ワンダリングワンダーランド クランベリーダイアリー   作:きゃら める

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第一章 クジラと虎とフィルムカメラ 1 空髭クジラ

第一章 クジラと虎とフィルムカメラ

 

 

       * 1 *

 

 

 空をクジラが泳ぐようになったのは、二一世紀に入ってすぐの頃だったらしい。

 

 あたしが生まれた頃には当たり前のように泳いでいたから知らないけど、当時はけっこう騒ぎになったんだと聞いたことがある。

 他の魚たちも空を泳ぎ始めるんじゃないかとみんな話していたらしいけど、海の生き物で空に進出したのはクジラだけで、トビウオはやっぱり海から跳ぶだけだったし、ペンギンも空に潜ることはなかった。

 

 ――でもそんな話、誰に聞いたんだっけ?

 

 春の終わりを感じさせる青く澄んだ空には空髭クジラが四頭、雲と戯れるように泳いでいた。

 たぶん親子なんだろう。大きい二頭が急ぐでもなくゆったりと浮かんでる間を、小さい二頭がじゃれるように泳ぎ回ってる。

 

 生まれてからずっと見てきた風景のひとつのはずなのに、何だか初めて見るような気もしてる。奇妙な感じがしてる。

 ずいぶん昔にしたからだと思うけど、空を泳ぐクジラの話をしたのも誰と、いつだったかも憶えてなくて、あたしは遠い空を泳いでいる空髭クジラの親子のことを見ながら、小さく首を傾げていた。

 目を戻して教室内を見てみると、ついさっきまで騒がしかった場所は静けさに包まれていて、先生が点呼を取る声だけが響いてる。

 

 五月六日。連休明けの初日。

 

 夏にはまだまだ早いけど、ゴールデンウィークが終わった今日は春というには少し暑くて、前を向いてたり手元に目を落としたり、隣の子とひそひそ話をしていたりするクラスメイトの中には、上着を脱いでる人が何人かいるのが、後ろの方にあるあたしの席からは見えた。

 四月の間は学校指定のブレザーの上からコートを羽織ったりする日が多かったのに、春が急速に通り過ぎていくのを感じていた。

 

「ふぅ」

 

 小さく吐いた息に軽くこじらせた五月病の空気を吐き出して、あたしは窓とは反対の右側に目を向ける。

 すぐ右にあるのは、空席。

 教室の中に並んでる三一の席の中で、そこだけが唯一誰も座っていない席だった。

 

 ――誰だっけ、ここ。

 

 空髭クジラを眺めていたときと同じような違和感。

 人の顔と名前を憶えるのが苦手なのは自分でもわかってる。でも高校二年になってからだからひと月弱、四月の間はすぐ隣にいたはずなのに、その人のことをちっとも思い出せないことにはあたし自身も驚いていた。

 眉根にシワが寄って不細工な顔になってるだろうけど、名前や顔どころか性別すら思い出せない隣の子のことを、空いた席を眺めながら考えずにはいられない。

 

『笑ってるときが一番可愛いよ』

 

 そんなことを言ってくれたのは誰だったっけ。

 何だったか悩み事があるときに言われたと思う言葉。

 胸の中から沸いてきた言葉はつい最近言われた気がするのに、誰に言われたのかも思い出せない。

 さらにシワが深くなるのを感じてるとき、呼ばれてる気がした。

 

「――アイリスっ。立花アイリス! いないのか?!」

「はっ、はいっ」

 

 思わず腰を浮かせながら、司馬遷の点呼に応える。

 去年もあたしがいたクラスの担任だった司馬遷こと柴田先生は、去年よりもさらに寂しくなった気がする白髪混じりの頭を軽くなでながら、あたしのことを睨みつけてきていた。

 クラスメイトの視線があたしに集まってるのを感じる。

 年齢の割に老けて見える司馬遷の非難するような視線から目を逸らして、あたしはうつむいた。

 

 机の上にはちゃんと出席してるのがわかるよう、携帯端末を置いてある。

 出席なら生徒手帳か、その機能をインストールした携帯端末を机の上に出しておけば教卓の端末で一発でわかるはずなのに、定年まであと数年を残すばかりとなった司馬遷は、点呼を取ることにこだわってる。

 

 ちょっと厳しいところがあるけど、世界史を担当していて、中国史はもちろん三国志や水滸伝が大好きで、その方面の話になると脱線をしてしまう悪い癖がある司馬遷は、でもあたしの知る限りけっこう好かれてる先生のひとりだ。司馬遷ってあだ名もそれっぽい外見をしていたり、柴田先生の略というだけでなく、中国史好き三国志好きのところからもじったものだったし、生徒からそう呼ばれていることは司馬遷もまんざらではないらしい。

 

「全員出席」

 ――え?

 

 司馬遷の宣言に、あたしは思わず隣の席を見てしまう。

 明らかに空席があるのに、なんでそのことを指摘しないんだろう。

 二年になってまだひと月足らず。その間に誰かが転校していったという話はないし、転入生がいるなんて噂もとくにない。

 連絡事項を話し始めた司馬遷が空席のことを気にしてない様子に、あたしは首を傾げるしかなかった。

 

 ――本当に、誰だったっけ?

 

 憶えてるような気がした。

 忘れるはずがないような気がした。

 二年になってからのまだ短い間だけど、毎日隣にいる人のことは、さすがにあたしでも忘れるはずがない、と思う……。

 少なくとも四月の間に、右隣の席に誰も座ってなかったなんて記憶はなかった。

 

 ――ヘンな感じがする……。

 

 実際あたしの隣には誰も座ってないというのに、あたしはいつもそこにいた人と話していたような、そんな気がしていた。

 それはもしかしたら一年のときの記憶なのかもしれない、とも思う。

 

 ――うぅん。違う。……違う、はず。

 

 何年も使われて古びた感じのある机を眺めながら、あたしは戸惑っていた。

 いまそこにいない人がいるような、そんな不思議な感覚。

 足下がふわふわと浮き上がっているような、奇妙な感触。

 忘れるはずのない人を忘れてしまっているような、そんなはずがないような、胸の中に硬いシコリがあるような感触が、あたしの中に生まれていた。

 

『僕を探して』

 

 声が聞こえた気がした。

 思い出したんじゃなくて、耳元でなのか、胸の中のシコリからなのか、そんな声が聞こえた気がした。

 

「うん、探すよ」

 

 それに応えて、あたしは小さく呟きを漏らす。

 でも次の瞬間「誰を?」と思う。

 見たことも、憶えてもいない人のことを、どうやって、なんで探さないといけないのか、自分の中に湧き上がった想いに、あたしは頭の中がぐちゃぐちゃになりそうな気分を味わっていた。

 

「きりーつ、礼」

 

 日直の人の声が響いて、反射的に立ち上がる。

 いつのまにかひとつも聞いてなかった連絡事項は終わって、司馬遷は礼のあと教室を出て行った。

 一時間目の授業が始まるまでのわずかな時間、着席しなかったほとんどのクラスメイトは、いくつかのグループに集まってゴールデンウィーク中の想い出に花を咲かせ始めた。

 

 そんな中であたしはまだ空席のことをじっと見つめていて、身体を傾けて机の中も覗いてみるけど、空っぽの中身からは誰が座っていた席なのかわかることはなかった。

 

 ――あれ?

 

 机から目を上げると、ちょうど空席のひとつ隣に座って、じっと見つめてくる女の子の視線とぶつかった。

 名前は確か――、曽我フィオナ。

 一年のときは別のクラスだったから、彼女のことはあんまり知らない。

 

 背が平均よりもちょっと低くて、染めてもいない黒い髪をショートにしているからってのもあって、服装次第ではたまに小学生の男の子に間違われることもあるあたしと違って、地毛の薄めのブラウンの髪をセミロングに伸ばして、女子としては背も高めの彼女は、ちょっと大人びた雰囲気のある落ち着いた女の子だ。

 確かクォーターだったか日本人以外の血が入っていると誰かから聞いたことがある曽我さんは、人形みたいな綺麗さがあって、でも小学生の頃まで海外に住んでたらしく、あまり友達をつくるのが上手くないらしい。無口さも手伝って、別に嫌われてるわけじゃなかったけど、クラスに馴染んでると言うところまでにはなってなかった。

 

 そんな曽我さんが、あたしのことを見つめてきてる。というより、睨んできてる。

 その目はさっきまで泣いてたみたいに赤くなってて、まぶたも少し腫れていた。

 彼女に何があったのかは知らない。でもいままでほとんど話したことがなくって、連休中も会うことがなかったから、睨まれる理由はわからない。

 

 ――何か恨まれるようなことでも、したっけ?

 

 もしかしたら無意識のうちに何かしちゃったんじゃないかと思うけど、やっぱりよくわからない。

 

 ――何かあった気が、する……。

 

 恨みとも、悲しみともわからない曽我さんの視線を受け止めながら、あたしは自分の記憶を探る。

 何かあった気がするのに、わからなかった。

 胸の中で引っかかりを覚えてるのに、曽我さんに睨まれる理由を、あたしは思い出すことができなかった。

 

「あの――」

「よぉし、席につけ! 休み明けで惚けてちゃいかんぞ」

 

 そう大きな声を出して教室に入ってきた現国の先生に、曽我さんはあたしから視線を逸らした。

 あたしも声をかけることができなくなって、鞄から教科書データを入れたスレート端末を取り出す。

 鞄に手を突っ込みながら、やっぱり誰も座ってない空席のことが、どうしても気になって仕方がなかった。

 

 

 

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