詠春拳を習うと、三ヶ月で使いたくなり六ヶ月で喧嘩をしたくなり九ヶ月で人を殺したくなる


らしいです

1 / 1








飛沫

 衝動は、ほとんど抑え難いものになっていた。不意に襲いかかってくる感情は理不尽なほどで、妖夢は自分の躰を抱きすくめるようにしてそれに耐えた。右手が、意思を持った動物のように動いた。腰。咄嗟に左手で抑えた。震えが一瞬で躰中へと広がった。

 来たときと同じように、その感情は唐突に霧散した。妖夢は足元を見回した。長い時間を耐えていたように感じたが、影は微塵も動いてはいなかった。錯覚だったのではないかという思いが湧く。願望にも似たそれを汗で濡れた服が否定した。全身が、雨に打たれたようになっている。

 ひとつ息を吐いて、妖夢は自室へと足を向けた。まだやらねばならないことは残っていたが、それも着替えてからの話だ。

 

 箪笥から白のシャツに緑のベストとスカート、下の棚から靴下を取り出した。これに文机と刀掛台を加えた四つが妖夢の部屋のすべてだった。給金自体はそれなりに貰っている。ただ、あまり物を増やすのが好きではなかった。金の大半は人里での食事などの形に残らないものに消えた。

 手早く服を着替える。本当は風呂にでも入って綺麗に汗を流したかったが、沸かすのは夕方と決まっていた。太陽はまだ沈みそうもない。

 

 妖夢を呼ぶ声がした。脱いだ服を片手に部屋を出た。途中にある浴室の脱衣場には洗濯物を入れる籠が置かれてあった。その中に服を放り込み、調理場へと向かう。中々に食い意地の張った主人で、どれだけ昼餉を取っても必ず間食に甘味を求めるのだ。舌は上品だが味にうるさくないのが妖夢にとってはありがたかった。

 湯を沸かしながら食器棚から急須と湯呑み茶碗を取り出し、そこで妖夢は動きを止めた。白玉楼のおやつには特に決まったローテーションはなく、その日の気分で出すものを変える。この気分というのは勿論主人である幽々子の気分のことで、妖夢としてはそこを慮って考えなければならない。

 少し迷って、食器棚の上の箱から饅頭を三つ、皿にあげた。足りるわけもなかった。しかし、それでいいのだ。最初から充分な量を持っていくと消費が増えるというのは、短くない付き合いの中で学んだことだった。

 茶筒を細かく振って急須に茶葉を入れる。そこに少し冷ました湯を注ぐ。これでいいはずだ。一応の役職は庭師と剣術指南役であって、茶の淹れ方などには精通してはいない。店で買うときに小耳に挟んだやり方を、自分なりに実践してみただけだ。幽々子が特になにも言わないので、大きくは間違っていないだろう、とだけ思っている。

 

 盆に乗せて縁側へ歩く。白玉楼の庭は見事な枯山水になっていて、それを見ながら菓子をつまむのが幽々子の常だった。長い廊下を進むと、やはりいつもの場所に幽々子は腰掛けていた。庭を見つめる横顔には幽かな陰があり、整った鼻梁の美しさと射し込む光が陰影となってその場を一枚の絵画のようにみせた。観るものを殺しかねない絵だ。踏みだした右足の下で、床が軋んで音をたてた。こちらを向いた幽々子が、ぱっと破顔した。絵が崩れて、日常と非日常が一瞬だけ入り交じる。この瞬間が、妖夢はなんとなく好きだった。

 

「今日は饅頭にしました。甘みが強くて、お茶によく合うと思います。西側の、ほら、大きな通りから一つ隣にずれたところのやつです」

 

「へえ、それはいいわね」

 

 妖夢の説明を聞いて、幽々子はニコニコしながら頷いた。本当にどこの店のことなのか理解しているかは大分怪しい。滅多に外出をせず、したとしても人里に行くことは少ない。理由として思い当たる節はあるものの、それがどれぐらい的を射ているのか妖夢には判断がつかなかった。もしかしたら大した理由なんてものはなく、ただの気分かもしれない。そういった捉えづらさが、幽々子にはある。味以外のことで、店を覚えたりはしないのだ。

 

 気付けば、皿の上から饅頭が消えていた。幽々子は皿と妖夢に一度視線を走らせたが、自分から言い出すことはしなかった。こういったときの慎みは、幽々子の育ちの良さを感じさせた。はっきりと聞いた訳ではないが、生前は良家の令嬢であった風なことは紫との会話の中で察せられた。匂わされたと言ってもいい。主である幽々子よりも紫の方が、従者としての妖夢の教育には熱心だ。

 茶を啜る。すでに温くなっていたが、熱い茶であるかのように時間を掛けて啜った。なくなる傍から足していけば、それは最初からすべて出すのと変わらない。間を空ける方がいいのだ。

 

「平和ね、妖夢。私、こういった日が好きだわ」

 

 幽々子が言った。その通りだ、声には出さずに心の中で頷いた。妖夢も、穏やかな日が好きだった。鍛練は欠かさないが、それは主を、こういった日常を守るためのものだ。

 

 だから、人を斬りたいなどと、思うはずがないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 賑わいは、里の外からでも感じ取れた。今日が人形劇の日であることを妖夢は思い出した。

 

 月に二回、魔法の森からやってくる魔法使いによって行われる人形劇は、今や知らぬ人はいないほどの知名度と人気を得ていた。里の広場で行われる人形劇を見たいがために店を閉めて駆けつける人間も少なくない。それとは逆に、この日だけ広場に屋台を出すような人もいる。もっと目敏い商人などは、アリスと交渉して自分の店の商品を劇中に登場させたりしている。聞くところによると、当初乗り気でなかったアリスに対して飲料の無償提供を申し出たらしい。それで、アリスも渋々頷いたようだ。アリスは今までに二度、上演中に熱中症騒ぎを起こしていた。

 

 妖夢は、頭の中でいくつかの予定を整理した。果物屋は、駄目だろう。あそこの店主は人形劇にお熱だ。アリスにお熱と言い換えてもいい。定休日ではないが、開いているとは思えなかった。駄菓子屋も今日は広場か。人形劇で最も多い客層は子供、二番手がその親だ。そしてそれは、駄菓子屋の狙う顧客でもある。

 駄菓子屋はいいが、果物屋が開いていないのは困った。主は、西瓜を所望だ。幽々子の食への執着心の強さは並々ならないものがある。

 

 人里に関して、妖夢はあまり詳しくなかった。指南役と庭師というのは公的な立場のために与えられたようなもので、実態としては世話役兼護衛という色が強い。対象である幽々子が人里に滅多に降りてこないのだから、妖夢が疎いのは自然の数である。大まかな地図は浮かぶが、細かな風景まで思い出せるのは大通りの一つか二つが精々だった。行きつけの店が閉まっているのは頭の痛い話だ。

 大通りから路地に入り、また大通りに出ることを二回繰り返した。里に着く前まで軽かった買い物袋はこの間にその重量をじわりと増したが、そこに緑と黒の虎柄はない。

 

「なにか、お困りですか?」

 

 買い物袋とにらめっこしながら、さてどうしたものか、と考え込んでいると横から声が掛かった。里民のようで、そばかすを乗っけた顔で人の良さそうな笑みを浮かべた少女だった。妖夢は少女に躰を向けた。

 

「すみません、いきなり。袋を見ながら悩んでいるご様子だったので、つい」

 

 少女の言葉に、顔に熱が上がってくるのを自覚した。立ち尽くしながら買い物袋を眺める姿を思い浮かべて、おつかいに困った子どものようだと思ったからだ。それを、声を掛けようと思うぐらいには見られていたらしい。恥ずかしさが頭の中を駆け回った。

 

「実は行きつけのお店が閉まっていて、その、西瓜を探しているんですが」

 

 過ぎたことは仕方がないと思い直して、少女に尋ねた。投げやりになったといってもいい。

 

「西瓜。なるほど、少し季節が過ぎてますから見つけるのは難しいかもしれませんね。良かった、お力になれそうです」

 

 少女が言うには、少し歩いたところに親戚の店があり、そこはまだ西瓜置いているらしい。案内しましょうかという少女の言葉に、妖夢は一も二もなく頷いた。

 それでは、といいながら少女が歩き出し、妖夢は後を追った。大通りではなく路地を通って行くらしく、入り組んだ道を二人で進んだ。

 最も人が活発になる昼過ぎ、それも人形劇の日ということもあって、細い路地にはほとんど人影がなく閑散としていた。近所の住人は、大通りか広場に行っているか、さもなくば昼寝でもしているのであろう。雑草のざわめきすら、妖夢の耳には良く聞こえた。前を行く少女は、時おり話しかけてくるぐらいだ。

 

 唐突に思いつき、しかし鼓動はそこまで変わらなかった。静けさにあてられたのかも知れない。

 右手で柄を掴んだ。歩きながら、それと悟られないように腰を落としていく。

 衝動が湧いた訳ではなかった。むしろ、それを確認するための行動だ。

 鯉口を切れば、少女には気付かれるだろう。そんなことはどうでもいいことだった。少女が振り向く間に、首を落とし返す刀で胴体を切断するだけの技量が、妖夢にはある。

 斬れる。確信した。首でもなんでも、なんなら頭頂から袈裟に真っ二つにしてもいい。返り血の一滴すら浴びずに、少女の生を断つことができる。

 そこまで考え、その光景をはっきりと思い浮かべても、妖夢には少女を斬りたいという衝動は湧かなかった。

 

「どうかされましたか?」

 

 返事がないことに少女が振り返ったときには、もう妖夢は姿勢を戻していた。自然に笑みが浮かんだ。安堵が、心のなかに満ちてくる。

 

「なんでもないです。気のせいでした」

 

 少女は首を傾げ、とりあえずという感じで頷いた。

 

 

 

 

 

 

 茶は少し熱いくらいだった。息で冷ましながら、買い物袋を見た。

 袋の口から覗く黒と緑に、思わず顔が綻んだ。決まった店を回るだけのもう飽き飽きとしていたものではなく、人に尋ね普段入ったことのない店で買ったそれが、なんとなく面白かったのだ。これでいつもより質が良ければお手柄だな、と考えてやはり頬が緩んだ。

 

 ほどよく茶が冷めたのを確認して、団子を頬張った。人里の入り口付近にあるこの茶屋で一服して帰るのが、買い出しの時の妖夢の密かな楽しみだ。幽々子は甘味の強いものを好むが、甘さが控え目のこの団子が妖夢は好きだった。茶も苦味や渋味が少なくて、口の中でちょっと転がして飲み込むとさっぱりとした風味だけが僅かに残る。そこで二つほど呼吸をすると、すっきりした気分になれるのだ。活力の元である。

 奥から女性が出てきて、妖夢の皿に団子を一本置いた。ここの旦那の細君だった。茶目っ気のある微笑みを浮かべながら、人差し指を口の前に立てていた。妖夢は恐縮して頭を下げた。

 

「あんまり美味しそうに食べて貰ったからねぇ。うちの人には内緒さね」

 

 もう一度頭を下げながら、妖夢は幽々子の顔を思い浮かべた。縁側に腰かけながら饅頭に齧り付いたその瞬間の笑顔。好ましいものではあるが、自分がその顔をしていたと思うと、やはり頬が熱を持つ。どうにも、ままならない日だ。

 

 茶屋を辞し、買い物袋を左手に下げて帰途に就く。陽は目に見える限りの世界をようようと照らし、盛りの過ぎた暖かさで生命の優しさを煌めかせた。風に揺られるススキはまだまばらにしか尾花をつけておらず、熟せざるが故の力強さで道行く者の足取りを軽くさせた。妖夢は西瓜の味を想像していた。縄で縛り井戸に浸けよう。暦は秋にもなるのだから、冷やしすぎも良くはない。ほどほどで引き上げて、縦に割ってしまおう。果汁の一滴も無駄にはすまい。刃を入れた瞬間にはもう断ち切っていて、引くと同時に左右にごろんと倒れるのがいい。果肉の繊維を潰さぬように気をつけて、食べやすい大きさに切り分ける。幽々子はどれぐらい食べるだろうか。全部食べて貰った方が腐らす心配がなくて楽だが、後の食事に差し障るようでは困る。

 夢想を散らかしながらの帰り道はあっという間に半分を過ぎた。陽はまだまだ高いが辺りには僅かに霊気が漂い、時折肌寒く感じるようになっている。空気が澄み、ほんの小さな音でも耳にかかるようになった。

 

 音が先だったか気配が先だったかは判然としない。妖夢が気付いた時には道外れを走る雑木林の梢の向こうから、躍動の揺らぎが五感に訴えかけてきていたのだ。獣のものだ。その先には、人の気配もある。

 妖夢は辺りを見回してから、買い物袋を道から見えない位置に隠して雑木林に飛び込んだ。

 八雲一家とも付き合いのある妖夢は、幻想郷の在り方というものを知識としても感覚としても知っているし、妖怪に人間が喰われることも、その逆に人間が妖怪を退治することにも忌避はない。世の無常をちらと考えたりするだけだ。

 ただ、魔獣の類は別だった。生き物には違いない。しかし、知性の有無というのは妖夢にとって拭い難い種としての差なのだ。知性あるものが獣の手にかかり死ぬのは、無常ではなく不条理だと感じてしまうのだ。それを見過ごすことは、悟りや解脱のような昇華ではなく、地獄落ちに相応しい罪悪としか思えてならなかった。

 

 妖夢は一度上空に飛んだ。見下ろす視界に、明らかに風ではない揺れ方をしている木がある。その揺れは、北に向かって移動していく。

 思わず、首を傾げた。激しい競走が繰り広げられているのかと思ったが、どうにも風向きが違う。追う側らしい揺れはあるものの、逃げる側が見当たらないのだ。あるいは、獣たちの嗅覚の先で身動きが取れなくなっているのか。

 高度を下げた。木々の頂点が間近にきたところで、一気に降下した。地面すれすれになってから角度を上げ、地上と一瞬平行してから、空自在天法の術を解いた。妖夢を覆っていた浮力が掻き消え、躰は空に投げ出された。妖夢は空中で躰を縦に回転させて、着地すると同時に地面を蹴った。空から地へと移行する時は、多分これが一番速い。

 

 殿の一匹を捉えた。大きな猫のような見た目だが、四肢とは別にバッタのような足が付いている。その後ろ足が時にバランスを支え、時にぐんと加速をつける。

 距離はあるが、既に妖夢の間合いだった。実体としての刃以外に、霊力の刃もあるのだ。ただ、妖夢はまだ鯉口を切ってはいなかった。剣気を叩きつけただけだ。

 殿のバッタ猫が速度を上げた。剣気で締め付けながら、妖夢も駆けた。すぐに先行していたバッタ猫の後ろ姿が見えた。

 その時初めて、背負っていた楼観剣を腰だめにして、抜いた。身長と比べるといかにも扱い辛い長さだが、妖夢は苦にもしなかった。付き合いは浅くない。

 抜き撃ち。実体の楼観剣から僅かに遅れて、霊体の刃がバッタ猫を両断した。噴き上がった血をひらりと躱した。獣の血である。絶対に御免だ。

 

 屍体を飛び越えて、妖夢はまた剣気を放った。同じことを繰り返すつもりだったが、先に終点がやってきた。木の根本、うろのようになっている部分に肘から寄りかかる形で、男がひとり倒れていた。その周りではバッタ猫が二匹、振り返る姿で妖夢を見ていた。まだ死んでいない。それは、遠くからでも見てとれた。一拍溜めて妖夢が飛び上がるのに対して、バッタ猫たちの散開はいかにも遅かった。

 

「妖童餓鬼の断食」

 

 閃光、それから低く裂けるような音。落下を始めた妖夢の視界には、真っ赤な花が咲き乱れて映った。椿のようなそれは、高度が下がるにつれ細切れの肉片が目立ち始め、いつか無花果のようになった。血の香りと獣の臭気が入り乱れ、さながら死の暗黒がほんの息吹とともにその惨たらしい吐息を吹きかけたかのようだった。

 

「くさいなぁ、これだから嫌なんだ」

 

 パタパタと鼻の前を扇ぎながら、妖夢は男に近付いた。

 男が生きているのは気配でわかったが、目の前で戦闘があったにも関わらず微動だにしていなかった。ちょっと怖くなって、妖夢は刀の鐺で男の肩をつついた。僅かな身動ぎが返ってくる。飛び上がるでも無反応でもないのに安心して、声を掛けた。

 

「どうされました?足でも、挫かれましたか?」

 

 男の頭がのっそりと動いて、胡乱気な目付きで妖夢を見た。

 

「獣……」

 

「あの猫たちなら、私が片付けておきました。もう大丈夫ですよ」

 

「もういないだと?」

 

 男が辺りを見回し、鼻をつまんで顔をしかめた。風は吹いているが、それだけでは誤魔化しきれないほどに死臭が濃い。

 思い出して、妖夢は懐紙で刃を拭った。血や油ではなく、斬ったものとの縁を断ち切るためにも懐紙を遣うべきだ、というのが祖父の教えだったのだ。片身離さず携える刀である。有象無象との縁を絡みつけたままにするなど、妖夢には耐えられない。神経質にも見えかねないのを承知で、ゆっくりと隅々まで手を入れた。

 

 ふと、男の視線に気付いた。なにか珍妙な不可思議を見たという顔で、少し下がった眉が眉間に寄っている。唇が厚く、かすかに右上がりになっていて、全体として偏屈な意思の強さが感じられた。面倒な人助けをしたかもしれない、と思ったが、今更捨てるわけにもいかないだろう。知性なき獣たちが飢えを満たす充足を想うと、やはり妖夢の心は波立った。そのような光景は須らく淘汰されるべきであり、許されざる発露を防いだ自分の行いに妖夢は心中で胸を反らした。

 

「とりあえず、ここを抜けましょう。里まで歩けますか?」

 

「里とは?いや、そもそもここはどこだね?私は確かに……」

 

 妖夢は天を仰いだ。厄介ごと極まれりである。

 

「事情は大体わかりました。人里までお送りします。そこまで行けば貴方のような方の諸々を弁えてる方がいますので、あとはその人に訊いてください」

 

「死後の世界ではないのだな?」

 

「無論です」

 

 男が一つ息を吐き、それから低い声で喉を鳴らした。安堵の嗚咽かと思って一歩近寄ってから、妖夢の腕に粟がたった。笑っている。白い歯が妖夢の目にもはっきりと見えた。肺を病んだ患者のように胸を掻き抱きながら、低く低く、しかし口角が吊り上がり歯が漏れ見えるぐらいに、男は笑っている。

 

「やはり、抽象の世界がある。あるのだ。しかし人が人たり得たまま抽象に飛ぶのは荒唐無稽に過ぎると思っていた。物質界と精神界の円の、いや円であるならばだが、その交わりに現世があるのであれば、抽象とは物質を越え精神を摩擦し自我という自我をある単一の吾にしなければならない筈だ。その工程を一つの死が果たすというのはあまりに馬鹿げた機能だと思っていたのだ。消滅で渡れるほどに隣接した世界に抽象があるはずはないのだ。やはり違った。工程は未だ人の知覚の先にさらなる」

 

 尻もちをつきそうになるのを、寸でのところで妖夢はこらえた。圧倒されてのことだったが、それを恥じる余裕もなかった。男は両腕を開き、地面を鷲掴みにした。それは四足歩行の動物を思わせた。

 

「しかしこれはどういうことだ。今私の躰は一欠けもなく私であるように思える。死の持つ機能はただの橋としてだけなのか?死をもって橋を架け、葬をもって私は渡ったのか?いや、私が死んでからそこまでの時間は、時間、そうか時間か。私の認識はいったいどこまでが私のものなのだ。首を吊ってからどの程度の時間で橋が架かったのか。なんと馬鹿げた、意識の消失を伴うであろう死を私は私の認識で測ろうと、いやに愚かだ。今私に欠けがあったとしてそれを認識はできるのか?知覚の先の工程に今私が立っていないと、どうやって私が断じようか。ああああああああああああああしかしどこだ、私のどこが私を差し置いて抽象へと飛んだのだっ」

 

 呆けているであろう自分を、なぜか妖夢は客観的に観察した。男の言動は間違いなく自分のキャパシティを超えている。言っている言葉には知性がありそうだが、理性の灯はどこかに消えていた。不意にいやな衝動が湧き上がって、妖夢は躰を震わせた。

 

「あのっ」

 

 衝動を振り払うように声を挙げた。出た声は小さかった。

 

「楽の抽象、放の抽象。地か、地だな、間違いなく分解しえない地がここにあるな。つまらんほどの意識もあるな。いかなることだ。それともいかなるを測るがこそ抽象を遠ざけ私を地に縛るのか。どうやって飛ぶのだ。虚無か。しかし一度の死ではおよそ認識できない程度の吾の喪失でしかない。なにが必要なのだ。糾えるほどの死か。溶解か、粉砕か、焼却か、それとも手法ではなく深度を以てこの忌まわしき肉の呪縛を振り払うのか?しかしまて、物質の喪失を急ぐだけでよいのか。我をどうやって擦り減らすのだ。空間か時間か、大きさや長さで我を測らねばならんのか。いや、それに投影し同化することで、圧縮を以て摩耗と為せるのではないか?」

 

 呆から脱却した妖夢は、目の前の光景を確かに見た。理解は全く追いつかない。そして理解よりももっと早く鮮明な感情が追いついてきた。

 自分が鯉口を切っていることに妖夢は気付いた。それが先から背を脅かす衝動によるものか、それとも視界から受ける恐怖によるものかはわからなかった。ハッとして、右手を抑えた。相手は人間だ。

 ぐりん、と音のしそうな勢いで男の首が回った。目が合った。男の呟きが止んだ。顔は動かさず、目だけが妖夢の頭から爪先までを嬲った。その視線が腰の刀に向かい、固定された。

 

「お嬢さん、どうにも頼みがあるのだがね」

 

 声音は優しかったが、目はずっと刀を捉えて離さなかった。

 

「お嬢さん、いいかね」

 

 返事をしない妖夢に、男がまた声をかけた。ことさらに急かすような感じも、怒気もなかった。紳士的で理性的な振舞いだ、と思った。

 上手く声が出ず、妖夢は頷いた。まだ、恐怖と衝動が蟠っている。

 

「良かった。実は、その刀で私の首を、こう、斬り飛ばしてほしいのだが」

 

 ああ。言葉にせずに、妖夢は項垂れた。致命的ななにかが自分の中で進んでいるのが、生々しいほどにわかった。

 

「なぜ、です」

 

「ふむ、話せば長いが……端的に言えば、人生の充実というやつを私は抽象の中に置いているのだよ。わかるかね?人が物欲や性欲を満たすように、私は抽象に浸かっていたいわけだ。しかし肉と、それから精神のある世俗的な部分は大変足手まといでね。それをなんとかしたいのだよ」

 

「よく、わかりません」

 

「結構。大変結構。私も、わからなくなりたいのだ。そう考えると、死というのはわからなくなる近道と思わんかね?」

 

「人を斬るなんて」

 

「なに、君が斬るのは肉さ。ただ肉を貪るだけでいいのだ」

 

「わかりません」

 

「ふむ?おかしいな、獲物と思ってもらうだけでよいのだが」

 

 耳から入ってくる言葉は、何一つとして理解しえる形をしていなかった。耳を塞いでしまいたかった。ただ、それをすれば自分の意識が衝動と一直線に結ばれることは、はっきりとわかっている。粗暴で、淫蕩で、強欲で、醜悪な衝動と。

 

「人なんて、斬れません。だってそんな、野蛮な獣のようには」

 

「なるほど、うむ、しかし」

 

 全身に悪寒が走った。咄嗟に耳を塞ごうとしたが、もう間に合わなかった。

 

「私には、お嬢さんが人を斬りたがっているようにしか見えんがね」

 

 息を吐いた。その息ごと、人として重要なにかが躰から抜けていきそうな恐怖に襲われて、妖夢は激しく息を吸った。

 

「やめた方がいい、過呼吸をおこしかけているぞ」

 

 男はやはり、理性的に告げた。

 違うと、自分に言い聞かせた。この男はどこまでも狂人だ。狂人でなければならない。常人の感性と観察を保っていてはいけない。

 

「そんなこと、は、ない」

 

「なんのために右手を抑えているのかね?それは、今にも人を斬ろうとする手だからではないのかね?」

 

「違、う」

 

「そうか。これは老婆心だろうが、右手を抑えることに意味はないと教えておこう。斬殺の欲求は剣士の性だ。右手が毒されているのではなく、血とともに全身に回った毒が、一足はやく右手で発症したというだけだ」

 

「毒などないっ。剣の道には、精神の純化があるだけで」

 

 ようやく呼吸が整って、まともな言葉が出た。

 

「竹刀ならばね。刃はいずれ、飛沫となった血を浴びねば治まらなくなるだろう」

 

「そんなことは」

 

「ならばその右手を離したまえ」

 

 前後不覚に陥った。それが男の言葉を受け流すための防衛反応だということにしばらくしてから気付いた。回復した時、妖夢はまず右手を確認し、それが離れていないことに安堵すると同時に、口惜しさに似たものが肚の中に渦を巻くのを感じた。その回転を妖夢は必死に抑えようとした。それが渦に飲み込まれ肚の底に沈殿した時、取り返しのつかないなにかが起こることが確立した光景のように妖夢の頭に浮かんだ。

 

「門というのは、潜ってしまえばただの仕切りにすぎない」

 

 男の低い声が、辺りの葉をざわめかせながら響いた。分離し一個の人格になった自分が、言い聞かせているような声音に聴こえた。ただの仕切り。妖夢は刀を抜いた。それが自分の意志で行われたことが、ひどく客観的に理解できた。自分を試してみた自分を、自分が嗤った。衝動とは、条件と理屈で起きるものではない。回転が止み、着底した感情が今一瞬を生きようと猛りを吼えた。その温度差が妖夢を完膚無きに打ちのめした。

 

「私の所感を告げよう、お嬢さん。君は、獣だよ」

 

 横薙ぎ。力感のない一撃は、記憶にない鮮やかさを伴ったひと振りになった。

 

 

 

 

 

 

 

 手を洗った。西瓜はすでに切り分けて、縁側に座る幽々子に献上してある。それ以外の諸々を棚にぶち込んで、それから井戸で汲んだ水を桶に入れ猫車へ載せた。風呂を沸かすと言ったが、運んだ水の半分以上を手を洗うのに使った。途中で零したことにしてもう一度往復した。河童のところでライターが手に入るようになり、火を点けるのは以前とは比べものにならないほど易くなっている。

 

 するべきことがいくつかあった。それが明確に脳裏に浮かんでも、妖夢は火の前から動かなかった。火柱は風に煽られ千々に揺れ、時たま、邪悪な意思でも見つけたように一点へと集中し先端をくゆらせた。自分は火の中へ飛び込むべきではないかと、妖夢は幾度も自問した。それとは別に、あの横薙ぎを追い求める自分もいる。斬撃の極致と本質を見たような仄暗い昂揚が、薪が音を立てる度に焔の中に浮かび消えた。

 唇が乾燥していた。汗を掻いたのか前髪がしんなりと垂れ下がり、視界を途切れさせた。鬱陶しさに首を振るった一瞬、火の光線が妖夢の額を焼いた。

 

「妖夢もいらっしゃいな。西瓜、美味しいわよ」

 

 声を聞き縁側へと駆けた。多くの皮の隙間に、瑞々しい身を残した西瓜が一切れだけ残っていた。

 

「いい味ねえ。いつもの店はやっぱりいいわ」

 

 幽々子が頬に手を当てながら感嘆したような声を出した。何一つ代わり映えのしない日常がそこにはあった。

 一口、西瓜を齧った。それから種も気にせずに妖夢は西瓜を貪った。跳ね飛ぶ果汁が一滴二滴と妖夢のシャツを汚した。

 はやくこの西瓜を食らい尽くしてしまいたい。ただ、それだけを思っていた。

 

 

 

 

 











▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。