もしも……その喧嘩さえも、最初から何者かによって仕組まれたものだったとしたら……?
ある夫婦の場合を、覗いてみるとしましょう……。
夜も近づくこの街に、どこからか、ひょうきんな歌声が聞こえてくる。
俺の仕事は悪魔の仕事
人を狂わす悪魔の仕事
今日の狙いは人妻だい
見るほどきれいな横顔に
幸せ尽きた横顔に
俺は魔法をかけるのさ
俺は魔法をかけるのさ
「健二君、遅いなあ」夫の帰りを待ちわびて、由依はため息をついた。いつもより少し豪華な夕食もすでに出来上がっている。
今日は結婚記念日だ。由依と健二、二人が入籍してから、今年で三年になる。今日は、去年よりも一昨年よりももっと盛大なパーティーをしようと、由依は以前から計画していた。結婚生活には必ずつきものとなる、一抹の不安を振り払うためだ。健二ももっと真剣になってくれてもよかったはずなのだが、あまり、乗り気ではないようだった。特に、最近になると、彼はいつもそわそわして、落ち着きがなかった。
彼が会社から帰ってくる時間も、日に日に遅くなっていった。由依の振り払うべき不安も、彼の前には募るばかりだった。
「どうして、最近は帰りが遅いの?」
「えっ、そう?いつもと一緒じゃない?」
「一緒じゃないよ。いつもよりずーっと遅いよ?」
「そ、そうか…。今日はなるべく早く帰ってくるようにするよ」
「うん、ありがとう」
由依は今朝の会話を思い出していた。あの時、彼は作り笑いを浮かべ、汗をかいて必死に何かを隠そうとしているようだった。
どうしてだろう…?と由依は考えた。そしてため息をついた。酒でも飲んでいるのだろう。
「本当に自分は幸せなのか」、「本当にこの人と結婚してよかったのか」と考える機会が、近頃の由依には増えてきていた。
「さて、まずはここから……」悪魔は舌なめずりをした。
「そおーれっ!!」由依は魔法にかけられた。
「!」由依は突然気づいた。
健二はもしかしたら、浮気をしているのかもしれない。
でも、もしそうだったらどうしよう。由依は青ざめ、その場にへたり込んだ。膝ががくがくと震えた。嫌な汗が背中ににじみ、涙が出てきた。不吉な予感が由依の頭を支配する。
もし彼が私を愛してくれていなかったとしたら。今、見知らぬ女性と会っているのだとしたら。今日はもうこの家に戻ってこないつもりなのだとしたら。
結婚した時に一緒に買ったこの家が、私のためではなかったとしたら。そんなさかのぼったことまで由依は考えた。
(許せない)
由依は自分の中で復讐心が燃え上がったのを感じた。
(もし帰ってきたら、徹底的に問い詰めてやる)
(絶対に逃がさない)
にわかに由依の息は荒くなった。自分が何かに操られているようだった。
スマートフォンを素早く起動し、『浮気 徴候』と全力の速さでうち込んだ。何百万も出てきた検索結果の一番上に出てきたのは、『夫の帰りが遅い』だった。やっぱり、と由依はさらに息を荒くした。『浮気 徴候』の後ろに『対処法』とうち込んで、もう一度検索をかけた。『ほうきを持って対抗した』『ナイフを持って叫んだ』などが目に入った。自分も念のため、とエプロンのポケットに包丁を隠し持っておくことにした。
「ただいまー」健二が帰ってきた。
「…おかえりー」できるだけ明るい声で言い、由依はリビングで、健二を迎えうった。
「ねぇ、健二くん」
「ん?どうした?」健二は微笑んだが、今のこれが作り笑いなのか、本当の笑顔なのか、由依にはわからなかった。
「健二くん…浮気、してるんでしょ」
「え、何言ってんの」
「ごまかさないで!最近なんだか健二くんが落ち着かないのも!帰りがだんだん遅くなってるのも!全部、浮気してるからなんでしょ!」
「ちょっと待って」
「ねぇどうして?どうして浮気なんかしたの?」由依は続ける。健二は顔をしかめた。
「私?私のせいなの?私が全部悪いって思ってるの?ねぇ、健二くん?聞いてる?健二くん。健二くん!」
「うるさい!」健二が叫んだ。
「ああああ…。やっぱり、認めるんだ…やっぱり、私のことなんか、どうでもいいのね…。」由依は泣き崩れた。
健二は眉間にしわを寄せ、目を細めて、「…俺は浮気なんてしてない」といって二階へ、階段を昇っていった。
由依は机に突っ伏して、えんえんと泣き続けていた。希望なんて、2人の間には微塵も残されていないように感じた。
「…さて、これからが本番だぜ?」
「そおーれっ!!」二人は魔法にかけられた。
…どれくらい、眠ってしまったのだろう。
時計を見ると、十二時を回っていた。泣きすぎたせいか、目は腫れていたが、気分は少し、すっきりしていた。泣いては叫び、叫んでは泣いた数時間前が、嘘のように思えた。
階段を降りる音が、真夜中の一軒家に響きわたった。リビングの引き戸が空き、その向こうには真っ赤な目をした健二が立っていた。不思議なことに、とげとげしい感じは一切なかった。
「…ごめんな。由依…」呟くように、健二は言った。
「ううん。いいの…」由依は答えるが、どうしても涙声になってしまう。
健二は由依の向かいの席に軽く腰かけた。次の瞬間。
きれいに包装された小箱が、由依の前に置かれた。
「…ずっと、これを選んでたんだ。…由依へのプレゼント」健二は恥ずかしそうに、包装をはがしはじめた。由依は呆然とそれを見ている。
ぺらりぺらりと音のするたびに、二人は、誰かに慰められているような気分になった。
「毎日少しずつ、店に通って、由依の好きそうなものを、選んでいたんだけど、なかなか、決まらなくて」健二は包装をはがしていく。
「でも、由依には今日までは、絶対、バラしたくなかったから、ずっと言えなくて」
はがし終わって、現れたのは、ミニチュアの白馬をかたどった、オルゴールだった。健二は電源を入れ、音楽が流れはじめる。
「店、何軒も回って、最後の店でこれを見つけて。…ごめんな。長いこと待たせて」優しく、健二は言った。
「ううん、私の方こそ、ごめん。ごめん…!」しぼりだすように、由依は言った。流れている曲がサビに入り、ますます感極まって泣いてしまう。
抱きしめたい、と由依は思った。でも、そうしてはいけないような気がした。だって、ついさっき、健二をあんなに疑って、疑って、疑い倒してしまったのだから。
オルゴールの音色の中、まだ泣きながら由依が顔を上げると、そこには健二の姿はなく、寂しくなって、また涙があふれたときには、後ろから、抱きしめられていた。
「愛してる」健二はそれだけ言った。
「私も」由依もそれだけ答え、健二の手を握った。
「…さて、もうこんな時間だ」健二は伸びをして、「良い子は寝る時間。由依も、寝る時間だ」由依に手を伸ばした。
「うん」由依はうなずき、彼の手を取った。大きな、温かい手だった。
由依はエプロンを外し、健二と手をつないで、二階の寝室に向かった。
二人の中は、より一層深まったようだった。
「いい顔してたじゃねぇか、あいつら。…おっと、エプロンの中身は、片付けとかねえとな」
「今日もまた、人を幸せにしたぜ。とはいっても、そのために"不幸"を振りまくのが、俺様の仕事なんだがな」
「ま、長い人生だ。こういうことの一つや二つ、あったっていいだろう?ケケケ……」
今までいた二人の家から、暗い空の彼方へと、ひょうきんな歌声が遠ざかっていく。
俺の仕事は悪魔の仕事
人を狂わす悪魔の仕事
次の狙いはどいつにしよう?
初めて出会う横顔に
幸せ尽きた横顔に
俺は魔法をかけるのさ
俺は魔法をかけるのさ…