参加者達が一喜一憂する場面もあった。

やがて宴会も終盤に差し掛かり、せっかくのクリスマスということで企画していたプレゼント交換が始まろうとしていた。

会計の僕と幹事の太一とで音頭を取る。

参加者に持参してもらったプレゼントを音楽に合わせて回し、最後に手元に残ったものを貰えるという、至って普通のシステムだ。

店内をめいいっぱい使って全員で輪になり、プレゼントを回す。

ちなみに、進行役の太一と音出し担当の僕は不参加である。

音楽が終わって、みんなは当たったプレゼントを手に歓談を始める。

その様子をぼんやりと眺めながら、クリスマスプレゼントというワードが頭の中で回っていた。

貴女へのクリスマスプレゼントを買おうと何度も街へ出掛けては、空振りで戻ったこの2週間。

何を貴女に贈ればいいのかと考えると、それよりも先にまず謝らなければならないのに、という思いが先立ってしまい、品物を決めることができなかったのだ。

いつの間にか宴もたけなわ、太一が締めの言葉を喋っていた。

クリスマス会兼忘年会は拍手で幕を閉じ、解散の号令が飛ぶと参加者は各々に帰り支度を始めたり、二次会の算段に入るものもいるようだった。

僕は挨拶もそこそこに、精算を済ませたり細々した片付けなどに取り掛かる。

表立っての付き合いは太一がメインであるため、基本的には裏方に徹すると決めていた。

 

『いつも役割的に縁の下の力持ちだから、気付かれないことが多いのよね』

 

ふと甦った貴女の言葉に、一瞬手が止まる。

僕は自分が先頭に立つことは苦手だし、その器ではないと思っていて、性格的にもサポート向きだと自覚していたから、別に誰かに認められなくても構わないと思っていた。

でも、こうした自分の役回りを知ってくれて、認めてくれていたこと、それを伝えてくれたあの時、どんなに嬉しかったか。

あれからより一層自分の役割に誇りを持てるようになった。

たとえ陽の目を見なくても、分かってくれる人がいると思うだけで充分だと思えた。

そんな貴女に、僕はなんてものを返したんだろう。

何度後悔しても足りないほどだ。

会いに行こう、絶対に。

会って、謝って、貴女にとって大事なものを僕も守っていきたいと伝えよう。

 

全ての片付けが終わり、太一と二人で店側に挨拶をして外に出た。

まずは貴女に会うための方法を、可能性の高い順に当たっていく。

そう思っていたところに、太一が声をかけてきた。

「お疲れ、ありがとな、光子郎」

「いえ、太一さんこそ幹事お疲れ様でした」

「まあ、今年はこんなもんだな、来年からは海外組とも交流して何かイベントとかやれたらいいよなぁ」

「そうですね、まずは春の交流会から詰めていく形にはなると思いますが」

「そうだな。っと、そうだ、光子郎、コレやるよ」

そう言って取り出したのは、クリスマス用のラッピングがされた小さな箱だった。

「何ですか、コレ?」

受け取りながら聞くと、太一は昔から変わらない笑い方でニカッと歯を見せた。

「クリスマスプレゼント。幹事と会計はプレゼント交換あぶれるから、先に用意しといたんだ」

「そうだったんですか、ありがとうございます。でもそれだと太一さんの分が無いのでは?」

「あー、俺はいーのいーの。彼女放って手伝ってくれたお前へのせめてもの気持ち」

「いや、それとこれとは別ですから…それに、実際問題、僕達の場合は距離がありますからね」

彼女という単語に内心ギクリとしたが、できるだけ平静を装った。

すると、太一が何やら含みを持った声で「ふーん」と相槌を打ち、ポケットから携帯を取り出して操作を始める。

何か変なことを言っただろうかと考えていると、突然目の前にズイっと太一の携帯が突き出された。「え?え??」

意味が分からずに太一を見るが、彼は携帯を見ろとジェスチャーをするのみ。

僕は改めて突き出された携帯を見ると、開かれた携帯の画面には太刀川ミミの文字。

そしてその下には呼び出し中の表示が点滅していた。

「太一さん、コレ!」

「お前からの電話には出なくても、俺からの電話なら出るだろ?」

訳知り顔で頷く太一。

驚きと恥ずかしさに二の句が告げないでいると、呼び出し中が通話中に切り替わり、スピーカーから貴女の声が聞こえてきた。

『もしもーし、太一さん?』

「ミミさん!?」

久しぶりに聞いた貴女の声に、僕は思わずその名を呼んでいた。

『え?…光子郎くん?』

電話の向こうで怪訝そうな声色で貴女が呟く。

まずい、相手が僕だと知ったら切られてしまうかもしれない。

僕は慌てて太一から携帯を受け取り、自分の耳に押し当てた。

「もしもし、ミミさん、どうか切らずに聞いてくれませんかっ?」

『…………』

貴女は沈黙し、後ろの雑踏だろうか、ざわざわとした喧騒や車の音が聞こえてくる。

切る気配は無いのか、暫し無言の時が流れた。

僕は思い切って話し始める。

「あの、あの時は本当にすみませんでした。事情をパルモン達から聞いて、それで…」

『…それで?』

「それで、ちゃんと話して謝りたくて…その、僕にまだそのチャンスは残されているでしょうか?」

『チャンスって、どーゆーこと?』

真面目なトーンで紡がれる貴女の言葉からは、貴女の心は読み取れない。

怒っているのか、呆れているのか、はたまた全く別の感情なのか。

「それは…貴女がまだ、僕を見限っていないのなら…」

言いながら自信が無くなっていく。

もしかしたら、伝えたいと思っていたことを伝える機会さえ貰えないかもしれない。

遠くで救急車のサイレンが鳴り響いていた。

少し遅れて、電話の向こうからも救急車のサイレンが聞こえたが、すぐにはそれらが繋がらなかった。

僕がその意味に気付いたのは、次に発した貴女の声が、電話の向こうと自分の真後ろの両方から聞こえてきた時だった。

 

『「誰が誰を見限るのよ、アタシをバカにしないでよね!」』

 

二重に響いた貴女の声に、僕が驚いて振り返ると、ニヤニヤと笑う太一の前に、ここにいるはずのない貴女が立っていた。

「み、ミミさん!?」

驚きのあまり素っ頓狂な声が飛び出す。

貴女は自分の携帯を閉じ、僕の手から携帯を取り上げると、通話を終了させて持ち主である太一に手渡した。

「太一さん、ありがと」

「どういたしまして、マイケルは?」

「東京タワーにいるわ」

「了解。じゃあな、光子郎、上手くやれよ!」

状況がさっぱり読めない僕を置き去りにして二人は会話を進め、太一が手を振って去っていく。

残されたのは僕と貴女。

あの日以来の再会は、予想もできずに降って湧いたのだった。

 

「で、アタシが光子郎くんを見限るってなぁに?やっぱりアタシって信用されてないの?」

「そ、そういうことではっ、なくて、ですね…」

自然と声が大きく出てしまい、道行く人の視線が注がれていることに気付いた僕は、勢いを削がれて尻すぼみになる。

場所を変えませんか、との提案に貴女は頷き、少し歩いた先にある公園に移動した。

池の外周に設置されたベンチに腰を下ろして一息つくと、貴女は足下の落ち葉をブーツの先で蹴飛ばしながら言った。

「パルモンから聞いたって?」

「はい、僕の誕生日を祝うためだったって…」

「そーよぉ、折角サプライズにしようと思ってたのに、大失敗」

「すみませんでした。貴女やパルモンや、集まってくれたたくさんのデジモン達の気持ちを裏切ってしまって、本当にも」

「アタシもごめんなさい!」

「…え?」

謝ろうとしたところに盛大に被せられた謝罪の言葉に、僕がクエスチョンマークを掲げて顔を上げると、深々と頭を下げる貴女がいた。

またしても状況が飲み込めずにポカンとする。

先程の貴女の登場からこっち、僕は驚きづくしだ。

貴女はというと、ガバッと身を起こしたかと思うと、肩から提げていたショルダーバッグを開けてゴソゴソとし始めた。

「あ、あの、えっと…」

僕の話は続けていいものなのだろうか。

しかし貴女は荷物と格闘中で、今話した所でこちらが寂しい思いをしそうだ。

諦めて貴女の探し物が終わるまで待っていると、目的の物を探し当てた貴女がそれを僕の前に差し出して見せた。

「あ…」

貴女の手の平に乗っていたのは、見覚えのある結晶体。

僕は慌てて自分のポケットを探ってあの結晶体を取り出す。

「これって…」

「ホントはね、2つペアで作って貰ったの。最初に指輪ってリクエストしたら、難し過ぎてギブアップしちゃって。だから、お揃いのペンダントにしてって」

2つの結晶体を並べ、貴女はこれを作ってくれたデジモン達のことを思い浮かべているのだろう、とても優しい顔でそう話してくれた。

「そう、だったんですか…」

「アタシ、みんながアタシ達のためにって動いてくれたことが嬉しくて、舞い上がってたのよね。だから光子郎くんが頑張って守ってきたものを壊しちゃうかもしれないってこと、ちゃんと考えれてなかった。だから、謝るのはアタシの方なの」

そう言って、貴女はもう一度「ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にした。

でも、それはそっくりそのまま僕のセリフでもあった。

「ミミさん、僕も同じです。僕も自分の価値観ばかりを優先して、貴女が大切にしたいものに気付くことができませんでした。結果、貴女を泣かせてしまって…事情を聞いた時、本当に自分はバカなことをしたと思いました。貴女に呆れられても仕方がないくらいに」

「なぁにそれ、それでさっきの見限るとかそういう発想に繋がったの?」

「ええ、まあ…」

可笑しそうに笑う貴女に、何だか少し恥ずかしくなる。

こっちはそれこそ真剣に悩んで考えて、大袈裟かもしれないけれど腹を切る覚悟で貴女に会いに行こうとしていたのだ。

それなのに、貴女はフラッと現れて、こうしてまた僕の隣にいる。

でもそれは、とても嬉しくて心が温かくなる事実だ。

 

それから、何故日本にいるのか、連絡が取れない間はどうしていたのかを聞いた。

日本へは元々の年末に来る予定を、太一に会いに行くというマイケルの渡航に合わせて早めたのだと言う。

そして、この2ヶ月弱は、学生生活の傍ら、マイケルを手伝って海外の選ばれし子供のネットワーク強化に奔走していたらしい。

僕と連絡を取らなかったのは、最初は拗ねていたとのことだったが、日が経つにつれて自分の言動を省みるようになり、自分の落ち度に気付いた後は、これだけ連絡を無視しておいて今更どのツラ下げて連絡すればいいのか分からなくなったのだという。

なので、僕から新たにメールが送られてきても、読むものの返せない、謝りたいのに踏み出せない、というジレンマに陥って身動きできなくなってしまったようだ。

貴女でもそういうことがあるのだと、僕は話を聞きながら思った。

そして、がんじがらめで動けなかった貴女の突破口になったのが、マイケルと太一だった。

明らかに落ち込む貴女を心配したマイケルが相談に乗り、それを太一に伝えて何とか橋渡しできないか画策した結果が今日のこの状況というわけだ。

「なーんかね、動き出してみたら、何で1ヶ月以上もウジウジしてたんだろーって思えてきちゃってさぁ。バッカみたいよね〜素直になれば良かったのに」

「太一さんとマイケルには感謝しないといけませんね、僕も貴女も」

「そぉねぇ、ホントに感謝しなくっちゃ」

そう言って笑う貴女の笑顔が、ほんの少し悪戯じみていたことに僕は気付けなかった。

貴女との関係が何の欠損もなく修復できたことに安心しきっていたのだ。

公園に長居をすると身体も冷えるということで、貴女は今晩泊まる予定のホテルに行こうと言った。

何でもマイケルが手配してくれたホテルである為、結構な高級ホテルなのだと目をキラキラさせながら教えてくれた。

確かに、ハリウッドスターを父親に持つマイケルが用意する部屋ともなれば、都心の高級ホテルのスイートルームであってもおかしくはない。

しかし、そんな所に中学生が単身でチェックインするなんて、僕一人なら恐れ多くてできないのではないだろうか。

そもそも、こんな格好で受付を通してもらえるのか、と貴女の隣を歩きながら僕は自分の格好を見てガックリと肩を落とした。

そして、思ったままを貴女に伝えると、貴女は声を上げて笑い、「だーいじょうぶよ!」と僕の背中を叩いた。

 

辿り着いたホテルは入り口から出迎えが立っており、フロントのある1階ロビーはなんかもう、ここでパーティーでもできそうな感じに煌びやかだった。

目がチカチカする、などという感想は零したくても、優雅な身のこなしのホテルスタッフや、見た目で富裕層と分かる宿泊客の手前零せない。

貴女はそんなことは御構い無しといった風にフロントでチェックインを済ませる。

「ミミさんてやっぱり度胸ありますよね」

「何言ってるの、堂々としてればいーのよ。他人の懐事情なんて見た目じゃ分かんないんだから」いやいや、その辺にいる宿泊客は身につけている物が何から何までお高そうです。

とはいえ、ゴールドのカードキーを片手に颯爽と歩く貴女もまた、この雰囲気に呑まれていないから凄いなと思った。

ボーイに案内されて部屋に入ると、そこはもう僕の知らない世界だった。

人一人が寝泊まりするだけだというのにこの広さは一体何なんだ、と問いたくなるほどに室内は広く、前室、リビング、寝室、バスルーム、トイレが全て分かれている。

チラリと見えた奥の寝室のベッドはあり得ないほど大きかった。

リビングの窓は全面で、眼下には都心の夜景が広がっている。

本当にこの部屋で間違いないのかと疑いたくなるレベルだった。

さて、宿泊する当人はとてもハイテンションで、窓に張り付いて東京の夜景に歓喜の声を上げた後は、バスルームを開けてお風呂が大きいと叫んでみたり、奥の寝室に駆けていってベッドが大きい、枕がたくさんなどと全力のリアクションをしていた。

こんな部屋を友人に用意するなんて、マイケル恐るべし。

内装の豪華さに気圧されながらも部屋を見渡してみると、そこでふと違和感を感じた。

ガラス張りの食器棚に展示物のようにセットされているティーカップの数は2つ、入り口に用意されていた室内用のスリッパの数も2つ。

恐る恐るバスルームも覗いてみると、使うことも憚られるようなデザイン重視の洗面台の脇にセットされているアメニティ類も、タオル類も、バスローブも、全て2人分の用意がされているではないか。

あれ、待てよ、貴女はここに1人で泊まる予定のはず。

もしかして、マイケルと一緒に泊まるとか言うのでは?だからこんなに豪勢な部屋なのでは?いや、その方が納得できてしまうけれど納得するわけにはいかない事情が僕にはある。

己の思考に百面相をしていると、すぐ後ろから貴女がにゅっと顔を覗かせ、鏡越しに目があった。

「何してるの?」

「あ、の…ミミさん、1つお尋ねしたいんですが…」

「なぁに?」

「ミミさんは今日、ここに1人で泊まるんですよね?」

必死に笑顔を作ってみるものの上手くはいかず、鏡の中には引きつった僕がいた。

そして貴女の返答でその顔は更に硬直する。

「そんなわけないでしょ?2人よ、ふ・た・り」

「!??!!?」

言葉にならない。

まさかの答えに眩暈がする思いだが、これは何としても問い質さなければならない由々しき問題だ。

「ど、どういうことですか、それは?」

「どーもーこーも、そーゆーことよ?」

「はいそうですかって頷けるわけないでしょう!?」

「ぶー、言うと思ったけど、やっぱり頭かたーい」

何を可愛く膨れていらっしゃるんでしょうか、貴女は。

自分がどれだけとんでもないことを言っているか、分かっているのだろうか。

「そんなの当たり前じゃないですか、だって貴女はっ」

「まだ中学生だーとか言うんでしょぉ?じゃあ高校生ならいいの?」

「年齢の問題じゃありません」

「じゃあ何?何の問題だって言うの?」

何の、ではなく何が問題なのかが今の論点だというのに。

ここまで感覚がズレている筈はないと思っていたけれど、もしかしたらちゃんと正さなければ分かってもらえないのかもしれない。

そんな絶望に近い思いを抱いた時、貴女がポロリと言った言葉に、僕は耳を疑った。

「何よー、折角マイケルがクリスマスプレゼントに用意してくれた部屋なのに」

マイケルからのクリスマスプレゼント?

もはや思考は冷静さを欠くどころの騒ぎではない。

僕の脳内では大嵐に見舞われた海の如く激流が押し寄せ、泉火山は大噴火だ。

ガシッと貴女の両肩を掴み、今までにないほどの激情を吐き出そうとしたまさにその時、貴女はこう付け加えた。

「アタシと光子郎くんの2人にって」

「……え?ミミさんと僕の?」

途端に激流が物凄い勢いで引き潮に変わり、火山の噴火も引っ込んだ。

「当たり前じゃない、他に誰がいるっていうの?」

「え、あれ?待ってください…ということは、今日、ここに泊まるのは?ミミさんと?」

「光子郎くん」

ピシッと貴女に指を指されて宣言される。

今し方確認した事実を脳内で反芻して理解した瞬間、僕は自分の勘違いを自覚し、あまりの恥ずかしさに顔を覆った。

だがそれだけでは済まない。

泊まる?僕が?貴女と?

それはそれでとんでもない。

僕はその場にしゃがみ込んで文字通り頭を抱えた。

「ちょっとぉ、光子郎くん?」

「状況についていけません…」

「んん?」

「一体いつの間にそんなことになったんですか?」

情けない声を上げて、僕は貴女を見上げる。

貴女はさっき公園で見せたような笑顔で笑っていて、完全に嵌められたのだと気付く。

誕生日のリベンジなのか、それにしたってマイケルまで巻き込んで、もはやサプライズの次元が違った。

脱力した僕を貴女が引っ張ってリビングのソファに腰を落ち着ける。

今までに座ったどのソファよりも優しく身体が沈み込んだため、眩暈がしたのではないかと錯覚する程だった。

上機嫌で貴女が話した事の顛末はこうだ。

選ばれし子供ネットワークのクリスマス会の日を狙ってマイケルとともに帰国すると決めた時、マイケルと太一から提案があった。

仲直りついでに僕の度肝を抜いてやり、尚且つ2人の仲が進展するようなサプライズを仕掛けよう、と。

そこでマイケルの経済力に物を言わせた今回の作戦が決行されたという。

しかも、僕の両親には既に太一を通して仲間と過ごすので外泊すると伝えてあるというのだ。

僕達のリーダーとアメリカのイケメンボーイのコンビ恐るべし。

「とんでもない人達だ…」

「そぉねー、でも大成功でアタシは満足よ♪」

貴女はそうでしょうとも。

ともあれ、状況は理解した。

だが、理解したからといって僕は何をどうすればいいのだろう。

ここに一晩貴女と泊まれば済む話だろうか。

いや、そんなわけにはいかないだろう。

クリスマスに恋人同士がホテルに一泊するということの意味が分からないほど子供ではない。

が、だからといってこの据え膳をすんなり頂いてしまえるほど大人でもないのだ。

先程からやたらと緊張して、変な汗がこめかみを伝う。

「本当にここに一泊するんですね?」

最終確認のつもりで聞くと、貴女はニッコリと、無邪気とも思える笑顔で大きく頷いた。

「…それがどういう意味か、分かってますよね?」

「分かってるわよぉ」

まるで緊張感の無い貴女の受け答えに脱力する。

ガックリと項垂れた僕の頭を、貴女がポンポンと叩いてクスクスと笑った。

「そんなに考え込まないでよね、折角2人でいられるんだから」

「そうは言っても、考えるなという方が無理……あっ!」

唐突にあることに思い当たって声を上げる。

貴女が首を傾げ、僕は口元を押さえて黙り込んだ。

そして、言おうか言わまいか散々迷った挙句、僕は小声で貴女にそれを告げた。

すると、貴女は何故か得意げな表情になり、「心配しなくても大丈夫よ」と言った。

まさかそれすらも準備してあるのかと、あまりの周到さに顔が引き攣る。

「光子郎くん、太一さんからクリスマスプレゼント貰ったでしょ?」

「え?」

唐突に話題が逸れた。

確かに、クリスマス会が終わった後に太一からプレゼントを貰った。

ラッピングされた小さな四角い箱型のプレゼントで、僕の鞄の中には収まっている。

そう貴女に伝えると、貴女の笑みはより一層深くなった。

「その様子だと中身はまだ見てないんだ」

「え、ええ…開けてる暇がなくて…まだ…」

言いながら1つの考えが過ぎった。

加えて別れ際の太一の言葉が甦る。

 

『上手くやれよ!』

 

「まさかっ…」

僕は慌てて鞄の中からプレゼントを取り出し、乱暴に剥いた包装紙の向こうから顔を出した物に愕然とした。

あり得ない。

何故恥ずかしげもなくこういった物を人に、しかも包装までして渡せるのだ。

確かに、年頃になってきたのだから、こうした方面のことも考えていかなければならないし、持っておくのが男のエチケットだなどという文句は聞いたことがある。

しかし、どう考えてもこれはやり過ぎだし、僕の為を思ってくれたのかもしれないが、絶対に半分以上は面白がっているに違いない。

「あの人は…っ」

わなわなと肩を震わせるが、今目の前にこの恥ずかしさと怒りが綯い交ぜになった思いをぶつける相手はいない。

いるのは、僕の隣でいつの間にかテレビを点けて呑気にくつろいでいる貴女だけ。

バラエティ特番か何かのチャンネルを見て、きゃっきゃと笑う貴女を恨めしそうに見やる。

当然、貴女はプレゼントの中身を知っていたのだ。

全く、どこまでが貴女の策で、どこからが太一とマイケルの仕業なのか知らないが、どちらにしても頭は痛くなった。

ボスっとソファの背もたれに身体を放り投げ、豪華なシャンデリアがぶら下がる天井を見た。

キラキラとしたガラス細工が光を反射している。

でも、それらのガラスは外から光が加えられることによってしか光れない。

僕と貴女が貰った結晶体のように、自ら光り続けることはできない。

どういう化学反応なのか気になったけれど、すぐに頭の隅に追いやった。

そんなことより、今は考えなければならないことが山積しているのだ。

僕は、貴女と付き合い始めてから今までに、ちょこちょこと空いた時間を使って蓄えた知識を物凄い勢いで想起し始めた。

多分、今までに使っていなかった脳細胞の1%…は大袈裟だけと0.5%くらいは使ったかもしれないというほどだ。

前段階の準備から、順序のトレース、配慮すること、注意すること、いくつかの方法、体勢、etc…。

結論、上手くできる自信は無い。

所詮知識は知識、体験に基づかない時点で予測は全くもって不可能だ。

しかも相手は僕の思考の斜め上を行く貴女ときている。

無理、絶対思った通りなんて行くはずがない。

力の限り自分の無力さを認め、密かに落ち込んだ。

そして、最終的にはなるようにしかならない、とある意味での真理に到達した僕の心は、凪いだ海の如く穏やかになっていった。

 

時刻は8時、クリスマス会で飲み食いした分がそろそろ切れる頃、同じく小腹を空かせた貴女とともにルームサービスで軽食を注文しようという運びになった。

メニューはどれも高級レストランのようで頼むのに気が引けたが、料金は既に支払済とのことで、またしてもマイケルの計らいに喜ぶ貴女と複雑な気分になる僕がいた。

食事を済ませ、備え付けの冷蔵庫にきっちりと並べられていた飲料の数本を開封した所で、時計の針は9時を指した。

「そろそろシャワー浴びよっかな〜」

その一言に思わずドキリとしたが、「ではお先にどうぞ」とすぐに切り返すことができた。

貴女は僕の対応が意外だったのか、少しばかり目を丸くして、それから「じゃあいってきます」と軽やかに身を翻してバスルームに消えた。

じきにシャワーの水音が聞こえてくる。

残された僕は、食器を下げにきたボーイにお礼を告げ、それから例の太一のプレゼントの包装紙を全て取り払った。

「うーん…」

四角い箱の裏の商品説明をまじまじと読む。

そして、ため息を吐いた。

仕方がないのでソレを持って寝室に行くと、部屋に来た時に目に入った巨大なベッドが視界に飛び込んできた。

ダブル、いやキングサイズか?

二人で使うにしても大きなベッドの横に回り込み、ベッドサイドテーブルの上にソレを置いた。

部屋の色調や雰囲気から明らかに浮いているとは思ったけれど、引き出しにしまうのもと思ってそのままにした。

「それにしても…一生に一度だろうな、こんな所に泊まるの」

自分の生活水準からは及びもつかないランクの宿泊施設だ。

もう二度とこんな機会は無いだろうし、無いことを願う。

やはり庶民である僕には場違いだし、こんな贅沢をしなくても多分満足できてしまうから。

でも、今回は友人達の計らいだし、気を回し過ぎている部分には目を瞑ることにして、貴女との時間を大切に過ごそうと思った。

ベッドの端に腰をかけ、これまた上質なシーツの肌触りに慄く。

窓から見える夜景は綺麗だったけれど、僕にはそれよりも見ていたい光があった。

ポケットから取り出した貴女とお揃いの結晶体を掌に転がし、中心の柔らかく白い光を眺めた。

まるで光に意思が宿っているように思えるほど優しい。

貴女に会えなくて辛かった時も、この結晶体の光に幾度となく救われてきた。

これをくれた彼等や、この場を設定してくれた友、たくさんの思いに支えられているのだと改めて実感する。

いつまででも眺めていられそうに思えたが、気付けばシャワーの音は消えていて、バスローブに身を包んだ貴女がひょっこり寝室の扉から現れた。

「お先にどうも」

「あ、はい…どうも…」

その出で立ちに凪いでいた心が騒ぎ出す。

「それじゃあ、僕もお風呂いただいてきます」

僕は結晶体をポケットにしまうと、貴女の姿を直視しないようにして、はやる胸を抑えて寝室を出る。

貴女とすれ違う時、ほのかにいい香りがして、途端に僕の体温は急上昇した。

何だかよく分からないままバスルームに直行し、袖に絡まりながら服を脱ぎ捨て、お湯の蛇口を盛大に捻って頭からシャワーに打たれる。

お湯よりも自分の顔の方が熱い気がして、水を捻ると今度はその冷たさに心臓が飛び跳ねた。

バスルームで一人バタバタと格闘し、出る頃には完全にのぼせていた。

フラフラと脱衣所に出てバスタオルを探り当て、頭からひっ被った。

バスルーム内よりは冷んやりとした空気が全身に染みる。

重たくなった両腕を動かして水滴を拭い、着替えようと思って服に手を伸ばして考え淀む。

この場合、貴女と同じようにバスローブを着用するべきなのだろうか。

無残に脱ぎ捨てられた私服と、きれいに折り畳まれて置かれているバスローブを見比べる。

どう考えても自分にはバスローブは似合わないという絶対的意見は揺るがないが、ここで一日着倒した服を着るのもどうかと思う。

悩んだ末、私服を丁寧に畳んでバスローブを身に付けた。

洗面台の大きな鏡に映る自分の姿はそこそこに間が抜けているが、もはやどうにでもなれだ。

リビングに戻るとテレビは消えていて、貴女の姿も見当たらない。

寝室に向かうと、貴女は照明を落とした室内でベッドに腰掛け、先程の僕のように顔の前にぶら下げたあの結晶体を見つめていた。

その姿は綺麗で、とても愛おしく思えた。

邪魔をしないように静かに近づく。

貴女が僕に気付く頃には、手の届く距離まで来ていた。

「…おかえり」

「お待たせしました」

「バスローブ似合わないね」

「自覚してます」

笑いが混じるやり取りの後、僕は貴女の隣に腰を下ろした。

暫しの沈黙が流れる。

やはり貴女も緊張しているのだろうかと思い、隣を盗み見ると、貴女は薄暗い中でも分かるほど頰を紅潮させていた。

「ミミさん、緊張してます?」

そう尋ねると、「し、してないわよっ、キンチョーなんて」という硬い声が返ってきた。

噛んだ時点でバレバレの嘘だが、それは可愛い意地というもの。

今まで平気そうに振舞っていたのも、恐らく精一杯の努力の賜物だったのだろう。

貴女も僕と同じなのだと分かって、僕は安心した。

同じ気持ちでいられることがとても嬉しい。

緊張する貴女の肩を、同じく緊張してぎこちない僕の手が抱く。

そうして引き寄せて、数ヶ月ぶりのキスをした。

海を隔てた遠距離恋愛をしている僕達は、付き合って1年と半年という月日を数えるが、その間抱き合ったり、キスしたりという数はそう多くない。

お互いに熟練されないまま、今もまだぎこちないキスをする。

キスの最中に息をするのが苦しくなくなったのは最近のこと。

触れ合う唇の角度を変え、許可を求めるように差し出した舌に、貴女がおずおずと応える。

自分の心臓の音と、お互いの息づかいと、そこに貴女の艶っぽい声が混ざると、一気に体が熱くなった。

広いベッドに貴女は身体を横たえ、僕はそこに覆い被さるようにし再びキスをした。

頰に添えた手を首筋に下ろすと、貴女はピクリと身体を震わせる。

以前首が擽ったいと言っていたことを思い出すと同時に、調べた情報から該当するものが弾き出された。

擽ったいと感じる場所は性感帯。

僕は貴女の唇を解放し、そのまま首筋に軽くキスをした。

「んっ、や…」

途端に貴女の呼吸が乱れるのが分かって、ゾクリとする。

「それ、嫌、擽った…い」

貴女が紡ぐ否定の言葉は、しかし昔の貴女の言葉によって掻き消される。

 

『そーゆー時の女の子の怖がる素振りや嫌って言葉は大抵イエスの意味なんですー』

 

今がそういう時というやつなのだろう。

次に浮かんだのはキスマークのつけかた。

軽く舌を這わせて吸い上げると、貴女は声にならない様子で身動ぎをする。

唇を離すと、そこには赤い花びらが散ったような内出血の跡が残っていた。

白い肌に唐突に現れたその赤い刻印が、俗に言う自分のものであるという印だというのなら、それはあまりに傲慢だと思うのに、酷く満足している自分がいるのを感じる。

衝動というのは、混沌とした己の内側から沸き上がってくるもの。

むくむくと育つこの衝動は、貴女を壊してしまったりしないだろうか。

もう1つ花弁を散らし、次にバスローブの隙間から手を差し入れると、滑らかな肌に手が吸い付くような感覚を覚える。

鎖骨のラインをなぞるようにしてバスローブをよけると、細い肩と胸の膨らみが露わになった。

もうそれだけでクラクラして理性が旅に出そうだ。

羞恥心から顔を背けていた貴女が震える声で「あんまり見ないで」と抗議の声を上げる。

この状況でそれは煽りでしかない。

 

「…すみません、ミミさん。これ以上は本当に、途中で嫌だと言っても止められる自信がないので、先に謝っておきます」

「ここまできて、そんなこと言わないわ」

 

拗ねたような貴女の声は、次には喘ぎ声に変わった。

お互いに初めてで、頭に浮かぶ下調べした知識達は半分も活用できなかったけれど、無我夢中でこの腕に閉じ込めた貴女が、痛みに耐え、最後には涙を浮かべながら「幸せ」と言ってくれたことが、僕にとっても幸いだった。

 

夜が更ける。

1つの布団で眠る僕達の傍には、開封済みの太一からのクリスマスプレゼントと淡く光る2つのお揃いのネックレス。

この先3年程はまだ遠距離恋愛が続く僕達。

3年と半年後、僕は高校を卒業して空の父親がいる京都の大学に進学すると同時に住まいを京都に移す。

そして貴女は、僕より半年遅れてアメリカのスクールを修了すると同時に日本に帰国。

調理師免許を取るために京都の専門学校を受験し合格、入学までの半年を日本縦断グルメの旅に費やすと宣言。

その旅から帰る場所を僕の所にしたいと言った貴女は、強行的に僕との同棲を推し進め、将来結婚するという条件付きで双方の両親を説得。

まさかの婚約してから新生活スタートとなったのだ。

僕の両親は酷く驚いていたけれど、真摯に頭を下げる貴女にほだされたようで、父と母から「お前、しっかりするんだぞ」、「幸せにしてあげるのよ」とのお言葉を頂くことになった。

一人娘を溺愛していた貴女の両親の場合は少し違って、真摯に誠実にというよりは、いかに2人がお互いを想っているか、つまり世間一般でいうラブラブバカップルであるということを伝えるのが大事だというのが貴女の自論で、実際にお互いがいないと生きていけません的な話をしたら、貴女の両親は感動の涙で快く了承してくれた。

こんなんでいいのかとも思ったが、「パパとママは自分達の親に、認めてくれないなら駆け落ちしてやるって脅して結婚したのよ」と貴女から聞かされれば納得もいった。

 

丁度その同棲話が進んでいる頃、デジタルワールド関連で主に後輩達を中心とした少々複雑な事件が起きていたのだが、それについては大円団とはいかないものの、仲間の誰一人欠けることなく終息を見た。

また、その事件がキッカケで、大学の研究チームにも新たな課題が多く見つかり、僕の大学生活は序盤から大忙しとなる。

選ばれし子供ネットワークもこの3年で国内組は勿論、海外組との繋がりも増え、全国でのデジタルワールドとデジモンの啓発活動や、イベントの主催などを行うようになった。

そして、この夏には法人として本格的な組織を立ち上げる予定にもなっている。

勿論、そのトップは太一で、海外展開を担当するのはマイケルら海外の主要メンバーだ。

僕は全体の連絡及びスケジュール管理を行う代表補佐、国内経理は京に声をかけており、恐らく賢とともに引き受けてくれる見込みになっている。

貴女もまた、この旅が終わったら、法人の広報担当に就任することが決定していた。

 

そして今日、貴女が半年間のグルメ旅から帰ってくる。

旅先から何度もけったいな料理と一緒に撮った写真が送られてきたりしていたが、会うのは貴女が旅の途中で京都に寄った時以来なので、かれこれ3ヶ月ぶりだった。

僕のアパートの場所は前回来て知っているので、僕は自宅で待つのみ。

本当は最寄駅まで迎えに行こうかと申し出たのだが、貴女は何故か断固拒否した。

理由は教えて貰えなかったが、そこまで頑なに拒否するなら仕方がないと自宅で待つことにしたのだ。

貴女を待つ間、ゴールデンウィーク中にタケルとヒカリに協力してもらって作ったプログラムの改良型、第三世代の効果成績のグラフに目を通す。

第一世代は試験的運用が目的だったため、データを取ってすぐに第二世代に移行したが、効果成績に波があったため、更なる改良を加えてつい先月に完成したのがこの第三世代だった。

プログラムの主な働きは、特定の人間の脳波がデジタルワールドに干渉する、もしくはされることを防ぐためのものである。

対象は主に、以前からデジタルワールドやデジモンに対して不思議な能力を発揮していたヒカリと、今年の春に起きた事件の中心人物であった初島ユウキという少女だ。

初島ユウキは人やデジモンの死に呼び寄せられ、死に行く者達の思念を自分の記憶とリンクさせて蓄積するという未知の力を有していた。

そして、幼い頃からの蓄積がデジタルワールドの歪みと呼び合って融合し、暴走した。

あの世界のホメオスタシスは初島ユウキごと歪みを消滅させることを選び、彼女もまたその運命に従うことを選択する。

しかし、それに抗おうとした大輔、タケル、賢を中心とした後輩組が、命を賭けて初島ユウキを救出したのだ。

そうした初島ユウキやヒカリの特殊な能力は、今後デジタルワールドと現実世界が近づく上でのリスクファクターであり、彼女らの日常生活にも多大な影響を及ぼす。

そこで、以前からエージェントと進めていたヒカリの力を抑えるプロテクトプログラムを、発展、応用することが早急に求められた。

ヒカリに関しては、タケルがその能力を受け止めてある程度カバーできる存在になったこともあって、第二世代でも十分な効果が得られていたのだが、初島ユウキはそうはいかなかった。

何しろ選ばれし子供ではないためデジヴァイスが無く、さらには先の事件でこれまでの記憶を全て失い、心身ともに衰弱した状態を押しての運用だったことも多分に影響していた。

また、ヒカリにとってのタケルのような存在はなく、恋人というなら大輔がそうだが、生憎と二人ともが選ばれし子供という前の2人のような特殊例には至らなかった。

そこで、今は第三世代を試している最中なのだ。

先週までの記録では第二世代ほどの波はなく、グラフは安定を示しているが、予想到達域までは少し足りない。

プログラムの基礎理論はヒカリとタケルがモデルケースであるため、まだまだ調整を重ねていく必要があるということだ。

それでも、初島ユウキの能力が僅かでも抑えられることによって、彼女の日常に干渉するものは激減したようで、退院後のリハビリも順調に進んでいると大輔から報告を貰っていた。

大切な人が全てを忘れてしまっても、側で献身的に支えている大輔は立派だと思う。

そして、初島ユウキが全ての記憶を投げ打っても救いたかった者達は、無事に無に回帰できただろうかと思いを馳せる。

初島ユウキの件は、人同士もそうだが、デジタルワールドやデジモンと共生する上で生じる様々な問題を提起した。

本当の意味での共生を実現するためには、これらの問題を一つ一つ解決していかなければならない。

何かを変えていくというのは、問題に立ち向かうというのは、相当なエネルギーを要する。

一番苦しい所で踏ん張ってくれている太一や、理解者を増やすために奔走するマイケル達には本当に頭が下がる。

だから、大変だと言って自分だけ足踏みをしているわけにはいかないと、僕も頑張れるのだ。

気持ちを新たにパソコンに向き直り、第三世代の効果成績表を判定と考察を踏まえた文面を添えて大学に送信した所で、外から車が止まる音とドアの開閉音、人の話し声のようなものが聞こえて来た。

もしや貴女がやってきたのかと思い窓から下を覗くと、軽トラックが一台と、その運転手と何やら話をしている大きなつばのある帽子を被った女性がいた。

その女性は白いフワフワしたニットにピッタリとしたオレンジのパンツを履いて、足元は黒いショートブーツを履いている。

運転手と会話をしている中でオーバーなリアクションを取った時にチラリと見えたが、帽子の下はサングラスを掛けているようだ。

暖房を効かせた部屋に外気を入れたくなくて、窓を開けずに様子を伺ったのだが、もし窓を開けていたら、あの女性の高くて澄んだ笑い声が聞こえてきたに違いない。

僕は軽く額を押さえて溜息をつく。

僕の迎えを断っておいて、その軽トラックはどこで引っ掛けてきたんだ。

色々とツッコミたかったが、ともかく待ち人が到着したようなので迎えようと玄関に向かった。

靴を履いて玄関を開けると、春を待ち侘びる冷たい空気に包まれる。

外の階段を降りていくと、駐車場からの話し声が鮮明に耳に届く。

「今度おばさんの家に遊びに行かせて!」

「ああ、いいよ。その婚約者の彼も連れといでよ」

「本当?ありがとう!」

何故か知らないおばさんに僕のことが認知されている。

「じゃあまたね、ミミちゃん」

「はーい」

元気なおばさんが軽トラックを吹かして帰っていくのを手を振って見送る貴女を、僕は階段の中腹で見ていた。

そして、貴女が足元に置いた大きな荷物に手を伸ばす前に声を掛けた。

「ミミさん」

名前を呼ばれた貴女がパッとこちらを振り返り、そして次の瞬間には花が咲いたような笑顔に変わる。

「光子郎くん!」

荷物を置いて、帽子も振り落として走り出した貴女を迎えるため、僕も急いで階段を駆け下りた。

降り切った所で貴女が腕の中に飛び込んで来る。

貴女のタックルには大分慣れたせいか、もう受け止める時によろけたりはしない。

「おかえりなさい」

受け止めついでに軽く抱き締め、そう伝えると、貴女は「ただいま!」と嬉しそうに答えた。

それから重い荷物は僕が持ち、残りを貴女が持って部屋に上がった。

荷物の片付けもそこそこに、貴女はお土産だと言って何やらたくさんの品物を次々と取り出して僕に見せた。

「で、これは最後の北海道で買った熊カレー!」

熊カレーの缶詰の紹介を終え、ズラリと全国47都道府県のお土産が並ぶ。

食べ物から謎の置物、工芸品などがあり、本当に日本を縦断してきたんだと改めて思った。

「全国制覇ですね、おめでとうございます」

「うん!写真もいっぱい撮ったし、今度アルバム作るの♪」

「それはいいですね。で、さっきの軽トラックのおばさんは一体どちら様なんですか?」

「ああ、あの人はね、空港でヒッチハイクしたの」

やはりだ。

「息子さんを空港に送ったところだったらしくてね、丁度この辺に住んでるっていうから、乗せて下さいってお願いしたら快く了解してくれて、ここに来る間もね、色んな話して仲良くなっちゃった」

それで先ほどのお家にお邪魔するとかいう話に繋がっていったわけだ。

初対面のおばさんと仲良くなるのは一向に構わないけれど、何でまたヒッチハイクでここに来ようと思ったのか。

それとなく尋ねてみると、貴女は「それは、だってねぇ」と勿体ぶった後、全国のお土産を前に頬杖を付いて、ニッコリと僕に笑いかけた。

 

「ここに帰って来るまでがアタシの旅だもん」

 

それは、今日の小春日和の陽射しのような温かさを僕にくれた。

思わず笑みが零れる。

半年前、東京の空港で旅の出発点である沖縄に発つ貴女を見送って、3ヶ月後に京都で再会して、また次の地へ赴く貴女を見送った。

この旅のお土産話しは、きっとこの先1ヶ月は尽きないのだろう。

貴女が貴女の夢のために踏み出した一歩の証。

そしてそれを成し遂げた喜びは、きっと次に向かう糧になっていく。

これから貴女との生活が始まる。

きっと大変なこともたくさんあると思う。

何せ、いつだって貴女は僕の思考の斜め上をいく。

まるで、貴女の旅先から送られてきた僕的大惨事の料理の写真のように。

けれど、2人なら乗り越えていけると、僕は信じている。

僕達の首から提げられた、ほのかに灯る優しい明かりに誓って…。

 

 

 

ずっと一緒にいましょうね。

 

 

 

 




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