今年も宜しくお願いします。
――軽業師のようだ、と黒江は思った。
少年――否、自己紹介を交わして今は先輩、あるいは犬彦先輩と呼んでいるが――との組手。
ランク戦ではない。というのも、犬彦が携える獲物が違うからだ。
曰く、教わったことを教えるのであれば今はこちらの方がいいとのこと。
もっとも黒江にとっては犬彦と戦うことができればそれでいいので、それに文句はない。
むしろどう動くのか、どこまで動けるのかという興味の方が大きかった。
そして、先の感想に至る。
「先輩って、武術の経験ないんですよね?」
「あったらもっと強いと思うんだよなあ!」
息を切らせながらの問いに、距離を詰めながらの答えが応じる。
思わず尋ねてしまったが、それくらい犬彦の振る舞いは堂々としている。
黒江が構えているのは、日本刀の形状をした孤月である。
切られて死ぬわけではないとはいえ、切られれば切られる感覚はあるし、大抵は刃物を向けられれば怖気付くものだ。
「怖くないんですか?」
「何百回も切られれば嫌でも慣れる!」
答えは自棄っぱちな叫びだった。
黒江の中で犬彦への敬意がまた1つ上がった瞬間である。
そう。犬彦に武術の経験はない。そのことを黒江は言葉ではなく実感として察していた。
武術には型がある。それは積み重ねた研鑽の果てに形作られたものであり、対峙していればその振る舞いに歴史を感じるものである。
犬彦の動きは、言ってしまえば戦い慣れした素人だ。理性ではなく本能と直感で動く獣のそれである。
これが生身の戦いであればまだ話は別だっただろう。けれどトリオン体はその素人を正真正銘の化け物へと押し上げる。
「オラァ!」
踏み込んだ足で訓練室の床が割れる。跳躍した身体が吹き飛んでくる様はまさに砲弾だ。
勢いのままに繰り出された拳を孤月で防ぐ。岩を叩きつけられたかのような重い衝撃に手が痺れる。
「っ女の子を殴りつけるとか、ドン引きなんですけど……!」
「そりゃ失礼!」
無論、冗談である。
犬彦も初日に徹底的に語り合っただけあって承知しているのか、心にもない言葉を吐いてステップを踏む。
この距離を逃さないとばかりに、二撃、三撃、四撃。軽快な足さばきとともに繰り出される拳と蹴りは格闘選手のそれだ。
引いて、踏み込み、放つ。その繰り返し。
攻め方も教わってないのにそれを実行できるのは、回避のみを教わってきたというアンバランスな特訓の副産物とのことだが、きっと皆が同じようにできるわけではないだろう、というのは黒江自身確信していた。
――器用なんですよね、先輩
隙間に差し込んだ袈裟斬りをバックステップでかわされるのを見ながら、感心半分、仄かな嫉妬とともに思う。
武術の経験もなく、回避を学んだだけで一月でここまで動けるようになるのは紛れもなく才能だろう。
だからこそ、学ぶ。スタート地点は同じはずなのに、彼我の距離はあまりにも遠い。
その距離を縮める術は、きっとこの攻防の中にある。そう信じて。
「ところで、いつ抜くんですか?」
距離が離れたところで問いかける。構えをとり、互いの隙を探り合う展開。
何の武器を選択したかは事前に聞かされている。にもかかわらず当の先輩はと言えば素手で殴ることしかしていないのだからそうも聞きたくなるだろう。
訝しげに、若干わくわくしながら尋ねた黒江の問いに、犬彦は笑みを返して言った。
「もう抜いたよ」
「ッ!」
瞬間、足に走る違和感。
痛みはない。が――視線を落としたその先、地面から生えたスコーピオンの刃に足を切り落とされた。もぐら爪。傷口からトリオンが溢れ出す。
「余所見すんなよ!」
踏み込み。また、地面を潰すほどの脚力を発揮して犬彦がこちらへ吹き飛ぶ。回避はできない。受け止めるしかない。
先程の再現のように繰り出された拳に孤月を合わせ、
「あっ――!」
やられた、という実感を伴う確信。
衝撃の瞬間、拳から伸びたスコーピオンが孤月を避けるようにして黒江の額に突き立った。
「こんな感じで、スコーピオンの強みはどこからでも展開できることだな。その柔軟さは他のどの武器より群を抜いてる。手から、足から、何だったら繰り出した刃から更に繋げて刃を伸ばすこともできる。マンティス、っていう技らしいんだが」
「そんなこともできるんですか? 凄いですね」
「そうそう。本当に何でもできるんだ。目から出したり、口から出したりとかもできるぞ」
ハイここテストに出ます、と手にしたタブレットに丸を書き込みながら犬彦が言った。
「実用性はともかくとして、やってみたんですか? 実際に?」
「そらそうよ。武器を知るには実際に扱ってみるのが一番ってな」
想像する。全身の至る所から棘のようにスコーピオンを生やす犬彦の姿を。
「ハリネズミ先輩……」
「珍獣見つけたような顔して笑ってんじゃねえよ」
「私、ハリネズミな先輩も好きですよ」
「その褒め言葉で喜ぶ奴がこの世にいるのか……?」
複雑そうに首を捻った後、まあいい、と1つ手を叩く。
「そういうわけだから、発想力、応用力のあるスコーピオン使いは滅茶苦茶やってくる。勿論、単に伸ばしただけじゃ威力は伴わないだろうから体術に絡める形になるだろうが、その厄介さはさっき見せた通りだな。だからスコーピオン使いと対峙した時は使用者の発想力と、間合いの見極めが大事だな」
「驚きました。どこからでも出せるとは確かに聞いてましたけど、思ったよりも自由度高いんですね」
「そうなんだよ。仮入隊の時もそうだし、基本的にその辺の説明はざっくりしてるから、こうやって色んなトリガー試したり、動画を見たりしないと中々気付けないんだよな」
悩ましそうに腕を組みながら犬彦が言った。
聞くところによると、犬彦は1週間で全てのトリガーの概要を把握し、実際に手に取って扱ったらしい。師匠が鬼教官でな、と苦い顔をしながらその話をしたものだ。
確かにC級隊員に知識として詰め込むにはあまりに過密かつ性急なスケジュールだけれど、犬彦の事情を聞いた後では頷かざるをえなかった。
仮入隊を経て、3500ポイントという高い初期ポイントを所持しての入隊。初日に師匠を得たこと。そして訓練で見せる本人の資質と器用さ。
仮に師匠からランク戦を止められていなければ、入隊して1週間もかからずにB級に上がることも考えられた逸材。
犬彦の師匠はきっとそのことを見越して、犬彦がB級に上がった後でも足踏みすることのないよう知識と経験を蓄える時間を与えたのだろう。
凄い人だ、と黒江はひっそりと感心の息を吐く。
「先輩は、私もスコーピオンにした方がいいと思いますか?」
黒江が孤月を選択したのは、以前に剣道をかじったことがあったためである。逆に言えば、スコーピオンを選ばなかった理由はそれしかない。
しかし、今話を聞いてみると練習さえすればスコーピオンもアリかもしれない、という思いが湧いた。
C級の間はともかくとしても、B級に上がった際には鞍替えを検討する余地は十分にある。
思わず尋ねた黒江に、そうだなあ、と指でタブレットを小突きながら犬彦が口を開く。
「オススメはしておく。スコーピオンはヒットアンドアウェイに向いた性能だから、身軽で素早い黒江には合ってると思う。応用については要練習だけど、理解できればすぐ慣れるだろ」
「じゃあ」
ただ、と。利点ばかり口にしていた犬彦が、ここで始めて言葉を濁した。
「当然、スコーピオンにも欠点はある。最たる例が耐久性。これは間違いなく孤月に劣る。孤月の攻撃をガードしようとしてスコーピオン側の刃が欠けたなんて事例はザラだし、トリオン能力が足りてない場合は、必然その穴埋めを他の部分で補う必要が出てくる」
「他の部分、というと」
「それこそさっき言った発想力とかな。サブウェポンとか、技術とか。あとはサイドエフェクトとかみたいな反則技も勿論ある」
「……難しいですね」
多分、黒江のトリオン能力は平均の域を出ていない。
となると犬彦の言うところの他の部分を頼らざるを得なくなるわけだが、今のところ黒江に自信がある部分は1つもない。サイドエフェクトについては論外だ。
少し乗り気になったところへ突きつけられた現実に思わず苦い顔を浮かべてしまう。
不満げに唸り声を上げる黒江に、そんな顔すんなよ、と犬彦が笑った。
「要は使うならそのデメリットもきちんと理解しとけよってことだ。デメリットもあるが、それと同じくらいメリットもある。対策さえできるなら問題ないだろ」
「そう、でしょうか。なんだかデメリットを聞いた後だと、素直に使うのが躊躇われるんですけど」
「戦略をしっかり練った上でならいいと思うけどな。そもそも打ち合わなければいいという発想もある。回避に重点を置いてもいいし、シールドで防ぐのもアリだろう」
そこでふと、犬彦の顔を見た。
「先輩ってスコーピオンを使う気はないんですか? 結構、合っているような気がしたんですけど」
回避に重点を置くというのは、まさに犬彦には御誂え向きのスタイルではないか。
そう考えて尋ねると、犬彦は言いづらそうに後頭部をかき、
「まあ、考えなかったわけじゃねえよ。少なくともアタッカーの武器の中じゃ孤月やレイガストより合ってるとは感じてるからな」
「やっぱりそうですよね」
小南が言っていたのはきっとそういうことだろうなあ、と何か遠い目をして犬彦は言った。
「……ただ、少なくとも今は使う気がない。師匠もついてもらえたし、今は
憧れの人、と言っていた師匠のこと。
そう話す犬彦の目はきらきらと輝いていて、それが少しだけ羨ましい。
――今は、あまり気にならないけど。
黒江は今、とても満足している。
犬彦と出会うまでは萎れていく花のように全てが色褪せて見えたものだけれど、今は水を得たように生き生きとしていた。
無理もなかった。限られた環境、変わり映えのしない日々に退屈していたところへの真っ当なライバルだ。
今はそれに加えて、お互いのスキルを高め合うために犬彦に知識を教わっている。
まだ始めて数日しか経ってないのに、黒江は入ってからの一月を凌駕する大きな充足感を得ていた。
――だからこそ。この関係が1週間もしないうちに終わってしまうのは、少しだけ寂しい。
出会った初日に話したところ、犬彦の師匠はやはりその日に上がるように言い含めていたようだった。
そこを犬彦の口利きで――めっちゃ大変だった、と後に疲れた顔で語っていた――期限を延ばしてもらったのだが、それでも1週間が限度だったとのことだ。
まあ、それは仕方ない。
元より現時点での2人の所持ポイント数を鑑みれば、1週間でも伸ばしすぎなほどだ。互いに少しランク戦に集中するだけで即日ランクアップは容易に実現できる。それを延期させてもらっているのだから、犬彦にも、そして犬彦の師匠へも感謝しかなかった。
聞いている話の印象では、犬彦の師匠は犬彦のことをとても大切に思っているように思える。
技術だけ教えればいいところを、上がるタイミングまで指示して余計な固定観念を与えないようにしているのがその証拠だ。
予定を崩して付き合わせてしまっているのはこちらなのだから、折を見て挨拶に行こうと黒江は心に決めた。
「犬彦ー、今日のデータ化終わったよー」
自動ドアが開いた。
訓練室の隅で額を突き合わせる黒江達に歩み寄ってくるのは、犬彦と瓜二つの小柄な少女。姉の小夜子である。
オペレーターの正装である黒いスーツに身を包んだ姿はキリッとしていて黒江から見ても格好いい。が、それを身に纏う小夜子は欠伸混じりに伸びをしながら歩いてくるのだから色々と台無しだった。
「おーサンキュ。また見とくわ」
タブレットを操作しながら犬彦が言った。
姉弟ならではの気の知れた対応だけど、流石に黒江にとってはそうはいかない。
「お疲れ様です」
視線を合わせてきっちりと頭を下げる。
何しろこの訓練室も小夜子の所属する那須隊のものだ。
そこを部外者である2人が使わせてもらっており――もっとも、那須が師匠で、小夜子が身内となれば犬彦については半分以上関係者だろうが――その上休みを割いて協力してもらっている。小夜子が口にするデータ化というのも、今日の2人の訓練の様子を録画したものをデータにして犬彦が手にするタブレットに落とし込んでいるのだ。
犬彦は気にしなくていいぞ、と軽いものだけれど、流石にここまでお世話になっていて礼を尽くさない道理などなかった。
頭を下げた黒江に、気にしなくていいよ、とひらひらと手を振りながら小夜子が笑う。
「黒江ちゃんもお疲れ。犬彦の相手、大変だったでしょ?」
「いえ、きついのは確かですけど、優しく指導してもらってますし……楽しいです」
「そっかーなるほどー。……ねえ犬彦。これ多分普段のノリで返しちゃダメな奴だよね?」
「わかってるなら言うんじゃねえよ」
突然鼻頭を抑えて空を見上げた小夜子に、犬彦が辛辣に吐き捨てる。
会話の意味はよくわからなかったけど、この姉弟はたまにこういうところがあることは理解していた。
「つれないなあ。犬彦ももっと私に感謝しろよー構えよー」
胡座を組んで座り込む犬彦の背に小夜子がもたれかかる。
物言いたげな低い声で語りかけるも、慣れたものとばかりに犬彦はタブレットから顔を上げもしない。
「いや、礼ならもう言っただろ」
「黒江ちゃんみたいな敬意が足りないと思うんだよ私は。見てごらんあの丁寧に頭を下げる姿を。ああいう純真さを犬彦は忘れてしまってるんじゃない?」
「かつてなくウザい絡み方するんじゃないよ。何だってんだ」
「犬彦はわかってないみたいだから言うけど、よく考えてごらん? 2人がキャッキャウフフしてるのを私は1人! 司令室の中で! モニター越しに! 1人で! 見てるしかないんだよ?」
「コイツ1人でって2回言ったな。てかキャッキャウフフなんてしてねえよ」
「しててもしてなくても構うものかー! 休みの中駆り出されて2人が楽しそうにしてるのを眺めてるしかない私をもっと労われー!」
「ああもうわかった! わかったから力を込めるな邪魔くせえ!」
犬彦の首に腕を回して抱きついたところでついに犬彦がキレた。手を振り回して解こうとするも、小夜子はなかなか離れようとしない。どころか少し楽しそうだ。
――いいなあ。
少し、羨ましい。
見ててわかる。この姉弟は本当に仲が良い。
微笑ましい姉弟の触れ合いは一人っ子の黒江には縁のなかったもので、だからこそ羨ましく、そしてその輪から少しだけ外れたところで眺めている自分が少し寂しい。
しかし、ふと見ていて気になったことがある。
取り残された寂しさもあって、考える間もなく思わず声をかけてしまった。
「あの、先輩」
「ん、黒江?」
「どうかした?」
2人揃ってこちらを振り向く。その距離は相変わらずとても近い。
「先輩って、女の人が苦手なんですよね?」
「まあそうだな」
「聞いたところによると、確か小夜子先輩もだとか」
「私は男の人だけどねえ」
首を傾げる2人に、触れ合う手を見ながら言った。
「その、それは大丈夫なんですか?」
それ?と、一瞬何のことだかわからなかったようだけれど、やがて浮かぶ理解の色。
ああ、と触れた手を軽くひらひらさせながら口にする言葉はまったくの同時で、
「だって小夜子だし」
「犬彦だしねえ。生まれた時から一緒だし、むしろ今更」
放つ言葉も、やはりまったく同じだった。
「……そういうもの、なんですかね?」
けれど、2人の答えは結論ありきのようにしか見えなくて、論理的とは言い難い答えに黒江は首を傾げるしかない。
「そういうもの、としか言えないな。こればっかりは感覚の問題だし」
「その理屈で他人とも何とかなったらねえ」
「なったら苦労しないんだけどなあ」
難しい顔をして顔を突き合わせ合う姉弟。
心の問題だし、そう簡単にはいかないものか、と納得するしかない。
「でも、犬彦の方には進展ありそうだし。その点は黒江ちゃん、大変だろうけどお願いね?」
指を立てて、悪戯っ子の顔で笑う小夜子。
その言葉を聞いた瞬間、苦いものでも飲んだかのように顔をしかめる犬彦。
対照的な2人に、黒江は頷きと、少しだけ笑みを浮かべて言った。
「精一杯頑張ります。それが自分の恩返しですから」
指が触れる。
感触が伝わった途端、ぴくりと対面の指が退く。
逃がさないとばかりに少し強引に手を伸ばして捕まえれば、小さな手のひらがびくりと跳ねる。
少しひんやりとした体温が溶け合い、徐々に高まっていく。
体温が上がっていくにつれて、やがて諦めたように捕まえた手の力が弱まっていく。
――それはまるで、蛙を呑み込む蛇のよう。
そんな支配者の視点に、知らず気分が高揚する。
「……お、おっかない目してるぞ、お前」
引き攣った声で犬彦が指摘した。
そうですか、と確かめるように頰に触れる。自分ではよくわからない。
「肌すべすべですね。気を遣ってるんですか?」
「まさか。そんなのを気にするような歳でも性別でも――うひぃ!? ちょ、撫でるな指を動かすな!」
「だいぶ慣れてきたかと思ったんですけど、やっぱり動きがあるとダメなんですね。こういうのもダメなんですか?」
「ひぃっ! ちょ、お前ホントいい加減にしろ……!」
空いた手をもがくように振り回しながら悶絶する。
もう片方の手は黒江に掴まれ、繋がれている――一言で言うなら、握手だ。
訓練室の隅、正座で向き合い握手を交わす男女。
側から見れば密約が結ばれた瞬間か、はたまた怪しげな儀式の最中か。
前途の通り犬彦は激しく身じろぎして見えない何かと戦っているようであり、対照的に黒江は物静かにその様を見守っていた。
最初にお礼をしたい、と言い出したのは勿論黒江だった。
互いのスキルを高め合うランク戦において、知識も経験も劣る黒江が犬彦から受け取るものは多い。
しかしその逆はと考えた時に、黒江にはいっそ申し訳ないほど犬彦へ返せるものが少なかった。
犬彦は同期で孤月使いと戦えるだけで良い経験になるとは言ってくれたけれど、教わるものに見合うものを返せているかと言われれば否になる。
犬彦にもその師匠にも迷惑をかけているのだから、できる限りのことはしたかった。
提案したのは、小夜子だった。
那須隊の訓練室を借りた最初の日、そんなやり取りをする黒江たちに提案したのだ。
異性恐怖症。犬彦の悩みの種である体質を克服する手伝いをしてほしい、と。
黒江は二つ返事で了承した。
ボーダーにおけるスキルで手助けをできないのは残念なものの、どんな形であれ受けた恩を返せるのであれば願ってもない。
改善するポイントの関係上、触れ合わなければいけないと聞いた時には流石に恥ずかしかったものの、蓋を開けてみれば握手でさえコレだ。最初期には指で触れ合うことさえできず、これでも慣れてきた方だというのだから重症である。
これは本当に腰を据えて挑まないといけないみたいだ、と思っていたのだけれど。
「っその、何か喋ってくれないか? 気が紛れるし、何より黙り込んだままでコレを続けられるのは流石に恥ずい」
「そうですね。じゃあ先輩、昨今の日本経済についてどう思いますか?」
「何故よりによってその話題をチョイスした? 第一お前日本経済わかるのかよ!」
「いえ、わかりませんけど。何か喋ってくれ、とのことだったので」
「その要望で真っ先にそれが出てくるのかお前は……もっと別の話にしてくれ」
「そうですか。じゃあ先輩、昨日の夕ご飯は何でしたか?」
「え? オムライスだけど」
「そうですか」
「……」
「……」
「いや、会話下手くそか! 俺もだけど! そっちは流石にもっと広げ方あるでしょ!」
「すみません、咄嗟に思いつかなくて。じゃあ先輩、明日の天気は――」
「地雷! それ見えてる地雷! 絶対そうですかとしか返せない奴だろそれ! もう大人しく定番のネタ使えよ!」
「わかりました。じゃあ先輩、今好きな人とかいますか?」
「修学旅行の夜かッ! 定番って聞いてなんでそんな答えにくいネタ選んでくるんだよもう! もう!」
ゼーハーと息を荒げながら突っ込みをする犬彦。繋がれた手のひらは犬彦の興奮に合わせて熱を上げていて、暑いくらいだ。
息を整えて、半目でこちらを恨めしげに睨みながら口を開く。
「……まあ、確かに要望通りではあるけどさ。天然か? それ」
「さあ、どうでしょう?」
くすり、と微笑みながら首を傾げた。
感情を隠そうともしない黒江の様子に、くたびれた様子で吐息をつく。
触れた手のひら越しに伝わる鼓動は、最初よりずっと落ち着いていた。
「訓練の成果は出ていますか?」
「流石に数日そこらじゃ出ないだろ。まあ、流石にお前の手はだいぶ慣れてきたけどさ」
「私の手に慣れてきただなんて、なんだかいやらしいですね」
「そういうこと言うのやめてくれよ……言い方が悪かった、すまん」
「気にしてませんよ。最初からわかってますし」
「それどういう意味? 場合によっては朝まで話し合うのも吝かじゃあないんだが?」
「先輩の想像の通りですけど?」
「ようしそこに直れ。俺の男女平等パンチが火を噴くからなあ!」
ぐるぐると肩を回す仕草に、堪え切れなくなって噴き出す。
口元を抑えはしたものの、肩が震えるのは隠せない。
「ったく……まあ、ちょっと安心したわ」
「安心、とは」
「ニギニギすんなぁ! 話させろや!」
「すみません。手触りが良くて、つい」
「お前ホントこの時間だけめっちゃ活き活きしてるの何なんだよ……まあ、つまりそれだよ。最初会った時はめっちゃつまらなさそうにしてたけど、今は楽しそうだから。良かったなって」
言ってて照れ臭くなったのだろうか、最後は目を逸らしながらそう言った。
それを、思わず目を丸くしてまじまじと見てしまう。
「何だよ、間違ってたか?」
「いえ、逆です。先輩って、異性恐怖症と言う割には見てるところは見てるんだなって思って」
「別にそんなことねえよ。話している時と戦ってる時でギャップがありすぎたから、そうなのかなって思っただけだし」
「ああ……」
言われて思い出す。
表情の変化については自分ではわからないけれど、内面のことについて言えばそれは劇的だったことだろう。それが大なり小なり表に現れていたとしても不思議はない。
「そうですね。確かに、今まではそんなに面白くなかったです」
「ぶっちゃけたな。面白くなかったというと」
「ランク戦とか、色々です。入った時は面白かったですし勝ち続けるのもそれはそれで好きでしたけど、物足りなさはずっと感じてましたから」
「天才の悩みだなあ」
「先輩が言いますか」
「俺は師匠がアレだっただけだし」
遠い目をしながら犬彦が言う。
それも否定はしないけれど、先天的にトリオン能力が優れていたのだから十分天才の範疇だろう。
「なので、本当にどうしようかって思うところはあったんです。バカはさっさと上行って楽しそうにしてますし、どうしようかなって」
「お前の口がそんなに悪いの珍しいな。バカって?」
「少し前に入った幼馴染がいるんです。その幼馴染はもうスカウトされてA級になってますけど」
「スピード出世だなあ。よっぽど優秀なんだな」
どうでしょうね、と空を仰ぐ。
ボーダーに入ってからのバカ――緑川駿がどんな感じなのかは知らない。追い出されてないということは上手くやっているのだろう、程度。
実際、子供の頃から身体を動かすことに関しては飲み込みの早い野生児だったからそんなに心配はしていない。元々住んでいた田舎の山を2人で駆け回っていた日々の経験が今の黒江を形作っているものだ。黒江が上手くやれているのなら、緑川もそうなのだろうという信頼がある。
だからこそ、自身の現状を省みて不満と、焦りを感じていたのは事実だった。
「やっぱり、負けたくはないですから。辞めようとまでは流石に思っていませんでしたけど、憂鬱にはなりました」
「なるほど。まあそういうことなら、少しでも楽しめてるようで何よりだよ」
「ええ。お陰様で、楽しくやらせてもらってます」
「そう言いながら力を込めるなァ! 嫌がらせか!」
ぐにぐにと力を入れたり離したり。そのたびに跳ねる犬彦を見ながら思う。
――自分は本当に運が良かった。辞めるつもりはなかったとは言ったけど、あのまま沼に沈むように腐っていたら意志が折れていた可能性は十分にあった。
だから、本当に犬彦には感謝しているのだ。
犬彦のおかげで、今は本当に充実した日々を送れている。
だから、そう。願わくば、これからも。
「……」
犬彦の顔を見る。
少女にも見える中性的な顔。戦闘時の勇ましい顔も、肌を触れ合わせている時の緊張と羞恥の顔も、この数日間で見慣れてしまった。
思うのは1つだ。
――先輩、B級に上がったらどうするつもりなんでしょう。
この少しおかしな訓練の日々は1週間で終わってしまう。
けれど終わってからの話をしたことはない。
黒江には今のところどこかの隊に入るつもりはなかった。そもそもそういうコネがないし、だからこそ悩んでいたのだ。
強いて言うなら緑川くらいのものだが、あの幼馴染に頭を下げて入れてもらうのもそれはそれで釈然としない。きっとからかわれるだろうことは容易に想像がついた。
一方、覚えが正しければ犬彦からもそういう話を聞いたことはない。
姉の小夜子と組んでやりたいような発言はちらりとしていた覚えがあるが、誰の隊に入るとか、誰と組んでチームを作るという話は聞いたことがなかった。
だから、そう。少しだけ、思うことはある。
――どうせならこのまま、先輩と。
「……江。黒江ってば」
呼びかける声に我に帰る。
「っ。すみません、ぼうっとしてました」
「いや、別にいいけど。そろそろいい時間だし、お開きにしないか? 今日ランク戦もしてないし」
言われて時計を見る。確かに、もういい時間だった。
「そうですね、わかりました。――あ」
握手が解かれて、繋がれていた手のひらが離れる。そのことに思わず声が漏れた。
「どうかしたか?」
不思議そうな顔をして犬彦が聞く。
茫洋と、手のひらを見ながら呟いた。
「先輩って、何かそういうフェロモンとか出たりしているんでしょうか」
「は? フェロモン?」
「もし私が先輩から離れられなくなったら、責任取ってくださいね」
「待て、何の話だ!?」
慌てる声を引き連れて、訓練室を出ていく。
知らなかった。
――人の温もりというものは、存外に心地いいらしい。
「スカウト……ですか?」
そして、選択の日が訪れる。
基本的に、神の視点からの突っ込みは排除してます。
ので、黒江の(まだ顔合わせもしていない)小南に対する評価が鰻登り。
多分本人はそこまで考えてないと思った人、どのくらいいるのカナー(棒読み
書いてて思いますが、黒江ってスコーピオンでも戦える気しますね。
スピード寄りのアタッカーで適性は十分なんで、そっちで立ち回る姿も見てみたい……韋駄天でバチバチにやり合う姿も勿論好きなんですけど!
次回、選択。