男は倒れそうになる。足の、それも立つという動作を行う筋肉をやられたのであるから当然だ。体が不思議な浮遊感を帯びそうになり、その前に男は新たな言葉を口にする。
「〈姿勢制御〉」
途端に男の姿勢は先ほど同様に浮遊版に構えた物となる。それも、男の意思とは無関係に、それこそ糸でつった操り人形のような動きであった。
それもまた、男が独自に編み出した武技の一つであった。と、いうのも男は弓兵であり、危惧すべきことの一つとして、否、男自身が弓兵に必要な要素だと思っていることに「いかなる時も、体勢を崩すことはあってはならない」というものがあるのだ。
よって、男は決めていた。仕事を果たすまでは、意地でも地に膝をつくものかと意識を後方へと向け、そして見つけた。紫の髪を持った女性が、漆黒の戦士につい先ほど自分を仕留めかけた戦士と同じように八足馬を駆りこちらを追って来ている様子が。
(本当、どうやって?)
その女性もまた、自分の後についてくるのであるから。自分であれば、常時発動している武技のおかげでこの深い霧の中、相手の姿を捉える事が出来る。しかし、そのアドバンテージは自分にしかないはずである。
(相手も)
自分と同じ武技を持っている可能性を考慮してすぐに止めた。それだけはないと間違いなく言えるからだ。この武技の使用には目に見える変化があるらしく、些細な事であるけれども自分はそれを知っている。そして、見る限りでは視界にいるその女性の目には何ら変化は見られないのであるから。
(ならば、どうやって)
そうしている内にもその女性は次の矢をつがえ、そして放つ。それは、男の肩を狙ったものであり、彼は上体をそらして難なく躱す。相手の視線に、殺気を見て取れば、そして互いの距離が20メートルはあるのだ。やってのけるのはそんなに難しくない。
無論、彼の現状を思えば、僅かなミスが転落を招く為、彼は神経を集中させて、体を動かす。その度に、関節が開閉する度に、始めに受けた個所から痛みが広がるが、やっとの思いで手にした機会を無にする訳にはいかず彼は耐える。
(一つ、分かりましたよ)
彼女がどうやって、自分を見ているかは分からない。それは、先ほどの彼らにしても同様であったが、今考えるべき問題はそこではない。最初に受けた矢、そして今放たれた矢。その両方に込められているのは、殺気であったのだから。
殺意のない矢って何? て、思う者もいるだろが、それも男の経験則から来る考えであった。投射一矢一矢にしても、速度に精度、そして矢自体の揺れ具合から放った人物という者を、その人間性を見る事は出来る。これまで、男自身が渡ってきた戦場で数多もの矢に、その射撃主を見てきている。その経験も手伝い、今、自分を攻撃している女性が自分に対して、並々ならぬ殺意を抱いているのを察知した訳である。
(何を怒っているのでしょうね?)
それでも男は彼女の感情が理解出来なかった。彼女の装いを見れば、その立場だって分かる。彼女はいわば、雇われの身、冒険者かワーカーのどちらかは分からないが、別に大きな問題ではない。彼女にとって、王族達は仕事上の護衛相手というだけであり、そこまで深い関係ではないはずだ。
むしろ、王女を狙った一撃を身を挺して守ったあの少年にも見える騎士の方が該当しそうではある。そう考えながら、彼は霧の中の逃走を続ける。間違っても彼女達を連れて帰る、なんて事にはなってはならないから。
(絶対逃がさないわよ。この糞野郎!)
イミーナは深い霧の中、その方向に追っている男がいると確信を持って騎獣を走らせていた。その胸には男に対する怒りが溢れていた。
イミーナ。彼女は、唯のエルフでなく、ハーフエルフと呼ばれる種であり、要はエルフと他の種族の交配種であり、彼女の場合はエルフの父と人間の母の間に生まれた存在であった。
そんな彼女であるが、彼女は母親の顔というものを知らない。物心ついた時には両親は別々の道を歩んでいたのであるから。しかし、彼女がそれを不幸に思ったり、あるいはそれが原因で寂しい思いをする事はなかった。良くも悪くも愉快な人物である父親の存在に、そんな彼の妹である叔母が彼女を実の娘のように可愛がってくれたからだ。それだって、単に甘やかすのではなく、幼少期のイミーナが間違った事をすれば叱り、新しい事が出来れば自分の事のように喜び、そして毎年彼女が生まれた日には盛大に祝ってくれたのである。
人間、例え肉親がいなくとも、片親だけであったとしても、しっかりと愛情を注いでくれる人がいれば、真っ直ぐに育つものである。
そんな、暖かな家庭で育った彼女がワーカーとなったのは、そんな彼女――あくまで、実父はおまけなのであった――叔母に少しでも恩を返す為である。
これには帝国におけるエルフの社会的地位の低さも理由の一つであった。帝国ではエルフの地位は低く、その種族であるというだけで、まともな職に就くことは難しい。あったとしても、低賃金でこき使われるような職場だけだ。そして、イミーナはそんな所で働く気は毛頭なかった。よって、彼女はワーカーとなり現在に至るのである。
そんな彼女を叔母は今でも気にかけている。彼女としては、姪に危ない事はして欲しくないのだ。生活にしたって、何とか自給自足と帝国郊外の森などでとれる木の実を装飾品として加工して売り出す等して、何とか生活は成り立っている。それでも、イミーナは納得しない。もっといい生活を送って欲しいと稼いだお金の大半を彼女へと送っているのであり、そして彼女も姪が稼いだお金を無駄にするのは気が引けると全て貯蓄に回しているとなんとも心温まる話である。
そんなイミーナは、沢山の愛情を受けてきた彼女は仲間思いであり、現在のチームに所属している自分よりも年少の少女が抱えている問題なども何とかしたいとは考えているが、これに関しては少女本人が助けを必要としていない為に何も出来ないでいた。
そのもどかしさがあったからとも言うべきか、今回の依頼において、少女とそんなに年が変わらない第3王女の護衛に関しては、彼女自身が意外に思う程に力が入っていたのである。そんな矢先に、先の襲撃だ。
彼女もまた弓兵であり、マスクをつけた男同様に、その矢から相手の心情をある程度読むことが出来る。そして、知った。知ってしまったとも言うべきか、その男が年端もいかない王女を殺すつもりで矢を放ったという事を。
その為に、彼女は男に対して猛烈に怒りを燃やしていたとも言える。
(許せる訳がないじゃない!)
彼女は自分を大人として仮定している。自分で生きるお金を稼いでいるのであるから、当然だ。それに倣うのであれば、仲間の少女だって、大人になる訳であるが、彼女は少女の事をどこか子供扱いしていた。よって、王女の事もどこかそういう風に見ていたのだ。今日初めて会ったばかりの相手に考える事としては、おかしな事に思えるかもしれないが、彼女は至って冷静である。
そんな彼女は、騎獣を走らせながら弓を構えている方とは逆の手を開いて見る。開かれた平からは、金粉のようなものが広がり、それがある方向へと綿毛のように飛んでいく。
(この方向で間違いないわね)
それこそ、男が知りようもない彼女だけの切り札とも呼ぶべきマジックアイテムであった。と、いうのもそれは、彼女の父親が、もっと言えば彼女の故郷に住むエルフ達が作ったマジックアイテムであるのだから。
彼女の父親は凄腕の狩人であった。が、それだけであった。本当に彼はそれしかなかったのである。そのほかはまるで駄目であった。家事も碌に出来ず、その為に、幼少期のイミーナでさえ「この人はこんなだから母に愛想をつかされたのだろう」と思った位である。
その事を思い出して、彼女は顔をしかめる。本当にどうしようもない父親である。そんな彼であっても故郷の伝統を尊重する部分はあったらしく、そのおかげと言うべきか、謎の人物を追跡する事が出来るのであるから。
羽妖精の鱗粉。
それが彼女の使用しているアイテムの名であった。彼女の父親の説明によれば、それは対象者を追跡するには最も適したアイテムとも言える。それは、元は狩りを生業としていたエルフ達が獲物を確実に仕留める為に作り上げたのであるから、それも当然と言える。それは、追跡対象者の一部、身体的あるいは物質的なものを対象に発動させると、その対象者を追いかけるというアイテムである。
例えるならば、犬の毛を対象にそのアイテムを使用すれば、即座に粉は犬を追いかけ始める。そんな所だ。更に言うのであれば、このアイテムはエルフの血が流れている者しか使用できないというものであり、それが見える者も同様であった。後は、レエブン候から提供された伝言の魔法との組み合わせで、彼女は男の位置を残りの者達に伝えていたのである。
(見た事ないものだったけど)
あれのおかげでこの状況に持ち込む事が出来た。彼女は、素早く伝言を発動させて、現在、追撃にあたっている仲間である彼に大まかな情報を伝える。彼も勘は鋭い方であり、彼女が伝える僅かな言葉だけでその意図を理解して、魔獣を走らせる。
そして彼女は次の矢を構える。何も彼女は男を追えているのは、アイテムの効果だけではない。長年積んできた経験が、狩人して研ぎ澄ました彼女の五感が捉える。空気中に、水分に交じって漂ってくるかすかな血の匂いを。
男は自分を追いかけてくるエルフの女性に注意を向けつつ、毒矢の用意を始めていた。理屈は分からない。それでも、こちらが優位である事に変わりはないのであるから。
(確かにあなた方には私の位置が分かるようですね)
しかし、だからと言ってこちらの攻撃を避けれるとは思わない。さっきのは、相手が悪かったのであるから。あれは、英雄と言う名の化け物だと男は結論付ける。何とか、時間を作って、彼らにも伝えなくてはならない。間違っても、英雄モモンを相手にするなと。その為にも、彼女を始末しようと弓を引き絞る。が、それよりも早く右から気配が近づく。
(またですか)
「おらぁ!」
騎獣に乗ったまま突撃を仕掛けて来た戦士の一撃。男はとっさに腰を落とす。その頭上をサーベルが通過し、殺気を含んだ風は、男に当たりはしないまでも、そのフードの繊維を多少は痛めたように男は感じた。そして、男は続いて思う。追い詰められていると。先程までは、確かに自分が優位であった。それが、戦士の登場で一気に逆転してしまった。
やはり八足馬は非常に厄介である。対して、自分が使用しているのは慣れない新型の浮遊版。体勢だって向こうは通常よりも大柄な魔獣に跨っているのに対して、自分は板に立っているだけである。何とか武技を連発して、転落はしないように努めるも、それだって限界がある。
(やった。このまま追い詰める!)
攻撃は躱された。しかし、再び接近出来たのは大きい。
(愛してるぜ。イミーナ!)
彼女がいかにして、目前の男の位置を知っているかは詳しい原理は知らない。だが、そんなもの関係ない。仲間である彼女を信じるだけだ。
その信頼が、男の不意を突くことが出来たのであるから。見れば、相手は姿勢を保つので精一杯のようであり、不安定に揺れる振り子を思わせるように蛇行していたのであるから。
(よし、このまま)
とどめを刺す。というのは、間違いである。可能ならば、生け捕りにして男の背後関係を探らねばならない。彼には確信がある。この男は単独犯ではないと、弓の腕も勿論であるが、ここまでの動きに迷いがない。他にも理由はある。男の装備だ。特に、スレイプニールを襲った毒はその手の話に詳しい彼女でさえ知らないものであった。それだけの物をたった1人の人間が用意出来るとは思えない。
ヘッケランは手綱を揺らし、足で騎獣の腹を叩いてやる。それだけで、その獣は彼の意図を理解して、不規則に揺れる板を操っている男へと駆け出す。
(よしよし、良い子だ)
ヘッケラン・タ―マイト。彼は、現在帝国で名を広げつつある。商人家計の4男として生を受けた。彼の父親はというよりその家は、平民の出でありながら商才に恵まれており、否、この言い方は彼らに失礼だろう。それだって、その家の者達が何世代もかけて磨き上げた信頼、人脈、そして話術等の集大成なのだから。
そんな家に生まれた彼の幼少期は年の離れた兄のマンツーマン授業を受ける日々を過ごし、そして思春期、普通の若者であれば、学校に通い。ある支配者がいた世界であれば、働いている者達が殆んどである年頃に、彼は家の手伝い等をして過ごした。その際に、彼が任されるていたのは、御者が多かった。必然的に、彼は馬であったり、時には牛などと触れ合う機会が多く。その経験が僅かな時間で彼が自らが駆るスレイプニールと親しくなっている理由であった。
そんな彼がワーカーとなったのは、いつか帝国騎士が呆れたように、単にお金を求めていたからというのが大きい。彼の家は、別にその道に進むことを反対はしなかった。むしろ彼の父親に至っては、それを新たな商機と見る事は出来ないかとさえ考える位だ。
そんな父であっても、その道を進む事を決めた彼にこれだけはと伝えていた事がある。
――いかなる時も、そうお金を貰う以上は仕事だ。お前が何をやろうと俺は興味ないが、仕事をやる以上。半端な事はするなよ?
(分かっていますよ)
今回の依頼、その報酬はこれまでのどの依頼よりも法外だ。ならば真摯に向き合って、必ず成功させなくてはならない。単なる旅行で終わるかと思いきや、予想外の襲撃。ならば、この人物を捕まえて今後の憂いを断つ。
(???)
ヘッケランは首を傾げた。男が不意に左手を空にかざしたのであるから。何のつもりだろうか? 次に聞こえたのは小さな音。それも何か飛び出した。小さな空間で相当な力が加えられたと思える音であった。
(何だ?)
音は直ぐに彼の耳へと届いた。次に聞こえるのは、石が水面を叩いたようなものであり、それが何度も、何度も聞こえ、ますます彼の思考を乱す。最初は右前方、次いで後方から聞こえて、そして。
「ぐは!」
その言葉と共に空気が漏れていた。背中に何か刺さったようだ、それも高速で。肉体の本能か、異常を知らせるべく痛覚が訴えてくる。ある意味不意打ちでもあったその攻撃に彼は、前のめりに姿勢を崩し、そして落下した。仕方のない事だ。前方の敵に意識を集中していれば、後ろから刺されたのだ。それも、単に剣で斬りつけられたとかではない。走ったのは、鋭い痛み。異物が体に無理矢理入ってくる感触に、今なお攻撃を受けた個所にその異物があると、早く取り除いてくれと、脳へと懇願する。
このまま落ちれば、怪我をするだろう。それは、まだ良い。今回は
(は、こんな時に)
自分は何を考えているのだろう? それは、世界の時間にして1秒未満、だが彼にとっては悠久の時間。考えて、そして思い出す。この男の2射目、この国の姫君を狙って放たれたその攻撃から姫を救って見せたあの騎士の事だ。
(へ、青いね)
こんな時に彼は何を考えてしまっているのだろうか? もしもこれを今なお目前の男を追っている彼女がしれば、激しく彼を叱責する事であろう。
あの時、見た彼の姿には迫力があった。同時に、彼が姫君に抱いている感情も分かったようである。
(愛する人か)
それは、彼らの立ち位置にこの国の現状を考えれば、決して叶う事のない想いだ。それでも、騎士は、あの少年は彼女を護るであろう。命の限り。そう確信していた時、彼は笑っていた。それも声を上げるものではなく、静かに口角を上げる形で、それを一瞬だけ確認した逃亡中の男は頭に疑問符を浮かべる。こんな時に、彼はどうして笑っているのであろうか? と。
(なら、俺だって)
このままやられてやるつもりはない。ここで何もしなければ、男はどこぞへと逃げてしまう。それをさせない為には足をつぶす必要がある。
素人目に見ても明らかだ。男はあの板を使いこなせていない。落とすなら今が最後の機会だ。最初に男が駆る馬を潰すことが出来たのは漆黒の英雄のおかげだ。そして、男がふらついているのはその足に受けた彼女の矢のおかげだ。なら、次は己の番である。自分は相手に何も出来ていない。
ヘッケランは武技を発動する。
「〈肉体向上〉」
これによって、一時的に自身の身体能力を上げる。次に腰に添えたサーベルを一振り手にとり、男へと投擲する構えをとる。そして、叫ぶ。
「〈斬撃〉!」
世界が逆さまになる中、彼が放った剣は男へと飛ぶ。これは、彼なりに見出した武技の応用だ。剣を振る事に特化した基礎的な武技、斬撃。そしてもう一つの武技によって、普段より上乗せされた彼の身体能力であれば、サーベルを先程まで、男に彼女がやっていたように飛ばすことは出来る。
(いけえええ!)
自身の身に起きる事は忘れ、彼は願う。当たってくれと。そして、その願いは叶う。彼の視界の先で、彼の放ったサーベルは男の右膝を関節の内側から正確に捉えた。鈍い音が耳に届く。恐らく、男の骨を砕いたものだろう。
そして、それで相手も限界を向かえたのか、板から崩れ落ちる。唯でさえ、不安定な飛行を続けていた所に、完全に片足を潰されたのであるから。それも当然と言える。
勿論、ヘッケランは男が使用していた浮遊版の事は知らない。それが、両足によってコントロールしていることなんて知りようもない。それでも、彼の執念が逃げ回る男の足を潰したのも事実であった。
カルネ村を3人の人物が歩いている。髪を結ってそれを片方に流している少女に、その妹らしきおさげの幼女。そして、彼女達を見守るようにその後ろから追従している仮面をつけた女性だ。
「ネム。今日はお願いね」
「うん!」
少女の呼びかけに幼女が嬉しそうに返事をする。その様を見ながら、仮面の女性、ヤルダバオトもまた自らの胸が満たされている事を自覚していた。
(良かったね~ネムちゃん~)
この姉妹は、体格が、体力が違う為に普段は別々の仕事をやっている。姉であるエンリはそれが当たり前の事だと思っているので、特に気にはしていないが、妹であるネムはまた別だ。最近は、あのば……支配者の養子という自覚が育ちつつあるようで、姉が受けている勉強を自分もやりたいと言いだしたり、長い単語を言えるように必死に頑張っている。それは、自分が褒賞として認めてもらった訓練にしてもそうだ。
それだけ頑張っているネムであるが、やはり肉親と共に居たいという気持ちは強いらしい。そんな子供にとって、今日はとてもいい日だと人の機微に疎かったヤルダバオトですら分かる。
この日、自分が仕えている姉妹達は共に畑の土を均す事になったのだ。と、いうのもその原因は自分と現在の所属先にある為、少々申し訳なく思ってしまう。
「ごめんね~エンリちゃん」
思わず出た言葉に彼女の主である少女は目を丸くする。何を言われたかまるで分かっていない表情をしており、聞き返される。
「えっと、何を謝っているんですか? ヤルダバオトさん」
「だって、そうでしょう~私達がまた……」
その先を言えなかったのは、それよりも先に少女が手をかざしてきたからだ。「それ以上言う必要はない」と。そして、その度に不思議に思う。この少女は2ヶ月程前まではそれこそ、どこにでもいる村娘であったと言うのに。時々、こうしてまるで、養父のような威厳が見えるのだ。
(ま、やる事は変わらないよね~)
この姉妹は自分にとっては、恩人であり、狂気に支配されていた己が心の拠り所であるのだ。もしも、この姉妹が死ぬなんて事になれば、あるいは殺されるなんてあれば、自分はまた狂戦士に戻り、殺戮の限りを尽くす。
そう考えるヤルダバオトにエンリは言葉を続ける。
「仕方ありませんよ。ヤルダバオトさんに、教団の皆さんが正しい事をしているのは分かっています」
そう、彼女が謝ろうとしたのは、この村の人口がまた増えた事に対してだ。あれから、そうこの村にある意味、初めての亜人の客人達が来た後からも彼女達教団は各地で活動を続けており、その過程で住むところを無くした人たちをこの村へと連れ帰って来ているのであるから。
よって、この村が消費する食糧の量と言うのも必然的に跳ね上がり、新たな畑を作る必要が駆られて今日の仕事だ。
問題はそれだけではない。新たに人口が増える。それだけ見れば、確かに良いことだろう。それは、村の更なる発展に繋がり、ひいては養父であるアインズに恩を変える事が出来るのであるとエンリは考えており、実際その通りであるのだから。
しかし、そう上手くはいかないのが世の常である。この村には決定的に違う点が出来てしまっている。それは、村の住民が人間だけではないという事。エンリが召喚したゴブリン達。あれから、労働力として墳墓より派遣されているスケルトンにゴーレムに下級悪魔。果ては、ドライアードにリザードマンと多くの人外とも呼ぶべき存在がこの村にいるのだ。
墳墓からの派遣者達に関しては、アインズが召喚したモンスターという事になっているし、例の事件の生き残りである村人達も
しかし、新たに村に来た者達は違う。初めは怯えるし、恐怖だってする。それでも、村を出ようとしないのは他に行く場所もない為であり、そんな者達をエンリが追い出せるはずもない。
それでも、時折トラブルは起きてしまう。モンスターによって、家族を殺された者がその時の記憶を思い出してしまい、興奮して暴れるなんてザラであるし、そうでなくてもこの村はおかしいと言葉にして意見する者だっている。
その度に、エンリは率先して矢面に立ち彼らの説得であったり、介抱をしてやったりする。そんな彼女が怪我を負う事があるとすれば、その時に相手から受ける暴力であったりする訳であり、その度にヤルダバオトに現在はこの場にいないが、姉妹の従者であるルプスレギナ等は殺意を持って得物に手をかける。が、その都度エンリはその必要はないと彼女達に言っていた。
人間とは簡単に変わることは出来ない。
エンリが一番その事を理解していたからだとも言えるし、メンタルケアにしたってそれぞれのペースがある。それが彼女の意見であった。
その為、その事で自分が怪我を負っても決して相手を責める事はしないでくれと墳墓の者達に伝えており、その事に彼女達がやや苦い思いをしており、更に養父たるアインズもその事を知っており何とかしたいと思っており、それが原因で壮大な親子喧嘩になるのはまだ先の話である。
「ヤルダバオトさん達は気にしないでご自分の務めを果たしてください」エンリはヤルダバオトに笑いかける。「それが、きっとゴウン様の為にもなりますから」
(養父思いだね~)
これだけ健気に尽くそうとしている少女はそういない。これでは、今は死後の世界に旅立った彼女の実父は涙を流しているかもしれない。それに、少女の姿勢を邪推する者だって出るかもしれない。人間とはそういうものだ。
「分かったよ~エンリちゃんがそう言うなら、私はもう気にしないけど~」
「ふふ、胸のつかえがとれたと言うのでしたら良かったです」
そのまま和やかに時間が流れると思ったのは、やはり自分はこの姉妹を気に入っているのだと己が心情を確認した彼女は次に自らに向けられた攻撃的な感情を察知した。と、いってもそれは殺意ではない。どちらかと言えば、闘志であった。
(また~)
うんざりとしながらも彼女はその場で飛ぶ。そこを緑の物体が通過して、風をおこし、それが近くにいたエンリの前髪をかきあげ、起きた土埃のせいでネムは両目を抑える。その事に舌打ちをうちながらヤルダバオトは元の位置から2メートル程姉妹より離れた位置に着地する。
「あのさ~いい加減にしてくれない~」
彼女にしては、珍しい声音であった。以前の彼女であれば、日常的に発していたが、この村に来てからはほぼ消えてしまっていた狂戦士としてのものだ。
彼女の言葉に姉妹へと接近していたその人物も後ろへ飛ぶ。片方の腕が異様に膨らんだリザードマンであった。
「は、また躱しやがったか」
「ゼンベルさん」
エンリが力なくそう言う。彼女も知って……知ってしまっているのだから。この人物がどういう人物であるか。彼は、この村に越して来たリザードマンであるが、一緒に来た親友であるという人物の話によれば、とにかく戦うという事に執着しているようなのであった。そして、この村には彼にとっては宝庫であったらしい。こうして、ヤルダバオトに殴りかかる事だって、既に二桁を超えているし、それはルプスレギナにしてもそうだ。また、ある時はゴーレムに突撃をかましてあろう事か、壊してしまった事さえある。その時は修理に来たデミウルゴスにエンリが必死に頭を下げ、そして彼も親友である彼にやらされる形で頭を下げた事があるのである。
そんな社会的マナーが壊滅的になっていないリザードマンはヤルダバオトを見据えて言う。
「俺と戦え、ヤーダバート」
「ヤルダバオトだって言ってんでしょ~」
どういう訳か彼は自分の名前をしっかり言えない。別に文字数が多いという訳でもないし、発音だって変わっているという事はないと言うのに。何より、彼よりずっと幼いネムですらしっかり言えるのが何よりの証拠である。
「そうだったか? いや、それよりも俺と戦え」
「いやだよ~」
その男もとい雄の提案を彼女は蹴る。自分が武器を振るうのは姉妹を護る為であったり、仕事の時だけだ。こんな私闘に付き合う気は毛頭ない。それは、彼女も同様の様であり、彼女も何度かこうして挑戦状を叩きつけられる訳であるけど、その度に適当に理由をつけて逃げているのだ。
「何で、そんなに私とやりたいのさ~?」
「決まってんだろうが。お前が強い。それだけだ」
話にならないと彼女は思った。何を言ってもこれであるのだから。もうどうしようもないかもしれない。
(馬鹿って、こんな奴なんだろうね~)
果たして、今の上司とどっちが阿呆かと考え始めた所で新たな人物が現れる。
「貴様! 見ていたぞ!」早足、いやかけて来たのは顔に包帯を巻いた神官であった。「エンリ様とネム様に手を出そうとしたな!」
「ああ? んな訳ねえだろ?」
ゼンベルにしてみれば、それこそ言いがかりであった。自分が興味があるのは、仮面の戦士であり、姉妹の事はどうでも良いのであるから。この雄はエンリ達の立場というものをしっかり理解出来ていなかった。彼にとって、そういう小難しい話は、親友にその妻に任せれば良い話であるのだから。それでも、彼が生きていられるのは、致命的な事をやっていないから。運は相当なのだろう。
「ニグンちゃん」
彼女の声には喜色というものが一切ない。この人物の登場を全く祝福していない。むしろ厄介者が増えたという認識だ。そんな彼女に神官は指をさして支持を出す。
「ヤルダバオト! エンリ様方を連れて早くこの場を去れ! 貴様にも手を出させる訳にはいかないからな」
客観的に見れば、女性を庇っている男性の構図。これで、その男性に何も思わないなんて女性はいないだろう。自分を心配してくれて、守ってくれるというのであるから。しかし、ヤルダバオトは分かっていた。この男はそんなんではないと。
「全ては、アインズ・ウール・ゴウン様の財産なのだ。あんな野蛮な輩に触れさせて良いはずがない」
(びっくり~全然嬉しくな~い)
この神官はこういう生き物なのだとヤルダバオトは姉妹達を促して、その場を足早に立ち去る。その後ろで、鈍い音が聞こえたのは間もなくであった。
ニグンの助け? もあって、何とか厄介な戦闘狂から逃げる事が出来た3人は新たなる畑の予定地である村のはずれを目指していた。その途中、工事中の様子であるゴーレムに、彼らに指示を出す。ローブを纏ったスケルトン、エルダーリッチの姿が目に入る。
「この村、また広くなるんだね~」
「はい、人は増えるばかりですから」
移民が中心であるが、エンリの答えが全てであった。人が増えれば、食料もそうであるが、住むところだって増やさなければならない。よって、定期的に村の周辺の土地を均して、新しく塀を作ってと、その為にカルネ村というのは壁が多い村にもなりつつある。
と、不意に空気が変わる。そして、ヤルダバオトが真っ先に気付いた。彼女が帰って来たのであると。
「エンちゃん~ネーちゃん~」
「ルプスレギナさん!」
声を上げるのはネムであった。数歩先に音もなく現れた彼女に駆け出して、その胸に躊躇いなく飛び込み。彼女もそれを受け入れて抱きしめるのであった。
「ん~! 会いたかったすよ~」
「ルプスレギナさん、お帰りなさい」
「お帰り~ルプスちゃん~」
「只今っす! ヤーちゃん」
彼女は最近、こうして村を離れる事が増えている。その為、その間の姉妹の警護役及び世話役はヤルダバオトが受け持っているのである。彼女が居なくなる理由については、詳しい事は知らないが、どうも墳墓でも相当高い地位の人物からの指令であるという事だけはヤルダバオトは把握していた。
「今回、少し時間がかかりましたね? 大丈夫なんですか」
不安げに声を上げるのは、主君であるエンリだ。彼女は自分が無力だという事を嫌という程知っている。そして、目前の人物が関わっているのは、間違いなくそう言った力が必要とされる場だ。そんな少女にルプスレギナは軽く笑って返す。
「ほんとっすよ~あの人たち人使いが荒いんすから~」
愚痴るように言うのは、彼女なりの気遣いであった。別に大したことではないと、特に心配するようなことではないと。しかし、彼女はこの言葉を直ぐに後悔する事になった。
「あら、ルプスレギナって、私達の事をそう思っていたのかしら?」
「うげ!――失礼しました、アルベド様。私は決してそのような事は思っていません」
続いて聞こえた声に、反射的にルプスレギナとヤルダバオトは片膝をついて忠誠の姿勢を取る。ヤルダバオトがそうしたのは、本能的な恐怖からであった。
「アルベド様」「アルベド様だ!」
姉妹は口々に喜ぶが、自分は違う。心臓が締め付けられ、呼吸が苦しくなってくる。新たに現れたのは、純白のドレスを纏った女性。それも同性から見ても、見ほれる程の美貌を持つ人物だ。人と違う点を上げるとすれば、腰から生えた翼に、額から伸びた角であるが、その程度で損なわれる美ではない。
(大丈夫。私はしっかりしている)
どうしても噂等で聞いてしまっている。この人物は、以前自分が戦った戦士に扮したぷれいやーを心から愛していると、そんな人物が。偽りの姿だったとは言えその体に、愛する人物に傷を負わせた自分をどう思っているかなんて簡単に想像がつく。自分は、その人物に仕える事で生かされている。しかし、だからといって、この人物が納得出来るかどうかは別の問題である。
それでも、彼女は一流の戦士であった。乱れる呼吸。震える肩。それを決して、姉妹達に悟らせはしないのであるから。それを見たアルベドはしばらく――2秒程、彼女を見ていたと思うと興味を無くしたようにルプスレギナへと視線を向ける。
初めに間抜けな声を上げたと思えば、彼女は瞬時にその顔を変えた。愛する主の養子達に、姉妹である彼女達に見せている陽気な顔から冷徹な顔へと戻り、その声もいつも自分が聞いているものと変わらないものになっていたが、もう遅い。
「アインズ様じゃないけれど、貴方には失望するわ」
その言葉に彼女は明らかに動揺して見せる。姉妹達にしても、不安な視線を自分へと向けている。それだって、彼女を思っての事であろうし、このまま話を終えれば間違いなく誤解を生んでしまう為にアルベドは続ける。
「安心して頂戴。失望と言っても、好意的な方だから」
「はあ、好意的ですか」
メイドの顔は訳が分からないといった様子だ。これに少し優越感を覚えてしまう。
アルベドは、ルプスレギナに嫉妬している部分がある。といっても、別に主絡みではない。彼女のコミュニケーション能力の高さと言うべきか、普段の彼女が主の養子である姉妹と行っているらしき触れ合いが羨ましくて仕方ない。先程だって自分が現れるまで、ネムが彼女の胸に抱かれていたのであるから。それが悔しくどうしようもない。
(私だって)
出来る事ならそうしたい。エンリの頭を撫でてやりたいし、ネムを抱き上げたい。しかし、出来ない。理由はシンプル。彼女達が遠慮するからだ。以前主に怒られる要因になった疑似的な親子遊びでも、ネムは自分の事を「お母さん」と呼んでくれはしたが、それ以上近づいてくれることはなかった。子供の目から見ても、自分は近寄りがたい程の美を持っているらしい。
(どうにかしたいわね)
彼女達とはいずれ、親子になるのであるから。こんなぎこちない親子は世界中探してもそういない。そう決意を新たにして、アルベドはルプスレギナに言葉をかける。
「本当よ。何と言うか、親しみが出来たといった所ね」
それも、偽らざる本心であった。
ルプスレギナ・ベータ。戦闘メイド姉妹の次女にして、墳墓でも凶悪な部類に入る者。同時に頼んだ仕事はいつも期待以上の成果を出してくれる彼女は当然の如く長女に次いで、信頼できる人物であり、自分達、つまり墳墓にとって大切な事は彼女に任せるというのが、自分に、眼鏡をかけた悪魔、主の息子であるドッペルゲンガー。それに、義兄に、管理者、前任者の総意であった。
そんな彼女にも欠点があるというのは、安心できるものである。主を思うのであれば、完璧でなければならないという考えもあるが、それ自体が主を苦しめている可能性だってあるのだ。長女に関してはそう言った部分を見せられているし、3女の彼女達は主へと想いを寄せる者同士として、一種の信頼がある。そして、末の彼女達もどこか子供めいた部分があり、完璧な者というのは存在しないのだ。
「ま、理解はしてくれなくて良いわ。貴方はこれからもこき使ってあげるから」
「……畏まりました」
結局、自身の評価は上がったのか、下がったのかと測りかねている彼女を置いといてアルベドはエンリ達へと改めて向きなおり、そして微笑みかける。
「くふふ、時間が出来たから会いに来ちゃったわ」
「そうですか、はい、私達は元気にやっています」
「わ~い! アルベド様と一緒だ!」
両手を上げながら喜ぶ妹の嬉しそうな声を聞いて、エンリもまた涙腺が綻びそうになるのを必死に耐える。彼女とは出会ったのもあの事件の時であるが、今でもその出会いは忘れそうにない。そして、ゴウンと同じくこの人物にも甘えてしまいたいと心のどこかで思ってしまっているらしいと、自分の心に待ったをかける。このままでは、また取り乱してしまいそうだと彼女は話題を作るべく、彼女へとある事を聞く事にした。
「さっきの言葉ですと、ルプスレギナさんに何か頼まれているのって」
「ええ、私にデミウルゴスね。彼女、とっても便利よ。エンリも何かあればこき使って良いのよ?」
「それは、遠慮しておきます」
彼女の働きには普段から助けられているのだ。これ以上、自分から何か頼むなんて事は出来ない。
「でも、何を頼んでいるんですか?」
だから、質問を続ける。別に深い意味合いはなく、それこそ「今日の夕飯は何にしよう?」という軽い気持ちであったが、彼女の表情は一瞬曇ったように、見え、そして自分の顔を見つめてくる。
「アルベド様……? あの、すみませんでした。軽率な事を聞いてしまって」
「あ、いえ、別に気にしないで頂戴。何も教える事が出来ないのは確かだけどね」
彼女に気を遣わせてしまったという事実で更に自分が嫌になる。
「アルベド様! これから畑を作りに行くところなんだよ!」
妹は彼女に自分達のこれからの予定を伝え、先に自分が渡しておいた道具を自慢げに見せる。先端に獣の爪を思わせるように金属が加工された品であり、それで大地をならしていくのだ。いつも自分が使っている桑よりも小ぶりなそれでは、効率も落ちてしまうが、妹に使えるのがそれしかない事。そしてその体力では自分の4分の1程しか仕事は出来ないであろう。それでも、手伝ってくれることはありがたい。
「そうなの……なら、私も参加させてもらいましょうか」
「いえ、そういう訳には」
彼女の提案は有難いが、これから自分達がやるのは土仕事であり、間違いなく汚れる。そんな事に彼女を参加させる訳にはいかない。そんな自分の葛藤なぞ知る由もない妹は無邪気に飛び跳ねる。
「本当?! うん! アルベド様と一緒にやりたい!」
「ネム……」
「くふふ、では行くとしましょうか」
喜ぶ妹の姿に何も言えなくなってしまう辺り、自分はまだまだこの子に甘いのであろうと、エンリは諦めて歩き出していたアルベド達について行く。その途中聞こえた声は、自分の聞き間違いだと彼女は考えた。それは、彼女の憂いた声。
「やっぱり、信じられないわね……」
全身を打ち付ける痛み、回転する世界に追いつくことのない思考。高速で走っていた騎獣から落ちたから当然だ。気付けば、大地が目の前にあり、何とか顔が激突するのを防ぐ。それが、人間の防衛本能だろうか? やはり目をやられるのは怖い。力の限り、首をのけぞる。おかげで顔面を強打する事はなかったが、腹まではどうしようもない。
「あが!」
変な声が出てしまうと同時に吐き気が来て、次の瞬間には泥のようなものが口から出ていた。それは今朝、依頼が始まる前に食したパンのなれの果てであった。
やがて、世界は正常になり見えるのは霧によって真っ白な空、その視界に騎獣の顔が映る。
「ひ~ん」
思いのほか可愛らしい鳴き声であり、その声音から自身を心配してくれていると分かり、ヘッケランは面白くなり、手を伸ばしてその頭を撫でてやる。
(良い奴じゃねえか)
自分達の付き合いは浅い。今朝から6時間も立ってはいない。それでも、彼は自分の指示通りに動いてくれ、そしてそのおかげでここまでこれた。
(この依頼が終われば)
レエブン候と話をつけて、こいつを貰うのも良いかもしれないと考え、そして次に浮かんだのは彼女の顔であった。
(はは、イミーナにどやされるな)
彼女を思い浮かべて、再び戦意を燃やす。まだ終わってはいない。1時間にも感じているが、実際自分が転落してから、まだ20秒程だろう。
ヘッケランは全身の痛みに耐えながら、立ち上がる。見れば霧の先、かろうじて見える先にその男も倒れていた。右足は自分の投げた刃に、彼女の矢と完全に死んでいるようであり、そして落ち方がよくなかったらしい。弓はへし折れており、それは男の右腕にしてもそのようであり、絶対曲がるはずがない部分が曲がり、その先は力なく横たわっているだけであるのだから。
これは、職業による差だとヘッケランは考えた。自分は、前線で殴り合いをする戦士。対して相手は、後方で一方的に攻撃をすることが出来る射手。どちらが、打たれ強いかなんて子供でも答える事が出来る。自分は打ち身で済んだが、相手は四肢を一つ失った。
耳を澄ませば、蹄の音が2頭分、否、恐らく1頭分が聞こえてくる。彼女も此処へと近づいている様だ。
(さて)
ポーション瓶を取り出して、自分に振りかける。それだけで、簡単な傷であれば消える。そして、何とか逃げようともがいている男へとヘッケランは歩を進めるのであった。決して、油断はしない。男はまだ生きているし、他にも何かしら武器を持っているらしいから。
そして、彼は気付かない。男に集中する余り、自分を取り囲む霧が更に深くなっている事に。