心配し、単身捜索する風鳴弦十郎は、とある場所で彼女を見つけた。
かつてフィーネから決別を告げられ潜伏していた場所に酷似した部屋に座るクリスが見つめる先には…?
しとしとと、嫌に骨身に沁みる雨。
こんな雨の日は、思い出す。
薄暗い部屋で、雪音クリスは膝を抱えたまま丸くなっていた。
部屋の中には、ささくれて腐った畳。
いつのものやも知れぬカップラーメンの空き容器などのゴミ。
ゆっくりとほこりの舞う中に、形容しがたい悪臭が漂う。
そんな環境にも関わらず、クリスは表情を動かそうとすらしない。
ただ、光を失った瞳が、ぼんやりと爪先のあたりに注がれている。
ローファーの先端から滴り落ちた雨の染みを見ていると、徐々に心が黒く浸されていくのが自覚できる。
暗い記憶が蘇ってくる。
両親を失って捕えられ、他の子供たちと一緒に閉じ込められた部屋。
泣きじゃくっても誰も助けに来てくれなかった、饐えた臭いの充満した部屋。
誰もあたしの言うことなんて聞いてくれなかった、唾棄すべき大人たちが怒鳴り散らした部屋―――。
本来なら、二度と思い出したくない記憶。
今は自分のいるべき暖かい場所を得ているにも関わらず、その忌まわしい過去をリフレインする彼女を、専門家は自傷行為と診断するかも知れない。
あるいは、ジェットコースターに乗る心理と同じとの解釈も成立するだろう。
疑似的に死に触れることにより、より生の実感を得るように、暗く冷たい過去を思い出し、今の暖かさを再認識する。
それらの一面があることも否定できないが、クリスの試みる儀式は、より深く潜るためのもの。
大人に対して拒絶と否定を抱いたあの過去より、さらに記憶を遡る。
まだ両親が健在で、自分が世界に対し隔意すら抱いていなかった昔まで。
心の原風景、彼女だけの陽だまりを目指す旅。
だが、その旅路は困難を極めていた。
過去への遡行―――特に両親を失ってからの辛い経験は、まるで重油の海のようにクリスを苦しめた。
まとわりつく黒さと臭いは心を挫かせ、呼吸すらままならなくなる。
息をつくために浮上してしまえば、再び潜るための気力が要求される。
冷たい雨の降る夜になると、ふらりと猫のように気まぐれに行う儀式。
いつも芳しくない成果に終わり、暗い顔と気持ちで自宅の冷たいベッドへ倒れ込む日々が続く。
だが、この日は違った。
黒い記憶を掻き分け、堆積したヘドロのような感情のその奥に、確かに懐かしいものがある手ごたえをクリスは感じていた。
もうすぐ触れそう、ほら、もう少し…。
「…やはりここにいたのか」
風鳴弦十郎が廃棄されたマンションのその一室にひょいと顔を覗かせたのは全く偶然ではない。
「プライベートを確保したい気持ちも分かるが、万が一のためにもせめて携帯端末だけは持ち歩いてくれ」
時折、クリスがふらっと夜の街を彷徨っていることは、弦十郎も本部も把握している。
もっとも携帯端末を所持していればGPSでの追跡は可能なため、基本的に詮索も制限もしていない。
だが、今回のように不所持で出歩かれしまうと、失踪や誘拐といった物騒な可能性も浮上してくる。
シンフォギア装者の所在の把握が出来ないなどと、S.O.N.G.としても重大ごと。
その上で、事が大きくなる前に単独即効で心当たりを探った弦十郎は、何も司令の責務だけで動いたわけではなかった。
こと雪音クリスの半生に関しては、彼なりに大きく責任を感じている部分がある。
…不憫な子だ。
入った部屋を一瞥するなり、弦十郎もだいたいの事情を察している。
フィーネからも見捨てられた直後、潜伏していた場所にそっくりだ。
そんな部屋に一人籠っているクリスを見れば、彼女が何をしているかの推測が出来る。
もっとも彼の推論も、専門家の域を出ない。
ゆえに、不意にクリスが目を見開き、花の咲いたような笑顔で抱きついてきたことに驚愕することになる。
「パパッ!!」
「ぱぱァッ!?」
厚い胸板にぐりぐりと頭を押し付けてくるクリス。
困惑しながらその小さな身体を受け止めている弦十郎。
「…お、おい、クリスくん…」
「なぁに?」
可愛らしく小首を傾げる姿は、まったく幼かった。
普段の彼女らしからぬ甘えた様相に、弦十郎は混乱しつつも思考を立て直す。
察するに、まるで幼児退行でも起こしたよう。
ふと思いついた弦十郎は、無骨な手でクリスの額に触れる。
「きゃん、くすぐったいよ、パパ」
冷え切った室内に反し、手に熱さが伝わってきた。
即座にクリスを抱えたまま、弦十郎は部屋を飛び出す。
マンションの外に出ると、自身の携帯でクリスを確保した旨を本部へと連絡。
安堵の息をついてくる友里に、クリスを送って行くと告げて通信を切ると、弦十郎は胸元のクリスへと言った。
「少しだけ揺れるかも知れないぞ?」
「うん、パパ、大丈夫だよ」
「いい子だ」
雨の降りしきる夜の空へ、弦十郎はクリスを抱えたまま跳ぶ。
広い敷地に池付きの庭も備えたその屋敷は、特異災害対策機動部二課の所有物件ということになっている。
道場や水回りの設備もあり、合宿所としての機能を持つそこは、司令自ら装者へと訓練を施した場所でもあった。
もっとも最近は謎の鍛錬器具やアクション映画のDVDが壁一面を埋めるなど、司令の趣味性が多分に反映されていることは否めない。
弦十郎がその屋敷にクリスを連れ込んだのは、単純な立地条件ゆえだ。クリスの潜伏していた廃マンションからは、本部も彼女の自宅も遠すぎた。
「こんなにずぶ濡れになっちまって…。ほら、この毛布を被っていろ」
リビングへ入るなり、パパ…と渋るクリスを苦労して身体から引き離し、押入れから引っ張り出した毛布で包む。
その足で弦十郎は浴室へと走り、浴槽へ湯を張る。
着換えとして以前にクリスが使ったジャージを置いてあるのは織り込み済みだが、着換えとタオルを用意しながら弦十郎はふと思い至る。
風呂に入れるにしても、もし幼児退行したままだったら俺が入れなきゃならんのか…?
南無三ッ! とリビングへ戻れば、クリスが熱っぽい瞳でこちらを見てくる。
「…おっさん?」
「ようやく気付いたか」
「あれ? あたしは何でここに…?」
「冷たい部屋に一人で佇んでいたんだ、具合も悪くなるさ。取りあえず風呂に入って温まってこい」
まだどこかぼんやりしているクリスの背中を毛布ごと押す。
脱衣所へ押込めて、熱もあるようだから長湯はするなと告げてから、弦十郎も自分の頭を拭く。
こちらも風邪を引くわけはいかない。次は俺も風呂に入るか。
そんなことを考えつつ、弦十郎はキッチンで湯を沸かした。
湯上りのクリスに温かいものでも飲ませるつもりである。
俗的に女性は長湯というが、ほどなくしてクリスは上がってきた。
ジャージの上下を着て軽く頬は上気しているのは、熱っぽさのせいもあるだろう。
濡れたままの髪が妙に艶っぽく見えたが、乾いたタオルごとその頭にぽんと手を置く。
「俺も風呂に入ってくるから、髪を拭いて、ココアでも飲んでろ」
「あ? ああ…」
困惑気味のクリスを後目に弦十郎も浴室へと向かう。
手早く身体を温めて戻れば、クリスは濡れ髪でココアを啜っているところ。
「まったく、髪を乾かさねば風邪を引くだろうが」
「…パパ?」
振り返ってくるクリスは、また舌っ足らずの声を出す。
「おい、クリスくん…」
「髪、乾かして、パパ」
「なんだとッ!?」
脱衣室からドライヤーを持ってくる弦十郎。
またもや正気に戻ってくれていることを期待したが、キラキラした瞳でクリスは無邪気に微笑んでいる。
「パパ、パパ!」
「ああ、分かった、座ってくれ、クリスくん。…いや、クリス」
言い聞かせるように優しい声音で言うと、存外、クリスは素直に座ってくれた。
ただし、あぐらをかいた弦十郎の膝の上に。
「こ、これは少しやりづらいぞ…」
「はやく髪乾かして、パパ!」
「む、むう…」
前を向いたまま両手をバタバタさせるクリスに、弦十郎は天を仰ぐ。
まったく泣く子と地頭には勝てないな。
不承不承、弦十郎はクリスの髪を指で梳き、ドライヤーのスイッチを入れた。
ココアとシャンプーの混じった甘い匂いが昇り立つ。
少女の若々しい滑らかな髪の感触に、少しだけ慄く。
もちろん弦十郎とて木石ではないから、女性の髪に触れたことはある。
濡れ髪を乾かしたことも一切ではなく、その経験が今まさに生きていた。
ただ、そのときの感慨が、思わぬ一言となって弦十郎の口から滑り落ちる。
「…了子くん」
その直後、弦十郎の太ももが思いきり抓りあげられた。
「痛ッ!?」
見れば、自分で抓ったくせに、その指を不思議そうに眺めるクリスがいる。
が、正気に戻った気配はない。
なんなんだ、一体…。
どうにか神妙に髪を乾かし終え、胡坐からおろし正面にクリスを据える。
「ありがと、パパ」
と幼い仕草で笑うクリスは、普段の彼女とはまた違った愛らしさがある。
一過性の幼児退行だと思われるが、はてさてこれからどうしたものか。
本部へ連れていって医師に診せるのが最良とは承知している。
しかし、今の状態を我に返ったクリスが知ったらどう思うだろう?
プライドの高い彼女のことだ、きっと醜態と受け取るに違いない。そしてその醜態は、可能な限り他者の眼に触れないほうが良いはずだ。
そのような配慮を働かせる弦十郎の様を、まるで隙だと言わんばかりに抱きついてくるクリス。
「お、おいッ…!」
さすがに狼狽する弦十郎に委細構わず、クリスは腕の中で丸くなる。
そのまますいよすいよと寝息を立てられては、さすがの弦十郎もそれ以上は何も言えない。
この時の彼は、クリスの姿に劣情など覚えていない。
おまけにパパと呼ばれてしまえば、むしろ実の娘のような印象とともに彼女を抱きとめている。
そういえば、俺も結婚して子供がいてもおかしくない歳だな。兄貴には、顔を合わせるたびにそろそろ身を固めてはと皮肉られるし…。
だが、相手がいなければしようがない。
そもそも年齢的に釣り合いそうなのは、そう了子くんくらいしか…。
弦十郎がふと想起した瞬間、腕に痛みが走る。
「―――ッ!?」
見れば、クリスが剥き出しの二の腕に齧りついていた。
そのまま眠ったままガジガジと噛む様は、どこか抗議めいた風情がある。
その姿に、まだ幼い時分、風鳴の屋敷に迷い込んできた野良猫を思い出す。
厳重な警戒を極める敷地内に、どうやって入り込んできたのかはいまだに謎だ。
そしてひそかに可愛がっていた猫は、自分の預かり知らぬ間に、ある日突然姿を消した。
父の差配か、猫の気紛れか、それももはや知る術はない。
…今度は手離すものかよ。
思わず抱きしめる腕に力が籠ったからかも知れない。
クリスの女の子らしい身体の感触に弦十郎は我に返る。
いや、猫と比べたら失礼だな。彼女は立派なレディだ。
だけど、やっぱりレディは人の二の腕は噛まんだろう…。
苦笑交じりにそんなことを呟いた直後だった。
玄関のドアが開き、バタバタと誰かが駆け込んでくる気配。
「師匠ーーッ!!」
瞬間、弦十郎は迷う。
今のこの恰好を晒すのは無様ではないか。
その気になればクリスを抱えたまま姿を隠すことなど雑作もない。
が、結局、弦十郎はその場に留まることを選んだ。
そして駆け込んできた立花響を見て、自分の心配は全く杞憂だったことを悟る。
「良かった、クリスちゃんがいたッ! 良かったよ~!」
おいおいと泣き崩れる響に、大げさだなと弦十郎は思ったが、彼女が滔々と語ることを耳にして認識を改めざるを得ない。
「クリスちゃん、どこ探してもいなくて! 見つけられなくて、友里さんに連絡したら、師匠が見つけたって! だからクリスちゃんのマンションに行ったけど、戻ってなくて…!」
そこで、この屋敷のことに思い至り、取るものも取りあえず駆けつけてきたという。
クリスの所在が不明になった時点で、まっさきに連絡を取ったのが他の装者たちだ。
にも関わらず、彼女らには直接発見した旨を伝え忘れていた。
「…すまん。俺のミスだ」
「ううん、大丈夫です。クリスちゃんが無事なら、それで…」
全く果報者だな。おまえには涙を流して心配してくれる仲間がいるんだぞ? 弦十郎は腕の中の少女へと視線を落とす。
同じくクリスの寝顔を覗きこむようにしていた響が言う。
「うわ、クリスちゃん、なんだかすごく幸せそう。きっと師匠のこと、お父さんと思っているんじゃないかな?」
現在の自分が置かれている状況を的確に推察してくれたことに弦十郎は驚く。
だが、その驚きを表情には出さず、言った。
「ああ、こいつも色々と未だに抱え込んでいるようだ」
「クリスちゃんも何なら相談してくれればいいのに」
「そこいらへんは察してやってくれ。年長者としての矜持もあるのだろうから」
「分かりました。あ、それとは別に可愛いから、写真にとっとこ」
「…おいッ!?」
きっと彼女なりに催眠療法に近いことを意識せず行っていたのでしょう。
そして最奥の記憶に触れた瞬間、偶然にもそこに司令が顔を出した。
結果として父親と司令の姿を重ね、一時的に心身が当時のものまで回帰したと考えられます。
もっとも、催眠療法自体の効能は疑問視されていますが。
過日のクリスの行動を仔細に伝えたところ、専門医とエルフナインは同様の見解を述べていた。
その言葉を立証するように、一晩寝たクリスは、翌日には完全に復調している。
また、前日のことは殆ど覚えていないとのことだが、その主張の真偽については、誰にも判断が付けられないことだ。
そしてもう一つの後日談として、S.O.N.G.内のローカルエリアネットにアップされた一枚の写真は散々バズられた挙句、風鳴弦十郎は職員全員に生暖かい視線を注がれることになり、立花響は雪音クリスに追いかけまわされることになる。