翌日、待ち合わせ場所で声をかけられた犬彦は緊張のあまり飛び上がりそうになった。
「ごめんね、待った?」
予想外だ。那須先輩が来そうな方向には目を配っていたはずなのに。
油の切れた機械のようにぎこちない動作で振り向くと、那須先輩が申し訳なさそうな顔で立っていた。淡い色合いのワンピースにカーディガンという出で立ちで、犬彦が思い描く清楚という言葉を女性にすればちょうど今の那須先輩になることだろう。
「い、いえ。そんなことないです」
「そう? それより顔色悪いけど、大丈夫? 具合悪いなら無理しなくても」
「いえいえ大丈夫です本当に大丈夫ですから」
もはや何を口にしているのかもよくわからない。
頭の中にあるのは那須先輩の隣に立つにあたって、犬彦自身の格好は不釣り合いではないのか、もっと良いコーディネートができたのではないか。そんなことばかりだ。
緊張と自虐じみた不安に目を回していると、気付けば電車に乗っていた。
目的地は隣町の映画館だが、この分では何を見たのか、どんな話をしたのかさえ頭に残らずに一日を終えてしまうに違いなかった。
やむを得ない――犬彦は最終手段を使うことにした。
まだ合流して5分も経ってないのに最終手段を出す羽目になるとは流石の小夜子でさえ予想できなかったことだろうが、背に腹は替えられない。
もしもの時はこれを開くこと。
最終兵器と太鼓判を押す1通のメールを送って小夜子は真っ青な顔を晒す犬彦を送り出した。
緊張が極まり、どうにもならなくなったらこれを開けと口添えて。
チャットアプリもあるのに、今時メール。しかもたった1通しかない。
姉の言葉ながら意味がわからなかったが、この状況を打破できるのであれば犬彦は悪魔に魂を売ってもいいとさえ真剣に考えていた。
意を決し、那須先輩から隠れる形で開いた。
内容は最終兵器と題された件名に、パソコンの液晶画面のスクリーンショットらしきものが1枚添付されているのみ。文章もない。
こんなもので何が変わるのか。訝しげに画像を見ると、まずそれが何かの決済画面であることがわかる。
品名がずらりと続いたその先。支払金額のゼロの数を数えた瞬間、犬彦は驚くほど呆気なく自分を取り戻すことに成功した。
「ね、そういえば今日見る映画のことだけど……犬彦くん、どうかした?」
「いえ、何でもないです。どうかしましたか?」
「映画の話をしようと思ったんだけど……不思議。何だかさっきより落ち着いてるね」
「ええと、小夜子からメールが入ってまして」
「さよちゃんから? そっか。ふふ、本当に仲良いね、2人とも」
「そう、ですね。――ええ、帰ってから話すのが楽しみです、本当に」
「ところでその、本当に良かったんですか?」
映画館に着いたところで犬彦がそう遠慮がちに口にした。
たとえるなら、暴れ馬の手綱をかろうじて掴むことに成功したかのように。秘密兵器のおかげで、当初の極端な緊張状態から脱却することはできたし、どころかいつもより落ち着いて話せもしている。それでも多少声に詰まることはあるものの、成程秘密兵器と題するだけはあったということか。
呼びかける声に、端末を操作していた那須先輩が首を少しだけ傾げて見せた。
「良かったって、今から見る映画のこと?」
「すみません、今にして思えばあまりにも自分本位な決め方だったと思いまして。な、那須先輩と話し合って決めたわけでもないですし……」
あの後、直接那須先輩とチャットのやりとりをして――直接顔を合わせる・もしくは電話の場合、犬彦自身使い物にならなくなるのが目に見えているためである――決めたわけだが、那須先輩はほとんど自分の要望を言っていない。犬彦を立てる言葉に甘えてしまった格好になるのだが、今になって罪悪感のようなものが湧き出してきた。
今日見る映画は、犬彦の趣味が露骨に出たゲームを原作にしたアクション映画である。
以前から気になっていたために、チャットとはいえ、那須先輩との直接のやりとりに一杯一杯だった犬彦が感情に従って選んでしまった格好なのだが、今になって思えば女性も楽しめそうな映画を選ぶべきだったのでは?なんて疑問が出てしまったのだ。
「犬彦くんの好きな映画でいいよ、って言ったのは私なんだし、気にしないで。私も興味あったし、むしろ嬉しかったくらい」
ふふ、と笑みを零して那須先輩が手を振った。
「そうなんですか? 何だか、その、意外ですね」
少なくとも、アクションが入り乱れる激しい映画は犬彦が考える那須先輩のイメージとは少し違った。
予想外、と目を丸くした犬彦の反応は過去に覚えのあるものだったらしい。那須先輩はちょっと考え込むように顎に指を当てた。
「くまちゃんも同じようなこと言ってたんだけど、そんなに意外かなあ。こう見えても私、結構色々見てるのよ」
おもむろに、那須先輩は指を1つずつ曲げながらいくつかのタイトルを口にした。
洋画に邦画、アクションにホラー、恋愛もあれば喜劇もある。種類の豊富さもそうなら、それをすらすらと口にできることにも驚いた。犬彦が知っているのもあれば、名前さえ聞いたことのないようなものもあった。流石に、犬彦に話を合わせるためだけに口にするには異常に過ぎる数だ。
「お、驚きました。本当に色々見てるんですね」
「でしょう? だから犬彦くんも遠慮なんてしなくていいのよ。私にも勿論好みはあるけれど、基本的には見てから決めることにしてるの。自分の知らない世界を、見もしないうちから決めつけて見ようとしないなんて、そんなのあまりにも勿体ないじゃない?」
那須先輩は楽しそうにそう言った。目がきらきらと輝いている。
この表情、声を犬彦は知っていた。新しくプレイしたゲームが当たりだった時に熱く語る小夜子のそれだ。
少しだけ胸を張って、声に力を乗せて。
――こんな一面もあるんだ。
犬彦は那須先輩の新しい一面を知った。当初の深窓の令嬢のような、近寄りがたいイメージは薄れてしまったかもしれない。しかしそれは落胆すべきものではなく、むしろ歓迎すべきことだろう。少なくとも犬彦はこちらの那須先輩の方がずっとずっと好きだった。
「でも、そんなに見てると大変じゃないですか? その、金銭的な意味で」
そう? と那須先輩は首を傾げ、犬彦の視線がチケット販売の端末に当てられた会員カードに向けられていることに気づいて察したらしい。
ああ、と読み込みを終えた会員カードを掲げてみせ、
「実はそんなに使ってないの、これ。私も久々に使ったくらいだから、そんなに貯まってるわけじゃないのよ」
「そうなんですか? てっきり、公開された映画は全部目を通しに行く、くらいの勢いなのかと思ってました」
「そんなことないわよ。普段は部屋で見てるから、映画館で見るのも随分久しぶり。会員カードを作ったのも席を取るのに必要だったからだし……それをしてみたい気持ちはあるんだけど、流石に体がもたないものね」
「一日中映画館に籠っているのも楽しそうですけどね」
何でもないように笑う那須先輩の言葉を受けての返しではあったが、後に犬彦はこの言葉をひどく後悔した。
「面白かったね!」
映画を見終えて、輝かんばかりの笑顔で那須先輩はそう言った。年相応、どころかそれより幼くも見える喜びの発露は他者をも引き摺り込んでいっそう輝く。
犬彦は思わず鼻頭を押さえて目線を反らした。
大人の色香を淑やかに漂わせる女性の、子供のような笑顔である。ギャップ萌えの真髄を痛いほどに理解した犬彦は次第に熱を上げて行く那須先輩の話に相槌を打つことしかできなかった。
無意識、恐るべし。否、自分など歯牙にもかけられていないのだから当然である。
正直なところ、犬彦が覚えている映画の内容はほとんど虫食いだ。
隣にモデルじみた美貌の憧れの先輩が座っている。身じろぎに、触れた指に、漂う香りに、あらゆる魅力が暴力となって常時襲いかかって来るのだ。集中などできようはずもなかった。
「犬彦くんはどうだった?」
無邪気な問いに頰が引き攣る。
来るべくして来た質問である。満足な答えができる自信はさっぱりなかったが、幸いにして今作品はシリーズ物であり、得意なジャンルだ。
そうですね、と口ごもりながらも、犬彦は感想を述べた。
「良かったと思います。ありきたりかもしれませんけど、やっぱり主人公がヒーローとして覚醒するシーンは熱いですね」
「ううん、そのありきたりをきちんと描ける人って意外と少ないと思うの。奇をてらわない物語って人によっては見飽きたものかもしれないけれど、私は好きだな」
詳細な数は不明だが、恐らくは犬彦の倍以上の数の作品に触れて来た先達の言葉である。流石に説得力が違った。
それにしても、と映画館を出て次の目的地に向かう那須先輩を見ながら、思う。
――意外と話せてるな。
那須先輩が合わせてくれているだけなのかもしれないし、あるいはこれが話が合う、ということなのかもしれない。
いずれにせよ、ここまで最初のオーバーヒートを除けば比較的平穏無事にきている。
昨夜などは戦地に赴く兵士のような心地で一睡もできなかったものだが、蓋を開けてみればこんなものか、と雑事を考える余裕さえ出てきていた。
最終手段を使った上での精神状態であり、情けないのは百も承知だが、それは今後の課題として克服していけばいい。
「――くん、犬彦くん?」
「へっ? あっ、と! すみません、何でしたか?」
思考のラグに気付いた犬彦が慌てて振り返って声を張った。
油断したそばからこの失態である。流石に頰が熱くなるのを隠せない。
「ううん、気にしないで。どう、ボーダーにはもう慣れた?」
「え? そう、ですね。入ってまだ一月も経ってないので何とも言えませんけど、浮足立った感じはだいぶ消えたんじゃないかって思ってます」
言いながら、それはそうだろうな、と引き攣った笑いを浮かべた。
ボーダーそのものの訓練はもとより、犬彦の場合は更に小南との訓練も重ねている。ボーダーでの日々、その濃度を競うのであれば犬彦はどの同期にも負けない自信があった。
「それに、そろそろB級にも上がれそうですしね。いつまでも新参気分でいられないですから」
「本当? 凄いね。初期ポイントが高かったのはさよちゃんから聞いてたけど、もうなんだ」
「一応訓練は高得点取り続けてますしね。初期ポイントが高かったのが大きいです」
「そう、良かった。せっかく仲間になったんだものね。わからないこととか、何かあったら頼ってね。頼りないかもしれないけど、これでも先輩なんだから」
そんな、と。首を振りかけて気付いた。
――これ、今なら言えるんじゃないか?
師事を依頼する絶好のシチュエーション。ここでしかない、と言わんばかりだ。
もしかしたら小夜子あたりにでも聞いていたのだろうか。いや、いずれにせよこれを逃す手はない。
那須先輩、と硬い声で切り出す。
那須先輩の表情は柔らかい。それが先を切り出す勇気をくれた。
「いきなり、その、全身全霊で頼りまくる感じで大変申し訳ないんですけど! どうか俺に、那須先輩の技を教えていただけないでしょうか!」
叫ぶだけ叫んで深く頭を下げる。
声は上擦って、足は震えて、今だって那須先輩の顔も見れない無様さ。
けれど言い切った。最後まで伝えられた。それだけでも犬彦にとっては偉業を成し遂げたかのような衝撃と喜びがあった。
那須先輩の返答には一瞬の間があった。
その一瞬さえ、今の犬彦にとっては無限に等しい煩悶の時間だった。
「うん。喜んで」
一世一代の大勝負、とばかりに気合いを入れた犬彦とは、あまりに対照的な気楽さで。
「え……い、いいんですか?」
「さよちゃんの弟で、将来有望な原石だもの。断る理由なんてないし……むしろ、本当に私でいいの?」
「い、いえいえ! お願いします!俺は那須先輩がいいんです!」
尋ねてくる言葉こそ信じられない。
入隊前に一度だけ見た、鮮やかな戦いぶり。複雑な軌道を描く弾幕で相手を追い詰めるその様。あれを目にして、断れる人なんて存在するわけがないとさえ思った。
表情が笑みに緩むのを抑えきれない。褒められた言葉が耳に残っている。憧れの人に持ち上げられて、舞い上がるなというのが無理な話だった。
だからこそ、犬彦はついぞ気付くことはなかった。
前を歩く那須先輩の身体が、ふらり、とわずかに揺れた。
歩みが遅れる。那須先輩との距離が近づいて、反射的に飛び退くように顔を上げて、ようやく。
顔に手をやった那須先輩の顔色が悪いことに、気付いた。
「ごめんね。久々の映画館だったから、ついはしゃぎすぎちゃったみたいで」
いえ、と力なく犬彦は答えた。
歩道のベンチに座り、休息をとる那須先輩。大急ぎで買ってきたミネラルウォーターを手に、柔らかく笑むその声にこちらを責める色はない。
点と点が線で繋がる感覚。
映画が好きなのに、あまり映画館に来ない理由。
身体が弱い。それは事前に聞かされていた。けれど真剣に捉えていたかと言われれば嘘になる。こうして実際に目にして初めて重みを知る間抜けさだ。
今日の那須先輩の振る舞いがイメージになく明るく見えたのも、無理をさせていたのだろうか。
犬彦は強く奥歯を噛み締めた。
「……すみません。もっと気を遣うべきでした」
「ううん。本当に気にしないで。私が後先考えずにはしゃいじゃっただけだから。よくあるの、こういうこと。少し休めば良くなるから、ちょっとだけ休ませて」
重ねられる言葉は包み込むように優しい。これ以上の謝罪が無粋であることは流石の犬彦も理解した。
代わりに、犬彦にはどうしても聞きたいことができた。
「先輩は、どうしてボーダーに入ったんですか?」
ミネラルウォーターを弱々しく口に含む様は、弾幕を操り、優雅に舞う画面の中の人とは別人のようだ。だからその問いは自然と口をついて出た。
トリオン体に生身の身体能力や、体調が関係ないことについては教養を受けている。
だがそもそもの始まり、どうしてボーダーに入ろうと思ったのか。
ボーダーはネイバーに対抗するための組織であり、その理由から荒事とは無縁ではいられない。選んだのがオペレーターならまだしも、那須先輩が選んだのは前線に出る戦闘員だ。
身体が弱く、激しい運動も難しい人が、どうしてこの仕事を選んだのか。それが犬彦は気になって仕方がなかった。
問いかけに、那須先輩は少しだけ首を傾げながら静かに応じた。
「そうね……私の場合、最初から入ろうと思って入ったわけじゃないの」
「どういうことですか?」
「スカウト、みたいなものかしら。たまたまこの身体で、たまたまトリオン能力が高かったから。だから声をかけられたのよ」
「……? えっと」
後者はわかる。だが前者が理由になったというのがよくわからない。
流石に正直に口にすることではないかと思い濁したのだが、那須先輩はくすりと微笑んで言った。
「犬彦くん、顔に出やすいって言われない?」
「う……す、すみません」
普通に見破られた。顔が熱い。
ミネラルウォーターのペットボトルを手の中で転がしながら、那須先輩はどこか夢見るような声で続けた。
「トリオン体って、極端な話どんな病気を持った人でも普通の人と同じように運動できるようになるでしょう? そのトリオンを生成するトリオン器官は誰もが持ってるもの……つまり、どんな人でも普通に運動することができる可能性がある。残念ながら、現状は可能性がある、どまりだけどね。どうしても個々人の資質が絡んでくるから」
でも、と声に力がこもる。
「ゼロじゃない。研究が進めば、どんな人だって自由に、人並みに動ける可能性が出てくる。そうやって声をかけられたのが、今私が所属する研究チーム。テーマは、トリオン体と健康について」
「研究チーム……」
「スカウトっていうのはそういうことね。だから私の場合は普通の人とはちょっと事情が違うの。テスターみたいなものね。活動結果がそのまま私達の研究に直結するから、オペレーターじゃなくて戦闘員の方を選ぶ必要があったし」
「抵抗はなかったんですか? 凄く、大変そうですけど」
「悩んだのは事実だけど……1回だけ、研究チームの人達にトリオン体で活動させてもらったことがあってね。頑丈で力強いことに驚くより、何も気にせず思い切り動けることがとても嬉しかった。この喜びに比べたら、少しの苦労なんて大したことないって本気で思ったわ。だから研究に協力することに抵抗はなかった」
噛みしめるように呟く。
人並みにできないことのつらさ。人並みにできるようになることの喜び。
それがどれほどの感動を呼ぶのか、犬彦は痛いほどよくわかった。
「ボーダーに入ったのは、それが理由。あの喜びを、私と同じような誰かが同じように味わえるなら、それはとても素敵なことだと思えたから」
薄く笑みをたたえて、囁くようにそう告げた那須先輩はひどく眩しく見えた。
崇高な理由。崇高な目的。気高い信念に裏打ちされた優れた実力。
その魅力は犬彦を強かに打ちのめした。
「……凄いですね、那須先輩は。俺なんてせいぜい、お金のことくらいしか考えてなかったですよ」
「そんなことないよ。生活費を稼ぐのも大事なことでしょう?」
「いえ、そうじゃなくて……何というか、こう」
言葉にできず、ぐにぐにと虚空を弄ぶ犬彦の様子に那須先輩が首を傾げる。そんな仕草さえ可愛らしい。
「真っ直ぐ一本芯が通ってるっていうか。俺みたいになあなあで決めたような目的じゃなくて、きちんとやりたいことが定まってて、それに向かって真っ直ぐで。そういうの、凄く良いと思うんです。だから余計に自分の情けなさが際立つ、というか」
犬彦の目に、那須先輩は今まで以上に輝いて見える。それは憧れの人が、立派な信念によって立つ人だと理解できたからだ。
ボーダーの誰もが那須先輩と同じような目標を持っているかはわからない。だからこそ犬彦は那須先輩が自身の師匠であることに深く感謝した。
――こんなに素晴らしい師匠が教えてくれるんだ。なら、弟子も変わらなきゃ嘘だろう。
胸の奥から沸き立つものがある。
焦がれるほどの渇望。芯を求める熱だ。
「見つけなきゃ、いけないですね」
自分に言い聞かせるように呟いた。
そうでなければ、自分はきっと、那須先輩の弟子だと誇れないから。
那須先輩の諸事情についてはふわっとした説明しかないので、独自解釈全開です。
犬彦の目標としてどうしても出したかったのでこれくらいの理由かなーと適当にアタリつけて話しましたが、思ってたのと違ってたら申し訳ない。
というわけで、犬彦に目標ができました。
ここから一気に人間関係を広げていきます。
その前に、次にもう1人の師匠の視点を書いておきます。