その1
「ヒキオ」
「うぉ!?」
「……何だしその反応」
中間試験も無事に終わった。結衣は全教科で赤点を免れ、沙希は成績を上げ、八幡は数学を悪魔によって無理矢理赤点ギリギリまで押し上げられた。その代償として国語の成績が若干下がったが、悪魔曰く「一位じゃないのだから二位も三位も十位以下も一緒でしょう?」というありがたいお言葉をもらい沈黙した。ちなみに隼人が近くにいる場所でわざわざ宣言したため、彼女は物凄く睨まれていたのは言うまでもない。
そんなこんなで補習という若人の貴重な時間を押し潰す悪魔の所業を回避した八幡は、今まさに死に直面していた。比喩表現とも言えないところが絶妙である。
「な、なんだ三浦」
「ちょっとあーしに付き合え」
くい、と教室の外を指差す。ここで付き合うというワードにときめくことが出来たら良かったのだが、行動がどう見ても『表出ろぶちのめすから』であったため、八幡は顔を引き攣らせることしか出来なかった。勿論断ることなど出来はしない。とぼとぼと優美子の後を付いて教室から出ると、少し離れた窓際で足を止める。
「あんたどうすんの?」
「は?」
そうして言われた言葉がこれである。なんのこっちゃと怪訝な表情を浮かべた八幡は、しかしここで尋ねるとそのまま殺されるのではないのかと思わず言い淀む。当然のように何だお前と睨まれた。
「い、いや。そう言われても何の話なのかさっぱりでだな」
「はぁ!? ユイの誕生日に決まってんじゃん」
「……ガハマの誕生日?」
「は? ちょっとその反応マジ? あいつの誕生日知らなかったわけ?」
おう、と頷くと恐らく頭を潰される。そんなことはないと答えると嘘吐いてんじゃねぇと絞め殺される。どちらにせよ詰んでいた。ならば自分に正直に生きようと決意した八幡は、知らんとはっきり言い放つ。
「ヒキオ。あんたユイの友達っつったよな?」
「……おう」
「何? そーいう話とか全然しなかったわけ?」
「してないな」
はぁ、と呆れたように優美子が溜息を吐いた。駄目だこいつ、と口に出した。
くるくると指先で自身のゆるふわウェーブと弄んだ彼女は、ちょっと聞きたいんだけどと彼を睨む。当然のように八幡は後ずさった。
「前言ってた腐れ縁? とかいう奴とはしてないん?」
「あのクソ野郎は当日に誕生日だから何かくれって言ってきたぞ」
バレンタインの一週間後であった。勿論かおりからチョコは貰っていない。二年前を思い出し、八幡はどこか遠い目で鼻を鳴らした。ちなみに去年も同様である。
ともあれ、優美子はそれを聞いてふーんと流した。とりあえず誕生日を祝った経験はあるらしいということを踏まえ、彼女は自身の親友のその日を彼に告げる。
「六月十八日だから」
「は?」
「ユイの誕生日。しっかり何か用意しとけ」
「……お、おう」
異論を挟めば殺される勢いであった。八幡に出来ることはただただ頷くことのみ。それを見てまあいいやと呟いた優美子は、話は終わりとばかりに踵を返す。
その途中、ああそうだと足を止めた彼女は、振り返るとほんの少しだけ口角を上げた。
「多分その日あーしら集まって誕生日祝うけど、あんたはどうする?」
「いや、行かねぇよ。ガハマの知り合いとかロクに知らん俺が行っても気まずいだけだろ……」
「あ、そ」
何か追加で言われるのかと身構えた八幡であったが、彼女は意外にもそれを聞いて素直に引き下がった。今度こそ振り返らずにそのまま教室に戻っていく。
それを目で追っていた八幡は、何だったんだと頭を掻く。誕生日云々はともかく、最後のあれの意味が分からない。
「まあいいや。とりあえず当面の問題は」
結衣に渡すプレゼントだ。流石にかおりと同じようにジュース奢って終わりというわけにもいかないだろう。本人はそれでもありがとうと喜ぶであろうが、優美子は絶対に許さない。
そして何より、八幡自身がそれはちょっと味気ないと思っていたりするからだ。
ちらりと窓の外を見る。季節は初夏。いい加減暑くなってくる。流石に日焼けをするほどではないが、日差しはジリジリと肌を焼き始める頃合いだ。
「プレゼント、か……」
「ん? 比企谷、どうした教室にも入らないで」
そのまま暫し考え事をしていた八幡に声が掛かる。へ、とそちらを向くと、平塚教諭が不思議そうな顔をして自身を見ているところであった。もう時間だぞ、という言葉に、授業と授業の合間の休み時間とはいえ意外と考え込んでいたことを自覚する。
慌てて教室へと戻ろうとする八幡の肩を、静はまあ待てと掴んだ。ついでだからちょっと話せと笑みを浮かべた。
「生徒のプライバシーに干渉するのが生徒指導なんですか?」
「む。それを言われると痛いな。まあ、言いたくないなら仕方ない」
ぱ、と肩から手を離す。そうしながら、悩みがあるなら力になるぞと彼女は笑った。そこには打算や教師の仕事であるという含みは何もなく、ただ純粋にそのままの意味でしかないことを感じさせて。
「……じゃあ、その時があったら」
思わずそんなことを言ってしまった八幡は、そのまま静を見ることなく教室へと早足で戻っていくのであった。
三日経った。結局何もいいアイデアが思い浮かぶこともなく、期日はどんどん迫ってくる。結衣もそろそろ八幡が何かを隠しているのを察し始めてきてもいる。最早猶予はない。
はぁ、と盛大な溜息を吐いた八幡は、こうなれば最後の手段だとこの間の言葉を信じることにした。流石に職員室まで足を運びプレゼントが思い付かないなどと相談すれば呆れられるのは間違いないので、彼は静の担当授業の終わり際を狙うことにした。
「……成程。しかしまあ、ふっ、ふふふ」
「何ですかその笑い」
「いや、何とも青春に満ちた悩みだと思ってな。若いっていいなぁ……」
「いや平塚先生も別に言うほど年食ってないでしょう……」
どこか遠い目をし始めた静に八幡はそう返す。我に返った静は、茶化すこともなく思った以上に真剣な表情で顎に手を当て考え始めた。何か欲しいものが分かるのが一番手っ取り早いのだがと呟きながら彼を見て、まあ無理かと苦笑した。
「そもそもそれが分かっていれば悩まんわな」
「そりゃそうですよ」
はぁ、と溜息を吐く八幡を見ながら、静は再度考える。数個ほどネタを出したが、これで完璧だという答えには至らなかった。それでも無難にストラップ辺りでいいのではないか、という意見を八幡は採用したらしい。
「すまんな。あんなことを言っておいてあまり役に立てなかった」
「いや……。そんなことは」
ここでとりあえず無難な答えを返すのが普通である。実際普段の八幡ならば、それほど繋がりのない相手にならば、それを迷いなく実行している。が、今回は自分から相談をしたということもあり、そして思った以上に真面目に考えてくれたということもあり。
「まあ、ないことはないですが」
「そこは歯に衣着せろ」
若干取り繕わなかった。そこは嘘でもそんなことはないと言う場面だろうという静の言葉に、八幡は素直をモットーにしていますからと返す。別段気まずい雰囲気になっている様子はない以上、その発言に至った彼の心境を彼女もある程度は感じ取ったのかもしれない。
「大体、君が素直? 片腹痛い」
「え? 何で俺そんな評価? これでも一応普通の学生してるつもりでしたけど」
「なんだ、知らなかったのか? 私は奉仕部顧問だ」
瞬間、八幡の顔がとてつもなく嫌なものを見る目に変わる。マジかよこいつ、という表情で静を見る。ほんの僅かなその言葉で、彼は答えを導き出したのだ。つまりはこういうことだと理解したのだ。
雪ノ下雪乃と繋がってるぞこの教師。
「待て待て。別に私は雪ノ下妹の報告を鵜呑みにしているわけじゃない」
「嘘だッ!」
「ひぐらしは鳴いていない」
「嘘だそんなこと!」
「アンデッドもいない」
ぐ、と八幡は呻く。涼しい顔で自身の言葉を流す静が、どうにも奉仕部の誰かに重なった。というかこの人サブカル詳しくね、とどうでもいいことをついでに思った。
そんな八幡を見て静は苦笑する。まあ確かに報告を見る限り君の評価はボロボロだ、と言い放った。
「が、あいつも本気で君を罵倒しているわけではない。いわば……ツンデレ」
「現実と妄想の区別くらいつけましょうよ」
「君に合わせてやったのだがな……。まあいい。要は別に悪く言われているわけではないということだよ」
信用出来ない、とその目が述べていた。八幡の腐った魚のような目は、目の前の教師が胡散臭い存在であると言わんばかりに細められている。そんな視線を受けた静はやれやれと頭を振り、どうすれば信じてもらえるのかねと頬を掻く。
「無理ですね」
「そうか。……ああ、ならばこういうのはどうだ」
ニヤリと笑みを浮かべた静は、指を立てるとそれを八幡に向ける。その動きに思わずビクリと反応した彼は、そこから逃げるように後ずさった。
が、もう遅い。そうするよりも早く、彼女はその言葉を口にしていたからだ。
「奉仕部に依頼に行くといい。きっと、君にきちんと向き合ってくれるはずだ」
「……何を依頼しに行けと? まさかプレゼント選びをあいつに相談しろってんじゃ」
「そのまさかだ。同い年の少女の方が何かとアイデアを出してくれるだろうしな」
ふ、と笑う静を見ながら、八幡は記憶を辿る。自分が見てきた雪ノ下雪乃の姿を思い出す。
アレがそんなアイデアを出してくれるとはとてもじゃないが思えない。彼の出した結論はこれであった。悩むことも迷うことも全く無かった。
「先生」
「ん?」
「先生に相談したのが間違いでした」
「さっきより評価酷くなったな!?」
そういうわけで、八幡は静の意見を却下した。それを選ぶ必要などない、と結論付けた。
にも拘わらず、彼は今こうして特別棟を歩いている。自分でもどうしてこんなことをしているのかが分からないと呟くが、しかし帰るという選択肢を取らずに目的地まで歩みを進めている。
あの後素直にこうすればよかったと八幡は小町に相談を持ちかけた。ふむふむとそれを聞いていた小町は、しかしふと何かを思い立ちスマホで何やら操作を行う。そうして画面を眺め笑顔になった彼女は、うんうんと頷くとそれを見せながら八幡に向かってこう言い放ったのだ。
「お兄ちゃん! 雪乃さんが手伝ってくれるって!」
そういうわけで妹に嵌められた八幡は奉仕部に向かっているのである。何なの世界は俺にここまで優しくないの、とぼやいたところで、現状は何も変わらない。
奉仕部、と書かれたプレートでもあれば良い目印になったのだが、生憎この教室には何も書かれていない。それでも間違えることなく辿り着けてしまったのは、二年になって数ヶ月の間に幾度となく訪れているからだろう。
コンコン、と扉をノックする。ここで返事がなかったらこれ幸いと帰るべく足に力を込めたが、どうぞという声が聞こえ彼は渋々ながら扉を開けた。
「いらっしゃい、比企谷くん。奉仕部はあなたを歓迎するわ」
「俺としては来たくなかったんだけどな」
「あらそう。それでも来たということは」
そこで言葉を止めた雪乃は、空いている椅子に座るよう勧め口角を上げた。それを断る理由もない八幡は、促されるまま素直に座る。対面の彼女は、そんな彼を見て満足そうに頷いた。
「救いの手を、取りに来たのね」
「小町に言われたからだ」
「ふふっ。ではそういうことにしておきましょう」
そう言いながら雪乃はノートを広げる。既にお馴染みとなった依頼人の事情を書き込むものである。普段は依頼ごとに別のノートを用意しているのだが、八幡から見えるそれは以前も見た覚えのあるものであった。
「今回の依頼はわざわざ別のものを用意する必要もないでしょう?」
「いや、確かにそうかもしれんが……それ、ガハマの依頼の書かれたやつじゃねぇか」
「何か問題が?」
由比ヶ浜結衣のプレゼントを選ぶ、という依頼なので、彼女の依頼のノートに書き込むのは間違っている。そう言いたかったが、しかし言ったところで眼の前の相手は聞く耳持たないであろうし、よしんば聞いたとしても自分の依頼のノートが作られるのは気分的に嫌でもあった。仕方なく、八幡はふんと鼻を鳴らしその部分を流す。
「とはいっても、別段書くことは何もないのだけれど」
「おい俺の葛藤返せよ」
「事実でしょう? 話自体は既に昨日小町さんから聞いているもの」
「……おぅ」
涼しい顔でそう言われてしまえば、八幡としても口を噤まざるを得ない。まあもうどうでもいいや、と肩を落とすと、だったら何でそれ広げたと結衣の依頼ノートを指差した。
「簡単なことよ。ここには彼女の情報が書かれているわ。プレゼントを選ぶ参考になるでしょう?」
「……お、おう」
今さらりとプライバシー保護に真っ向から反抗する言葉が出なかったか、と戦慄する。そんな八幡の表情から思考を読み取ったのか、心配しないでと雪乃は述べた。本人から聞いた程度の、別段大したことのない情報よ。そう言って該当のページを彼へと差し出した。
「紅茶でも淹れましょう。比企谷くんはそれを読んで何か考えておいて」
「へ? お、おう?」
さっきからオットセイの鳴き声のようなことをしか言えていない八幡は、言われるがままノートに視線を落とす。恐る恐るであったが、確かにプライバシーに関することはそれほど見当たらなかった。それほど、である。恐らく本人が何の警戒もなくペラペラ喋ったのであろう部分は思い切り書かれていた。
「……そういや、あいつ犬飼ってたっけ」
それを見て彼は思い出す。彼女と出会ったきっかけは、犬が車道に飛び出したことであった。それを全力で捕まえ、そしてそのまま車に撥ねられ。
病室でのあのやり取りを経て、何の因果か友達と自分から言ってしまえる関係にまでなっている。縁は異なもの、とはよく言ったものだ。そんなことを思いながら、八幡はペラリとページを捲り。
身長と体重、スリーサイズが記載されているのを見てすぐさま元に戻した。
「雪ノ下ぁ!」
「あらどうしたの比企谷くん」
「どこがプライバシーに関わる部分は書かれてない、だ。思い切り書いてあるじゃねぇか!」
「ページを捲ったのね。でも、それは誤解よ。あくまでそこには由比ヶ浜さんから聞いた情報しかないわ」
しれっとそう述べる雪乃を、八幡は物凄く訝しげに見やる。もし彼女の言っていることが本当だとしたら、結衣は身長体重スリーサイズを眼の前の相手にペラペラと喋ったことになる。
その光景を想像し、あいつならあるかもしれないと彼は肩を落とした。その背中には若干の哀愁が漂っていたとかいないとか。
「はい、どうぞ」
「……おう」
差し出された紅茶を一口。何でこんな場所で出される紅茶が滅茶苦茶美味いんだよ、とある意味至極どうでもいいことを思いながら、八幡は視線を雪乃に向けた。それで、何かアイデアはあるのか、と彼女に問うた。
それを聞いた雪乃は微笑む。ええ勿論、と自信満々に髪を靡かせると、彼女は真っ直ぐに彼を見た。
「ねえ、比企谷くん」
「あん?」
「付き合ってちょうだい」
「……は?」
突然のその言葉に、八幡が返せたのは何とも間抜けな一言だけであった。言葉の意味を理解するその数瞬の間、彼は彼女を見詰めることしか出来なかった。