「兄さん、起きてください」
こんな風に妹に起こされるようになってから、どれくらいの月日が経ったのだろう。
去年から、というのだけは覚えているのだけれど、その正確な日付は、まだ思い出せない。別に思い出す必要もないのだけれど、希に、ふっとそんな感情が湧き出て、僕のくだらない知識欲を刺激する。
その度に妹に聞いているのだけれど、彼女は「私も覚えていません」の一点張り。絶対嘘なんだけどなあ。
さて、ここでうちの妹について話そうか、と思う。彼女について話すと、それなりに僕の黒歴史も話すことになるので、少しだけ長くなると思われるが、そこは広い心で許して欲しい。
うちの妹──恋々峰ゆきは、全ての物事を人並み──熟練者以上に上手くこなせるような、昨今のラノベ界隈のヒロインみたいな人間だ。テストを解かせれば満点、運動をさせれば新記録、絵を描かせれば入賞する、そんな人生を彼女は送ってきた。
去年までは中学生だった彼女。僕はその才は中学までだろう、高校に入れば、彼女は彼女自身を超える人を見つけるだろう、と考えていたのだが、そんなことはなかった。
彼女は、それまでやってきたことを、何一つ変えずに高校生活を送っている。中学生ならば、満点を取ったとしても、高校だと落ちぶれて──みたいな話はよくあるし、才能で挫折するのも高校生が多いと僕は思っているのだけれど(実際、僕がそうだ)、彼女は全然そんなことはなく、いつものように──これまでやってきたことを、当然のように果たしている。
満点を取って、新記録を叩き出して、作品が大勢に評価され。
彼女の才は、冥加のものなのだろう。正直、自分と本当に血が繋がっているのか、こいつ実は義理の妹なのでは?と考えたことは、何度もある。
彼女の才能の被害者は多いと思うのだが、その被害者の会を作れるとするならば、多分、会長は僕だろう。
僕だって、彼女の被害者なのだ。
いや、ただ被害者面する訳では無い。僕に才能がないだけで、別に彼女は何も悪くないのだ。僕が過剰に被害者ぶっているだけだし、彼女自身が直接僕に何かをした訳じゃあない(逆はあるが)。
だが、間接的には大いに傷つけられた。
彼女の才能は周りに認められて然るべきだし、当然彼女のように優秀な者がいるのは、身内としては鼻が高いのだけれど、でも、それの問題は横槍が入ってくることだ。
横槍。
彼女と比較され、『どうしてお前はいつもそうなんだ』と、何度も、何度も何度も何度も何度も、言われ続けた。
親から、先生から、近所の人から、親戚から、友人から。
何度も──何度も。
そんな時期があって──まだ比較され続けてはいるのだけれど──僕は一時期、妹のことを嫌い、避けるような日々が続いたことがある。
彼女を避け続けて、二、三ヶ月くらい経った、中学生三年の頃。受験勉強も本格化していく時期に、僕は何を思ったか、わざと夜遅くに帰った。
心配されたい、とか、くだらない理由だったと思う。今ではメンヘラみたいで気持ち悪い、とさえ感じる。
でも、あの頃はゆきと比較され続ける日々と受験勉強のストレスで無性に腹が立っていた。僕は、夜遅くまで近くの公園で、ずっと考え事をしていた。
親は心配するだろうか、とか、どんな風に迎えてくれるだろうか、とか、そんなことを。
我ながらくだらないと思う。けれど、その時はそれしか思いつかなかったし、これが最善策だと思ったのだろう。
そして、夜の十一時に、帰宅した。
家に入った僕を迎えたのは、親の心配した声でもなんでもなくて、彼らの楽しそうな話し声だけだった。
元から僕の存在なんてなかったかのように。
話の内容は、やはり、本人を交え、彼女を褒める内容で、その中で、僕はやっぱり比較され、馬鹿にされていた。
その時、悟った。
『あぁ、所詮自分はこの程度だったんだな』と。
湧き出る感情を押し殺して、靴を脱ぎ、さっさと部屋に戻ろうとした時に、偶然か必然か、リビングから出てきた妹と鉢合わせしてしまった。
彼女の顔を見た時、心の中には、深い溝が──底の見えない、深淵のような溝が。
出来上がってしまった。
彼女は僕の目を見、
「────」
と、何かを言っていたのだが、僕はそれを無視して、部屋に上がった。
彼女の、憐憫の視線は、今でも忘れていない。
部屋に逃げ込むように入り、毛布にくるまった。
目をつぶって、何も考えないようにした。
案外、ここでつぶったのは目ではなくて、比較され続ける自分の無能さに目をつぶったのかもしれないし、自分の愚かさについてだったのかもしれない。
そのことは、僕も、覚えていない。
次第に眠りに落ちていく。
そういえば、ノックの音が、やけにうるさかった──
目が覚めると、朝だった。どうやら僕はいつの間にか寝ていたらしい。朝が来る、それは当然のことなのだけれど、当時の僕にとっては、それが無為に素晴らしい事だと感じていた。
本当に、中学生の頃の僕はよくわからない。
昨日の夜から何も食べていない、というのがあって、リビングで何か食べるものを取ろうと思いつき、部屋から出ようとする。
しかし、ドアの前に何か重いものが置かれているのか、なかなか開かない。
親がついに俺を軟禁状態に追い込んだか?なんて、くだらないことを考えたが、そうではなかった。
唐突に、ドアが開く。ドアノブを強く押していたので、僕の体はそのまま前に押し出されるような形になる。
転びそうになるのを必死に持ちこたえて、体制を立て直す。それから、何が置かれていたのかを確認しようとする。
そこには、重いものではなくて、僕の思考とかその他諸々の悩みの種、言うなら思いものの、彼女がいた。
彼女が──ゆきが、そこにはいた。
彼女を見て──見てしまった僕の意識は全て白に染まる。思考が、無に帰す。喋る/こと/さえ/ままなら/ないよ/うな。寸断/さ/れゆく/意/識。
放心状態に陥っている僕を見、彼女は、
「その……大丈夫ですか、兄さん?」
と、声をかけてくれた。
その声が、本当は優しい声なのに。自分が求めた、誰かからの『心配』という感情の込められた声なのに。僕には、それがひどく耳障りだった。
「兄さん、本当に大丈夫……ですか?」
何かを言い返そうと、必死に言葉を編む。
「……何が、だよ」
乾いた声が出た。必死になって、言葉を探したのに、結局これだけしか言えなかった。
「何が、じゃないですよ。兄さん」
「だって今、泣いてるじゃないですか」
指摘され、目元を触る。すると、軽く濡れていた。どうやら、自分が泣いていることにさえ気づけないくらいに、錯乱していたのだろう。
そんな僕を心配している彼女は、僕のことを思ってか、言葉をぞろぞろと並べる。
「その……昨日から心配だったんです。ほら、帰り遅かったじゃないですか。それに、昨日会ったときは、なんだか、辛そうでした」
やめろ。言うな。
お前に心配されると。
僕は。
「兄さんが心配で、ずっとドアを叩いてました。ドアの前で寝てしまったのは迷惑でしたよね……、それは本当にごめんなさい。でも、私は──」
彼女の台詞は、これ以上聞こえなかった。
僕が壁を殴りつけた音によって、彼女は、びくりと肩を震わせ、押し黙る。
僕の拳からは、血が出ていた。でも、それは気にならなかった。
「……余計なこと、すんなよ」
「で……でも、兄さん」
「お願いだから、やめてくれ。僕なんか、心配しないでくれ」
そう言った。言い切った。だけど、彼女には届かなかった。
いや、ある意味では届いていたのだろう。僕が僕の心に嘘をついているだけだ。
彼女は、強い。だからこう言えたのだろう。
自分との違いを見せつけられているようで──自分の小ささを見せられているようで、吐き気がした。
「……嫌です。ずっと心配し続けます。誰に何を言われようと──たとえそれが兄さんでも、それは聞きません。その言うことだけは絶対に無視します。何がなんでも、です。兄さんが辛そうにしてるのを、私は見たくないです。兄さんが、大せ──っ?!」
彼女が言っている途中に、僕は彼女を突き飛ばした。それ以上、彼女の言葉を聞くのは、僕の小さい心では無理だった。
彼女は後ろに倒れ込む。ばたん、と音が響く。一応、彼女は咄嗟に受身を取っていたようで、頭を強打、ということは無かった。
しかし、流石にこの倒れ込む音は下にも聞こえたらしく、両親が階段を駆け上がってきた。
倒れているゆきと、僕の拳を交互に見る。それから、父親は僕をゆきから引き離し、そして僕の顔面を殴った。
僕はそのまま、床に倒れる。僕はゆきと違って反射神経が悪かったので、受身は取れず、頭を打ってしまった。痛い。そんなことに彼が構うわけもなく、クズ父親は僕の上に乗り「この糞ガキがっ! うちのゆきに傷がついたらどうするんだっ!」そう言って、顔面を殴り続けた。
こちらは不思議と、痛みは感じなかった。
でも、僕の心に突き刺さるのは、声だった。
父親の怒声。ゆきの泣き声。母親がゆきを止め、僕を詰る声。ゆきが僕を呼ぶ声。声声声。
僕の頬が殴られる音をBGMに、そんな声が聞こえる。気が狂いそうだ。
殴られるのは、まだいいんだ。でも、一番聞きたくない、一番泣いて欲しくない奴の泣き声を聞かされるのは、僕の小さな心では辛すぎる。
いい加減、自分が殴られている、という感覚すら遠くに消え去り、自分は何をしているんだろう、と考え出す。
視界が朧気になり、意識が遠のく。
最後まで、ゆきの泣き声は聞こえていた。