エンディング
ほんとう、幸せだった。
――
サンダース中等部に入学して、いやでもわかったことがある。
サンダース大学附属は、とにもかくにもビッグだ。
学園艦がただでさえデカいし、核を担うサンダース大学も高等部も中等部ももちろんデカい。グラウンドも必然的にデカいから体育祭の規模もデカいし、それに比例して熱気もデカい。
『1-Aのアンカーは黒沢勝だッ! 趣味はトランスミュージック! 頼むぜ! ホワイトチームの命運は君にかかってるんだからな!』
「「「「「ファイトー黒沢! レッツゴー黒沢ッ!!!!!」」」」」
やめろよ。
黒沢勝は、未だ走り慣れないビッググラウンドを必死こいて駆け抜ける。その間にもチア部からは嵐のように応援され、観客席の親御さん達からは注目を浴び、頭上には撮影用ドローンが宙を待っていた。
――ほんとう、サンダースはすごいな。
サンダース大学付属学園艦といえば、ビッグで、お金持ちで、戦車道の強豪校で、何よりパーリー大好きとしてよく知れ渡っている。
だからサンダースにかかれば、単なる体育祭も一大フェスティバル(サンダース・スポーツフェスティバル)へ早変わり。人数も規模も予算も、小学校の頃とはまるで比べ物にならなかった。
「がんばれ黒沢く――んッ! 君こそAクラスのスターだ―――ッ!」
「ホワイトチームのブラックスター! ブルーチームに負けないで!」
「ノンノン! レッドチームこそヒーローに相応しいのよ!」
「なぜッ!?」
「レッドだしッ!」
サンダース・スポーツフェスティバルは、AとBクラスから成るホワイトチームと、CとDで構成されたブルーチーム、EとFが組むイエローチームにGとHが協力し合うレッドチームの四組でスコアを競い合うルールとなっている。それ故に、こうした対抗心があちらこちらで発生しがちだ。
だからこそ、アンカーという立場はとても重い。参加人数が多いだけに、のしかかって来るプレッシャーも半端がなかった。
――ちくしょうくじ引きめ、もう一生引いてやらないからな。
舌打ちする。
そうして全力疾走の末に、お代カードが乗っかった長机にまで到達し、半ばひったくるようにカードをめくって、
『大切な存在』
変な叫び声が出た。
ゴシックフォントで大真面目に書かれていた。
『おっと―! 黒沢君が、大切な存在カードをドローしたッ! アンカーに相応しいカードだ! ファイト!』
「「「「「ファイトー黒沢! レッツゴー黒沢ッ!!!!!」」」」」
やめろよ。
黒沢は忙しなく、グラウンド全体を見渡す。小学校とは比べ物にならない広さを前に、「ああもう」が漏れた。
大切な存在――父と母を見つけ出そうにも、客の数があまりに多すぎて見当もつかない。響き渡る歓声が、カードを拾い上げるライバルの存在が、なけなしの平常心を崩していく。
どこだ、どこにいる。黒沢は、あてもなく観客席へ駆け寄って、
「がんばれ――――! 勝――――ッ!!」
瞬間、頭の中が冴え渡った。
よく通った、聞き慣れた声を耳にしながら、黒沢は狙撃手の目つきで観客席を見通す。
そしてもちろん、その人はすぐに見つかった。
誰かに奪われてしまう前に。両足をばたつかせてまで、黒沢は駆ける。
「――愛里寿!」
「勝ッ!」
島田愛里寿が、とても嬉しそうな顔をして自分を迎えてくれた。
まさか愛里寿が、サンダース・スポーツフェスティバルに来てくれていたなんて。
――首を横に振るう。
話したいことはたくさんあるが、それは勝負の後だ。
母である島田千代と目が合い、無言でサムズアップを受ける。「許可」を受けた黒沢も、同じく親指を立てた。
「愛里寿」
「うん」
両手を差し出す、愛里寿が首をかしげる。
「ぷ、プリンセスハグをするから!」
「? ……え、え!? そ、そんな、一緒に走るから!」
首をぶんぶん横に振るう。
「君に負担はかけさせない!」
「……勝……」
カメラのフラッシュが殺到する、客が歓喜する。千代がビデオカメラを構える。
「愛里寿」
愛里寿が、千代に振り向く。
「彼のかっこいいところ、みたいでしょう?」
「――うん!」
そうして愛里寿は、靴を履いてグラウンドに立つ。
その表情は、戦車隊隊長のものと何ら変わりがなかった。
「勝」
「愛里寿」
そして黒沢は、愛里寿のことをお姫様抱っこした。人生において、はじめての経験だった。
顔と顔とが間近になる。
しかし愛里寿は、淡々と「重い?」と質問する。対して黒沢は、「いいや」と答えた。
――やっぱり、小さいんだな。
愛里寿はこの身で、日本戦車道を世界へ導こうとしている。愛里寿はこの体で、島田流という伝統を背負っている。
それは決して、簡単なことなんかじゃない。
だから自分が、島田愛里寿を支えてみせる。
「行くぞぉ!」
「ゴーゴー!」
駆ける、歓声が沸き立つ、ライバルを追い抜いていく。さっきよりも足が速いのは、きっと気のせいなんかじゃない。
「勝! あと5歩走ったら超信地旋回!」
「わかった!」
男は、女の子にかっこいいところを見せたい生き物なんだ。
――サンキューくじ引き、アンカーは最高だぜ。
『速い! 速すぎる! あの女の子は知り合いか!? おっとヤボなことは聞かないぜ!』
サンキュー。
ゴールが目に見えた、もうライバルなんて確認できない。もしかしたら眼中にないだけなのかも。
そのとき、愛里寿がゴールへ指差した。
そして黒沢は、全力を振り絞ってビッググラウンドを駆け抜けた。
――あっという間に、ゴールラインを越えたと思う。
黄色い歓声が、学園艦全体に反響する。ホワイトチーム所属の司会者が、ひいき丸出しの称賛を浴びせてきた。ちらりと見渡してみれば、ビデオカメラを回していた父と母と目が合う。
そして腕の中の愛里寿と、視線が重なり合う。
自分と愛里寿は、なんだかもう、笑ってしまっていた。
□
午前のプログラムが終了して、休憩時間がやってきた。
運動をこなし、腹をすかせたサンダース生徒達は、こぞって親の居る観客席へと足を運んでいく。もちろん黒沢も例外ではない。
――ピクセル迷彩が刻まれた敷物の上に、黒沢の父と母が、そして島田千代と島田愛里寿が団らんを組んでいた。いくらなんでも動きが速すぎるが、これもニンジャ戦法の一つなのだろう。
よっこいせと、敷居の上に腰を下ろす。
「わざわざありがとうございます。お忙しい中、息子のために来てくださるなんて」
「いえ。他でもない勝君のご活躍を見ないわけにはいきません、愛里寿も望んだことです」
母と千代が頭を下げ合い、父もまた「ありがとうございます」と一礼する。
「勝君はサンダースに入学したのですね。やはり、戦車道委員になるために?」
「はい。それにサンダースは、グレートに楽しい学園艦ですから」
「わかります。この熱気、たまりませんね」
かたや戦車道委員、かたや島田流家元という組み合わせではあるが、
「お父様、最近の調子はどうです? 何かレパートリーは増えましたか?」
「最近はシチュー作りに凝っています。カレーとはまた違う味がたまりませんね」
「まあ! 今度、ぜひ食べさせてもらっても?」
「もちろんです! これは腕が鳴りますねえ」
傍から見れば、単なるご近所同士の付き合いにしか見えない。
しかして実際のところ、両親も千代もそうした「対等の」関係を望んでいる。何せ実の息子と娘が望んで交際しあっているから、双方ともめでたい気分に浸りたいのだ。
それに近頃の戦車道といえば、何かと忙しいし気疲れもする。だからこそ黒沢家と島田家は、安らぎのひと時を求めてよく笑いあい、よく料理をプレゼンし、スキあらば息子と娘を対面させようとする。
これが親なんだなあと、どこか遠い目をしながらでうさぎさんりんごを口にする。
「勝」
「うん?」
対面で座っている愛里寿が、弁当箱の中に入っているパイナップルを箸ですくう。
「すごく、かっこよかった」
「あ、あー……ありがとう」
えへへと、かゆくもない後頭部をぽりぽり掻く。
ビッググラウンドでは、サンダースが誇るチア部がダンスをお披露目している。男子達は、思い思いの歓喜を声に出していた。
「……王子様、だった、よ?」
そして愛里寿の言葉だけが、黒沢の耳にすっと入ってきた。
上目遣いでそんなことを言われてしまって、愛里寿から目をそらされて、だから考える前に体が動いて、
「あっ」
どうしていいかわからなかったから、愛里寿の頭をそっと撫でた。
何の品性も無い手つきだったけれども、愛里寿はじっとしたままで動かない。見てわかるぐらい、その顔は赤い。
「……愛里寿」
「……うん」
「今日はほんとうに、その、わざわざ見に来てくれてありがとう」
「う、ううん。わたしが望んで、あなたのもとへ来ただけだから」
愛里寿はうつむいたまま、けれども言いたいことを口にしている。
「……ベリーサンキュー、愛里寿。君のお陰で、借り物競走ではトップになれた。二人で掴んだ勝利だ」
「う、ううん。勝のバイタリティが溢れていたから、勝てたんだよ」
「いいや、愛里寿がいたからこその勝利だ。これだけは譲れない」
今もなお、ビッググラウンドではチア部が踊りに踊っている。賑やかなBGMが、男子達の熱気を掴み取っては離さない。
そして黒沢は、そっと、愛里寿の頭から手を離した。
愛里寿はうつむいたままで、けれども何か言いたそうな気配が感じ取れる。だから黒沢は待った、体を強張らせつつ。
「――勝」
「は、はい」
そして、愛里寿は言った。
「……やっぱり、大好き」
愛里寿は、そう言ってくれた。
「俺も、大好き」
だから黒沢も、言い返した。
――何回も口にしたけれど、やっぱり慣れなくて、いくら言っても言い足りない気がする。それが、とてつもなく心地良い。
「勝」
「愛里寿」
じっと見つめ続け、顔と顔とが知らずに寄り添っていって、
――気づいた。ここは部屋の中じゃなくて、サンダース・スポーツフェスティバルのど真ん中だ。
見渡す。
父と母が、千代が、黒沢と愛里寿の動向をガン見している。黒沢と愛里寿が「あ」と呟くと同時に、大人たちは定番の料理について談笑し始めた。何事もなかったかのように。
「……大人って、すごいね……」
「……うん……」
がっくりしてしまったけれど、愛里寿はくすりと笑っていた。黒沢も、つられるように苦笑い。
晴れて中学生に進級したが、黒沢と愛里寿の関係は何も変わってはいない。今日もいつも通りに、嬉し恥ずかしい交際を続けている。
―――
ほんとう、楽しかった。
―――
サンダース高等部に進級してはや半年。それなりの高校ライフと充実した夏休みの宿題に追われつつ、今日も今日とて実家のシチューを真顔で堪能していた。
母いわく「無理してリターンしなくてもいいのよ?」とのことだが、黒沢は毎回「いいっていいって」と返している。愛里寿と両親がいなくて何が人生だ。
――ところで「真顔」と書いたが、これには深い事情がある。それは、
『島田選手が、強豪ドイツを追い込んでいく! ドイツチーム、リーダーを護衛しようにも魔のバミューダに捕らわれているッ!』
女性アナウンサーが、熱気を隠さないままで戦車道世界大会を実況し続ける。黒沢一家も、スプーンだけは動かしてひたすらにテレビを凝視していた。
会場は海外の都市をまるまる一個、保険金がかけられているが故の贅沢なフィールドだ。会場席も大きいし、席もめちゃくちゃ埋まっている。特設モニターだってエグいくらい大きい。
『島田選手が走る! ここでぼうが……撃破! 速すぎるッ!』
センチュリオンが、ドイツ戦車を軽やかそうに打ち破っていく。しかして実際は、強烈な圧を背負いながらで強豪相手に一太刀食らわせているのだろう。
あの車内は、きっと熱い。
自分には、愛里寿の勝利を願うことしかできない。
『ついに追い詰めた! リーダーのハイデ選手、焦らずに照準を向けるッ!』
頼む――
その時、そのときだった。両肩から熱が生じたのは。
左右を見る。
父が、母が、黒沢の肩をしっかり掴んでいた。
そうだ。島田愛里寿は、ひとりなんかじゃない。
シュポッ
『―――決めたぁぁぁッ! リーダーを討ち取ったぁぁぁッ! タイムは5秒! 速すぎる! これが島田流かッ!』
そしてドイツチームは、瞬く間に総崩れとなった。
強いのは、何も愛里寿だけではない。アズミも、ルミも、メグミも、他の選手も、日本戦車道連盟から選抜されるほどのバッドアス揃いなのだ。得意のタイマンに引きずり込んでは、必殺の刃を急所に突き立てて、そうして何事もなかったかのように次のフィールドへと駆けていく。こんなことを、日本チームの全員がやってのけてしまう。
だから強豪にも勝てる。戦車道にまぐれなんてない。
『最後のパンターが、白旗を挙げましたッ! 勝者は――』
テレビの向こう側では、絶え間のない歓声が会場を震わせている。実況者も感情的な声で、日本チームの活躍を称賛し続けている。終始冷静だった解説は、涙まで流していた。
そして黒沢達は、沈黙を貫いていた。けれどもスプーンは少しも動かない、三人の視線はダイジェスト映像にずっと釘付けにされている。
そんな時間が、ばかみたいに過ぎていって――海の向こう側に居る、パンツァージャケットを着た愛里寿が、ヒーローインタビューのマイクを握りしめた。
『私達は、世界大会に向けてひたすらに練習を重ねてきました。だからこそ断言します、この勝利は奇跡でも何でもないと』
愛里寿が、後ろに控えているチームメイトを、傷だらけの戦車群を見渡す。
『戦車道にまぐれなし、それを体現してみせました。だからこそ、次もおごることなく、戦車道を歩み続けます』
『ありがとうございましたッ!』
はあ。
椅子の背もたれに、身を預ける。一区切りがついて、体から力が抜けていくのを感じた。
「……うれしいわ」
そっと、母を見る。
――言葉通りの顔を、してくれていた。
□
夕飯を済ませ、自室に戻り、ベッドめがけその身を投げ出す。
そうして体を大の字にして、部屋を白く照らすシーリングライトをぼうっと眺める。一呼吸、ついた。
――やったんだ、ほんとうに
無表情で、そう思う。
感慨深く、ため息をつく。
余韻に浸っていた思考が、瞬く間に動き始める。
愛里寿は、これからもっと忙しくなるだろう。何せ彼女は世界大会の覇者で、プロ最年少で、島田流の体現者なのだ。もはやアイドルといっても過言ではない。
だから、テレビ出演も多くなるはずだ。明日からは新聞のチェックをかかさず行わないと――何もしなくても、父が勝手に録画してくれるとは思うが。
寝転がる。
しばらくは会えないだろうな。
けれど、これでいい。
愛里寿が幸せなら、それでいい、
そのとき、部屋じゅうにトランスミュージックが鳴り響いた。
意識と体が同時に飛び上がる。枕元に放置中だった携帯へ手を伸ばし、「着信:島田愛里寿」の画面をすぐ確認して受信ボタンを押す。
「はい!」
『あ。愛里寿だけど、いま大丈夫かな?』
「へーきへーき。愛里寿こそ、大丈夫?」
まだ会場内に居るのだろう。戦車の走る音や、大人の話し声がよく聞こえてくる。
『うん、だいじょうぶ。私のことは気にしないで』
「そっか……ああ、見てた、しっかり見てたよ、愛里寿の大活躍を」
そのとき、確かに聞こえた。愛里寿からの、朗らかな声を。
「最高だった、グレートだった」
『あ……ありがとう』
そして、愛里寿はひと息ついて、
『ありがとう……ううん、ベリーサンキュー! 勝の言葉で、ぜんぶぜんぶ報われた』
声が出ない。
ただの自分の言葉を、この子はどれほど待ち望んでいてくれたのだろう――
首を、横に振るう。
卑屈になるな馬鹿野郎。だって、自分は、
「おめでとう、愛里寿。愛里寿の友達として、ボコ仲間として、恋人として、心の底から嬉しい、祝福する……えーと、その、パーフェクトだった!」
『やった、やった!』
ろくな言葉なんて思いつかない、盛り上がりすぎて蒸血しそうになる。携帯なんて両手で構えてしまって、じっとじっと愛里寿からの言葉を求めるばかり。
体の奥底まで、恋の病に浸っていた。
「ほんと、やったね、やった……」
『うん……』
「……うん」
『……あ、あの、勝』
「うん?」
そのとき、戦車が近くを横切っていった。それはあまりに大きくて、地響きすら伝わってくるような。
――否応のない間が、通り過ぎていって、
『明後日の土曜日、空いてる?』
「――え、マジで? 忙しくないの?」
『大丈夫、何とかする。お母さんもそうしなさいって言ってくれた』
笑いが出てしまった。母は強い。
「愛里寿」
『なに?』
「今度の土曜日は、全部俺がおごる!」
『――え? だ、だめ! こういうのはちゃんと平等に』
「愛里寿」
強く、名前を言った。
「愛里寿は最高に頑張った。だから俺は、そんな愛里寿のことを癒やしたい、気楽にさせたい!」
『ま、勝』
「……それにオトコは、かっこつけてナンボだからさ! 今回は俺にエスコートさせてくれ! HAHAHA!」
サンダース笑いをして、堅苦しい空気を払拭させる。
――戦い抜いた乙女には、休息が必要だ。甘いものを食べて心身を満たし、音楽を聴いて気分を最高にして、そしてボコショーを見届けてガックリしなければならないのだ。
それが、勝の願いだった。
そして愛里寿は、うん、と言って、
『勝』
「なに?」
『――あなたと会えて、ほんとうによかった』
――ああ。
「君と出会えたことが、本当に嬉しい。君のいないこれからなんて、考えられない」
『……私も』
いまは、このやりとりで十分だった。
キスは、土曜日までお預けだ。
『……じゃあ、そろそろ切るね』
「うん。愛里寿の出る番組、全部見るから」
『え、えへへ……がんばるね』
「オッケ」
『じゃあ土曜日に、絶対会おうね。何がなんでも来るからね』
「もちろん。お金は任せてくれ」
愛里寿が、くすりと笑い、
『楽しいPARTYになりそうだね』
「そこまで言う?」
『言う言う。――それじゃあ、またね。勝』
「またね、愛里寿」
愛里寿の声が、聞こえなくなった。
うんと、背筋を伸ばす。
念の為に、机の上にある財布を確認した。三万円、よし。
デートまであと50時間ちょいか、待ち遠しいな。
―――
土曜日――
ロクに眠れなかった前夜を乗り越えて、まずは軽く朝食を、次に鏡の前で髪のチェック、最後にサンダース仕込みのラフスタイルを決め込んで、念のために財布の中身を確認する。
六万円入っていた。
よし。
「父さん! 母さん!」
リビングへ駆け込む。母は食器を洗っていて、父は録画機をセットしている真っ最中。
「なあに?」
「どうした勝」
財布の口をぱっくり開けて、
「三万入れたでしょ! いいからそういうの!」
「……勝」
録画のセッティングを完了した父が、深刻そうな顔で黒沢に歩み寄ってくる。
――身長差はそれほどでもなくなってきたが、やはり父は大きい。
「お前、島田さんのことを祝福しようとしているんだろう?」
「う……まあ」
「あれ以来、島田さんは忙しくなっているだろう。そんな島田さんを支えられるのは、お前と千代さんしかいない」
頷く。
「全力で島田さんのことを幸せにしてこい、好きなことをしていけ」
頷く。
「それに、だ。カッコつけたいだろ? な?」
父が、あざとく笑った。
――やっぱり自分は、この人の血を継いでいる。
「いいか勝」
「はい!」
「今日ばかりは、島田さんに一円も金を使わせるな!」
「イエッサー!」
「幸せになれよ!」
「はいッ!」
母が、にこりと笑って、
「ゴーゴー! 振り返らないで、勝!」
「ラジャー! いってきますッ!」
あとはもう、外に出るだけだった。
愛里寿との待ち合わせ場所は、電車さえ使えばすぐにでも到着できる位置にある。「今回」は、アズミの手を煩わせる必要はない。
今日の天気は晴れ、夏休みらしくずいぶんと暑い、ところ狭しとセミが鳴いている。
今回のデートは、幸先が良さそうだ。
――イヤホンをつける。ダンスミュージックを流す。
早く愛里寿に会えるように、黒沢は全力で駅に向かう。
□
二駅ほど乗り越したあと、黒沢は改札口を通って駅前広場に出た。
はじめて見る駅前広場には、戦車のオブジェだとか、砲弾の銅像などがいくつか建っている。ずいぶんと精巧にできているからか、感嘆の声が軽く漏れた。
――さて。
待ち合わせ場所は、駅前広場にあるボコ銅像の前。少し見渡してみれば、ボコ銅像の後ろ姿をすぐにでも発見できた。
あそこの物陰に、愛里寿がいるのか、或いはまだ来ていないのか。
荒ぶる高揚感のせいで、ヘンに緊張してしまう。愛里寿とは何度もデートしているはずなのに、どうも慣れない。
いや、慣れないほうがいいや。
ボコ銅像まであと三歩、二歩、一歩愛里寿の顔がひょっこり、
「うわぁッ!」
「ひゃぁッ!」
本気で声が出た、驚いた。通行人からも注目された。
顔を真っ赤にしたままの、ヘッドホンをつけた愛里寿と、しばらくお見合い状態に陥る。
気が動転してしまっているのだろう、愛里寿の目と口がまん丸く開いていた。自分も、同じようなツラを晒していた。
――いかん。
最初に動いたのは、黒沢の方だった。カッコつけ精神が活を入れてくれたのだ。
「愛里寿」
「あ……う、うん、勝」
麦わら帽子をかぶった、水色のシフォンパンツを身にまとった愛里寿が、くすぐったそうに苦笑いする。
そんな私服姿の愛里寿に、黒沢は小さくうなずいて、
「似合ってる」
「あ、ありがとう。勝も、涼しげですごくいい」
「サンキュ。……この前はほんとう、頑張ったね」
「うん」
「本当に頑張った、グレートだった」
「うんっ」
黒沢は、心の底から笑う。
「だから今日は、楽しくデートしよう」
「……うん!」
そのやりとりだけで、もう十分だった。
互いに、いつまでも慣れない小さなキスを交わし合う。
目の前にいる、夏服を着た愛里寿が、黒沢の手をしっかり握り締めてくれた。
―――
ほんとう、最高だった。
―――
サンダース大学へ通学するようになって、はや一年。
黒沢は戦車道委員会を目指すべく、日々戦車道科(本当にある)の単位を取り続けている。父からは「望んだことなのかい?」と聞かれたが、自分は「愛里寿と両親が築いた戦車道を、これからも築き上げたい」とだけ。父と母と、そして愛里寿は喜んでくれた。
――そうして今日も大学の門をくぐり抜け、やや早足で教室へ向かう。これも一番前の席に腰掛けるためだ。
「うわ、結構埋まってんな」
一番前はもちろん、二番の列も三番の列もすべて先客に埋め尽くされていた。それは見慣れたクラスメートから、初めて見る男女まで、とにかく様々だ。
絶え間のないざわめきが、憶測が、耳によく入ってくる。まるで本番前のライブ会場だが、そうも外れていないたとえだと黒沢は思う。
――なぜなら、
「今日は特別講師として、島田愛里寿さんをお招きいただきました。皆様、拍手でお迎えください」
瞬間、弾け飛ぶような音が教室全体に反響した。
そりゃそうだよなと、五番列の席に座りながらで思う。そして、パンツァージャケットを着込んだ愛里寿が教室に入ってきた。
いよいよもって盛り上がる拍手、マイクを持って一礼しあう女性教師と愛里寿。
「おはようございます。戦車道を歩ませてもらっています、島田愛里寿です。今日はサンダースにお招きいただいて、心より感謝しています」
「こちらこそ、今を輝く島田さんを招待することが出来て、光栄です」
教師も愛里寿も、にこやかに微笑んでいる。
「それでは我がサンダース戦車道について、忌憚のないご意見をお聞かせください」
サンダース戦車道といえば、派手好きなサンダースの華であり、強豪とよくカテゴライズされている。
物資も豊富、戦車も沢山、人材も充実しているはずなのだが、今の今まで優勝を飾ったことがない。どうしても、惜しいどころどまりで負けてしまうのだ。
だからこそ、どうにかしなければとサンダースの教師陣が苦悩し――こうして、島田愛里寿を呼ぶに至ったわけである。
「はい。……ではその前に、サンダースそのものについての印象を述べさせてください」
愛里寿の言葉とともに、拍手がかき消える。愛里寿の声には、「そうもなる」魔力が確かに秘められているのだ。
教師も黙って、愛里寿の言葉に耳を傾ける。
「すこしサンダースを歩きましたが、とても賑やかで、施設も充実していて、学生の気運が高まりやすい場所だと感じました」
数人の生徒が、こくりと頷く。
「サンダースのキャッチフレーズは、『無限の可能性』。まさにその通りで、あらゆる学科が充実していると思います。スポーツ、文学、音楽……数え切れませんね」
先生が、にっこりと頷く。
「そして特に注目すべきは、やはりサンダース戦車道ですね」
本題に入り、僅かながらのざわめきが生じる。
「まず注目すべきは、使用する戦車がシャーマン一択という点です。これは良い選択だと思います、部品の共通化も図りやすいですからね――」
そうして愛里寿は、次から次へとサンダース戦車道について評価し始める。事前に調べておいたのだろう、その語り口にはよどみがない。
すごい、と思う。
デートの時とはまるで違う、と思う。
だからこそ日本チームの隊長なんだ、と実感する。
「……サンダース戦車道の欠点は、二つほどあります」
教室から、音が消えた。
しかし愛里寿は無表情で、続きを述べる。
「狙撃手が足りないと、私は踏んでいます」
スクリーンに、ファイアフライの画像が映し出される。
「豊富なチームワーク、物量で攻めることは、戦車道の……王道ではありますが」
一瞬、愛里寿の言葉が詰まった。
特に誰も気にしていないようだが、黒沢は「ああ」と思う。西住流のスローガンを肯定してしまうからだろう。
ちなみに自分は島田流派だ。
「遠くから撃つことができれば、それだけ相手の数を減らせる機会に恵まれます。優勝を望む場合は、遠距離攻撃を視野にいれてみてはいかがでしょうか」
反論はない。戦車道履修者達は、その通りだと首を縦に振った。
ほんとう、よく見てるなと思う。サンダースの利点はもちろん、弱点まで知り尽くしているなんて。
「次ですが、これはサンダース戦車道の流儀に関わることは承知して、」
そのとき、愛里寿と目が合った。気がした。
固まる愛里寿を前にして、客が疑問の声を漏らし始める。顔を見合わせる者もいた。教師もどうしていいかわからず、まばたきをするだけ。
「――失礼しました」
気のせい、だよな。
「サンダースは、フェアプレイを重んじる傾向があります。これこそサンダース戦車道の基盤であり、戦車道のもっとも大切なことを体現していると、私はそう考えているつもりです」
恐らく、言いづらいことを口にするのだろう。教室の空気も、どこか変化してきた気がする。
けれど愛里寿は、あくまで無表情を貫いたままで言うのだ。
「ですがそのフェアプレイが、優勝を何度も逃してしまっている最大の要因です。道に沿っている限り、豊富な火力で相手を押し潰すこともまた、戦車道なのです」
その通りだ、そう思う。
サンダースは、とにかく不必要な攻撃というものを嫌う傾向にある。時にはタイマン上等だったり、時には相手に数に合わせたりと、良くも悪くも清廉潔白なのだ。
それはきっと、校風も影響しているのだろう。「明るく元気よく、笑って楽しめたくさん泣け」、どれもが共感できるフレーズばかりだ。
だからこそ、サンダースはその逆をとことん嫌う。共感できなければ自分が、誰かが傷つくだけ、そういった意識が本当に根強い。
「サンダース戦車道は、物資や士気、そして履修者がとても充実しています。これは努力の賜物であり、決してタダでは実現できない事実なのです」
数人の履修者が、うつむく。
「長い道のりの末に得られた、圧倒的な力とは、決して誰にも否定ができないものです。それを振りかざすことを恐れないでください、これがサンダースの強さなのだと誇ってください」
そして愛里寿は、この場にいる全員の目を見た。
「皆さんは、正々堂々を選びますか? 名誉ある優勝を勝ち取りますか? そのどちらも、戦車道は否定しません」
スクリーンに、これまでの愛里寿の言葉が表示される。
フェアプレイを望むか、サンダースの強さを選択するか。
「私からの意見は、これで以上です。何か質問があれば、お答えします」
音が出るほど、あちこちから手が上がった。
そりゃあそうなるよなと、黒沢は無表情で思う。
――ノートを広げ、ペンを取り出す。
愛里寿から教えてもらったことを、まとめることにしよう。
「それでは……ああ、戦車隊副隊長のミラさんですね。どうぞ」
「覚えていてくださり、光栄です。では、一つお聞きたいのですが……」
□
「いやー、愛里寿さん美人だったなー!」
「だよね」
昼休みに入って、いつもの友人といつものデカい食堂でいつものボリューミー溢れるランチを口にしていく。量が多すぎてカロリーが心配になってくるが、今のところ腹は出ていない。
「ああ、可愛かったなあ愛里寿さん。年下なのに、すげえ魅力あるよ」
「だなあ」
「喋り方も知性も俺よかしっかりしてるし、マジクールビューティー。モテるだろうなー」
「そだね」
「あの人とお付き合いできたら、きっと毎日がハッピーだろうなあ」
「お前ガールフレンドいるだろ」
「おう、だから毎日幸せだ!」
こいつ。
「にしても黒沢」
「うん?」
「なんか、さっきからソルトな対応だなー。もしかして、興味がない系?」
「……んや、そういうわけじゃないよ」
気遣ってくれる友人に対し、黒沢はなるだけの無表情を保たせる。ここでボロを吐いて、無益な騒ぎは起こしたくはない。
「そか。……にしても、本当にズバズバ答えていったなー、マジでジーニアスなんだなあの人」
「さすが、島田流継承者だよね」
「なー、ほんとなー」
友人が、容赦のないペースでフライドポテトをかっ食らっていく。
最近になって体重を気にし始めたが、本人曰く「もうヘルシーには戻れねえ!」とのことだ。どうかなるだけ長生きして欲しい。
「しかしまあ、ほんとまあ、島田さんはすげえよな」
「ん」
「俺より年下なのに、島田流とか世界選手とかになってるんだぜ? 俺にゃムリムリ、絶対投げてるね」
「……だよな、やっぱそう思うよな」
「黒沢はどうだ」
「無理」
友人が、だよなーとフライドポテトを完食する。
世界選手である愛里寿は、普段は食事内容すらも管理しているのだろうか。思いつきでカレーやシチューすらも口に出来ないのかもしれない。
戦車道とは武芸で、スポーツだ。十分にありえる話だと思う。
少なくとも、自分には歩めそうにもない道だ。
「――でも、まあ」
「うん?」
「そんな彼女を、フォローぐらいはしたいね。戦車道委員として」
「……ほお」
「んだよ」
「お前、意外とヒートなところがあるのな」
口に出したかったことを口にしたのだ。こうも言われはする。
なかなか悪くない気分になりながら、黒沢はハンバーグの一切れを何度も何度も味わっていって、
ポケットの中の携帯が、震えた。
食器を皿の上に置いて、メールかなと電源を入れてみれば、
「――すまん。今日は早く帰るわ」
「ん? おお、別にいいけど」
「サンキュ、今度一緒に遊ぼうな。あとガールフレンドは大切にするんだぞ」
「お、かっけー。いきなりどした? いいことでもあったか?」
素早くメールの返信を行い、何事もなかったかのように携帯をポケットにしまい込む。
そして、緩みきった口元を隠しもしないで、
「まあな」
□
「ハロー」
「はろー」
サンダース大学の出入り口付近で、黒沢と愛里寿が手で挨拶を交わし合う。
これだけならいつものやり取りで済まされるのだが、今回の愛里寿は青いキャップをかぶり、迷彩がかったシャツを纏い、デニムパンツをはいてはポニーテールスタイルで髪をまとめあげ、仕上げにグラサンを着けるという変装スタイルを決め込んでいた。
「似合うなー」
「そ、そうかなあ?」
愛里寿が、くすぐったそうに頬をかく。
「ほんとう、スポーティーっぽい。あれかな、背が伸びたからそう見えるのかな」
「そうかも……ああ、やっぱり背って伸びるものなんだね」
「ね」
時おり通行人から目を向けられるが、すぐに素通りされる。恐らく、気づかれていないのだろう。
一般的な愛里寿イメージはといえば、大抵はサイドテールにパンツァージャケットの組み合わせだ。特別講師を務めた時も、イメージカラーで通していた。
だからこそ、唐突にイメージカラーを引っこ抜かれてしまえば、有名人であろうと誰が誰かがわからなくなってしまう。特に髪型の変更は、効果がとても大きい。
「ここじゃ目立つから、とりあえず歩こう」
「うん」
愛里寿が黒沢の隣に立って、そのまま指を絡め取る。こうなったらもう離れない、離すつもりもない。
顔を見やり、上機嫌に笑う。愛里寿も、サングラス越しから微笑んでくれた。
「――勝」
「うん?」
どこまでも広いサンダースを、あてもなく歩んでいく。
今は夏だからか、放課後になっても空はまだ青かった。
「今日、びっくりしちゃった。教室に勝がいるなんて」
「まあ、戦車道科だしね」
「そっか……ほんとうに、戦車道委員を目指しているんだね」
「うん。愛里寿が築き上げてくれた、日本戦車道を支えていきたい」
愛里寿から、手をぎゅっとされる。
「……そう、なんだ」
「うん。もっと言うなら島田流の、愛里寿の力になりたい」
「……ベリーサンキュー、勝」
愛里寿が、そっとうつむく。そんな愛里寿を見て、黒沢は小さく頷いた。
「……そ、そういえば」
「ん?」
愛里寿は、そっと視線を向けてきて、
「どうだった、かな? 何度か特別講師をしたことは、あるんだけれど……分かりづらかったとか、あった?」
「ないない」
即答するほかなかった。
「すごくわかりやすかったし、興味深かった。なんというか、分析力が半端ないよね……」
「う、うん。調査は、戦車道の基本だから」
「グレート」
真正面から褒められて、愛里寿がまたまたうつむいてしまった。
教室を賑わせた特別講師は、今はもうどこにもいない。ここに居るのは、全てをやり遂げた二十歳のガールフレンドだ。
「……あ」
「うん?」
そのとき、愛里寿が首を横に曲げた。
釣られるがまま、愛里寿と同じものを目にして、
「……ジャンクフード店、か」
何てことはない。サンダースでは、コンビニよりも目につく施設だ。
サンダースの学生連中は、良くも悪くもとにかく動き回る。だから消費カロリーも激しいし、腹だってよく鳴らすのだ。
そうした面々の強い味方といえば、ジャンクフード以外に他ならない。量は多いし安いしウマいしエネルギッシュだしと、まさにTHE若者向けといえよう。
そんな事情があって、サンダースにおけるジャンクフード需要は極めて高い。現在は三支店ほどがシノギを削り合っているが、どこも拮抗していて未だ決着がついていないようだ。
――摂取したカロリーはどうするのかって? 食った分だけ運動して、かき消してしまえばいい。
そして愛里寿は、そのジャンクフード店をじっと見つめていた。明らかに、食べたそうな空気を発しながら。
だから黒沢は、真っ先にこう聞いたのだ。
「食べる?」
「え、えっと……その……」
「もしかして、アレルギーとか?」
「う、ううん! トマトとチーズが苦手なだけで、その……」
「うん」
少し考える。
アレルギーはない、食欲はある、けれど食べられない事情持ち。
ほんの少し考えて――アタマの電球が光った。
「もしかして、食事制限?」
「えっ!? す、すごい、どうしてわかったの……?」
「あ、あー……ほら、プロスポーツ選手って、そういうのが多いじゃない?」
「……うん」
なるほど、やっぱり戦車道も例外じゃなかったわけだ。
戦車道は体力勝負的な面もあるだろうから、栄養バランスはさぞ重要視されていることだろう。特に装填手は、食事面に関してはめちゃくちゃ厳しそうではある。
「あ、でも、一応、週末は自由にものを食べているんだよ」
「そうなんだ」
「うん。平日は、バランスに気を遣ってるけどね」
愛里寿が、気まずそうに苦笑する。
「ごめんね。じゃあ、そろそろ行こう?」
「……ふ――――む」
愛里寿の顔を、じいっと見つめる。愛里寿は首をかしげて、「なに?」。
次に、ジャンクフード店をじっくり眺める。窓越しからは、フライドポテトをつまみながらで談笑しあっているお嬢様っぽい女性と、彼氏っぽい男性の姿が見受けられた。
――よし。
「愛里寿」
「なに?」
「ここで待ってて」
「う、うん」
長考の末に、黒沢はついにジャンクフード店の自動ドアをくぐり抜けていった。だいたい15回目くらいの入店である。
――そうして数分後、
「アイシャルリターン」
「おかえりなさい。お持ち帰りにしたの?」
「そう、お持ち帰り」
黒沢は、ポテトとシェイク入りの袋を右手左手にぶら下げていた。
愛里寿はじっと眺めて、「!?」な顔つきになる。ポテトとシェイク入りの袋が、黒沢の右手左手にぶら下がっていたから。
「え、え!? そ、それって……」
「え? あ、シット……二人分食べられるかなーと思ったら、急に腹が……」
右手の袋を、愛里寿めがけさりげなく差し出す。
「よかったら……俺が勝手に買ったジャンクフードを食ってくれ。俺が買ったモノだから、罪はぜんぶ俺が背負う」
「え、いや、その」
「せっかくサンダースまで来たんだ、ジャンクフードくらい食べてもバチは当たらないって」
「で、でも……いいの、かな?」
黒沢は、口元をあざとく曲げて、
「愛里寿はさ、さっき特別講師を務めたよね?」
「う、うん」
「たくさん喋って、たくさんものを考えたよね?」
愛里寿が、こくりと頷く。
「だからさ、その分だけエネルギーを燃やしたと思うんだよ。考えるのってマジで疲れるからね」
「え――あ、う……」
意図を読んでくれたのだろう。反論しようとした愛里寿は、けれどもやっぱり一袋を受け取ってくれた。
「……いいにおい」
「でしょ? んじゃ、あそこのベンチで食べよっか」
「……うん!」
歩いてすぐそこなのに、愛里寿は黒沢の指を再び絡め取ってしまった。
それがとてもくすぐったくて、うれしくて、黒沢の口元なんて緩みっぱなし。
「――さてさて」
歩道に設けられたベンチに、二人して腰かける。そうして早速とばかりに、袋の口を開けてみせた。
ほのかに漂っていたフライドポテトの匂いが、鼻腔を刺激し食欲を促し始める。ストローの刺さったバニラシェイクを見て、なんだか喉まで乾いてきた。
「じゃ、いっただっき、」
「勝」
なに?
黒沢は、目で返事をして――愛里寿の顔が、目一杯に飛び込んできた。あまりに一瞬で、けれども唇が染み付くように熱くなっていって、愛里寿の両肩をいつの間にか掴んでいて、
――いつしかそっと、愛里寿から離れる。
愛里寿はサングラスごしから、名残惜しそうに笑ってくれていた。
「いつも、ありがとう。大好き」
よかった。
「俺も大好きだよ、愛里寿」
また、愛里寿を支えることができて。
―――
ほんとう、満たされた。
―――
今年の冬のことは、ぜったいに忘れない。
だって、だって――
「試験に合格したんだな。本当に、本当におめでとう勝! お前は黒沢家一番の男だッ!」
「最高よ! スパークリングよッ! 戦車道委員として……親として、あなたを誇りに思うッ!」
「サンキューベリマッチッ!」
実家のマンションで、黒沢家が遠慮なく叫び合った。
大学へ通って四年、ついに日本戦車道連盟への切符を手にすることができた。本当に本当に長くて、あっという間だったと思う。
そう思うと、なんだか力が抜けてきた。ルンタッタしている父と母を横目に、黒沢は死んだようにソファへ腰掛ける。
――あ、そうだ。
ポケットから携帯を抜き取り、愛里寿へ合格メールを送信する。近ごろはCMだの撮影だので忙しいから、うかつに電話もかけられないのだ。
口元が、歪む。
だからといって、不満を抱いているわけではない。むしろ時の人になってくれて嬉しいと、心から思っている。
最近は島田流人気も高まっているようで、お硬い番組からバラエティ番組にまで顔を出すことが多くなった。最初はたどたどしい喋り方だったが、飲み込みの早い天才乙女はすぐにでも芸能界の勝手を掴み、いつしか天才戦車道アイドルと呼ばれるようになった。
アイドルの称号を否定していないあたり、本気で日本戦車道を、島田流を盛り上げようとしているのだろう。ほんとう、グレートだ。
そのとき、部屋じゅうにトランスミュージックが鳴り響いた。
意識をぶっ叩かれ、わたわたと画面を確認する。着信:島田愛里、
「はいっ」
『勝! 合格おめでとう!』
耳元でシャウトされたものだから、うひーと苦笑いしてしまう。
「……まあ、その、本当に合格しました。これで日本戦車道を、愛里寿を支えられるよ」
『やった、本当にやってくれたんだね。うれしい、うれしいよっ』
「ありがとう。これも愛里寿が、戦車道について色々教えてくれたからだ」
ちらりと、父と母を見る。空気を読んで沈黙を保っているが、その表情はなまら明るい。
もちろん親からも、たくさんの事を教えてもらった。感謝してもしきれない。
『……わたしは、ただ手を貸しただけだよ』
「いや、二人で掴み取った勝利だ」
『……そっか』
目に見える。愛里寿の笑顔が。
『あ、ごめんなさい。そろそろ番組の収録があって』
「あ、そうなの? 悪いね、邪魔した」
『ううん! 私も試験の結果は気になってたから……うん、今日ははきはき喋られる気がするっ』
「オッケ! 録画しとくよ!」
『が、がんばるねっ』
かわいい。
「愛里寿も頑張って。それじゃあ、また」
『うん。……本当におめでとう、愛してる』
「愛してる」
切る。
――親の方を見てみれば、既にどこかの部屋へ退散済みだった。大人は貫禄が違う。
電話も終わったことだし、お知らせしないと。ソファから、のろのろと立ち上がって、
部屋じゅうにトランスミュージッ、
まさかと思い、携帯の画面を確認する。瞬間、盛大な「ホワイ!?」が吐き出た。
ああはやくしないと、受信ボタンを押して耳元に携帯を押し付ける。通話したばかりで熱い――
「もしもし?」
『こんばんは勝君! 戦車道連盟の試験、合格したのよね!?』
「あ、しましたしました!」
『愛里寿からメールが届いたの! もうね、もう、仕事が手につかなくなるぐらい喜んじゃったッ!』
「ありがとうございます!」
『これから仕事だけどね……』
「察します」
『……あ、ところで勝君』
「はい」
『そろそろ、冬休みよね?』
「はい」
『よかったら、家に来てみない? まだ、訪れたことがなかったでしょう?』
「ええ、」
そういえば、何だかんだで訪れる機会が、
「え?」
□
「うん」
そんなわけで、島田家の門前にまでトラベルしたのである。時刻は昼過ぎ、冬にしては珍しく温かい。
あとはピンポンを押すだけなのだが、こと島田家に限ってはそれすらも難しい。ほんとうに難しい。
――だって、デカいんだぜ?
一見すると何らかの記念館に見えなくもないが、実際は「単なる」島田さんの家だ。だからこそ「差」を感じざるを得ないし、それに伴って場違い感も生じてくる。島田家と黒沢家の関係は確かに良好だが、やっぱりリッチは恐ろしいのだった。
メールを見る。『お着替えを持ってきてください、今晩はあなたのお祝いをします! 絶対に来てね! カモン!(^o^)』
――ここの主から、たしかに招待状は貰っている。
「……俺は愛里寿の恋人だぞっ」
つまりは、いつかはここで暮らすことになるんだ。
だから意を決して、ピンポンを人差し指で押す。
ぴーんぽーん……
あ、庶民的な音だ。
あ、ドアがすぐに開いた。
あ、愛里寿と千代だ。
「勝―ッ!」
愛里寿が駆け寄ってきて、同時に門が内側へと開き出す。
やっぱりここは、豪邸だ。すごい。
「勝! 来てくれたんだ!」
「ああ、来た来た。……やー、すごい場所だよね、ここは」
「うん……やっぱり大きいよね、ここ」
愛里寿とともに、洋館を見上げる。
窓なんて無数にあるし、大きな庭だってところどころに生い茂っている。部屋はどれくらいあるのだろう、開かずの部屋とかはあるのかな。
「勝君」
千代から声をかけられる。
「ここはあなたの家だから、気楽にくつろいでね」
はあ、
「は?」
「え?」
千代は、笑顔で首をかしげ、
「いつか、ここで住むのでしょう?」
かーっ。
「……ずっと、一緒にいてくれるよね?」
愛里寿から、弱々しい声が漏れる。
「わたしは、ずっと一緒にいたい」
愛里寿から、強いことを言われた。
「――わかりました。ここを、第二のマイホームと思います」
千代が拍手をする、愛里寿がやったやったと連呼した。
本当、まったく、愛里寿と出会ってから楽しいことばかりだ。そう思う。
□
それからは、本当にのんべんだらりと過ごしたと思う。
そりゃあ最初こそは、赤いカーペットだのシャンデリアだのに圧倒はされた。テレビでかいなーと目を張った。
けれども千代は、そんな自分に温かい緑茶を出してくれた。更に新聞紙を手渡されては「何か見る?」とテレビ欄を見せてくれて――赤い枠でマーキングされた番組を、笑って指差した。午後七時までお預けなのが非常に残念だ。
そうして緑茶を飲み終えた後は、愛里寿の提案で家デートをすることになった。そうと決まるや、千代は「ごゆっくりー」とともに部屋へ閉じこもり、おまけに鍵までかけてしまった。ほんとう、ニンジャのように行動が速い人だと思う。
「じゃあ、案内するね」
「うん」
そうして、指と指とが自然と絡み合う。恥じらいは覚えるが躊躇はもう無い。
やがて、黒沢と愛里寿の足が動き出す。これから、念願の家デートがはじまる。
――洋館を歩いて、かれこれ一時間半ほどは経過したと思う。
見かけたものはといえば、先ずは空き部屋。顔を真っ赤にした愛里寿から「すぐにでも暮らせるよ?」と言われたが、テンパった黒沢は「まあまあまあ」と愛里寿を落ち着かせる。
次に、資料室。本棚がところ狭しと並んでいて、本の背中にはどれもこれも戦車の二文字が記されている。ふと「全部読んだ?」と愛里寿に質問してみたが、愛里寿は「うん」と頷いた。なんてことのない顔で。
そうして色々な部屋を回ってみたが、どこも清掃が行き届いているのがスゴイと思った。島田千代は本当に抜かりがないというか、生真面目な人なんだなあと実感したものだ。
試しに窓枠を指で擦ってみたが、ホコリは一切なし。それを見ていた愛里寿が、「きれいでしょ?」と微笑した。
だから黒沢も、「綺麗だ」と一言返した。愛里寿の目を見つめながら、
――あ、
互いに顔を真っ赤にしながら、次の部屋へと黙って歩んでいく。もちろん手と手は離さない。
探索も、そろそろ終わりを迎えようとしていた。
一階も二階も、そして地下も覗き見させてもらって、黒沢はいい感じに疲れていた。それは愛里寿も同じらしく、うんと背筋を伸ばしていた。
「どうする? ちょっと、昼寝でもする?」
「……待って」
「うん?」
ふと、愛里寿から目を逸らされて、
「……まだ、わたしの部屋を、見てもらってない」
疲れなんてまたたく間にぶっ飛んだ。
そういえば、愛里寿の部屋を見たことは一度もない。小さい頃に予定を立ててはいたが、転勤でお流れになってそれきりだった。
「……いいの?」
「いい」
愛里寿が、そっと、けれどもはっきりと黒沢を見て、
「勝だから、いいの」
――そこまで、言われてしまったら。
「わかった」
力強く、頷く。
「愛里寿の部屋を、見せて欲しい」
「うん」
――そうして難なく、本当にあっさりと、愛里寿の部屋の前に着いた。
「愛里寿の部屋」と書かれたボコ状のドアプレートが、よけいに真実味を物語る。
「ど、どうぞ」
「あ、はい」
愛里寿から、手を離す。
そうしてドアノブを握り締め、ひと呼吸して、やがて繊細な手つきでドアを開けていく。
――そして、愛里寿の部屋が目いっぱいに広がった。
まずは新生ボコミュージアムのポスターが、視界に飛び込んでくる。次に壁掛け棚に飾られた、色とりどりのボココレクションに声が漏れた。そしてベッドの上には、愛里寿お気に入りのヘッドホンがちょこんと置かれている。
愛里寿を見る。にこりと笑ってくれた。
よし。
笑顔を見て、ようやく決意の火が灯った。
黒沢はおっかなびっくりの足取りで、赤色のカーペットの上を歩んでいく。愛里寿は無言で、けれども後ろから黒沢についてきている。
「――お」
学習机を目の当たりにした瞬間、思わず声が出た。
ファイティングポーズをとっているボコのぬいぐるみが、机の隅を陣取っていたから。
三枚ほどの新作CDが、机の上に重ねてあったから。
「愛里寿」
「うん」
「……懐かしいな」
「うん」
そっと、ボコに手を伸ばす。愛里寿は、「いいよ」と言ってくれた。
――レアボコを、そっと、つまみとる。
「お前のおかげで、俺は」
涙が、溢れ出てきそうになる。まったく、なにもかもがほんとうに懐かしくて愛おしくてたまらない。
そのとき、体が強く火照りだした。
どうしたんだろう、最初はそう思った。
「愛里寿」
「うん」
後ろから、愛里寿にしっかりと抱きしめられていた。
ボコをひと撫でして、それを机の上に置いて、愛里寿の小さな手に自分の手のひらを添えて、
「離さないで、愛里寿」
「離さないよ、ずっとずっと」
「もっと愛里寿を支えられるように、がんばるから」
「――もう、十分だよ」
しばらくは、そのままでいた。ずっと、このままでいたかった。
でも、それはだめだ。だって午後七時が訪れたら、愛里寿と千代とともに、愛里寿が出演する番組を見なければいけないから。
□
「いただきます」
「めしあがれ」
冬空もすっかり暗くなった頃、愛里寿の携帯に『夕飯ですよー』のメールが送信されてきた。電話でないあたり流石というか、何だか恥ずかしいというか。
――そんないきさつがあって、黒沢と愛里寿と千代はリビングに集い、テーブルを囲んで夕飯を味わい始める。今日のメニューはシチューにハンバーグ、そしてコーンスープだ。
そして黒沢は、やや遠慮がちにスプーンを動かす。隣に座る愛里寿から、正面に居る千代からじいっと見つめられる。いかにも「さあ感想を」と言いたげな微笑をされて、緊張感が湧いて出た。
ひと呼吸する。
スプーンでシチューを掬い、慎重に口まで運んでいく。
「うまい」
思わず言葉が出た。シチュー特有の滲み出る甘みと、熱みがかった香ばしさが、黒沢の食欲をまたたく間に促していく。感覚が温かさで満たされる。
スプーンの動きなんて、もう止めようがなかった。
「満足いただけたようね」
「はい。最高です」
「あなたのお父さん仕込みなのよ」
「へえ、父さんが……やるな」
千代がくすりと笑い、
「もっと腕を上げて、いつかはおふくろの味として仕上げてみせるわね」
「そうでん゛ッ!」
むせた。愛里寿が背中をさすってくれた。
「お、おふくろって……」
「あら。将来はここで暮らしてくれるのでしょう?」
千代がシチューをはむはむしながら、にこにこと言う。
――それはそうなのだが、頷くことすら何だか恥ずかしい。だから無言になって、カップに入ったコーンスープを少しずつ飲んでいく。
熱かった。
「あら、そろそろ時間ね」
午後六時五十九分。千代はリモコンを手にとり、テレビの電源を点ける。
一瞬だけニュース番組が映し出されたあと、間もなく戦車道バラエティ番組「あなたの隣の戦車道」が放送された。
千代がにこりと微笑む、黒沢が「きたきた」と呟く、愛里寿は「うう」と照れる。テレビには女性司会者と、その隣に座るパンツァージャケット姿の愛里寿、拍手を賑やかに重ねる観客たちの姿が映し出されていた。
そして画面右上に、「世界大会覇者 島田愛里寿。その人の顔がいま語られます!」のテロップが表示される。プライベートについて、あれこれと質問する流れになるのだろう。
隣に座る、愛里寿を見る。
愛里寿がちらりと、黒沢に目配せしていた。頬を赤く染めながら。
『今晩は。この番組は戦車道に関わる人に対して、戦車道に対する意気込み、戦車道への意見、そしてこの番組でしか聞けないマル秘情報などを語っていただく内容となっています』
日本戦車道が世界大会で優勝したことにより、戦車道関連の番組に対する需要は今も今も上がっている。
もちろん、戦車道の熱狂に飲まれた者もいるだろう。純粋な戦車道ファンも沢山視聴しているだろう。しかしやはり、最大の理由は、
『今日はゲストなんと! 今を輝く島田流の後継者で、飛び級までした天才で、最年少でプロ入りを果たして、日本戦車道を優勝にまで導いてくれた日本チームの隊長、島田愛里寿さんです!』
選手その人を見たいから、それに尽きる。
それにしても、なんだかものすごい情報量が通り過ぎていった。それを噛まずに言える司会者はさすがだと思う。
テレビの向こう側にいる愛里寿が、無言で一礼する。『日本チーム隊長 島田流後継者 搭乗戦車:センチュリオン 島田愛里寿(24)』というテロップが表示された。
盛大な拍手がまき起こる、黄色い声も飛ぶ、司会者の表情もかなりウキウキだ。しかしそれでも、愛里寿はごくごく冷静な無表情を崩さない。
『お忙しい中、ようこそおいでくださいました。今日はよろしくお願いいたします』
『はい。こちらこそ、この人気番組に出ることが出来て光栄です』
司会者が、嬉しそうにうなずき返す。
『それでは愛里寿さん。早速ではありますが、いまの日本戦車道についてどう思っていますか?』
『はい。いまの日本戦車道は、とても優れた構造になっていると思います』
『どういうことですか?』
『ひと昔の戦車道は、勝つところだけが勝つ、という展開が多かったのです。それ故に盛り上がりに欠けた印象もありましたし、何より初心者のモチベーションが上がりづらかった』
司会者が、うんうんと頷く。
『勝ち負けが固定化しやすいのも、やはり戦車の質こそが第一の理由です。いくら選手が優れていても、戦車の性能が、数が揃っていなければ不利になるほかありません。これは揺るぎない事実です』
『そうですね。いくら磨かれた選手といえども、やはり器である戦車にどうしても左右されてしまいますからね……せっかくの腕を活かしきれない、そういったことも多々あったでしょう』』
『はい。そして戦車道とは、大量の資金がどうしてもかかってしまいます。だからこそチーム戦力の増強が難しく、特に戦車道履修者のモチベーション維持がとても大変でした』
はっきり言うんだな、と思う。
ほんとうに戦車道を見ているんだな、と思う。
『だからこそ、世界大会出場への動きは、とても良い流れでした。戦車道履修者を増やすために、日本全体の強化を図るために、いくつかの戦車を提供する展開になりましたから』
提供される戦車はシャーマン、整備性も性能にもクセがない一品だ。
サンダースの方も、「競い合える相手が増える? ワンダホー!」と歓迎の姿勢を示している。
『これからの日本戦車道は、よくなっていくと思います。足場さえ整っていれば、とりあえずやってみよう、という動機が生じやすいものですから』
『なるほど……ありがとうございます。流石島田さん、鋭い意見が多かったですね』
千代が笑顔で、「素晴らしいわ、愛里寿」と感想を口にした。
愛里寿は微笑しながら、「いえ」とだけ。
『それでは次は、戦車道の意気込みについてお願いします』
『はい』
テレビの向こう側にいる愛里寿が、こくりと頷いた。
『私は産まれた時から、島田流を背負っていくと、戦車道を歩んでいくと、心から誓っていました』
赤ん坊だった頃の愛里寿が、画面いっぱいに映し出される。客席から、「かわいい」の声が漏れた。
『それは長く、そして険しい道でした。決して簡単なことではありませんでしたが、辞めようと思った事は一度もありません』
画面が切り替わる。
小学生になった愛里寿が、髪をなびかせながらでシャーマンを駆っている。どこかの高校チームと、試合を行っているらしかった。
『私は島田流が好きです、島田流のスタイルも体に馴染んでくれました』
そして愛里寿のシャーマンは、ニ両の戦車をあの手この手で撃破していく。敵戦車と対峙することもあったが、純粋な判断速度の差で撃ち勝った。
――島田チームの勝利、この文字が画面に刻まれる。
『島田流を体現するたびに、私の母は喜んでくれました。それが、大いなる力になったことは言うまでもありません』
千代の写真が表示される。『島田千代 島田流家元。現在は世界大会の委員としても活躍中』
『そして私は飛び級し、大学を通うことになりました。確かに環境は大きく変わりましたが、チームの皆は、私の言葉をよく聞いてくれました』
アズミ、ルミ、メグミの顔写真が表示される。映し出される場面は、もちろんバミューダアタックだ。
三人とも世界大会に出場していて、今もなお愛里寿の副官を立派に務めている。
『母がいてくれたからこそ、仲間たちが隣に居てくれたからこそ、私はいまも健全な精神を宿せています。島田流への意思も、変わっていません』
そうか、それはよかった。
司会者も、微笑みながらで『なるほど』と応える。
『――ですが』
司会者が、真顔になる。
『私も人間です。時には疲れたり、時には寂しいと思うこともありました。私は口下手ですから、友達も少なかったですし』
テレビの向こう側にいる愛里寿が、無表情な呼吸を置いた。
『そういう時は、ボコミュージアムへ行って気分転換をしていました。負けても何度も立ち上がるその姿に、私は憧れを覚えていました』
島田流がスポンサーを務める、新生ボコミュージアムの資料映像が画面いっぱいに表示された。
世界大会で島田流が大活躍したからか、客の数はぐんぐん伸びている。お陰様で、アトラクションへ乗るのに数十分ほどかかるのはザラだ。
『ボコを応援することこそが、私の楽しみであり趣味でもありました。精一杯叫ぶと、良い気分転換になるんです』
ワイプに表示されている司会者が、しみじみと頷く。何かあったんだろうなと黒沢は察した。
ボコミュージアムの資料映像がうっすら消えていって、再びスタジオが映し出される。
『そうすることで私は満足だと、満たされていると、そう思っていた時期がありました』
『と、いいますと?』
司会者が、興味津々そうに質問する。
黒沢は少し考えて、「あ」と声が出て、
『その……ですね、その……』
愛里寿はやはり無表情だった。けれども言葉に、ためらいが混ざり始める。
司会者が待つ、黒沢も黙る、千代はシチューを味わっている。
『――ボコミュージアムで、わたしは、大切な人と出会えたんです』
スタジオがどよめき始める。黒沢の身と心が強ばる。司会者がすかさず「と、いうと?」。
『その人は、私よりひとつ下の男の子でした』
「この手」の雰囲気を感じ取った観客が、きゃあきゃあと盛り上がり始めた。
『その人は、私と一緒にボコを応援してくれました。ファンタスティックな技すらも、リクエストしてくれました』
サンダースじみた言動に、司会者が目を丸くする。
『ショーを見た後で、私とその人は、このボコのぬいぐるみを買おうと手を伸ばしたんです』
声が出そうになった。
愛里寿の胸ポケットから、ファイティングポーズをとった激レアボコがひょこっと取り出されたから。
『私よりもその人のほうが、手は速かったのに……けれどその人は、私にこのボコを譲ってくれたんです』
司会者が、まあまあと頬に手を当てる。観客が、きゃあきゃあと声を上げる。
『いつしかその人と仲良くなって、友達になって……それで、たくさんの音楽を教えてもらったんです。時間がある時は、いつも聴いています』
『なるほど。では、好きなジャンルは?』
『ダンスミュージックです』
『いいですね! 盛り上がりますよね』
愛里寿が真顔で、こくりと頷いた。
『その人も色々と悩みを抱えているのに、いつも私のことを支えてくれました。試合だって、応援してくれました』
『おお……』
感嘆する司会者に対し、愛里寿は小さく頷いて、
『……十一年前に、あったじゃないですか。大洗連合と、大学選抜との試合が』
『――ああ、ありましたね』
資料映像が表示される。テロップには『大洗学園艦の廃艦を巡った戦い。当時は戦力や練度の差、大洗女子の境遇を理由に大学選抜は大きなバッシングを受けた』と書かれてある。
『私は島田流後継者として、いち戦車道履修者として、堂々と戦うことを決意していました』
愛里寿の表情はまるで変わらない。当時の心境を、ごく淡々と告げていく。
『……でも、』
淡々と、
『誰かに応援されるのって、ほんとうに、こう、ものすごいパワーになるんですよ』
淡々と、そしてストレートな言葉を口にした。
黒沢の胸の内から、音が鳴り出す。
『だからこそ私は、最後まで堂々と戦えました。試合の後でその人に褒められて、ああ、私は正しいことをしたんだなって確信できました』
画面の向こう側にいる愛里寿は、ただただ本当のことを告げていく。
『そして私は、その人に恋をしました。その人も私に想いを告げてくれて、今もお付き合いをさせてもらっています』
観客から黄色い声が飛ぶ。司会者の顔なんてもう大喜びだ。
『私は天才と呼ばれてはいます。いますが、母や仲間、そして恋人がいてくれたからこそ、私は世界チームと戦い抜けられて、そして優勝できました。これは決して、私だけが出した結果ではありません』
愛里寿が真正面から、そして本気の気持ちを訴えていく。
『私は島田流後継者としての義務を、果たすことができました。私の全てが、成し遂げられたと思います』
ですが。
愛里寿は、そう前置きする。
それは?
司会者が、観客が、黒沢が、千代が、愛里寿を注視した。
『――こんなにもグレートに、幸せだと思えるのは、あの人がいてくれたからです』
会場がどよめいた。
島田愛里寿が、はじめて、笑ったから。
『私はこれからも、島田流を体現する者として、世界選手として、そして一人の乙女として、今を歩み続けます』
愛里寿は堂々と、一人の戦車道履修者として、女性らしく笑顔いっぱいに、
『これが私の、戦車道です』
大きな拍手、司会者の惜しみない賞賛。
テレビの向こう側にいる愛里寿は、CMに入るまでずっとずっと笑いながらボコを摘んでゆらしていて、
俺の隣にいる愛里寿も、テレビと同じような笑顔でおれのことを見つめていた。
――なんて、返せばいいんだろう。
愛してる、陳腐すぎる。これからも支えていく、なんども言った。
考えれば考えるたびに、世界がにじんでいく。感情に胸が押しつぶされそうになって、呼吸すら定まらない。
そんな俺に対して、愛里寿は、ハンカチで目を拭ってくれた。
いつも愛里寿は、俺のことをずっとこんな風に支えてくれた。
一緒にいたい、求められたい。そんな願いを、一言で表現できる言葉を思い付く。
「……愛里寿」
「うん」
「これからもずっと、君を愛していくよ」
「うん」
「これからも、君を支えていくから」
「うん」
それはずっとずっと、いつか言おうと思っていた言葉。
「だから、俺と、おれとっ、けっこん、してくださいっ」
大事なことなのに、すこしもうまく言えなかった。
けれども愛里寿は、ずっと笑ったままで、俺のことだけを見て、
「――はい!」
そして俺は、ずっとずっと愛里寿のことだけを見つめていた。
すべてが愛おしい、彼女の頬を伝う涙すらも美しい。
「……あ。ご、ごめんなさい、愛里寿、勝君」
そのとき、千代の声が耳に入った。
「ちょっとおかあさん、顔を洗ってくるわね」
目を赤く濡らしている千代お義母さんに、俺は、「はい」と答えた。
―――
「――ほんとう、あっという間だったな」
「うん」
一緒に昼寝をしよう。
島田勝と島田愛里寿が、二人してそう言った。そして迷うことなく、ゆっくりと、一つのベッドで横になり始めた。
それでなんとなく、過去の思い出について話しはじめたんだ。自分からか愛里寿からか、それは忘れてしまったけれど。
「楽しい時間って、ほんとうに早く過ぎちゃう」
「もっと遊びたかったけど、まあ、これ以上は贅沢だな」
「うん。私達の娘も、立派な後継者になってくれたし」
「……とても聡明で、凛々しくて、負け無しの戦車乗りになってくれたね。愛里寿に似たんだなあ」
「それでいて話好きで、友達も多くて、ダンスミュージックばかり聴くようになって……勝に似たよね、とても」
「そうだな、本当にそう思う。これからも島田流は、この世で輝き続けるだろう」
「うん。もう教えることはないし、悔いなんてないよ」
「そっか。……あとは何か、あったかな?」
「そうだね……勝が、委員会から戦車道テーマソングを作れって無茶振りされたこととか?」
「聴くことと作ることはてんで違うんだけどな……。まあ、愛里寿の協力もあって完成できたけどね、戦車道ダンスミュージック」
「楽しかったよね」
「楽しかった。……あとは何か、あったかな?」
「そうだね……あ、みほさんとまほさんに勝ったこと、かな?」
「ああ、そうだね。あれは本当に盛り上がった、盛り上がりすぎて泣いちゃった」
「みほさんとまほさんとも、この試合を通じて仲良くなれたしね。ほんとうにいい思い出だった」
「本当に良かった、ほんとうに」
「うん」
――、
「愛里寿?」
「あ、ああ、ごめんね」
「……眠るかい?」
「ううん、大丈夫。ああ、あと何か、あったかな?」
「あとは……そうそう、メグミさんの彼氏さんが完治した時。あれはマジで嬉しかった」
「うん、うん。メグミの彼氏、心臓が危なかったもんね……ほんとう、よかった」
――、
「勝?」
「ああ、ごめん、ごめんよ、愛里寿」
「ううん、いいの。もう、こんな時間だからね」
「そうだなあ、本当に長く長く生きてきたもんなあ」
「うん。正直もう、やれることなんてなくなっちゃった気がする」
「そうかな。……そうかもな、ほんとうに」
愛里寿は、にこりと笑って、
「……どうして私達の大切な人達が、笑顔で遠い所へ旅立っていったのか……いまならわかる」
「ああ、わかる、俺もわかるよ」
「幸せだったから、だよね」
「ああ」
「勝は、幸せ?」
「もちろんだよ」
「良かった――」
愛里寿の目が、段々と閉じ始める。
「勝」
「うん」
「すこし離れ離れになるけど、ぜったいにぜったいに、また会おうね」
「……絶対に会えるよ。だってこいつが、俺たちをいつまでも繋ぎ止めてくれたんだから」
枕の真ん中には、ファイティングポーズをとった激レアのボコがちょこんと寝転がっている。すっかり色あせてしまったけれど、ずっとずっと旅路を共にしてくれた。
「そうだね、そうだったね」
そして愛里寿は、そっと、ゆっくりと、勝へ顔を近づけて、
「ほんとう、ベリーハッピーだったよ」
唇が一つに重なって――愛里寿は、安らかに眠りはじめた。
勝は、心の底から微笑む。
この人と出会えて良かったと、いつまでも想う。
また出会えたら、前よりも幸せにしようと誓う。
そして一緒に、ボコのことを応援しようと思う。
だから自分も、愛里寿と一緒に眠ろう。
「ほんとう、ほんとう――」
――こ、これでいいの? ボコは
――それがボコだから!
――ま、マジで? 勝てねえの?
――うん! でもボコは、いつか勝つためにいつもボコられるの。それがボコなの!
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。