毎朝の走り込みもすっかりと慣れていた。
最初は早起きするのがきつかったり、疲れてしまって授業中に眠くなったりもしたけれど、今はもうそんなことはない。これが習慣化するということだろうか。
慣れたら慣れたで公園の中だけでは物足りない感じがする。ダッシュする距離としては問題ないのだが、持久走をするのはちょっとな。ぐるぐると公園の中を回っているだけじゃあ面白味がない。
だけどあまり遠くに行かないようにと母から言われている。朝早くからだって近所の公園だからこそ許可されているのだ。小学四年生にもなったし、そろそろ許可してもらえないだろうか。
今朝も準備体操をしてから走り込みを始める。近所のおじいさんが散歩をしにきていたのであいさつをする。中には体操をしに公園を訪れている人もいた。始めたばかりの一年生の時はあまり人がいなかったと思うのだが、現在は適度な運動を意識してなのか、朝の公園に人が増えていた。
軽くランニングをしてからダッシュを何本も繰り返す。ダッシュ力の向上は確かに出ていた。前世ではそこそこでしかなかった脚力は今では学年トップクラスである。まあ本郷には負けてしまったけどな。
脚の前側ではなく後ろ側の筋肉を使うように意識する。確か後ろ側の筋肉を使う方が短距離では速いのだと、前世で読んだスポーツ漫画で言ってた気がするのだ。
最初は筋肉の意識なんてよくわからなかった。それでもこうやって何年も続けていれば感覚としてわかってくるものである。
息が上がるまでダッシュを繰り返した。その後は持久走だ。公園の端っこに沿って走る。
これも最初はそれほど時間が経過していないのにすぐ苦しくなったものである。ただ体力は水泳をしていることもあってかメキメキと上がっていった。
こうやって努力を重ねているおかげもあって俺の運動能力は上がっている。それは確かだ。それでもすでに俺よりも優秀な同世代はいるのだ。
サッカーでは本郷に一対一で勝てないし、水泳では瞳子ちゃんよりもタイムが下だったりする。同じ学校の中でさえこれなのだから全国的に見れば俺よりも優秀な小学四年生はたくさんいるのだろう。
逆行していてもやっぱり天才にはなれないらしい。それで下を向く理由にはならないんだろうけどな。
「あっ、俊成くんだ。今日もがんばってるんだねー」
柔らかい声がしてそちらを向けば、自転車を押しながら公園に入ってくる野沢先輩の姿があった。
中学生である野沢先輩は学校指定のセーラー服である。小学校の制服と違ってまた大人っぽい装いになったと思う。
野沢先輩は今中学二年生だったか。一番体の成長の幅が大きい時期だろう。実際、体にも女性らしさが出てきた気がする。
微笑む表情からは年下に対する優しさを感じる。小学校を卒業しても野沢先輩は俺をかわいがってくれていた。
「野沢先輩おはようございます。朝練はいいんですか?」
「もちろん朝練には行くよー。でも私だって先輩になったからね。後輩が練習の準備をしてくれるようになったからもうちょっとだけ時間があるんだ」
野沢先輩は「先輩」を強調して胸を張る。後輩ができて嬉しいようだった。かわいい。
彼女は中学生になって陸上部に所属していた。小学生時代は俺と毎朝走り込みをして水泳もがんばっていた。がんばっている野沢先輩は中学でもその努力を続けて、中二ですでに陸上部のエースとして活躍していた。
「俊成くんは毎日走ってるんだ?」
「雨が降った時なんかはさすがに走ってないですけどね。その時は家の中でできる体操をしてます」
「ふぅん。なんだか体もたくましくなってるね。初めて会った時はこんなにも小さかったのに」
そう言いながら野沢先輩は親指と人差し指でこれくらいと大きさを示す。それだと豆粒くらいの大きさになっちゃいますけどね。
野沢先輩は俺の頭から足の先まで目を走らせる。ふむふむ、と呟きながら俺の体をぺたぺたと触り始めた。
「え、せ、先輩っ!?」
「なかなか引き締ってるよね。本当にいい脚だと思うよ」
勝手に納得するように頷いて俺の両脚を両手で挟む。感触を確かめるようにぎゅっぎゅっと握られる。
動悸が激しいのは走って乱れただけじゃない。女性として体が成長した年上のお姉さんに触られるのは、なんというかこう……やばいのです!
俺が固まっているとその様子にようやく気づいてくれた。野沢先輩は「いきなりごめんね」と謝りながら手を離してくれた。手の温かさが消えてちょっと寒くなった。
「中学生になったら陸上部に入りなよ。俊成くんならいいタイム出せると思うよ」
「いや、俺が中学生になる頃って野沢先輩いないじゃないですか」
「ん? そうだけど」
「野沢先輩がいないんだったらあんまり陸上に興味持てないです」
「……ふふっ、かわいいなぁ」
陸上はちょっとマイナーな感じもするからね。まあオリンピックだとけっこう目立つ競技ではあるんだけども。
それに、すでに足の速さでは本郷に負けてしまっているのだ。足のスペシャリストが集まる陸上の世界で簡単にやっていけるとも思えない。
「じゃあ中学での部活は別のに興味があったりするの?」
「いえ、まだ中学のことなんて考えてないですよ。今年からクラブ活動がありますからね。まずはそっちです」
「あー、クラブ活動って四年生からだったよね。懐かしいなぁ」
野沢先輩は懐かしそうに目を細める。まだ過去を懐かしむ年齢でもないと思うのだが。
うちの学校では四年生から六年生までクラブ活動というものがあるのだ。これは授業の一環なので時間割に入っている。
クラブ活動には陸上やサッカーなどの運動系はもちろん、手芸や漫画研究などの文化系クラブもある。レクリエーションクラブなんていう自由に遊びを考えて実行するというものまであるのだ。本当にいろんなのがあるな。
その中から俺が選んだクラブとは……、それは将棋クラブである!
……意外と思われるかもしれない。俺も最初は考えてなかったからな。
四年生は初めてクラブ活動をやるので、最初は説明会みたいなものが行われた。それから各々どのクラブに入るか決めるのだが、ここで揉めたのは葵ちゃんと瞳子ちゃんだった。
俺がどのクラブに入るかで二人の意見は対立した。瞳子ちゃんは運動クラブを、葵ちゃんは文化クラブを主張。意見がかみ合わずに言い合いに発展してしまった。
俺の意見は? と立ち尽くすわけにもいかないので俺は二人の間に入った。落としどころはどこかと考えた。
葵ちゃんはあまり運動ができない。どのスポーツをやらせてもあまり期待はできないだろう。一応あまり動かなくてもよさそうな卓球はどうかと提案したのだが、これには二人揃って渋い顔をされてしまった。なぜだ。
横から空気を読まない本郷が「高木、サッカーやろうぜ!」とか言ってきたけど無視させてもらった。瞳子ちゃんなんかは「サッカーはないわね」と言う始末。瞳子ちゃんはなぜか本郷に対して冷たい。
そんなわけで文化クラブの方に目を向けてみた。葵ちゃんはピアノをやっているし、瞳子ちゃんもやめたとはいえ経験があるという理由で音楽クラブを挙げてみた。まあ俺はあんまりできないんだけども。
しかしこれもなぜか却下される。これまた二人して渋い顔をしていた。よくわからん。
将来漫画家とかどうかな? とちょっと目指していたのもあって漫画研究クラブに目を向けた。けれど瞳子ちゃんだけじゃなく、葵ちゃんにさえ俺は絵の上手さで負けてしまっていたのだ。というか一向に上達してないし……。もうこれはさすがに才能がないだろうと思って諦めたので却下した。
そこで見つけたのが将棋クラブだった。
前世で社会人になってから上司に誘われて将棋を指す機会があった。駒の動かし方くらいは知っていたので相手をさせられたのだ。
最初は接待みたいな感じだなとげんなりしていたのだが、その上司が戦法や囲いなど丁寧に教えてくれたのだ。しかも将棋を指したということで仲間意識が芽生えたのか、仕事でその上司にたくさんお世話になった。
なんだかんだで前世の俺がまあまあの位置にいられたのは将棋のおかげと言っても決して間違いではないのかもしれない。将棋がなければその上司から目をかけられることもなかったのかもしれない。その辺はもしもの話になってしまうのだが。
そんなちょっと思い入れのあるゲームである。麻雀は少しトラブルもあったし、俺は大人の遊びとして将棋を推すね。
数あるクラブの中を見渡しても将棋には将来性があると感じてしまったのだ。またそういった上司に出会えるかもしれないし、もしかしたらプロとか目指せるかも? とか考えた。
前世では中学生という若さで連勝しまくった子がいたからな。ニュースで取り上げられるくらいすごかった。これからがんばれば俺だってもしかしたらいけるかもしれないと、その時思ったのだ。思っちゃったのである。
でも将棋は女の子には受けが悪いだろう。アピールとして将棋は頭脳のスポーツだとか、知性があって魅力的だよね、とかいろいろと良いことを言ってみた。その時に葵ちゃんと瞳子ちゃんがしばし見つめ合ったかと思えば了承の頷きを同時にしてくれたのだ。これにはちょっと二人の好みがわからないと思ってしまった。
その後、将棋クラブに入る小学生はあまりいないだろうと思って佐藤を誘った。するとセットでついてくるといった感じで赤城さんもついてきた。
俺がそんな流れを野沢先輩に説明すると、彼女はぽんと手を打った。
「あー、そうそう。そういえば拓海がそんなこと言ってたねー」
やっぱり聞いていたのか……。
野沢先輩のこの反応の通り、弟である野沢くんは俺が将棋クラブに入ったことを知っている。なぜなら彼も将棋クラブに所属しているからである。
俺が将棋クラブに入って「小学生相手に無双してやるぜ!」などと考えながら意気揚々としていた時。初めて対戦したのがその野沢くんだったのだ。
その結果は? ……はい、あっさりと捻り潰されました。
野沢先輩は運動で優秀だったが、その弟さんは将棋で優秀だったのだ。クラブの先生でさえ勝てないくらい強いのだとか。負けた後に「今度は飛車角落ちでやってやるよ」と言われた時の悔しさったらない。もう将棋でプロを目指すなんて絶対に口にしないと決めた。儚い夢でしたね……。
「でも意外。俊成くんは運動クラブに入ると思ってたから」
「まあ、運動だけじゃなくて頭の回転も鋭くしたいですからね」
「そっかー。すごいねー」
まあ運動に関してはこうやって朝走ってるし、水泳だって続けている。体だけじゃなく、脳を鍛えるという風に考えれば、将棋クラブに入ったのは決して間違いではないのかもしれない。
クラブ活動は学年が上がればまた変更もできる。今はせっかく選んだことをしっかりやっていこうじゃないか。
「野沢先輩、そろそろ朝練に行かないといけないんじゃないですか?」
「あっ、そうだね。それじゃあまたね俊成くん」
俺と野沢先輩は互いに手を振って別れた。俺も帰って学校の準備をしなきゃな。
今年から始まったクラブ活動、最初の目標は野沢くんにハンデなしで指せるようになることかな。頭の中で盤面を思い描きながら家路に就いた。