『隆道……。お前、ほんとうにいいのか?今からでも遅くない。母さんと
『良いんだよ。あんな奴……、父ちゃんを捨てるような奴なんて、家族じゃない』
『隆道……』
『大丈夫だよ。僕には……父ちゃんとハルがいるから──』
「…………」
殆どの生徒が未だ夢の中であろう静かな早朝。隆道は目を覚ましゆっくりと身体を起こす。目覚めは決して良くはなく、身体は非常に重く感じていた。
「……くそったれが」
彼は夢を見ていた。それは世界を震撼させた事件から二年後、隆道の家族が別たれた日。
父親を捨て、自身と妹を連れてこうとする忌々しいかつての母親の顔を思い出し嫌悪感を覚える。
あれほど父親を愛していたのに『力』に溺れた母親はあっさりと捨てるというその醜さ。
何が愛しているだ。愛しているのは自分自身じゃないか。その中に何故父親を入れなかったのだと彼は顔を歪める。
「…………」
彼は目を自身の右手首に動かす。そこには腕輪──ではなく犬用の古びた首輪。手首に巻き付け外れないようになっており、そこには『ハル』と文字が彫られてる。それは彼が身に纏う唯一の形見だ。
「……っ」
彼に残されてるものは自宅を除けば形見のみ。生きる意味などとうに失っている。一人でなんて生きられない。それに今の社会は男にとっては地獄だ、いつ朽ち果てても可笑しくない。
「……まだだ」
だが、彼は立ち上がる。思い出すのは一人目の男性IS操縦者、織斑一夏。
自分が支えなければ、誰が彼を支えるのか。彼には幼馴染はいるが女性というのもあり、常に気を遣うはず。
既に自分自身はボロボロなのだ。ならばせめて朽ち果てるまで彼を支えなくてはならない。
彼は台所まで行き、錠剤を二つ飲み込む。しばらくして俯いた顔を上げた彼の顔は何かを決意したようなものだった。
「大丈夫……大丈夫だ」
IS学園三日目。彼のIS学園生活はまだ始まったばかり。
「結局駄目だったのか。訓練機を借りるのは」
「はい、どうやら予約でいっぱいらしくて」
一時限目終了後の休み時間。一夏は隆道に言った最初の一言は訓練機を借りられないという事であった。
昨日の放課後、箒にしごかれた一夏は帰りの際彼と別れ職員室に行き、訓練機を借りれないか副担任の真耶に相談した。
結果はNO。だが、それも仕方ない事であった。
IS学園にある専用機を除くISは教員用と訓練機を合わせても三十機もない。訓練機と言えど数は限られている。三学年、二学年、一学年と優先順位があるという事もあり、直ぐ様借りる事は出来ない。
「余計詰みじゃねぇか、どうすんだこれ。専用機はまだ届かず、訓練機も使わせて貰えない。負けろって言ってるようなもんだぞ」
「山田先生も言ってたんですけど、今のところ知識を身につけるしかないですね……。授業には食いついてはいるんですけど……」
そう言って顔をより暗くする一夏。授業に付いていくだけでいっぱいいっぱいのようだ。
「しょうがねえだろ。元々はある程度の事前予習が必要だ。バカみたいに分厚い参考書だってあるわけだしよ。まあ……どっかの誰かは電話帳と間違えて捨てたみたいだが」
「ぐっ……随分痛いとこ突きますね。というより聞いてたんですか……」
「耳が聞こえないわけじゃないからな。てか、どうやったら電話帳と間違うんだ」
「……返す言葉もございません」
彼の言葉にクリティカルヒットし、ぐうの音も出ない一夏。ただでさえ知識は彼を除いた他生徒より遅れてるのだ。入学前に渡された参考書すら捨ててしまえば授業についていけなくなるのも至極当然の事。
IS学園に来てから反省事があまりに多過ぎる。もしかしたら自分は駄目な奴なのではないかと、そう思ってしまう一夏はどんどん顔に影が差す。
「そう落ち込むなよ。だから俺の参考書渡したんじゃねえか」
「そこは凄く助かってますけど……良いんですか?」
「良いんだよ。読む気なんて端から無いからな」
彼は昨日の帰り、一夏に参考書を渡した。一夏の参考書の再発行は来週までかかるため、読む気も無いので丁度いいだろうと。
「徹底してますね……。ちふ、織斑先生が聞いたらなんて言うやら」
「知るかよ」
まるで千冬などこれっぽっちも恐れてない様な振る舞いを見せる彼に一夏は顔を引き攣る。それと同時にかなり肝が座っている隆道が羨ましく思う一夏であった。
「あ、そういえば先生で思い出したんですけど。昨日訓練機を借りようとした時、山田先生の様子がおかしかったんですよ」
「おかしかった?」
「ええ、まるでおぞましいものでも見たような、そんな感じで。言葉も少しどもってたんです。今日の一時限目の時もそうですよ。というより昨日より酷かったですね」
「ふーん。顔なんて見てすらいねえからわかんねえや。どうせホラー映画的な物でも見たんだろ」
そうなのだろうかと首を傾げる一夏。しかしあの怯え方はそうでないと感が告げる。授業中、何処かを見るたびに怯えていたような──。
「そんなことより授業始まるぞ。また出席簿食らいたいのか」
「うわやばっ! じ、じゃあ柳さん、また後で」
「ん」
午前授業が終わり昼食時間となる正午。隆道はまたしても一夏の誘いを断り購買に向かっていた。昨日のおにぎりと唐揚げが忘れられなかったのだ。
あの静かな場所で食べた素朴なおにぎりと濃厚な味付けをした唐揚げは、隆道の胃袋をがっちりと掴んでいた。
いくら女性嫌いな隆道でも食欲には勝てない。生徒がいる可能性があるが、そんなことどうだっていい。関わらなければ問題は無いのだ。
漸く購買にたどり着いた彼は直ぐ様カウンターへ足を運ぶ。途中で近くにいた生徒達が彼に気づくなり道を開けひそひそ話を始めるが今の彼にとってはどうでもいい事。女性嫌いは治らなかったが隆道を虜にしたおにぎり&唐揚げパワー恐るべし。
「……? あら、また来たのかい」
「昨日のやつをくれ」
購買の女性が隆道に気づくと直ぐ様彼は財布を取り出し五百円玉をカウンターにパチンッと勢いよく押し付ける。どれだけ欲しているのだろうかこの男は。
「……ふふっ、ちょっと待ってな」
彼の行動に面食らったような顔をした彼女は、やがて笑顔を見せ棚を漁る。いくつかのおにぎりと数種類のおかずを紙袋に詰めペットボトルと一緒に隆道に渡した。
「昨日はいきなりだったからね。梅じゃ味気無かっただろう?他にも色々詰めておいたから」
「……どうも」
五百円玉しか渡して無いにも関わらず色々と詰めてきた彼女に一応礼を言い、隆道は早々に立ち去る。
「……昨日よりはマシになった、かな」
女性不信は相変わらずだったが昨日と比べるとだいぶ落ち着いてるように見える。信用されてはいないが、今は良しということにしようと、彼女は小さく頷いた。
「おお……」
屋上に着き以前のベンチに座り込んで紙袋の中身を見ると、そこには昨日よりもおかずが二つほど増えていた。
(昨日のおにぎりと唐揚げだけじゃなく、春巻きに……だし巻き卵かこれ?五百円で買える量じゃねえぞ)
昨日のやつをくれとは言ったが、まさか追加するとは思わなかった。しかも量が凄まじく、コンビニ等で買えば軽く千円は超えるのは確実だ。
自然と唾を飲み込む隆道。勝手に追加したのは向こうなのだ。有り難く頂こうと、手始めにおにぎりから手をつけた。
(鮭か。もう一つは昆布だな、はみ出てんぞ)
女子が絶対に食いきれないであろうその巨大なおにぎりにかぶりつくと、日本人がよく知る赤身が見え絶妙な塩加減が舌を唸らせる。もう一つは完全に昆布がはみ出ている。きっと中身はぎっしり詰まってるに違いない。
「…………」
おにぎりに夢中になる所ではあったがおかずも忘れてはならない。春巻きにもかぶりつき、立て続けにだし巻き卵を口に放り込む。春巻きは出来立てに近く、皮は良い具合にカリッとしている。だし巻き卵もこれまた絶品でほのかに甘い。
「……うまいな」
ふと、自然に言葉が出てしまった。一つ一つは大したものではないが、隆道はここ最近食べた物の中で格別に旨いと感じていた。
「……明日も行くか」
別に彼女を信用している訳ではない。しかし、彼の舌が、胃袋が完全に覚えてしまった。
このIS学園での昼食は決まりだ。明日は何かなと笑みを溢しそうになる。
誰にも邪魔されない、のどかな風景での食事。少なくとも隆道の壊れかけた心を癒した事は確かだった。
隆道の心が癒されてる頃、場所は変わって職員室。机で頬杖をつきながら一枚の書類を眺める千冬は頭を抱えそうになっていた。
「やはりきたか……」
その一枚の書類には、二人目の処遇について明確に記されていた。
『柳隆道のIS搭乗によるデータ採取』
世界中が欲している男性IS操縦者。そのデータ採取を催促されるのは当然の事だ。世界がまた革新することになるかもしれないものを放ったらかしにするわけがない。しかし、千冬は今回ばかりは避けたい所であった。
一人目であり、自分の弟である織斑一夏の処遇が決まった時は怒りを覚えた。
今まで一夏にはIS関連に関わらせる事は決して無かった。なのに彼がISを動かせてしまった事、IS学園に入る羽目になった事、データ採取を目的とした彼の専用機が決定したこと。
全てが無駄になってしまった。あれほど徹底的にISから遠ざけたのにだ。そのツケとして一夏は授業で苦しんでいる。こんなことなら遠ざけず知識だけでも与えればよかったと千冬は後悔した。
そして現在、千冬の最大の悩みである二人目の男性IS操縦者、柳隆道。
女尊男卑の直接的被害により筋金入りの女性とIS嫌いである彼もまた政府が専用機を渡す事が決定した。
一夏と違って機体は最新型ではないが、問題はそこじゃない。彼自身がISに搭乗するのを強く拒絶している事だ。
適性検査で起動した際にISの機能の一つである操縦者を安定に保つ機能があるにも関わらず、錯乱し大暴れした彼を乗せるのは千冬も反対だった。
それに、昨日見たモノレールの映像記録の事もある。もし、アレをIS学園内で見ることになったら──。
「……っ」
今思い出すだけでも吐き気がすると、千冬は苦虫を噛んだように顔を歪めた。
アレはダメだ。あんなものを見てしまったら隆道がどれだけ女性とISを憎んでいるのか想像も出来ない。
そんな彼に専用機を渡すなど、死よりも地獄を与えるのに等しい。
だが、政府はそんなこと知ったことではない。最早一夏や隆道を人として見ていなく、データ採取の実験体として認識している。
「……くそっ」
隆道に伝えなければならない。真耶は千冬と同様に例の映像記録を見てしまった為、完全に隆道に対して怯えてしまった以上自分が伝えるしかない。いったいどれほど罵倒されるだろうか。現時点で信用なぞマイナスだが今回の件で更に溝が深まるだろう。
「ままならんもんだな……」
放課後の剣道場にて。
箒の宣言通り稽古が始まり約三時間程。一夏は完全に伸びており魂が見えそうになっていた。
「────」
「大丈夫かよ織斑……。三時間もぶっ通しでやるからそうなるんだ。
とても大丈夫そうには見えないが、隆道は一夏に一応声を掛けて反応を見る。
箒による怒涛のノンストップ稽古は一夏を燃え尽きさせるのには十二分な効果があった。というか彼女がタフ過ぎた。あの身体のどこにあれだけのスタミナがあるのだろうか。
「み……、み──」
「あーはいはい、水な。今持ってくるから待ってろ」
反応があるという事は大丈夫だなと、隆道は鞄から予め用意していた小さめのペットボトルを取り出す。剣道場の端っこで未だに力尽きている一夏の身体を起こしそれを飲ませた。
「軽い脱水状態だな。水じゃねえけど飲め」
「……っはぁ! ……ありがとう、ございます。何ですこれ? スポーツドリンクにしては透明ですし、味も変わってますね」
渡された物を一気に飲み干す一夏だが、見たこと無いものだなとそれを凝視する。
それは普段目にする500mlのペットボトルより約半分ほど小さく、名前もアルファベットと数字のみ。くるりと回すと使用目的や注意事項がびっしりと書いてある。
「経口補水液だ。スポーツドリンクより電解質濃度が高いし糖濃度が低いから吸収は速いぞ」
「け、けーこーほすいえき? で、でんかい? とうのうど?」
馴染みの無い言葉の羅列に一夏は疑問が絶えない。全然分からない、スポーツドリンクとは違うのかと。
「汗かくと身体の塩分が無くなるだろ? 塩分=電解質濃度と思っとけばいい。糖濃度はブドウ糖の事だ。ブドウ糖は聞いたことぐらいあるだろ。塩分取る時にブドウ糖も取るべきなんだが、少なすぎても多すぎてもダメだ。だがこれだったらそんな事解決しちまう」
そういって隆道は鞄からもう一つ同じ物を取り出し一夏に渡す。
要はスポーツドリンクより効き目が高いって事だなと、一夏は再度渡された物を飲みながら無理矢理納得した。
「だが気を付けろよ。病者用食品だから多用はやめとけ。あくまでこれは脱水対策だからな。普段なら水やスポーツドリンクで十分だ」
「へー、結構物知りですね。というよりなんで持ってたんです?」
「あのバッグに数本入ってたからな、せっかくだから一応持ってきた。……つかはよ着替えてこい。どんだけ汗かいたと思ってるんだ」
「ああ、すみません。直ぐ戻りますんで」
自分の汗臭さに気づき、颯爽と更衣室に行く一夏。彼はそんな一夏を見てこう呟いた。
「あいつ、来週まで持つのか………?」
この調子だと恐らく来週の月曜日にはミイラになるかもしれない。色々用意しとくかと、一夏のサポートをすることを決めた。
一夏の着替えが終わり、隆道と二人で駄弁りながら寮に戻る最中、後ろから声が掛かる。
「柳、話がある」
「……なんだよ」
二人が後ろを向くとそこにいたのは千冬一人。しかし心なしか、彼女から覇気を感じられない。少なくとも一夏にはそう見えた。
何の用だと、隆道は敵意を露にし千冬を睨む。
「授業態度がなってないから個別指導ってか? 言っとくが──」
「違う、その事はいい。別件でとても大事なことだ」
余程の事なのか、千冬は隆道に睨まれても下がろうとはしない。逃げてもどうせ無駄だろうと、隆道は渋々応じる事にした。
「さっさと要件言えよ」
「ここでは話せない、ついてきてくれるか?」
「……分かった。織斑、悪いが先に帰ってくれ」
「え、でも……えっと」
一夏は不安であった。隆道と千冬を二人にして良いものかと。この三日間で隆道の女性嫌いは嫌と言うほど理解している。他者がいてもあの調子なのだ、二人きりになってしまえばどうなるかなど想像出来る。
そんな彼に対し隆道は優しく微笑んだ。
「心配すんな。用が済んだら後で部屋に行くから」
不安を隠せてない一夏にそう一言言って、隆道は千冬の後についていった。
「……笑った顔、初めてみたな」
此方を安心させる為なのだろうか。彼がした、初めての笑顔を見た一夏の不安は不思議と消えていた。
しばらく歩き隆道と千冬は個別指導室に到着、中に入るなり彼女は鍵を閉めた。個別指導室は完全な防音仕様だ、音が漏れる事はない。
「……それで、話ってなんだよブリュンヒルデ」
二人きりになった直後、敵意と警戒心を最大限にぶつける隆道。あそこでは話せないと彼女は言った。誰にも聞かれたくない事だ、絶対ろくなことじゃない内容だと隆道は確信している。
「……お前の機体についてだ。近々専用機が渡される事が決定した」
「……!」
その一言で隆道の治まっていた憎悪と殺意が一気に溢れだし千冬に襲い掛かる。
ここ二日で多少は落ち着き、憩いの場や一夏の存在もあって大人しくなった彼であったが彼女の言葉によってそれも全て消えた。
この世界で専用機を渡されるのは名誉な事この上ない。しかしそれが男性となれば話が変わってくる。
『モルモット』
その単語が彼の頭を過る。世界に二人しかいない男性IS操縦者。何故動かせたのか、乗らせてどういった成果が得られるのか。国が、世界がそれを知りたがっている。
彼は自分がどれ程の価値があるかを理解している。数少ない貴重なISに乗せてデータを取らせる事は何も不思議じゃない。
だが理解と納得は別物だ。自ら実験体になる物好きなど滅多にいない。
それに加え、自身が忌み嫌うISを纏う。隆道にとってはこれ以上ない苦痛だ。
(結局、こうなるのかよ……)
ISに乗らない。隆道はそう豪語はしたが所詮は青二才。世界には逆らえないのだ。
女性に人として見られず、今度は世界からも人として見られない。そう思うと彼の心は段々と黒く染まっていく。
千冬は以前よりも増した負の感情の前に後退りしそうになるが、これを耐える。
「やっぱり、か。……そうだよなぁ、じゃなかったら無理矢理こんなところに連れてくなんてしねえよなあ」
その言葉は初日で見せたものより黒く、暗い。
セシリアに向けたそれとは比べ物にならない程のどす黒い何かを前にして千冬は息苦しくなる。
あの時より更に悪化している。彼の女性とISに対する感情はもはや物差しでは計れない。
初日は油断していた為に真耶同様尻もちをついてしまったが今度はそうはいかないと、彼女は全力で耐えた。
「……それについては、すまないと思っている。お前をISに乗せるのは私も反対だ。だが政府が男性IS操縦者のデータを取れとな……。私は所詮教師だ、こればかりはどうにもならなかった……」
それくらい隆道でも分かっている。世界最強など只の飾りだ。多少の融通は利くかも知れないが限界はある。
彼は、もう二度とISから逃げられないのだ。
これ以上は無意味だ。そう考えた隆道は感情を引っ込め話を続ける事にした。
「……そうかよ。んで、何に乗れってんだ」
「……政府が量産機を手配するそうだ。日曜には学園に届くからその時にまた連絡する。……本当にすまない」
「思ってもいない癖に謝るな、虫酸が走る。……用は済んだか?俺は帰るぞ」
「……ああ」
そういって隆道は部屋から出ようとする。扉の前まで行った時、何かを思い出したのか立ち止まり、顔だけを千冬に向けた。
「そうだ、せっかくここにはあんたしかいないんだ。今のうちに言っておきたいことがある」
「……なんだ」
今度は何を言われるのか、罵倒でも何でも来いと千冬は身構えるが──隆道の言葉によってそれはあっさり砕け散る。
「──。────。」
彼が発した言葉はとても小さく、近くにいても耳を澄まさない限り聞こえはしないだろう。
だが千冬には聞こえた。聞こえてしまった。それを聞いた彼女は大きく目を見開き、震える。
「柳……お前──」
「よく覚えとけ。俺はあんたと、
その一言を最後に、彼は部屋から出ていき勢いよく扉を閉めた。
「…………」
千冬はその場から動かなかった──いや、動けなかったと言った方が正しいのかも知れない。
彼が自分に発した言葉。あれは憶測や確信などでは決してなかった。
彼は知っている。
「……憎まれて当然、か」
もはや彼から信用を得ることは不可能に近い。そう確信した千冬は近くの椅子にもたれかかり、深くため息を吐いた。