更新につきましてはかなり遅い方になると思うのでそれをご承知でいてください。
ーー夜
辺りには静寂がこだまし、月光以外を除けば何も照らされない空間。
それは鎮守府とて同じと言える。
普段騒がしい廊下や食堂などもこの時間帯だと何も聞こえない。執務室も今や無人。
艦娘達も今やぐっすりと夢の中にいることだろう。
そんな鎮守府だが、何処からかピアノの音色が聞こえてくる。なるほど、確かにピアノは書庫の中にひっそりとある。とは言え、ピアノは中々古い年代の物で、数カ月前にはもう壊れてしまっていて、使い物にならない。それにこんな真夜中にわざわざ暗い暗い書庫の中でピアノを弾くなんて考えられない。そのためここの艦娘達は霊の仕業と思い込み、ついには『学校の七不思議』ならぬ『鎮守府の七不思議』になってしまっている。
だが、実際は違う。
ちゃんと、この時間帯の書庫を覗き込んだ艦娘がほとんど居ないから気づかなかったのだろう。中には二つの影が見える。
一人は白い軍服を着ている蒼い髪をした色白の青年。彼はピアノの前に座って音楽を奏でる。もう一人は白い髪をしている制服姿の少女。彼女は月明かりを頼りに書庫にあると思われる本を読んでいる。
やがて、青年の奏でる音楽は終末を迎える。鮮やかなメロディーから力強く幕引きを告げるその音には思わず何かの劇のようにも思えてくる。青年は曲を奏で終わると、静かに席を立つ。本来なら、そこで拍手喝采が起きても良いところだが、観客席は生憎一つしかなく、仮に拍手をしてもあまり聞こえそうにない。
だが、青年の目的はそこにあった。
同じ部屋にいる少女一人に聴かせるためにさっきまで弾いていたのだから。そんな少女の方に彼は行き、少女の隣に座る。青年は優しそうな笑みを浮かべて、彼女を見る。
「どう?自分なりにはそこそこ弾けた感じがするけど」
優しそうな声で問いかける青年に対し、少女は読んでいる本をパタンと閉じ、青年の顔を見る。
「素敵だったよ、提督」
少女のその一言に「そうか」と言って、提督と呼ばれた青年は照れくさそうに頭をポリポリかく。
少女は彼のそんな仕草を可愛げに見ている。
しかし、青年は視線を気にせず、少女がさっきまで読んでいた本を手に取って、まじまじと見る。
暗闇の中だから、あまり見えないが薄っすらと『女生徒』と書かれている。
(弥生がこんなのを読むなんて……意外だなぁ)
青年は少女の方をちらりと見て、そう思う。彼女はその視線が何かを悟ったのかクスッと笑って、
「提督。私だって、時にはこういう小説を読みたくなるんですよ」
と言う。
「次は私が弾くよ」
少女は立ち上がると、本を元の位置にもどしてから、ピアノの前にある椅子に座る。一方の青年は本棚から本を選抜している。
「何が聴きたいの?」
「……じゃあ、ベートーベンの『月光』をお願い」
少女はピクッと体を振動させる。おそらく少女の中でなにか思い当たるところがあったのだろう。
白い髪の毛を手でかきあげながら、少女は本を選び終えた青年の方を見る。
「何を読むの?」
「『たんぽぽ娘』」
少女は少し目を大きくし、椅子から立ち上がって青年のもとへ向かう。そして、本の題名を懸命に見ようとしている。青年はその視線に気づき、本の題名を見せる。
そこには彼の言ったとおり『たんぽぽ娘』と書いてある。
「提督こそ、どうしたの?いつも読まない物を読もうとして」
青年は照れくさそうに顔を赤らめて、
「偶には違うのが読みたくなったんだよ」
と言い返した。
少女はそんな青年の顔を見てから、ピアノのキィに指をかける。
やがて、それが緩やかなメロディを奏で始めることとなる。
青年はそれを聴きながら、読み慣れていない外国の本を読む。
その間彼の頭の中には数ヶ月前の少女との出会いのことについて記憶を辿らせていた。
「……睦月型三番艦の弥生です。……よろしくお願いします、提督」
彼女が最初に青年に言った最初の言葉。それは静かな感じもあり、クールな感じもあり、真面目な感じも声でなんとなく想像がついた。だが、それは同時に何処か孤独を背負っているような感じでもあった。
彼は少女に会った瞬間にそれを理解した。
というのも、青年は元は鎮守府では絶対に働かない筈の人間であったからである。
元々彼はピアニストという夢を少年時代に持っていて、そのためだけに一途にピアノを弾き続け、ついには『神童』とまで呼ばれるにいたり、このままいけばすぐにでも夢は叶えられる筈だった。
だが、彼は皮肉にも提督としての素質をも分かってしまったがため、海軍に入らなければならなくなってしまった。
両親は悲しんだ。青年の夢がこれもまた彼の才能に踏み潰されたことを。しかし、青年はそんな両親に自分は大丈夫だ、ピアニストはもう前々から辞めようとしていた、等と言って、両親を慰めたりと彼自身は気負っていないような振る舞いを見せた。
それは鎮守府で提督になるための学校に通っているときも提督になっても同じだった。
だが内心は何処かでピアニストとしての自負を抱いているのもまた事実だった。
そのせいか青年は夜な夜なピアノを弾くようになった。
ただ空白を埋めるためだけに。
ただ自尊心のためだけに。
そんな青年が少女を見て、何処か親近感を覚えた。自分と同じように何か抱えているような、そんな感じを。
だが、今そんな気持ちを少女に話すのはまだ早すぎる。それに今は本人が自己紹介しているのだ、自分が邪魔をしてはいけない。
そう青年は思い、軽い挨拶をして、一先ず終わった。
「おはよう」
「……おはようございます」
「何か困ったことがあったら言ってください」
「はい、分かりました」
「作戦、終了しました」
「あぁ」
「それでは」
しかし、最初の数カ月は青年も少女も口から出てくる言葉は礼儀の挨拶程度のようなもので中々それ以外で口を利く手段は全くないと言ってもいいような状態であった。青年自身ここまでくると、もしかして自分の事が嫌いなのではないか、とも薄々思うようになってもいった。
だが、別段仲が悪くなることもなく、青年は相変わらず深夜に美しいメロディーを奏でていた。
そんな二人の仲が一気に良くなったのは、彼らが出会って、四ヶ月ぐらいのことだっただろう。
その日、青年はいつも通り深夜にこっそりピアノを弾きに書庫に行き、ビアノを弾いていた。
弾いていた曲はベートーヴェンの『月光』。本当なら、『エリーゼのために』を弾きたかった思いもあったのだが、その日はなんとなくこっちのほうがいいだろうと思って、この曲を選んだ。
彼が静かにピアノに指をかけようとしたときだった。
「何をしているんですか」
ドアの方から声がする。青年は内心どきっとしながら声のした方向を振り向く。ただ、振り向かなくても内心誰が来たのかは予想できていた。少女だ。
彼女はドアの隙間から覗いていたらしく、綺麗な青い瞳だけがここからでも見える。
「見ての通りさ、ピアノを弾いているんだよ」
青年は少女を部屋へと手招きする。少女はそれに応じ、中に入る。
「こんなところがあったなんて知りませんでした」
「ん?じゃあ、どうやってここへと来たんだ?」
「……提督が夜中に何処かふらふらと行ってしまおうとしたから付いてきました」
なるほど……一応心配して来てくれたのか……。青年は心の中でつい嬉しく思ってしまう。
(だが、それは部下としての役目として彼女はやったのかもな)
そんな考えがふと頭をよぎる。元々、少女は金剛のようなハイテンションで友情を築き始めるよりかは、朝潮のようなどちらかと言えば上司と部下という関係を意識して一歩間を置いて接するタイプだ。
そのため、ここに来たのもそれを意識して来た可能性もなくはないのだ。
(まぁ、普通はそうだよな)
諦めを含んだ失望感が心に深く、重くのしかかる。
そんな青年をよそに少女は何処か一点に集中している。それは青年がさっきまで弾こうとしていたピアノの前だった。
「……提督ってピアノを弾けるんですか?」
「あぁ、そうだけど」
少女はそうですか、と呟くとピアノに近づき、隅々を見て回る。
「壊れたと聞きましたが」
「俺が直したよ、このピアノは」
「……」
少女は食い入るようにピアノを見る。まるで、それ以外何も見えないと言わんばかりに。
少女はその間うんともすんとも言わない。それは青年も同じだ。
二人の沈黙は月が空の頂きに辿り着く頃にまで続いた。
「提督、お願いがあります」
少女は目を青年の方に向ける。その顔に微笑みをたたえて。
「私にピアノを教えてくださいませんか」
……
………
……………
月日は流れ、一人の青年と一人の少女がこの部屋で静かな時を過ごす。あれから少女のピアノの腕は青年にピアノを教わり、かなりの上達を遂げ、今ではコンサートにでても恥にはならない程にまで成長した(まぁ、青年には今でも太刀打ちはできないらしいが)。
そういう事だから、当初の目的である『ピアノのレッスン』はもう終わっているのだが、二人は関係を絶とうとはしなかった。それどころか彼らは何時の間にか一日のこの静かな一時が楽しみになっている。
何故かはこの二人にしか分からない。
だが、これは憶測になるのだが、恐らく当の二人にも理由を聞いても『分からない』ということになるだろう。
何故か?それを訊かれてもただ分からないとしか言えない。それ程までにこの二人は親密な関係になっているのだ。
そのうち青年が弾いていた『月光』が止み、新たな曲が流れる。曲の名前は『子犬のワルツ』だろうか。軽やかに、明るく流れるその曲は静かな静かな空間に一つの色彩を与えていた。