杏玲が姿を消して、もう三月がたってしまった。
何の手がかりも進展もない。
父母はもう探すのを諦めてしまったのか、ただもくもくと農作業に励む。
玉葉も針仕事に没頭する。
けれど真夜中に戸を叩く風の音に何度も目を覚ます毎日だ。
誰も杏玲の話をしない。杏玲のことだけではない、ほとんど会話らしいものがなくなってしまった。
杏玲の失踪は、家族から総ての幸福を奪っていってしまった。
杏玲は、希望だったのだ。いつまで続くか分からない苦しい生活の中、どんな希望があったのか分からないが、何か明るいものをもたらしていたことは確かだった。
玉葉の心に三ヶ月前からずっとくすぶりつづける事があった。いや、今ではくすぶるというような生やさしいものではなくなっている。
『居なくなったのが、どうして玉葉ではなかったのか』
いなくなったのが玉葉だったら、父母はこんなにならなかったかもしれない。
ここに残されたのが杏玲だったら、父母はどんなにか慰められただろうか。
心の中でいくら思っていても、口にしてはならない言葉だった。
玉葉にとっても、そして父母にとっても。
右目が痛い。
玉葉はふいに不安になった。見えている右目までが、よく見えなくなってきたような気がする。たぶん、左目が見えない分、右目に負担がかかりすぎているのだろう。
杏玲がいなくなって以来、針仕事の量が増えた。杏玲のやっていた分をこなしているせいもあったが、ふたりで刺繍をしている時には杏玲が頃合いをみて、お茶を煎れてくれた。
そうして、他愛のないお喋りをひとしきりする。そんなどうでも良いと思っていた時間が、今ではいろいろな意味で大切な時であったことを思い知らされる。
気付いた時には、もう取り戻しようがない。
―――まただ……
分かっているつもりだった、そういうものがあることを。けれどその時にはそれが『大切なもの』だと気付くことが出来なかった。
玉葉は仕事の手を止め、自分でお茶を煎れ、ひとりで飲んだ。
『目に良いのよ』
と杏玲が言っていた。街で貰ったお茶だ。これが香りはまあまあだが、非道く不味い。
「苦……」
思わず言葉がこぼれるが、それに応える杏玲はいない。
ふと、涙が出た。
「ほんとに苦い」
誰が聞いている訳でもないのに言い訳をした。
数日前、街に妖魔が出たという。
街に出るのは、本当は嫌だ。父母も杏玲のことがあるので、当然止めた。
それでも街に出るのは、家に居たくないからだ。閉ざされた空間の中では、考えることも行き詰まってしまう。その憤りをぶつける相手が居た時は良かった。
「良かった?」
本当に良かったのだろうか。杏玲は、こんな我が儘な姉の相手をし、昼は畑仕事、夜は針仕事と働き詰めで、良かったことなんてあるのだろうか。
街に出るのには、慣れた。
けれど、ときおり恐ろしい。
左の顔を髪で隠していても、人々の視線が突き抜けて刺さるようだ。
冷静になってみれば、誰も見ていない。分かっているつもりだが、誰かの声が聞こえてくるような気がする。
「まあ、気味が悪い」
「かわいそうに」
「よくあんな顔で表にでれること」
蔑み、侮り、嘲り、同情。
分かっている、みんな幻だ。みんな本当は自分の声だ。すべての感情が自分の中にある。
実際は、仕立物を届けに来ているのだが、その声に苛まれるために街に出てきているような気がする。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
店先でちいさく声をかけると、元気のいい女性の声が返ってくる。
「あら、玉葉さん」
声の主は、玉葉を見ると嬉しそうに笑った。
「もしかして、もう仕上がったの?」
「ええ」
玉葉は二日前に母が預かってきた仕立て直しの着物の包みを相手に示した。
「いつもはやいわねぇ。ホントに助かるわぁ」
その言葉どおりの表情に、玉葉は何故かほっとする。
「入って、入って。お茶飲んでってちょうだい」
『お茶』という言葉に、玉葉はぎょっとする。目に良いという例のお茶の苦さが舌の上にわき上がってくる思いだった。
「今日はねぇ。特製の健康茶なのよ」
嬉しそうに言うその女性の名を藍椋という。