笑ったのは、魔法使いではない。一人の少女だ。
誰も気付かないものなのだと思った。
必死で取り繕ったもの、取り繕うために取り繕ったもの。あまりにぐちゃぐちゃになっても、それ以上は駄目だと、案外、誰も言わない。
窓から射し込んだ橙色の光が揺れた。
振り返って、思わず口角が上がる。それは嬉しさからではなく、ようやく来た、と待ちくたびれた魔王のような感覚だった。不思議なものだが、そうだった。
「ツケをお支払い出来る?」
魔法使いが間を置き、読んでいた本に向きなおる。
テーブルにはごちゃごちゃと整頓されていない道具で埋め尽くされ、勿論床も同じように足の踏み場もない。彼女は大きめの木製の椅子に座り、足をテーブルの上にやっていた。
「ツケっていうのは死ぬまで借りとくもんだと思ってたんだがな」
本に目を落としたままで答えると、客人の少女がため息をついた。
「払えないのなら、死んでちょうだいな」
「で、罰金が地獄行き」
「地獄行きだと知ってるのはいいことですわ」
魔法使いは本を閉じた。
「そう焦るなよ、待ってたんだ」
魔法使いの彼女、魔理沙はテーブルから足を下ろして立ち上がると見事に物を避けて少女のもとまで歩いていった。いや、彼女が避けているのではなく物が避けているのだろうか。彼女が歩くと、とにかくカタカタと鳴った。
魔理沙が少女を見て微笑む。
「お客人。いや、紫」
紫は瞬きを一度だけやった。
「ツケは払おう。しかし私がやったことは大罪か?いや、全くもって違うだろう。私はむしろ被害者だぜ」
「あなたの意見は聞いていないわ、魔理沙」
「お前は手をこまねいている」
「いいえ」
「傍観者ならここには来ないって?そんなの古くさい妖怪の言い訳に過ぎないな」
部屋が静まり返る。
紫は呻くように声を上げ、魔理沙を見下ろした。
「魔理沙の言い分もあながち間違いではないのかもね。主に被害者だって部分。あなたから誘ってるんだけどね」
「誘ったのは私だが、決行したのはあいつ」
魔理沙は手振り身振りで説明をすると、外出の準備を始めた。
髪の毛を丁寧にブラシで梳かすと、その間に部屋の片付けが自ら物が動いて進んでいく。靴下を履いたり、歯ブラシで歯を磨いたり、ゆっくりとしたペースで進んでいった。
もう一度彼女が紫の前に立ったのは日が沈んだ頃だった。
「遅くなってすまん」
「ま、いいわよ。夕方に行こうが夜に行こうが次第に暗くなるのは同じなんだもの」
悪びれるでもなく笑った魔理沙を見て、紫は何も言わなかった。
「確認してもいいか?」
「どうぞ」
「博麗霊夢は死んだか?」
紫が息を飲む音がよく聞こえた。
「……ええ」
「博麗霊夢を殺した罪は大きいか?」
雨の魔女は、小さく笑った。
「堕ちていくなら、才能を失って堕ちた方が惨めではない」
霊夢は言った。
「なんでだろう、って思っても心当たりは大抵人には一つしか与えられてないの。私が浮けなくなったのも、たった一つしか心当たりがなくて。やっぱりあんただった」
淡々とした口調で語る霊夢は、やはり毅然とした博麗の巫女だったし、博麗霊夢だった。けれど博麗霊夢は死んだ。彼女は物質的な死の代わりに、この世界と平行線で生きる術を失った。つまり、空を飛ぶ程度の能力は彼女の中から蒸発した。
「魔理沙とやった時、体が突然重くなって世界の中心に引き摺られた。それでああ、これが重力なんだって分かった」
「地球の重力は如何か?」
「どうやったの」
霊夢が訊ねる。
紫と霊夢が並んで正座をし、その前に崩れた姿勢で座る魔理沙がいる。魔理沙は睨み付けられているかのような気になって顔を上げるが、霊夢は睨んでいなかった。紫さえも同じような顔をしている。
「判明が遅くなったのは何故だ」
「あんたがいなければ、ある程度は飛べる。能力じゃなくても、飛ぶ手段はいくらかある」
「私がいなければ?」
「私の世界の中心は、あんただもの」
魔理沙が目を見開く。
「馬鹿みたいだって思う?私、前にも言ったはずでしょ。魔理沙のこと好きなの」
「聞いた……けど」
混乱したように魔理沙が目を泳がせる。
霊夢が一度目にその告白をしたあと、魔理沙は復讐をした。復讐をしたあとは清々しい朝を迎えるはずだったのに、いつの間にか夜になっていたことまで思い出す。
小さな震える手で、めちゃくちゃに壊そうとした。異変に気付いたのは、彼女が最初だった。
「私のものになってよ、魔理沙」
パッと沸き立ったのは、白だった。
「今は、その話じゃないはずだ」
「その話よ」
白々しい程の白だった。
復讐は成功して、彼女は自分しか見なくなってしまって、その上──彼女は、私よりも弱い──ふりをしている。
魔理沙はどうしようもなくなっていた。いざこうなっても、何も出来ないことはかなり明白だった。
「話を……その話じゃなくてもいいか、少し、話をしたい」
「いいわ、紫は?」
「出てくれ」
紫が目線だけで静かに頷いて外に出る。
「私の話だ」
今度は霊夢が首をきちんと振って頷いた。
「霊夢に好きだと言われた私は、なにより頭が真っ白になった。なんか、絶望に近かった。私は好きだったはずなのに、今までのお前の目が全部、怖い」
虚ろな目で語られた。
霊夢はすべて知っているかのように頷いた。
「理由を取り繕ってお前を溺れさせたかった。だから、絶対私が選ばない道で復讐したんだ。復讐は成功して、お前は何故かこの地球の重力を背負ったしそれに気付いたのは私が最初だ」
「どうして気付いたの」
「重く……なったんだ」
魔理沙は霊夢の手をとる。
「お前の言葉すべて、お前自体が、はっきりと見えすぎて苦しい」
「何も言わないで」
魔理沙は表情が見えない。
考えを巡らせるような一瞬のあと、彼女はふっと力を抜いて口を開いた。
「私は気持ちよくなかった」
その言葉に、初めて霊夢がハッとしたように揺れた。思ってもいなかった言葉に、何も言えなくなって固まった。
「私はもちろんセックスするだけで十分復讐になると思ったからやったんだが、案外気持ちよくなかった」
「それは、貴方初めてで……」
魔法使いは霊夢の唇に指を当てて、黙らせた。赤くなった霊夢に構わずに、魔理沙はそのまま続けた。
「巫女はいつも独りよがり」
自らとった手を彼女は払う。
「私の力が一つも効かない体ならお前は助かったよ、けれどお前には足枷があったようだ」
「わ、私あんたに何もされてないわ」
「いや、やったはずだ」
魔法使いは彼女の胸に手を当て、脈拍が速くなっていくのに満足した。
「私の重力は、如何かな?巫女さん」
恋の魔法使いが、笑った。
今見えている光が朝早くに昇ってきたものか、夜を迎えるために輝いているのか分からなかった。とにかく眠ろう、と思った。
その矢先、隣で暢気に寝ている彼女を見てふと思いとどまる。彼女が浮いているこの世界に落ちてきて、重力に支配されるのなら自分がいい、と思った。自分が重力になりたい。
「復讐なんて所詮、お遊びだ」
魔法使いは彼女に手を当て、祈った。
「私だけを見てくれ」
誰かがこの魔法に気付いてもし私を訪ねに来たのなら、私も自分の言葉を認めなくてはいけない。ぐちゃぐちゃになった恋心を、認めなくてはいけない。
すぐに気付かれるか、永遠に気付かれないかのどちらかだと思われた賭けは案外平行線を辿ることになるのだが、それは既に述べられた。
語ることは何もない。
魔法使いは頬を緩ませると、彼女を撫でる。とても愛おしく思いながら。それから、思い付いたように乾いた声を出す。
「私も好きなんだ」
そう言って、魔理沙は恥ずかしげに笑った。