幼馴染が朴念仁で魔法オタクなせいで毎日気が休まらないのですが誰か助けて 作:塩崎廻音
土曜日。
僕は約束通り初音さんとお話しするために喫茶店を訪れていた。初音さんが指定したのは『喫茶なまこ』。再会した日に案内した、あの喫茶店だ。店名のモチーフはそのまま海産物のナマコ。店内のあちこちにナマコを模した人形が置いてある不思議な店だ。足繁く通っている友人の話によると、ぶにぶにと滑らかな感触が癖になるらしい。とんだ色物だ。とはいえ、流石に出している飲食物までナマコに支配されている訳ではない。喫茶店に入るれば、ちゃんとコーヒーや焼いたパンの匂いが漂ってくる。そこは安心だ。
さておき。
指定された集合時間のちょっと前に喫茶店に入ると、既に初音さんは席に陣取っていた。昔からそうだが、彼女はこういう待ち合わせ時間にうるさい。多分、今日も十五分前くらいには来ていたのだろう。
「あ、拓海君!こっちこっち!」
僕に気付いた初音さんが手を振って僕の名前を呼ぶ。店内に僕の名前が響いてちょっとだけ恥ずかしい。
「ごめんなさい。待ちましたか?」
「ん~ん。お腹が空いて先にご飯食べてただけだから、気にしなくていいよ?」
訂正。十五分どころではなかった。
「そうだったんですか。もうちょっと早く来ればよかったですね」
「良いのよ良いのよ。私こそ、休日の貴重な時間をもらっちゃって、ごめんね?」
「こっちこそ、構いませんよ。僕も元師匠ともっと話したかったですし」
「ふふ……この前も言ってたけど、元師匠ってなぁにそれ?」
初音さんが、僕の言葉にクスリと笑う。
…って言うか、この前のあれは『元師匠』に笑ってたのか。
「元師匠は元師匠ですよ。一番最初に魔法を習った相手ですけど、今は別の師匠がいるので」
「ああ、なるほど……その呼び方、可愛くないからやめにしない?」
「あれ、お気に召しませんか?まあ、良いですけど。じゃあ初音さんで」
「よろしい」
そう言って、初音さんがにっこりと笑う。昔から思っていたことだけど、やっぱりこの人は笑顔の時が一番綺麗だ。
「じゃあ、どっから話そっか?長い間会ってないから、話すことがありすぎて困っちゃう」
「別に、適当に思いついたことからでいいと思いますけど……そう言えば、今は何をやってるんですか?」
「今は普通に働いて…あ、そうだ。何か頼む?今日は私のわがままに付き合ってもらってるし、お礼にお金は私が出すよ?」
「えっと、適当にお茶を頼むつもりでしたけど。でも、良いですよそんな。普段から無駄遣いをする方でもないので、お金に余裕はありますし…」
「良いの良いの。私、それなりに稼いでるから。こういう時くらいお姉さんに任せなさい!」
何故だか良く分からないが、初音さんのテンションがやたらと高い。僕としては初音さんに払ってもらう分には問題ないので、お願いすることにする。世の中には女性にお金を払わせるのは恥みたいな考えの人もいるが、僕はその辺ピンとこないのである。
「ありがとうございます。では、折角なので」
「うん。よろしい」
そのあと、僕たちは互いの近況報告から伝えあった。
初音さんは、今は大企業の総合職をしているらしい。収入も良いし働き甲斐もある、と言えば聞こえはいいが、結構な激務なので心身共に疲労が激しいとのこと。この前会った時にやたらと疲れたような雰囲気を放っていたのは、そう言う事情があったからなのだろう。
「お金は手に入るけど、使う間もあんまりないのよねぇ…」
ちょっと困ったように初音さんが笑う。何もする暇もない激務というのは聞くだけでも大変そうだ。本人は、貯金はたまるけど、なんて冗談めかして言っているが、結構参っているらしいのが僕の目から見てもわかる。言葉の節々が、さっきよりも刺々しいのだ。
「…何と言うか、働くのが嫌になりそうですね」
「嫌よ、実際。逃げられないけど」
初音さんが疲れたようにそう言う。
労働というのは大変なものだということは、学生の身分でもよく聞く話した。特に、昨今はブラック企業だの働き方改革だの、労働者の苦労話の集大成のような話題がよく耳に飛び込んでくる。初音さんも、そんな社会の荒波にもまれて苦労しているということだろか。
「…といっても、まだ拓海君には実感は得られないかな?」
「まあ、そうですね。知識としては知ってても、実際どれくらいのものかと言うと…」
「そうよね。私もそうだった」
ティースプーンでカップの中のコーヒーをかき混ぜながら、初音さんが懐かしむようにそう言う。
「実は私、昔は早く大人になって働きたい、って思ってたのよ?」
「え、そうだったんですか?意外ですね。もっと学生生活を謳歌しているタイプかと…」
「まあ、それはそれで合ってるよ。友達と遊ぶのは楽しいし」
「ですよね。僕に魔法を教えたり亜梨紗を連れまわしたり友達と遊んだりでいつ勉強しているんだろうって思ってましたし」
「……あれ、私、そんなに遊んでばっかだった?」
「はい。割と」
僕の言葉に、初音さんが「おおぅ」と唸って頭を抱える。人生エンジョイ勢だと思っていた初音さんだったが、彼女に自覚はなかったらしい。
「…ま、まあ、中学生くらいの頃はそうだったかも知れないけど、高校以降は頑張ってたんだよ。本当に」
「なるほど…やっぱり、いい仕事に就きたかったとか、そう言う感じで?」
「うん、そう。やっぱりね、お金は大事なんだよ」
そう言う初音さんの言葉には、世間でそう言ってるからとか常識で考えればそうだとか言うものではない、深い実感がこもっているように聞こえた。
「……なんだか、つまらない話になっちゃったね。やめやめ!それより、拓海君は最近どうなの?」
「僕ですか?最近は新製品の売り上げが全然だめで…」
「いやいや、そういう事じゃ…え、製品?売り上げ?」
「はい。魔法を使ったグッズを作って売ってるんですけど、なかなか上手くいかなくって…」
「…え、あ、うん。拓海君、そんなことしてたんだ。その年で凄すぎない?……って、そうじゃなくって!」
バンバンと机をたたく初音さん。僕の近況を聞きたいのだと思っていたが、そうではないのだろうか。
そう思っていると、ニヤリと笑みを浮かべた初音さんが、こんなことを言った。
「こんな時まで仕事の話なんて聞きたくないの。それより、彼女とかはいないの?あるいは好きな子とか!」
やたらと楽しそうな初音さん。
一方で、初音さんの言葉に僕は一瞬言葉に詰まった。
なんとも、返答に困る問いかけ。
それは、恋愛話をするのが恥ずかしいとか、そういう話に縁がなくて何も言えないとか、そういう理由もあったけど。でも、返答に困った一番の理由は…
目の前で楽しそうにニヤニヤ笑う彼女が、僕の初恋の人だからであった。
***
「何それ聞いてないんだけど?!!」
休日のリビングに、私の叫び声がこだまする。
それは、拓海がデートに出かけた後のこと。小内家のリビングでの出来事だった。
先ほど非常に不本意ながらも拓海をデートに送り出した私は、家に戻ると珍しくリビングでだらけていた母さんに拓海の薄情さを愚痴っていた。何だあいつは。十年来の幼馴染をほっぽって、初音姉さんとデートだなんて。
そんな私の様子を、ソファに寝転びながらも母さんはニヤニヤと見守っていた。私が拓海のことを好きなんだと『思っている』母さんは、何かにつけてそのことで私を揶揄ってくる。今日も、目の前で愚痴をこぼす娘を面白そうに眺めていたかと思えば、所々で「亜梨紗は拓海君が大好きだもんねえ」とか「初音ちゃんに拓海君を取られちゃうかもねえ」とか余計なことを言ってくるのだ。違う。あんな朴念仁のことは全然好きじゃない。いつも一緒にいるのは私なのにちょっと美人のお姉さんに再会したからってそっちに気を取られるような薄情な奴は全然好きじゃないんだ!
と、何度も何度も主張しているのに、母さんはちっとも信じてくれない。「うんうん。分かってる分かってる」なんて言って、聞き流しているのだ。…まあ、いい。こういう時の母さんは構うだけ調子に乗ることは良く分かっているし、飽きるまで無視しておこう。何年も同じように揶揄われていれば、さすがに頭の悪い私でも学習するのだ。
そんなわけで、母さんを無視してキッチンへ向かう。とりあえず、今日の昼ご飯を作らなくてはいけない。
「あれ、亜梨紗?ご飯なら作るわよ?」
「別にいいよ。あいつのご飯作るのは、私の役目だし。二人分も一人分も一緒だし」
それは、拓海の両親に彼の食事を作ると申し出たときにも言った言葉だった。仕事が忙しい母さんは休日でもしばしば家を空ける。父さんも同様。そんなわけで、昔からご飯は自分で用意する習慣はついていた。そこにもう一人分の追加があったところで、どうせ手間は大して変わらない。だから、放っておくと食事を取らないことがある拓海のために私がこうやって手を動かすのは、ある意味自然な流れだったと思う。
そんなわけで、いつも通り拓海の昼ご飯を用意しようとキッチンに立ったのだが…
「…あれぇ、亜梨紗。今日は拓海君、初音ちゃんとデートなんでしょ?」
母のその言葉に、私はびしりと固まった。
忘れてた。
「違うから」
「うん?愛しの拓海君に、食べさせてあげたかった?」
「だから、違うの」
違う。これは拓海が悪い。あいつは休日でも基本的に部屋から出ないから、私が昼ご飯を作るのはほとんど日課のようなもの。それが、いきなり初音さんとデートに行くものだから、ついついいつもの調子でやってしまったのだ。だから別に、あいつにご飯を作りたかったからとかじゃない。違うからその顔やめて、母さん!
やたらニヤニヤとこちらを見てくる母さんを追いやると、適当に冷蔵庫からチョコレートを取り出して自分もソファへ向かう。なんだか、この短時間の間にどっと疲れてしまった。
ソファに座って、冷蔵庫から取り出したチョコをポリポリと食べる。やっぱりチョコレートは、冷蔵庫で冷やした後に食べるのが一番だ。がちがちに固まったチョコをかみ砕くときの食感と、口の中で溶けて甘味が広がる感覚がたまらない。
「それにしても、亜梨紗が拓海君を素直にデートに送り出すとはねえ…」
母さんの言葉を無視する。まったく、性懲りもなく揶揄おうとして…
そのままチョコレートを楽しんでいた私。すると、そんな私を見て、母さんが何気ない口調で衝撃的な事実を口にした。
「初音ちゃん、拓海君の初恋の人なんでしょ?」
「え?」
母さんの言葉に思考がフリーズする。
はつこいのひと。
つまり、初めて恋をした相手。初音姉さんが、拓海の…
「え、ちょっと、初音姉さんって拓海の初恋の相手だったの?!って言うか、拓海に好きな人っていたの?!」
「あれ、知らなかった?前に一度拓海君がそんなこと言ってような…」
「何それ聞いてないんだけど?!!」
母さんの言葉に、思わず叫び声が口から飛び出す。
拓海が恋愛感情を理解しているとは思っていなかった。何せ、口を開けば魔法、魔法で、そういう男女の機微に関してはさっぱりな風だったからだ。しかも、初音さんが相手という事は、初音さんがまだいたころ、つまり拓海がまだ小学生の頃にその初恋を済ませていることになる。
「え、ちょっと、拓海は恋愛とかそういうの分からないとばかり…」
「いや、それはちょっと拓海君のこと子ども扱いしすぎじゃない?あの子だって、年頃の男の子なんだから」
母さんの言葉が頭の中を通り抜けていく。軽くパニックになっていた私には、その言葉に反応する余裕すらなかった。
拓海が、初音姉さんを好き。
それは、考えてもみない可能性だった。あの魔法バカがそんな感情を持つとは思わなかったし、だから初音姉さんがデートのつもりだったとしても大丈夫だと拓海を送り出したのだし。そんな思いが、ぐるぐると頭の中を回っていく。やばい。何がとは言えないけど、やばい。
だけど、私にはもうどうにもできない。昨日知ったならともかく、拓海を送り出したあとにこんなこと聞いても、どうしようもない。精々、覚悟を決めておくくらいしか…
まあ結局、その覚悟は無意味だったわけだけど。
そんなことは分からないこの時の私は、ぐるぐる回る頭でずっと悶々としていたわけであった。
***
初音さんの追及を何とか回避して、恋愛話を終了させる。彼女は弟分の恋愛話に興味津々で、言葉に詰まった僕の様子から何かをかぎ取ったらしく本当にしつこく追求してきた。「初恋はあなたですよ」とか言ってやろうかこん畜生、なんてやけになりそうになったが、辞めておく。それこそ、ろくでもないことになりそうだ。
最終的には、初音さんの経験を逆に聞いてみたらすぐに大人しくなった。今までやるべきことに懸命すぎて、そういう出会いから遠のいてしまったらしい。どこか遠いものを見るような目が印象的だった。なんか、こう、ごめんなさい!
そんなこんなで、ちょっとの間僕たちの会話は完全に止まってしまった。
気まずい沈黙が場を支配する。
仕方なく、ちょっとぬるくなった紅茶を口に運ぶ。友人には評判が良かった紅茶なのでオイシイのだと思うが、この状況だとちょっと楽しめない。初音さんの様子をチラリと覗き見ても、ちょっぴりへこんだ様子でコーヒーをかき回している。
しばらくそんな風に黙り込んでいると、昔はこうじゃなかったな、なんて言葉が頭に浮かんできた。その思いはは、一度思い浮かぶとどんどん大きくなっていく。
昔は魔法を教えてもらうときに二人とも黙っていることなんてざらだった。あるいは、僕がろくでもないことを言って初音さんが黙ってしまうことも。でも、それで気まずくなるようなことは一度もなかった。多分、僕の幼さゆえに許されていた部分はあるんだろうけど。
でも、今は違う。しばらく離れていた内に互いが成長してしまったからか、曲がりなりにも師匠と弟子だった頃から関係が変わってしまったからか。昔を懐かしむためのデートだったはずなのに、僕たちの関係は昔とはすっかり変わってしまっていることに、今さら気づかされた。
だから、そんな関係性の変化に意識が向いたから、僕はそのうかつな質問をしてしまったのかもしれない。それが、ちょうどいい共通の話題だと思って。でもそれは、今までの初音さんの様子から考えれば、避けておいた方が無難であった言葉だ。だって、初音さんは再会した時から今まで一言も、『それ』を口に出さなかった。でも、今の僕にはその間違いに気づくだけの余裕がなかった。
「…ああ、えっと。ところで初音さん。今は魔法の勉強とかはどんな感じですか?」
その問いに、初音さんは顔を上げる。
ただ、その顔には僕が期待していたような『元師匠』の表情はなく。
どちらかというと仕事に疲れた社会人の表情で、初音さんはこう答えた。
「魔法なんて、もうずっと使ってないよ」
「え…?」
それは、予想だにしていない言葉だった。
魔法は、僕が初音さんに教えてもらったなかで一番大切なもの。だから、当然初音さんにとっても魔法は大切なものだという思い込みがあった。あの『師匠』が、魔法を使わなくなるなんて夢にも思わなかった。
でも、現実は非常なもので。
なんの気負いもない口調でその衝撃的な言葉を口にした初音さんは、フッと呆れるような口調で言葉を続けた。
「そう言えば、さっきも魔法を使ったグッズを作ってるとか言ってたもんね。ダメだよ、魔法なんて時代遅れの技術にこだわってたら」
「え、だって、魔法は初音さんに教えてもらった…」
「いや、まあ、確かにね。昔は私も魔法は色々勉強したけどね。でも、やっぱり社会に出て実感したの。魔法使いはもう居場所が無いんだって」
初音さんのその口調には、昔あんなに精力を注いだ魔法が役立たずであることを憂う気持ちすら感じられない。まるで、彼女にとって魔法が取るにならないものであるかのように。
いや、多分『まるで』じゃなくて…
「私も高校時代にそのことに気づけて良かったよ。そこから頑張って勉強して。良い大学にも行けたし大きい会社にも入れたし」
初音さんにとって、魔法は取るに足らない過去の技術だった。僕にとっては初音さんとの思い出であって宝物だったけど。彼女にとっては違ったんだ。
「だから、拓海君も早いとこ魔法なんかからは卒業して、いい大学に行けるように勉強頑張ったほうがいいよ?」
多分、初音さんからしてみたら親切心だったんだと思う。ろくでもない遊びにはまり込んだ弟分を、まっとうな道に戻そうとしてくれたんだと思う。
ただ、それでも。
僕にとっては、その言葉は心の柔らかいところを抉る言葉であったし。
『魔法』という道を全力で進む僕を、全面否定する言葉であった。
***
部屋に戻り、ベッドに体を投げ出す。
あの後すぐに、僕と初音さんは別れてそれぞれの家路へと着いた。中途半端なタイミングでお開きとなってしまったのは申し訳ないが、僕には初音さんを気遣う余裕がなかった。
極度に落ち込んだ僕を初音さんは心配してくれて僕の家まで送ると申し出てくれたが、僕はそれを断った。むしろ、今は彼女と一緒にいることの方が辛かったからだ。
結局、僕を心配する初音さんをよそに、僕一人で帰路に就いた。元はと言えば僕のうかつな発言が原因であり、初音さんはむしろ被害者なんだけど。ちょっと今だけは、そういう気遣いはできそうになかった。
「…なんでなんだろう」
ベッドに突っ伏したまま、そう独り言ちる。
実のところ、なんでこんなにショックを受けているのか、自分でも不思議だった。確かに、初音さんが魔法を捨て去ったというのは衝撃的だ。初音さんは僕が魔法を始める切っ掛けになった人だから。でも、それでも僕がそのことにここまでのショックを受ける理由にはならないはずだった。そもそも、初音さんとは数日前に再会したばかりだし。彼女が師匠だったころならともかく、今は彼女に依存する理由もない。
初音さんがいまだに恋愛の対象だったら、彼女が自分と全く違う方向に進んでいる事に悲しんだかもしれないけど。それだってIFに過ぎない。
ああ、でも。
そんなことはどうでも良いのかもしれない。
ぐったりと、体をベッドに預ける。落ち込んでいる理由がなんだとか、今は考える気力もなかった。
***
初音姉さんから連絡があって、拓海が家に帰ってきていることを知った。なんだか落ち込んでいたみたいだから、という事だったけど、それってつまり…
――失恋したってこと?
だって、初恋の人とデートをして、落ち込んで帰ってくる。そうとしか考えられない。
初音姉さんは特にそれらしいことは言ってなかったけど、そりゃまあ、人の失恋を吹聴するような人ではないから当然だろう。となると、やっぱり拓海は失恋したんだと思う。
心に一瞬、歓喜の感情が生まれる。
それを務めて排除して、今の拓海の状態に思いを馳せる。いくらなんでも、幼馴染の失恋を喜ぶなんて人としてどうかと思う。例え、拓海が私を置いて初音姉さんとデートに行くような薄情な奴だとしても!それよりも、今頃部屋でひとり泣いているであろう拓海を、どう扱うべきかを考えた方がいい。
そこまで考えて、心に一つ迷いが生まれる。
――どうしよう、慰めに行った方がいいのかな…?
失恋した幼馴染にどう対応すればいいかなんて、ちっともわからない。そもそも、私自身失恋なんてしたことがないから。だから、失恋直後の人間がどんな気持ちなのかは良く分からないし、どうやって扱ってあげるのが良いのかは全く分からない。
チラリと、窓越しに拓海の部屋を見る。
初音姉さんの言葉によれば拓海はもう家に帰ってきているはずなのだが、拓海の部屋は暗いまま。拓海の性格から言ってどこかの公園とかで放浪している線は薄いと思うから、多分電気もつけずに泣いているんだろうと思う。そうであるならば、何とか慰めてあげたい。
どうしようもない阿呆で魔法バカな拓海だけど、大切な幼馴染なのだ。
拓海の家の玄関のかぎを開け、中に入る。基本的に両親の信用がない拓海自身に代わって拓海の世話をするため、私は新藤家の鍵を渡されている。だから、今日みたいに拓海の両親が不在の場合でも家に上がることができるのだ。
そして、勝手知ったる新藤家の廊下を進み、拓海の部屋に向かう。
そのいつもの行動に、今日は少し緊張していた。なにせ、失恋して泣いている拓海なんて初めて見る。いや、そう言えば泣いている拓海自体が初めてかもしれない。
――思い返してみれば、泣いてるのはいつも私だったかも。
小さいころから何かとダメダメだった私は、いつも優秀な拓海に追い付こうとして失敗しては、良く泣いていた。そしてそのたびに、拓海は私のところへ来て泣き止むまで一緒にいてくれた。…まあ、泣いてる原因が拓海だと言えないこともないんだけど。
でも、それに思い至ると緊張していたのがバカらしいとすら思えてくる。
そうだ、難しく考える必要はない。今まで拓海に優しくしてもらった分、今回は同じように拓海に優しくしてやればいいんだ。
不思議と、心が温かくなる。
そんなポカポカとした心のまま、私は拓海の部屋のドアを開けた。
「――もう、こんな真っ暗な部屋で何してるの?」
部屋に入ると、明りのない暗い部屋の奥、ベッドの上に拓海が突っ伏しているのが見えた。
ドアを閉め、部屋の電気はつけずに拓海の方へと歩みを進める。こうして落ち込んでいる時は、明りがうっとおしく思えることも多い。それに、今日は月が明るいから、窓から入ってくる光で部屋の中は十分に照らされている。だから、明りをつけないままでも難なく拓海のもとまで進むことができた。
「隣、座るよ?」
問いかけ、ベッドに腰かける。返事が返ってくるとは思っていない。案の定、拓海は私の言葉に何の反応も示さないままうつぶせに寝転がっている。…まさか、寝ているなんてことはないよね。
しばらく拓海の横に座ってリアクションを待ってみるが、拓海は何の反応も示さない。仕方なく、こちらで勝手にアクションを取ることにした。とりあえずは、拓海の頭に手をやって…
拓海の頭に手を乗せると、一瞬ピクリと反応がある。でも、そのままちょっと待ってみても特に反応はなかったので、ゆっくりと手を動かして、拓海の髪を梳いていった。
これも昔、拓海によくやってもらった覚えがある。私が何かに挫折して泣いていると、必ず拓海は私の髪をこうして優しく梳いてくれたのだ。
「ねえ、拓海」
ゆっくりと、語りかける。ここに来るまではどうしようなんて言おうと迷っていたのだが、今はもうそんなことは気にならない。心の中から、自然と言葉が出てくるような感じがした。
「何があったのかは知らないけど、辛いことがあるなら私に話してみない?そういうのって、人に話すと楽になるっていうし」
それは、私の経験則。小さいころに拓海が慰めてくれた時も、拓海は次々と不満をまくしたてる私の言葉を、文句も言わずにずっと聞いていてくれた。そして、一通りの文句を言い終わった後は、随分とすっきりしたものだ。
拓海の反応はない。私は、特に次の言葉をつづけるでもなく拓海の髪を撫でていた。
そのまま、しばし沈黙が訪れる。カチ、カチと時計の秒針が進む音だけが、薄暗い部屋の中に響いていた。
やがて、秒針が一周するほどの時間がたったのち。
ぽつり拓海が口を開いた。
「初音さんが、魔法を辞めたって…魔法なんて、時代遅れだって…」
――なんだ、そっちか…
それは、私にとってはちょっと予想外の返答で、でも、拓海の性格を考えると「らしい」返答だった。
そんな拓海の言葉に、思わずうれしくなってしまう。「初恋」の話で拓海が遠くに行ってしまうように気になっていたけど。でも、やっぱり拓海はいつもと変わらないんだ、って。
「全く、本当に魔法バカなんだから…」
「……」
思わず、そんな言葉が口を突いて出る。拓海の方からちょっと拗ねたような気配を感じるが、無視。私をあんなにやきもきさせたんだ。これくらいは言わせてもらわなければ割に合わない。
「拓海が失恋して泣いてる、って思って慰めに来たけど。要らなかったね」
「……失恋じゃない」
「ふふ…失恋でもないのに泣いてる泣き虫さんはここですか~?」
「うっさい」
「まあまあ、拗ねないで」
拓海の髪をなでて、言葉を続ける。
いつも魔法魔法ってうるさくて、でも一生懸命がんばってる姿を見てきて。その拓海が、愛しの師匠とはいえ他人にちょっと魔法を否定されたくらいで落ち込んでいる姿が、妙に愛おしい。いつも自信満々なようで、やっぱり心の中では不安だったんだなって。
だから、いつもだったら言わなかっただろうけど。今日だけはちょっと、拓海の背中を押す言葉を口にする。
「私は好きだよ。拓海が魔法を使って頑張ってるとこ」
ずっと、思っていた言葉。魔法にばっかりこだわり続ける拓海に歯がゆい思いをしてきた一方で、彼のその姿は不思議と嫌いになれなかった。だって、自分の理想に向かって一生懸命走ってる姿は、なんだかんだで恰好良かったから。
ピクリ、と拓海が反応する。その様子に、少しうれしくなる。良かった、私の言葉は拓海に届いているんだなって。
「まあ、もうちょっと現実に即した生き方をしてもらえると気も休まるけど?でも、そんな器用な奴じゃないってのは知ってるし、良いよ。そのままで」
だから、不思議と今まで見たいな照れくささもなく。その言葉は口から零れ落ちた。
「私がずっと近くにいて応援してあげる。他の誰が否定しても。だから、もう泣かないで?」
***
亜梨紗の言葉に、僕は顔を上げる。
初音さんが魔法を辞めたって聞いて落ち込んでいた気持ちが、今はすっかり晴れていた。
亜梨紗の言葉で気付いた。僕が落ち込んでいたのは、ただ初音さんに自分の頑張りを否定されたように思ったから。ただ、それだけだったって。そしてその気持ちも、亜梨紗の励ましでもうすっかり気にならなくなっていた。ずっとずっと僕の隣で手伝っていてくれた幼馴染が、僕の頑張りを肯定してくれた。それだけで十分だった。
起き上がってベッドの上に座り、亜梨紗の顔を正面から見つめ返す。薄暗い部屋の中、雲間から現れた月の光に照らされて、亜梨紗の顔がはっきりと見える。その顔は、いつも見ているもののはずなのに、いつもよりずっと綺麗に感じた。
「亜梨紗」
名前を呼び、その肩をに手をかける。彼女が愛おしくて、自分の中の衝動が抑えきれない。
亜梨紗も、ちょっと恥ずかしそうにするが抵抗はしない。
そのまま、彼女をゆっくりと抱き寄せていく。
亜梨紗は一瞬体を固くするが、すぐに覚悟を決めたような表情になって目を閉じた。
亜梨紗の顔が目の前まで近づく。
ああ、僕は今から彼女にキスをするんだな、という思考が、ぼんやりと頭に浮かんだ。
キス。
近くにいて、応援してくれると言ってくれた亜梨紗と。
そこまで考えて、僕の頭にとある発想が浮かんできた。
浮かんできてしまった。
その昔、一つのデザインコンサルタント会社が、とある商品のコンセプトを思いついたという。「キス・コミュニケーター」と呼ばれたそれは、単純な機能を持った一組の無線機器である。機能は単純で、片方の機器に息を吹きかけると、もう片方が光るというだけ。子供だましにも思えるその機械だが、これを恋人同士がペアで使うと途端に素晴らしい個性を発揮する。自分が相手のことを考えていることを知らせたいときに、自分の持つ片方のコミュニケーターに息を吹き込む。受信機は両手で握りしめたときだけペアからの信号を受け取るようにできているので、コミュニケーターが光るというのは、互いが同時に互いのことを想っていたことの証になるのだ。
「――…だから、例えば恋人の気配を遠くにいても近くに感じる魔法とかも、『キス・コミュニケーター』と同じような可能性を秘めているんじゃないか、って、あ……」
自分の発想に夢中になって語っていた僕は、そこでふと我に返り、現状にようやく気付く。
目の前には、仰向けに転がって震える亜梨紗。
さっき、自分の発想に自分で感動してしまった僕は、思わず亜梨紗を突き放して思考に没頭してしまったのだ。
キスの直前で、彼女を突き飛ばして。
ぶわ、と嫌な汗が全身から噴き出すのを感じる。
亜梨紗が妙に静かなのも、余計に嫌な予感を煽ってくる。これは、鈍感だ朴念仁だと言われている自分でもわかる、大失敗だ。この状況で「良い発想が浮かんでよかったね」なんて言ってくる女の子はいるだろうか。
「…それはそれは、良い発想が浮かんで良かったね、拓海?」
いた。
でも、絶対に意味が違う。
だって、亜梨紗の怒りが形を持って具現化しているような、そんないような雰囲気を感じる。これは死んだかもしれない。
恐る恐る、亜梨紗を抱き起す。
意外にも何の抵抗も受けなかったが、僕を今にでも食い殺さんと言うようなその視線が、彼女の怒りのほどを物語っている。怖い。
これ、どうすればいいんだろう。いや、もうどうしようもない気はするけど、だからと言って放置するわけにもいかない。とりあえず、謝らないと…
「…えっと、いきなりキスしようとして、ごめんね?」
殴られた。グーで。五回くらい。
***
新しい魔法グッズはそれなりに成功した。もちろん、まだまだそれだけで生計を立てるような売り上げには程遠かった。でも、魔法でしか出来ないスピリチュアルな効果を活用する、という発想は地味に新しいものだったし、これからの頑張りでもっと成果をあげられるだろうという自信は得られた。
で、一方。
亜梨紗はあの後大暴れして、三日くらい口を利いてくれなかった。ただ、ご飯は変わらず作りに来てくれたけど。さらに、三日たって話をしてくれるようになってからも、しばらくは口を開けば恨み言ばかり。曰く、「キスの直前で女の子を放り投げるとは何事か」とか「謝る部分はそこじゃないだろ」とか。全てその通りなので反論はできない。大人しく、言われるがままに彼女の言葉を受け入れた。
そして、ようやく今日の夕方ごろに怒りが収まったらしく。今はいつも通り僕の部屋で次の製品の計画を立てている。まあ、僕はまだ床に正座させられているけど。
「何か不満が?」
亜梨紗の眼光に、何も言えなくなる。はい、僕が悪いです。
そんな僕の様子に、亜梨紗は一つため息をつくと、呆れたように一言。
「…まあ、拓海がそんな奴だってのは分かってたことだし。もういいんだけどね」
「だよね。いまさらだよね」
「黙れ」
ぎろりと睨みつけられ、口を閉じる。ごめんなさい。
「全く……それにしても、あんな時まで魔法魔法。本当、飽きないよね」
「そりゃあね。こんな面白いもの、絶対に辞められないって!」
「こいつ……」
呆れた視線の亜梨紗。でも、本当なんだからしょうがない。初音さんの件ではらしくもなく落ち込んでしまったけど。誰が何と言おうと、まだまだこんなに色々な可能性に満ちた『魔法』を、手放すなんて出来っこない。
そう言って笑う僕を、亜梨紗はしばらくじっとりと睨みつけていたが、やがてフッと笑ってこう言った。
「まあ、分かってたけど。私も、応援してあげるって言っちゃったしね。拓海が飽きるまでは近くにいて手伝ってあげるよ」
その言葉に、僕もつられて笑ってしまう。「飽きるまで」なんて。そんなこと、あるわけないじゃないか。多分、亜梨紗もそれを分かって言っているんだと思う。今までずっと一緒だった彼女が、それを分からないはずがない。だから、僕もそんな亜梨紗の気持ちに応えるように。はっきりした声でこう言った。
「だったら、一生一緒だね!」