ワンダリングワンダーランド クランベリーダイアリー   作:きゃら める

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第五章 アイリスと禄朗と幸夢 2 幸夢

 

 

       * 2 *

 

 

 どこまでもどこまでも落ちていった気がしていたのに、地面にたどり着くことはなかったような気がする。

 目を開けてみると、自分が突っ伏していることに気がついた。

 身体を起こして辺りを見回してみる。見慣れた風景のそこは教室の中で、あたしが突っ伏しているのは自分の机だった。

 でもいまが朝なのか昼なのか、それとも夜なのかよくわからなかった。

 窓の外では太陽と月が地面から跳ね上がっては消えて、消えては跳ね上がっていた。

 空には空髭クジラがたくさん泳いでいて、どこかへ逃げるようにすごい速度を出していた。

 

 教室の机の数を数えてみると、三一。

 あたしの席も、禄朗の席も、曽我さんの席もあった。

 そして禄朗の机の上には、菊の花が生けられた花瓶が、ひっそりと置かれていた。

 

「そっか」

 

 これがいつの時間のことなのか、わからない。

 でもここはたぶん、これからあたしが見ることになる教室の風景。

 いまはまだ存在していない風景。

 どれくらい泣いただろう。

 どれくらい禄朗の死を嘘だと思っただろう。

 死なんて、なくなってしまえばいいと、あたしはベッドの上でずっと思っていたことを、思い出す。

 

 あたしはもう、すべてを思い出していた。

 胸の中にあった箱は、消えてしまっていた。

 人の気配がして、あたしは振り返る。

 開けっ放しの教室の扉から姿を見せたのは、ついこの前会ったような、もっと前から知っているような、そんな不思議な感じのある男の子。

 

「まさか君が望んで生み出した世界を、君自身が壊してしまうとは思わなかったよ」

 

 近づいてきて、そう彼は言った。

 

「貴方がこの世界をつくったんじゃないの?」

「少し違うかな。僕には世界を分岐させる力がある。でも方向性は持たない。僕は人の強い願いを受け取って、世界を分岐させるだけなんだよ」

 

 やっぱりみのりさん以上に、彼の言葉はわからなかった。

 でもいまなら、前よりもほんの少しだけ、わかる気がした。

 

「あのとき、禄朗の姿をして来てくれたのは、貴方?」

 

 椅子から立ち上がって、あたしは彼の側に立つ。

 

「うん。君よって生み出された世界が、君によって壊されようとしていたからね。望みを受け取って生まれた世界を、壊してはいけないと思ったんだ」

「禄朗の最期の言葉を、もう一度聞かせてくれたのも?」

「あの声は君にはちゃんと聞こえていたんだ。でも、君はちゃんと聞き取ることができなかった。だから君の記憶に残る言葉を、もう一度聞かせただけだけどね」

「そっか」

 

 彼の側にもう一歩近づいて、あたしは深く頭を下げる。

 

「ありがとう」

「なぜ?」

 

 不思議そうに顔をしかめる彼に、あたしは言う。

 

「だって、もう一度禄朗に会えたから。確かにあのときの禄朗は本物じゃなかったけど、でも、会うことができたから。それに、ちゃんと聞くことができなかった禄朗の最期の言葉を、聞かせてくれたから」

 

 納得はしていないかのように、彼が表情を変えることはなかった。

 

「でもなんで、あのときあたしのことをアイリスって呼んだの? 正直、あのときイーリスって呼ばれてたら、たぶんあたしは貴方のことを本当の禄朗だと思ってたと思う」

「あのときにはもう、君の名前を聞いていたから。僕にとって君は、もうイーリスではなくて、アイリスだったから」

「……そっか」

 

 彼の手を取って、あたしは自分の胸元に持ってきて、両手で握りしめる。祈るように彼の手に額をつけて、あたしはもう一度言う。

 

「それでも、ありがとう。あたしは全部嘘にしたかった。禄朗が死んだなんて、信じたくなかった。死なんて、なくなってしまえばいいと思った」

 

 顔を上げて、彼の感情がないように見える瞳を見つめる。

 

「でもあたしは禄朗が死んだことを知ってるから、世界から死をなくしたら、禄朗まで消しちゃうことになったんだね。禄朗が消えてなくなっていても、やっぱりあたしは全部を忘れることはできなかったんだね」

「そうだったみたいだね」

「それに――」

 

 彼の手を包む手に、少し力を込めてしまう。

 

「禄朗も、残ってた。ほんの少しだったかも知れないけど、あたしの中に残ってた」

 

 禄朗は、寂しがり屋だ。

 喧嘩をして口をきかなくなっても、折れるのはいつも禄朗。

 あたしと話せなくて寂しくて、あっちから謝ってくる。それがいつものこと。

 寂しがり屋の禄朗は、たぶんひとりじゃ寂しくて、あたしの中に入ってきたんだと思う。

 本当は違うかも知れないけど、あたしはそういうことだったんだと思うことにした。

 

「たぶん禄朗があたしを導いてくれなくても、あたしはいつか、この世界を壊してしまったんだと思う。あたしが禄朗のことを忘れることなんて絶対できないから、あたしは禄朗と一緒に生きていきたいから、いつかはあたしは、世界を壊してたと思う」

 

 手を離して、あたしは彼に宣言する。

 

「だからあたしはもうこの世界はいらない。この世界にはいられない。禄朗のことを忘れられていれば幸せだったかも知れないけど、もういまは思い出しちゃったから、この世界に居続けることはできないの」

「それで大丈夫なの?」

 

 少し心配そうな色が浮かんでるように思える瞳で、彼が言う。

 問われても、わからなかった。

 禄朗が死んだなんて、いまでも嘘にしたいと思ってる。

 信じたくなんてないと思ってる。

 でもそのことをはっきりと思い出したいまは、そのことを受け止めるしかない。もっとたくさん泣くことになるかも知れないけど、禄朗との想い出を抱きしめて、生きていくしかない。

 もう二度と、彼を忘れるなんてこと、したくない。

 

「うん、たぶん。しばらくは大丈夫じゃないかも知れないけど、もうどうすることもできないから」

 

 精一杯の笑顔を彼に見せて、でもあたしは泣いた。

 どれだけ涙を流しても、涙は涸れないものなんだと、あたしはそのとき知った。

 そして泣いてばかりいられないことも、もうあたしは知っていた。

 

「そろそろこの世界は消えてなくなる。こんなこと初めてだから、君がどうなるかは僕にもわからない」

「うん。たぶん、大丈夫なんだよ」

 

 そう思えた。

 みのりさんがまた会えると言っていたから。

 だからあたしはたぶん、この世界の記憶を持って、元の世界に行けるんじゃないかと思う。

 とくに根拠はなかったけど、いまはそう思えた。

 

 ――そうだ、日記を書こう。

 

 この世界であったことを、この世界で出会った人たちのことを、全部日記に書いておこう。

 日記の一日分の小さなスペースじゃ書き切れないくらいのことがあったけど、その全部を、禄朗との想い出がいっぱい詰まってる日記に書いておこうと思う。

 それから、悲しくて、つらくて、でも幸せだった記憶。禄朗への甘くて、それから酸っぱい想い出を、全部。

 あふれてきていた涙を指で拭って、あたしは笑う。

 笑って、彼のことをちゃんと見る。

 

「貴方は、いったい何なの?」

「さぁ? それは僕にもわからない。インキュバスとかサッキュバスとか、夢魔とかバクとか呼ばれていることはあるけど、それは僕のような存在につけられた名前で、僕自身のことじゃない。僕には世界を分岐する力があって、どういう理由で誰を選ぶのかもよくわからないけど、強い望みに反応して目覚めて、世界を分岐させるということしか、僕にはわかってない」

「名前はないんだ?」

「ないよ。僕のいまのこの姿だって、君が僕のことを見てくれたからあるだけで、僕自身には姿形すら、本来はないんだ」

「そうなんだ」

 

 やっぱりあんまり表情のない彼の顔をじっくり見つめて、あたしはしばらく考える。

 

「じゃあ、名前をつけて上げる」

「僕に、名前を? なぜ?」

 

 本当に驚いたのか、彼は目を丸くする。

 それが少し可愛く見えて、涙の跡を拭ったあたしは笑う。

 

「お礼、かな? この世界をつくってくれたお礼。だってこの世界がなかったら、あたしはいまみたいな気持ちになれなかったから。もっと長い間、禄朗のことを受け止めることができなかったから」

「よくわからないけどね」

 

 言って彼はあたしから目を逸らす。

 もしかしたら恥ずかしがってるのかも知れない。

 みのりさんの真似をして、人差し指を唇に軽く当てながら、あたしは考える。

 彼にぴったりの名前が見つかるような気がした。

 あたしにとって彼はある意味でかけがえのない存在で、彼を表す言葉があたしの中にあるような気がしていた。

 

「貴方の名前は、幸夢」

「コウム?」

「うん」

 

 首を傾げる彼に、幸夢に、あたしはにっこりと笑う。

 

「だってあたしはこの世界で、幸せだったから。禄朗のことを忘れていたときはつらかったし、思い出してもやっぱりつらかったけど、でもこの世界はあたしを不幸にするために生まれた世界なんかじゃない。悪夢なんかじゃなかったから」

 

 逃げられないように、あたしは幸夢に近づいて、彼の顔を下から覗き込む。

 

「悪夢でなくて、この世界にあるはずだったのがあたしの幸せだったんなら、ここは幸せの夢の世界。悪夢の反対の言葉はたぶんないけど、でももしあるなら、それは幸夢。幸せな夢。だから貴方の名前は、幸夢」

「僕は、幸夢」

「うん」

 

 迫られてたじろいでる風の幸夢に、あたしは少し笑ってしまう。

 でもやめてあげない。

 だってあたしは、つらくて、悲しくて、でも幸せだと感じることができていたから。

 

「ありがとう、幸夢。あたしに、幸せな夢を見させてくれて」

 

 お礼の言葉を言って、幸夢に笑顔を向けながら、でもやっぱり、あたしは泣いた。

 辺りが真っ白になっていく。真っ黒になっていく。

 世界が消えていく。

 

 消えていく世界の最後に見たのは、幸夢の笑顔だったのかも知れない。

 

 

 

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