スバル360の小さなエンジンが悲鳴を上げるような峠道を越え、半日以上をかけてたどり着いたのは、鬱蒼とした木々が天を覆う伊賀の山中だった。車を降りた瞬間から、空気の密度が違うのが分かる。湿り気を帯びた土と、深い緑の匂い。ここは間違いなく、人界と異界の境界線だ。
「行くぞ」
五ェ門はそれだけ言うと、まるで平地を歩くかのように険しい山道へと足を踏み入れた。おれは慌ててその後を追う。
ここからは人間の領域ではなかった。五ェ門はもはや飛んでいるとしか表現できない動きで進んでいく。
斜面を滑るように駆け下り、川の浅瀬を水面を蹴るように渡り、巨大な岩と岩の間を鳥のように飛び越えていく。それはまさに、忍びの動きそのものだった。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、五ェ門!」
息を切らしながら、おれは必死にその後を追う。パッパとの訓練で鍛えられたはずの体力も、この超人的な移動速度の前では心許ない。
木々の間をすり抜け、ぬかるみに足を取られそうになりながら、それでも五ェ門の背中を見失わないように、ただひたすらに走った。
どれほどの時間が経っただろうか。ようやく目の前に、天を突くような切り立った崖が現れ、五ェ門の動きが止まった。
「ここからは、拙者一人で行く」
五ェ門は振り返ることなく、静かに言った。その声には拒絶というよりも、何かを覚悟したような響きがあった。
「なんでだよ。おれも…」
「ならぬ。これより先は、石川家の者のみに許された道だ」
そう言うと、五ェ門は崖のわずかな突起に指を掛け、まるで重力を無視するかのように、スルスルと垂直の壁を登り始めた。その姿はあっという間に小さくなり、残されたおれは、その場に立ち尽くし、五ェ門の帰りを待つしかなかった。
手持ち無沙汰になったおれは、周囲の気配を探ることに意識を集中させた。
鳥の声、風が木々を揺らす音、遠くで聞こえる川のせせらぎ。それらの自然の音に混じって、何か不自然なものが潜んでいるはずだ。
だが、何も感じない。
いや、違う。何も感じないことこそが、異常なのだ。これほどの山奥で、獣の気配ひとつ感じられないのはおかしい。まるで、この一帯だけが真空パックにでもされたかのように、生命のざわめきが消え失せている。
(待ち伏せか…)
敵は、こちらの存在に気づいていながら、完全に気配を消している。
その隠遁の術は、尋常ではない。
おれはゆっくりと斬鉄剣の柄に手をかけた。いつ、どこから襲われても対応できるように、全身の神経を研ぎ澄ませる。
背後の大木、頭上の枝、足元の茂み。全てが敵に見えてくる。冷たい汗が背筋を伝うのを感じながら、おれは静かに五ェ門の帰りを待った。
しばらく経った後。突如、天を覆う巨大な影と、腹の底まで響き渡る轟音が伊賀の山を揺るがした。
「うぉぉっ。派手だなぁ」
見上げれば、先ほど五ェ門が消えていった崖の頂上の岩が切り裂かれ、巨大な岩が土煙を巻き上げながら落下してくる。地鳴りと衝撃波が空気を震わせ、おれは咄嗟に近くの岩陰に身を滑り込ませた。
凄まじい勢いで沢に落下した岩は、局所的な地震と地鳴りを引き起こす。
今頃、五ェ門はあの岩の下に隠されていた古びた鉄の箱から、竜の置物を元のプレートに戻す方法が記された巻物を懐に収めている頃合いだろう。
やがて静寂が戻り、舞い上がっていた水飛沫と土埃がゆっくりと晴れていく。その静けさを破るように、崖の上から一本のロープが垂れ、五ェ門が音もなく降りてきた。その表情には目的を果たした達成感と、何か新たな決意のようなものが滲んでいる。
「待たせたな」
「いや、こっちは見てるだけだから気楽なもんだったぜ」
お互いの無事を確認し、一息つこうとしたその時だった。
直ぐ側を流れる沢のせせらぎが、不自然に途切れた。水面が鏡のように静まり返り、次の瞬間、まるで水そのものが人の形を成したかのように、黒装束の忍者たちが音もなく、水しぶき一つ立てずに水の中から現れ、俺たちの周りを取り囲んだ。
マジかよ。こんな近くに居て気づかないのか。
その恐るべき隠遁の術に舌を巻く暇もなく、四方から銀色の糸が飛来する。咄嗟に小太刀を抜こうとするが、それは巧みに手首や足首に絡みつき、あっという間におれの動きを封じ込めてしまった。見れば、五ェ門も同様に、まるで蜘蛛の巣に捕らわれた蝶のように身動きが取れなくなっている。
そしてまた沢の中から中から、一人の男が姿を現した。その佇まいは、他の忍者たちとは明らかに格が違う。
「お主、生きていたのか…!」
五ェ門の驚愕に満ちた声が響く。
「フフフ。掛かったな五ェ門」
男は不気味に笑う。銀座でルパンに射殺されたはずの、柘植の幻斎だった。
「服部の流れを汲む者か?」
「いかにも。柘植の幻斎。百地党の流れを汲む。お主とは兄弟門よ」
「斬鉄剣ではないな、本当の狙いは」
五ェ門の問いに、幻斎の目がギラリと光る。
「知れたこと。その懐にある巻物をいただきたい」
「これは渡さん!」
五ェ門の決然とした拒絶にも、幻斎は動じない。
「生きているうちに奪うも、死んでから奪うも、こちらにしては同じことだ」
「くうっ」
幻斎の言う通り、此方は完全に動きを封じられている。抵抗すらできず、まさに煮るなり焼くなり好きにしろ、という状態だ。
おれのガンマンとしての経験も、五ェ門の剣技も、この巧妙な罠の前では無力だった。
「そこの子供は生かして捕らえよ。やれぃ!!」
幻斎の冷酷な号令と共に、忍者たちが一斉に襲い掛かってくる。万事休すか。おれが奥歯を噛みしめた瞬間、閃光が迸った。幻斎の忍者たちが、声もなくばたばたと倒れていく。何者かの横槍だ。
絡みついていた糸が断ち切られ、自由を取り戻したおれは即座に反撃に転じる。小太刀を抜き、残りの忍者たちを峰打ちで的確に打ち据えていく。
そして、目の前に立つ救援者の姿に、おれは我が目を疑った。
「なんでお前が此処に?」
そこに居たのは、忍び装束に身を包んだサオリだった。手にはクナイが握られ、その構えは素人のそれではない。
「え? えっとね。修行中、なの」
まさかこんな伊賀の山奥でサオリに会うとは。驚きで言葉を失っていると、五ェ門の方も、いつの間にか現れた美しい女忍者に助けられていた。それも、何やら見覚えのある顔合わせのようだ。
桔梗とサオリが繋がっていたとは夢にも思わなかったが、まさか助けられるとは。おれもヤキが回ったか?
「取り敢えず礼を言うぜ。ありがとな」
「うんっ」
おれの言葉に、サオリはぱっと華が開いたような笑みを浮かべた。命のやり取りをしていた殺伐とした空気が、その笑顔一つで和らいでいく。まったく、かわいいやつだ。
「お前、学校はどうした?」
「や、休みだから」
一応今日は土曜日だ。信じてやろう。しかし、彼女の視線が僅かに泳ぐのを見ると、平日も修行に明け暮れていたのではないかという疑念が頭をよぎる。まだ中学生で義務教育の身だというのに、休み癖がつかなければ良いが。
戦いが終わった後、サオリに手を引かれ、おれは五ェ門を助けた女忍者、桔梗を紹介された。
「紹介するね。桔梗、わたしの友達」
「よろしく。まさか噂のノワールが子犬のノワールだったなんて思わなかったよ」
「子犬はやめろ」
よからぬ噂で呼ばれるその名に、おれは辟易しながらも短く返す。裏社会で流れた噂や通り名なんてのは、それこそ未来のネット社会みたいに一度知れ渡ると中々拭えないもんだ。
ともかく、これ以上この場に留まるのは危険だと判断し、俺たちは桔梗の案内で伊賀の里に隠された忍者屋敷へと向かうことになった。
◇◇◇◇◇
伊賀の山中にひっそりと佇む忍者屋敷に居を移した頃には、日はとうに落ち、深い闇が辺りを支配していた。
古びた木材の匂いと燻る囲炉裏の煙が混じり合い、独特の静寂が部屋を満たしている。
パチパチと爆ぜる火の粉と薪に掛けられた雑煮の煮える音だけが、この場の唯一の動きだった。
その揺らめく炎が、向かいに座る五ェ門の険しい横顔を、そして隣の桔梗の謎めいた微笑みを、不確かに照らし出している。
俺の傍らではサオリが不安げにこの重苦しい空気を吸い込んでいた。
沈黙を破ったのは桔梗だった。その声は夜の静寂に溶けるように、しかし確かな意志を持って響いた。
「やはり、あいつらはその巻物を狙ったんだね」
「うむ」
五ェ門の短い肯定が、重く部屋に落ちる。彼は囲炉裏の炎を見つめたまま、その視線は過去の因縁を辿っているかのようだった。
「80年以上も昔にこの忍者屋敷からなくなった竜が、今頃動き出すとはね」
桔梗の言葉に、五ェ門の視線が鋭く彼女を射抜いた。その瞳には単なる驚きではない、深い疑念の色が浮かんでいる。
「その事は、我が一族しか知らぬはず…。桔梗、お主今、やはりと言ったな」
問い詰められた桔梗は動じることなく、むしろ待っていたかのように口の端を上げた。
「そうさ⋯竜の在処がわかったんだ。香港の陳珍忠てのが調べ出したんだ」
「まことか!?」
五ェ門が身を乗り出す。陳珍忠…香港マフィアのボスという響きだけで、この先の面倒事が手に取るように想像できた。
「陳だけじゃない。狙ってるのは他にも居るよ」
桔梗は畳みかけるように情報を小出しにする。そのやり口は、どこか不二子を彷彿とさせた。五ェ門は怒りと使命感がないまぜになった表情で、斬鉄剣の柄を強く握りしめる。
「たとえ誰だろうと、邪魔すれば…斬る!」
囲炉裏の炎が揺らめき、五ェ門の影が壁に大きく映し出される。その宣言は、一族の宿命を背負う男の揺るぎない覚悟の表れだった。
それは結構なことだ。だが、此方としては初手から敵と通じている相手を身内に抱え、この先の戦いに身を投じることへの懸念が拭えない。
そもそも、なぜ奴らは五ェ門の巻物だけでなく、このおれまで狙ったのか。その意図が見えないことが、何よりも不気味だった。
おれは静かに息を吐き、この危険なゲームの盤上に自ら駒を進めるべく口を開いた。
「おれたちにもその話を聞かせたってことは、頭数に勘定されてるって理解しても良いんだな?」
それは単なる確認ではない。おれの覚悟を問い、そして相手の覚悟を問う言葉だ。五ェ門はおれの真意を汲み取ったのか、真っ直ぐにこちらを見据えて頷いた。
「うむ。一度ならず二度もお主まで襲われた理由が解らぬが、狙われた以上、無関係でもあるまい」
襲われた理由が解らないからこそ、目の届く場所に置いておきたい。その判断は合理的だ。そして、おれにとっても、この件の真相を探るためには五ェ門と行動を共にするのが最も確実な道だろう。
これで、今回の仕事は五ェ門とチームを組むことが確定した。
その覚悟を決めた上で、おれの脳裏にはただ一つの、しかし絶対に譲れない懸念が浮かぶ。この道を進んだ先で、もしあの男…次元と敵対することになったら?
そうだ。だからといって、パッパに銃は向けられない。
その思いを胸の奥底にしまい込み、おれは静かに頷き返す。揺れる炎を見つめながら、これから始まるであろう血風の匂いを、確かに感じていた。
「ノワール」
五ェ門が小さくおれを呼ぶ。
「先ほどの“頭数”の件、礼を言う」
「礼なんていらねぇよ。歌舞伎座の屋根の借りを返してるだけだ」
「恩を数えるなと言ったのは拙者だが……今夜は、数えさせてくれ」
五ェ門の頬がほんのわずかに緩んだ気がした。珍しいこともあるもんだ。
桔梗が横目でそれを見て、すぐ目を逸らす。その仕草の中に、微かな温度差がある。
おれの中で、彼女への疑いと信頼が綱引きを始める。今は、引き分けでいい。向こうが動くまでは、な。
◇◇◇◇◇
煙草の紫煙が、埃臭いアジトの淀んだ空気に細く長く立ち上っては消えていく。ルパンがタイピングするパソコンには、香港マフィアのボス、陳珍忠。銀座で俺たちを値踏みするように見ていたのはコイツだとルパンは言った。
写真からでも金の匂いと、それ以上に血生臭い危険な匂いがプンプンしてやがる。デカいヤマだ。間違いねぇ。
「…たく、厄介なことに首を突っ込みやがって」
こんな風にヤマがデカくなりそうな時、ルパンが大人しくしているはずがねぇ。そして、アイツ…ノワールもまた、率先して何かやらかしているに違いなかった。
その証拠に、今頃は五ェ門とつるんで、俺たちの知らないところで事を進めているはずだ。あのガキも、すっかり俺たちの世界の住人になっちまった。
案の定、俺たちは陳が主催する豪華客船でのパーティーに潜り込むことになった。甲板は着飾った男女で溢れ、シャンパンの泡と下卑た笑い声が飛び交っている。世界的な不況だの、明日のパンに困る人間のことだの、ここにいる連中の頭には微塵もねぇんだろう。世知辛いぜ、全くよ。
不二子の手引きで陳のスイートルームに忍び込み、そこで聞かされたのは、ルパン一世ですら盗めなかった唯一の獲物、「竜の置物」の話だった。1912年に沈没したタイタニック号の底に、そのお宝は眠っているという。
とはいえ、交渉決裂。陳の船からトンズラこいたわけだが、問題はそこからだ。
4000メートルの深海となれば、潜れる機材は限られてくる。それこそ、陳の野郎がこのために造らせたっていう最新鋭の潜水艇をガメるしか手がねぇ。
こうして、俺とルパン、それにいつの間にかちゃっかり合流していた不二子を連れて、香港からタイタニックが沈むニューヨーク沖まで飛ぶ羽目になった。
銀座を出てパリに寄り、香港にとんぼ返りして、今度は大西洋だ。計算するのも馬鹿馬鹿しいが、こりゃ余裕で世界一周旅行が成立しちまうぜ。俺はただ、静かなバーでバーボンを呷りたいだけなんだがな。
陳がご丁寧に建てた海上プラットフォームは、海に浮かぶ鉄の要塞だった。夜陰に紛れて海の中から忍び込み、睡眠ガスで見張りの連中には気持ちよくおねんねしてもらう。
「行くぜ、次元」
「へいへい」
潜水艇を海に浮かべ、その中へと乗り込む。ハッチを閉め、ロックされる重い金属音。
俺とルパンを乗せた潜水艇は、静かに暗い海の中へと沈んでいく。水圧で船体が軋む音が耳障りだ。
「にしても、タイタニックまで2時間半はちと長ぇな」
一眠りすると言って操縦をルパンと代わり、俺はクロスワードパズルを開く。狭いコクピットの中、計器類の灯りだけが俺たちを照らす。鉛筆を動かしながらも、頭の片隅には、どうしてもアイツのことがチラつきやがった。ノワールは今頃、何をしているのか。
まあ、五ェ門と一緒なら余計な心配はいらねぇか。あのカタブツは腕は確かだし、あのガキの面倒を見ることくらい造作もねぇだろう。アイツも、スラムで拾った頃とは違う。いくつもの死線を乗り越え、今じゃ立派なガンマンの端くれだ。
それでも、ふとした瞬間に思い出すのは、まだ小さかった頃、俺の後ろを必死についてきたガキの姿だ。
心配のし過ぎは過保護だと自分でもわかっている。だが、親心みてぇなもんを笑われる筋合いはねぇさ。
不意に、ソナーが微かな反応を捉えた。クロスワードから顔を上げると、前方のモニターに、暗黒の深海に横たわる巨大な船影がゆっくりと浮かび上がってくる。80年もの間、光の届かない場所で眠り続けてきた伝説の豪華客船、タイタニック号。その姿は、まるで巨大な墓標のようだった。
「…お目見えだな、ルパン」
「ああ、正に1500人の人間が眠ってるどデカい棺桶って感じだぜ」
俺はパズルを閉じる。ここからが本番だ。2時間半の退屈な旅は、どうやら終わりらしい。
to be continued…