その日、宇宙港を全力疾走で駆け抜ける国務尚書の姿を見た者は、まさに青天の霹靂と誰もが驚きを口にしたという。
国家の重鎮たる男が人の目も憚らずひたすらに走り、大声で妻の名を呼んだ。
後の世に語り継がれることとなる珍事件である。
しかし、漆黒の宇宙への船出を控えた船を求めて駆けるビッテンフェルトには、振り返る人々の好奇の眼差しも驚きの声も意に介する余裕などなかった。
船の行き先はわかっているが、果たして何時の便なのか知る術がない。
どんなに急いだところでアンジェリカを乗せた船が出航してしまえば、彼女を取り戻すことは一段と困難になるだろう。
だから、駆けた。
それでも、駆けた。
会わなければ、たとえ会えるかわからなくても、必ず会わなくては。
矛盾を振り切るようにして、彼はただ走っていた。
アンジェリカが去ると言ったのは、裏切りでも不実でもなかった。
国家の重責を担うことになった夫に相応しい縁談があると聞き、自ら身を引くことを選んだ末の決断だった。
なぜ彼女の想いを疑ったりしたのだろうと、過去の自分が悔やまれる。
自身の無事を願ってくれた妻、愛しさを声に乗せて自分の名前を呼んだ妻、柔らかな光の中で微笑みを浮かべて自分を見つめた妻、なぜその彼女を信じられなかったのだろう。
過去を責める気持ちが沸いてくると、長い距離を走り続けていることもあってか胸がギシギシと締め付けられるように痛んだ。
身分も財産も要らないと去っていったアンジェリカを思う。
それが自身に向けられた深い愛情ゆえだったということくらい、今ならばわかる。
彼女を引き留めていれば、自分の思いを伝えていればと考えて──ビッテンフェルトは気がついた。
長い時間を一緒に過してきた妻である。
アンジェリカの儚げな美しさも存外気の強い性格もすべてが愛しいと思っていたはずなのに、果たしてそれを告げたことがあっただろうかと。
想えばこそ告げるべき言葉があったはずなのに一度もそれを言ったことがないような気がして、急に冷や汗が滲んでくる。
その彼が、ついに見つけたもの。
自宅にいる時に身につけていた裾の長いドレスではなく、膝丈で揺れるスカートを彼女は身にまとっていた。
はじめて見る服装だったが、それがなぜか馴染んで見える。
また新しい一面を見せられた気がして、不安を抱えているはずなのにどこかふわふわとした気持ちも浮かんでくるから不思議だった。
「アンジェリカ……!」
ありったけの声で、彼は叫んだ。
今や国政の要を担うまでになった男の大声が呼んだのは、彼の妻の名前であった。
「アンジェリカ!俺だ、待ってくれ!アンジェリカ、行くな!どうか行かないでくれ……!」
星空を背にした出発ゲートの前、名前を呼ばれた女性が上方にある通路を見上げる。
階下にいる妻の姿を見留めて名前を呼んだ男はまた走り出し、転げ落ちんばかりのスピードで彼女の元へと駆け寄った。
「よかった、まだ発っていなかったのだな……!」
駆けてきた勢いそのままに彼女の手を取ると、息を弾ませる夫の姿をアンジェリカの瞳が驚きの表情で見上げる。
「アンジェリカ……俺は、ああ……アンジェリカ、よかった……。」
決して離すまいと掴んだ彼女の両手を、ビッテンフェルトは自身の胸へと引き寄せた。
言いたいことは山ほどあったし、伝えなければいけないこともいくらでもある。
胸いっぱいに溢れる想いの中から言葉を探して、彼は──最も大切な一つを選びだした。
「アンジェリカ。」
口にするだけで、愛しいと思える妻の名前だ。
その名前を呼んで、彼女の瞳を見つめ、想いと願いとを込めて彼は言った。
「愛している、アンジェリカ……。」
彼らは、長く夫婦としての関係を続けてきた。
不釣り合いを絵に描いたような時期から睦まじく手を取り合った日々まで、たくさんの時間を夫婦として過してきた。
しかし、振り返れば一度も──ビッテンフェルトはその言葉を形にしたことがなかったのだ。
愛しいと思えばこそ優しく触れたかったし、名前を呼ぶだけで胸がときめいた。
それなのになぜ肝心な一言を告げなかったのだろうかと不思議に思う。
そんな自分を不甲斐なく思いながらも、決して今更だとは思わなかった。
何事も遅すぎることなどない、「前進、力戦、敢闘、奮励」!それが
「フリッツ様……。」
透き通るように輝くアンジェリカの瞳が戦慄いて、ビッテンフェルトを見つめる。
その眼差しは苦悩や悲しみを映してはいたが、決してそれだけではないとビッテンフェルトは彼女の手を握りながら思う。
「けれど、わたくしは……。」
けれど、でも、と繰り返し、視線をそらせては俯いて、アンジェリカが戸惑う。
その戸惑いを、彼女の夫は彼らしい逞しさで正面から受け止めた。
「アンジェリカ、色々と思い悩むことがあったと思うが、それらはすべて誤解だ。俺はアンジェリカを手放すつもりはないし、この気持ちも揺らぐことはない。」
縁談などすべて断っているし、最初から考慮にさえ入れていないとはっきり言えば、アンジェリカの緊張したままだった身体がビッテンフェルトの腕の中でいくらかほぐれる。
「たとえ何事があろうとも俺はアンジェリカの夫だし、アンジェリカは俺の妻なのだ。それともアンジェリカは……俺ではない誰かの妻になりたいと思うのか。」
ほんの少しだけ残っていた赤髪の僚友に対する疑問だったが、アンジェリカがあっさりと首を振ったことでそれは解決した。
「フリッツ様、わたくしにとって他の誰かを想うなどあり得ないことですわ……。」
アンジェリカは確かに、キルヒアイスを気に懸けてはいた。
しかし、それはつなぎとめた命を良き人生へと繋げてほしいという純粋な願いからである。
「原作」で描かれたキルヒアイスからアンネローゼに向けられた淡い想いの描写は、物語の序盤しか読んでいない彼女もよく知っていた。
だからこそ、新しい世界を生きる彼の想いが愛する人に通じればいいと、そう願っていたのだ。
「アンジェリカ、俺は……初めて会った見合いの日から、ずっとアンジェリカだけを愛おしいと思ってきた。美しい姿に惹かれたのは事実だが、勉学に勤しむアンジェリカも少しばかり気が強いところも、弁が立ちすぎるところも全部……どんなアンジェリカも俺の愛しい妻だと思っている。」
可愛げがないなどと自分を卑下してくれるなとビッテンフェルトは言って、妻の身体を抱き留めると、アンジェリカの柔らかな髪に触れる。
それは彼らにとって、これまでで一番自然で、これまでで一番あたたかな抱擁だった。
「本当に……?」
「ああ。本当だとも、アンジェリカ。俺には少々気の強い女のほうが合っているのだ、そう思わないか。」
ようやくアンジェリカも微笑んだ。
その瞳に、光るものがある。
「泣くな、アンジェリカ。」
思えば、出会って以来一度も彼女の涙を見ていない。
それは彼女が芯の強い女性だからだけではなく、戦禍の中で夫を待ち続け、不安と緊張にずっと心をこわばらせてきたからだろうと今ならば理解できる。
「いや、泣いてくれていい。だが、あまり他の誰かには見せたくないな。」
抱きしめる腕に力を込めれば、その腕の中でアンジェリカが笑う気配がした。
「フリッツ様……。」
涙をぬぐった顔をあげて、アンジェリカがビッテンフェルトを見上げる。
彼女の瞳は生まれたての雫でまだ濡れていたが、その口唇に浮かぶのは晴れやかさと愛しさを滲ませた微笑みだった。
「わたくしもお伝えしなければ。」
そう言って彼女は頬を染める。
「ずっと……お慕いしておりました。もうずっと前から、ええ、ずっと……。」
頬を染めて目を細める妻をビッテンフェルトは美しいと思ったし、こんなにも幸せな気分を味わえる男はこの世にそうはいないと誇らしく思った。
そして、ずっと聞いてみたかったことを彼は聞いた。
「その、アンジェリカ。気持ちは非常に嬉しいのだが……いったい、アンジェリカはいつから俺のことを……?」
相容れない夫婦であった時期を乗り越えてきたという自信はもちろんあるが、さていつから妻は自分を受け入れてくれていたのだろうかとは、彼にとって知りたくないようでやはり知りたい長年の疑問であった。
「……気になるのですか。」
「あ、ああ……気になるが、実は最近だと言われても反応に困るような気もするな。」
「いつから自分を好いていたのか」と思春期の若者のような夫の問いかけに、アンジェリカも少女のように笑った。
「結婚式の晩、」
「えっ……!」
「あの夜、フリッツ様はわたくしに“疲れていないか”と聞いてくださったでしょう。」
そうだったかと振り返ったビッテンフェルトの脳裏に、苦々しい出来事がじわりとよみがえる。
晴れて夫婦となったその晩、期待に胸を膨らませる彼に背を向けてアンジェリカが自身の寝室へと籠もってしまったことを思い出したのだ。
「あ、あれは……。」
彼にとって相当にショックだった出来事であるが、アンジェリカは真逆の思いをもって出来事を受け止めていたらしい。
「望んでフリッツ様との結婚を選んだわたくしですが……自分は間違ったことをしているのではないかと……本当は不安だったのです。」
愛し合っているわけでもない相手と家の保全のための結婚を選んだことへの後ろめたさと、果たしてこの先、愛し愛されることができるのかという不安を感じていたのだと彼女は言う。
しかも夫は見た目も猛々しき歴戦の軍人、恐ろしくも思ったのだと恥じらいながら言われると、さすがにむず痒い気分になる。
「けれど、フリッツ様はわたくしを気遣ってくださった。そんなお優しい方ならば、きっと思い合っていけると……そう思ったのです。」
気恥ずかしさと後ろめたさで自室に逃げ込んだという思いもよらない告白は、結婚の誓いを交わした晩に忍耐を強いられたビッテンフェルトの思い出を、昨日までとは違うものに変えた。
苦々しい思い出であったそれも、今振り返れば懐かしい。
「アンジェリカ、俺は思うのだが……。」
腕の中で自分を見上げる愛しい妻を見つめ返し、ビッテンフェルトはその無骨さを感じさせない柔らかな仕草で彼女の両頬を包み込んだ。
「これからはもっと、お互いの気持ちについて話をするべきではないだろうか。」
「ええ、フリッツ様。そうかもしれません、きっとそうですわね……。」
この日にいたるまで、幾度すれ違いと勘違いを繰り返して来ただろう。
そのほとんどが、口にすればたちどころに解決することではなかったかとビッテンフェルトは思う。
不安や疑問、あるいは喜び、そして愛しさを口にすればきっと──もっと良い夫婦でいられるはずだ。
「さあ、アンジェリカ。俺たちの家に帰ろう。」
「フリッツ様……。」
繊細なほどの優しさで妻に口づけた国務尚書については、その晩以降のメディアをおおいに賑わせることになる。
引きも切らない取材依頼は彼の部下たちを辟易させ、顔を見るだけで口いっぱいにケーキを詰め込まれたようで目眩がすると僚友たちを呆れさせた。
そんな彼らについて、「国民の良き見本」と新皇帝が言ったとか言わないとか、こればかりは真偽の確かめようがない。
──病めるときも健やかなるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しきときも、これを愛し、敬い、慰め、助け、命あるかぎり真心を尽くすことを誓う。
それは、遠い日に滅んだ宗教の言葉であるが、神の御名をこえて受け継がれている美しき祝福の言葉でもある。
妻と夫となりし日から数年、新王朝の黎明同様に波乱の出来事を重ねた彼らであるが、今また新しい日々へと一歩を踏み出した。
輝かしい未来へ、美しく愛に満ちた日々へ、麗しき結婚生活は明日もつづいていく──!
【あとがき】
複雑なキャラクターが多い銀英伝の中で、終始シンプルな生き様を貫くビッテンフェルトがとても好きです。
彼をメインキャラクターにラブストーリーを書きたいなと着想した時、「ビッテンフェルトをひたすらインフレさせること」と「ヒロインのスペックを彼と真逆にすること」を最初に決めました。
筋骨隆々←→病弱、武闘派←→頭脳派、猪突猛進←→考えすぎ、言葉足らず……と設定していった結果、とんだぽんこつヒロインが出来上がってしまい、物語の構成を組む段階が一番苦労したように思います。
しかし、いざ文章を書き始めると極端な性格のキャラクターというのは意外と書きやすく、上下左右に振れる二人の感情を楽しく書くことができました。
改めまして、私の拙いお話に最後までお付き合いいただいた皆さまに感謝申し上げます。
読んでいただき本当にありがとうございました。
また、誤字脱字の校閲をしてくださった方、本当に助かりました。ありがとうございます!
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