ワンダリングワンダーランド クランベリーダイアリー   作:きゃら める

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第二章 日記とイーリスと未来予報士 3 イーリス

 

 

       * 3 *

 

 

 どれくらいお店にいたんだろう。外は薄暗くなり始めていた。

 

「すみません。今日は本当にありがとうございました」

「いえいえ。わたしにできることはたいしたことではありません。わたしは、わたしが見えている世界の有り様から、アイリスさんの望む方向を示すことしかできません。実際に何かをするのはアイリスさん自身です」

 

 そう言って笑むみのりさんのことがやっぱりよくわからない。

 未来予報士というのがいったいどんな人なのか、あたしはうまく理解することができなかった。

 それでもほんの少しだけ、わかった気がした。

 みのりさんの見ている世界が、みのりさんに見えてる世界のことが。

 

 ――確かにすごい人だね。

 

 未来予報士というくらいだから、未来を予報する人だとは思うんだけど、それをしてもらったのかどうかはわからない。

 ただみのりさんが、あたしや、普通の人が見ているものよりもすごく広いものを見てるんだろう、ってことだけは、今日話してわかることができた。

 鞄のサイドポケットからハンカチを取り出して涙の跡を拭いたあたしは、鞄を肩に担いで席を立つ。

 

「あぁ、うちではそれ、使えないんですよ」

 

 飲んだココアの分を支払おうと携帯端末を取り出すと、そう言われてしまった。

 確かに古い造りのお店だけど、まさか電子決済ができないなんて思わなかった。現金なんていつもは持ってない。

 

「ど、どうしたらいいんでしょう……」

「んー」

 

 唇に人差し指を当てて少し考えるみのりさん。

 

「それでしたら、すべてが落ち着いた後、またお店に寄ってください」

 初めて来た人を信用するのもどうかと思ったけど、優しく笑むみのりさんに「必ず」と答える。

「それと、できたら今日お話を聞いていただいたお礼も、何かできたらと思うんですけど」

 

 今日、あたしはみのりさんの言葉でずいぶん気持ちを落ち着けることができた。

 それが未来予報なのかどうかはわからなかったけど、渡された伝票にはココアの料金しか書かれていなかった。話を聞いてもらって、言葉をもらった分は、別の形でお礼がしたいと思っていた。

 

「別にわたしは気にしないんですけど、そうですね――」

 

 首をこてんと傾けながら考えて、ちらりとマスターの方に視線を走らせたみのりさん。

 

「駅前に新しいケーキ屋さんができたのは、ご存じですか?」

「えぇっと、はい」

 

 まだ行ったことはなかったけど、沙倉が話していた分には、どこか海外で修行して日本に帰ってきたパティシエの人が始めたというお店だったと思う。お母さんも知ってて、かなりおいしいという評判は聞いていた。

 

「でしたらそこのケーキをお願いできますか?」

「まだ行ったことはないんですけど、どんなのがいいんでしょう?」

 

 もう一度マスターに目配せをしたみのりさん。

 今度はマスターもみのりさんに視線を返して、言葉はないのにふたりは意志が伝わったかのように頷きあう。

 視線だけでどんなやりとりがあったのかはわからないけど、すごくおいしかったクランベリーのケーキをマスターが焼いてるのだとしたら、マスターも甘いものが好きなのかも知れない。

 

「詳しくはお任せします。ただ確か、あそこはタルトケーキが一番だと聞いたことがありますので、行ったときに残っていたらタルトケーキをふたり分、お願いします」

「わかりました。近いうちに、必ず持ってきます」

「はいっ。お願いします」

 

 みのりさんの笑顔に送られて、あたしは喫茶ジャンクションを出た。

 お店に入る前とはぜんぜん身体の軽さが違う。

 走るくらいの速度で歩いて、夕暮れに沈む家への道を急いだ。

 

「ただいまー」

「お帰りなさい。遅かったんですね」

「うんっ」

 

 お母さんへの挨拶も早々に、あたしは自分の部屋へと飛び込む。

 みのりさんに「探してみてください」と言われて、あたしはとにかく手近なところから、自分の部屋から探すことにした。

 部屋にあるのはクローゼットと勉強机、小物とか少ない本を詰め込んである大きいのと小さいのの棚、それから鏡台とベッドくらいで、あんまり広い部屋じゃないから、物も多くない。

 みのりさんの言っていた痕跡というのがどんなものかもよくわからないけど、とりあえず部屋着に着替えたあたしは、部屋の中の捜索を始める。ここで見つからなければ、あんまり使わない物を置いてある屋根裏部屋の捜索になる。

 毎日いる部屋だからどこにどんな物が置いてあるかなんてよくわかってるし、その中から何かおかしいものがないかなんて思っても、早々見つかるもんじゃない。

 

 部屋をひっくり返すみたいに全部のものを引っ張り出してみる。

 どんなものがその痕跡なのかわからないから、あたしは部屋にあるひとつひとつの物を取り出してきてはヘンなところがないか見てみた。

 結局、自分の部屋の中じゃそれらしいものを見つけることができなくて、屋根裏部屋の自分の物が置いてある場所も探してみたけど、これだと思うものは見つからなかった。

 

「アイリスー。そろそろご飯ですよー」

「はーい」

 

 屋根裏部屋から下りてきたところでお母さんに呼ばれて、あたしはできるだけ急いで夕ご飯を済ませる。

 戻ってからしっちゃかめっちゃかにしちゃった部屋の中をいったん片付けて、その頃にはずいぶん遅い時間になってしまっていた。

 

「見つからないなぁ……」

 

 まだまだ捜索は始めたばっかりだって言うのに、ちょっとめげそうになっていた。

 一階の部屋とか学校とか、探すところはたくさんあるのはわかってるのに、見つかる気配さえ感じないことに、少し気持ちが疲れてきてしまっている。

 お風呂が沸いたって言うお母さんの声が聞こえてきて、部屋を片付け終えたあたしはパジャマと換えの下着を取り出す。

 

「探すの、明日にしようかな……」

 

 胸に溜まってきた諦めの気持ちを吐き出すために息を吐いて、あたしはお風呂に入るために部屋を出た。

 

 

 

 

 シャツを汚れ物のカゴに放り込んで、少し埃っぽくなってるスカートをクリーニングに出そうかどうか悩んで、とりあえず畳んでおくことにする。

 お父さんと言えど下着を見られるのはいくら何でも恥ずかしいから、脱いだのは下着用のネットにさっさと入れて、浴室に入った。

 伸ばした方が大人っぽくなるかなぁ、なんて考えながら、高校に入るときにショートにした髪について悩みながら洗って、いつになったらお母さんみたいに女性らしく成長するんだろうと思いつつ身体を流す。

 

 お父さんもお母さんもお風呂好きだから、家の中で一番気合いを入れて選んだんじゃないかと思うくらいの広い湯船に身体を浸した。

 深さはそれほどじゃないけど、背があんまり高くないあたしじゃ相当余裕がある浴槽の中で、足をしっかり伸ばして疲れを吹き飛ばすために伸びをした。

 自分の部屋と屋根裏はひと通り探してみたけど、みのりさんが言っていた痕跡のようなものは、とくに見つからなかった。

 思えばあのフィルムカメラは謎ではあるんだけど、それであるような気がするのに、何となくピンと来ないのは、あれがあたしの探してる痕跡じゃないからかも知れない。

 

 湯船から右腕を出して、真っ直ぐに伸ばす。

 信じてください、とみのりさんは言っていた。

 

 何を信じていいのか、何を見つければいいのか、あたしは知らない。

 それでも確かに、あたしの胸の中には、何かが仕舞い込まれた開かない箱のようなものがあると感じてる。

 目を閉じて、あたしはここ数日のことを思い返す。

 

 右側の空席。

 右側の空白。

 

 手を伸ばせば触れられそうなのに、いまは触れることができないもの。

 暖かかったような気がした。

 暖かくて、幸せなもののような気がしていた。

 朧気ながらも、あたしはそれがなんなのかつかもうとする。

 

『イーリス』

 

 キュッと握りしめた右手で、何かがつかめたわけじゃない。胸の中の固く閉じた箱が開いてくれたわけじゃない。

 それでも、何となくだけど、何かに触れることができたような気がした。

 目を開けて立ち上がって、あたしはもう一度部屋を探してみるためにお風呂を出る。

 身体を拭いて髪をドライヤーで乾かして、パジャマを身につけたあたしは部屋へと急いだ。

 一度探したところをもう一度探す。

 つかめたような気がするもの。触れたような気がするもの。

 さっきは見つけることができなかったものが、いまは見つかるような気がしていた。

 

「これ、なんだったっけ」

 

 いまじゃ教科書もノートも端末を使って見たり書いたりするものだし、本も電子書籍が当たり前だから、棚には紙の本はあんまりない。

 少ない本の間に挟まっていた薄い本を見つけて、あたしはそれを引っ張り出してみた。

 

「アルバム、だよね」

 

 厚紙を二つに折って表紙にしたようなその本は、開いてみると写真が挟まってるアルバムだった。

 写真なんて端末かデジタルカメラで撮ることばっかりだから、メールか直接ファイルでやりとりするくらいで、シールにしたり印刷したものはあげたりもらったりもするけど、写真データはほとんど端末の中に入ってる。

 アルバムだってデータで持ってるのは多いけど、印刷したものをこんな風に本のアルバムにしてもらった憶えは、あたしにはなかった。

 

「これ、いつ撮ったんだろ」

 

 アルバムのページは十六ページと少なくって、一ページに二枚ずつ、最後のページには挟まってないから写真は全部で三十枚。場所はたぶん家から自転車で行ける距離の遊園地で、コートを着てるから冬か春に行ったときのだと思う。

 不思議なのは、写真にはほとんどあたししか写ってないこと。

 自分で撮った感じじゃないから、誰かと行ったんだとは思うけど、他の友達は写真の端っこにも写ってないから、たぶん誰かふたりで行ったんじゃないかと思う。

 

 でも、あたしは憶えてない。

 

 いつ誰と、この遊園地に行ったのか、ぜんぜん憶えてなかった。

 写真の端ににじんだ感じで読みにくく写り込んだ日付に気づいて、よく見てみる。その日付に間違いがないなら、今年の四月三日に行ったことになるけど、その日自分が何をしていたのか、あたしは記憶してなかった。

 

「そうだ。日記に何か書いてたかも」

 

 つぶやきながら、あたしは勉強机の椅子に座る。

 机のソフトとか音楽データのパッケージが立ててあるところから、一冊の本を取り出す。

 たぶんフェイクだと思う、焦げ茶色の落ち着いた革風の装丁がしてある鍵付きの本は、日記帳。

 日頃あったことはネットの自分のスペースに書いてアップしてるし、友達なんかと共有してたりもするけど、自分だけに仕舞っておきたいこととかは、手書きの日記帳に書くことにしていた。

 

 記念の日のことだったらネットにもアップするし、日記帳にも書いてることが多い。それぞれの内容は少しずつ違うことが多いけど、ふたりきりで誰かと出かけたんだとしたら、ネットよりも日記帳に書いてる可能性の方が高い。

 携帯端末のストラップにつけてある鍵で日記を開いて、その日付のページを見てみる。

 

「なんで、書いてないの?」

 

 遊園地に行ったはずの四月三日の欄は、何も書いてなかった。

 机の上の据置端末の電源を入れてネットの方も確認してみるけど、そっちにも何も書いてはいない。

 遊園地に行くとかそういうイベントがあった日には絶対書いてたはずなのに、あたしはその日のことを何も書いてなかった。

 日付が違うのかと思ってページをめくって他の日も確認してみる。

 

「こんなのあり得ない……」

 

 遊園地に行ったことを書いてないだけじゃない。

 ゴールデンウィーク中のことも書いてなければ、冬休み中は元旦に家族で初詣に行って、二日におばあちゃんのところに年始の挨拶に行ったことしか書いてない。

 日記は三年分書けるようなもので、高校に入るときに買ったもの。主に記念日のような日にしか書いてない日記だから空白が多いわけだけど、どんどん過去のページをめくっていくと、バレンタインデーの日も、クリスマスイヴの日も、何かがあって何かを書いたような気がするのに、確認してみると何も書いてなかった。

 

「そんなはずない」

 

 嫌な違和感を覚える。

 昨日メールをしようとしたときと同じ感じの、でもそれよりも強い違和感。

 普段やっていたはずのことが、わからなくなってる。記憶からも、記録からも消えてしまっている。

 

「そんなはずない……」

 

 もう一度同じ言葉をつぶやいて、あたしはアルバムを見返す。

 アルバムの中で、あたしは笑っていた。

 すごく、すごく幸せそうな笑顔だった。

 たぶん大切な人と出かけたからこんなに笑ってるんだと思うのに、あたしは少しもそのときのことを思い出すことができない。

 

「そんなはず、ないのに……」

 

 また泣きそうになってくる。

 たぶんこれがみのりさんの言っていた痕跡なのに、あたしはこれがどんな意味を持つものなのか、わからなかった。

 

「そうだ、カメラ」

 

 写真をよく見ると、プリンタで印刷したものじゃない。デジタルカメラとかで撮ったものじゃなくて、たぶんフィルムカメラで撮ったものをお店でプリントしたみたいだった。

 だったら昨日見つけたカメラに、何かヒントがあるかも知れなかった。

 昨日も眺めてみても、何か手がかりになりそうな部分はない。

 

 ――そうだ。

 

 昨日見つけた汚れの中にあった何だかわからなかった刻印。あたしは指で擦ってそれを見えるようにする。

 指だけじゃうまく汚れを落とせなくて、あたしは鏡台の上にあったヘアピンを取ってきて、先っぽで汚れを擦り落とす。

 

「禄朗(ろくろう)?」

 

 汚れが取れて読めるようになった文字。

 禄蔵お爺ちゃんの名前の隣に彫られていたのは、「禄朗」という名前だった。

 禄という文字が共通してるから、佐々木さんの家の人かと思うけど、会社勤めの佐々木さんのおじさんの名前は確か誠司さんだ。

 禄朗なんて人の名前をあたしは知らない、と思っていたとき、机の上の開きっぱなしのアルバムに、水滴が落ちていることに気づいた。

 

 いつの間にか、あたしは泣いていた。

 

 自分でも泣いてる理由がわからない。それなのに、あたしの目からこぼれてくる涙は止まらない。

 

「禄朗……」

 

 彫られた文字をもう一度口にしてみる。

 胸が、痛くなった。

 胸の中の閉じた箱が、いまにも開きそうな気がした。

 

 ――知ってるんだ、あたし。

 

 誰なのかはまだわからない。でもあたしは禄朗という人のことを知ってる。そう思える。

 だからあたしは、いま涙を流してる。

 涙で霞む目で、アルバムを見る。

 

 ――たぶんこの写真を撮ったのは、禄朗なんだ。

 

 彼はどんな顔であたしのことを撮っていたんだろう。

 あたしはどんな気持ちで、彼にこんな幸せな笑顔を見せていたんだろう。

 最後のページを開く。

 

「これって……。そっか。そうなんだ」

 

 さっきは何も挟まっていなかったページに、写真が現れていた。

 たぶん手を伸ばして撮ったんだと思う。

 ピントも適当で、構図もあたしの顔が切れちゃいそうなほどズレてて、でもふたり並んで肩を寄せ合ってる写真が、そこにあった。

 髪が短くて、痩せているのに顔が少しふっくらとしている男の子と、頬がくっつきそうなほど彼に接近してるあたし。

 ふたりとも笑っているのに少し緊張してるみたいでどこかぎこちないし、頬どころか顔全体が赤くなってるように見える。

 

 そんなあたしと彼は幸せそうで、本当に幸せそうに見えて、何だか輝いてすら見えて、そのとき感じてた気持ちが、ふと湧き上がる。

 胸の中の箱が開いた。

 固く閉じていたそれは、びっくり箱のようにいままで思い出せなかった記憶を、すべて噴出させた。

 

「禄朗!」

 

 思い出した。

 

 ――そうだ、あたしが禄朗のことを忘れるはずがない。

 

 いままで忘れていたことが信じられない。

 だってあたしと禄朗はずっと一緒にいたんだから。

 同じ日に生まれて、産婦人科医院の隣のベッドに寝かされて、隣同士の家でずっと一緒に過ごしてきたんだから。

 

 ――この世界には、禄朗がいないんだ。

 

 箱の中に小さく仕舞われていて、思い出すことができなかったものを、思い出していた。

 あたしの右側にあった空白にあるべきものがなんだったのか、いまはもうはっきりわかっていた。

 禄朗が撮ってくれた写真を挟んだアルバムと一緒に、あたしは彼との記憶を、彼への想いを、しっかりと抱きしめていた。

 

 

         *

 

 

「遊園地に行こう」

 

 禄朗がそう言ったのは、春休みも残り少なくなった四月三日のことだった。

 その日はもう四月に入ったというのに雪が降りそうな寒くてどんより曇った日だったけど、禄朗からお出かけに誘ってくれたことが嬉しくて、一も二もなく頷いた。

 子供の頃から親とか友達とよく来てた遊園地だけど、禄朗とふたりきりで来るのは初めてだったかも知れない。

 もらったという二枚のフリーパスが本当にもらったものなのかどうかは、あたしが禄朗に訊くことはなかった。

 寒さが冬みたいに厳しいからか、長期休暇中なのに遊園地の人出は思っていたよりも少なくて、あたしは禄朗と一緒にいろんなアトラクションを回って、時々写真を撮って過ごした。

 

 でも途中から雪が降り出して、それがけっこう激しくて、あたしと禄朗はだんだんと天候不順で止まっていくアトラクションの間を縫って、まだ動いてるとこを探して走り回ることになった。

 楽しくて、すごく楽しくて、お気に入りのコートを着てても寒いくらいの気温なのに、いつもは静かに笑ってることが多い禄朗が、幼い頃に戻ったみたいに笑っているのを、あたしは幸せで、暖かい気持ちで見ていた。

 

「今日は楽しかったね」

 

 雪が積もっちゃってほとんどのアトラクションが止まってて、帰る前に乗ったのは最後まで動いてた観覧車だった。

 向かい合う席に座って、あたしは禄朗の言葉に「うん」と応える。

 けっこう走り回ったから本当に疲れていた。でも楽しくて、楽しすぎて、疲れていてもぜんぜん気にならなかった。

 上昇を始めた観覧車から見下ろした街は、まだ夕方には早いのに、明かりを灯しながら白く塗りつぶされつつあった。

 

「すごく楽しかったよ」

 

 言ってあたしは禄朗に笑いかける。

 生まれてからずっと一緒に過ごしてきた禄朗。

 幼稚園も、小学校も、中学も高校だって同じところに進んで、ずっと変わらぬ幼馴染みの関係が続いていた。

 でもいつまでもこんな風に一緒にいられないことに、そろそろ気づき始めていた。いつまでも一緒の道を歩み続けられるわけではないと、もうあたしは知っていた。

 

「一緒に、写真を撮ろう」

 

 予想以上にゆっくりとした動きの観覧車の中で、禄朗は少しうわずった声で言った。

 緊張でもしてるのかと思いながら彼の様子に少し笑って、「いいよ」と応えたあたしは彼の隣に座る。

 

「もっと近寄って」

 

 肩が触れるほどの距離。

 手を伸ばしてカメラを構える禄朗とこんなに近づくのは、いつ以来だろう。

 高校に入ったいまでも少しじゃれ合うことくらいはあるけど、改めてこうして近くに禄朗がいるのを意識すると、あたしも緊張してくる。

 

「と、撮るよ」

 

 言って禄朗は、左腕をあたしの肩に回してきた。

 

「う、うん」

 

 身体も表情も固まるのを感じながら、あたしは思ったよりも強い腕の力に、身体を預けていた。

 カシャリとシャッターの音がして、緊張に堪えきれなくなったあたしは元の席に戻ろうと腰を浮かせる。

 できなかった。

 肩に回された禄朗の腕が、まだあたしのことを抱き寄せて、戻ることを許してくれなかった。

 

 禄朗の顔を覗き込んでみると、真っ赤になっていた。

 たぶんあたしの顔も、同じように真っ赤になってる。

 混乱、してる。

 突然どうしたのかと思ってる。

 でも嬉しかった。

 

 やっとこの時が来たんだと思っていた。

 あたしが禄朗のことをどんな風に見ているかは、いつも隠してるつもりだった。

 ずっと幼馴染みとして過ごしてきて、あまりに近くて、いつも一緒にいすぎてて、いつの頃から彼を男の子として見るようになったのかは憶えてなくって、どう伝えていいのかわからなかったから。

 それに幼い頃から物静かな感じのあった禄朗が、どんな風にあたしのことを見ているかは、よくわからなかったから。

 

 訊くのが、怖かったから。

 

 カメラを首から提げて右手を空けた彼が、両手を使ってあたしを自分に向かせる。

 いままで見たことないくらい緊張してて、生唾を何度も飲み込んで、耳まで真っ赤になった禄朗が、それでもあたしの瞳を真っ直ぐに見つめて、言った。

 

「好きだよ、イーリス」

 

 親とか友達とかからはいつもアイとかアイリスって呼ばれてるあたしだけど、禄朗はイーリスと呼ぶ。

 それは禄朗が幼い頃舌っ足らずで、アイリスと呼べなかったのの名残だけど、いまでは彼だけがあたしのことをイーリスと呼んでいた。

 人前で名前を呼んでくれることは少ない。恥ずかしいからなんだと思う。

 でもふたりっきりのときは、あたしのことだけを見てくれるときには、禄朗はためらうことなくイーリスと呼んでくれる。

 

 たぶん、何日も前から今日のことを考えてたんだと思う。

 好きと言ってくれた禄朗はもう、頭から湯気でも出てそうなほど顔が赤くて、思わず吹き出しちゃいそうになる。笑い声をぐっと飲み込んだ後、代わりにあたしの胸の奥から幸せな気持ちがあふれてきて、身体中を満たした。

 あたしはあたしのことを真っ直ぐに見つめてきてくれる禄朗のことを、しっかり見つめ返して言う。

 

「うん。あたしも禄朗のことが、好きだよ」

 

 言いたくて、言えなかった言葉。

 胸の中に仕舞い込んでいた間は苦しくて、吐き出してしまいたかったくらいなのに、言った後は、あたしは火が出そうなど顔が熱くなるのを感じていた。

 でも、それをはっきり言うことができて、あたしの胸は幸せでいっぱいになる。禄朗から言ってくれたことで、あたしは他の誰よりも、禄朗のことが好きなんだと意識する。

 

「恋人になってくれ、イーリス。……一生、一緒にいてほしいんだ」

「うん。禄朗以外、あたしも考えられないから」

 

 あたしの言葉に緊張が少し解けたみたいに、ふっと笑ってくれた禄朗。

 

 ――本当に、本当に好きだよ、禄朗。ずっとずっと、一緒だよ。

 

 心の中で何度も繰り返して、あたしは近づいてくる彼の顔に目をつむる。

 すぐ側まで迫ってきた息づかいに、また緊張を覚える。でも彼の腕に、あたしは身体を預けたままにする。

 重ねられた唇は、クランベリーのような少し酸っぱい味がした。

 そしてあたしと禄朗はその日、幼馴染みという関係を卒業した。

 

 

         *

 

 

 ――なんで、忘れてたんだろう。

 

 一緒に生まれて、一緒に生きてきて、つい一ヶ月前に幼馴染みという関係を卒業した禄朗のことを、何であたしが忘れていたのかわからない。

 日記をもう一度見てみると、遊園地に行った日のことがちゃんと書かれていた。

 バレンタインデーに禄朗にチョコをあげたことも、ホワイトデーにお返しをもらったことも、クリスマスイヴに買い物に行ったことも、いまは書いてあった。

 

 彼への、想いと一緒に。

 

「何が起こってるの?」

 

 何でなのか少しもわからない。

 さっきまでなかった写真が、日記の内容が、いまはちゃんとここにあった。

 

 ――世界が歪んでるって、みのりさんは言ってた。

 

 そのことが本当なのかも知れない。

 何しろ禄朗はいま、この世界にいない。

 隣にあった空席は今日はなくなってて、その上それを不思議に思う人は誰もいなかった。

 確かにいまここに禄朗がいた痕跡はあるのに、彼がいまどうしてどこにいるのかは、わからなかった。

 

「探さないと」

 

 右側の空白に気づいたときに思ったことが、いまははっきりしていた。

 彼がいたことを思い出すことはできた。

 でも彼の居所はわからない。

 それなら、探すしかない。

 

 禄朗がいない世界なんて、信じられない。そんな世界にいたくない。

 どこかにいるんだったら、見つけないといけない。

 みのりさんは、探しものは見つからないと言っていた。

 それでもあたしは禄朗のことを探さなくちゃいけない。探して見つけ出して、もう一度彼に会わないといけない。

 

「絶対に見つけ出す」

 

 あたしはそう誓っていた。

 

 

 

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