原作だとほんの数シーンしかないので当然のように独自解釈アリアリ。
シフトについてはググったら素晴らしい考察記事があったのでそれを参考にしてます。
初めての防衛任務を控えた、前日のこと。
犬彦は菓子折りを入れた紙袋を手に、とある作戦室へ向かっていた。
「犬彦、ちょっと挨拶してこようか」
「どうした急に。あとなんだその顔」
週明け。学校から帰宅した犬彦に小夜子がそんなことを言った。
しかしその言葉の軽さに反して、小夜子の表情はなんだかひどく難しそうだった。眉をハの字に唇をへの字に、腕を組んで如何にも「私悩んでます」といった風情。
ソファの上で膝を揃えて、思い悩む修行僧のような様子で言葉を続ける。
「ほら、今度防衛任務あるでしょ?」
「え? ……あー、そうか、そういや明日だっけ」
苦い顔で頷く。
トリオン兵が現れる時には、必ずゲートが開く。そのゲートはボーダー本部が設置されてからは本部周辺の警戒区域に誘導されるようになっているが、ゲートそのものを閉じたり、侵攻を防ぐようなことはできない。故にそこから現れるトリオン兵を駆除する人間が必要になる。
その仕事が、防衛任務。1度のシフトに、オペレーターも含めて3・4人ほどのチームで割り当てられる。そのまま1つのチームで呼ばれることもあれば、希望者を寄せ集めて臨時チームが組まれる場合もある。
何故希望するのか? 単純である。金が欲しいのだ。A級ならば固定給があるものの、B級にはそれがない。C級に至っては無給だ。
ならばB級とC級を分ける壁は何かと言えば、まずはこの防衛任務に参加できること。そして任務中にトリオン兵を倒したなら、その成果に応じて報酬が支払われる。金を稼げるのだ。
故に生活費を稼ぐ必要のある隊員などは防衛任務のシフトに多く入れてもらえるよう希望している。今回の犬彦はまさにそれだ。
もっとも犬彦の場合、そもそもソロチームであることから防衛任務につく際にはどの道誰かと組まされることになるのだが。
その初めての防衛任務を明日の日中に控えている。
今回は先程挙げた例で言えば寄せ集めの臨時チームであることから、小夜子はおらず犬彦単独でのシフトになると聞いていた。
そうそう、と小夜子がしたり顔で頷いて指を立てる。
「で、いきなり初めてにして初対面の人と組んでやることになるわけじゃない」
「あー、そういえばまだ誰と組むのか見てなかったわ」
「ええ……気にならないの? そういうの。私なんていつも誰と組まされるのかびくびくしてるんだけど」
「いや、気にならないわけじゃないけどさ。ちょっと訓練がキツすぎてしんどかったから、気にする余裕がなかったというか」
「ああ、なるほど。私達にしては珍しく週末の徹ゲーもお預けだったもんね」
「流石にアレの後で徹ゲーやる元気はない」
真顔できっぱりと言い切った。
これまでは小南の訓練が理不尽に厳しかっただけでまだ何とかなった。
しかしここ数日は那須先輩の訓練――というよりバイパーを当てるのが難しすぎて四六時中そのことばかりを考えている。おまけに何故か小南の訓練も苛烈さを増して、そんな状況で防衛任務がどうだとか考える余裕などあるはずもなかった。
「本当に嫌なタイミングで入ってきたなあ。上がってからまだ全然経ってないんだぜ? もうちょっと余裕持たせてくれても良さそうなもんだ」
「上がると同時に希望出したのがマズかったねえ。いっぱい入りたいなんて書けばそりゃ駆り出されるよ」
「ヒモ同然な身分はもう嫌なんだ……!」
「いやヒモて。私お姉ちゃんなんだけど」
「もっと言うならこのダメ姉に養われている現状が我慢ならない!」
「おう札束の力に従えよマイブラザー」
「いっそ殺せぇ! 殺せよぉ!」
「男のくっころなんてどこにも需要ないんだよなあ」
はーっはっは、と一通り笑ってから、まあそれは置いといて、とジェスチャーする小夜子。
「で、組む相手の話」
「ああ。誰となんだ?」
ほい、とタブレットの画面を示してみせる小夜子。
どれどれ、と覗き込む犬彦の目に映ったのは、
「冬島隊当真勇、香取隊香取葉子、オペレーターが香取隊染井華……なるほど、2人か」
「何がなるほどなのさ。目を逸らしても現実は変わらないんだから、帰っておいで?」
「……いきなり初っ端からかよ」
渋い顔で呻いた。
女性隊員もいるのだからそういうことはある。
わかってはいた。いずれは経験しなければならないことも。
けれども、まさか最初にそれを引くとは。
「本当に犬彦は引きが悪いね。まあ、上に希望出してるわけじゃないし仕方ないと言えば仕方ないんだけど」
「女性が苦手だからできるだけ一緒にしないでくれって? いや、できるだろうけど、流石にそれはなあ……」
「抵抗があるの?」
「……なんか、情けない、というか。あんま接触しなければいいだけだし、そもそもそんなにいないし。何とかなるだろって」
「裏目引いた時のリスクを真剣に考えなかった犬彦の落ち度だねえ、それ」
うぐ、と声を詰まらせて犬彦が唸った。
確かに、やろうと思えば回避できたことではある。
組織を運営する上では上下も横も、人間関係は重要である。個々人にも個性があり、まして支障が出るともなれば多少の融通は利かせてくれることだろう。
だけれど、あの暗黒時代を過ごした犬彦と今の犬彦では環境が違う。周りを取り巻く環境も大きく変わって、支えてくれる人も増えた。ならばいつまでも過去のトラウマを引きずるのは、なんだか自分だけ殻に閉じこもって逃げているみたいで嫌だったのだ。
希望を出さなかったのは犬彦自身の意地でもあった。
だからこれは、いずれ来たるべき時が少し早く来てしまっただけのこと。
肩をすくめて小夜子が言った。
「まあ、犬彦が考えてることは何となくわかるけどさ。……ただ、いきなりこの子ってのがねえ。ホント引き悪いよね、としか」
「なんだよ、引っかかる言い方だな?」
「引っかかるも何も、それが最初の話に繋がるんだよ」
「挨拶するとかいう?」
こくり、と小夜子が頷いた。
「私、こっちの香取さんと同じクラスなんだよ」
「ほう?」
「だけど、仲が良いわけでもないし、ほとんど話したこともない。ここまで言えば、ある程度察しがつくでしょ?」
同じボーダーに所属していて、にも関わらずほとんど話したことがない。
何となく、話が見えてきた犬彦はうんざりと顔をしかめた。
「……嫌いなのか?」
「どっちかと言えば、苦手かな。今時のJKって感じ。しかも我の強いタイプ」
「お前もJKのはずなんだけどなあ……まあそりゃ気が合うわけないわ。無理だわなあ」
犬彦とこれだけ打てば響くような会話をしている小夜子も、相手によっては借りてきた猫のように、あるいはそれ以上に大人しくなる。小夜子の言ったタイプなどまさにそれだ。
そしてこの姉弟の場合、往々にしてその苦手なタイプはかなりの確率で一致する。
「最近のJKと何を話せばいいんですかね」
「マジ・ヤバい・ウケる。何を聞かれてもこの3つをローテしてればいけるのでは?」
「偏見の塊!」
「というか私に聞くのがそもそもの間違い」
「さっきも言ったけどお前も最近のJKだよ? もうちょっとなんかあるでしょ」
「あの生物と私が一致しているのは歳と性別くらいだよ」
「言い切った! 言い切ったぞコイツ!」
瞠目して言った。
しかもこれだけ言い切っても小夜子に傷ついた様子はなく、どころか少し誇らしげである。何故なのか。
「まあそんな考えるだけ不毛なことは置いといてだね。挨拶の話だよ」
「ホントブレねえなお前……。挨拶っても、その様子だと行っていいものかね。藪蛇じゃないか?」
「いやいや、考えてもみなよ。まったく面識もなく、しかも話が合わないかもしれない人と仕事するんだよ? おまけにこっちは経験もない素人で、あっちはキレッキレのJKときた。そんな空気の中で長時間いて、コミュ症の犬彦が耐えられると思う?」
「無理ですね」
即答した。
帰るころには胃がめちゃくちゃになってそうだ。
でしょ、と、こちらもしたり顔で小夜子が頷く。
先ほどの話はもしかしたら小夜子の経験談だったのかもしれない。
「だったら、やれることは全部やっておいた方がいいと思うんだよ。私の見立てでは多分私達とは相性が良くないとは思うけどね。何せ面識がないし、もしかしたら話が合う可能性もある。この文化は私にはよくわからないものだけど、挨拶しに行くだけで相手の機嫌が良くなるかもしれないのならやっておいて損はないでしょ」
「藪蛇の可能性があっても?」
「あっても、だよ。少なくとも今の状況がすでに最悪なんだから、これ以上悪くなることはよっぽどないでしょ」
おもむろにソファから立ち上がった小夜子が、キッチンから紙袋を2つ提げて帰ってきた。
紙袋には『鹿のや』の文字がある。確か有名な和菓子屋だったはずだが、小夜子がそこまで気を利かせたことに目を見開く。
「わざわざ買ってきたのか?」
「ううん。くまちゃん先輩にお願いして買ってきてもらった」
「だと思ったよ」
今度頭下げないとなあ、と呟きつつ手渡されたそれを受け取った。
「細かいところはまた教えてあげるから、宜しくお願いしますだけ言って帰っておいで。話が弾むようならいいけど、そうなる確率は多分犬彦のガチャ運くらい低いと思うから」
「……行きたくないけどなあ。行かないといけないんだろ?」
「行かないよりは行った方が良いと思うよ、私はね」
「ああ、了解。諦めて行ってくるわ」
「行ってらっしゃい。……あ、そういえば、犬彦」
「うん?」
「なんか封筒来てたよ、ボーダーから」
「封筒?」
そう、と頷く小夜子が取り出した茶封筒を受け取る。
差出人は確かにボーダーだ。
「何だと思う?」
「解雇通知では?」
「もし本当だったら刺し違えてでもお前を道連れにしてやる」
「なんて理不尽!」
アホなことを言いながら開封して中を見る。
数枚の綴りのうち、1枚目の題目はこう書かれていた。
「診断、書?」
そして、1つの結論が出た。
香取隊の作戦室に着いた。
今回は以前に影浦隊を訪ねた時と違い、アポ無しである。小夜子の助力も得られず、純然たる初対面であることから緊張はあの時の比ではない。インターホンに伸びる手が震えるのは仕方のないことであった。
――挨拶して帰るだけだし。取って食われるようなことはないだろう。
言い聞かせながら、ゆっくりと伸ばした指がインターホンに触れた、その瞬間。
「私達に、何か用?」
「うひぇっ」
凜と響いた女性の声に、比喩ではなく飛び上がってドアから離れた。
声のした方を見やれば、スーツ姿の小柄な女性が飛び跳ねた犬彦を訝しげに見ている。
「へ、あ、えっとその! 別に怪しいものではなくてですね!」
何かを言わなければ、と思考ばかりが空回りしていた。
それが目的の人物だと気付いてはいても、むしろだからこそ狼狽は加速する一方だった。
そうこうしているうちに、女性の方が先に思い当たることがあったらしい。1つ頷いて口を開いた。
「志岐くん、だったかしら。明日の防衛任務のこと?」
涼しげな声が耳に届いて、犬彦は少し冷静さを取り戻した。ぶんぶん、と大きく頷いて同意を示す。
「え、ええ。明日一緒になるので、挨拶に」
「そう、律儀なのね。ボーダーにはあまりそういう人はいないから、少し意外だったわ」
「何もかも初めてなので……迷惑、かけるかもしれませんが、宜しくお願いします」
菓子折りを手渡しながら頭を下げる。
ありがとう、と一言告げて受け取った。
「染井華よ。知ってはいるでしょうけど、一応ね」
「あ、す、すみません。志岐犬彦です。宜しくお願いします」
「ええ、宜しくね。これ、わざわざありがとう」
いえいえ!と大仰に手を振りながら、犬彦は思った。
――なんだか、思ったより普通だな。
小夜子の話を聞いて、どうなることやらと身構えていたが、今のところ平穏無事に事が進んでいる。小夜子曰く、香取隊長が相性が悪そう、とのことだったので、それ以外ならまた話は別、というだけのことかもしれないが。
染井先輩は表情は薄く、どういう感情を浮かべているのかイマイチ判然としないが、口調は柔らかで剣呑とした空気は感じない。
このままいけば何事もなく終えられそうだ、と犬彦は早くも気を抜きかけていた。
「志岐くんは、防衛任務は初めてよね?」
「え? あ、ええ。その、つい最近上がったばかりなので」
「どういう流れなのかはもう聞いた?」
「その、はい。小夜子が――姉が、教えてくれてますので」
「お姉さん……ああ、志岐さんね。私はあまり話したことはなかったけど、お姉さんがいるなら確かに、と」
そこで、急に染井先輩が言葉を止めた。口を覆って、薄くはあるけど、しまった、とでも言わんばかりの空気。
眉をひそめて首を傾げると、
「ごめんなさい。あまり長く引き留めてもいけなかったわね」
「え、っと?」
「異性恐怖症、なのでしょう? 言い訳するつもりはないけど、思い出すのに時間がかかってしまって。ごめんなさい」
「あー……」
そういえば、ROUND1の解説で口にしたと小南が言っていた。
それが耳に届いたのなら、そういう反応になるのも無理はないか。
実際のところ、気遣ってもらえたのは嬉しい。
初対面の女性との会話で犬彦は神経をすり減らしていたし、目線は逸れ気味で声の調子もおかしい。長くは続けたくないというのが本音ではある。
ただ、そうかと言って初対面の女性に負い目を抱かせるのもそれはそれで罪悪感があった。
「いえ、その。少しくらいなら大丈夫です。慣れてくれば大丈夫ですし、えっと、人見知りみたいなものなんで、はい」
「そう。ごめんなさいね、なんだか気を遣わせてしまってばかりで」
「いえ、そんなことは」
……悟らせることなく流せるのが理想だったのに、やはり隠し通せなかったらしい。
こういうところが本当にダメなんだよなあ、と犬彦は眉尻を落として頰をかいた。
曖昧な笑いを浮かべていると、染井先輩の迷っている気配を感じた。
意図はすぐに察した。挨拶に来ているこちらに対して、迷うということ。それは恐らく、犬彦と香取隊長とを引き合わせるか否かの話。
「……確認はしてないけど、多分葉子は中にいると思う。どうする? 一応会っていく?」
伺うように、問いを投げられる。
鼻は役に立たなかった。
自動ドアは閉まっているし、様々な匂いが混じっていて精査は難しい。かといって集中して匂いを嗅ぐなんて真似を隊の人間の前でできるわけがない。部屋の前で突然犬のように匂いを嗅ぎ始める人間がいたら失礼云々以前に警察を呼ばれる案件である。
また、会わない、と答えるのもそれはそれで何のために来たのか、という話になる。
最低に近い状況を何とかしようと勇気を振り絞って来たというのに、目標を目前にして帰ることにしたら本末転倒だろう。
結局、犬彦の答えは1つしかない。
「お願い、します」
その一言を告げるために、いったいどれほどの勇気を振り絞ったのか。
フォローはしてあげる、との染井先輩のありがたい言葉も話半分に、スライドドアが開くのを見守った。
どんな魔窟か、と恐る恐る覗き込む犬彦の目に映ったのは、ごく普通の作戦室である。
右手にはオペレーターのデスク。左手には本棚やテーブル、くつろぐことを目的とした大きなクッションソファが見える。
相変わらず作戦室と名付けるには首を傾げる様相だが、犬彦の中で一際異質だったのは影浦隊のこたつなのでこれでもまだ違和感は少ない。散らかり方も生活感のあるものなのでまだ見られる、といった印象。
正面のドアは閉まっていて奥の部屋は見られなかったが、人のいる気配はない。
おや、と首を傾げていると、染井先輩もまた首を傾げてみせた。
「いないみたいね。何か用事でもできたのかしら」
「そ、そうですか」
言葉は普通。けれど何を考えたのかはバレバレだった。
「ねえ、1つ聞いてもいい?」
「はい?」
菓子折りをデスクに置く音。染井先輩が振り返った。
「志岐くんは、どうしてボーダーに入ろうと思ったの?」
「え、っと」
「その異性恐怖症、少し話しただけだけど簡単に治るようなものじゃないことはわかるわ。こういう組織で働くことが難しいことはわかっていると思うのだけれど、それでも今、働くことを選んだのはどうして?」
怜悧な眼差し。急に突きつけられた問いに犬彦は鼻白んだ。タイミングがタイミングなこともあって、まるで叱られたような気持ちになってしまう。
それを顔つきで察したのか、染井先輩が眼鏡の位置を直す振りをして視線を逸らした。
「ごめんなさいね。責めたいわけじゃないのよ。これはただの純粋な好奇心。貴方もお姉さんも、どうしてこの道を選んだのかなって思っただけ。嫌なら答えなくてもいいわ」
「い、いえ、そんなことはないですよ。答えるのは別にいいんですけど……」
なんと答えたものか、判断に迷った。
緊張しているのもあるし、また犬彦自身、入る前と入った後で考えが変わったこともある。
建前で話すことも考えたけれど、もたもたしていたら香取隊長が戻ってくるかもしれない、という恐怖が一瞬ちらついた。
よって、この時犬彦が零したのは反射的な回答――即ち本音だった。
「継続的にアドを得たいんですよね」
「継続……え、何?」
「あ、えーっとその! すみません今のは忘れてください!」
反射に身を委ねすぎてつい小夜子と話している時のノリで口走ってしまった。
こほん、と咳払いを1つ挟んでもう一度口を開く。
「最初は興味本位です。姉が先にいたので話を聞いたりして、興味が湧いて」
「苦学生、とか」
「いえ、そういうのでもないです。親からお金は貰ってましたし――最初は1人暮らししてたのは姉だけでしたけど、あんまりにも姉がダメだったので、監視も兼ねて一緒に住むことにしたんです。で、話を聞いて、ボーダーに興味を持ちました」
「お姉さんがいたから、ってこと?」
「まあ、それもありますね。お金も貰えますし、仕事が面白そうだったので、やってみようかなと」
「女性と働くことに抵抗はなかったの?」
「……まあ、そうですね。今にして思えば、正直勢いもありました。小夜子がやれてるんならやれるだろって軽く考えてたのもあります」
「現実は厳しかった、ってことね」
「返す言葉もありません……」
肩を落としてため息をつく。
実際に今、現在進行形で精神を疲弊させているところである。反論の余地はなかった。
ただ、と。前髪で顔を隠して、小さな声で犬彦は言った。
「入った時の理由はそんな感じなんですけど、今はまた、別の理由がありまして」
「別の理由?」
「……成長したい、って思ってます。凄い人に触れて、憧れて、燃えてるんです」
きゅっ、と拳を握りしめる。
「働いてお金を稼ぐことも、腕を磨くことも、
昔のことを思い出す。
学校と家とを往復して過ごす日々を送っていた自身に、心の底からやりたいと願うことはあっただろうか?
今の犬彦は違う。
手のひらでは数え切れないくらい、心の底からやりたいと願うことばかり湧いてくる。それが犬彦にはたまらなく嬉しいことだった。
もっとも、そんな青臭いことを口にするのはやはり気恥ずかしいもので、犬彦は俯きがちに染井先輩の反応を待った。
そう、と一言相槌を打った染井先輩はしばし黙り込んでいた。
何を考えているのか、感情が薄く、そもそもこれが初対面である女性の思考を読み取ることなどできはしない。
「聞かせてくれてありがとう。変なことを聞いてしまってごめんなさいね」
「いえ……」
「正直なところ、今の志岐くんが組織で働いていくのは大変だと思う。でも、それを承知で働いていくと言うのなら、応援するわ。貴方が成長できるようにね」
「あ、その、はい」
思いがけない激励の言葉に、つっかえながらも頷いた。
顔を上げて表情を見る。笑顔は見えない。
けれどその言葉は暖かく、こんな子供の話も馬鹿にすることなく聞いてくれた。
挨拶に来て良かった。
犬彦はようやくそう思うことができたのだった。
部屋から出て行く小さな背中を染井は見送った。
良くも悪くも子供、という印象だった。
未熟な青い果実であり、未来への可能性に満ちている。
普通の子供との差異は、異性恐怖症というその一点。
あの歳でいったいどんな経験をしたらそうなるのだろう、という疑問はあったが、それこそ野暮というものだろう。
他人の暗いところを想像して愉しむ趣味は染井にはない。
「行ったみたいね」
背後でスライドドアが開く音がしたので振り返る。
憮然とした表情で腕を組んでいる、犬彦が探していた女性――香取葉子がそこにいた。
「盗み聞きは趣味が悪いよ」
驚くでもなく染井が言った。
ふん、と鼻を鳴らして香取が吐き捨てる。
「会う理由がないじゃん。めんどいし。別に挨拶なんてしてもしなくてもカンケーなくない?」
「葉子としては、されないよりはされた方が気持ちいいんじゃないの?」
「知らない奴に頭下げられても鬱陶しいだけだし。ま、お菓子はありがたく頂いておくわ」
言い捨て、『鹿のや』の紙袋を嬉しそうに手に取った。
――異性恐怖症でありながら、それでもわざわざここまで来たのに。
犬彦のおっかなびっくりな様子を思い出すと、その辛辣さに流石に憐憫の情が湧いてきて吐息をついた。
そもそも、と香取が菓子折りから視線を上げて指を差す。
「アタシが奥にいることに気付いてたのに話を振ったのは華じゃん。それでアタシが責められるっておかしくない?」
その指摘のとおり。
犬彦には言わなかったが、香取が扉の向こうの部屋にいるだろうことは気付いていた。
にも関わらず犬彦にそのことを告げなかったのは、香取と対面する犬彦の心労を思いやったわけではなく、もっと打算的な思考だ。
「――興味があったから。志岐くんの情報は少ないけれど、そのどれもが濃い。少しでも話ができれば、参考になるかと思って」
2人の師匠。短期間でのランクアップ。姉弟のソロチーム。そして異性恐怖症。
どれもが異例であり、驚異的な点もある。同じB級であり、今後相対することを思えば、情報を手にしておくのに越したことはない。
「だったらもっと参考になること聞けば良かったじゃん。弱点とかクセとか」
「初対面でそんなことが聞けるのは葉子だけよ」
そんな風に踏み込んだ解答が得られれば楽だったろうが、生憎と現実は甘くない。
むしろ初対面で、尚且つ異性恐怖症の相手とあれだけ話をすることができたのだから十分すぎる成果である。
「あっそ。ま、いいわ。どーでもいいし」
蝿でも払うように手を振って、菓子折りを手にお気に入りのクッションソファへと歩いて行く。
――そう。敵として相対した時のことを思えば、今回は間違いなくプラスだった。
しかし、明日同じ勤務に就く身であることを思うと、途端に話が変わってくる。
犬彦に話を振ったのは染井であり、また話を聞いて思うことがあったのも事実だ。
だがその感情を隠しておける染井と違い、構うものかとさらけ出すのが香取という少女である。
「……葉子はあの子のこと、どう思った?」
わかっていながら口にする。
染井と香取は幼馴染であり、環境が激変した第一次近界民侵攻を経てからもずっと親しくしてきた仲だ。
互いの性格を熟知しているから、何を考えているのかも容易に想像がつく。
静かに尋ねた染井に、背中を向けたまま香取が吐き捨てた。
「甘ったれたガキね。反吐が出る」
――そして、防衛任務当日を迎える。
割と犬彦に対して甘い・フラットな面々ばかり書いてきたので、明確に嫌うキャラ書くのがとても新鮮でした。
今の犬彦はふんわりとした目的意識しかないので、黙ってればともかく、喋ると城戸派の人間とは絶対に合わない。これは間違いない(確信
挨拶に行くという選択が間違いというわけではなくて、ただ、選択肢に関わらず用意されたエンディングは1つしかありませんでした、といったオチでした。
次は防衛任務です。
もう今のうちに言っておきますが、やっぱり次の話も独自・拡大解釈です(白目