サヴァンの碁 - 塔矢家のヒカル   作:松村順

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9:別れと永遠

9-1 佐為視点

 

7局を終えて疲れ切ったアキラがわたしに感謝の言葉をかけてくれる。アキラ,わたしはそんな言葉にふさわしくありません。わたしはあなたへの嫉妬に身を焦がし,悪霊になりかけたのです。そんなわたしを救ってくれたのはヒカルです。わたしを素朴に気遣うヒカルの顔を見て,わたしは自分の使命を思い出したのです・・・・そしてアキラ,あなたも・・・・この7番勝負,お互いに全力を出し切りました。神の一手を探求するのにふさわしい対局でした。わたしの1000年の碁歴の中でもおそらく最高の対局です。満足しています。おかげで,わたしは今,これまでになく心安らかです。

 

アキラは,ホテルで熟睡した後は疲れもすっかり解消しているようだ。ヒカルと仲良く新幹線で帰る。わたしも一緒に乗っている。初めて乗った時のようにはしゃぎはしないが,ヒカルたちと一緒に新幹線に乗るのは楽しい。ヒカルは時おり,わたしに話しかける。わたしもそれに答える。アキラとヒカルも楽しそうにおしゃべりしている。そして,アキラがわたしに話しかけた。

「佐為は,考えてみると,自分のライバルというか自分から本因坊位を奪う強敵を一生懸命育てたんだね。自分が育て上げた棋士が自分からタイトルを奪うのは,教える側としてうれしいかもしれないけど,それでも心の片隅にはくやしさとか怨みとかもありそうなものだけど,佐為はそんなそぶりはまったく見せないね。まあ,もともと姿が見えないんだけど,そんな気配も感じないよ。佐為は人を怨むことなんて,あるのかな」

いつものような,わたし相手の一人語り。わたしの返事は聞こえはしないから,アキラも返事を期待しているわけではない。でも,この語りかけには返事をしてしまう。もちろんアキラには聞こえないけど。

〔囲碁の勝負で怨みはしませんよ。アキラが強くなり,わたしを乗り越えることこそ,わたしの願いだったのだから。ほかのことで,アキラに嫉妬しましたけど,今はそれも静められました。ヒカルちゃんのおかげです・・・・わたしが怨むとしたら,1000年も前にわたしに濡れ衣を着せた対局相手,そして,彼の言葉を真に受けてわたしを追放した帝(みかど)です。確かに,怨みはしました。ただ,その時のわたしは,彼らへの怨みよりも,碁を打てないことの悲しみの方が強かった。「もっと碁を打ちたい」とは思ったけど,「彼らに復讐したい」とは思わなかった。それは良いことだった,と今も思います。人を怨み,呪っても,自分も含め誰も幸せにはしない。自分も含め皆を不幸にするだけだから。源氏の君の愛を得た夕顔を呪い殺しても,六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)は少しも幸せにはならなかった。雷神となって,自分を陥れた藤原時平を殺したとしても,そして祟りを恐れた人たちによって天神様に祭り上げられても,菅原道真公の霊は幸せではなかったでしょう。

怨みに身を任せずに神の一手を目指したのは,間違っていなかったはず。ただ,それに熱中するあまり,虎次郎の才能を摘み取るという別の過ちを犯してしまったけど・・・・この過ちを償うことが,いやその前に,そもそもこの過ちに気づくことが,ヒカルちゃんに宿ってこの世に立ち戻った理由の1つだと,今にして身にしみるようによく分かります。そしてもう1つ,そもそも神の一手は一人の人間が極められるものではないということ,人間にできるのはこの探求を受け継ぐ者を見つけ,育てることだということに気づくのが,もう1つの理由だったと今にして分かります。

受け継ぐ者はちゃんと育てましたよ。アキラ,あなたです。囲碁を愛する才能と努力を惜しまない才能では誰にも引けを取らないアキラ。あなたこそ秀策の再来と呼ばれるようになるでしょう。だって,秀策その人が6年以上にわたって毎日のように対局して鍛えたんですからね〕

ここに思い至って,わたしはふと笑みを浮かべた。アキラは,こんなわたしの気持ちなど知るよしもなく,ヒカルちゃんと窓の外の景色を見ている。ほほえましい兄妹の図ですね。

過ちの償いにヒカルを幸せにするという目的も果たしたはず。これからは塔矢の人たちがヒカルの幸せを守り,ヒカルを愛し,慈しんでくれる。何の心配も要りません。そして,塔矢の人たちにヒカルを出会わせたのがわたしの碁であることを,誇りに思います。

残された仕事は,ここを立ち去り,天に昇り,虎次郎に詫びること。ただ・・・・わたしの別離の悲しみはわたしが耐えるしかないとして,ヒカルの心に生じる別離の悲しみは,どうすれば・・・・いや,余計な策を弄することはない。ありのままを告げれば良い。「わたしはヒカルちゃんのおかげで成仏できます」と。まさにその通りなのだから。わたしの魂はヒカルの無垢な心によって浄められたのだから。そして何より,悪霊になりかけたわたしを救ってくれたのは,わたしを気遣うヒカルちゃんの言葉と表情だったのだから。

ヒカルはアキラに身をもたせてうとうとしている。安らかでかわいい寝顔。ヒカルも疲れたんですね。この7番勝負だけではない。これまで6年間,わたしの代わりに碁を打ってくれた。疲れもしますよね。ヒカル,お疲れ様。そして,ほんとうにありがとう。

 

その夜,布団に入ったヒカルにわたしは語りかける。

《ヒカルちゃん,わたしはもうすぐいなくなります。》

ヒカルは何のことか分からず,わたしを見つめている。

《ヒカルちゃんがいやだからじゃありません,ヒカルちゃんが嫌いになったんじゃありません。今でも大好きですよ。でも,もうここに留まれないのです。霊はいつまでもここに留まってはいられないのです・・・・不幸ではないんですよ。わたしの魂が浄められて,天に昇るのです。ヒカルちゃんの無垢な心がわたしの魂を浄めてくれたんです。ほんとうに,ありがとう》

《サイ,いなくなるの? ヒカルはもうサイに会えなくなるの?》

ヒカルはわたしを見つめる。そんなヒカルをわたしも見つめる。

《そんなことはありません。わたしはヒカルちゃんの思い出の中に永遠に留まりますよ。そして,いろんな機会にヒカルちゃんはわたしの気配を感じることができるでしょう。たとえば・・・・たとえば,碁盤に碁石を並べる時とか,公園を散歩する時とか・・・・》

《碁石を並べたり,公園を散歩したりすると,サイに会えるの?》

〔会える・・・・それを「会う」と言うのはウソになるでしょう。でも・・・・〕

《会える・・・・のではなくて,わたしを思い出す,わたしの気配を感じてくるのですよ》

〔そう,「気配を感じる」のなら,ウソにならないでしょう・・・・〕

ヒカルはわたしを見つめる。わたしもヒカルを見つめる。不覚にも涙が流れそうになるけど,涙を見せるわけにはいかない。ここは,一番美しい笑顔を見せないといけない場面なのだから。

《・・・・そうそう,夢の中で会えますよ。あの梅の花の咲く公園で初めて会った日の夜,夢に現われたように,それから後も何度もヒカルちゃんの夢に現れたように,これからも夢の中で会えますよ》

ヒカルはわたしを見つめる。

《サイは,天に昇るのがうれしいの?》

〔うれしい? 本心を言えば辛い部分もあります。ヒカルと別れるのが辛いです。でも,それを告げるべきではない〕

《はい,天に昇るのは幸せなことなんですよ》

《サイが幸せなら,いいよ。ヒカルもうれしいよ》

《ヒカルちゃん!・・・・》

〔ヒカルちゃん,ありがとう。ヒカルちゃんがうれしいのなら,わたしも幸せです〕

わたしは,なお流れそうになる涙をこらえる。そして笑顔を作る。

《ほら,わたしを見てごらん。笑っているでしょう。幸せですよ》

《うん》

《だからヒカルちゃんも,いつもの明るい笑顔を見せて》

《・・・・サイ,夢なら会えるんだね? 夢ならいつでも会えるんだね?》

《そうですよ。もちろん,そうですよ》

《碁石を並べたり,公園を散歩しても,佐為と会えるんだね?》

《・・・・そうです・・・・ただ,これまでのように碁石を置く場所を示すことはできません。こうやってお話しすることもないかもしれません。ただ,ヒカルちゃんのそばにそっといるだけです。その気配を感じてもらえるだけです》

《でも,いるんだね?》

〔そうですね,気配を感じるのは「いる」と感じるのと同じかもしれませんね〕

《・・・・はい。何もできませんけど,何も話せませんけど,そばにいますよ》

《うん,それなら,いいんだ・・・・》

ヒカルはいつもの明るい笑顔を見せた。

〔ヒカルちゃん,あなたこそ,神だったのですね。わたしはあなたによって浄められたのです。神様は不幸になんかなりません。そうですよ。不幸になんかなるはずはないんです〕

《わたしは天に昇って幸せになります。ヒカルちゃんは,これからもここで塔矢の人たちと一緒に幸せですよ。アキラさんも,明子さんも,行洋殿も,みなヒカルちゃんを愛し,いつくしんでくれますから。ヒカルちゃんはずっと幸せですよ》

《うん,アキラちゃんも,おかあさんも,コーヨーさんも,みんな優しいよ》

《そうですよね。そして,ヒカルちゃんはこれから,碁を打たなくても,いろんな人たちの魂を浄めてあげるのです。わたしにしてくれたように》

わたしは精一杯の笑顔を見せる。ヒカルはわたしの笑顔を見て安らかに寝入る。

安らかにお眠り,ヒカル。わたしは今夜,必ずヒカルの夢に現れよう。そして,ヒカルと楽しく碁を打とう。そしてヒカルに告げよう「明日の朝起きたら,塔矢の人たちに教えてあげてください『碁を打つ佐為はいなくなった』と」

 

9-2

 

翌朝,ヒカルは目が覚めて左を見る。いつもそこに佐為がいたのに,見つからない。不思議に思ってヒカルは目をこらす。すると,おぼろげに佐為の姿が浮かんでくる。ヒカルは安心する。「幻覚」という観念は思いつかない。ヒカルにとっては,笑っている佐為がそこにいる。

朝食の場で,ヒカルは夢の中で佐為に告げられたことを塔矢家の人たちに話す。

「碁を打つ佐為はいなくなったよ」

明子と行洋は驚いた。アキラは,驚きながらも心の片隅に〔やっぱり〕という思いを抱いている。そしてヒカルに問う。

「じゃあ,碁を打たない佐為はいるの?」

「うん,このへんに」

ヒカルは自分の左隣を指す。

「このへんにいるの。もう,何もしないし,何も話さないけど,笑ってわたしを見てるの」

明子と行洋は相変わらず呆然としているが,アキラはなんとか事態を理解しようとする。

〔つまり,佐為は消えた。どんな事情か分からないけど,突然現れた時と同じように突然消えたということ? そしてヒカルちゃんは,佐為の幻覚を見ている。何もしない,何も話さない,もちろん碁を打つこともない,ただ笑ってヒカルちゃんを見る佐為の幻覚を見ている,ということ? あるいは佐為の気配を感じている,ということ?〕

アキラは,とりあえず現実的に一番大事なことを確認する。

「つまり,ヒカルちゃんはもう碁は打たないの?」

「分かんない」

「分かんない?」

アキラはヒカルの答えの意味を理解できない。ヒカルは,そのまま話を続ける。

「うん。碁盤に黒石と白石を並べるのは楽しいんだ」

アキラは話が見えてきた。

「ああ,それは楽しいよね。対局はもうしないんだね?」

「うん,対局はしないの。碁を打つ佐為はいなくなったから・・・・でも,夢の中では打つんだよ。佐為はわたしと碁を打つんだよ」

 

アキラはヒカルがそばにいない時を見計らって,自分の推測を明子と行洋に説明した。そして,去年の秋頃から,ひょっとして佐為が消えるかもしれないと疑問を抱いていたことも。

「お父さんもお母さんも覚えているでしょう,去年の秋,佐為がヒカルちゃんを通して『万が一,ヒカルちゃんが碁を打てなくなっても,これまでどおりヒカルちゃんを大切に慈しんでくれますか?』と尋ねたこと。あれから,ボクとの対局でそれまで以上に熱心にボクを鍛えるようになったんです。まるで,ボクができるだけ早く佐為のレベルに到達し,佐為のレベルを越えることを望んでいるように。その頃からボクは,ひょっとしたら佐為はもうじき消えることを予感してるんじゃないかと思っていたんです」

アキラの話を聞いて,しばらく明子も行洋も黙っていたが,

「確かに,わたしもあの時佐為がなんで急にそんなことを尋ねるのか,不思議に思ったわ。まさか,消えることを予感しているとは思わなかったけど・・・・でも,それなら・・・・」

と明子が疑問を述べる。

「アキラの言う通りだとしたら,今もまだヒカルちゃんのそばにいる,何もしないでヒカルちゃんを見ている佐為は?」

「ヒカルちゃんの幻覚だと思います。あるいは,もっと穏やかな言い方をすれば,ヒカルちゃんは佐為の気配を感じている。気配だから,何もせず,何も話さず,ただそばにいるのを感じるだけ」

明子と行洋は黙ってアキラの説明をかみしめる。アキラはさらに話を続ける。

「ともかく,はっきりしていることは,もうヒカルちゃんは碁を打たない,対局しないということです。去年の秋,ボクたちが佐為に誓ったことを守りましょう。ヒカルちゃんが碁を打たなくても,ボクたちはヒカルちゃんを愛し,慈しみ,幸せにすると」

「もちろん,そんなこと,誰に言われなくても分かってるわ」

明子が答え,行洋は深くうなずく。

 

ヒカルはそれから毎日,碁盤に黒石と白石を並べて遊ぶ。時おり,左隣に笑顔を見せる。また時おり,碁盤にできた黒白模様を眺めてニコニコしている。アキラや行洋が見ると,それは棋譜らしい。アキラには見覚えのあるものが多い。アキラと佐為=ヒカルが対局した棋譜。どうやら,ヒカルはかつて佐為の言うとおりに石を置いた,その碁の棋譜を記憶していて,それを碁盤に再現しているようだ。ただし,手順は違っている。これまでの「棋譜遊び」と同じように,1局で何段階かの棋譜,たぶんヒカルが「きれい」と思う棋譜が記憶されていて,黒石と白石を交互にランダムに置いてそれを再現しているらしい。週に1~2回くらい,アキラが見覚えのない黒白模様ができあがっている。その多くは,アキラ以外の相手と対局した時の棋譜らしいが,たまに例の「意想外の手」を含むような棋譜がある。その時,アキラはそれをデジタルカメラで記録し,後になって父と検討する。

碁盤に碁石を並べるのに疲れたら,ヒカルは散歩に出かける。初めのうちは,佐為がいなくなってヒカル一人で散歩するのを心配した明子が付き添った。散歩コースはほぼ決まっている。家のそばの線路脇,かつて佐為と一緒に電車を眺めたように,明子と手をつないで立ち,ヒカルはあの頃のように電車が通るのを目を輝かせて眺めている。それから橋を渡ってヒカルが「小さな公園」と呼ぶ公園に寄る。そこでは必ず1対の梅の木のそばに駆けていく。

「おかあさん,花が咲くと,サイが花をわたしの髪に挿してくれるの」

「佐為が,挿してくれるの?」

「うん。佐為がアキラちゃんと手をあわせて挿してくれるの」

「そう,じゃあ,こんど梅の花が咲いたら,わたしが挿してあげましょう」

こんな話をした後は,ヒカルが「大きな公園」と呼ぶ霊園まで足を延ばす。大きな楠を見上げ,地面に寝そべる猫を撫でる。

 

こうして,佐為が消えて1ヶ月が過ぎ,2ヶ月が過ぎた。本因坊戦が終わり,棋聖戦は来年の1月。タイトルホルダーのヒカルは昇段のための大手合に出ることはない。だから,公式の手合はしばらくないのだが,プロ棋士,タイトルホルダーとしてのイベント出演などの依頼はいくつかあったのを,体調不良を理由に断っている。いつまでもそうしていられないことは,アキラも行洋も分かっている。

「いずれ,きちんと記者会見でも開いて,事情を説明すべきだな」

と行洋が語る。

「どのように説明しましょうか?」

「碁を打つ佐為が消えたと語らせてもいい」

アキラは驚いた。

「お父さん,本気ですか?」

「本気だよ。ヒカルさんにとっては,そう話すのが一番自然だろう。その後,わたしたちが『ヒカルさんは自分の天才的な棋力をサイと呼んでいました。彼女はそれを,自分の能力というより自分に宿った霊のように感じていたようです』とでもフォローするといいだろう。変に取り繕うより,このような説明の方が,むしろ説得力がありそうじゃないか?」

アキラは腕組みして,父の提案を検討した。

 

本因坊戦から3ヶ月後,塔矢ヒカルの引退が日本棋院で発表された。あらかじめ内容が告知されていたので,100人を越える記者が棋院のホールに集まった。その壇上にヒカルが現われると一斉にフラッシュがたかれシャッターが切られた。ヒカルは

「碁を打つサイがいなくなったから,もう碁は打たないよ」

と簡潔に語った。当然,質問が出された。

「saiというのは,ヒカルさんのネット碁のアカウント名ですね。saiがいなくなったというのは,どういうことなのでしょうか?」

「碁を打つサイが消えたの。消えていなくなったの」

記者たちはざわめいた。ここでアキラが説明を引き継いだ。

「ヒカルちゃんは,わたしたちといる時は,自分が持つ碁の超能力,敢えて『超能力』という言葉を使わせていただきますが,その超能力をふだんから『サイ』と呼んでいました。自分の能力というより,自分に宿った霊のように感じていたようです。そのサイ,碁の超能力を担う霊が3ヶ月前,突然消えたらしいんです。それ以来,ヒカルちゃんは碁を打ちません。碁盤に碁石を並べて遊ぶことはあります。それはただ,黒白模様が美しいからです。対局,つまり相手の打ち手に応じて自分も適切な場所に石を打つという行為は,まったくできなくなっています」

「とても信じがたいことですが」

という記者からの問いかけにアキラは

「ボクたちにとっても信じがたいことです。ただ,信じがたいと言うなら,そもそも彼女の棋力そのものが信じがたかったのではないでしょうか。思い起こしてください。彼女はご存知のとおり知的障害を負っています。そんな彼女が,12歳でプロ試験に合格しました。それも,27勝無敗。しかもすべての対局を午前中に中押し勝ちしたのです。翌年の1月の新初段戦では,森下九段にふつうの5目半のコミで勝ちました。15歳で棋聖と本因坊のタイトルホルダーになりました。この棋力こそ,信じがたいものではないでしょうか?」

記者たちは一瞬静まりかえった。そして,一人の記者が

「信じがたい出来事は信じがたい終わり方をする,ということですか?」

と問う。

「ボクは,そのように納得しました」

とアキラは答える。それから後もいくつか質問は出されたが,いずれもアキラが答えて,記者会見は終わった。ヒカルは自分の代わりに質問に答えるアキラをいつものにこやかな笑顔で眺めていた。そして,

「終わったの?」

とアキラに問う。

「うん,終わったよ」

「もう,帰っていいの?」

「うん,もう帰っていいんだよ」

ヒカルはアキラに手を差し出す。いつものように手をつないでほしいと。アキラはにっこり笑ってヒカルの手を握る。ヒカルも笑顔を返す。ヒカルはアキラに手を引かれて記者会見の壇上から去る。それは,いたいけない幼子が年の離れた兄に手を引かれて歩いているようだった。

 

その記事は,あかりも読んだ。

「信じがたい出来事は信じがたい終わり方をする」

あかりにとっても納得できる説明だった。確かに,始まりも信じがたい始まり方だった。終わりが信じがたい終わり方なのも当然と思える。次の日曜日,あかりは塔矢家を訪れた。ヒカルは

「あかりちゃん!」

と言って駆け寄り,あかりにまといつく。

〔ほんとうに,ヒカルちゃんは何も変わらないのね。碁を打つ前も,碁を打ってた時も,碁を打たなくなってからも,何も変わらないね。わたしと一緒の時は〕

 

9-3

 

記者会見から1ヶ月が過ぎ,2ヶ月が過ぎ,3ヶ月が過ぎ,年が暮れ,新しい年が明けた。メディアからヒカルの名前は消えていく。棋界ではヒカル伝説が生まれつつあったが,世間は天然天才少女と呼ばれた小柄な女の子のことを忘れ始めた。

アキラと行洋はヒカルが時おり作る独創的な打ち手を含む棋譜について語りあう。その棋譜に含まれる驚くべき打ち手は囲碁の定石を変えるかもしれない。そのような発見を隠しておくべきではないという点では親子は一致している。では,どうやって棋界に知らせるか?

棋譜を公開すれば,当然のことながら誰と誰がいつどこで対局した棋譜かという疑問が提出されるだろう。ありもしない対局をでっち上げるわけにはいかない。では,ヒカルが一人で思いついた棋譜だと真実を語るか?

「そうすれば,ヒカルさんがまた注目を集めることになる。確かに,お前が言っていたように,彼女が佐為の代理人として碁を打ち『天然天才少女』と呼ばれていた頃,その『天然』で世間の好奇心をうまくすり抜けていた。だが,また同じことをさせるのは,わたしには忍びないのだ。彼女は,そっとしておいてあげたい。このまま忘れられてほしい」

アキラもその点は父に反対しない。ただ,

「それでも,あれらの棋譜を隠しておくのは,棋界に対して後ろめたい気がします。革命的とさえ言える打ち手を誰にも教えないでおくのは」

行洋は,ちょっと考え込む。

「・・・・そうであるなら,お前が・・・・わたしたちが,その手を使ってみせれば良いことだ。実際,本因坊戦ではお前も佐為=ヒカルさんも何度かあの手を見せた。それで『入神の碁』とか『神業』という言葉がメディアを賑わせた。あの数回の打ち手だけでも,かなり研究されているだろう。これからもっと多くの機会に,わたしたちが打てばいいのだよ・・・・そういえば,お前は本因坊戦から以後はあれらの手を封印しているね。なぜだ? なぜ使わないのだ?」

「なぜか,ほかの人との対局では思いつかないんです。佐為に触発されて・・・・ひょっとしたらヒカルちゃんに触発されて,あの手を思いついたのかもしれません。でも,これからはもっと積極的にあの神業を使う場面を見つけるようにしましょう。今年はボクが本因坊位を守るのだから,神業を使いこなせるようにならないといけない・・・・これから,今年も来年も再来年も,その次の年も,ずっと守り続けます。いつかボクが『秀策の再来』と呼ばれるように。だって,秀策その人と6年にわたって毎日のように対局し,鍛えられていたんです。それで秀策の再来になれないようなら,ボクは自分で自分を許しません」

アキラはいつのまにか行洋ではなく自分に語りかけていた。

 

この話をアキラは明子にも伝えた。ヒカルに係わることだから,明子にも知らせるべきだと思ったから。

明子も,ヒカルをまたメディアに晒すようなことはしたくないと思う。ただ,だからといって,プロとして,「天然天才少女」として碁を打っていた5年の歳月がヒカルにとって無駄だったとも思わない。メディアとの対応はアキラが代行していたにせよ,この歳月,ヒカルはヒカルなりに世間と係わり,得るものもあったと思う。

〔たとえば・・・・5年くらい前のことになったけど,行洋さんが心臓発作で入院した時,ヒカルちゃんは行洋さんを必死で守ろうとした。ただわたしたちに守られるだけの存在から脱皮した。ヒカルちゃんは何も変わらないようだけど,でも何かが変わっている。それはきっとプラスの方向への変化,成長のはず・・・・今,塔矢家に保護されて棋譜遊びと散歩だけに日を過ごすヒカルちゃんも,もちろん幸せだとは信じているけど・・・・〕

明子の心にあかりの言葉がよみがえる。プロへの道を後押ししたあかりの言葉

「チャレンジさせてください・・・・なにもさせてもらえず,ただ保護されるだけの人生より,その方が幸せじゃないですか?」

 

明子は,知恵を借りたい気持ちで,かつて「サヴァン症候群」という言葉を教えてくれた友人を再訪した。友人も「天然天才少女」塔矢ヒカルのことは知っていた。明子は,それに加えて,行洋が入院した時のヒカルの振る舞いについても話し,ヒカルが持っている「何か」を役立てる方法がないものかと問いかける。

「焦らなくてもいいと思うわ」

「焦らなくてもいい?」

明子は問い返す。

「そう。焦らなくてもいい。ヒカルさんの美質はきっといつかどこかで誰かの役に立つと思う。というか今も役に立っているのよ。塔矢家の3人を幸せにしているじゃない。ひょっとしたら,いとこのあかりさんも幸せにしているかもしれない。それだけでも,すばらしいことよ。世の中には誰一人として幸せにできない人間,周りを不幸にしかできない人間もたくさんいるんだから」

友人は苦笑をまじえて語る。

「そんな連中に比べれば,ヒカルさんはずっと立派よ。それだけで,この世に存在している意義がある」

明子は一瞬あっけにとられ,それから友人の毒と優しさが奇妙に入り交じった励ましに苦笑いを浮かべた。

「そんな連中なんかと比べないでくれ,って言いたいの?」

「まあ,そう言いたい気持ちはあるけど・・・・それはそれとして,ヒカルちゃんはいまでも十分に周りを幸せにしているというのは,納得できる」

「それなら,焦らないで。いつかヒカルちゃんの美質をより多くの人のために発揮できる機会が訪れるかもしれない,ヒカルちゃんが何事かにチャレンジする機会に出会うかもしれない。その時,チャレンジすればいいのよ。その時までゆっくり待っていればいいの。まだ19歳なんでしょう・・・・仮にそんな機会がなかったとしても,今のままでも,ヒカルちゃんの存在は無意味ではないはずよ」

「うん,分かったわ」

明子はうなずいた。

 

やがて冬の寒さも緩み始め,「小さな公園」の梅の花が咲く頃になった。明子は「こんど梅の花が咲いたら,わたしが挿してあげましょう」という約束を果たすつもりでいたが,折悪しくインフルエンザで寝込んでしまった。気を揉む明子に行洋が語りかける

「無理しないで,ゆっくり休んでなさい。花は来年も咲くのだから。たまにはわたしがヒカルさんを散歩に連れて行ってあげるよ」

行洋は,ヒカルの手を握って歩きながら,15年ほども前のことを思い出した。まだ小学校に入学する前のアキラとこうやって手をつないで歩いていた時,アキラが「お父さん,ボク囲碁の才能あるのかな」と尋ねた。あれからもう15年あまりが過ぎた。そのうちの7年くらいはヒカルと一緒。15年・・・・過ぎてしまえばあっという間と思える。ひょっとして,死ぬ間際には一生さえもあっという間と思えるのか?

「そうかもしれないな」

行洋はつぶやく。ヒカルは行洋を見上げる。

「いや,なんでもない。つい独り言を言ってしまった」

ほどなく,「小さな公園」に着いた。行洋は紅梅を1輪手折り,ヒカルの髪に挿す。ヒカルは笑顔で行洋を見上げる。行洋は思わずヒカルの頭を撫でた。ヒカルはふと左を向く。

「佐為がいるのかい?」

「うん」

 

その夜,ヒカルは何百度目かの佐為の夢を見た。

夢の中で,ヒカルは佐為と碁盤をはさんで向かい合っているけど,石を打ち合うことはない。そばの満開の紅梅と白梅の木から時おり花びらが舞い落ちる。碁盤に落ちた紅梅の花びらは黒石に,白梅の花びらは白石になる。そうやって碁盤に石が並んでいくけど,消えてもいくから,碁盤にはいつまでも余地があり,そこに花びらが落ち続ける。二人の碁は碁盤に散る花びらを,碁盤に並ぶ黒石と白石を,いつまでも明るい笑みを浮かべて眺めている。まるで終わることのない永遠の遊戯のように。

 

Hikaru and Sai, Eternal

 

          おわり         FIN

 




長めの後書:藤崎(進藤)家,塔矢家,そして塔矢の碁会所はどこにある?

「そんなの,どこだっていいじゃない」
と思う人も多いでしょう。そういう人たちは,以下の文章を無視してください。

気になるひとたちもいるはずです。わたしもそうです。そして,原作にはいかにも「場所を当ててごらん」と言いたげなヒントがちりばめられているから,ついつい考察してしまいます。ひょっとして,原作の連載もアニメの放送も終わってから10年以上経過する中で,この疑問への解答がとっくに出されているのかもしれないけど,わたしがネットで検索した限りでは見つからないので,わたしの考えを述べます。
なお,ネット上には,マンガの描画のモデルになったと思われる場所や建物(たとえば塔矢名人が経営する碁会所のあるビルのモデルになったビルなど)についての情報はいろいろありますが,以下で考察するのはそういう描画のモデルを探すのではなく,ストーリーにちりばめられた情報から所在地を探すということです。

まず,最大のヒントは第9局に描かれた中学囲碁大会の会場に掲げられた「第3回北区・・・・」という言葉。北区という地名は札幌などいくつかの都市にありますが,ここは素直に東京都北区だと解します。つまり,葉瀬中も海王中も東京都北区内にあるということです。葉瀬中は公立と思われるので,ヒカルやあかりは北区に住んでいることになります。海王中は私立だから,アキラは北区に住む必然性はありません。ただ,アキラの性格を考えると長時間の通学は時間の無駄(その分,碁を勉強する時間が減る)と思いそうだから,塔矢家も北区内か北区からさほど遠くないところにあるだろうと,一応推測しておきます。
わたし自身,北区民ではないけど,北区あたりの事情は多少知っているので,ヒカルやあかりやアキラがあの辺に住んでいるかもしれないと思うと,ついつい所在地を探したくなり,原作からいろんなヒントを集めてしまいました。

ヒカルが通う白川七段の囲碁教室。「社会保険センター」という公会堂というか多目的ホールというか,そういう施設の1部屋を借りて開かれているのだけど,この時点でのヒカルの碁への気持ちからして,わざわざ電車やバスに乗って有名な棋士が主催する有名な教室に通うとは考えられないし,原作中にもヒカルが「社会保険センター」に行くのに電車やバスに乗る描写はありません。たぶん,一番近くにある囲碁教室を探して,そこに出かけたのでしょう。だから,この「社会保険センター」はヒカルの家から歩いて行ける範囲にあると推定します。

次に,塔矢の碁会所。ここは所在地についてのヒントがたくさんあるのですが,まず何より,白川七段の囲碁教室から歩いて行ける駅前にある。逆に言えば,「社会保険センター」も駅から歩ける距離にあるわけですが,それはさておき,この「駅」はどこなのか? 北区内かその近辺であることは間違いありません。そして,原作の描写からして,それなりに賑やかな駅前です。そして,重要なヒントは,第4局のアキラの行動から分かるように,この駅から地下鉄に乗って市ヶ谷の日本棋院に行けること。それもたぶん,乗り換えなしで。市ヶ谷にはいくつか地下鉄の路線が通っていますが,そのうち北区を通るのは南北線しかありません。地下鉄南北線で北区内にある駅は,赤羽岩淵,志茂,王子神谷,王子,西ヶ原の5つしかないのですが,それに駒込を加えてもいいでしょう。駒込駅そのものは豊島区にありますが,100メートルも歩けば北区になります。さらに,JR赤羽駅も候補に入れましょう。JR赤羽駅は南北線と連絡していないのですが,赤羽岩淵から500~600メートルくらいの距離なので,たとえば碁会所が赤羽駅前にあるとして,そこから赤羽岩淵まで歩いて南北線に乗ることは十分可能なのです。では,駒込と赤羽も含めて7つの駅からさらに絞り込む情報は?・・・・あります。
まず,駅前の賑やかさという点だけでも,赤羽,王子,駒込の3つに絞り込んでもいいくらいです。
もう少し確実な情報として,第6局でヒカルが緒方に捕まる場面のちょっと前,ヒカルが碁会所のそばまで来て周りを見渡す場面。駅前ロータリーのバス乗り場が描かれています。駅前ロータリーにバス乗り場がある駅となると,駒込は脱落して,赤羽と王子だけが残ります。
では,赤羽と王子のどっちなのか? 決定的な証拠はありませんが状況証拠から王子の方が可能性が高いとわたしは思っています。まず,先ほども説明したように,赤羽は直接には南北線に通じていない。王子は,JR京浜東北線と地下鉄南北線の乗換駅で,どちらの路線も通っている。それともう1つ。「社会保険センター」という施設。名前からして公的な施設のようですが,もし北区に1つだけの施設であるなら,王子近辺にある可能性が高い。王子は北区の行政の中心みたいな土地柄で,区役所とか保健所とか税務署とか,北区に1つだけの施設は王子近辺に集まっているのです。
こういう理由で,わたしは,塔矢の碁会所は王子駅前にある。「社会保険センター」もその近辺であり,ヒカルやあかりの家もそこから歩いて行ける範囲にあると想定しています。

最後に,塔矢家の所在地。碁会所は王子駅前にあるとして,そこからかけ離れた場所とは思えない。逆に言えば,わざわざ自宅からかけ離れた場所に碁会所を作らないだろう。かと言って,自宅のすぐそばというのも不都合かも。王子駅からちょっとばかり離れた所。そして,北区内にある海王中からもあまり遠くない所。さらにもう1つ条件を挙げれば,市ヶ谷の日本棋院に行くのに便利な場所。となるとやはり南北線の沿線。わたしは,王子から2駅目の駒込の近辺と想定しました。駒込駅から南西方向に5~10分歩いたあたり,六義園の周辺は,大邸宅とは言わないまでも,原作に描かれている塔矢邸くらいのお屋敷もいくつかあります。
というわけで,わたしとしては,塔矢邸は駒込駅近辺,藤崎家は王子駅近辺と想定して,その辺の景色を思い浮かべながらストーリーを作りました。

ちなみに,本因坊家の墓がある巣鴨の本妙寺は,駒込からも王子からもわりと近いです(徒歩20~30分くらい)。
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