「寒っ」
冬の寒空の下、スカートの中に吹き込んだ冷気に思わず身震いする。視界一杯に広がる石造りの墓と灰色の空によって作られた冷気は容赦なく私の身体を冷やしていく。こんなことならお姉ちゃんの言った通りタイツ穿いていけばよかった。
「あぁ、帰ったらさっさとお風呂に入ってとっととこたつに飛び込もう」
ぼやきながら無機質な石の森を歩き続ける。本当ならポケットに手を突っ込みたい気分だが、生憎と両手は花束と鞄で塞がれている。昔ならなんともなかったのに、今ではすっかり寒さに弱くなってしまった。
「よし、到着っと」
しばらく歩き続け私はようやく目当ての場所までたどり着いた。墓標の側に花束を置き石に刻まれた両親の名前をなぞる。
「久しぶりパパ、ママ」
もうすぐ春が訪れる。あの騒々しい教室を卒業してから一年、そして私が初めて人を殺してから今日でちょうど十年。久しぶりの家族との再会だった。
「ほんと、お姉ちゃんは相変わらず口うるさいよ。ナイフで料理してただけじゃん」
墓石に背を向け腰を下ろし、水筒のカップに注がれた湯気の立つ紅茶を啜りながら一年経っても相変わらず世話焼きな姉に対する愚痴をこぼす。
「だいたいコンバットナイフも包丁も同じ刃物だろうに。むしろ包丁のほうがバランス悪くて使いにくいくらいだ」
初めて墓参りした時のせいもあるのだろう。二人の墓の前で近況を話すのは、私にとっていつもの行為になっていた。答えが返ってくることはないけども、幼いころの記憶を忘れてしまった私にとって、思い出を語るのはとても大事な行為なのだ。
「勉強、家事、遊び、友達付き合い、アルバイト……毎日が忙しくて寂しがる暇すらない。こんな暮らしができるなんて夢にも思ってなかったよ」
紅茶を一口。このお茶だって私が淹れたものではない。今まで飲んできたどんな高い酒よりも、この安っぽい紅茶のほうが何千倍も美味しい。こういう生活はもうとっくの昔に当たり前のものになっているけれど、改めて自分の幸せを噛みしめる。
家族がいて、友達がいて、愛する人がいて、これ以上ないくらいに私は満たされている。でも、強いて望むのなら……
「二人にみんなを紹介したかったな」
両手で数え切れないほどの友達ができたと言ったらどんな顔で喜んでくれたのだろうか。家族が出来たと言ったら何を思ったのだろうか、好きな人が出来たと言ったらどんな風に応援してくれたのだろうか。
鞄から財布を取り出し中に仕舞っていた写真を見る。写真には一組の男女と5歳くらいの子供が写っていた。三人ともとても笑顔で、とても幸せそうだった。
「こんな写真撮った記憶なんてないんだがな……」
私が唯一持っている思い出の残り香。この写真を見ると、思い出せもしないのに胸を掻きむしりたい衝動に駆られる。心の片隅にいる幼い私が寂しさに打ち震える。
「一応血のつながった家族はいるにはいるけどさ」
最近出会った二人の人物のことを思い出す。私がここでこうしているは心の整理を付けるためであった。
「おじいちゃんとおばあちゃん、ね」
つい先日、私は遂にかねてから存命を知っていた母方の祖父母との再会を果たした。まあ実際は再会などと呼べるような温かいものではなかったのだがな。
それも当然だ。十年も死んだことになっていた愛娘の孫が実は生きていたと言われて素直に喜べるのはフィクションの中の人物だけだ。
「人生上手くいくことばかりじゃないってことか」
いくら真実を証明する証拠を揃えたところで、頭では理解できたとしても心から納得などできるわけがない。表面上では私を孫だと認めてはくれたが、二人の目はどうみても孫娘を見る目ではなかった。
父方の祖父母は既に亡くなっている。つまりあの二人が私にとって唯一の血のつながった家族なのだ。この一年で家族の温かさを知った私には、彼等を家族だとはどうしても思えなかった。
「まあ、こんな悩みを抱けること自体、幸せに生きている証拠なんだろうけどね」
悩むこと自体は辛いけど、昔のように答えの先に悲観と絶望しかないような悩みではない。それに悩めるということはそれだけ現状に不満があるからに他ならない。かつての私なら悩むことすらできなかっただろう。
「答えがあるわけでもないし、ゆっくり考えていくしかないんだろうな」
私の人生はまだ始まったばかり。幸い時間はいくらでもある。思い切り悩んで、相談し、そして克服していく。それこそが生きるということ。あの人とあの教室で約束したことだ。
「よし、少し走るか」
冷めかけた紅茶を飲み干す。するべきことは終わった。立ち上がりスカートをの埃を掃う。そういえばあかりにヨーグルトを買ってきてくれと頼まれていたな。確か今夜はカレーを作ると言っていたからそれの隠し味かもしれない。
「さて、行く──」
人の気配。思わず身体が強張る。気配の元に首を向ければ人が一人こちらに歩いているのが見て取れた。
「……なんだ」
身体の力を抜く。ここは墓地だ。墓参りに来る人がいたって何も不思議ではない。必要もないのに無駄に警戒してしまうのは戦場の感覚が完全に抜けきっていない証拠なのだろう。
「綺麗な人だなあ……」
近づいてくる人を一瞥し思わずつぶやく。歳は20から30、長い綺麗な髪を後ろで一本に縛ったとても綺麗な女性だ。花束を携えているということは私と同じで墓参りにでも来たのだろう。
「私もああいう大人になりたいも……」
いつもの独り言。それは立ち止まった女性と目が合ったことで中断された。ここには私達しかいない。目が合ったところで何も不自然ではない。でも、私には目の前にいる女性の目が何か不思議なものを見るような目に見えてならなかった。
軽く会釈。すると目の前の女性は不思議そうな表情をより強めて再び歩き出し、そして……
「……え?」
パパとママの墓の前で立ち止まった。張りつめた空気中、まるで時間が止まったように私達は一歩も動かず己の瞳にお互いを映し合っていた。
「あ、あの!」
先に口を開いたのは私だった。震える喉を律し必死に言葉を紡ぐ。正確なことはわからないけれど、この人は多分私のパパとママを知っている。
「もしかして……パパとママの知り合いですか?」
「……嘘」
女性が目を見開く。瞳は動揺によって小刻みに揺れ動き、半開きになった口に手を当て信じられないと言いたげにこちらを見る。間違いない、この人は私の親のことを知っている。
しかしだ。
「……
現実は常に想像を上回るのだ。
「さあ、入って」
「お、お邪魔します」
椚ヶ丘、飲み屋が連なるの街の一角。そこにひっそりとたたずむ小さな居酒屋の敷居を跨ぐ。壁に貼り付けられた品書き、使い込まれた椅子とカウンター、そして微かに漂う懐かしいアルコールの香り。
「酒臭いところでごめんなさい」
懐かしい匂いに目を見開いているのを不快に思っていると思われたのだろう。女性改め、梓さんが少しだけ申し訳なさそうな顔で謝ってきた。
「あ、いえ、ちょっと懐かしいなあって思って」
酒場なら私も何度も利用していた。後ろめたいことをしている連中は大抵酒好きと相場が決まっている。情報を集めるにしろ単に酒を飲みに行くにせよ何かと重宝していた。
あんな汚い場所と比べるのはこの店に対して失礼だが、それでも同じ酒を扱う店。懐かしいと思うのも無理はなかった。
「……もしかして本当に」
「梓さん?」
「ご、ごめんなさい、なんでもないわ。今着替えてくるから座って待っててくれないかしら?」
私が頷くと彼女は店の奥に消えていった。確かにあの余所行きの服装のままでは大事な話をするには些か窮屈だろう。本当なら今すぐにでも話を聞きたいところだが、焦ったところで結果は同じ。今は素直に待つべきだ。
「さて、と」
カウンターの一席に腰かけ一息つく。誰もいない店内は静まり返っていて、外から聞こえる車の音が余計に静けさを印象付けた。こうして一人で静かに過ごすのは随分と久しぶりな気がする。私はすっかり賑やかになった自分の家を思い出してそう思った。
「あの人、パパとママとどんな関係なんだろう……」
あの出会いの後、私は梓さんの提案によりとりあえず彼女の経営するこの居酒屋に行くことになった。お互いに頭の整理がつかなかったのだろう。道中では精々自己紹介くらいしかできなかった。故に私はまだあの人のことを何も知らないのだ。
「
初めて出会った私の知らない私を知っている人間。その衝撃は筆舌に尽くしがたい。私が今平静を保っているのは偏に帰りを待っている人がいるからである。もし昔のように一人だったら今頃パニックを起こしていただろう。
「……誰か来るな」
引き戸の向こうから足音と気配。多分子供か女性だろう。もしかしてあの若さで娘でもいるのだろうか。そうこうしているうちに引き戸のすりガラスの向こうに小さな人影が見えた。
「あれ、鍵開いてる……今日は用事あるから遅くなるって言ってたのに」
訝しむ声と共に扉が開かれ気配の主が入ってきた。女の子だ。歳は小学五から六、さくらと大して変わらない。恐らく学校帰りだろう。
「え、お姉さん誰?」
腰かけていた私を発見するなり訝し気な視線を私に飛ばしてくる。当たり前だ。外に張り出されていた営業時間にはまだ早い。思い切りプライベートな時間にお邪魔してしまったわけだからな。
でも、そんな気まずさなどどうでもよくなることが目の前にあった。女の子の顔を見る。可愛らしい顔だ。そう、まるで……
「なぎ、さ?」
思わず親友の名前を口に出す。私がそう思うのも無理はなかった彼女の顔はあまりにも在りし日の渚に似ていたのだ。
「なぎさ? 私、蛍だよ。それよりもお姉さん誰? ママの知り合い?」
そんな私の驚きなど彼女は知る由もない。首を傾げ改めて自分の家に現れた正体不明の女への追求を始めた。そうだ、いい加減挨拶くらいしないと相手に失礼だ。
「いや、すまない。私は臼井祥子という。成渓高校に通う高校生だ。梓さんに少し聞きたいことがあってお邪魔させてもらっているんだ」
立ち上がって自己紹介をする。礼をすると彼女も丁寧にぺこりと頭を下げてきた。そして顔をあげるとその目にあった警戒心は少しだけ薄れていた。
「ごめんなさい、泥棒さんかと思っちゃった」
「気にしないでくれ。君の反応は至極真っ当だ」
いくら平和な国とは言え犯罪はそれなりに起こる。怪しんで当然だ。むしろ、もっと警戒したほうがいいくらいだと私は思う。
「梓さんは着替えてくると言って店の奥にいったよ」
「教えてくれてありがとう。ママただいまー!」
「おかえりなさい蛍! そこにいる祥子ちゃんにお茶淹れてくれないかしら?」
「はーい!」
梓さんの頼みを聞いた瞬間、蛍と言う名の子は慣れた動きでカウンターの向こうに入ると茶の準備を始めた。どこにでもあるなんの変哲もない親子のやり取り。でも私とっては生まれて初めて見る生の親子のやりとりだった。
「すまない、いきなり押しかけたのにお茶まで淹れてくれて」
ガスコンロの噴射音を聞きながら再び腰を下ろす。静かだった店内に人の活気が宿る。一人でいるのも好きだけど、やはりこうして誰かといるほうが落ち着くな。
「気にしないでいいよ。いつもやってることだから」
「そうか、ありがとう」
私がそう言うと蛍はにこりと笑顔で笑った。ほんとうによく出来た子だ。たったこれだけのやり取りしかしていないのに、私は既に彼女のことを気に入っていた。
「そういえばさっきお姉さん私のこと違う名前で呼んでたよね。確かなぎ……」
「渚、だ」
改めて彼女の顔を見る。やはり見れば見る程そっくりだ。よく見れば別人だとわかるが、髪型や雰囲気がどうもあの時の彼を連想させる。この世には自分とそっくりな人間が三人いるという与太話を聞いたことがあるが、あながち間違いではないのかもしれない。
「私の中学時代のクラスメイトが君にそっくりでね。思わず声に出してしまったんだ」
「……もしかして、お姉さんもタコさんの生徒だったの?」
タコさん、この言葉を聞いて思い浮かべる人など一人しか知らない。あの騒々しい音速教師、殺せんせーだ。まさか、先生と知り合いなのだろうか。
「もし君が、せこくてエロくて顔がゴムボールみたいな先生のことを言っているのなら、その通りだよ」
私がそう言った瞬間、蛍がカウンターから身を乗り出し私に詰め寄った。彼女の瞳が出来た子供から、好奇心に満ち溢れる年相応の子供の瞳に変わっていく。
「すごい! 私一回でいいからタコさんの生徒に会ってみたかったんだ!」
もう確定でいいだろう。この子は殺せんせーと知り合いだ。でも居酒屋の娘と殺せんせーがどうやって知り合ったのだろうか。まさか、常連客だったなんて言わないよな。
「君は、タコ……いや殺せんせーとどんな関係なんだ?」
「へぇ、殺せんせーって言うんだ。ふふ、変な名前」
あかりが言っていたが殺せん先生だから殺せんせーらしい。改めて考えると変な名前だな。とはいえ今更他の呼び方なんてする気もないけど。
「タコさんはここの常連客だったんだ。もう今はこなくなっちゃったんだけどね」
「じょ、常連?」
蛍が頷く。本当に常連客だったらしい。あの変装する気ゼロの変装で来てたのだろうか。まったく、自分が世界中から追われてる自覚あるのかなあの人。そんなんだからバリアに捉えられたりするんだ。
「お姉さん、タコさんが何処に行ったか知ってる?」
「いや、知らない。君は知ってるだろうけど、あの人やること滅茶苦茶だからさ。多分今頃どっかの国で甘い物でも食べながら巨乳の美人のことでもおっかけてるんじゃないかな」
「あはは、やっぱタコさん学校でもそんなんだったんだ」
話しぶりから察するにここでも絶好調だったらしい。でもそんな先生のことを話す蛍はとても楽しそうだ。あの人はやはり人を笑顔にする天才だな。本当に今何しているのだろうな。
「はい、お茶どうぞ。ねえ私もっとタコさんのお話聞きたいな」
蛍はお盆に二人分のお茶を持ってくると私の隣に座った。大事な話を聞きに来たのだが、今はそれよりもこの子と話したくて仕方がなかった。私の知らないところであの人はいったいどんな醜態をさらしていたのだろうか。
「どうもありがとう。じゃあ、いただきます」
お茶を一口。口の中に芳ばしい香りが広がる。知らない味だがとても美味しい。冬の風邪で冷えていた身体が温まっていくのを感じた。
「そうだな、どこから話そっか」
「お姉さん凄い楽しそうだね」
「君も知ってるだろ? なんせあの人は人を笑顔にする天才だからな」
機械だろうが、少年兵だろうが、殺し屋だろうが、問答無用で手入れし笑顔にさせてしまう。誰よりも自分に素直で優しくて、そんな大好きな先生だった。
「じゃあまずは──」
私はゆっくりと語り出した。あの騒がしくも楽しかった担任のことを。
「あはは! タコさん面白すぎだって!」
あれから一時間程経過した。共通の話題もあってか私達は驚くほど会話が弾んだ。何しろお互いネタは尽きない。それに蛍が驚くほど聞き上手なのも拍車をかけていた。祖父母のことで少し落ち込んでいた気持ちはどこかに吹き飛んでしまった。
「こらこら蛍、あんまり笑うと殺せんせーが泣いてしまうぞ」
「ごめんなさーい」
お互いに反省する気ゼロの茶番染みたやり取り。正直自分でも趣味が悪いと思うが楽しいのだからしかたがない。
「あーあ、私も渚さんにあってみたいなー」
「びっくりすると思うよ。本当に似ているからな」
「でも、男なんでしょ?」
「髪切ってからは少しは男らしくなったんだがな、今でも彼女とデートしてると揃ってナンパされたりするらしい。この前愚痴ってたよ」
私やあかり、それにカルマが絶賛成長している中、渚の身長は相変わらず小さいままだ。彼はまだ伸びると言っているが正直なところあまり期待できそうもない。母親は別に小柄ではなかったのにな。
「それはちょっと気の毒だね」
「けど、本気になるとびっくりするほどかっこいいんだぞ。渚の彼女……私の姉なんだが、もうベタ惚れでデートから帰ってくるたびに惚気話を聞かされるんだ」
かくいう私も人のことなど言えないのだが、それはそれこれはこれである。
「なんか大人の世界って感じ」
「ほぉ、蛍もそういうのに興味あるのか?」
私の言葉に蛍が少し顔を赤くした。わかばパークにいたさくらも恋愛するくらいだし、女子は小学生くらいから恋愛に興味を抱くのが普通なのだろうか。高校生になってようやく恋愛感情を自覚した私とは大違いだ。
「私ももうすぐ六年生だし、そういうのに興味くらい持つよ。好きな子がいるわけじゃないんだけどね」
いつの間にか暖房が入ったのか店内はすっかり温かくなっている。少し暑いな、シャツとネクタイも緩めよう。
「お姉ちゃん、恋するってどんな気持ちなの?」
「私に聞いてもあまり良い答えは返ってこないぞー、なんせ私だからな」
腕を組んで自慢気言うと蛍が残念な人を見るような目で私をじっと見つめた。自分でも言ってて悲しくなってきたな。
「それ自慢になってないよ……。でもお姉ちゃん恋人いるんじゃないの?」
「え、なんでわかったんだ? 私まだ何も言ってないのに」
聞き上手だとは思っていたが、この子はエスパー何かなのだろうか。いや、そんなわけないだろう。別の理由があるはずだ。私がそんなことを考えていると、蛍がとんでもない爆弾を投下してきた。
「だってそれキスマークってやつしょ?」
「……え?」
蛍が私の首筋を指さす。嫌な予感がして私は急いで手鏡を取り出し自分の首筋を見回し、そして見つけてしまった。ちょうどシャツの襟で隠れていた部分に赤い楕円形の痣が一つ。このタイプの痣ができる原因は一つしかない。
「あ、あいつ……」
いつの間に、この前のデートの時に付けられたのか? もしかして気付かないまま学校に行ったり街の中歩いてたのか。
「あ、お姉ちゃん赤くなった」
つけられたこと自体恥ずかしいし、蛍に指摘されてやっと気が付いたことが恥ずかしくて、顔に凄まじい勢いで熱が籠っていく。畜生、今度会ったら絶対仕返ししてやる。私はあの赤髪の甘党に復讐を誓った。
「凄い! やっぱ高校生ってそんなこともするんだ。ねえねえお姉ちゃん、キスマークってどうやってつけるの?」
「あ、いや、そ、それは!」
どうしよう、これ答えていい質問なのか? いや、どう考えても不味いよな。というか殺せんせーの話だったのにいつも間にか話題が恋愛シフトチェンジしているぞ。陽菜乃もそうだが女性はやはり恐ろしいな。私も女だけどさ。
「やっぱちゅーしたらつくの──」
「蛍ー」
まるで助け船を出すかのように梓さんが蛍の名前を呼んだ。思わず振り向けば店の奥からエプロンに着替えた梓さんがニコニコしながら私達を見ていた。正直やっとかと言いたいところだ。もしかしてずっと私達のやり取りを聞いていたのだろうか。
「祥子ちゃん困ってるからそのへんにしてあげなさい」
「はーい、ごめんお姉ちゃん」
「いや、いいんだよ。楽しかったからな」
最後におかしなことになったが、とても楽しい時間を過ごしたのは事実。まさかこんな日に新しい友達ができるなんて思いもしなかった。
「ごめんなさい蛍、これから祥子ちゃんと大事な話があるから、上に行っててくれないかしら?」
「えぇ、もっと話したいよー」
最初は大人っぽいと思ったが、やはり根は子供のようだ。まあそれだけ楽しいと思ってくれたのだろう。
「大丈夫だぞ蛍、この話が終わったらまた話しよう。だってもう友達だろ?」
「……うん!」
目を見て微笑むと蛍は満面の笑みを浮かべて力強く頷いた。私が同い年だった時にはできなかった笑顔だ。しっかりと愛情を注がれているのだろうな。
「またねお姉ちゃん!」
「ああ、またな」
店の奥に消えていく蛍に手を振る。あんなに懐かれたらまた来るしかないじゃないか。本当に人生どうなるかわからないものだ。
「ごめんなさい祥子ちゃん、娘が変なこと聞いちゃって」
空いた席に梓さんが腰かける。初めて会った時のどこか張りつめた雰囲気とは打って変わり今ではすっかり柔らかい雰囲気だ。
「いえ、お気になさらず、あのくらいの歳ならそういうのに興味を持ったって不思議じゃありませんから。流石に返答に困りましたけどね」
「ふふ、ごめんなさい。今度言っておくわ」
「さっきは助け舟出してくれてありがとうございました。もしかして、聞いてたんですか?」
シャツを再び首元まで閉じながら私の問うと、梓さんが頷いた。やはり私と蛍のやりとりを聞いていたようだ。あまりにもタイミングが良すぎたからな。
「着替えならもっと前に終わってたのだけど、蛍があんなにも楽しそうに話してたから出るタイミング見失っちゃったわ。ありがとう、蛍と仲良くしてくれて」
「いえ、私も楽しかったのでお互い様ですよ」
言葉の節々に娘を思う気持ちがひしひしと伝わってくる。とてもに大事に思われているのだろう。こんな親がいて蛍は本当に幸せ者だ。
「蛍もすごい楽しそうだったし、よかったらこれからも遊びに来てくれないかしら?」
「是非、殺せんせーの話も聞きたいですしね」
「どうもありがとう。さっきも聞いたけど本当にタコさんの生徒なの?」
「ええ、写真見ますか?」
財布を取り出し集合写真をカウンターの上に置く。雑に入れたせいで少し剥げているけれど、それでもしっかり皆と殺せんせーが写っている。
「確かにあの人だわ、それに祥子ちゃんも」
「蛍さんが常連だったと言ってましたが、本当なんですか?」
「そうよ、うちの常連だったわ」
だった、つまり今はもう来ていないということ。こっそり来ているなんてことも考えたが、本当に椚ヶ丘にはいないらしい。いったいどこに行ってしまったのだろう。
「あの人、あれからどうなったのかしら。テレビではあんな風に言われていたけれど、あの人が悪人だなんて私にはとても信じられないわ」
真実を知っている者からすればあの報道は噴飯ものだった。それが一番都合がいいのは理解できるが思い返すと今でも腹が立つ。まあ、盛大に面子を叩き潰してやったからいいんだがな
「あの人は梓さんの見てきた通りの人ですよ。せこくてエロくてドジで、でも生徒思いの優しい先生だった。決して生徒を人質に取るような悪人なんかじゃない」
「……そうよね、本当に悪人だったらあんな楽しそうに貴方達のこと話すわけないもの」
過去にやってきたことを考えれば悪人と言えなくもないかもしれない。だが、少なくとも今は悪人ではないしこれからも悪人ではないだろう。こんな風に曖昧さを受け入れることができるようになったのも私が人として成長した証拠なのだと思う。
「やっぱり、あの人はもう……」
「いや、普通にピンピンしてると思いますよ」
「え?」
蛍に言った言葉を嘘だと思っていたのだろう。私が生きていると言うと梓さんは目を丸くして驚いた。確かに一般に入って来る情報では殺せんせーが死んだと思うのも無理はない。
「でも政府の発表だと……」
「嘘も方便って言うでしょ? あれだけ大げさに報じておいて逃げられたなんて言えるわけがありませんからね」
「じゃあ、あの人は……」
「ええ、生きてます。だって約束しましたから」
梓さんは私の言葉を噛みしめるようにしばらく黙り込むと、やがて安心したように微笑んだ。
「そう、本当によかった」
この人と殺せんせーとの間に何があったのかはわからないが、相当思い入れがあったのだろう。本当に嬉しそうな笑顔だった。この人のことについても聞いてみたいところではあるが、今はそれよりも大事なことがある。
「あの、それで……」
「わかってるわ、お父さんとお母さんのことを聞きたいのでしょ?」
今度は私が驚く番だった。だってそうじゃないか。私はまだ自分が藍井祥子だと話していない。話してもそう簡単に信じてくれるとも思っていなかったから説得するつもりだったのに……
「やっぱり、
「信じて、くれるんですか?」
震えながら紡いだ言葉に梓さんはニコリと頷いた。嘘を言っている目ではない。この人は本当に私のことをパパとママの娘だと信じてくれている。でも、どうして……
「当然じゃない、だって私は貴方が赤ちゃんの頃から知っているのよ」
私はこの人のことなんて知らなないはずなのに、今はこの言葉が嬉しくて仕方がなかった。生まれになんて拘ってない。だけど胸に込み上げてくる感情は認められたことを喜ぶ気持ちで満ち溢れていた。
「大きくなったわね、祥子ちゃん」
そう言って梓さんは私は優しく抱きしめた。
視界が滲んでいく。思い出をなくした私にとって、この言葉は正に劇薬に等しかった。覚えていないけれど、多分私はこの人のことを知っているのだろう。そうじゃなかったらこの胸にこみ上げる郷愁に説明がつかない。
「……うん」
静まり返った店内に、一人の子供のすすり泣く声がこだました。
「そんな、ことがあったのね……」
あれからしばらく泣いた後、私は梓さんに今までの全てを語った。自分でも荒唐無稽で到底信じられることではないと思っていたが、それでも彼女は私の話を全て信じてくれたようだった。
「梓さん?」
全てを聞き終えた梓さんは肩を震わせなんとも言えない表情で私を見つめた。何を思っているのだろうか。いや、そんなもの目尻に溜まった涙を見れば聞かなくたってわかる。
「酷すぎる……」
ずっと我慢していたのだろうか。まるで決壊したダムのように目から涙が溢れていた。やはり刺激が強すぎたかもしれない。
「ごめんなさい、泣きたいのは貴方のほうなのに……」
「私のために泣いてくれているんですよね?」
誰かのために流した涙は人を癒す力がある。私はとっくの昔に救われているけれど、そんなこと関係ない。私のために泣いてくれる。それだけで私の心は熱いもので満たされた。
「気に病む必要なんてありません。私はもう救われましたから」
そう言ってカウンターに置いてあったティッシュ箱を差し出す。勿論その程度で彼女の悲しみが消えることはないけれど、今はこんな言葉しか思いつかない。
「そう、貴方もタコさんに手入れされたのね……」
「ええ、ピッカピカにされたせいで下なんて向けなくなりました。だから泣かないでください」
自分にできる精一杯の笑顔で大丈夫だと告げる。その思いが伝わったのだろう。悲嘆に暮れた目に明るさが戻っていくのがわかった。
「……そうね、本人が大丈夫だと言っているのに、悲しんでいても仕方ないか。でも、辛かったら辛いと言っていいのよ」
「はい、そういう時はちゃんと泣きついているんで大丈夫です」
悪夢にうなされた時はあかりに言うようにしている。むしろ向こうから私の部屋に飛び込んでくるくらいなので一人で苦しむ暇なんてない。一緒に暮らすようになってもうすぐ一年が経つが、最早完全に年下扱いだ。
「あの、二人とはどんな関係だったんですか?」
話を戻そう。この人が私の家族の知り合いだというのは最早疑いようのない事実。私が知りたいのはそれがどんな関係だったのかだ。話しぶりから察するにそれなりに深い付き合いだとは思うのだが。
「あの人たちは常連でとても大事な友人だったの。夫が亡くなった時も親身になってくれて今でもとても感謝しているわ」
梓さんは待つように告げると再び店の奥に消えていった。しばらくして戻ってきた彼女の手には一冊のアルバムがあった。
「ほら、これが貴方よ」
アルバムを広げ一枚の写真を指さす。そこにはパパとママと私、そして若いころの(今と殆ど変わらなかった)梓さんが写っていた。写真に写っている私はとても嬉しそうな笑顔をしていた。こんな時もあったのだな……
「千歳さんも貞夫さんも、困っている人がいたら放っておけないような、そんな素敵な人だった……」
千歳と貞夫……私の両親の名前。懐かしむ私を余所に梓さんは次々と写真を見せてくれた。数は多くなかったけれど一枚一枚に思い出が詰まっていて、私は理由もわからないのに嬉しくて仕方がなかった。
「見てこの写真」
「これは……」
梓さんが示す写真を見る。そこには四歳くらいの私と生まれたばかりの赤子が写っていた。この赤子はもしかして……
「蛍がまだ生まれたばかりの時に撮ったものよ。ふふ、祥子ちゃんはこの時から何も変わってないわね」
目の前にいる私と写真の私を見比べて梓さんが微笑んだ。確かに写真に写る私は今と同じような髪型で同じようなリボンをしていた。
「……あれ?」
急に写真がぼやけてきた。前がはっきりと見えなくなっていく。目が熱い。水滴が頬を伝って行く。泣く要素なんてどこにもないはずだろうに。
「おかしいな、寒いからかな?」
「祥子ちゃん……」
楽しかったはずの感情はいつの間にか悲しみに変わっていた。
「こんなに思い出があるのに、私は何一つ思い出せないんです……」
この写真を見ればわかる。私にはもっと沢山の思い出があったはずのなのだ。思い出そうとしても記憶にあるのは土煙と硝煙ばかり。全て戦場の濁流に押し流され忘れてしまった。それが悲しくて仕方がない。
「梓さん、一つ聞いてもいいですか?」
涙で震える喉を律し言葉を作る。彼女は無言で頷いた。
「パパとママは私を愛していましたか?」
こんなこと聞かなくたってわかる。だけど、私は誰からそう言ってもらいたかった。愛しているはずだ、ではない。愛しているという確証が欲しかったのだ。
「
「はい、字も同じです。ほんと凄い偶然ですよね……」
名付けた当初は愛着なんてなかったけど、今は臼井祥子なんて適当な名前にしてよかったと思っている。二人のつながりを感じるからだ。
「貴方の名前の由来って知ってる?」
「幸せになってほしいから、ではないんですか?」
祥。めでたいこと、喜ぶべきことを意味する字だ。私は二人の願い通り幸せに生きている。本当の名前を知ってからずっとそう思って生きてきたのだが、もしかして違うのだろうか。
「それもあるのだけど、本当は違うの。聞いたらきっと笑っちゃうと思うわ」
「どういう、ことなんですか?」
「初めはさちこって名づけるつもりだったんですって」
「……え?」
さちこ、聞き慣れた私の大事な今の名前。さちこという読みは完全に偶然だと思っていたのに……
「千歳さんと、貞夫さん、二人の名前をとってさちこ。でもそれだとあまりにも雑すぎるから読みを変えてしょうこ。笑っちゃうでしょ?」
「う、嘘……」
口に手を当てる。ずっと、自分で考えた名前だと思っていた。幸が薄いから臼井祥子、さちこが古臭い名前だなんて知らずにつけただけの適当な名前。ずっとそう思っていた。
まさか私の名前の由来がこんな適当なものだったなんて思うわけないだろうに……
「二人とも、適当すぎるよぉ……」
治まりかけていた涙が再びあふれ出す。でも胸にあるのは哀しみではなく喜び。いや、どちらかというと楽しいとか面白いとか、そんな感情に近いのかもしれない。
「もっと意味があると思ったのに、雑すぎるからしょうこって! もうちょっと考えようよぉ!」
大粒の涙をこぼしながらそれでも笑う。藍井祥子と臼井祥子、二つに分かれていた名前が一つになるような気がした。
「さちこって! おばあちゃんじゃないんだからさぁ」
感情がごちゃ混ぜになり泣いているのか笑っているのか、自分でもよくわからなくなる。以前から少しだけ本当の名前を名乗らないことに少しだけ後ろめたさを感じていた。でも、もうそう思う必要はない。私は祥子と名乗ってもいいのだ。
「あはは、パパとママ適当すぎ……」
笑いが治まる。急に虚しさが胸を満たした。
「適当、すぎるよ……」
静まり返った店内に吸い込まれていく私の呟き。
「パパぁ……ママぁ……」
ただ静かに泣き続ける。そんな私を梓さんは黙って抱きしめてくれた。嗚咽が泣き声に変わるのは、それから間もなくのことであった。
「ありがとうございました」
あれからどれだけ泣いたのだろうか。涙腺の痛むを目を擦りながら梓さんにお礼を言う。いきなり押しかけて、いきなり泣き出して彼女にしてみれば大迷惑だっただろうに。
「いいのよ、当然のことをしただけですもの」
「そう言ってくれると、嬉しいです」
「お姉ちゃん大丈夫?」
梓さんの横で蛍が心配そうに私を見てきた。あんな大声で泣けば上にいる彼女にも聞こえて当然で泣いている最中、大慌てでこちらに飛んできたのだ。
「あ、ああ」
気恥ずかしさをごまかすように頷く。私は今日出会ったばかり(正確には違うが)の二人の前で大泣きするという恥ずかしい姿を見られてしまったわけである。見られるだけならまだいい。恥ずかしいのは二人がかりで慰められたことだ。
「恥ずかしいところを見られてしまったな。これでは年上失格だ」
頭を撫でられたり背中をさすられたり、まるで幼い子供のようにあやされ恥ずかしいったらありはしない。
「いいよ、お酒入って泣きじゃくる人とか見慣れてるし」
そう言って蛍が笑った。流石居酒屋の一人娘。人間の醜態には慣れているらしい。まあ何にせよこんな姿を見られてしまったのだ。この二人にはしばらく頭が上がらないだろうな。
「あの……祥子ちゃん」
私が胸の中で暴れる羞恥心を退治していると、梓さんが意を決したような表情でこちらを見つめきた。とても真剣で優し気な目だった。
「よかったら、うちに住まない?」
「……え?」
突然すぎる提案。私と蛍の口があんぐりと開いた。この人は何を言っているのかわかっているのだろうか。
「貴方は恩人の大事な娘だし、なにより祥子ちゃんには親が必要だと思うの」
「いや、そんな……」
店内を見回す。言い方は悪いが決して裕福な家庭とは言えない。人一人育てるだけでも凄まじい負担だというのに、更に何かと金が掛かる女子高生なんて住まわせるのは常識で考えて無理がある。
「お金のことなら心配しないで、こう見えても経営は上手くいってるのよ。贅沢はさせられないけど貴方が一人で生きていけるようになるまで面倒を見るくらいはできるわ」
「で、でも……」
この眼は本気で言っている目だ。こんなことを言われたのは生まれて初めてだ。梓さんにはなんのメリットもない。いくら友人の娘だからといっても限度がある。
「それとも、私達と暮らすのは嫌かしら?」
「そ、そんなこと!」
そんなことあるわけがない。本当に短い時間しか話してないけれど、二人といてとても温かい気持ちになったのも、抱きしめて慰めてくれた梓さんに母性を感じたのもどうしようもない事実だった。
「ママ、お姉ちゃんうちで暮らすの?」
「まだ決まってないわよ。でも、そうなったらいいなあって思ってるわ。蛍はどう思う?」
「私も、お姉ちゃんなら別にいいよ」
二人は示し合わせたかのように温かい瞳で私を見つめた。目尻に再び涙が滲んでいく。この人たちは知り合ってまだ一日も経ってないのに、なんでこんなに優しくしてくれんだ。
この人たちなら……そう思ったその時だった。
「……携帯?」
短いバブレーション、これはメールだな。私は二人に一言断ってから携帯電話を取り出した。画面には予想通りメッセージが一通届いていた。送り主は……あかり。
「そうだった……まだ連絡してなかったな」
メッセージを開く。今何処にいるのか、夕ご飯が出来た事、もし食べてくるのなら一言言ってほしい……内容は酷く簡潔で事務的だが、私は文章を打つあかりの心配そうな表情を幻視した。
「ふふ、そうだったな」
思わず笑みを零す。心は決まった。私はあかりにメッセージを送り、改めて二人を見た。蛍がどこか期待するような眼差しでこちらを見ている。その目に少しだけ罪悪感を感じた。
「まずはお礼を。面倒を見ると言ってくれてありがとうございます。本当に、嬉しかった。でもお気持ちだけで十分です」
「そう……理由を聞いても?」
その問いに私は家で帰りを待っているだろう姉のことを思い浮かべた。戦うことしかできなかった独りぼっちの私を妹のようにかわいがり、愛情を注ぎ、家族としてずっと一緒にいるとまで言ってくれた。そんな大好きな姉のことを。
「帰りを待っている姉がいるので」
「あかりちゃんって、子?」
「はい、血は一滴も繋がってないし、苗字だって違う。出会ってからまだ二年しか経ってない。だけど、私の大好きなお姉ちゃんだ」
申し出は嬉しいけれど、私には既に家族がいる。独りになんてできるわけがない。ちなみにあと一人家族になる予定の男がいるが、それはまた別の話である。
「だから、大丈夫です」
ゆっくりと頭を下げる。それに私にはまだ血のつながった家族が二人いる。本当の家族を放り出して義理の家族に逃げるのは違う気がするのだ。
「頭を上げて祥子ちゃん。気持ちは十分わかったわ。突然変なこと言ってごめんなさい」
「いえ、梓さんが本気で私のことを思ってくれたのはわかってます。だからそんなこと言わないでください」
「ふふ、わかったわ」
見つめ合い、お互いに笑う。言葉はもう必要ないだろう。目を見ればわかることだ。さて、そろそろ帰るとしよう。待っている人がいるからな。腹も減ってきた。早く夕飯を食べたい。
「あっ」
「どうしたの?」
「ヨーグルト、買い忘れた」
沈黙、二人が噴き出したのはそれからしばらくしてからのことだった。
「またね祥子ちゃん」
「はい、今日は色々ありがとうございました」
軒先でわかれの挨拶を済ませる。本当はもう少し話したいこともあるが、もう営業時間にさしかかっている。二人に迷惑を掛けるわけにはいかない。とっとと帰るとしよう。それに話があったらまたお邪魔すればいいだけだしな。
「何か困ったことがあればなんでも言ってちょうだい。私の知り合いに凄い人達がいて大抵のことなら解決してくれると思うわ。もうすぐ来るんじゃないかしら」
「わかりました。その時は遠慮なく相談しますね。あ、そうだ」
メモを取り出し家の連絡先を書き記し梓さんに手渡す。
「家の番号です。何かあったら連絡してください。こう見えても荒事は得意なので」
「ありがとう。もしお店の手伝いとかが必要になったら連絡させてもらうわね」
あれ、別にそういう意味で言ったわけではないんだが……まあいいか。やるべきことは終わった。いい加減帰るとしよう。
「お姉ちゃん、また来てくれる?」
「ああ、絶対に遊びに行くよ」
少し屈んで蛍の頭を撫でると嬉しそうに目を細めた。本当にいい子だ。絶対に遊びに行かなければな。決してお姉ちゃんと呼ばれるのが嬉しくて行こうと思っているわけではない。
「では私はこれで。失礼します」
一礼して歩き出すと二人は手を振って私を見送ってくれた。本当に温かい家族だった。私もいつか家庭を持ったらあんな温かいもにしたいものだ。
寒い外気に反比例した温かい気持ちを携えて歩き出す。心なしか足取りも軽い。泣いたり笑ったり、本当に忙しい一日だった。悩んだり寂しがる暇なんてない。改めてそう思う。
「我々の新しい仕事も軌道に乗ってきたし、そろそろ梓さんを口説いてもいいんじゃないか?」
「いや、そういうのはもっと土台を作ってからするべきネ」
反対側から賑やかな話声が近づいてくる。観察してみれば四人の男たちがわいわいと話し込んでいた。中国人に白人が二人、そしてくたびれた中年が一人。もしかして梓さんの店の常連なのだろうか。
「そうだぜ、若い奴等の恋愛じゃないんだ。蛍ちゃんも纏めて面倒見切れるくらい器量よくならなくちゃな」
「そうでしゅ、今日の仕事だって三人ともグダグダだったでしゅ」
「「「てめぇは鼻くそほじってただけだろうが!!」」」
なんというか楽し気な連中だな。足捌きといい身にまとう雰囲気といい(一名を除いて)明らかに堅気じゃないが、裏の世界に関わる者特有の仄暗さを感じない。多分大丈夫だろうな。
「ん? なんだい嬢ちゃん」
ちょび髭の白人と目が合う。どうやら見ているのがばれたらしい。凄い察知能力だな。私も元は裏の人間だしどう出てくるか。
「いえ、楽しそうだなって」
男たちが目を細める。私の微かに残る血の匂いをかぎ取ったのかもしれない。ごまかすつもりもない。聞かれたら素直に答えればいいだけだ。
「……そうかい」
が、剣呑な雰囲気はすぐに霧散した。単に気のせいだと思ったのか、それとも詮索するべきではないと悟ったのか、恐らくは後者だろうな。
「もう暗い。気を付けて帰りな」
「ええ、ありがとうございます」
再び歩き出す。あの連中は多分殺せんせーを狙っていた殺し屋か何かだ。きっとどっかのお節介に手入れでもされて足を洗ったのだろう。でなければあんな楽しそうに笑うことなどできない。
「さて、私も帰りますか」
スキップしながら歩きだす。そんな冬の日の出来事。
「ただいま!」
「お帰りー!」
やっぱりこの家が一番だ。
用語解説
必要ないです。
※お知らせ
次回で番外編の更新を終わりにする予定です。今までありがとうございました。