青ざめた血の水平線に 作:[この名前は既に使用されています]
ひた……ひた……と、何かが滴り落ちる音が聞こえてくる。ぴちゃ……ぴちゃ……と、何かを舐め取るような音が聞こえてくる。
靄のかかったような頭。思考は朧気で『それ』が何であるのかさえ明瞭ではない。僅かに瞼を開くと薄暗い部屋の中がぼんやりと浮かび上がる。
頭痛がする。脳髄に奇妙なものを埋め込まれたような気色の悪い感触がする。吐き気にも似た感覚。恐ろしく強い麻酔を、何本も何本も同時に打たれたかのようだ。
身体はうまく動かない。視界も働かない。ただ少しずつ、聴覚だけがはっきりとしていく。滴り落ちるような音。何かを舐め取るような音。それらに混じって、ぎぃ、ぎぃ、と、木が軋むような音が混ざる。
顔中に小さな手が這っている。何も見えやしないのにそんな気がしてならない。それが余りにも気持ち悪くて、気が狂ってしまいそうで、思わず顔を横に振る。感触は消えない。べたべたと張り付くような……。
顔を横に向けると、視界の隅に僅かな明かりが見えた。じっと目を凝らす。それは窓から差し込む光のように見えた。光を辿って壁に視線を向ける。偽物のような窓に絵画のような風景が映っている。
……あああ、空に。
なんだか、不条理に大きな月が浮かんでいる。どろりとした色合いの、妙な、月が……。
不意に。
その月の中心に、何かが見えたような気がした。
赤黒い……何か……何だろうか……よくわからない……視界が霞んでいるからか、それとも頭の震えがとまらない故だろうか。もしくは『それ』を見るために必要な『
『それ』を見ようとすると、脳の奥深くがずきりずきりと痛む。『見てはいけない』と、頭蓋の内に潜む何かが警告している。人としての本質的な部分……さながら人間性とでも呼ぶべきそれが……。
ひどいことだ。
あまりの頭の痛さに目を閉じる。視界が暗褐色に覆われると、音がより鮮明に聞こえてくる。ひたひた……ぴちゃぴちゃ……ぎぃぎぃ……どれも、聞いているだけで気が狂いそうな、酷く冒涜的な音が……ああ。
……どれくらい経っただろうか。唐突に音が消える。海の中に沈んだ時のように。何もかもが無くなってしまったかの如く。そして生まれ落ちた静寂が、胎児を包む羊水のように世界を包み込む時間がやってくる。
……やがて、どこからか涼やかな女性の声が、聞こえたような気がした。
……忌々しいことに、なんと言っているのかは――解らなかった。
× ×
そこで提督は目を覚ました。
「…………」
ゆっくりと、ベッドの上で身体を起こす。汗がひどい。心臓が早鐘のように高鳴っている。思わず額に手を添えると、頭の奥底が僅かに痛むような気がした。それが現実の痛みなのか、先ほどまで見ていた『夢』の残滓なのかは解らない。
夢。
そう、夢だ。今まで見ていたもの……聞いていたものが、夢の産物であるということを、提督はその時ようやく理解する。それほどまでに、どこか、現実味のある夢だった。
嫌な……夢だ。
まさしく『悪夢』と形容するにやぶさかではない。
ベッドの上でしばらく呼吸を整える。僅かに残る吐き気を抑えるように、首に手を当てる。部屋に備えられた小さな窓から差し込む青白い月明かりが提督を照らす。
しばらくそうしていると、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。同時に、先ほどまで鮮烈なイメージを持って提督の身心を強く蝕んでいた悪夢の記憶が薄らいでいく。
……所詮は夢だ。
目が覚めれば、すぐに忘れてしまう。
冷静さを取り戻してくると、今度は喉の渇きを強く感じた。魘されていた故だろうか。眠る前に水分は補給したはずだったが、それでもひどく喉が渇いている。
……水を飲もう。
そう決意して、提督はベッドから起き上がる。
――その時、月明かりに照らされた、ベッドの横に置かれている小さな台の上に、メモ用紙のようなものが一枚置かれているのが目に入った。
ほとんど無意識にそれを手に取る。そこには酷く短い一文が書かれている。
『青ざめた血を求めよ。■■を全うするために』
おそらくはボールペンか何かで記されているだろうその走り書きの一部は、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされていて判読が出来ない。
これは……何だろうか。
意味さえも取れない文章。見覚えのないメモ用紙。何故、こんなものが自分の部屋にあるのか。思わず寒気を覚えて、提督は唾を飲み込む。
「…………」
今は、気にしても仕方がない。
提督はメモ用紙を再び台の上に戻すと、水を飲むために部屋を出ていく。
静寂の蔓延る部屋の中、月明かりだけが、走り書きを照らしていた。
× ×
「やられた? 横須賀第一支部の第一第二艦隊が?」
「って話だよ」
朝の日差しが柔らかに差し込む、そんな天気の良い日にはあまりにも似つかわしくない剣呑な声音が執務室に響いていた。
部屋の中には現在二人の人影がある。一人はこの鎮守府の提督を務める青年、もう一人はその青年を補佐する役割である秘書艦を任された艦娘、叢雲である。
提督は数時間前に送られてきた文書をぺらぺらと捲りながら椅子に座っている。叢雲は秘書艦としての仕事を行う机を離れ、提督のもとへと駆け寄った。
「ちょっと見せなさい」
提督の肩越しに、叢雲は資料へと目を通す。
「三月二十四日……北西太平洋、北マリアナ諸島付近に深海棲艦のものと酷似した異常な反応を検知。同時期より不明な原因による地球観測衛星の動作不良により当該海域の情報が不透明になる。原因調査のため横須賀第一支部第四艦隊を派遣したところ多数の深海棲艦が確認された。これらを掃討するため横須賀第一支部第一、第二艦隊を緊急編成。戦艦二隻、正規空母四隻、軽巡洋艦一隻、駆逐艦二隻、重巡洋艦三隻による連合艦隊を派遣……ふん、錚々たる顔触れね」
資料の下段に記されていた詳細な編成を確認して、叢雲は目つきを尖らせる。いずれも高い実績と経験を誇ることで名高い高練度の艦娘ばかりだ。生半可な数の深海棲艦では太刀打ちさえ出来ないだろう。
叢雲は資料を読み進める。
「結果は……大破七隻、中破二隻、小破一隻の被害。深海棲艦の撃滅は叶わず即時撤退……任務は失敗に終わる。幸いにも轟沈艦は無し。旗艦の判断が早かったのね。流石横須賀第一、エリート集団なだけあるわ」
「あそこは提督も優秀って話だしね……元帥の称号も貰っているはずだし」
「なんの称号も貰えていないアンタと違ってね」
叢雲の言葉に、提督は苦く笑う。
現在の海軍……正確には軍ではなく、深海棲艦に対抗するための、過去の日本海軍を模した疑似的な組織体系……においては、明確な階級というものが存在していない。提督、という呼び名も俗称である。公式に存在しているのは、その実績に応じて中央(日本軍の呼び方を模して大本営と呼ばれることが多い)から個人に対して贈られる『称号』のみだ。
この『称号』はかつての軍階級に即した形で作られており、『元帥』の称号ともなれば、現時点における全提督適合者においても、およそ上位一パーセント程度の人間しか得ることが出来ないとされている。
それだけの実力と、それに見合う実績の証なのだ。元帥の称号というものは。
「問題は、その元帥ご自慢の連合艦隊が、ボロボロにやられて追い返されてきたってことよね。一体何があったのよ」
叢雲にせっつかれて、提督は資料の紙を捲る。
「見ての通り、報告には『まるで底無しであるかのように深海棲艦が湧いてきた』……なんて書かれているよ。沈めても沈めても、次から次に現れてきたらしい」
「何よ、それ。気持ち悪いわね」
「出てくるのは最大でも重巡クラス程度で、戦艦や空母はほとんど出てこなかったらしいけれど……それでも、圧倒的な数の差に撤退せざるを得なかったらしい。最後のほうは弾も尽きかけだったってさ」
「ふうん……」
そう相槌を打つ叢雲の声音には、いくらかの喜色が混じっている。
「それで? この資料が
「察しがいいね」
提督は言う。
「見ての通り、これは明らかに異常事態だ。少なくとも、これまで深海棲艦との戦いにおいてこんな事態は発生しなかった。横須賀第一支部が最高戦力に近い戦力を注いで圧倒的敗走を強いられたということからも、事態の緊急性は解ってもらえると思う。何より、この報告にある次から次に現れる深海棲艦。これがもっとも異質なポイントだ」
「これまでとは違う何かが起こっているってこと?」
「まあ、そうだろうね。それが何かは解らないけれど。で、そんな異常事態に対処するのにぴったり……だと思われているのが、
「毒を以て毒を制すとでも考えているのかしら」
叢雲は言いながら不敵に笑う。例え味方から『毒』だと思われていようが関係ない、とでも言うような表情だった。実際、関係ないのだろう。彼女たちにとっては、そんなこと、どうでもよいことだ。
提督はいつものように苦笑いを浮かべると、「さてね」と曖昧に言葉を濁す。
「ともあれ、今回のこの『異常事態』に対処するのに、叢雲さん、君たちが適しているのは間違いないと思うよ。さっきも言ったけれど、今回横須賀第一の連合艦隊が敗走する直接的な原因となったのは、その極端な深海棲艦の物量だ。それだけの量の深海棲艦を屠るのには、莫大な弾薬が必要になる。どれだけ強い艦娘だって、弾がなければ戦えない」
「普通は、ね」
「そう言うこと」
だったら、普通じゃなければ。
例えば、尋常の艦娘とは違って、一般的な兵装よりも、近接戦闘を主とした異質の兵装を用い、そしてそれを使いこなすだけの技量と身体能力を持ち、どれだけ長時間戦おうとも疲弊するどころか、まるで『酔った』かのように止まぬ快楽に身を任せて、敵を屠り続けることが出来る――そんな艦娘がいたならば。
今回の件を解決するのに、打ってつけだとは思わないだろうか。
弾が無くたって戦える。
血が吹き出ようが、骨が折れようが、どれほどその身が傷付き血に塗れようが、血に渇いたその身が癒えるまで戦い続けることが出来る。否、それ以外出来ない。
そうすることしか出来ない。
そんな艦娘は……実際に、いる。ここに、六人も。
叢雲は口元を歪める。
「悪くないわね。次の仕事は、退屈せずに済みそうだわ」
「……まあ、叢雲さんならそう言うと思ったよ」
提督はそういうと、手にしていた資料を纏める。
「それじゃあ、みんなに作戦概要を説明しないとな……急だけれど、今日の午後とかでも大丈夫だと思う?」
「いいんじゃない? どうせみんな暇よ」
身も蓋もない言い方ではあったが、実際のところその可能性は高かった。この鎮守府に籍を置く六人は、その嗜好が圧倒的に血腥い方面に偏っている。そのため、他の鎮守府支部の艦娘たちのように、平時からショッピングに行ったり、遊びに行ったりという行動をとることが非常に少ない。
木曾のように工廠で武器の手入れにふけっていたり、夕立や綾波のようにフラストレーションを発散していたりと、基本的にみな鎮守府内にいることが多い。
「なら、後で招集掛けておくよ。それまでは休憩ってことで」
「そ。なら、私も少し休ませてもらうわ」
言いながら、叢雲は部屋を後にしようとする。
「――あ、ちょっと待って」
その叢雲を呼び止めるように、提督は声を上げた。
「? 何よ。まだ何かあるの?」
「いや、大したことじゃない、というか、完全に私用なんだけれど……少し聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
提督の言葉に、叢雲は首をかしげる。改まって何の用なのだろうか。
提督は頷くと、懐から何かを取り出し、叢雲へと差し出す。
「これなんだけれど……見覚えとか、ない?」
「……なによこれ」
それは一枚のメモ用紙だった。
『青ざめた血を求めよ。■■を全うするために』
たったそれだけの文章が書かれた、ボールペンの短い走り書き。そんなものを急に渡されて、叢雲は戸惑う。
「これが、どうしたって言うのよ」
「いや……実はさ、昨日……というよりは今朝、って言ったほうが近いかな。に、見つけたんだよ。俺の部屋で。気が付いたらいつの間にかあってさ。誰が書いたのかも解らないから……みんなに心当たりがないか聞いてみようかと思ってね」
「……ふうん」
叢雲はじっと走り書きを見つめる。何度読んでも文章の意味は解らない。一部が塗りつぶされているから、と言うのもあるが、そもそも『青ざめた血』とは何を示しているのか。何一つとして理解できない。
だが……。
「出来の悪い詩みたいね」
呟いて、叢雲はメモ用紙を提督へと返す。
「その様子だと、心当たりはなかったみたいだね」
提督は受け取ったメモ用紙へと視線をやりながら、そう言った。その声音にはわずかに落胆にも似た色合いがある。ここでこの不気味なメモの正体が解れば……という思いが僅かにあったのだろう。
叢雲は言う。
「生憎だけれど、私はそんなもの書いた覚えはないし、青ざめた血なんて妙な言葉にも聞き覚えはないわ……でも」
「でも?」
どこか含みありげな叢雲の言葉に、提督は聞き返した。
数瞬の躊躇いの後、叢雲は言う。
「……心当たりというか、なんと言うか……なんだけれど……本当に気が付いてないの?」
「……えっと、ごめん……何に?」
提督の問いに、対して叢雲はメモ用紙を指差す。
「その走り書きの文字……」
そして、言った。
「どう見ても、アンタの筆跡にそっくりよ」