よく晴れた夏の日だったと思う。不思議と暑かったという記憶がないから夏だったという確証は持てないが、人の気配がない道路の寂しさを補うように蝉の鳴き声が響いていたから夏だったんだろう。
私は自分のボロアパートの申し訳程度のバルコニーで洗濯物を干し終えて、人のいない住宅街の道をぼーっと、見ていた。我に返って部屋に戻ろうとしたときピンポーン、とインターホンの音が響いた。いつもと変わらない音のはずだったが、私はなぜかすごく気持ち悪いというか、違和感を覚えた。
一人暮らしの私は知り合いが来る予定もなかったし、宅配便を頼んだ覚えもなかったので、なにかの勧誘かと警戒して音を立てないように玄関のドアの前まで移動することにした。
このアパートの部屋は、玄関から入って直接キッチンが続いており、その右手側に八畳間があり、さらにバルコニーがあるだけだった。
とりあえずドアの前に立ち、覗き穴を覗き込んだ。そこにいた人を見て、ああやっぱりいないふりをして良かった。そういう風に思ったことをよく覚えている。そこには知らない女が立っていた。髪は長く、痩せていて、おまけに服装はみすぼらしかった。一番気になったのは女が真っ黒な泥のようなモノを両手で持っていたことだった。私はこのとき、どうやってこの手でインターホンを押したのだろうと疑問に思った。次の瞬間、私は生まれて初めて理解と混乱を同時に味わった。
女がニタァ、と口を開いて、
「ピンポーン」と言った。
私は思わず後ずさったのだが、自分の足を無造作に脱ぎ散らかされていたスニーカーに当ててしまった。
ずりっ、という音がした。その音が鳴り止むか鳴り止まないかの内に、ドアノブがものすごい勢いで回され、女が中に入ってこようとしているのがわかった。
ガチャガチャ、ギッギッ、ガチャガチャ。
幸い鍵をかけてあったのでドアが開くことはなかったが、それでも女は執拗にドアノブを回しては引くことを続けた。私は腰を抜かして動けなくなっていた。とりあえず警察に連絡しようとポケットを探るが、机の上に携帯を置きっぱなしにしていたことを思い出した。私は壁に掴まってなんとか立ち上がって部屋の机のまで行こうとした。
しかしその時、ドアを開けようとする音が消えていることに気がついた。さらにバルコニーの方から人が柵を乗り越えようとするときに出るようなギシギシという音がした。その音を聞いて、私は顔からサーっと血の気が引いていくのが分かった。
私の部屋は一階だ。
バルコニーの鍵は閉めたただろうか?
私はどうするか一瞬迷って、ドアを開けて外に飛び出した。無我夢中で走り出し、人気があるところまで一度も振り返らずに走った。
私は部屋を飛び出した時に見た、あの泥のようなもので真っ黒になったドアノブを未だに忘れることができない。
その後、歩いて友人の家まで行って事情を話して泊めてもらった。変に思われたかもしれないが、あの部屋に戻ることはできなかった。
翌日、その友人と私の部屋に行ってみると真っ黒だったドアノブは何事もなかったかのように綺麗で、部屋も荒らされてはいなかった。友人には笑われてしまったが、私はそこに住み続ける気がせず、すぐに引っ越した。
あれはなんだったのか、夏の日の幻のだったと言うにはあまりにも現実感が伴っていた。 私はピンポーンと言う音を聞くたびに手を真っ黒な泥で手を染めた、あの女の顔が頭に浮かんでくるのだ。