そのことを頭に置いておいてほしい。
雨が降っていた日、そうにしては青さが濃く世界を染め上げていた日。その日、売れない小説家を親にパラサイトしながらも続けていた時分の、土砂降りの晴天の日。
高架下で空を見上げていた僕のもとへ、軽く声をかけながら現れた少女は、何故だか見覚えがあるような気がした。
これは昔、僕がこうして売れっ子作家として活躍しだす前の話になる。といっても、多くの読者はこの時代の僕を知らないだろうから、軽く説明することにしよう。
この頃の僕は全く売れない小説家だった。親に寄生しながらも、文章をずっと書いて生きるだけの人生を過ごしていた。親は僕がロマンを追い求めることに異常に肯定的だったから、だから僕は環境として相当恵まれてるんだと思っている。
思えばこの頃の僕に根気強くも付き合ってくれた編集さんにはほんとに感謝している。このときの僕は、こんな会話をするくらいにどうしようもないやつだったからだ。
「あのですね、新作の考案があるんですけど」
「えーと、それを言われても……」
「『過負荷の変身』っていうんですけどね。ほんとにどうしようもない主人公が、一転して人生勝ち組になっていくっていう最近流行りの『なろう系』ってやつなんですけど」
「それはカフカに土下座して謝ったほうがいいと思いますよ? そもそも依頼溜まってるじゃないですか。デビューしたからには、しっかり頑張ってくださいよ」
「えー……じゃあ『海辺の過負荷』」
「村上春樹に土下座しましょう。それと過負荷から離れましょう。あとあなたカフカ読んだことないでしょう?」
「いやいや、読んだことありますよ? えーとたしか……『朝起きると男前になっていた。』だったっけな……」
「たしかに『変身』ですけど……! ですけど……! パロディ作品……!」
そんな会話をするくらいに、このころの僕はバカだったと思う。
そうして、そんな昔の僕はその日、鮮やかな天気に雨が降る日に、とある高架鉄道下で立っていた。
理由はない。強いていうなら、せっかく上京してきたのに僕はまったくと言っていいほどなにかを残していないことに、わずかな憂いを覚えていた。
雨宿りにも見えるかもしれない。事実、雨宿りだった。けれどどうにも手持ち無沙汰で、僕は空の向こうにある青色をずっと見つめていた。
いつものように無為に時間を食い潰している、そんなときだった。
「そんなところでなにをしてるの?」
と、声が掛かる。声の方向へ振り向けば、いつからいたのか少女が膝を抱えて座っていた。足を多少広げて座るもんだから、スカートの中身が見えている。それについてなにか気にするそぶりもないものだから、僕はなにもいうことができない。
「僕は空を見てたんだけど……君は、なにをしてるのかな?」
いや、聞かなくてもわかる。そのポーズを見ていくらか推察できるというものだ。
「僕が思うに、君は家出少女だな? 悪いことは言わない。人は一人じゃ生きていけないんだから、さっさと家へと帰りなよ」
「あっはは、まだまだ若いおにーさんに説教されちゃった」
そう笑った彼女は、すっくと立ち上がり、滑るように、踊るようにあっという間に距離を詰めながら、
「けれどおにーさん。私は帰らないんじゃなくて帰れないんだよ。帰る場所はない。だからこうして途方に暮れてたってわけ」
「……えーと……」
それは、家がないということだろうか? ひょっとしたら頼れる人もいなくて、天涯孤独の身なのかもしれない。そう思った僕は、それでも厄介ごとは抱えたくなかったので、
「そうかい。それじゃあ」
と、言った。そのまま帰るために雨の中に歩を進める。直後に少女に腕を掴まれ、その力が想像以上に強いもんで、そのまま足を滑らせて後ろ向きに転んでしまう。顔が少女のほうに向いた。それを見た少女は、そのスカートの中身を惜しげもなく僕に晒しながら、笑んだのだった。
「痴女かよ……」僕はそうして呟いた。半分ぼやきだった。「僕は帰るんだよ。離してくれないか?」
「ふぅん。困ってるかわいーかわいー女の子を置いていくんだ?」断罪的な響きを含んだ少女の声。「人のパンツを見るだけ見といて、それでばいばいはいさよならぽい? それはちょっと酷くないかなぁ?」
くそ、なにが望みだ。そんなことを言ったのだと思う。詳しくは覚えていない。久方ぶりに見た、女性の淫らな、包み隠すべき場所を、ただ一枚の防備にまかせているのは酷く不用心だと思ったし、それにどぎまぎしてしまって、僕の頭は冷静に働かない。
性的だ。この少女は性的だ。それに過ぎる。
だから、視線を逸らそうとして、僕の腕を掴んでいる手と反対の手で顔を抑えられた。動かない。この子、ちょっと力強すぎないか……? と疑問に思いつつ、なるべく抵抗しようとして、それでも少女の力に呆気なく敗北する。
少女は僕の顔を、自分のスカートの中へと突っ込んだ。
「きゃー、へんたーい。あーあ、これは言うことを聞いてもらわないといけないなぁー! いけないなぁー!!」
「くっ、そっ、もがっ」
顔がついに布に触れる。さすがにここまでやったことはない。だから、ここから先は僕からして未知のゾーンになる。
「さぁ、どうする? このまま私が叫んで捕まるか、私をあなたの家へと泊めるか……!」
「なんでっ、僕これ悪くないだろっ!?」
「世の中は美少女に優しくできてるのよ」
知りたくなかった。
とはいえ、やはり女性のほうが優遇されてるよなぁ、という事実はある。……いや、優遇というよりは、庇護的に見られる事実がある。
そもそも女性というのは一般に、力が弱いものだという固定概念がこの国には存在する。だからこそ、彼女の意見のほうが、僕のものより通ることは確実だろう。
畜生、降参だ。
「好きにしろよちくしょー……」
「やたっ。それじゃ、おにーさん。あなたの家に案内してねっ!」
押しが強いなぁ! と思いながらも、僕はその少女を引き連れて雨の中へと進んでいる。
僕の心境に反して、その空はどこまでも晴れていた。
「へー、ここが……汚いね」
「嫌なら出てけよ。僕は仕事があるから、そっちの部屋でのんびりしといてくれ」
そう言って、僕は自室へと彼女を叩き込んだ。
僕の家は物の設置の仕方が下手くそすぎて、リビングと自室の扉が閉まらなくなってしまっている。今回そうなってしまった理由は本の置きすぎだ。僕の家には、いろいろなくらいの本がある。
とはいえ、ほとんど純文学というジャンルではなく、ライトノベルや漫画ばかりだ。しかしこれらもあまり馬鹿にはできない。中にはためになる、おもしろい話もあるのだ。
最近はライトノベルのほうが哲学的だったりもするので、やはり侮れない。
とりあえず、取るものも置いといて僕は机と向き合った。リビングの上に置いてあるポットでお湯を用意し、それが湧くまでの間に少し執筆しておこうと考えてパソコンのバッテリーを接続する。起動するパソコンを横にすこし避けておき、一つのデバイスを取り出した。
執筆をすること、メモを取ることに特化したデバイス。
すなわちポメラだ。
やはり、通知やなにやらなど、他のことが一切絡まないデバイスなので、集中するにはもってこいなのだ。
パソコンは音楽を流すこととは別に、プロットを確認する意図もあった。
「……………………」
そうして、気合を入れるまでもなく、フラットな感情のまま文章を打ち出し始める。頭の中に大量にある表現、すでに一つ、あやふやにだが映像として完成している世界観を、文章に変換して書き出していく。
同時に───執筆とはまた別に、考えることがあった。このマルチタスクについては今まで何度も慣らしてきたので、話しながらでも文字を書き出すことはできるようになった。
何故だろうか。
どうして、あの少女は見覚えがあるのだろう?
僕は東京に友達はいない。仕事仲間の編集さんくらいしか僕は東京に知り合いもいなく、強いていうなら近所付き合いがあるというくらいか。
しかしそれについても、あまりない。基本引きこもり、またフィールドワークに出る。それが僕がやっていることだからだ。故に、人の付き合いは極端に少ない。
ひょっとしたら地元で見たことがあるのかもしれない……とは思うが、僕の矮小な頭脳ではそれを覚えていることは難しいと思う。
ならば……と考える。僕が覚えている既視感はなんなのか。気の所為か。そうだと思う。
人間の中で一番記憶に残るものは匂いらしい。だけれど、僕は彼女と相当に近づく機会があったが、しかし記憶に残る匂いはない。なんとも女子らしいその匂いは、自分の妹のものとは確実に違っていた。妹の匂いはなんというか発情したような匂いがするが、こちらはまだ優しい───幼い子供のような匂いだ。
そこまで考えて僕は先程からの思考が完全に変態のそれだ、ということに気づき、一旦手を止める。そこに丁度タイミングよくお湯が沸く音が鳴った。ポットを持ち上げながら、自分がどこまで執筆したのかを確認する。……先までと比べれば、だいたい千文字くらい進んだらしい。四百字詰めの原稿用紙で2枚と半分。なるほど、順当なペースだなぁ、と思いながら、立ち上がり、カップと、インスタントコーヒーを手に取る。
それをカップの上にセットし、そのままお湯を落とす。ゆっくりと染み出していく、黒い液体。
完成までそんなに時間はかからないだろう、という判断で、ポメラを少しだけ避けた。間違ってお湯をこぼせば悲惨だ。
「…………じー」
「……君も飲むかい?」
「超おねがい」
わりと堂々としてるよなぁ、と思いながら、またもう一つカップを出した。そうして、先やったように、コーヒーを作っていく。
そうして彼女が持っている本に視線が向いた。
「あ、それ僕が書いた本だ」
「えっ、ほんと? ……へぇー、なるほどなるほど……」
「なんだよその目は」
「いやぁ、妹と性的なことをやっちゃうとか、なかなか業の深い性癖だなあって」
「それほとんど実話だよ」
「……えっ」
そう告げると、彼女は凍りついた。
いや、まぁ、わりとドキツイ内容であるとは思っている。自分でもこれが実話であるとは信じがたかった。多少誇張してはいるが……しかし、それでもほとんどが実話であることには変わりない。
「実際はもうちょっとマイルドだけどね。いや、僕って知ってることや経験したことは鮮明に書けるから、基本的に実話ベースで書いてるんだよね」
「……ふーん。じゃあ、この近親相姦の話も、父親がロマンを求めてフランスのほうに失踪したのも実話?」
「どっちも実話。近親相姦のほうは、さすがに一線は超えないように気を遣ったけどね。いやはや妹はなんでこんな僕なんかが好きなのやら……」
そうぼやきつつ、完全に淹れ終わったコーヒーを彼女の前に出した。一応、飲めない可能性も考えシュガーとガムシロップを机の上に置いておく。
「好きにとってくれ」
「あー、うん。あつっ、……それじゃあ、時々入る死体描写も知ってること?」
「うん。じっくり観察する機会があったからね」
「……ふーん。猫とかかな? 下手に触れてはないよね?」
「そりゃあ当然。死んだ猫に触れてしまうのは僕は化物語から不味いことだって学んでる。だからさわっちゃいないよ。しっかりと、メモにまとめて、忘れないように写真も撮ってる。猫の死体も人の死体もぶっちゃけ変わらないだろ? だから、経験を活かして書くことにしてるんだ」
「なんか、君の体験っていびつだよね。だから物語に統合性がないのかなぁって思うよ」
まぁ、確かに他の人が滅多にしないだろう経験をしているのは知っている。自分も中々イカれた経験をしてきたものだ。少なくとも妹に夜這いされたり、初めてあった女の子のスカートに顔を突っ込んだりなどは滅多にありえない珍しい経験だと思っている。
とはいえ、まぁさりげなくディスられたことには気づいている。だから少しの反感も交えつつ、返す。
「少なくともその歪な経験の中には君との遭遇も含まれてるんだけど」
「……うっわ、濡れ場えっろ。ごめん、ちょっとむらっと来たしオナニーしてくるね?」
「話聞けよお前。てか目の前で女子がオナニーしてくるとか言い出したのを聞いちゃった僕の心境も考えろよお前。幻想が崩れてくよ。なんか世界に幻滅しちゃうよ」
「さすがに冗談に決まってるでしょ? 私もそこまで頭がおかしいわけじゃないよ」
「どうだか」
そんな掛け合いをして、互いにくくくと笑った。
なんだろう、彼女がまるで、日常の一部かのように馴染んでいるような気がする……。
そんなことを考えたタイミングで携帯が鳴った。
画面を見たら、『妹ちゃん』の文字。少しぞっとする。一体なにをどうして嗅ぎつけやがった。どんな嗅覚してんだ。お前いったいなんなんだ。そう思いながら、席を外し電話に出た。
「もしもし」
『……おにいちゃん、誰か知らない女連れ込んでない……?』
ひぇっ。
なんでわかりやがったこいつ、と思いつつ、なるべく平常心を意識して、「ない」と告げた。それから少しの沈黙があり、
『そっか』と妹は告げた。ガッツポーズする。『そうそう、お兄ちゃん、私今おにいちゃんの家の前にいるの』
直後に絶望した。インターホンが鳴り響く。
「わかった。すぐ出る」
『ん』
それだけならかわいいんだけどな───と思いつつ、ヤバイ。今は一人の女を匿っている。不味い。最悪だ。そう思って、すぐにリビングへと戻って、
そこにだれもいないのを確認した。
「危機感強えな……」
そうぼやきながら、僕は彼女が口を付けたコーヒーカップの、彼女が口を付けた部分に唇を触れる。別にやましいことがあってやっているわけじゃない。必要に駆られなのだ。
なんせあの妹、どういうわけか僕が使ったものとそうじゃないものの区別がつく。だから、それを誤認させる必要があった。
急いで台所に持っていく。そうして、それをすぐに水につけ、すぐに玄関を開けた。
「あっ、久しぶりおにいちゃん」
「おう、久しぶり。なんか……また一段かわいくなったんじゃねぇの? まぁ上がれよ」
そう言って妹を招き入れる。笑みを浮かべ、彼女は家へと上がってきた。
「最近の調子はどうだ?」
「うん。すごぶるいいよ。あっ、そうだ。最近は彼氏もできたんだ」
「えっ、マジか」
このブラコンこじらせた妹に恋人ができるなど予想外だ───だがしかし、標的を移せると考えればまったく問題ない。むしろありがとう。油断したら押し倒しにくるからこいつほんとに怖い。
「どんな人?」
「おにいちゃんみたいな人かな」
「へー。どんな名前?」
「
「あれ待って、それって僕のペンネーム」
「写真もあるよ。ほら、この人」
見せられたケータイの画面には、なんとも正気を疑うような画像が開かれていた。
そこに写っていたのはまるで自分だった。目に光はやどってないし、体に力は籠もっていないし、無機質に見える───しかし、その顔はどう見ても自分のものだった。
「おまっ、これ……」
「おかあさんが紹介してくれたんだ。いい人なんだよ? なんでも言うこと聞いてくれるし」
「そりゃあそうでしょうねぇ……」
人形だもの。
「……冗談はここまでにしよっか」
と、妹が言ったことに心底ほっとする。こいつの冗談さ真剣味すらあるので冗談のように取れないのだ。恐ろしすぎるからやめてほしい。
それにしても、と思う。こいつ、今日はなんでこっちに来たのか……。
それを問うと、特に理由はないと言われた。確かに実家とこの家の距離は然程だから、理由はなくても通うくらいはできる。それでも往復2時間は掛かるくらいだ。だから、そんなに来ることはおすすめできない。
「理由がないならくるのやめとけ。こっちからいくし」
「えー! でも家よりこっちのほうがいいし……」
「それはかぁさんに失礼だからかぁさんの前で言わないようにしろよ」
自分の母親はなぜだか異常に居心地のいい空間をつくることにこだわっているので、そんなセリフを聞いてしまえば途端に発狂し阿修羅モードへと変質するだろう。かつて父親がやらかした記憶があった。そのときにあった実際のセリフはこんな感じである。
『ぐわー! のわー! うわー!』
『うわあれおとーさん絶対やる気ないよね。典型的なセリフだけいっときゃいいやみたいな考えであれ言ってるよね』
『黙っておくんだ妹ちゃんよ。あれは意味がわからないくらいに大根だが、しかしあれでも自分ではしっかりやっているつもり……つもりだから……かわいそうに、演技力不足だ。雑魚め』
『あっこれそろそろヤバイ。ちと助けてくんない?』
『知らん。勝手に死ね』
『戯言読ませた影響か……っ! こんなに辛辣に育って……!』
だいたいお前のせいだと思う。包丁が飛び交う様子を見ながら、さらっとそれを受け止めて机のうえにやんわりと置き留める父親を見ながらそんなふうに思ったおぼえがあった。
それはさておき。
「どうする? 何時くらいに帰る?」
「んー……いや、もう帰るよ。おにいちゃん、誰も連れ込んでなかったし。だからもーまんたい。それじゃ、もう帰るね」
そうだけ言い残して、妹は玄関へと向かう。なにがしたかったんだと思いつつ、見送らないのも薄情なので玄関まで着いていく。そうして靴を履く妹を見て、はたと思い出す。
「あ、ちょっと待って。プレゼント買ったんだよ」
「へぇー……おにいちゃんなのに気がきくね?」
「その言い方はないだろお前……まぁいいや、ちと待ってて」
そう言って、自分の部屋に取りに行く。そのまま玄関まで戻った。僕の手にあるものを見て、妹は少し首をかしげたのを見た。
「これは……?」
「ああ、単純にパスケース。ただちょっとおもしろい柄だろ?」
それはまんまるの猫の顔をしたパスケース。僕が前に大阪で見つけ、おもしろいと思って買ったものだ。妹はたしかかわいいもの好きだったと記憶しているから、せっかくなので自分用と妹用、それと編集さんへのプレゼントに三つ買ったのだった。
そのうちの一つを、どうにも渡す機会がなかったので、今回はいうなら絶好の機会だったのだろう。これを逃せばいつ渡せるのかがわからない。
「ま、受け取っといてくれ。人前で使うのが恥ずかしいんなら飾っとくのもよしだろ」
「ん。ありがと」と、言って妹は次に忠告のように言う。「おにいちゃんも急いで売れっ子作家になりなよ? おかーさん、おにいちゃんの本全部買ってたけど『これは売れる』って確信してるっぽいから、なにかきっかけを掴み取るべきだよ。あととりあえず家に帰ってきて」
「それが本音だろ」
「うん。だって私おにいちゃんのこと好きだし。売れなきゃ帰ってこないんなら、売れることを応援するに決まってるじゃん」
まぁそうだよなぁ、と思いつつ、僕は「それじゃ」と言う妹に「ばいばい」と手を振る。扉が完全に閉まり、そうして息を吐いた。
「ふーん。そんなこと決めてたんだ」
「うっわびっくりしたっ! ……お前、急に声かけるのやめてくれよ……」
「コミュ障だからそんなことでびっくりするんだよ。人と交流持てよコミュ障」
辛辣な言い分だが、まぁたしかにその通りだ。声を掛けられてびっくりするなんて、しかもいることがわかっている相手の声でびっくりするなんて普通じゃないだろう。
というか。
「お前さっきまでどこに隠れてたの?」
「ん? ……ナイショ。ヒメゴトってやつよ。ほら、芥川もそう言ってた」
「ヒメゴト……? 芥川……? お前、それひょっとして太宰じゃないか? 斜陽のこと?」
「あ、そうそれ。なんか、主人公らが結構ヒメゴトってワード使ってたじゃん。だからそわな感じなのよおにーさん」
「いや、印象的ではあるけどそんなに使ってはないと思うよ。あと芥川と太宰は間違わない」
「いや間違わない? どっちもそんなに変わらないじゃん」
「じゃあ芥川は伊勢物語のほうって覚えればいいよ。だとしたら太宰とは混ざらない」
「そうかな? ……ってか、伊勢物語ってそれまた別のジャンルじゃない? 覚えれないよ」
「あれ、そうだっけ? ごめんごめん、いろいろ適当なもんでな」
まぁでも太宰と芥川は混じらないだろう。だって羅生門と人間失格だ。それが混ざるほうが難しいよな、とは思う。
……僕もそのくらいしかその二人について知らないのか……偉そうに語ることもできないな、と思いつつ、そろそろ玄関の前から移動することにする。部屋への扉を開け、先程のように机に座ってパソコンと向き合った。
パスワード入力画面で待機していたパソコンを、さっさとパスワードを打ち込んでしまい、起動する。そのままデスクトップに設置したプロットをまとめたフォルダを開き、そのなかから現在執筆している作品のファイルを展開した。
「あ、そういえば私のカップに口つけてたね。やらしーんだ」
「違う」
「えっちだねえっち。私のスカートにも顔突っ込んできたもんね。えっちだね。変態さんなんだね」
「違うって」
「きゃー、今度はそのまま直に顔をくっつけられるのかしら? きゃー、変態さんだー!」
「違うからして」
そんなやりとりをしながら、若干冷めてしまいぬるくなったコーヒーを口に含んで、執筆を開始した。
遠い過去の話をここで唐突だがすることにする。
僕の過去といえば、なに一つ面白みがないことで有名でもあるが、いや僕のなかでしかそれは有名ではないので、他からすればどう受け取られるのかわからないが、とりあえずそういう過去の話をしよう。
僕が頭のおかしい父親に連れ去られてフランスへと飛び立った時の話だ。僕はそこであちらこちらを見て、稚ながらにも面白みを覚えていた。幻想的な西洋の雰囲気が心に染みて溶けていくのだ。だからこそ、僕はそれを書き留めたいと思った。
それが僕が、物書きになることを決めた瞬間だったと思う。
だから、それ以来すべてのものを全部観察するようにしている。身近なことに疑問を持つことが執筆という、世界観を構築するうえで一番効果的なことだと思ったからだ。
そんな日にあるものを見た。たまたま東京に来ていたときだった。僕がのんびりと東京の街を彷徨える一人の少年として、堪能していたその日。
ある日のように、清々しいほどの晴れた雨が降っていた日。
僕は、そこで───
「ところで、さっきから君はなにをやっているんだい」
執筆を一旦とりやめ。時間はかなり立っていて、既に一日が終わろうとしている雰囲気を感じる。書けたのは一万文字くらい。このペースで書いていけばなるべく早く提出することができるな、と思っている。速度のぶん、僕の文体は非常に荒いのだが。まぁ、そのほうが荒々しくて好きと言ってくれる人もいる。だから、そこについてはあまり考えなくていいだろう。
そうして、視界の隅にちらちらと映っていた少女に声をかける。寝転びながら、手を猫のようにもたげているその姿を見て、僕は無性に性的だと思った。若干ブラの紐が見えているのがなんとも性欲を刺激する。
なんだこいつ、やることなすこと性的か。
「いや、特になにも? 集中してるおにーさんの邪魔をしたら一体どんなことが起きるのかなーって思ってたんですけどー。まったく反応しないのなんでー?」
「別に、そのくらいで集中は乱さないよ。別に集中が乱れても執筆できる自信はあるしね」
「おっ、言ったな? それじゃあ……」
そういい、ととと、と寄ってきて、僕の腕に自分の腕を押し当てるようにしてひっついた。
「邪魔」
「してるんだもん。邪魔なのは当然じゃない?」
「しまいにゃお前揉むぞ」
「私は別にいいよ? だが法律は許すかなぁ!」
「こいつほんまクソ」
そうして、僕は一つのことにだんだんと勘付いてきた。そりゃあ、これだけのことがあればわかる。
「……………………」
「どうしたんだい? 急に黙って」
「んにゃ、なんでもないよ?」
気まぐれな彼女。自由な彼女。それに、何故既視感があるのかがだいたいわかってきた。
けれど言わない。少しだけ、あと少しだけ。今日だけを堪能させてくれ。
時間は過ぎる。魔法が溶ける時間まではもう少ししかない。だから、最後の最後まで僕に一つの、ささやかな幸せを堪能させてくれ、と思っていた。
このコンクリートジャングル・トーキョーのなかで、僕が久々に享受することができた幸せってやつを、あと少しだけ堪能したいのだ。久しぶりに馬鹿みたいな会話をした。役得だとかどうでもいい。ただ、久しぶりに話すことができるのが嬉しかった。
別に僕は、人間性を喪失しているわけじゃない。人間失格なわけじゃあない。欠陥製品でもない。
ただの人間だ。だからこそ、僕にも感傷くらいはあって、感情もあった。さみしいと思う心もあった。人肌を求める心もあった。
だから、───僕も、彼女も、ただ馴れ合っているだけだ。それを知っている。悟ってしまっている。
段々と夜が来る。
始まりの情景とは違って、今では酷く真っ暗だ。雨でも明るかった朝とは違い、今は晴れているのに暗い。まるで、命が尽きていく様子を模しているようだった。
「……………………」
「……………………」
次第に口数が減っていく。僕らは互いに黙っている。ただ、闇に浸るように、ずっと残しているコーヒーカップを手持ち無沙汰に触っている。
ポメラの電源を切った。そうして、パソコンを自分の前に置いた。次に、少女を自分の隣の椅子に招いた。
「座れよ」
「ああ、うん」
そうして、僕は今まで使ってきていたイヤホンを取り出した。汚れていないかを確認して、問題ないことに理解する───いや、汚れていても彼女には関係ないだろう。それはわかっている。
それをパソコンにセットして、彼女にイヤホンの片方を渡した。彼女がそれを装着したのを確認する。そして一つの曲を流し始めた。
ただのボカロ曲。どれだけ腐っても、朽ちても、墜ちても、生きることだけは諦めるな、というソング。命を嫌わず、命に嫌われている歌。それを流した。
それを彼女に聴かせることが、僕はなぜだか一番のような気がした。
……まずはじめに断っておくが、このお話はごくごくありふれた結末になる。現状で予想できているような結末になる。とはいえ、彼女の正体については、陽だまりの彼女のような話にはならない。
「……………………」
曲が、終わった。
次の曲が自動再生されようとするのを打ち切って、イヤホンをつけたまま、無音の暗い世界を壊すように、問いかけた。
「どうだったかな」
「……………………最低。私にこの曲を聴かせるなんて。素晴らしすぎるよ。素晴らしすぎて、だからこそ言えるよ。おにーさんは最低だ」
「そうかい。そいつは最高の褒め言葉さ、なんつってな」
やっぱり、僕にはカッコつけるのは向いてないらしい。凄い目で見られた。
けれども、それを愛おしいと思う。別に僕は、彼女に恋愛感情を抱いているわけではない。少なくとも、現在、自分はそう思っている。だから、ここまでの行為にきっと恋情はない。
故にこそフラットに、彼女を抱きしめることができた。
「…………あったかいね。君は、ほんとにあったかい」
「……あなたはとっても冷たい。でも、比例するみたいに心はとってもあったかいわ」
「お褒めに預かり光栄ってやつか?」
「そうだね、たぶん褒めてるんだろうと思うよ」
そうか、それならよかったなんて呟いた。
「…………こうして、部屋の中で過ごしてるのも勿体ないよな」
「そうだね。だけど、けど、この部屋はあったかい。それがなによりも心地良い。ここは、とっても、冷たくないから……」
強く、背中に指が食い込んだ。痛みはない。僕も応じて抱きしめ返した。
時計を見た。日付が変わるまであと少し。時間がない。時間がない。時間が……ない。
僕にはどうしても忘れられないものがある。
それは、死体を見たことだ。
とある冬の日、天気雨の、晴天の土砂降りの日。全裸に剥かれ、死んでいた少女を見た。その少女がなによりも記憶に焼き付いて忘れられなかった。いや、少女というには適切ではない。そのとき僕は、まだとても幼い子供で、彼女は高校生くらいだったのだから。僕のほうがとっても若く、小さかった。
それがとても恐ろしかった。けれど同時に、僕はそれになによりも惹かれていた。世界観の一部として、その少女がどうしようもなく組み込まれてしまった。
僕が死体を書くのが上手い理由は、実際に見たことがあるからだ。触れたことがあるからだ。固まった体の感触を覚えている。体温を喪失した感触を覚えている。一晩中開けっ放しでぱさぱさになった口内の触感も覚えている。眼球の感触も、固まった膣の触感も、なにもかもをも僕は知ってしまい、焼き付いてしまっていた。
おぞましいから、どうしようもなく彼女は僕を魅了していた。
……既視感があっても、匂いが一致しないのは当然だ。僕は彼女の死臭しか知らなかったのだから。顔は変形していなかった。目も開かせて、隈なく彼女の死体を確認した。そうして血肉にした。それを覚えている。
「……君が、僕のことを変態って言った理由、そろそろわかったかもしれない」
「今更なの?」
ふふふ、と笑う彼女。僕を責め立てない彼女。冷たかった彼女とは違う、あったかい彼女。
日が変わるまで、あと数えることができるくらい。
「ねぇ、最後にキスしてよ。忘れないように。……忘れちゃわないように」
「うん、いいよ」
僕は彼女にキスをした。彼女も僕にキスをした。
触れるだけじゃない、全ての細胞に、存在を焼き付けるかのような熱い熱いキスだった。
───刻限がくる。
「あ……」
元々、住む座標が違う彼女が、幽明境の向こうへと消えていく姿を見た。座標が違うから、僕は彼女がどこに行ったのかを観測することはできない。だけど、彼女からは僕が見えているだろうから、とってもズルいな、と思ってしまった。
……完全に彼女が消え去った。
時間が来る。終わってしまった。最悪死ぬまで会えないだろう。だって、彼女が死んだ日に天気雨が降る確率なんて、凄く低いだろうから。
だけど毎年あそこへと向かうことに決めた。爺さんになるまで、僕はあそこへ向かうことに決めた。
さぁ、目を開けよう。
あふれる涙が、僕が悲しんでいるらしいことを、僕に伝えている。意外だった。僕が、彼女を惜しんでいるとは。
……きっと、気づかないふりをしていたのだ。僕はきっと、彼女が好きではないふりをしてきたのだった。でも本当は大好きだった。ひょっとしたら、幼い頃から僕は彼女に惚れていた。
だから、僕は、彼女が消えたことになによりも泣く。涙が溢れる。彼女がつけていたイヤホンが、だらりと机から溢れている。
椅子に落ちるぽつりぽつりとした水滴。それは、跳ねる度に彼女がいた痕跡を消し去るように見えて、涙を堪らえようとした。けれど溢れる涙は止まらない。いつまでも泣き続ける。
思うに、これは失恋だ。僕はついに失恋してしまったのだ。幼い頃からの恋慕が、ついに破れてしまった。だからこんなにも辛くて、こんなにも悲しい。
「───っ、ぁぁぁ……ぁ、あ……あああぁぁぁ……」
止めどなく溢れる。だけど、光に照らされて、それが霞の粒に見えた。彼女はまだそこに残っているような気がした。だから、
残る光の奔流を、霞に消えた輝きを、僕はいつまでも抱きとめ続けていた。